125 「真理の定義依拠説」を振り返る (A look back at the “definition-based theory of truth”) (20240715)

[カテゴリー:問答の観点からの認識] 

 (あれこれと考えているうちに、遅くなりすみません。)

 論理学や数学の命題が問いに対する正しい答えであることは、それらの公理系で証明できるということです。そして、どのような公理や推論規則を設定するかは、ベルナップが主張したように、まず公理を推論規則に変形して、全ての推論規則が保存拡大性を充たすように設定するということが必要条件になります。ただしそれに加えて(111回に述べたように)、問答関係に暗黙的に内在する論理的関係を充たすように設定するという条件を加える必要があると考えています。

 ところで、公理や推論規則に基づくだけでは答えることができない問いの場合には、科学的な理論命題を含めて、最終的には日常的な経験的な語彙の意味(使用法)に基づくことになると思われます。日常的な問答の答の正しさ(真理性)は、経験的な語彙の学習に基づいており、その学習の正しさを遡れば、それは、経験的な語彙の定義に基づきます。これを真理の「定義依拠説」と名付けました。

 しかしここでの問題は、日常的な語彙の定義をどのように理解するかです。

語の意味(使用法)は、語を用いた推論によって与えられ規定されます。<推論は、それに含まれる語の意味によって成立し、構成される>と考えるとき、それは「形式推論」であり、逆に<推論は、それに含まれる語の意味を規定するものであり、それらの語に意味を与えるものである>と考えるとき、それは「実質推論」であると呼びたいとおもいます。これはブランダムの「実質推論」の理解に依拠しています。形式推論は単調推論ですが、実質推論は非単調推論になります。

 日常的な語彙の意味の特徴は、非単調な実質推論によって意味が与えられるということになります。(これを非単調な実質推論によって意味を与えることを、「定義」と呼ぶことには批判があるかもしれません。しかし、「これはリンゴです」や「私には二本の手があります」などの真理性については、定義依拠説と呼んでもよいように思われます。)

さて、現在以下のような問題を考察中なのですが、ここから次にどう進むか思案中です。

  タルスキーに始まる、意味論的語彙をどう扱うべきか、と言う問題

  問いに対する答えの正しさと適切性の区別の問題

  実質推論の非単調性と推論規則の拡大保存性の関係

いずれにしても、少し仕切り直したいと思います。

124意味論的関係「指示」「述定」「真」などは、問答関係の中に暗黙的に内在している。(Semantic relations such as “denotation,” “predication,” and “true” are implicit in question-answer relations.)(20240702)

(公理系で意味(使用法)を規定できない言語の意味(使用法)については、定義や実質推論によって、意味(使用法)を理解することになる。)

 対象言語が有意味であるならば、そこにはすでに意味論的関係が成立しています。この意味論的関係について、タルスキーのようにメタ言語において成立すると考えるか、それとも対象言語とメタ言語は不可分なので、意味論的語彙は対象言語自体の中に成立すると考えるか、という違いに関係なく、意味論的関係は対象言語においてすでに(たとえ暗黙的であるとしても)成立しています。対象言語のなかに意味論的関係が成立しているということは、言い換えれば、対象言語の中に、その語句と対象との指示関係、文と事態との対応関係が成立している、あるいはそれに似たことが成立しているということです。それは、どのように成立しているのでしょうか。

 以下に説明するように、それは、問答関係の中に成立しているだろうと考えます。

#指示の関係は、すでに問答関係の中で成立しています

 指差し行為で指示すると同時に、「あれ」という発声によって指示することが、指示のもっとも原初的な形態だろうと推測します。そして、この指差し行為は、対象についての共同注意を形成するために行われるのだろうと推測します。指示詞による対象の指示もまた、対象についての共同注意を形成するためでしょう。

#「指示」とは、第一義的には人が行う行為であり、語がもつ機能ではありません。

しかし、人が、ある語を用いて、ある特定の対象だけを指示するとき、その対象を指示することはその語の機能だと言えます。例えば、ひとの固有名は、その人を指示する機能を持つといえます。指示は、第一義的には語と対象の関係ではなく、話し手が語を使用する仕方の一種であり、意味論的概念というよりも、語用論的概念です。

 名前のように、ある語句が特定の対象だけを指示するのに使用されるのではなく、指示詞のように、話し手が指さす対象を指示するなど、話し手と一定の関係に立つ対象を一般的に指示する場合もあります。固有名であれ指示詞であれ一般名であれ、語句とそれを用いて指示を行うときの指示対象との間に、一定の規則性が成り立つとき、その規則性を、その語句の機能だと見做すことができます。そのとき、指示は、その語句がもつ機能であり、使用法です。

 ある語句で特定の対象を指示することは、二義的には、語句と対象の関係ですが、第一義的には、人がその語句を用いて特定の対象を指示するというその語句の使用規則に従うことです。

 語句を用いて対象を指示する行為は、共同注意を実現するために行われます。その行為が有意味であるためには、共同注意が実現で来たかどうかを確認できることが必要です。共同注意の成立の確認、あるいは指示の成立の確認は、問答によって行われます。したがって、指示は、問答によって行われます。

 語の意味は使用法であり、もしその語の意味(使用法)が、人がそれを用いて特定の対象だけを指示することであるならば、「指示すること」は、その語句の使用法の特性を示す概念です。意味論的概念とは、語の意味(使用法)の特性を示す概念です。

  「Xさんの車はどれですか?」「あの赤い車です」

という問答は、「Xさんの車」問い語句の意味(使用法)の特性が「指示すること」であることを暗黙的に組んでいます。また「どれ」という疑問詞もまた、相手に「Xさんの車」の指示対象を指示することを求めており、「指示すること」を暗黙的に含んでいます。

 指示は、語句と対象の関係ではなく、語句の使用法の特性の一つです。その使用法を説明するには、対象への言及だけでなく、話し手への言及が必要です。語句が対象を指示するのは、人が語句を用いて、ある対象を指示するということことであり、さらに言えば、人が語句を用いて対象を、特定の他者(他者たち)に指示するということです。<指示は、指示する人、指示される人、指示する語句、指示される対象、の4つの関係として成り立ちます。>

#述定の関係も、すでに問答関係の中で成立しています。

 次の問いは、述定をもとめ、答えはその述定を行っています。

  「これは何ですか」「それはリンゴです」

この問答において、「リンゴ」は述定に用いられています。文が成立するのに語による対象の指示は可欠ではありませんが、述定は不可欠です。述定によって語の集まりは、文になります。

#真理の関係も、すでに問答関係の中で成立しています

 「真である」という述語は、決定疑問に暗黙的に内在しており、

  「それはリンゴですか?」「はい、リンゴです」

  「Is that an apple?」「はい、it is true」などの問答の中で明示化されます。

また、次のような指示や述定の学習のための補足疑問の問答は、真なる命題を学習することでもあります。

  「どれがリンゴですか」「これがリンゴだ」

  「これは何ですか」「これはリンゴだ」

指示や述定や真なる命題の学習は問答によって行われています。

問答の中には、指示関係(語句と対象の関係)、述定関係(語句と性質の関係、対象と性質の関係)真理関係(命題と事実の関係)が、暗黙的に含まれており、これらの学習と、問答の学習は、不可分です。

 さて、以上を踏まえて、前に説明した、真理の「定義依拠説」に戻りたいと思います。

123 対象言語とメタ言語の区別再考(Reconsidering the distinction between object language and metalanguage)(20140625)

*とりあえずの帰結

命題論理と一階述語論理では、そこでの語や文の意味(使用法)は公理と推論規則によって規定されていると考えることができます。このような意味論を仮に「公理論的意味論」と呼びます。それに対して、一階述語論理よりも複雑な公理系では、不完全性定理によれば、公理と推論規則によっては、ある命題及びその否定を証明できない命題が存在します。したがって、「公理論的意味論」を採用できません。

 そこで、タルスキーのようにある公理系の語や文の意味(使用法)については、メタ言語で語ることにするとき、そのメタ言語の意味(使用法)を語るには、さらにメタメタ言語が必要になります。ただし、これが無限に反復するとしても、最初の公理系の語や文の意味(使用法)はいつになっても確定しないということにはならないと思います。なぜなら、対象言語の語や文の意味(使用法)が、メタ言語で定義できるとすれば、その定義の意味(使用法)が仮にまだメタメタ言語で規定されていないとしても、そのメタメタ言語の記述によって、メタ言語の使用法が変化することはないからです。そしてメタ言語の使用法が変化しないならば、対象言語の語と文の意味(使用法)の記述もまた変化しないのです。ただし、意味論的メタ言語によって、対象言語の意味(使用法)を完全に与えることはできません。なぜなら、このメタ言語の公理系について「不完全性定理」が成り立つからです。

 ある言語の内部で「…は真である(あるいは偽)である」などの述語を用いるとき、その一部の例が必然的に矛盾を引き起こすときに、その不具合が公理系全体に広がらないようにする手立てを考えるというアプローチがあるかもしれません(そのような試みとして、クリプキの真理論、グプタとベルナップの真理論、矛盾許容論理などを挙げることができると思います)。

 ところで、タルスキーの「定義不可能性定理」の証明は明確で非の打ちどころのないものですが、

その前提となる対象言語とメタ言語の区別は、タルスキーが考えたような仕方で可能なのだろうか、という疑問があります。その疑問を説明したいと思います。

#対象言語とメタ言語の区別再考

 対象言語とメタ言語の区別は、タルスキーが考えたような仕方で可能でしょうか。タルスキーは、対象言語はメタ言語なしに成立すると考えています。しかし、言語はそれについてのメタ言及なしには成立しないのではないでしょうか。

 私たちは、自分の発話について頻繁に言及します。例えば、「何と言いましたか」「それはどういう意味ですか」「それは・・・という意味ですか」などの発話は非常に頻繁になされます。会話を進めるには、発話に言及して、何と言ったのか、どういう意味で言ったのかを確定しつつ会話を進めることが不可欠です。会話は、発話の想起によってコントロールされ構成され、発話の想起は、発話についてのメタ発話として成立します。

 問いに答えようとするときには、問いを覚えおり想起していることが必要です。問いの想起は、問いへの指示を必要とします。したがって、問答関係の中で暗黙的にメタ発話が行われており、メタ発話によって問答が成立しています。

 つまり、言語はそれについてのメタ発話なしには成立しないのです。もしこう言えるならば、メタ言語が対象言語を前提するように、対象言語もまたメタ言語を前提することになります。もし両者が、相互的な意味依存の関係にあるとすれば、両者は二つの言語ではなく一つの言語だというべきです。

 

 このことと結合しているのですが、次に<意味論的概念、「指示」「述定」「真」などは、対象言語の中の問答関係の中にすでに暗黙的に内在している>ということを指摘したいと思います。(そして、そのことと、前に論じた「真理の定義依拠説」との関係を説明したいと思います。)

122 公理系が不完全であるとき、構文論と意味論が分裂する(When the axiomatic system is incomplete, syntax and semantics split)((20240611)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

*公理系の健全性完全性の説明

ある公理系で文pを定理として証明できるとき、┣pと表記し、文pを意味論的に真であると証明できるとき、⊨pと表記します。ある公理系が健全であるとは、全ての定理が真である(┣p ⇒ ⊨p)ということです。完全であるとは、全ての真なる命題を定理として導出できる(⊨p ⇒ ┣p)ということです。

#公理系が不完全であるとき、構文論と意味論が分裂する。

命題論理と述語論理は、健全性と完全性を持ちます。つまり、真で去ることと定理であることは同値なのです((⊨p ⇔ ┣p)。

 しかし、自然数論を含む述語論理は、不完全であることをゲーデルが証明しました(1931)。つまり、自然数論を含む述語論理では、真であることと定理であることの間にずれが生じるのです。健全性は証明されているので、真であるのに証明できない式が存在するということです。

 そうすると、構文論とは別に意味論が必要になります。ここで重要になるのが、タルスキーの真理の「定義不可能性定理」です。

#タルスキーの真理の「定義不可能性定理」(1933)

この定理は、「一階算術」(加法と乗法を含みペアノの公理で公理化された自然数についての理論)の中で、「一階算術の文の真理の概念を一階算術の式で定義できない」という内容の定理です。タルスキーは、この定理を拡張して、「その定理は否定を持ち対角線補題が成立する程度に自己言及できる十分な強さを持ついかなる形式言語にも適用できる」ことを証明しました。(以上の説明には、Wikipediaの項目「タルスキーの定義不可能性定理」を利用しました。)

 手短にいえば、ある言語の内部で、その言語の文の真理について語ることは出来ないということです。ある言語の文の真理性について語るには、その言語を対象とするメタ言語が必要であり、「真である」という語もメタ言語の語彙として可能になります。このメタ言語は公理系として構成できますが、さらにこのメタ言語の文の真理について語るにはメタメタ言語が必要となり、これは反復します(参照、1944「THE SEMANTIC CONCEPTION OF TRUTH AND THE FOUNDATIONS OF SEMANTICS」(part I, section 9)

 ところで、もしこのように反復するとすれば、最初の対象言語の文の真理性はいつになっても確定しません。これは問題にはならないのでしょうか。ちなみに、ゲーデルの不完全性定理の証明では、このような反復の問題は生じませんでした。なぜなら、公理系が不完全であることが分かったとしても、つまりある命題もその否定もどちらも証明できない命題があることが分かったとしても、そのことは健全性をそこなわないからです。以上をゲーデルの「不完全性定理」とタルスキーの「定義不可能性」のとりあえずの紹介とし(もし必要になれば、そのときより詳しく論じることにします)、これらが私のこれまでの議論とどう関係するのかを考えたいと思います。

121 認識についての全体的見通し(Overall Perspective on Cognition) (20240531)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

カントは、直観の形式(時間、空間)と悟性の形式(4綱12目のカテゴリー)の結合によって認識を説明しました。これと似ているのですが、私は、問答の形式と問答の内容の結合によって認識を説明できるだろうと考えます。

(1)問答形式は、論理法則ないし推論規則を含んでいます。それゆえに、何かについての問答するとき、その答えは、論理法則や推論規則に従ったものになります。論理法則や推論規則は、問答関係の中に暗黙的に含まれているのです。

(2)問答の内容は、語の定義によって与えられます。定義には真理値はありませんが、定義のあとで、同じ発話を反復すると、それは事実についての真なる記述になります。問に対する答えの原初的なものである知覚報告の真理性は、観察語の定義に依拠すると考えられます。知覚報告のための観察語の意味(使用法)は定義宣言によって設定され、いったん定義が成立した後では、その定義を反復することが、事実についての真なる主張ないし記述となるのです。

(3)観察報告と経験法則の区別について。経験法則は、<観察報告を集めて、経験法則を想定し、それから観察報告を予測する>ために作られます。ただし、「これは赤い」という観察報告も、それが反復可能なものであるならば、法則的なものだと言えます。観察報告と経験法則の区別は、曖昧で相対的であり、文脈に依存します。これらの観察報告や経験法則は、いずれも「Xは、どうなっているのか」という形式の問いに対する答えとして成立します。

(4)理論とは、観察報告や経験法則についての「なぜこうなるのか」という問いに答えるものです。

理論(理論的命題、理論法則、理論体系)が正しいとは、経験法則を説明できる、ということです。ある経験法則を説明するために、理論を作るのですから、理論は最初からその経験法則との結びつきを持っています。つまり理論は最初から対応規則を持っており、理論の構成は、対応規則の構成から始まる、ということです。

 そして、理論語を用いた記述1から記述2への推論が可能であるとき、そして、記述1を観察報告に翻訳した観察報告1から記述2を翻訳した観察報告2への移行が経験法則によって説明できるとき、理論は、「なぜこうなるのか」という問いに答えるものだと言えるでしょう。これによって、理論は正当化されます。

 このように認識が問答形式と問答内容によって成立するとき、その説明は同時に、原子論的意味論ではなく、問答推論的意味論が正しいという説明になるでしょう。

 さて、次回から不完全性定理がこのような考察に与える影響を考えたいと思います。

120 理論法則は、対応規則を必要とする(Theoretical laws require correspondence rules) (20240525)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

観察語は、観察可能なものを表示しますが、公理化された特定科学でもちいる理論語は「観察不可能なもの」を表示し、その理論語の意味(使用法)は、特定科学の公理と推論規則によって記述されていると考えることができます。この理論体系に登場する理論文は、個別対象についての記述ではなく普遍性を持つ命題であり、(法則のように見えない文も含めて)法則です。このような理論文が世界について真であるためには、観察語や観察文と何らかの仕方で結合する必要があります。その結合関係を表現する規則を、カルナップは、「対応規則」と名付けました。

カルナップの挙げている対応規則の例には、次のものがあります。

「ある特定の周波数の電磁振動があるとすれば、一定の色合いの可視的な緑がかった青色がある」(『物理学の哲学的基礎』訳240

「気体の温度(温度計で測定され、それゆえに、さきに説明した広義の観察可能なものである)は、気体の分子の平均的運動エネルギーに比例する」(同訳240) 

このような対応規則は、規約として定義宣言されるものであり、真理値を持ちません。ただし、いったん定義宣言された後は、それが基準となるので、それは常に真となります。ただし、この対応規則は、理論法則や他の対応規則や観察文と両立不可能になることがありえます。その場合には、どれかの文を修正しなければならず、対応規則が修正されることになるかもしれません。

 カルナップは、対応規則はこのように修正可能であるがゆえに、観察語による理論語の定義だとは言えないと言います。対応規則は、必然的に修正の可能性をもつのです。しかし、どんな定義も変更の可能性をもつと考えるならば、対応規則を観察語による理論語の定義だと考えてもよいともいえそうです。この場合、このような定義によって理論の経験法則への依存関係を明示化できます。

 これに対して、カルナップは、対応規則を、観察語による理論語の定義だとは考えないのですが、対応規則が定義ではないとすれば、それは何なのでしょうか。この場合、対応規則は修正の可能性があり、理論法則や経験法則よりも、変化しやすいものだと考えています。理論を経験によるテストにかけて、修正の必要が生じた時、私たちは、理論の核心部分からではなく周辺部分から変更します。理論をできるだけ保存しようとするなら、修正の順序は、知覚、知覚報告(観察文)、経験法則、対応規則、理論法則、となるでしょう。このように、対応規則を<理論法則よりも変化しやすいもの>として考えるならば、理論語を対応規則によって定義するということはあり得ません。なぜなら、もしそのように定義するならば、対応規則が変わるときには、理論法則もまた変化することになり、対応規則が<理論法則よりも変化しやすい>ということはなくなるからです。

 対応規則を、観察語による理論語の定義と考えるか考えないかの違いは、<対応規則は理論法則と同じようにできるだけ変更せず維持すべきもの>と考えるか、<対抗規則は理論法則を維持するためには変更すべきもの>と考えるかの違いです。このように考えると、後者の方が現実的かもしれません。

 (後者を取るカルナップは科学の「道具主義」よりも、理論語の対象が存在すると考える「科学的実在論」を採用します(カルナップ『物理学の哲学的基礎』同訳262)。後者は、前者よりも、科学的実在論に親和的なのだろうと思います。)

 

 物理学者は、論理学と数学の公理系を前提として、そこに理論法則を公理として加えることによって物理学の理論の公理系をつくります。理論語や理論文の意味(使用法)は、その公理系によって示されます。この場合、理論語の意味は、公理系の中で与えられるので、推論的意味論で説明できますが、原子論的意味論ではうまく説明できないでしょう。

 科学理論が経験法則や観察文と関係を持つためには、対応規則が必要であり、理論から一定の経験法則や観察文を予測することができます。これが現実の観察文と一定することによって、理論は真であるとみなされます。この場合、理論語は対応規則によって定義されると考えることもできます。この場合、対応規則で用いられる観察語の意味は、予め定義や学習によって与えられていますが、その定義や学習は、<問答によって>あるいは<問答として>成立します。この場合、理論語の意味(使用法)もまた、<問答によって>あるいは<問答として>成立すると言えます。つまり原子論的意味ではなく、関係主義的意味論、問答推論的意味論の方が正しいように見えます。

 第92回から、問いに対する答えが正しいとはどういうことか、を論じてきました。答の正しさは、語の意味(使用法)を設定した定義に基づくと考えました。それを「真理の定義依拠説」と名付けました。112回から、それに対する反論を検討してきました。話が複雑になってきているので、次回は。これまでの議論を踏まえて、「問いに対する答えが正しいとはどういうことか」という問いに対する現時点の答えの全体構想を説明したいと思います。

119 再説:特定科学の公理体系は、観察文とどう関係するのか (Restatement: How does the axiom system of a specific science relate to observation statements?) (20240520)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

前々回に次のように書きました。

<私たちは、理論文にもとづいて、観察文(初期条件)から観察文(結果)を予測する。その予測された観察文を、現実の観察文でチェックする。このチェックに基づいて、理論文を維持したり修正したりする。これを繰り返すことによって、安定した理論文を得て、最終的にそれを公理系にまとめる。>

この説明を変える必要はないのですが、カルナップの『物理学の哲学的基礎』に依拠して、特定科学の公理体系と観察文の関係をもう少し詳しく考えたいと思います。

*「観察可能なもの」と「観察不可能なもの」の区別

 カルナップは「観察可能なもの」と「観察不可能なもの」の区別は、哲学者と科学者によって異なると指摘します。哲学者は、例えば、摂氏80度の温度とか、93.5ボンドの重さを観察可能なものとは考えません。なぜなら、それらは直接的に知覚できないからです。直接的に知覚できるのは、水銀柱が80のメモリを指していること、秤の針が93.5を指していることなどです。これに対して、科学者は、簡単な手続きで測定できるこれらの量を観察可能なものと考えます。

 「観察可能なもの」と「観察不可能なもの」の区別は哲学者と科学者にとってこのように異なるのですが、しかし、どちらにとっても、この区別は明確に線引きできるものではなく、暫定的なものです。カルナップは、「この連続体を区分するどんな鮮明な線も引くことはできない」(カルナップ『物理学の哲学的基礎』(沢田充茂、中山浩二郎、持丸悦郎訳、岩波書店、1968、p. 232)と言います。彼によれば、哲学者にとっても科学者にとっても「観察可能なものと観察不可能なものとを区別する線は、高度に恣意的である」(同所)。

 この区別に基づいて、カルナップは「経験法則」と「理論法則」の区別を次のように導入します。

*「経験法則」と「理論法則」の区別

「経験法則は感覚によって直接的に観察可能であるか、あるいは比較的簡単なやり方で測定しうるか、そのいずれかの用語を含む法則である。」これは、「観察や測定によって見いだされた結果を一般化して獲得されたもの」(同所)です。例えば、「全てのカラスは黒い」「気体の圧力、体積および温度を関係づける法則」「電位差、抵抗および電流の強さを関連付けるオームの法則」などです。これらの経験法則は、「観察された事実を説明したり、未来の観察可能な事象を予測したりするのに使われる」(同所)ものです。

 これに対して、「理論法則」は、観察不可能なもの、「分子、原子、電子、陽子、電磁場や、そのほかの簡単かつ直接的方法では測定できないような諸存在者」(同訳、233)についての法則です。

「経験法則は観察された事実を説明し、また[観察可能であるが、まだ]観察されていない事実を予測するのに役立つ。同じようなかたちで、理論法則は、すでに定式化された経験法則を説明し、新しい経験法則の導出を可能にするのに役立つ」235

「経験法則は個々の事実を観察することで正当化できる。しかし、理論法則を正当化するには、それと対比できるような観察はすることができない。なぜなら、理論法則で言われている諸存在は、観察不可能なものだからである。」235

#反証主義あるいは予測誤差最小化メカニズム((the prediction error minimization mechanism))

理論法則は、「事実の一般化」ではなく、「仮説」である。理論法則から導出された経験法則の験証が、「理論法則の間接的な験証をあたえる」(同訳237)。つまり、理論法則は、経験法則によってテストされます。また経験法則も観察報告によってテストされます。これは、単称命題から全称命題を導出できないということ、また、観察報告には全称量化表現が含まれていないということのためです。

このような反証主義は、カテゴリー「人はなぜ問うのか」の49回~62回で論じた、ヤコブ・ホーヴィ(Hohwy)著『予測する心』(原著2013)(佐藤亮司監訳、太田陽、次田瞬、林禅之、三品由紀子訳、勁草書房,2021)の「予測誤差最小化メカニズム」に似ています。ポパーの反証主義は、この予測誤差さ最小化メカニズムの一部として理解できるだろうと思います。つまり、予測誤差最小化メカニズムが、理論法則と経験法則の間、経験法則と知覚報告の間、知覚報告と知覚の間、知覚と感覚刺激の間、などに働いていると考えることができます。 ところで、理論法則と経験法則をこのように関係づけるためには、「対応規則」によって理論語と観察語を結びつける必要があります。これについて次に論じたいと思います。語の意味についてのこの議論は、パラダイム論に関わってきます。

118 誤り発見 (finding a mistake) (20240514)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

*誤り発見

これまでの議論では、ゲーデルの不完全性定理を考慮することを忘れていました。

<論理学や公理系を持つ特定科学では、公理系によって、用語の意味を完全に規定できる>とこれまで述べてきました。しかし、完全性が証明されている命題論理と一階述語論理については、これが成りたちますが、これより複雑な公理系については、これは成り立ちません。なぜなら、ゲーデルの不完全性定理によって、真であるけれども定理とならならい文(式)があり、その文(式)の使用法は、公理系では決定されていない、ということが証明されたからです。このゲーデルの不完全性定理を考慮するとき、論理学と数学と(公理化可能な)特定科学についてのこれまでの議論を修正する必要があります。ただし、これについての考察は、手短に済ますことができないので、現在の進行中の話を区切りの良いところまで進めてから、不完全性定理の考慮に戻りたいと思います。  区切りの良いところとは、特定科学の公理系の話、公理化できない科学の文の意味と真理性の話、日常言語の意味と真理性の話、を問答推論の観点から検討して、それを真理の定義依拠説と関係づけて、原子論的意味論ではない仕方で、真理の定義依拠説を擁護することです。

117 特定科学の公理系について(About the axiom system of specific sciences)(20240427)

 幾何学については、無定義術語を導入して、公理系によってその意味を与えることができます。幾何学と同様に、数学の他の分野についても、無定義術語を導入して、公理系によってその意味を与えることができるでしょう。

 では、物理学についてはどうでしょうか。

 論理学と数学の公理系に特定科学の公理を加えて、推論規則には、論理学の推論規則だけを使用するとき、特定科学の理論の公理系を作ることができます。特定科学のこの公理系は、複数の仕方で構成できます。

 構成方法1:推論規則の中に特定科学の用語を使用しなければならないものがあるならば、その推論規則の前提と結論から「前提⊃結論」という条件文を作り、これを特定科学特有の公理とすることができます。この場合、推論規則としては論理学の推論規則で充分です。

 構成方法2:特定科学の用語を含む公理をすべて、推論規則に書き換えることもできます。この場合、公理としては、論理学の公理だけになります。さらにもし論理学も自然推論系にすれば、公理0個で、推論規則だけからなる特定科学の自然推論系を作ることができます。

 この特定科学の公理系について、次のような原子論的説明と関係主義的説明が可能です。

#特定科学の公理系の原子論的説明

 要素主義的にまず用語の意味を定義し、それに基づいて公理と推論規則を正当化し、それらに基づいて他の命題を定理として証明します。

 この場合、用語の定義は、公理や推論規則を正当化することに尽きています。その特定科学の内部で語られるすべてのことは公理と推論規則から導出されるはずです。そうだとすれば、その用語で語られるすべてのことも公理と推論規則から導出されるはずです。したがって、用語の意味から、公理と推論規則では語れないことを語ることできません。用語の意味は公理と推論規則を正当化することに尽きているはずです。

#特定科学の公理系の関係主義的説明

 他方で、特定科学の用語の使用法(意味)は、公理で完全に記述され、規定されていると見ることができます。この場合には、原子論的に、用語の意味を定義して、それによって公理を正当化する必要はありません。逆に非原子論的(関係主義的)に、公理が用語の意味の記述の全てです。公理系によって、用語の文脈的定義が与えられていると言うこともできます。

#特定科学の公理体系は観察文とどう関係するのか。

 ①<特定科学の公理体系によって、その用語(理論語)の使用法(意味)を完全に記述することができる>。しかし他方では、②<特定科学の理論語の使用法は、観察語をもちいた観察文と関係しなければならない>。さもなければ、それは観察可能な事実と関係を持ちえないからです。理論文と観察文は、両立可能でなければなりませんが、他方では矛盾することも可能でなければなりません。もし矛盾することが不可能ならば、理論は観察と無関係であることになるからです。<理論文と観察文が矛盾しえるためには、理論文から観察文を導出し、その観察文が、現実の観察文と矛盾することが可能であることが必要です>。

この①と②がともに成り立つことは次のようにして可能です。

特定科学の公理系のなかでは、理論語を含む真なる理論文は、ほぼすべて公理系で証明可能です(「ほぼすべて」という限定がつくのは、ゲーデルの不完全性定理が成り立つので、真であってもその公理系で証明不可能な式があるからです)。この公理系の中には、観察語やそれを含む観察文は、登場しません。しかし、私たちは理論文から観察文を導出することができます。これは、全称文からの単称文の導出として行われます。ただし、単称文から全称文を導出することはできないので、観察文から理論文を導出することはできません。

 <私たちは、理論文にもとづいて、観察文(初期条件)から観察文(結果)を予測する。その予測された観察文を、現実の観察文でチェックする。このチェックに基づいて、理論文を維持したり修正したりする。これを繰り返すことによって、安定した理論文を得て、最終的にそれを公理系にまとめる。>

このようにして①と②が共に成り立ちます。 ①と②が共に成り立つことを説明するとき、特定科学の公理系の原子論的説明よりも関係主義的説明の方が有効だろうと考えますので、次に、それを明確にしたいと思います。

116 論理学の公理と推論規則は、問答関係に依拠して設定できる (Axioms and rules of inference in logic can be established based on question-answer relationships.)(20240421)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

すでに111回「問答関係にもとづいて推論規則を正当化する」で説明したことなのですが、問答関係は、暗黙的な仕方で論理学の公理や推論規則をすでに含んでいます。したがって、論理学の公理と推論規則は、問答関係に依拠して設定できるのです。以下は、111回の記述と重複しますが、もう一度説明します。

 「pですか」という決定疑問の問いは、答えとして、「はい、pです」「いいえ、pではありません」のいずれかを想定しています。そして、その両方であることはないこと、またその両方でないことこともないこと、を想定しています。つまり、「pですか」という形式の決定疑問は、「pであるかpでないかのいずれかである」(p∨¬p)という排中律、「pでありかつpでない、ということはない」(¬(p∧¬p))という矛盾律をすでに想定していると言えます。また「問いのなかの「p」と答えの中の「p」が同一であること」(p≡p)という同一律もまた想定しています。

 「Sは何ですか」という補足疑問の問いは、もし答えが「SはFです」であるならば、答えは「SはFでない」ではないこと、「「SはFである」かつ「SはFでない」ということはない」(矛盾律)また「「SはFである」あるいは「SはFでない」のいずれかである」(排中律)を想定しています。また「問いの中の「S」と答の中の「S」が同一の対象を指示すること、つまり「SはSである」(同一律)を想定しています。

 

では、推論規則MPについてはどうでしょうか。111回でのこれについて説明は、全く不十分だったので、ここでは、別の仕方で論じたいと思います。注目したいのは「どうしたら」や「なぜ」の問答です。

 実践的推論は次のような形をとることが多いです。

  「どうしたら血圧がさがるだろうか」

  「塩分を控えるならば、血圧が下がる」

  「塩分を控えよう」

より一般化すれば次のようになります。

  「どうしたらAを実現できるだろうか」

  「Bならば、Aを実現できる」 

  「Bしよう」

・理論的な問答でも、疑問詞「どうしたら」や「なぜ」を用いる問答では、次のような形をとります。

  「なぜ道路が濡れているのか」

  「雨が降ったら、道路が濡れる」

  「雨が降ったからだろう」

より一般化すれば次のようになります。

  「なぜpなのか」

  「rならば、pである」

  「rであるから、pである」

このように、「どうしたら」や「なぜ」の問いは、p、p⊃r┣rという推論形式で答えることになることを想定しており、MPを内包していると言えます。

#では、問答関係と推論規則はどちらが先行するのでしょうか。

<問答関係が、暗黙的に公理や推論規則(同一律、矛盾律、MP)を前提している>のでしょうか、それとも<問答関係によって、公理や推論規則の妥当性(正しい使用法)が成立する>のでしょうか。

・もし推論規則を前提して、それにもとづいて問答関係を説明するのならば、その場合、問答関係の説明は原子論的なものになります。

・もし問答関係を前提して、そこから推論規則を説明するのならば、その場合、問答関係の説明は非原子論的(関係主義的)なものになります。

この前者、原子論的な説明順序では、推論は問答関係なしに成立することになりますが、しかしそれは不可能です。なぜなら、所与の前提から論理的に帰結する結論は複数ありえるので、それから一つを選択しなければ、現実の推論は成立しないのです。そしてその選択は、問いに対する答えを見つけることとして行われると考えることができるから、推論はむしろ問答関係に依存するのです。

したがって、後者の非原子論的(関係主義的)理解が正しいでしょう。つまり、<問答関係によって、公理や推論規則の妥当性(正しい使用法)が成立する>のです。

さて、論理的真理について定義依拠説をとるとしても、一見すると原子論的に見えるかもしれませんが、論理学の公理系についてのこのような問答関係主義的説明と両立すると考えます。

次に特定科学の公理系、また日常生活の推論の考察に向かいたいと思います。