50 人権を正当化する二つ目の方法(The second way to justify human rights)(20230922)

[カテゴリー:日々是哲学]

前回は、人権を正当化する一つの方法は、<より上位の目的の実現のための手段>として正当化することだと説明しました。<より上位の目的>の例として、<キリスト教の神>と<資本主義>を挙げました。しかしこの方法は、<より上位の目的>を共有しない人には無効です。イスラム教徒はキリスト教の神を認めませんし、仏教徒や無神論者は、そもそも神をみとめません。社会の在り方として資本主義を認めない人も沢山います。

では、全ての人が共通して認める<より上位の目的>は、存在しないのでしょうか。たとえば、<人類の存続>を<より上位の目的>として設定することが可能かもしれません。それを実現するための手段として、人権尊重を主張することができるかもしれません。例えば、ローティのいう<人類の会話の継続>を<より上位の目的>とし、その実現のための手段として人権尊重を主張することは可能でしょう(ローティ自身が、人権についてこのような論じ方をするかどうかは、わかりません)。

しかし、<人類の存続>は、すべての人が共通して認める<より上位の目的>ではないかもしれません。動物の権利を主張する人や、輪廻転生を信じる仏教徒ならば、人類に限らない生命全体の存在を<より上位の目的>とするかもしれません。シンギュラリティーを超えた未来のAIによるポスト人類の知性やデジタル生命を<より上位の目的>とするようになるかもしれません。

権利は、何かをする自由であるので、人権を尊重するとは、自由を尊重するということでもあります。自由の尊重を、<より上位の目的を実現する手段>としてではなく、別の仕方で正当化できれば、それが人権のもう一つの正当化方法になると考えます。

人間が自由であることについては、カテゴリー[自由意志と問答](特に9回~12回あたり)で論じました。そこでの自由の論証は、「意図的行為」や「選択」という概念を前提とした超越論的論証でした。そこで論じたのは社会的というよりも道徳的な意味での自由の尊重です。しかし、もし自由が道徳的に尊重されるべきならば、それは社会においても尊重されるべきである、言い換えると人権は尊重されるべきである、と考えます。人権を正当化するこの方法は、超越論的論証、だと言えます。

人権を正当化する方法は、<より上位の目的を実現する手段>として正当化することと、<「意図的行為」や「選択」の超越論的条件>として正当化することの二つあります。多くの場合、人権の正当化は前者で行われますが、後者の方が有効ではないかと思います。なぜなら、共有できる<より上位の目的>の設定が難しいからです。

49 人権を正当化する二つの方法 (Two ways to justify human rights)(20230911)

[カテゴリー:日々是哲学]

人権を正当化する一つの方法は、<より上位の目的の実現のための手段>として正当化することです。

人権概念は、歴史的には、キリスト教に由来するものです。ジョン・ロックは、『市民政府二論』で、人は、神がその目的を実現するための手段であるので、価値を持つと主張しました。ここでは、人権は、より上位の目的の実現のための手段として正当化されています。「より上位の目的」にあたるのが、「神が設定する目的」ということになります。(神を認める人が、このような仕方で人権を正当化するとは限りません。スピノザは、神は意志を持たないと考えましたので、スピノザならば、違った仕方で、人権を正当化するでしょう。もっともスピノザはキリスト教徒ではありません。)

資本主義社会は、契約による商品交換を基礎としています。そこでは、人間の労働力も商品の一つです。それは、(精神活動を含めて)労働力を商品とみなしますが、しかし他方で、人間はそれらの商品の売買契約の主体として尊重されます。したがって、資本主義社会では、人間は、商品の所有とその売買契約の主体としての権利を持ちます。ジョン・ロックは、所有権を人権の基本とみなしました。資本主義は、その契約社会を成り立たせるものとして、人権を正当化します。ここでも人権を<より上位の目的(資本主義社会の成立)の実現のための手段>として正当化します。

人権を正当化するもう一つの方法については、次回に書きます。

14 指示と自由 (reference and freedom) (20230904)

[カテゴリー:自由意志と問答]

前の個所(11回から13回まで)では、<選択の不可避性が選択を可能にするということ>(ある種の制限が自由を可能にするということ)を説明してきました。

これと同様のメカニズムで、<指示の不可避性が、指示を可能にすること>が言えると思います。まずこれを説明します。「Xさんの車はどれですか」という問いに対して、指差し行為をともなって「あれです」という発話が行われたとしましょう。これは、典型的な指示行為です。

「あれです」がこの状況で語られたら、それは「Xさんの車はどれですか」という問いの答えであると、そこにいる人々(話し手、聞き手、観客)に予想するでしょう。そこにいる人々は、「あれです」は「Xさんの車」の指示対象を指示していると予想するでしょう。そのような状況で、「あれです」と発話することは、何らかの対象を指示することになります。そして、聞き手は、その状況で、「指差しの方向に存在して、<Xさんの車>と見なすのにもっとも適切な対象は何か」と自問して、「あれを、指示しているのだ」と自答することでしょう(もしそれができなければ、「どれですか?」と問い返すことでしょう。)

このような状況において「あれです」で、対象を指示することは不可避ですが、しかし同時に、指示が不可避な状況において、初めて指示が可能になるのです。ある発話で対象を指示していることが、可能になるのです。

これを一般化するとつぎのような定式になります。

「○○が不可避な状況において、初めて○○が可能になる」

この○○には、選択、自由な行為、指示、主張、コミットメント、約束、命令、宣言、などが入ります。これらは、すべて自由な行為です。