46 問答と推論の成立が、<言語>の成立に先立つ  (20230416)

[カテゴリー:日々是哲学]

(第43回から、規則遵守問題および私的言語批判の問題を論じていました。43回では、私的言語も公的言語もなく、個人言語だけがあると論じました。44回では、個人言語について、規則に従っているかどうかをチェックできることを説明しました。45回には、問答できる限り、規則に従っているということを説明しました。「私は、規則に従っていますか、それとも規則に従っていると思っているだけでしょうか」と問われた者は、「あなたは、規則に従っておらず、規則に従っていると思っているだけです」と答えることはあり得ません。また自問自答の場合にも、「私の発話は、規則に従っているだろう」と自問するとき、「いや、私の発話は従っていない」と答えることはあり得ないということを説明しました。)

その後、私の考えは少し変化しました。私たちは共有言語を持たず、各人が個人言語をもっているにすぎないと考えることはできるのですが、その場合には、相手の個人言語のモデルを仮定して、それをもとに相手の発話の意味理解を予測し、それが正しいかどうかをチェックし、誤差が最小になるように習性を繰り返すことになるでしょう。そして自分の個人言語についても、どうように自分の個人言語のモデルを仮定して、それから自分の発話の意味の理解を予測し、予測誤差最小化śプロセスにかけるということになるでしょう。しかし、二人の個人言語のモデルが非常に類似している可能性があるときに、それぞれの個人言語モデルを仮定するのは、煩瑣ではないでしょうか。むしろ二人がある言語を共有していることを仮定し、共有言語のモデルを仮定して、予測誤差最小化プロセスにかけることが、現実に行われていることではないかと思います。公共的な共有言語があることを検証することはできませんが、他者の個人言語や自分の個人言語についても、それが成立していることを検証することは、同様に不可能です。

相手の個人言語の理解のチェックは、問答推論的意味論では、つぎのように説明できるでしょう。相手の発話の上流問答推論と下流問答推論の両方について、正しいものとそうでないものを判別し、それが相手のその判別と一致するかどうかをチェックします。しかし、相手の個人言語と私の個人言語を区別するとき、相手の個人言語のある発話についての私の(例えば)ある上流問答推論は、推論になりうるのでしょうか。異なる言語の二つの文が推論関係、例えば両立不可能性の関係に立ちうるのでしょうか。そのためには、二つの文が、同一問いへの答えでなければなりません。では、相手の個人言語の文が、私の個人言語の疑問文に対する答えになりうるでしょうか。

例えば、相手の「これはリンゴである」という発話と、私の個人言語の「これは何ですか」や「これは赤い」は、問答推論関係をもちうるでしょうか。共通の言語を前提することによって推論や問答が可能になるのではなく、発話の間に推論や問答が可能になることによって、共通の言語の想定が可能になるように思われます。このように考えなければ、言語の発生を説明できないでしょう。異なる言語の二つの文が、問答関係になることは可能です。異なる言語の二つの文が問答関係になることによって、それらは融合し一つの言語になると思われます。

今回のタイトル「問答と推論の成立が、<言語>の成立に先立つ」を読んだ人は、問いや答え、推論を構成する文や発話が成立するためには、言語が成立しなければならないのだから、このタイトルは間違っている、と考えるかもしれません。しかし、発話の意味は、その問答推論関係であり、問答推論が成立することで、言語が成立するのだと考えます。

投稿者:

irieyukio

問答の哲学研究、ドイツ観念論研究、を専門にしています。 2019年3月に大阪大学を定年退職し、現在は名誉教授です。 香川県丸亀市生まれ、奈良市在住。