20 完全な相互承認の不可能性(Impossibility of complete mutual recognition) (20250815)

[カテゴリー:平和のために]

 今回は、「B2:完全な相互承認の不可能性」の証明を試みたいとおもいます。

 二人の人間がある事柄について完全に合意するということは、不可能です。なぜなら、合意したと思っていても、つねにズレが生じる可能性があるからです。特定の事柄に限定せずに、二人の人間が何らかの事柄について合意するということであれば、それは可能です。ただしその合意が、ずっと持続するという保証はありません。

以上で、A1~B2の説明(証明?)を終わります。

  A1:全面的懐疑主義の不可能性

  A2:社会の全面的な分断は不可能である(社会は底割れしない)。

  B1:規則遵守問題の解決不可能性

  B2:完全な相互承認の不可能性

これらは全体で、完全な懐疑主義も完全な合意も、どちらも不可能であることを主張しています。

・A1とA2は、主張と対話の必要条件があることを主張しており、主張や対話の必要条件は主張や対話の超越論的条件となります。

・B1とB2は、主張と対話の十分条件が存在し得ないことを主張しています。

この4つのテーゼから(とりあえず)次のことが帰結すると思います。

(1)私たちは、他者によって言語の規則に従うことができ、他者によって自問自答が可能になる。

(2)社会は、分断の可能性を本質的に持っており、それを排除することはできない。

(3)社会は、分断の可能性を持つことによって、コミュニケーションの可能性をもつ。

これらを踏まえたうえで、平和のための方法を考えなければならないと思いますが、とりあえず、この3つについて考えてみたいとおもいます。

19 規則遵守問題の解決不可能性について(On insolvability of the rule-following problem (20250814)

[カテゴリー:平和のために]

(更新がおそくなりすみません。この一ヶ月ほど、ロバート・ブランダムの規則遵守問題と相互承認論についての研究発表の準備をしていました。一応の準備ができたので、ブログを再開したいと思います。)

前回のA1とA2の主張は、問いの成立および問の共有が成り立っていることがぜんていされていました。それに対して、B1は問の成立を否定し、B2は問の共有を否定しています。今回は、前回述べた「B1:規則遵守問題の解決不可能性」を説明し、検討したいと思います。

発話が有意味であるためには、発話が言語の規則に従っていなければなりません。

 1,まず、音がその言語の音韻体系に基づいていなければなりません。文字の場合には、書かれた模様がその言語の文字体系に基づいていなければなりません。

 2,つぎに、それらの音や文字の並びが、その言語の語になっていなければなりません。

 3,さらに、その語の並びが、その言語の文法に従っていなければなりません。

これらは、数列がある規則に従っているということと似ています。そして、与えられた数列と一致する規則が無数にあるので、与えられた数列がどの規則に従っているのかを決定することはできません。

規則遵守問題がこのような問題だとすると、発話が有意味であるためには、発話は言語の規則に従っていなければならないのですが、その言語の規則を特定できない、あるいは言語の規則を明示的に表現できないので、それに従うことができない、という問題になります。

言語の規則を定義することはできます。しかし、その場合には、規則の適用の仕方について上と同じような問題が生じます。そこで、さらに規則適用の仕方の規則を定義することができます。

しかしここでも同じ問題が発生し、これを無限に繰り返すことになります。これが「規約主義のパラドクス」と言われるものです。

わたしたちは、言語を規則的に用いているが、その規則性は、自然的性向のようなものであると考えるならば、<言語の規則に従っていること>と<言語の規則に従っていると信じていること>を区別できません。この場合には、「自分が正しいと思ったことが正しいことになり、正しくないことの区別が無効になります」(ウィトゲンシュタイン)。ブランダムによれば、これを区別するには、他者の視点、あるいは時間的に異なる視点が必要である。

他者の視点に依拠して、<言語の規則に従っていること>と<言語の規則に従っていると信じていること>を区別するためには、他者承認が必要です。

そこで、次に「B2:完全な相互承認の不可能性」について考えたいと思います。

18 社会の構成と社会の分断(Social construction and social division) (20250708)

[カテゴリー:平和のために]

最近、「分断」という言葉がよく使われます。世界にも日本にも分断が広がっています。

ウクライナとロシアの戦争、イスラエルとパレスチナの戦い、イスラエルとイランの戦争、EUにおける極右の台頭、アメリカのトランプ旋風、これらの「分断」をどうとらえ、どう克服したらよいのでしょうか。この今日のコミュニケーションの困難は、冷戦時代のコミュニケーションの困難とは、少し違っているように思います。それを少しづつ考えたいと思います。

まず、次のA1とA2、B1とB2を基本的事実として、押さえておきたいと思います。

A1:全面的懐疑主義の不可能性

懐疑は、問いによって成立するが、問いは前提を必要とするから、すべてを同時に問うことは出来ない。

A2:社会の全面的な分断は不可能である(社会は底割れしない)。

社会が分断されるためには、意見の対立が必要である。そして、意見の対立は、問いの共有を前提とする。それゆえに、社会の全面的な分断は不可能である。

*社会が底割れしないのは、対立する限りは問答の共有があるからである。

規範の対立があるとき、そこには問いの共有がある。問いの対立であれ、答えの対立であれ、事実の対立であれ、規範の対立であれ、対立があるところには、問いの共有がある。対立があるということは、議論が始まっているということである。

これと対立する次の主張も可能である。

B1:規則遵守問題の解決不可能性

 語の使用規則を遵守していることの「完全な」正当化は不可能である。

B2:完全な相互承認の不可能性

このB1とB2について、次に説明します。

87 生成文法の規範性(Normativeness of generative grammar)(20250630)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

(伝えたいことができたので、久しぶりにコノカテゴリーに戻ってきましたが、今回のトピックは、偶然にも前回話題にしていた発話の統制原理と構成原理、というトピックとつながっています。)

今回は、生成文法の規範性がどこから生じるのかを説明したいと思います。まず、私の質問とそれに対するAIであるcopilotの答えを掲載します。

入江の質問「生成文法は生得的な規則であるのに、どれも「・・・すべである」という規範的な規則になっているのは矛盾しないのでしょうか。」

copilotの答え「興味深い視点ですね!生成文法は 生得的な言語知識 を前提としていますが、それが「規範的な規則」として表現されることに矛盾を感じるのはもっともです。生成文法の基本的な考え方は、「人間の脳には普遍文法(Universal Grammar)が備わっており、それを基盤として個別言語が習得される」というものです。つまり、これは 記述的な理論 であり、「こうあるべき」という規範を示すものではなく、「人間の言語能力がどのように機能しているか」を説明するものです。しかし、生成文法の研究では、言語の構造を明確にするために「句構造規則」や「統語規則」を定めます。これらの規則は 理論の枠組みとして定義される ため、結果的に「~すべきである」という表現が使われることがあります。これは 理論の明確化のための便宜的な表現 であり、規範文法のように「正しい言語使用を指導する」ものではありません。つまり、生成文法は 生得的な言語能力を記述する理論 であり、規範文法のように「正しい言語の使い方を指導する」ものではないため、根本的な矛盾はないと考えられます。」

生成文法は、規範性を持たないが、「理論の明確のために便宜的な表現」として規範的表現が使われるのだという説明です。この答えに間違いはないのですが、問題は、なぜそのような「規範的表現」をすることになるのか、ということです。そこで考えた私の答えは、次のようなものです。

入江の答え:

生成文法は構成規則であり、それに従わなければ、発話が成立しないというものです。したがって、それにいはする発話は、無意味であり、無意味な発話をすることは、真でも偽でもなく、正しくも不正でもありません。したがって、生成文法には、それを守るべきだという規範性はありません。

 他方で、私たちは、間違った語の使い方を訂正しようとします。それは、間違った語の使い方が広まると、言語が乱れ、さらに進むと有意味な発話ができなくなるからです。文法は構成規則であり規範性を持たないのですが、文法によって一旦言語の使用が可能になると、文法に従わうことは、規範性を持つのです。文法に従うことは義務になり、それに反することは禁止されるのです。

 同じことが問答関係にも成立します。問答関係は、意味論的関係であり、二つの発話は問答の関係にあるために必要な条件は、問答の構成原理であり、規範性を持たないのですが、一旦問答関係が成立すると、その関係は規範性を持つのです。問いに有意味に答えること、正しい答えを答えることは、責務となり、無意味な答えをかえすこと、誤った答えを返すことは、禁止されるのです。

161 時間と空間の規則性と規範性(Regularity and normativity of time and space)(20250626)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

概念の使用は、規則性をもち、それゆえにそこから規範性も生じるのですが、「概念」と区別されることが多い「直観」もまた規則性をもち、それゆえに規範性を持つだろうと推測します。これをどのように説明できるか、思案中ですが、ウィトゲンシュタインの次の発言を見つけました。彼は、数列について次のように述べています。

「数列のはじめは無限に敷かれた眼に見えない軌道の、眼に見える一部分なのだ、という考えがどこから来たのか。そう、規則の代わりにわれわれは軌道を考えることができよう。そして、際限なき規則の応用が無限に長い軌道に対応する。」(『哲学探究』§218)

鉄道の軌道をどこまでの伸ばすことを想像できるように、私たちは、数列をどこまでも伸ばすことができると彼は言うのです。ここで彼は、軌道の比喩によって、数列を考えているのですが、私たちは、数列の比喩によって、直線をどこまでも伸ばすことを考えられます。数列を続けることが際限なき規則の応用であるのと同様に、時間や空間上での延長もまた際限なき規則の応用だと考えられます。私達は、直線をどこまでも伸ばすことができますは、この反復は、直線を引くという規則の応用なのです。私たちは、線を引くことによって空間や時間を理解できます。つまり空間と時間の理解の中に規則性が含まれているのです。

 「この直線をもっと伸ばすことができる」という考えの中には、「この直線をもっと伸ばすことができるはずである」という必然性の考えも含まれています。また「この直線をもっと伸ばすことができると考えるべきである」という規範性の考えも含まれています。これが正しいとすると、私たちが、時間空間の中で思考したり行為したりするとき、私たちはすでに規範性のなかにいるのです。

 ここから、時間空間論をどう展開するかは、検討課題ですが、認識論を考えるときに、時間空間を考えることは基礎的な作業になるので、時間空間の規則性と規範性の考察は避けて通れません。 (最近思うのですが、現代社会は「分断の時代」に向かいつつあるような気がします。そこで社会の「分断」について、別のカテゴリーに移って少し考えたいと思います。ただし、規則遵守問題はそこにもつながっています。)

 160 直観の規則性と規範性(復習)(Regularity and normativity of intuition (review))(20250616) 

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

(前回の話しには、曖昧な表現があったので、再説します。)

例えば、カエルは、舌を伸ばしてハエを捕まえる能力を持っていますが、そのことを意識してはいません。動物は、反射や条件反射によって、反復的で規則的行動をすることが出ますが、反復していることを意識してはいません。人間の行動には、反射や条件反射もありますが、人間の場合には、反復的で規則的であり、かつ意図的な行為があります。このような行為の場合には、行為を反復するだけでなく、反復していることを意識しています。ただし、この意図的で自己意識的な反復的な行為の中には、<規則の表象に従って行っている行為と、規則的に行っており、反復していることも意識しているのですが、その規則の表象を持たないで反復している行為>があります。例えば、「は」と「が」の使い分けのような行為です。語「赤い」を使用する時や、自転車に乗る時も、箸を使う時も、規則の表象を用いてはいません。前回考えていたのは、このような三種類の行動ないし行為です。)

 ところで、この三種類の中の、中間の行為、つまり<規則の表象を伴わない規則的行為>の場合、私たちはそれをある種の技能(ノウ ハウ)として行っていると言えます。そして、技能知は反復可能であり、しかも反復であることの気づきを伴うとすれば、そこには反復性、規則性から外れたときの気づきも可能であり、そこに正しく反復べきであるという規範性が生じます。技能は成功することも失敗することもあるので、技能知の規則性の意識には、規範性の意識が生まれます。

 以上は、前回考えていたことを、繰り返しただけです。

 前回の最後に、ブランダムは、カントが概念の使用の規範性に気づいたことを、カントの画期的な仕事だと高く評価したが、カントが概念と対比した直観についても、規則性や規範性を見つけることができるのではないと述べました。その時考えていたのは、直観の規範性は、技能知の規範性の間には、密接な関係があるのではないか、ということでした。

 そこで前回のup以後、直観の規範性についての考えていたのですが、現代においてカントにおける「直観」概念をそのままの形で議論することが難しいということがわかってきました。  まず、知覚のエナクティズムや知覚のアフォーダンスを考えるとき、それらの知覚は概念的に構成されされているということを、カント的な直観と概念の二分法で説明することが難しいということがあります。ここで気になるのは、セラーズとマクダウェルの議論です。彼らがカントによる直観と概念の二分法についてどう考えているのか、あるいは直観の規範性についてどう考えているのか、を調べるために、彼らの本を読み直したいとおもいます。読み直しつつ、紹介し検討することになりそうです。

159 技能知と規範性(knowing-how and normativity)(20250611)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

前回は、規則遵守行為が、技能知に基づくことを説明しました。今回は、技能知もまた規範性を持つことを説明したいと思います。

技能知(ノウハウ、know how)は、ある種の実践的能力です。語「赤い」を適切に使用する能力を、ここでは自転車に乗る能力と同じような種類の能力として理解しています。

このような実践的能力は、その行為を反復して行うことができる能力です。しかも、その反復が正しく反復されている事が必要です。そのためには前回の行為と今回の行為が似たものであることに気づいており、その気付きが正しいことも気づいている必要があります。

さもなければ、「私は語「赤い」を使える」とか「私は自転車に乗れる」と信じることはできません。ある行為をするだけでなく、ある行為をある行為としてすることができる、ということが必要です。

ただし、ある反復的な行動能力を持っていても、それを意識しているとは限りません。例えば、カエルは、下を伸ばしてハエを捕まえる能力を持っていますが、そのことを意識してはいません。そのような行動能力を技能知(ノウハウ)とは特別しておきたいと思います。ただし、このノウハウは、反復可能であり、従って規則性を持つのですが、しかし、規則の表象に従って行為する能力ではありません。語「赤い」を使用する時、何らかの規則の表象を用いてはいませんし、自転車に乗るときも、規則の表象を用いてはいません。

「「赤い」は色を指す」とか「自転車に乗るにはサドルにまたがって、ペダルを踏混なければならない」という規則を表彰しているしているかもしれません。しかし、それらの規則の表象は、それだけは、語「赤い」の使用や自転車に乗ることを可能にするには全く不十分です。技能知は反復可能であり、しかも反復であることの気づきを伴うとすれば、そこには反復性、規則性から外れたときの気づきも可能であり、そこに正しく反復べきであるという規範性が生じます。行為の規則性にその規則性の意識が伴う時、規範性の意識が生まれます。

 

 ところで、私が規範性について考え始めたきっかけはブランダムの議論なのですが、ブランダムは、カントが概念の仕様の規範性に気づいたことを、彼の画期的な仕事だと高く評価しています。そのことに異議はないのですが、カントが概念と対比した直観についても、規則性や規範性を見つけることができるとおもいます。

 直観の規則性と規範性について次に論じたいと思います。

158規則遵守問題と技能知(Rule-following problem and know how)(20250531)

(150回から、宣言の問答を念頭に置きながら、語の命名や定義の問答における照応を考えてきました。照応が非常に基礎的なものであることは予想どおりで、それがまた解明が難しいことの予想通りでした。語の定義や学習における照応の問題は、共同注意、共同基盤、背景基盤などに関係していることもわかりました。そして前回技能知との関係にも触れました。今回は、言語使用のすべての局面が、つまり規則遵守行為のすべてが、技能知に依拠することを説明したいと思います。)

 言語を使用するときには、その使用規則に従わなければなりません。さもなければ、言語の使用にならないからです。言語の使用規則は、言語の構成規則であって、それに従うことで言語は成立するからです。言語を使用するためには、言語の使用規則に従わなければならりません。それは、ちょうど、将棋をしたければ、将棋の規則に従わなければならないのと同じです。

 しかし、言語の使用規則に従うことは、一人ではできないおそれがあります。それが、ウィトゲンシュタインが指摘した「規則遵守問題」です。

 言語行為においては、規則に従っていても、規則の表象に従っていないことがあります。例えば、日本語の「は」と「が」の区別、英語の定冠詞と不定冠詞の区別を、人々は規則的に行っているのですが、しかしその規則を明示することは難しいとされています。

 このような場合には、たとえその規則を明示することが出来なくても、その規則は規範性を持っているといえます。日本語話者は、その規則に従っているときと反しているときを判別できますし、英語話者は定冠詞と不定冠詞の使い分けができます。この判別ができることは、具体的には次のような問答で確認できます。「この場合「は」でいいのですか」という問いに、「はい、よいです」とか「いいえよくないです」と正しく答えることができる。これは命題知に基づいた推論ではないので、「技能知」の一種だと言えます。この技能知があれば、私達は規則の表象を持っていないくても規則に従うことができるのです。しかし、部屋に独りでいるときには、これについて規則に従っていることと、規則に従っていると真ていることの区別が出来ないでしょう。ウィトゲンシュタインの例、ある感覚を感じたときにカレンダーに「E」と書く例は、これと同じく、規則の明示的な記述を持たない場合です。なぜならその感覚を明示的に記述できないからです。

 では、規則の表象を持っている場合には、つまり規則の明示的な記述を持っている場合には、独りでいても、その規則に従っているかどうかを判定できるのでしょうか。例えば、ウィトゲンシュタインの別の例、「1000+2」の場合は規則を明示化できるのでかもしれません(たとえば、ペアノの公理系のような仕方で)。ただし、たとえ規則を明示化できても、その規則を適用する規則は明示化されておらず、技能知になっています。したがってこの場合にも、独りでは、規則に従うことと、規則に従っていると信じていることの区別が出来ません。

 このことは、言語の規則の場合だけでなく、行為の規則一般にあてはまるでしょう。行為の規則を明示できたとしても、規則の適用の規則を明示できなければ、規則の適用は技能知に頼らざるをえません。そしてどのような行為でも、行為の規則、の適用の規則、の適用の規則の、…と続ければ、最終手には、明示化できない規則にたどり着きます。どのような行為であっても、行為の規則に従うことは最終的には技能知に依拠することになります。

 したがって、言語の規則に従うこともまた、最終的には技能知に依拠することになります。それゆえに、独りでいるときには、規則に従っているのか、従っていると信じているだけなのか、区別できないことになります。

 

 この「技能知」と、言語の規則の「規範性」とはどう関係するのでしょうか。それを次に考えたいと思います。

157 語の使用における共同注意と共有基盤あるいは背景基盤)(Joint attention and common ground (or background) in word use)(20250519)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

これまで見てきたように、語の定義とその学習の段階では、語の使用は、<その語の前の使用を参照し、照応すること、つまり前の使用に参照し、その発話で表示していたものを表示する>という仕方で成立しています。では、このような語の学習プロセスが修了するとは、どういうことでしょうか。それは、ある語の先行する使用例を想起しなくても、その語を正しく使用できるようになるということです。では、このとき語を使用するあたって、何を参照しているのでしょうか。

 語「赤い」の使用について言えば、学習段階では、先行する「これは赤い」という正しい発話の指示対象の色を想起して、現在の「これは赤い」の正しさを、現在の指示対象の色に関して判定していたのに対して、学習修了後は、先行する個々の使用例ではなく、他のものに依拠することになります。この他のものとは何でしょうか。

 学習プロセスとは、別の観点から見れれば、教える者の理解と、生徒の理解が擦り合わせて同一のものにするというプロセスです。語の使用法を学習するとは、生徒の語の使用法の理解が教師のそれと同一のものになり、その理解を共有するということです。この学習のためには、「赤い」の使用法に対する共同注意が必要です。

#語の学習と共同注意

 大人が机の上の一個のリンゴに注意を向けているのを、幼児が見て、幼児も亦そのリンゴに注意を向けるときに、共同注意が成立します。幼児は大人の視線がリンゴに向かっていることを見て、自分もまたそのリンゴに視線を向けます。このとき、幼児は、大人と自分が共にリンゴを見ていることを理解しています。

 厳密に言えば、ここで「共同注意」が成り立つためには、大人も亦、幼児がリンゴを見ていることに気づいていることが必要であり、大人も、幼児と自分が共にリンゴを見ていることを理解していることが必要です。さらにそのことを幼児も大人も理解しており、さらにそのことを幼児も大人も理解しており、…という事態も成立している場合もあります。

 このような共同注意は、照応に似ています。独話の中での照応ではなく、対話の中での照応関係は、このような共同注意に似ています。Aが「これは赤い」といい、Bは「それは赤いですか」と問い、Aが「はい、これは赤いです」と答え、Bは「わかりました。それは赤いのですね」とAの答えを確認するとします。このような問答でBが、Aから「赤い」を学習するとき、Bが使用する「赤い」はAが使用する「赤い」を照応しており、Aがいう「赤い」が表示するものを表示しようとしています。それは丁度、幼児が大人が視線を向けるものを見ようとするのと同じです。(照応と共同注意との類似性は、固有名の学習の場合のほうがより明白ですが、普遍的対象や普遍的性質や普遍的関係を表す普遍名詞、形容詞、動詞、などの学習の場合にも、成り立ちます。)

#学習後の共同注意と共有基盤(あるいは背景基盤)

学習後の語の使用では、語の使用法はすでに共有されており、「共有基盤」(これは会話参加者に共通の背景知識である)の一部になっているので、「これは赤い」という「赤い」の使用を行うとき、「共有基盤」の中の「赤い」の一般的な使用法に依拠しているといえるでしょう。これはサールの言う「背景基盤」(これは非志向的であるといわれる)に属するのかもしれません(サール『志向性』第7章、Stalnaker, Context )。

会話の中で一方が「これは赤い」というとき、相手はその発話に注意し、両者はその発話に共同注意します。「これは赤い」や「赤い」の理解は、おそらく技能知(know how)となります。それは、「これが赤い」が成り立つ場合と成り立たない場合を判別する能力、「赤い」の使用が適切である場合と不適切である場合を判別する能力です。この理解は、会話の中で「これは赤い」が成り立つかどうかの判断、会話の中で「赤い」の使用が適切であるかないかの判断が成り立つための前提となるのものです。

語の使用法を共有することは、技能知を共有することです。言語の使用法の共有は、技能知の共有、行為の仕方の共有の一種であることになります。問答ができるということも、技能知の一種だと言えそうです。これについて、次に考えたいと思います。

156 先行するトークンを照応するトークンとタイプに遡るトークン(Tokens that correspond to the preceding token and tokens that refer back to the type.) (20250510)

 前回話したように、照応は、先行詞と照応詞が、異なるタイプのトークンである場合と、同一タイプのトークンである場合(例えば、固有名のトークンが、先行するトークンに照応する場合)に区別できます。

 ところで、<すべての語のすべてのトークンは、最初にその語を言語の中に導入したとき(命名したり、定義したとき)トークンを照応し、さらにその照応の照応の…というように照応の連鎖があるというように、最初のトークンにまでさかのぼる照応の連鎖がある>と推定できると、前回書きました。それに基づいて、<そのような照応の連鎖を思い出すことができないトークン>を「最広義の照応関係」と名付けました。照応の連鎖はあるはずだが、それを思い出すことは出来ない場合です。しかし、その推定は正しかったのでしょうか。全てのトークンは、たとえそれを忘れていても、最初のトークンにまで遡る連鎖を持つのでしょうか。

 私たちが語「リンゴ」を使用するとき、そのトークンは、最初のトークンに遡れないどころか、一つ前の先行詞にも遡れません。そのトークンは、タイプ「リンゴ」のトークンとして発話されているだけであり、先行するトークンに照応していないように思われます。

 この場合、私たちは「リンゴ」の意味に基づいて、「リンゴ」を使用していると思っています。私が語「リンゴ」の意味を知っているとは、私が語「リンゴ」の使用法(つまり、「リンゴ」を含む多くの実質問答推論)を知っているということであり、語「リンゴ」の意味に基づいて、語「リンゴ」を使用するとは、それらの実質問答推論と両立可能な仕方で、「リンゴ」を使用することです。

 語の使用が、前の使用への照応によって行われるのではなく、その語の使用法という一般的規則に依拠して行われる場合があります。「リンゴ」の場合、例えば「リンゴは、丸くて赤くて甘い」という総称文が、「リンゴ」の使用法を表現していると考えることもできます。この総称文は、「もしあるものがリンゴならば、それは丸くて赤くて甘い」という条件文で言い換えられれ。さらに「あるものがリンゴである。ゆえに、それは丸くて赤くて甘い」という実質推論で言い換えられます。

このことは、語「リンゴ」の使用が、それ以前の使用の照応であるということと、どう関係しているのでしょうか。

 語の学習についてはこれまで何度も述べてきたことですが、「リンゴ」の語を学習するとき、「これはリンゴですか」と対象について問い、「はい、それはリンゴです」あるいは「いいえ」それはリンゴではありません」と答えることを学習し、新しい対象についても、この問いに自信をもって正しく答えられるようになった時、「リンゴ」という語の学習が修了したと言えます。まだ自信をもって正しく答えられない段階で、「これはリンゴですか」という問いに「はい、それはリンゴです」と答えようとするとき、この発話は、それ以前に別の対象について、「それはリンゴです」が正しい答えだと教わったときの、その「リンゴ」の用法に照応して、「それはリンゴです」と答えるのではないでしょうか。

 学習段階での「それはリンゴです」や「それはリンゴではありません」の中の「リンゴ」のトークンは、その前に正しい使用法を教わったときの「リンゴ」のトークンを照応しています。

 語「リンゴ」の学習は、対象リンゴの学習でもありますが、その学習は照応によって行われています。先行する「リンゴ」のトークンに照応して、それ表示対象<リンゴ>を表示します。 語を学習するということは、照応によって語(タイプ)と対象(クラス、種)の表示関係(指示関係)を学習するということです。語の学習が終了するとは、照応が不要になるということです。

 語の学習が修了した後での語の使用は、先行するトークンへの照応によって成立するのではありません。語「リンゴ」の学習後は、例えば上記の総称文を理解し受容し、これをもとに「リンゴ」と言う語を使用しているとしましょう。ここで、もしこの総称文「リンゴは、丸くて赤くて甘い」のトークンに依拠して「リンゴ」という語を使用しているとのだと仮定すると、その使用は、総称文のそのトークンに含まれる「リンゴ」のトークンに照応していることになります。しかし、この総称文に依拠しているとしても、この総称文の先行するトークンに依拠しているのではないと思います。なぜなら、そのようなトークンとして思い当たるものがないことがほとんどだからです。

 では、総称文「リンゴは丸くて、赤くて、甘い」のタイプとはなにでしょうか。この総称文は自明ですが、それはなぜ自明なのでしょうか。「リンゴ」の学習が終わったとき、わたしたちは、タイプ「リンゴ」を理解しているのですが、その理解を他者と共有しており、タイプ「リンゴ」の理解は、Stalnakerのいう「共有基盤」になっているのではないでしょうか。語彙の知識もまた「共有基盤」の一部と考えられるのではないでしょうか。

 全てのトークンが、最初のトークンにまで遡る「照応の連鎖」を持つのではなくて、多くのトークンは、「共有基盤」の中にあるタイプに遡ると考えてもよいかもしれません。

  タイプ「リンゴ」の理解について考察するために、次に共有基盤と照応の関係を考えたいと思います。  

(補足説明:通常論じられる「照応」は、ここで論じた語の学習段階での照応ではありません。通常の照応は、語の学習が終わった後の照応です(照応をこの二種類に区別することが出来そうです。)例えば「私は昨日リンゴを買ってきました。そのリンゴはなかなかおいしいです」というとき、「そのリンゴ」は、最初の「リンゴ」を照応しています。しかし、「そのリンゴ」という句が最初の「リンゴ」を照応しているのであって、語の学習段階の照応とは異なります。)