92 遅くなりました3/10の研究発表の質疑の部分です (20230423)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

87回で予告したのですが、20230310の私発表「概念実在論と問答推論」の後に行われた質問コメントに対する回答を作りましたのでupしました。

(https://irieyukio.net/ronbunlist/presentations/20230422%20%E7%A0%94%E7%A9%B6%E7%99%BA%E8%A1%A8%E3%80%8C%E6%A6%82%E5%BF%B5%E5%AE%9F%E5%9C%A8%E8%AB%96%E3%81%A8%E5%95%8F%E7%AD%94%E6%8E%A8%E8%AB%96%E3%80%8D%EF%BC%88Ver3%EF%BC%89.pdf)

最後の2ページに以下の質疑の部分があります。その他の部分は、Ver2とまったく同じです。

以下には、質疑の部分だけを掲載します。

質疑:

1、川瀬さんからの質問:「発表の中での次の引用文

「彼は、主観的なものの客観的なものへの非対称的な指示依存の背後には、<概念の使用の主観的なプロセスを分節化する概念>と<客観的な概念的な関係を分節化する概念>の対称的な意味依存があると考えています。これが私が「客観的観念論」と呼んだ教義です。」(ST 365)

この中の「主観的なものの客観的なものへの非対称的な指示依存」というのは、どういうことでしょうか。」

(多分このようなご質問だったと思いますが、記憶があいまいなのでちがっていたかもしれません。当日は、うまく答えられなかったので、ここで答えたいと思います。)

この「指示依存」は、たとえば語「机」が対象<机>を指示するというような表象関係のことではありません。発表の中で述べたように、指示依存は、概念間の依存関係であり、<概念Xが概念Yに指示依存する>とは、<概念Xの指示対象が、概念Yの指示対象が存在しなければ、存在しえない>ということです。たとえば、語「机」という主観的なものの概念は、対象<机>という客観的なものの概念に指示依存します。なぜなら、語「机」という主観的なものは、対象<机>という客観的なものが存在しなければ、存在しえないからです。

2,大河内さんからのコメント:問いは、発話の意味を考えるときの、一つの条件に過ぎないのではないか?

[

わたしは、問いは、初の輪意味を考えるときの<一つの条件に過ぎない>のではなく、<不可欠な条件>であると考えています。その論拠として当日は、次の二点を答えました。

1,発話の意味は推論関係によって示されるが、より正確には問答推論関係によって示される。

2,発話は焦点をもつが、発話の焦点の位置は相関質問との関係によって明示化される。

この答えに、次の点を加えたいとおもいます。

3,発話がどのような発語内行為を行うかは、その相関質問においてすでに指定されており、発語内行為は、発話が相関質問への返答であることによって成立する。

以上の3点は、『問答の言語哲学』で詳しく論じたことでです。次は、最近考えていることです。

4,発話の意味は推論関係によって示されるのですが、ブランダムによれば、なかでも重要なのは<両立不可能性>と<帰結>の関係です。ところで、複数の発話の<両立不可能性>は、(コリングウッドが指摘したように)それらが同一の問いに対する答えであることによって成立します。また、ある発話から他の発話が<帰結>する実質的推論関係は、問いから答えが帰結するという実質的問答推論関係に基づいていると考えています(<帰結>についてはBSDの議論を援用して詳しく論じたいと思っています)。

3、(その後の居酒屋での)井頭さんからの質問:「ブランダムは、分析哲学研究にとって、ヘーゲル研究はどういう意味があると考えているのか?」

発表後、ブランダムの論文‘Some Pragmatist Themes in Hegel’s Idealism: Negotiation and Administration in Hegel’s Account of the Structure and Content of Conceptual Norms’(1995)を読んでみました。彼は、その冒頭において、二つのテーゼ:「意味論的プラグマティズムのテーゼ」=「言葉の意味は使用である」と、「観念論のテーゼ」=「概念構造と自己の構造は同一である」を示し、この二つのテーゼについて「意味論的プラグマティズムのテーゼは、観念論のテーゼによって実行可能になる」と主張します。ブランダムは、意味論的プラグマティズムが完成するためには、ヘーゲル的な観念論によって補完される必要があると考えているのだとおもいます。

                                                                                                                                                                                                                                                                                        

4、(居酒屋での)朱さんからのコメント:「問いの答えのペアが単位として閉じてしまう印象がある。」

ブランダムは語ではなく命題を言語的な意味の単位であると考えます。その理由は、命題の発話によって言語行為が可能になるからです。そして、それを「命題主義」と呼びます(AR訳、19,47)。それに対して私は、言語行為は問答のペアによって可能になると考え、それを「問答主義」と呼びたいとおもいます。したがって、問答のペアを強調するのは、<命題主義をより広い文脈に開くための問答主義>であり、また<推論主義をより広い文脈に開くための問答推論主義>の説明のためなのです。しかし、確かに朱さんの言うように、問答のペアが単位として閉じてしまうという印象を与えただろうと思います。それを回避するために、二重入れ子型問答関係を強調したいと考えます。それは次のような関係です。

Q2→Q1→A1→A2

これは、<問いQ2を解くために、問いQ1を立てその答えA1をもとに、Q2の答えA2に辿り着く>という関係です。私たちが問いを立てるとき、多くの場合それはより上位の問いに答えるためであり、そのより上位の問いは、さらにより上位の問いを解くために建てられているだろうとおもいます。A1を中心にみるとき、Q1→A1の関係は、Q1から必要に応じて他の前提を加えてA1を推論する<A1の上流推論>になってます。またQ2→A1→A2は、Q2とA1から必要に応じて他の前提を加えてA2を推論する<A1の下流推論>になっています。

ここで重要なのは、問答のペアは、言語的な意味や言語行為の「単位」とはならないということです。問答関係は、他の問答関係と直列関係や並列関係になることもあるのですが、それと並行して、大抵は、内部に他の問答関係を含んでおり、また他方ではそれ自体がより大きな問答関係のなかに含まれています。問答関係は反復するパターンですが、意味や行為の単位ではありません。この説明によって、問答ペアが単位として閉じてしまうという印象を払拭したいと思います。

46 問答と推論の成立が、<言語>の成立に先立つ  (20230416)

[カテゴリー:日々是哲学]

(第43回から、規則遵守問題および私的言語批判の問題を論じていました。43回では、私的言語も公的言語もなく、個人言語だけがあると論じました。44回では、個人言語について、規則に従っているかどうかをチェックできることを説明しました。45回には、問答できる限り、規則に従っているということを説明しました。「私は、規則に従っていますか、それとも規則に従っていると思っているだけでしょうか」と問われた者は、「あなたは、規則に従っておらず、規則に従っていると思っているだけです」と答えることはあり得ません。また自問自答の場合にも、「私の発話は、規則に従っているだろう」と自問するとき、「いや、私の発話は従っていない」と答えることはあり得ないということを説明しました。)

その後、私の考えは少し変化しました。私たちは共有言語を持たず、各人が個人言語をもっているにすぎないと考えることはできるのですが、その場合には、相手の個人言語のモデルを仮定して、それをもとに相手の発話の意味理解を予測し、それが正しいかどうかをチェックし、誤差が最小になるように習性を繰り返すことになるでしょう。そして自分の個人言語についても、どうように自分の個人言語のモデルを仮定して、それから自分の発話の意味の理解を予測し、予測誤差最小化śプロセスにかけるということになるでしょう。しかし、二人の個人言語のモデルが非常に類似している可能性があるときに、それぞれの個人言語モデルを仮定するのは、煩瑣ではないでしょうか。むしろ二人がある言語を共有していることを仮定し、共有言語のモデルを仮定して、予測誤差最小化プロセスにかけることが、現実に行われていることではないかと思います。公共的な共有言語があることを検証することはできませんが、他者の個人言語や自分の個人言語についても、それが成立していることを検証することは、同様に不可能です。

相手の個人言語の理解のチェックは、問答推論的意味論では、つぎのように説明できるでしょう。相手の発話の上流問答推論と下流問答推論の両方について、正しいものとそうでないものを判別し、それが相手のその判別と一致するかどうかをチェックします。しかし、相手の個人言語と私の個人言語を区別するとき、相手の個人言語のある発話についての私の(例えば)ある上流問答推論は、推論になりうるのでしょうか。異なる言語の二つの文が推論関係、例えば両立不可能性の関係に立ちうるのでしょうか。そのためには、二つの文が、同一問いへの答えでなければなりません。では、相手の個人言語の文が、私の個人言語の疑問文に対する答えになりうるでしょうか。

例えば、相手の「これはリンゴである」という発話と、私の個人言語の「これは何ですか」や「これは赤い」は、問答推論関係をもちうるでしょうか。共通の言語を前提することによって推論や問答が可能になるのではなく、発話の間に推論や問答が可能になることによって、共通の言語の想定が可能になるように思われます。このように考えなければ、言語の発生を説明できないでしょう。異なる言語の二つの文が、問答関係になることは可能です。異なる言語の二つの文が問答関係になることによって、それらは融合し一つの言語になると思われます。

今回のタイトル「問答と推論の成立が、<言語>の成立に先立つ」を読んだ人は、問いや答え、推論を構成する文や発話が成立するためには、言語が成立しなければならないのだから、このタイトルは間違っている、と考えるかもしれません。しかし、発話の意味は、その問答推論関係であり、問答推論が成立することで、言語が成立するのだと考えます。

91 答えの両立不可能性と<問いの前提>の客観性  (20230410)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

「主張の両立不可能性が、問いの同一性から生じるのだとすると、そのことから、問いを構成している前提(事実の概念構造や概念関係)の客観性を主張できるでしょうか?」

この問いに答えたいと思います。

複数の主張が両立不可能であるのは、それらが同一の問いへの答えであることによります。もし主張が異なる問いに対する答えであれば、それらは両立可能です。したがって、主張の両立不可能性のあるところには、同一の問いがあります。

では、問いが同一であるとはどういうことでしょうか。前回述べたように、二つの問いが同一であるとは、二つの問いの<問われるもの>と<問い求められるもの>がそれぞれ同一であるということです。答えの違いは、多くの場合<問い合わされるもの>の違いに起因すると考えられます。例えば、

「そのリンゴは何色ですか?」「そのリンゴは赤色です」

という問答の問いに登場する「そのリンゴ」の指示対象が、<問われているもの>であり、「そのリンゴ」の指示対象の色の説明が<問い求められていること>です。<問われているもの>は答えの中の「そのリンゴ」の指示対象でもあります。そしてこの答えが<問いも求められていること>を提供するものです。この問答において、問いと答えの中の「そのリンゴ」は同一の対象を指示することに成功しています。もし成功していなければ、それは問いと答えの関係になりません。

もし別の二人が「あのリンゴは何色ですか?」「あのリンゴは青色です」という問答を行い、その問いの「あのリンゴ」の指示対象が、前の問いの「そのリンゴ」の指示対象と同じであるとき、この二つの問いは、<問われれるもの>と<問い求められること>が同一であり、この二つの答えは両立不可能となります。この二つの問い中の「そのリンゴ」と「あのリンゴ」は同一の対象を指示するとき、同一の対象の指示が、異なる仕方で行われています。それによって、対象の存在の客観性が暗黙的に示されています。

<問い求められていること>は、前の問いでは「その対象」の指示対象がどんな色を持つか、ということであり、後の問いでは「あの対象」の指示対象がどんな色をもつか、といことであり、「その対象」と「あの対象」の指示対象が同一であるならば、二つの問いの<問い求められていること>もまた同一です。

前の問いの前提は、<「その対象」の指示対象が何らかの色を持つ>ということであり、後の問いの前提は、<「あの対象」の指示対象が何らかの色を持つ>ということであり、二つの問いの<問いの前提>も同一です。この問いの前提は、同一の事実であり、これらの問いを受け入れる者は、同一の事実を受け入れていることになります。

ところで、主張の両立不可能性は、客観的なものではなく主観的なものです。なぜなら、両立不可能性は客観的事実の中にはないだろうからです。そして、客観的事実の中に両立不可能性がないにも関わらず、主張の両立不可能性があるから、その両立不可能性を解消する必要性があります。この必要性は、客観的なものとここでの主観的なものの両立不可能な関係から生じます。このことが、事実の客観性の論拠となるでしょうか。

私たちは、事実の記述を答えとする理論的な問いの答えの客観性は、問いの前提の客観性を前提としていますが、問いの前提の概念構造は主観的に構成されたものである可能性があります。しかし、私たちが主張の両立不可能性を修正しようとするとき、問いの前提は客観的なものであると考え、それに対する主観的な答えを修正しようとしています。私たちが変化を認識することは、変化しないものとの対比において可能になります。(今は、これ以上のことが言えません。)

90 両立不可能性は<問い合わされるもの>の違いから生じる  (20230403)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

 二つの記述が両立不可能になるのは、それらが一つの対象についての記述(descriptions of one object)だからであるというのがブランダムの指摘ですが、私はそれらが一つの問いについての答えであるからだ、というほうがより正確だと考えます。

では、同一の問いとはどういうことでしょうか。前回述べたように、問いが<問われるもの><問い求められるもの><問い合わされるもの>という3つの要素を持つとき、同一の問いであるというためには、この3つがすべて同一であることが必要でしょうか。<問われるもの>と<問い求められるもの>は同一である必要です。なぜなら、これらは疑問文の中で明示される必要があるからです。しかし<問い合わされるもの>は疑問文の中には明示されていません。「Xさんは何歳ですか」という問いの<問われるもの>はXさんであり、<問いも求められるもの>はXさんの歳ですが、<問い合わされるもの>は、この疑問文の中には明示されていません。それをネットで調べてもよいし、友人に訪ねてもよいし、本人に尋ねることもできるかもしれません。<問い合わされるもの>がことなるとき、答えが異なることがあるかもしれません。問いに答えるには、何かに問い合わせる必要があり、問いの答えが異なる場合、その差異は、問い合わされるものの違いから生じることも最も多いだろと思います(ただし、同じものに問い合わせても、何らかの勘違いで、異なる答えを引き出すことはあり得ます)。

問いに答えることは、推論によって答える場合と推論によらないで答える場合があります。推論によって答える場合、<問い合わされるもの>から得られる平叙文が、その推論の前提の一部になります。問い合わされるものが異なれば、その異なる平叙文が前提として利用されます。場合によっては、<問い合わされるもの>が同一であっても、そこから異なる平叙文を得て、それを前提とする推論で答えに至るとき、答えは両立不可能なの者になるかもしれません。

では、問いに対する答えが知覚報告として、推論によらずに得られる場合には、<私たちが問い合わすもの>は何でしょうか。

「これは何色か」という問いに答えるために、対象の性質(色)そのものに問い合わせるのだとすると、その答えは、対象の知覚についての報告というよりも、対象の色についての報告というのがよいでしょう。(もし、「これは何色か」という問いに答えるために、対象の性質(色)の知覚に問い合わせるのだとすると、その答えは、知覚についての報告だというのがよいでしょう。しかし、大抵は、対象の色の知覚に問い合わせるとは思っていなくて、対象の色そのものに問い合わせていると思っているのではないでしょうか。)

 ある物体を指さして「これは何色ですか」と問われたとき、それに答えるためには、問われるまではぼんやり見ていた対象の色に注意します。そのとき注意するのは、その物体の色ですが、私たちはその物体の色を指示できるでしょうか。物体の色を指示できるとすれば、それは色のトロープ(個別的属性、<この赤さ>など)です。しかし、逆転スペクトルの思考実験を考えるとき、もし物体の色があるとしても、それがどのようなものであるかは、知りえないことになります。私が知覚している色を、他者も知覚しているという保証がないからです。

 「これは何色か」に答えようとするとき、私たちは対象の色そのものに問い合わせることはできないとすれば、(たとえ、対象の色そのものに問い合わせていると思っているとしても)私たち実際に問い合わしているのは、対象の色の知覚です。そして、ノエの「知覚のエナクティヴィズム」が主張するように、その知覚は静止画のような像ではない、知覚は注意におうじて常に変化しているものです。 対象の色の知覚は、(非言語的)探索の(非言語的)答えとして成立している知覚変化だと思われます。この知覚変化は、客観的なものではなく、主体に依存した主観的なものです。

この(非言語的)探索が問い合わせているものは、対象についての事実そのもの、脳の外部に成立している事実だといえるかもしれません。この場合、対象についての事実そのものは、知覚にも知覚報告とも異なり、それ自体を捉えることのできないものです。

事実の概念構造や概念関係の客観性というものは、知覚報告とは別のところに求める必要がありそうです。主張の両立不可能性が、問いの同一性から生じるのだとすると、そのことから、問いを構成している前提(事実の概念構造や概念関係)の客観性を主張できるかもしれません。

これを次に考えてみます。