[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]
廣松渉(1933.8.11~1994.5.22)は、戦後日本のもっとも卓越した哲学者である。あるいは明治以後のもっとも卓越した哲学者だと言えるかもしれない。彼は、出世作『世界の共同主観的存在構造』(勁草書房,1975年)において四肢構造論を展開している。彼の哲学全体は、主著『存在と意味 事的世界観の定礎』の三巻で計画されていた。
第一巻「認識的世界の存在構造」
第二巻「実践的世界の存在構造」
第三巻「文化的世界の存在構造」
残念なことに出版されたのは、第一巻と第二巻の第二編までであり、病気のために、第二巻第三篇と第三巻は出版されなかった。
廣松は、従来の「物的世界像」に対して「事的世界観」を主張した。物的世界像の「実体主義」に対して、「関係の一次性」という用語で関係主義的存在観を主張した。実体が自存して第二次的に関係し合うのではなく、関係こそが第一次的存在であるという主張である。この関係の基本となるのが、四肢構造である。
『存在と意味』の第一巻では、認識の場面での四肢構造が説明され、第二巻では行為の場面での四肢構造が説明されている。まずは、第一巻の認識の四肢構造を紹介したい。
#認識の四肢構造
第一巻では、「認知的に展らける世界現相」(xvii)の存在構造を扱う。
認知的に展らける「現相的世界」は四肢構造をもつとされる。認識の対象の二肢性と主体の二肢性である。
#認識の対象の二肢性
認識は、「として」構造をもち、ある対象を「より以上の或るもの」として捉えることである。認識は、対象=「現相的所与」を「より以上のもの」=「意味的所識」として認識する、という二肢性を持つ。
AをBとして認識する時、Aは所与とされるが、しかしAも実はすでに二肢構造を持っている。二肢構造を持つAが.Bとの関係において所与となるのである。
たとえば、私が、コンビニにあるケーキをクリスマスケーキとして認知するとき、コンビニにあるケーキは所与であり、それ(現相的所与)を「クリスマスケーキ」(意味的所識)として認知するのであるが、しかしコンビニにあるその対象を「ケーキ」として認知する時に、すでに二肢構造が成立している。それは、「白いもの」を「ケーキ」として認知することかもしれない。そしてその白いものもまた、対象を「白いもの」として認知するという二肢構造をもつ。認知は、常に、何かを何かとして捉えるという二肢構造において成立するので、裸の対象があるのではない。所知は、所知―所識関係の項として成立する。所知であるものをこの関係から取り出して、対象化したときには、それはすでにあるもの「として」捉えられており、二肢構造をもつ。(この議論は、アリストテレスの「第一質料」に始まる。)
このような対象の側の「として」構造は、解釈学や現象学で指摘されていたことであり、新しい指摘ではない。廣松の新しさは、認識の主体の側にも二肢性を指摘したこと、そしてその二つの二肢性が相関していることを指摘したことにある。
#認識の主体の二肢性
認識において、主体もまた「より以上の或るもの」として認識する。その二肢性は、一般的には、「能知的誰某」がそれ以上の「能識的或者」として認識するといわれる(『廣松渉著作集』第15巻136)。
コンビニのケーキを見て、クリスマスケーキとして認知するのは、現代の日本に生活する人間としてであり、だれでもそう認知できるのではない。
レントゲン写真の影を見て、肺がんがあると認知できるのは、訓練を受けた医者としてであり、だれでもそう認知できるのではない。
人(能知的誰某)は、医者(能識的或者)として、レントゲン写真の白い部分(現相的所与)を肺がんの表象(意味的所識)として認知する。
#認識の共同主観性
牛を見て、「ワンワン」という子供がいるとしよう。大人は、その子供が、牛を犬だとおもっていると理解する。この理解は、次のようにして可能である。
その大人は、その子供「として」、その牛を、犬「として」見る。
ここでは、大人は、その子供の視座から牛を見ている。廣松は、これを「視座照応的」(『廣松渉著作集』第15巻146)、と呼び、照応関係の一種とみている。このような照応関係によって、共同主観性が成立する。
「両人は人称的能知主体としては別々でありながら、一個同一の「所識」を共帰属せしめている者としては同一の能知的主体である。」(『廣松渉著作集』第15巻147)。
「意味的所識」は自分にとってだけでなく他人たちにとっても存立するという間主観性、共同主観的同一性の故に、単なる自分一人の私念ではないこと、この間主観的妥当性によっても存立性をもつ。」(『廣松渉著作集』第15巻197)。
この一人称的主体以上の或者は、意味的所識が、共同主観的に同型化している限りで「共同主観的な或者」である。
能知は、「人称的誰某」以上の「共同主観的或者」である。(198)
「われわれは[…]「現相的所与」が「意味的所識」として「能識的或者」としての「能知的誰某」に対妥当するという二つのレアール・イデアルールな二肢的成態の連関、都合、四肢的な構造的連関態を挙示する。そして、この四肢的構制態をわれわれは「事」と呼ぶ」
(199)
(以上の四肢構造論の紹介の大部分は、2018年の秋冬学期講義「問答の観点からの哲学」第12回(20190111)からの転載である。
https://irieyukio.net/KOUGI/tokusyu/2018WS/2018ws12Hiromatsu.pdf )
次に、この認識の四肢構造を二重問答関係の観点から分析しよう。