146 実践的問答と技術的問答の関係:再考(The relationship between practical and technical questions:revisited) (20250222)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

#技術的問いは、(実践的問答による)目的設定に続いて成立する

技術的問い「その目的を実現するために、どうすればよいのか」という問いは、実践的問答の答えとして「…を実現しよう」という事前意図の決定が行われた後に、必要になる問いです。つまり、ある目的を実現しようという目的のために、「その目的を実現するために、どうしようか」という技術的問いを立てることになります。ここで実践的問答(Q2→A2)と技術的問答(Q1→A1)は、直列で結合しています(Q2→A2→Q1→A1)。(ここでの→は、単に時間的前後関係を表示します。)

したがって、技術的問いは、実践的な問いに答えるために問われるのではなく、実践的な問答によって目的が設定された後で、それに続いて問われることになる問いです。技術的問いのより上位の問いは、実践的問いではないのです。

「より上位の問い」とは、ある問いの答えが、その問いの答えを見つけるために有用であるというような関係にある問いのことです。ここで、ある問い(Q1)とそのより上位の問い(Q2)は、(Q2→Q1→A1→A2)という入れ子型になっています。この場合、Q1→A1を、Q2→A2の「より下位の問答」と呼ぶことにします。

#(技術的問答以外の)記述的問答は、実践的問いをより上位の問いとすることがある。

実践的な問いに答えるという目的のために、記述的問答を行うことがあります。実践的な問いの答えは、実現可能でなければなりません。したがって、実践的な問いの答えの候補と考えるものが、実現可能であるかどうかを、答える前にあらかじめ問うことになります。この問答は、記述的問答です。ただし、技術的問答ではありません。この場合、実践的問答は記述的問答のより上位の問いであり、二つの問答は入れ子型になります。

#実践的問答は、より上位の目的をもつ

実践的問いは、意志決定を答えとする問いです。例えば、

「これからどうしようか」

という実践的問いの答えは意志決定となりますが、それにどう答えるかは自由です。実践的問いの答えは、真理値を持ちません。ただし、答えが実行可能であることは必要です。答えの実行可能性が、実践的問いの答えの「正しさ」であると考えたいと思います。

 ところで、このような実践的な問いはより上位の目的を持つでしょうか。もし実践的問いがより上位の目的を持つとすると、上の問い「これからどうしようか」は、

「その目的を実現するために、これからどうしようか」

という問いの省略形であることになります。

この問いは、行為の決定を求める問いですが、その意味は、二通り考えられます。一つは、目的の実現方法が分からない場合であり、この問い「技術的問い」となります。もう一つは、実現方法が分かっている場合であり、この問いは複数の実現方法から一つを選択する問い、実践的問いになります。

 #込み入った微妙なケース

ある目的を立て、

①「その目的を実現するには、どうすればよいのか」

という技術的問いを立て、その答えが複数あったとします。例えば、「(その目的を実現するには、)H1すればよい」「H2すればよい」の2つの真なる答えがあるとします。このような場合には、

②「どちらをするのがよいのか」

と問うことになります。より正確にいえば、

③「その目的を実現するにために、H1とH2のどちらをするのがよいのか」

と問うことになります。この問いは、①に対する暫定的答え「その目的を実現するには、H1ないしH2をすればよい」を前提として当初の技術的問い①をより限定したものであり、技術的問いであるように見えます。ただし、この問いの答えが、

④「その目的を実現するにために、H1とH2のどちらをしても違いはない」

であったとしましょう。このとき、④には真理値があるでしょう。

さて、この④を前提として、どちらかを選択するには、つぎのように問うことになります。

⑤「その目的を実現するために、H1とH2のどちらをしようか」

この問いは、もはや技術的問いではなく、実践的問いであると思われます。

 この実践的問い⑤を問うことは、より上位の目的を持ちます。それは、当初の「その目的」です。

次回は、「実践的問答は、より上位の問いをもたないのかどうか」を考えたいと思います。

前回までは、実践的問答もまたより上位の問答を持つと考えて議論していましたが、それは間違いであったかもしれないと思うようになりました。次回はこれを検討します。

145 記述的問答と実践的問答(discriptive questions and answers and practical questions and answers)

(20250217)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

(最近、問答関係の分析をすること、つまり<問答の問答>が哲学の仕事である、と定式化できるかもしれないと考えています。いずれ、まとまった形で説明したいと思います。)

 

#実践的問答とは

私は問答を、答えが真理値を持つ記述的問答、答えが意思決定となる実践的問答、答えが宣言となる宣言的問答に区別できると考えています。コノカテゴリーでは、記述的問答の答えが真理であるとは、どういうことかを考察しなければならないないのだが、それを考えるためにも、答えが真理値を持たない問答との関係を明確にたいと思います。まずは、実践的問答との関係を明確にしましょう。

記述的問答は真理値を持ちます。それに対して、実践的問答の答えは、意思決定であるので、真理値を持ちません。ただし、正/誤の区別を持ちます。それは意思の実行可能性/実行不可能性の区別です。

実践的問の答えは、意思決定ですが、多くの場合それは事前意図を持つこと、つまり決断することであり、行為へと続きます。この場合、その意図の実現が簡単なことであれば、直ちに実行できるが、実現方法が分からなければ、「それをどうやって実現するか」と問う必要があります。この問いは、技術的問いないし実践的技術的問い(実務的問い)です。

実践的問いの答えとして、意思決定を行ったならば、それに続いて「それをどうやって実現するか」という技術的問い、実務的問いを設定することになります。もしその答えが「それを実現するには、Aする必要がある」となり、このAの実現方法が分からないとすると、さらに「Aをどうやって実現するか」という問いを立てることが必要になります。このような問答を繰り返して、その目的が直ちに実行可能なものになるとき、その問答は終結するでしょう。

では、目的が直ちに実行可能になるのは、どういう場合でしょうか。例えば、基礎的行為は、それを意図すれば直ちに実行可能です。ところで、歯を磨くという行為は、様々な基礎行為が複合した行為ですが、これは一塊の行為として習慣となっています。このような習慣として一塊になった複合的行為の場合にも、それを意図するだけで直ちに実行可能です。

では、箸を使うこと、歯を磨くこと、靴紐を結ぶことなど、複数の基礎的行為が一塊になり習慣的な行為となったこれらの行為は、どのようにして可能なのでしょうか。これは、複数の基礎的行為ができるようになってから、それを結合することによって可能になるのではないでしょうか。むしろ基礎的行為を意図的に行うよりも、これらの複合的な行為を意図的に行うことのほうが、先に成立すると思われます。例えば、手を握りしめるという複合的な行為を意図的にできるようになったあとで、つぎに、親指を曲げる、人差し指を曲げるなどの、より単純な複合的な行為を意図的にすることができるようになるでしょう。さらにその後で、親指の第一関節を曲げる、親指の第二関節を曲げる、などの基礎的行為を意図的に行うことが、可能になります。

これらの基礎的行為は、親指を曲げるという意図的が行為ができる前に、できるようになっているでしょうが、しかしそれを意図的に行えるようになっているのではないとおもわれます。最初にできる意図的な行為は、おそらくすでに何らかの複合的な行為であり、それを分解して捉えられるより細かな行為を意図的に行うことが可能になるのだと思われます(これは、言語についての構文論的な原子論と意味論的な全体論の関係に似ています)。

#技術的問答と実践的問答の差異

技術的問答は実践的問答の間には、明確な違いがあります。その違いは、技術的問答の答えは真理値をもつ記述ですが、実践的問答の答えは意図決定であり、真理値を持たないということです。しかし、これら二種類の問答は、近接して登場するので、混同されやすいのです。例えば、次の問答は、実践的問答です。

「Bを実現するために、どうしようか」(実践的問い)

これに答えるために次の技術的問答が行われます。

「Bを実現するために、どうすればよいか」(技術的問い)

「Bを実現するために、Aをすればよい」

しかし、技術的問いへの真なる答えは、大抵は複数可能です。答えが複数ある時、技術的問いの答えは、Bを実現するための必要条件ではなく、十分条件となります。

「Bを実現するために、Cをすればよい」

「Bを実現するために、Dをすればよい」

Bを実現するための十分条件は、このように複数可能とします。この場合、実践的な問いに現実に答えるには、複数の正しい答え(複数の実現可能な答え)の中から一つを選択しなければならなりません。その選択を問答にして明示すれば次のようになります。

「Bを実現するために、どうしようか」(当初の実践的問い)

「Bを実現するために、Aを選択しよう」

この答えが、実行可能であるとき、この答えは正しい答えだといえます。しかし、「Cを選択しよう」「Dを選択しよう」が答えであっても、それらは正しい答えだといえます。実践的問いの答えは、意思決定であり、記述ではなく、真理値を持たないのです。

 この答えの選択は、全く恣意的であるかもしれません。しかし、これらの答えの中から、適切性を基準にして最も適切な答えを選択している場合もあります。問の答えの適切性とは、より上位の問いに答えるための有用性、より上位の目的を実現するための有用性、であると考えます。例えば、ここでは、つぎのような問いによって、最も適切な答えを選択するのかもしれません。

「A、C、Dの中で、最も早くできるのはどれか」

「A、C、Dの中で、最も簡単にできるのはどれか」

「A、C、Dの中で、最もやすくできるのはどれか」

これらの問自体は、より上位の問いではありません。

次回は。これらの問いとより上位の問との関係を明確にしたいと思います。

144 意図的行為と規範性:<規範に関する記述的問答>を<事実に関する記述的問答>に書き換えることは不可能である(Intentional Action and Normativity: It is impossible to rewrite a descriptive question about a norm into a descriptive question about a fact)(20250208)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

答えが真理値を持つ問答を「記述的問答」と呼び、これを<事実に関する記述的問答>と<規範に関する記述的問答>に区別しました。ただし、前回述べたように、<事実に関する記述的問答>は、規範に関する記述的問答に書き換えることが出来そうです。しかし、<規範に関する記述的問答>は、<事実に関する記述的問答>に書き換えることは出来ないように見えます。今回は、それを説明したいとおもいます。

#意図的行為と規範性

規則とは、もっとも広義において、出来事が反復することです。規則性は、法則性と規範性に区別できそうです。規範性とは、規則の表象に従って反復することであり、その場合の規則を「規範」と呼ぶことにします。規則(規範)の表象に従って行為するとは、意図的に行為することです。

意図的行為は、ある状態や出来事の表象を実現しようとする行為です。その状態や出来事が一般的なものであるとき、例えばラーメンを食べるというような反復可能な一般的な行為の表象に従って行為することになります。この場合、その表象はその行為を導く規範となります。ただし、その状態や出来事が一回的なものである場合、例えばある人があるときラーメンを食べるという一回的な行為の表象に従って行為する場合にも、その表象はその行為を導く規範となります。なぜなら、一回的な行為の場合にも意図の内容は、行為を支配するものであり、その意味でそれは規範的であるからです。

意図的な行為の意図こそが、規範性の源です。したがって、規範に関する概念は、意図的行為に関する概念であり、規範に関する記述的問答は、意図的行為に関する記述的問答です。

人の意図的行為に関する問答は、規範性をもちます。例えば次の問答を考えてみましょう。

A「彼女は昨日夕食に何を食べましたか」

B「彼女はラーメンを食べました」

この問答が規範性を持つのは、「夕食を食べる」「ラーメンを食べる」という行為が意図的な行為である以上は、ある行為の表象に従って行為し、その表象を実現しようとする行為だからです。したがって、この問答は、それが表現している行為の規範に関する記述的問答になっています。

#まとめると、意図的行為を次のように捉えることができます。<意図的行為は、ある状態や出来事の表象に基づいてそれを実現しようとする行為であり、そのような意図的行為において、実現しようとする表象は、行為をコントロールする規範として機能しています>。<規範に関する記述的問答>とは、基本的にはこのような意図的行為に関する記述的問答であると見做せます。他のもっと複雑な規範に関する問答もまた、<意図的行為に関する記述的問答>に還元できるでしょう。

#問答行為の規範性

問うことと答えることは、意図的行為です。したがって、どのような問答であれ、問答は規範性を持ちます。したがって、問答に関する記述的問答は、規範に関する記述的問答です。つまり、<事実に関する記述的問答>に関する問答も、<規範に関する記述的問答>に関する問答も、どちらも<規範に関する記述的問答>です。

#問答行為の規範性のもう一つの説明

 問うことと答えることが規範性を持つことについては、上述のように、それらが意図的行為であることによって説明できます、しかし次のように説明することもできます。

問うことは、単に答えを求めるだけでなく、正しい答えを求めることです。それゆえに、問いに答えようとする者は、正しい答えを返すことを求められています。問う者も答える者も、答えが正しくなければ、問う者の要求に応えたことにならないことを理解しています。これによって、正しい答えを返すことは、答える者にとっても問う者にとっても、規範として理解されます。このような意味でも問答は規範性をもちます。他方で、問うことも答えることも意図的な行為であるので、前述の意味でも問答は規範性をもちます。

このような意味で、すべての問答は、規範性を持ちます。しかし、このことは、すべての問答が、規範に関する問答であることを意味しません。

記述的問答を、<事実に関する記述的問答>と<規範に関する記述的問答>に分けるとき、後者は、<意図的行為に関する記述的問答>と言い換えることもできます。そして、すべての問答が、意図的行為に関する問答ではありません。

143 <事実に関する記述的問答>と<規範に関する記述的問答>の区別について(On the distinction between descriptive questions about facts and descriptive questions about norms)(20250201)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

#論理学的推論(論理学の語彙だけを含む推論)に関する問答の場合

「pとp→rが成り立つとき、rが成りたつか?」という問いに「rが成りたつ」と答えるならば、この問答は<論理的関係ないし推論関係という事実に関する記述的問答>です。これと似た問答「pとp→rが成り立つとき、rが成り立つと言えるか」という問いに、「rが成り立つと言える」と答えるならば、この問答は上記の問答と同じく、<論理的関係ないし推論関係という規範に関する記述的問答>であるように見えます。なぜなら、「…と言えるか」という問いは規範に関する問いであり、「…と言える」という答えは規範に関する答えだからです。

#経験的事実に関する問答の場合

「机の上にリンゴがあるか」「はい、机の上にリンゴがある」という問答は、<事実に関する記述的問答>です。これは同時に、「机の上にリンゴがあると言えるか」「はい、机の上にリンゴがあると言える」という<規範に関する記述的問答>に書き換え可能である。

#この二つの場合から、すべての<事実に関する記述的問答>は、<規範に関する記述的問答>に書き換え可能である、と言えそうです。

しかし、逆に<規範に関する記述的問答>を<事実に関する記述的問答>に書き換えることは不可能であるように見えます。例えば、「私が今持っているお金で、このリンゴを買えるだろうか」「買えるだろう」という<規範に関する記述的問答>を、<事実に関する記述的問答>に書き換えることは不可能であるように見えます。そう見えるのは、この問答が「お金」「買う」などの規範的概念を含んでおり、それらの規範的概念を非規範的な概念で言いかえることができないように見えるからです。なぜなら、規範的概念を非規範的概念で言いかえることができないように見えるからである。(ミリカンは、目的概念を自然主義的に説明するので、これに反対するかもしれません。)

次回は、この点を考えてみます。

142規範に関する記述的問答の下位区分 (Subdivision of normative descriptive questions and answers) (20250129)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

<事実に関する記述的問答>の下位区分と同様の仕方で、<規範に関する記述的問答>を次のように下位区分できると思います。

(1)単称命題を答えとする問答

(2)全称命題を答えとする問答

(3)ある目的を実現するための手段を求める問答(実践的技術的問答)

(1)の例

「彼はそのように命令する資格があるのだろうか」

「トランプの就任式は、どこでいつ行われたのか」

(2)の例

「どんな時も嘘をつくべきではないのだろうか」

「通貨供給量が増えたら、インフレになるのだろうか」

(3)の例

「この本をもっと安く買うにはどうしたらよいだろうか」

「土地の登記を変更するには、どうしたらよいのか」

(3)の場合、目的もそれを実現する手段もどちらも、規範的語彙の使用によって記述できる規範的状態である)を実現する手段は、自然的な因果関係ではなく、社会の仕組み(社会制度)に基づいて設定されます。

141 技術的問答の下位区分(a subdivision of technical questions and answers Subdivision) (20250121)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

技術的問答を「目的を実現するための方法を問う問答」と定義するとき、それは次の二種類に区別されます。

(a)目的を実現するための必要条件を問う問答

  「Bを実現するために、何をしなければならないか」

  「Bを実現するために、Aをしなければならない」

(b)目的を実現するための十分条件を問う問答

  「Bを実現するために、どうすればよいか」

  「Bを実現するために、Aをすればよい」

この(b)は、次のように言いかえることもできます。

「どうすれば、Bを実現できるのか」

「Aすれば、Bを実現できます」

このような技術的問答は、因果関係を問う問答とも実践的問答とも異なるものであるので、まずそれを説明します。

#技術的問答と因果関係の問答の差異実践的問答

「Aが生じれば、Bが生じる」

という因果関係の記述は、次の問いの答えとなります。

「Aが生じれば、何が起きますか」

「何が起きれば、Bが生じますか」

このような因果関係についての問答は、技術的問答ではありません。それは観察的問答か理論的問答になるでしょう。二つの個別的出来事の間の一回的因果関係の記述であれば、観察的問答の一種であり、二種類の一般的出来事の間の法則的因果関係の記述であれば、理論的問答の一種です。

技術的問いに答えるときには、このような因果関係についての問答を前提として利用することになります。因果関係についての問答は、二つの出来事の関係についての問答ですが、技術的問答は、行為と状態の関係についての問答です。

#技術的問答と実践的問答の差異

次に、技術的問答は実践的問答とも異なります。なぜなら、技術的問答の答えは真理値をもつ記述であるが、実践的問答の答えは意図決定であり、真理値を持たないからです。例えば、次の問答は、実践的問答です。

「Bを実現するために、どうしようか」「Bを実現するために、Aしよう」

実践的問答は、意図と意図の関係についての問答である。

このような技術的問答は、さらに下位区分できそうですが、それは後回しにして、次に「規範に関する記述的問答」を考察し、その下位区分を考えてみたいと思います。

140 事実に関する記述的問答の下位区分 (Subdivision of factual descriptive questions and answers) 20250119

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

#事実に関する記述的問答の下位区分

前回、答えが真理値を持つ問答を「記述的問答」とし、記述的問答の中で規範的語彙を含まない問答を「事実に関する記述的問答」と名付け、今回はその下位区分を行うと予告しました。様々な下位区分の方法があるので、どのように整理するか、未だに迷っています。(更新の頻度を上げるつもりが、まったく上げられずすみません。)

(後で訂正することになる可能性がありますが)今回、とりあえずの下位区分を説明したいとおもいます。まず、<問答の答えが単称命題になる問答>と<問答の答えが全称命題になる問答>を区別できると思います。よく使用される表現で言えば、「観察的問答」と「理論的問答」に対応します。

(1)観察的問答:単称命題を答えとする記述的問答

知覚に問い合わせて答える問いを「知覚的問い」と呼び、その答えを「知覚報告」と呼ぶことできるでしょう。知覚報告を答えとする問答を知覚的問答と呼ぶことができます。この知覚報告は、単称命題になります。

これと同様に、観察に問い合わせて答える問いを「観察的問い」と呼び、その答えを「観察報告」と呼ぶことができます。ただし、何が観察可能であるかは、人によって、文脈によって異なります。例えば、レントゲン写真を見て、医者は肺癌を観察するかもしれませんが、素人にはそれを観察することができません。医者のその観察には、多くの経験や知識が前提となっています。カルナップが言うように、観察可能なものと観察不可能なものの間に一義的な境界線を引くことは困難です。観察報告を答えとする問答を「観察的問答」と呼ぶことができます。

 例えば、「これはバラ科ですか」という問いに、「これはリンゴです」「リンゴは、バラ科です」ゆえに「これはバラ科です」と答える場合、「これはリンゴです」という前提は、観察に問い合わせています。ただし、ここでは「リンゴはバラ科です」という全称文(理論文)にも問い合わせています。

とりあえずまとめると、観察的問答には、つぎのような場合があります。

知覚的問答:(知覚に問い合わせる問い、その答えは知覚報告となる。)

知覚に問い合わせて、単称命題(知覚報告)が答えとなる場合

知覚報告に問い合わせて、単称命題(観察命題)を答えとして推論する場合

観察報告に問い合わせて、単称命題(観察命題)を答えとして推論する場合

理論命題に問い合わせて、そこから観察命題を推論する場合

観察報告と理論命題の両方に問い合わせて、観察命題を推論する場合

(2)理論的問答:全称命題を答えとする記述的問答

全称命題を答えとする問答は、全称命題を理論的な命題だとするならば、全称命題を答えとする問答は、「理論的問答」と呼ぶことできます。

観察報告に問い合わせて、全称命題をチェックし、全称命題を推定して答える場合。

観察報告と他の全称命題(理論命題)に問い合わせて推論し、全称命題で答える場合。

他の全称判断に問い合わせて推論し、全称命題で答える場合。

以上の二つ「観察的問答」「理論的問答」のより上位の問いは、記述的問答ですが、記述的問答のより上位の問答が実践的問答である場合があります。これを「技術的問答」と呼びたいと思います。これは上記の二つとは異質です。(これについては、第127回に論じましたが、もう一度論じ直したいと思います。)

(3)技術的問答:<ある目的を実現するための手段を求める問答であり、その目的手段関係が自然的な因果関係に基づくものであるような問答>です。

ただし、技術的問答は、因果関係の記述を答えとする問答そのものではありません。技術的問答は、自然的因果関係の認識に依拠するので、因果関係を問う問答を前提としますが、因果関係を問う問答そのものではありません。

「Aが生じれば、Bが生じる」という因果関係の記述は、記述的問答の答えになります。これは理論的問答になると思われます(なぜなら、一回的な出来事の関係では因果関係であるということができない可能性があるからです。これについては、もう少し説明の必要があります)。これは「Aすれば、Bを実現できる」という目的手段関係の記述と同一ではありません。「どうすれば、Bを実現できますか」という技術的問いの答えは「Aすれば、Bを実現できる」という目的手段関係の記述になります。

この技術的問答と実践的問答関係については、127回でも述べましたが、次回もう一度考えてみます。

39 問答の三区分についての再考(Reconsidering the three types of questions and answers)(20241230)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

(問答と規範の関係について論じる予定でしたが、その関係は問答の3種類によって異なるはずであり、それらの差異についても考えるつもりでした。しかし考えているうちに、問答を3種類に分けることについて見直す必要があることがわかりましので、今回は、まずそれを論じます。)

私は、問答を理論的問答と実践的問答と宣言的問答の三種類に分けてきました。理論的問いは、事実についての記述を求める問いであり、その答えには真/偽の区別があります。実践的問いは、意思決定を求める問いであり、その答えには真/偽の区別はありませんが、正/誤の区別はあり、答えが正しいとはそれが実行可能であることだと考えることにしました。宣言的問答は、事実や言葉の設定をもとめる問答であり、その答えには正/誤の区別はありません。

これらの三種の問いに対する答えの「正しさ」と「適切性」については、次のように考えます。

理論的問いの答えの正しさは、真理性であり、

実践的問いの答えの正しさは、実現可能性であり、

宣言的問いの答えは、正しさをもちません。

これらの三種の答えの適切性は、<より上位の問いの解決に役立つこと>です

以上は復習です。

今回修正したいことは、「理論的問答」と呼んできたものを、「記述的問答」と呼び、これを次の二種類「事実に関する記述的問答」と「規範に関する記述的問答」に区別します。

「事実に関する記述的問答」とは、<規範に関する語彙を含まない疑問文と平叙文からなる記述的問答>であり、「規範に関する記述的問答」とは、<規範に関する語彙を含む疑問文と平叙文からなる記述的問答>です。「規範に関する語彙」とは、その語彙を含む文の使用が行為への指令を含んでいる概念です。

ちなみに、<価値に関する語彙>とは、その概念を含む文から規範概念を含む文が帰結する概念であり、<価値に関する語彙>は、<規範に関する語彙>に書き換え可能である、と考えます。

 価値には、高い価値と低い価値という度合(あるいは価値による対象のランク付け)があり、価値の違いは、それに対する行為や態度の違いを帰結します。これに対して、規範には、すべきこと(義務)、してもよいこと(許可)、してはならないこと(禁止)、という三区分しかありません。さらに、行為については、する/しない、という二区分しかないことということから帰結するだろうと推測します。行為についてのこの二値性は、さらに、真理の二値原理と深くかかわっている推測します。そしてこの二値性は、決定疑問の答えが「はい」と「いいえ」の二つしかないことから帰結するのだろうと推測します。(価値の連続性、規範性の三区分、行為の二値性、真理の二値性、決定疑問の問答関係、これらについては今後さらに分析を進めることになるとおもいます。)

 次回は、「記述的問答」の下位区分である「事実に関する記述的問答」のさらなる下位区分ついて考えたと思います。(すでにある程度は整理出来ているのですが、細かな詰めができていないので、次回に回します。あまり進まなくてすみません。)

 来年はもう少し更新のテンポをあげてゆきたいとおもいます。来年もよろしくお願いします。  皆様よい年をお迎えください。

138  まとめ (Summary) (20241218)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

(遅々として進まずすみません。これまでを振り返って出直します。)

このカテゴリーの93回から「問いに対する答えが正しいとはどういうことか」を論じてきました。

どのように考察が進んできたかをまとめようとしたのですが、読み返してみると論点がズレて行くことがしばしばで、我ながら議論の進行をうまくまとめることができません。

そこで、これまで論じてきた論点であり、かつ同時に、これからそれをより明確に論じ直したい論点を説明したいと思います。それは次の2つです。

#一つは、問答を、三種類(理論的問答、実践的問答、宣言的問答)に区別することです。

これらの三種の問いに対する答えの「正しさ」と「適切性」については、つぎのように考えます。

理論的問いの答えの正しさは、真理性であり、

実践的問いの答えの正しさは、実現可能性であり、

宣言的問いの答えは、正しさをもちません。

これらの三種の答えの適切性は、<より上位の問いの解決に役立つこと>です。

(宣言的問答については、あいまいな点が残っています。例えば、宣言的答えには正/誤の区別がないとしても、それでも宣言的と答となるための条件があるはずであり、それはまだ未解明のままです。)

#もう一つの論点は、この三種類の問答のすべてにおいて、問答関係の中で中で暗黙的に、論理関係と様相関係と規範関係が成立しているのではないか、あるいはさらに進んで、問答関係によって、論理関係と様相関係と規範関係が構成されるのではないか、ということです。

(MPと問答関係の関係については曖昧なままです。問答と規範関係の関係もまた曖昧です。) 残されたこれらの課題すべてに取り組むつもりですが、まず問答と規範関係について考えたいと思います。

137 「私的言語批判」の乗り越え方(How to overcome the “criticism of private language”)(20241209)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

前回の最後に次のように書きました。

「<規則に従うこと>と<規則に従わないこと>の区別、<規則に従っていると信じていて実際に規則に従っていること>と規則に従っていると信じていて実際には規則に従っていないこと>の区別を理解していることが必要なのではないでしょうか。これらの区別を理解していなければ、他者から指摘されても間違いに気づくことは不可能であるように思われます。」

このように書きましたが、その後、これはあまり説得的ではない、と思いました。なぜなら、このような区別を理解していなくても、他者から間違いを指摘して気づくことはあり得るかもしれないからです。

ただし、次のように言うことは出来ると思います。

「<規則に従うこと>と<規則に従わないこと>の区別、<規則に従っていると信じていて実際に規則に従っていること>と規則に従っていると信じていて実際には規則に従っていないこと>の区別を行うことは、私的に言語を用いるときにも暗黙的に行っていることである」

これは、次のように説明できます

私が、ある感覚を感じて、「この感覚は、あの時の感覚と同じだ」と考えて、カレンダーに「E」と書き込だとしましょう。このとき、「この感覚は、あの時の感覚と同じだろうか」と自問し、「同じだ」と自答したとしましよう。このように自問するとき、私は、答えが「同じだ」と「同じではない」のどちらかになることを想定しています。つまり、<規則に従うこと>と<規則に従わないこと>の区別を理解しています。さらに、この答えが、正しいこともあれば、間違いであることもありうる、と考えています。つまり、<規則に従っていると信じていて実際に規則に従っていること>と規則に従っていると信じていて実際には規則に従っていないこと>の区別も理解しています。

私たちが一人で自問自答するときには、これらを区別するだけで、どちらにもコミットしないのではなく、おそらく一方が正しいと予想していると思います。私たちは、多くの場合は、「自分が言語の規則に従っている」と想定しているでしょう。

「私は、言語の規則に従っているだろうか」「私は言語の規則に従っていない」と自問自答することは、問答論的矛盾です(これに入江幸男『問答の言語哲学』(p.233)を参照してください)。したがって、この問いに答えるとすれば、「私は言語の規則に従っている」と答えることが必然的です。言語の規則一般ではなく、カレンダーに「E」を記入する規則であれば、「私はそれに従っていない」と答えることは問答論的矛盾にはなりません。しかし、言語の規則一般であれば、私たちはたいていは、言語の規則に従っていますし、そう考えることが必然的である。

(ちなみに、ウィトゲンシュタインが『哲学的探求』で「E」の記入の規則を決めた時、またそれを私たちが理解するとき、私たちは、公的な言語の中で、私的言語のゲームの規則について、それを対象言語として説明し理解している。この構造についても考えなければならないかもしれない。)

私的言語の成立は、不確実です。しかし私たちは、ある語の定義ができたと想定して、自問自答したり対話したりできます。私たちは、知覚プロセスの場合に、モデルの設定、チェック、修正を反復しているように、語の設定の場合には、モデルの設定、チェック、修正を反復していると考えられます。

次回はこれまでの議論をまとめます。