48 ニーチェの「強者」の道徳と規則遵守問題 (20230715)

[カテゴリー:日々是哲学]

少し唐突ですが、自由について考えていて、ニーチェ風の「強者」の道徳を、規則遵守問題をもちいて批判できることに気づいたので、ここに記しておきます。

「自由であるとは、その帰結の責任を負うことである」というのは、小市民的な臆病な自由概念であるように見えます。ニーチェ的な「強者」ならば、自由な行為の帰結に対して責任を持たない自由を持つというでしょう。そのような強者またも、「Aを行うことから帰結する状態や出来事」を予測できるでしょうが。しかし強者はその責任を認めません。強者は、弱者からの訴えを無視できると思っているからです。強者は、弱者の道徳とは異なる自分が立てた規範に従うことができると思っているからです。

しかし、強者にとってもまた、「Aしよう」とする意志や行為が成立するためには、Aを理解可能にする、Aと他のものとの概念関係を認める必要があります。そのとき、概念的規則に従うことができるためには、社会的なサンクション、他者との相互承認が必要です。強者もまた、ある一定の内容の意志を持つためには、その意志の内容の理解についての相互承認が必要です。

09 <規則性、規範性、自由>の関係:再説 (20230711)

[カテゴリー:自由意志と問答]

今回は、規則の規範性の起源の解明のために、前回述べた<規則性、規範性、自由>の関係を再説します。

#規則性について

何かが規則的であるとは、何かが反復するということです。規則性は、(自然法則のような)事実としての規則性と、(法律のような)規範としての規則性に区別できます。事実としての規則性とは、ある事実(状態や出来事)が反復しているという事実です。規範としての規則性とは、行為が反復すべきであるということです。言い換えると、ある行為の規則性を実現すべきであるということです。したがって、規範性があるところには必ず規則性があり、規範性とは、ある規則に従うべきであるという規範性のことです。しかし逆は成り立たないように見えます。つまりすべての規則性が規範性をもつとは限らないように見えます。なぜなら、自然現象には規則性があるが、規範性はない、と思われるからです。

規範Rに従うとは、Rから帰結する行為Aをすることですが、単にある行為Aをすることでではなく、Aを、Rから帰結する行為として、言い換えるとRに従うこととして、行うことです。

ちなみに、「ある状況である行為をすべきである」とは、「それとよく似た状況では、それとよく似た行為をすべきである」というということを含意する、つまり、ある行為をすべきであるとは、ある行為を反復すべきであるとか、ある規則に従うべきである、ということをつねに含意します。つまり、<ある行為をすべきである>とか<ある行為を反復すべきである>とか<ある規則に従うべきである>ということは、同義なのです。

ある行為Aは、単なる身体運動ではありません。行為は、ある条件下でのある身体運動です。行為は、意図的な身体運動です。行為とは、ある目的を実現するための身体運動です。

「その目的を実現するには、どうしたらよいのか」という問いに、「Aすればよい」という答えを得たなら、「その目的を実現するために、Aしよう」と意図し、その目的を実現するために>、Aすることになります。そのとき「何をしているのか」と問われたら、「Aをしている」と答え、「何のためにAしているのか」と問われたら、「その目的を実現するために、Aしている」と答えることになるでしょう。「なぜその目的を実現するために、Aするのか」と問われたら、先の実践的推論、精確に書けば次の実践的推論で答えることになるでしょう。

その目的を実現しよう。

その目的を実現するためにはどうすればよいのか。

Aすれば、その目的を実現することができる。

ゆえに、Aしよう。

ここでは、「Aすれば、その目的を実現することができる」という事実の規則性があって、それに基づいて、その目的を実現するためには、「Aすべきである」という規範性が成立します。

「Aすべきである」と考えることは、「Aできる」と考えることと「Aしないこともできる」と考えることを伴立します。さらに、「Aするか、Aしないか、を選択できる」と考えることを伴立します。行為の自由は、行為の選択可能性に他ならないでしょう。また、行為の規範性の意識は、常に行為の自由の意識をともないます。

他方で、行為の自由や、行為の選択可能性だけから、行為の規範性が生じることはないように見えます。行為の規範性は、行為の自由を制限することであり、行為の自由を前提する。この行為の自由の制限によって生じるのが、行為の規範性です。行為の規範性<Aすべし>とは、<Aすることも、Aしないこともできるが、Aすべし>ということであり、<Aしないこともできるが、Aしない可能性(自由)を制限して、Aすべし>ということです。

しかし、果たしてそうでしょうか。規範性は自由を前提するが、自由もまたある制限を前提するのではないでしょうか。

<Aすることができる>ということは、<Aしないこともできる>ということを伴立しています。さらに明示的に言えば<Aすることができるし、Aしないこともでもできる、つまりAするかしないかを自由に選択できる>ということを意味しています。ところが、この自由は、実はある制限によって可能になっています。その状況において一旦<Aすることができる>と意識したならば、<Aするかしないかを選択しなければならない>ことになるのです。つまり、<Aする自由を意識するときには、Aするかしないかの選択をせざるを得ない>という制限を伴うことになるのです。ある情況で、<Aする自由がある>ということは、その状況で<Aするかしないかのどちらかを選択しなければならない、という制限を引き受けることです>。

これに対しては、そのような状況では<Aするかしかないかという選択ではなく、Bするかしないかという選択をすることも可能である>という反論があるかもしれません。しかし、たとえそのように反論するとしても、その場合でも、自由であると意識するためには、(Aでも、Bでも、その他でもよいのですが)何らかのある行為をすることができると意識することが必要です。そして、そのような意識には、その行為をするかしないかを選択しなければならないという制限が伴うのです。したがって、自由は制限によって可能になるのです。

では、自由を可能にするこの制限は、規範性とどう関係するのでしょうか。

08 <規則性、規範性、自由>とデフレ的自由概念 (20230706)

[カテゴリー:自由意志と問答]

7か月ぶりにこのカテゴリーに戻ってきました。

このカテゴリーでは、 まず「自由意志はあるのか、ないのか」を考え、次に、もしその答えが「自由意志は存在しない」ならば、そのときには「道徳や法をどう考えたらよいのか」、またもしその答えが「自由意志は存在する」であるとき、その場合の自由意志がどのようなものであるか、を検討する予定でした。

 これまでの01~07では、「自由意志はあるのか、ないのか」を考えるために、スピノザによる自由意志の批判とフィヒテによる自由意志の擁護を、考察しました。その最後07回では、スピノザの自由論とフィヒテの自由論を、インフレ的自由論とデフレ的自由論として捉え、前者の批判と後者の擁護を試みました。(01~07の考察は、フィヒテ協会シンポジウムでの発表の準備を兼ねていました。現在、その発表をもとに論文を仕上げる必要があり、それが7月末締め切りなので、その仕事に合わせて、しばらく、デフレ的自由概念について考えたいと思います。)

#<規則性、規範性、自由>の関係

 まず規則性と規範性の関係について説明します。規則性は、(自然法則のような)事実としての規則性と、(法律のような)規範としての規則性に区別できます。規範性があるところには必ず規則性があり、規範性とは常に、ある規則に従うべきであるという規範性のことです。しかし逆は成り立ちません。つまりすべての規則性が規範性をもつとはぎりません。なぜなら、自然現象には規則性がありますが、規範性はないからです。

 つぎに、規範性と自由の関係について説明します。規範としての規則性は、従うべき規則であり、それは、従うことが可能であること、従わないことが可能であることの二つを伴っています、あるいは前提しています。言い換えると、規範性は、意志決定や行為の自由を伴っています。

 もし<知は、問いに対する正しい答えとして成立する>と言えるならば、問いとそれに対する正しい答えの関係は、規則性をもち、また規範性を持つの、問いに答えること、知ることは、自由を伴うことになります。知は規範性を伴うので、自由を伴ういえるのではないでしょうか。

 このような知と自由の理解は、フィヒテが「意識の事実」(1810)で述べている次のことと、ほぼ同じことだと考えます。

「知そのものは、その内的形式と本質からすると、自由の存在である。[…]人は一見して、自由というのはそれだけで存立する別のなにものかがもつ特性であって、そのものに内属するのだ、と考えたくなるかもしれないが、そうではなくて、自由は独自の自立的存在にほかならないのである。そして、自由のこの自立的で別個の存在こそが知なのである、と言いたい」(SW II, 550, 全集19巻43)

知と自由についてこのように考えるとき、重要になるのは、規則の規範性をどうのように証明するかということになりそうです。