[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]
知覚と行為を統一的に説明する理論として、フリストンの「能動推論」が注目を集めています。
(ここでは、トーマス・パー、ジョバンニ・ペッツーロ、カール・フリストン『能動的推論』乾敏郎訳、ミネルヴァ書房、を参照します。以下の引用のページ数は、とくに断らないか限り、この翻訳のものです。)
フリストン達は、「脳は基本的に予測機械であり、入ってくる刺激を受動的に待つのではなく常に予測している」(11)と考えます。知覚や行為において行われている予測を、ベイズ推論として説明します。つまり、脳は、ベイズ推論を行う機械であるということです。ベイズ推論を行っているものとしては、人間の脳だけでなく、おそらく脳をもつすべての動物の脳が含まれていると思われます。コンピュータによる機械学習も同じ仕方でプログラムされています。この意味の予測機械は、意識をもちませし、(人間が「言語を持つ」というのと同じ意味では)言語を持ちません。
したがって、この能動推論を行う機械は、予測しているように見えますが、人間が「予測する」という意味では予測していません。ですからこれは、<見かけ上の予測>です。
では、<見かけ上の予測>としての能動推論は、<問答としての予測>である問答推論とどこが違うのでしょうか。以下では、<見かけ上の予測>と<問答としての予測>の違いを、能動推論と問答推論の違いとして考えて、この違いについて考え、どのようにして問答推論が始まるのかを考えたいと思います。
まずは「能動的推論とはどのようなものか」を確認しておきたいと思います。