138  まとめ (Summary) (20241218)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

(遅々として進まずすみません。これまでを振り返って出直します。)

このカテゴリーの93回から「問いに対する答えが正しいとはどういうことか」を論じてきました。

どのように考察が進んできたかをまとめようとしたのですが、読み返してみると論点がズレて行くことがしばしばで、我ながら議論の進行をうまくまとめることができません。

そこで、これまで論じてきた論点であり、かつ同時に、これからそれをより明確に論じ直したい論点を説明したいと思います。それは次の2つです。

#一つは、問答を、三種類(理論的問答、実践的問答、宣言的問答)に区別することです。

これらの三種の問いに対する答えの「正しさ」と「適切性」については、つぎのように考えます。

理論的問いの答えの正しさは、真理性であり、

実践的問いの答えの正しさは、実現可能性であり、

宣言的問いの答えは、正しさをもちません。

これらの三種の答えの適切性は、<より上位の問いの解決に役立つこと>です。

(宣言的問答については、あいまいな点が残っています。例えば、宣言的答えには正/誤の区別がないとしても、それでも宣言的と答となるための条件があるはずであり、それはまだ未解明のままです。)

#もう一つの論点は、この三種類の問答のすべてにおいて、問答関係の中で中で暗黙的に、論理関係と様相関係と規範関係が成立しているのではないか、あるいはさらに進んで、問答関係によって、論理関係と様相関係と規範関係が構成されるのではないか、ということです。

(MPと問答関係の関係については曖昧なままです。問答と規範関係の関係もまた曖昧です。) 残されたこれらの課題すべてに取り組むつもりですが、まず問答と規範関係について考えたいと思います。

137 「私的言語批判」の乗り越え方(How to overcome the “criticism of private language”)(20241209)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

前回の最後に次のように書きました。

「<規則に従うこと>と<規則に従わないこと>の区別、<規則に従っていると信じていて実際に規則に従っていること>と規則に従っていると信じていて実際には規則に従っていないこと>の区別を理解していることが必要なのではないでしょうか。これらの区別を理解していなければ、他者から指摘されても間違いに気づくことは不可能であるように思われます。」

このように書きましたが、その後、これはあまり説得的ではない、と思いました。なぜなら、このような区別を理解していなくても、他者から間違いを指摘して気づくことはあり得るかもしれないからです。

ただし、次のように言うことは出来ると思います。

「<規則に従うこと>と<規則に従わないこと>の区別、<規則に従っていると信じていて実際に規則に従っていること>と規則に従っていると信じていて実際には規則に従っていないこと>の区別を行うことは、私的に言語を用いるときにも暗黙的に行っていることである」

これは、次のように説明できます

私が、ある感覚を感じて、「この感覚は、あの時の感覚と同じだ」と考えて、カレンダーに「E」と書き込だとしましょう。このとき、「この感覚は、あの時の感覚と同じだろうか」と自問し、「同じだ」と自答したとしましよう。このように自問するとき、私は、答えが「同じだ」と「同じではない」のどちらかになることを想定しています。つまり、<規則に従うこと>と<規則に従わないこと>の区別を理解しています。さらに、この答えが、正しいこともあれば、間違いであることもありうる、と考えています。つまり、<規則に従っていると信じていて実際に規則に従っていること>と規則に従っていると信じていて実際には規則に従っていないこと>の区別も理解しています。

私たちが一人で自問自答するときには、これらを区別するだけで、どちらにもコミットしないのではなく、おそらく一方が正しいと予想していると思います。私たちは、多くの場合は、「自分が言語の規則に従っている」と想定しているでしょう。

「私は、言語の規則に従っているだろうか」「私は言語の規則に従っていない」と自問自答することは、問答論的矛盾です(これに入江幸男『問答の言語哲学』(p.233)を参照してください)。したがって、この問いに答えるとすれば、「私は言語の規則に従っている」と答えることが必然的です。言語の規則一般ではなく、カレンダーに「E」を記入する規則であれば、「私はそれに従っていない」と答えることは問答論的矛盾にはなりません。しかし、言語の規則一般であれば、私たちはたいていは、言語の規則に従っていますし、そう考えることが必然的である。

(ちなみに、ウィトゲンシュタインが『哲学的探求』で「E」の記入の規則を決めた時、またそれを私たちが理解するとき、私たちは、公的な言語の中で、私的言語のゲームの規則について、それを対象言語として説明し理解している。この構造についても考えなければならないかもしれない。)

私的言語の成立は、不確実です。しかし私たちは、ある語の定義ができたと想定して、自問自答したり対話したりできます。私たちは、知覚プロセスの場合に、モデルの設定、チェック、修正を反復しているように、語の設定の場合には、モデルの設定、チェック、修正を反復していると考えられます。

次回はこれまでの議論をまとめます。

AIとの共存に必要な哲学:多元主義(The philosophy needed to coexist with AI: Pluralism) (20241202)

[カテゴリー:日々是哲学]

AIは、孫正義さんがいうように、いずれ人間の知性をはるかにしのぐ知性(ASI)になるだろうと推測します。そのようなASIにとって、人間は、人間にとっての犬のようなもの、あるいは虫のようなものになるのかもしれません。そのようなASIは人類を支配するようになるでしょう。その意味でASIは人類にとっての脅威です。もしASIが一元論的な世界観や価値観を持つならば、人間の存在価値が無視されることになる可能性は高いと思います。人間がASIと共存するためには、ASIと人間が多元主義の哲学を採用することが必要になるとおもいます(もちろん、これだけではまだ不十分かもしれません)。それゆえに、私は多元主義の哲学を探求したいとおもいます。

しかし、多元主義は、このような目的のために必要になるだけではありません。そのような目的をわきにおいても、問答関係に注目して考察するとき、哲学は、とりわけ問題設定に関連して多元主義に向かうだろうと考えています。

136 私的再認と私的定義の不可能性?(the impossibility of private recognition and private definition ?) (20241128)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

前回は、定義宣言型発話を考察し、定義の文を、定義の後で同じ対象について反復するとき、それが真なる主張型発話になることを述べ、それが発話の真理性の誕生になると述べました。この発話の真理性は、定義の時の対象を再認して、それについて同じ文を発話することによって成立します。ここでは対象の「再認」が重要なのですが、この「再認」はどのように正当化されるのでしょうか。

まず、この再認の正当化には、ウィトゲンシュタインの私的言語批判と同様の問題が生じることを説明したいと思います。つまり、私的再認は不可能であり、それゆえにまた私的定義も不可能であることを説明したいと思います。次に、そこからどうなるのかを考えたいとおもいます。

#再認と規則遵守

ウィトゲンシュタインは、ある種の感覚をもった日にカレンダーに「E」と記入するという例を挙げて、それを続けているつもりの人が、規則に従っていることを保証するものはないと指摘しています。最初に「E」と記入した日の痛みを再認したときに、「E」と記入することがここでの行為の規則ですが、その再認を保証するものはない、ということです。これは「E」をある種の感覚があったことを表示する記号として定義しようとしても、私的にはそれができないことを示すものであり、私的な定義は不可能であると言えます。私的にそれができないのは、私が私的に反省するだけでは、<再認していること>と<再認していると信じていること>の区別が出来ないからです。したがって、私的言語が不可能であるのと同様に、私的再認は不可能であり、私的定義も不可能です。

#私的な行為は可能か

ところで、これと同様の再認は、言葉を定義したり言葉を話したりするときに限らず、私たちの認識全般において常に行われているし、さらに、認識に限らず行為においても同様の再認が常に行われています。例えば、朝コーヒーを淹れるために、コーヒーの粉が入った缶を手に取るとき、前回手に取った缶を再認しています。家を出て駅まで歩くとき、駅までの道を再認し、駅の建物を再認しています。

このような行為における再認の場合、再認の正しさは、行為が成功することによって確認できるように思えます(ただし、再認が間違っていても、たまたま行為が成功することがあるでしょうし、行為が成功したということについてもその認識の正当化が必要ですから、再認の正しさの確認は暫定的です)。コーヒーの粉が入った缶を手に取ることと、コーヒーの粉が入った缶を手に取ると信じることを、一人でいるときには区別できませんが、しかし、その後コーヒーをうまく入れられたとすれば、コーヒーの粉の缶を手に取っていたのであって、単にそう信じていたのではない、と言えるでしょう。

しかし、コーヒーを飲んでいて、そう思っていたとしても、それを飲んだ他者が、「これはコーヒーではなくココアだよ」といい、缶を見ればコーヒーの粉でなくココアの粉であったということは、ありえないことではありません。つまり、行為を可能にする再認は、行為の成功によって正当化されるが、しかしその行為の成功自体の正当化が、私的にはできない可能性があるということです。行為が成功したと思っていても、成功していなかったと後でわかる可能性が常に残るということです。

このように考えると、行為の場合にも<コーヒーを飲むこと>と<コーヒーを飲んでいると信じていること>の区別が出来ないと言えそうです。つまり私的な行為は不可能であるということになりそうです。ただし、行為の場合には、行為の失敗に自分で気づくことがあります。つまり<行為すること>と<行為していると信じること>の区別を自分でできる場合があります。

しかし、発話の場合にも、一人で何かを考えているとき、何かを書いているときに、その間違いに気づくことがあります。自分の文章を読み返して、誤字・脱字に気づくことはよくあります(ただ私の場合それに気付かないこともよくあります)。

 

 以上から帰結することは、何でしょうか。他者から指摘されて間違いに気づくことが可能なのは、自分一人で考えているときにも間違いの可能性を想定しているからではないでしょうか。つまり規則に従うことが可能であるためには、ウィトゲンシュタインがいうように<規則に従うこと>と<規則に従っている信じていること>を区別できることが必要ですが、そのためには<規則に従うこと>と<規則に従わないこと>の区別、<規則に従っていると信じていて実際に規則に従っていること>と<規則に従っていると信じていて実際には規則に従っていないこと>の区別を理解していることが必要なのではないでしょうか。これらの区別を理解していなければ、他者から指摘されても間違いに気づくことは不可能であるように思われます。そしてこの区別を理解していれば、私的であっても言語の規則に従うことは暫定的に可能であるかもしれません。次回は、このことを考えてみます。

135 定義宣言型問答と論理的関係(Definition-declarative questions and answers)(20241122)

(遅々として議論が進まなくてすみません。このカテゴリーでは、問いに対する答えが真であるとはどういうことか、という認識論の問題を考えています。真なる命題は、さしあたり、論理的数学的に真である命題と、経験的に真なる命題に分けることができます。前者は、論理的概念、論理的規則に基づくものであるが、それらは問答関係、特に理論的問答関係によって構成されるということを論じてきました。それに対して、後者の経験的に真なる命題は、経験的概念の定義に依拠していると考えられます。定義の宣言自体は、真理値を持たないが、それを反復するとき、その発話は真理値を持つ主張になると思われます。以上のことを念頭に置きながら、定義宣言型発話について考察したいと思います。)

#定義には、正/誤の区別はない。

これまでみた主張宣言には、正/誤(真/偽)の区別があり、行為宣言にも正/誤(実現可能/不可能)の区別があります。しかし、定義宣言には、この意味の真・偽の区別、実現可能性/不可能性の区別はありません。定義宣言は、正/誤の区別をもたず、適切/不適切の区別だけがあるです。例えば、ある子供に名前を付けるとき、兄と同じ名前、あるいは、父親と同じ名前をつけるとすれば、この名づけは不適切ですが、間違っているとは言えないとおもいます。兄弟が多くて、一人の兄の名前と同一であることを忘れて、同一の名前を付けたとするとき、その人は間違えたのですが、しかしその命名が間違いなのではなく、兄の名前と重複していない、と判断したことが間違いだったのです。

また例えば、ある子供に「ソクラテス」と名付け、それにつづいて、その後「ソクラテスニアラズ」という名前をつけるとしましょう。この二つの名前をつけることは、誤りではありません。しかし、紛らわしいので不適切な定義です。また、子どもに「悪魔」と名付けることも誤りではありませんが、不適切です。なぜなら、名前をつける目的(他者と区別して取り出すこと、その子を尊厳を持つものとして扱うこと、など)に反するからです。

#二種類の定義:対象の指示を前提する定義と前提しない定義

名づけることは、定義の一種だと思います。名づけるときには、ほとんどの場合、名づけの対象はすでに指示できるもの、同定できるものとして存在しています。これに対して、定義の場合には、定義の前に対象が指示可能なものとして成立している場合もありますが、定義によってはじめて対象を指示できたり同定できたりする場合もあります。後者の場合、私たちは、定義によってはじめて対象を世界から切り出し、同定しますが、その切り出し方に正/誤はありません。適/不適の区別があるだけです。

ちなみに、どちらの定義も、他の語句を必要とします。前者の定義は、他の語によって対象を指示したり同定したりするので、他の語の定義を前提します。これに対して、後者の定義の場合には、事前に対象の同定をしないので、そのための語を必要としませんが、後者の定義の場合にも、定義が被定義項と定義項からなると、定義項を構成するための語句を前提します。また文脈的定義にも、他の語句を必要とします。

#どちらの定義の場合にも、定義に依拠する真理は、再認に依拠する

ところで、一旦語を定義すれば、私たちはそれに拘束され、正しい使用法と誤った使用法の区別が生じます。例えば、ある子を「ソクラテス」と名付けたならば、その同じ子についての「この子はソクラテスである」は真となり、別の子についての「その子はソクラテスである」は偽となります。ある色を「赤」と定義したならば、同じ色のものを「これは赤ではない」と言うことは出来ません。これらにおいて、定義したときの対象を「再認」することが不可欠です。

 ここにつぎのような問いが生まれます。

「再認はどのようにして成立するのか」

「再認をどのようにして正当化できるのか」

これらの問題は、ウィトゲンシュタインが指摘した規則遵守問題でもあります。規則遵守問題が解決できなければ、定義を説明できません。

次回は、再認の問題を考えたいとおもいます。

宣言問答において、論理関係や様相関係や規範関係が構成されるかどうか、というここで論じるべき問題は、この再認問題と結びついています。

134 宣言的問答と論理的関係 (Declarative question-answer relations and logical relations) (20241111)

# 宣言的問答とは

宣言的問答とは、宣言型発話を答えとする問答です。宣言型発話とは、事実や関係や語句の意味を設定する発話です。J.サールによれば、主張型発話は言葉を世界に適合させようとし、意図表明の発話(行為拘束型発話と行為指示型発話)は、世界を言葉に適合させようとするのに対して、宣言型発話では言葉と世界の間の適合の方向は両方向です。このような宣言型発話は、次の3つに区別できるでしょう。

(1)主張宣言型発話

これは、事実についての主張であると同時に、事実を設定する宣言です。

「アウト」「有罪である」

審判や判決がこれにあたる。この発話は事実についてのものであるので真理値をもちますが、それを真にするのは、世界との関係だけでなく、宣言の発話そのものです。サールの表記では、適合の方向は↓↕(サール『表現と意味』山田友幸訳、誠信書房、32)となります。この発話の場合、審判が「アウト」と宣言するから、アウトなのであり、裁判官が「有罪である」と宣言するから有罪なのです。このような主張宣言型発話は社会的な慣習として、社会的制度に従うことによって成立します。

#主張宣言的問答と論理関係

裁判は、訴えで始まります。検事は、「Aは有罪である」と主張し、弁護人は、「Aは無罪である」と主張します。判事には、この矛盾の解決が求められます。つまり、判決は、「この矛盾をどう解決するのか」という問いへの答なのです。

主張宣言型発話の相関質問は、明示されませんが自明です。通常の主張型発話は、複数の相関質問の答えとなりうるのですが、主張宣言型発話は、慣習的に成立するものであり、相関質問もまた慣習的に決定されているので、それを明示しないのだと思われます。

裁判は両立不可能な二つの主張を前提としてはじまるので、裁判過程、および判決である主張宣言型発話では、二つの主張の両立不可能性は前提さています。

従って、宣言的問答の場合、問いのなかに曖昧なしかたである両立不可能性が、問答関係によって明示化されるのではなく、主張宣言的問答では、両立不可能性はすでに明示的に存在します。両立不可能性や帰結の関係は、主張宣言の問答関係から発生するのではなく、前提されています。

(2)行為宣言型発話

私がここで「行為宣言型発話」と呼びたいのは、つぎのような発話です。これは、行為についての決定であると同時に、行為を実現する宣言です。

  「開会します」「閉会します」

などの発話がこれにあたります。

実践的問答の答えである実践的発話は、命令と約束に区別できますが、いずれにせよ世界を言葉に合わせることにコミットすることであり、世界を言葉に合わせて変えるために行為しなければなりません。これに対して、行為宣言型発話は、発話に続いて何かを行為する必要はありません。なぜなら、発話の内容は、発話と同時に成立するからです。この点が行為宣言型発話と実践的発話の違いです。行為宣言型発話の適合の方向は、↑↕と表現できるでしょう。

宣言の遂行動詞の例としてサールが挙げているものの中で、私が「行為宣言型発話」と呼ぶものに属する遂行動詞には次のようなものがあります。:「開会します」:「辞任する」「休会する」「任命する」「指名する」「承認する」「確認する」「不承認とする」「支持する」「放棄する」「否認する」「否認する」「破門する」「聖別する」「洗礼する」「短縮する」

#行為宣言型問答と論理関係

行為宣言型発話もまた慣習を前提としています。それゆえに、それは、開会することと開会しないこと、承認することと承認しないこと、などの両立不可能性の関係の存在とその理解を前提としています。両立不可能性や帰結の関係は、行為宣言の問答関係から発生するのではなく、前提されています。

 では、定義宣言型問答もまた論理的関係を前提とするのでしょうか。これを次に考えたいと思います。

133 行為の規範概念は実践的問答から作られる。(Normative concepts of action are created from practical question-and-answer relationships)(20241101)

*問いと答えの関係は、サンクションを伴う

 問いに対して「p」と答えることは、pを選択することであり、pにコミットすることです。問いは、正しい答えを求めているので、pは正しい答えでなければなりません。もしpが正しい答えならば、pを答えることは感謝されたり褒められたりします。もしpが正しい答えでなければ、答えた者は間違えたのであり、批判され、何らかの罰を受けます。

 問いに対して答えることは、このようなサンクション(賞罰)をもちます。つまり「問いに対して正しく答えるべきである」という規範的関係が問答には暗黙的に内在しています。この規範的関係を明示化して、「べきである」という表現でそれを表すことができます。またこの規範的関係を名詞化して「問いに対して正しく答える義務がある」という表現を作ることもできます。

 一般に、規則が規範的であるか否かの区別は、サンクションがあるかないかの区別です。サンクションとは、規則従った時に褒賞があり、従わなかった時に罰がある、と言うことです。このどちらか一方だけがあるように見える場合にも、罰がないことが褒章であり、褒章がないことが罰である、と考えれば、常にこの両方があると言えます。

*では、理論的問答関係のサンクションと実践的問答関係のサンクションには、どのような違いがあるのだろうか。

 「問いに対して正しく答える義務がある」ということは、両者に共通していいます。違いは、「正しい答え」の違いにあります。理論的問いに対する答えの正しさは、答えとそれが表現する事実との関係に依存するのに対して、実践的問いに対する答の正しさは、答えの実行可能性にあります、いいかえると、答えと<答える者の行為能力と世界の関係>(<その人が世界で何ができるか>)に依存します。

 ただし、適合のこの2方向は互いに絡まって成立しているので、理論的問答と実践的問答のサンクションも現実には常に互いに絡まって成立していると言えるでしょう。  これまで理論的問答と実践的問答について見てきたので、次に宣言的問答についても、同様のことを確認したいと思います。

132 行為の様相概念は、実践的問答関係から作られる(Modal concepts of action are created from practical question-and-answer relationships)(20241027)

(これまで論理的概念、様相概念、規範概念が、理論的な問答関係や実践的問答関係に「内在する」と述べてきましたが、その説明では、それらの概念が問答関係に先立って成立していると述べているようにも見えます。しかし、私が提案したいことは、問いと答えの関係が明示化されることによって、論理的概念が作られるということです。例えば、「pですか」「いいえ、pではありません」という問いと答の関係を明示化しようとするとき、「否定」という概念が作られるということです。この提案をより明確なものにするには、論理的概念や論理的関係が、「問答の中に暗黙的に内在する」というこれまでの言い方はよくないようなきがしてきました。)

 

 理論的問いと答えの関係を明示化しようとするとき、「可能性」「現実性」「必然性」などの様相概念が作られることを説明しようとしました。これらの様相概念は、実践的問答にも関係しますが、その意味は少し異なります。ここでは、事実の可能性、現実性、必然性ではなく、意思決定ないし行為の可能性、現実性、必然性になります。

 「可能性」「現実性」「必然性」という様相概念は、このように二種類に区別できます。事実命題の成立の可能性、現実性、必然性などを「真理様相」と呼び、行為の可能性、現実性、必然性、などを「行為様相」と呼びたいと思います。真理様相は理論的問答から作られ、行為様相は実践的問答から作られます。

 

 例えば、次の実践的問答があるとします。

  「何にしますか」「うどんにします」

実践的問答では、答えの候補となりうるのは、現実にある事実ではなく、まだ行われていない<可能な行為>です。

実践的な問いに対する答えの候補が、「うどんにします」「そばにします」「カレーにします」であるとすると、これらはまだ実現されていない行為、<可能な行為>です。そして、これらの可能な行為のなかから、うどんを食べることを選択して「うどんにします」と答えるとき、その意思決定は<現実的な答え>あるいは<現実的な意思決定>となります。そして、現実に意思決定がなされることによって、うどんを食べることは、<可能な行為>であるだけでなく、<現実的な行為>になります。

 「うどんを食べよう」と意図決定するとき、その意図は事前意図であり、まだ行為は始まっていません。注文したうどんが、目の前に置かれたとき、私は箸をとって、うどんを食べ始めます。その時事前意図は「うどんを食べる」という行為内意図になります。事前意図が行為内意図になることは、一定の条件がそろったときには、常に(必然的に)生じます。意図決定によって、一定の条件下で、<必然的な行為>になります。

 理論的問答の場合、正しい答えは、反復して問うても常に答えとして反復される答えです。間違った答えの場合には、常にその答えがなされるとは限りませんが、正しい答えの場合には、常にその答えがなされるし、また常にその答えがなされるべきです。この意味で、正しい答えは、<必然的な答え>です。

 実践的な問答の場合、答えの候補はすべて正しい答え、つまり実現可能な答えです。それゆえに、反復して問うた時に、同じ答えが反復されるとは限りません。なぜなら、答えの候補がすべて正しいのだから、どれを現実の答えとすることも可能だろうからです。ただし、選択された現実の答えは、現実的意思決定であり、上に述べて様な意味で<必然的な行為>となります。

 実践的問いと答の関係から、可能な行為、現実的な行為、必然的な行為などの区別が生まれ、その区別を明示化するとき、行為の可能性、現実性、必然性の概念が生まれます。

 実践的問答から、規範概念がつくられることについては、次回に説明したいと思います。

131 実践的問答に内在する条件法とアブダクション (Conditionals and abduction inherent in practical questions and answers)(20241017)

(事実について問う理論的問いと答えの関係の中にすでに論理的関係が含まれているということを見てきたが、意思決定を求める実践的問いと答えの関係の中にも、すでに「否定」や「条件法」などの関係がふくまれています。「否定」については、前回見たので、今回は「条件法」について考えたいと思います。)

 #条件法の関係は、実践的問答に内在する

 理論的問いに答えるときは、問い以外の言語的な前提を用いない場合と用いる場合の二つに区別できました。前者では、問Qの前提全ての連言をΓとすると、Γ→pという条件文が成り立ち、後者では、問Q以外の前提の連言をΔとすると、(Γ∧Δ)→pという条件文が成り立ちます。この後者の場合にも、問答関係は、条件法「→」を暗黙的に含んでいます。

 実践的な問答の場合も同様に二種類のパターンに分けることができます。実践的な問いの前提以外の言語的な前提に依拠しないで答える場合と、問いの前提以外の言語的な前提に依拠して答える場合の二種類です。

 後者では、実践的推論によって答えることになります。例えば「Aを実現するために、どうしようか」という問いに、実践的推論で答えるとき、「Bするならば、Aが実現する」という形式の条件法を前提して用いることになります。この条件法は、時間的な依存関係を表現しています。それは単なる意味論的依存関係や単なる論理的依存関係ではなく、そこに時間の経過が含まれ、因果的な要素(これが何であるかが問題ですか)が含まれます。

 これに対して、前者では実践的推論の形式をとりません。例えば「うどんにしますか」と問われて「はい、うどんにします」と答えるとき、うどんを想像して、それを食べたいと感じて、「うどんにします」と答えたとしましょう。このとき、問いの前提以外に言語的な前提はないのですが、問いの前提として、「うどんを注文できる」「うどん以外にも注文できるものがある」などが成立しています。これらの前提が成立して、「うどんにします」と言うことが可能になります。ここで暗黙的に次の条件法が成立しています。「問いの前提が成立するならば、答えは正しい(答えは実現可能である)」。

 実践的問いに関して、<問いの前提以外に言語的前提を付け加えることなく答えるとき、その答えが正しい>ということは、<問いの前提にコミットするならば、結論に資格付与する>ということです。

#アブダクションは、実践的問答に内在する

 実践的問答に実践的推論で答えるとき、一般的には次のような形式をとります。「Aを実現するためにどうしようか」という問いに「Bしよう」と答えるとき、ここでは「Bしたら、Aを実現できる」という条件法を前提とした次のような推論を行っています。

  Aを実現しよう(あるいは、Aするために、どうしようか)。

  Bしたら、Aを実現できる。

  ゆえにBしよう。

具体例を挙げれば次のようになります。

   痩せるために、どうしようか。

   ダイエットすれば、痩せる。

   ゆえに、ダイエットしよう。

このような推論は理論的問答で用いられた分離則(「p、p→r┣r」)ではありません。ここでの推論は、形式的に表現すれば、

  「p、r→p┣r」

あるいは、

  「Aを実現しよう。Bを行う→Aを実現する。┣Bを実現しよう。」

となります。これは、結果から原因を推理する推論(アブダクション)です。

 このような実践的推論が正しいとは、<前提にコミットするならば、結論に資格付与する>ことだと考えられます

 実践的推論の正しさは、語や命題の意味が与えられたら、その意味だけに基づいて言えることかもしれません。もしそうならば、ある実践的推論が正しいかどうかは、理論的な問題です。もしそうだとしても、「Aを実現するために、どうしよう」の答えは、次のようにおそらく複数可能です。、

  「Aを実現しよう。Cを行う→Aが実現する。┣Cを実現しよう。」

  「Aを実現しよう。Dを行う→Aが実現する。┣Dを実現しよう。」

このように複数の実践的推論が可能であるとしたら、「Bを実現しよう」だけでなく、「Cを実現しよう」「Dを実現しよう」も答えの候補となります。これらの中から「Bを実現しよう」を選択して、実際の答えが行われています。この答えを選択することと、「Bを実現しよう」と意思決定することは同一のことです。

 実践的推論が正しいかどうかは、理論的な問題であるかもしれませんが、それを用いて行う「Aを実現するために、どうしよう」「Bを実現しよう」という問答は、実践的問答

です。

*予測誤差最小化メカニズムで行われる推論もアブダクションである。

ちなみに、理論的問答でもアブダクションは使用されます。予測誤差最小化メカニズムとは、<仮説を立て、それに基づいて現象を予測し、現実の観察された現象を比較して、差異があるならば、その差異が小さくなるよう仮説を修正する>というメカニズムです。経験的認識、理論的認識が、このメカニズムでお行われているとき、これは現象から新しい仮説を設定するアブダクションです。

#アブダクションは非単調です。

アブダクションは、実践的推論だけでなく、理論的推論の場合もあります。いずれの場合も、アブダクションは、非単調です。例えば、

  「p、r→p┣r」

このアブダクションに、s→pという前提が追加されて、

  「p、r→p、s→p┣s」

というアブダクションが行われることがあり得ます。つまり、アブダクションの場合、新しい前提が加わることによって結論が変化するということが可能です。

・理論的な問いの場合には、答えの候補がすべて正しいことはあり得ませんが、実践的な問いの場合には、答えの実行可能だと思われている意思決定が、答えの候補となります。もし実行可能だと思われる答えが正しい答えであるとするとき、実践的な問いの場合には、答えの候補はすべて実行可能だと考えられている答え、正しいと考えられている答えです。

・実践的推論は演繹推論ではなく、帰納推論でもなく、アブダクションです。実践的推論は、意思を決定するための推論である。ある目的を実現する方法は複数あるので、その中でどれを選択するかは、<自由>です。

 次回は、実践的問答において様相概念がどのようにかかわっているのかを考えたいと思います。

130 実践的問答に内在する「否定」と「矛盾律」(Negation and the Law of Contradiction Inherent in Practical Questions and Answers)(20241010)

理論的問答関係の中に、論理的語彙、論理的規則、様相概念、規範概念、などがすでに内在していることを、このカテゴリーでも、前回リンクした研究会での私の発表原稿でも論じました。そのときには、気づいていなかったのですが、同じことは、実践的問答関係、宣言的問答関係でも言えるだろうと気づきました。それを証明することが、ここでの課題です。

#実践的問答関係の中に、論理的語彙や論理的規則が内在しています。実践的問答とは、意思決定を求め、それに応える問答です。理論的問いに対する答えが正しいとは、その答えが真であるということです。それに対して実践的問いの答えは、意思決定であり、意思決定に真理値はありません。しかし、意思決定にも正/誤の区別はあります。実践的問いの答えが正しいとは、その答え(意思決定)が実行可能であることです。

 実践的問答は、例えば次のようなものです。

  「うどんにしますか」「はい、うどんにします。」

 この問答の中にすでに、否定の関係と矛盾律が暗黙的に含まれています。

#否定関係、矛盾律は、実践的問答にも内在する

  「うどんにしますか」

という実践的問いに対しては、「はい、うどんにします」と「いいえ、うどん以外のものにします」(あるいは、「いいえ、そばにします」「いいえ、カレーにします」など)という肯定と否定の答え方があります。この二つの答えの候補は、共に実行可能です。どちらの答えも、他者にとっては、正しい答えです。(もちろん、その答えが嘘の答えであること、つまり答える者が、うどんを食べるつもりがないことはありえます。それは問答の規範性の問題であるので後で論じます、)

 肯定と否定の両方の答えの可能性があることは、問い自体に含まれています。したがって、この実践的問い自体に、否定の関係が内在しており、肯定と否定の両方を同時に応えることはないこと(なぜなら、それを認めるならば、問うことは無意味になるからです)、つまり矛盾律も内在しています。(場合によっては、うどんを食べた後で、そばも食べることができるかもしれません。しかし、同時に二つを食べることは出来ません。もしできるとすれば、その場合には「うどんとそばを同時に食べる」は、第三の別の行為になります。この場合には、答えの候補には、「うどんを食べる」「そばを食べる」「うどんとそばを同時に食べるか」が含まれることになるでしょう。)

 では、ここでの否定や矛盾律は理論的問いに内在するそれらとどう異なるのでしょうか。

 

*理論的問答に内在する否定と矛盾律と、実践的問答に内在する否定と矛盾律

 実践的問答に内在する否定関係や矛盾律は、理論的問答に内在する否定関係や矛盾律と本質的に同じものであり、後者が基礎的であり、それを行為に適用したものが前者であると考えられるかもしれません。しかし、実践的問答は理論的問答に依拠して成立するのではなく、両者は等根源的です。あるいは、発生の上からすると、実践的問答の方がより原初的であるかもしれません。それゆえに、実践的問答に内在する否定関係や矛盾律は、理論的問答に内在する否定関係や矛盾律からは独立に成立したものと考えられます。この二つには、次のような異質なところがあります。

・理論的問答:「これはりんごですか」「それはリンゴです」

                 「それはりんごではありません」

・実践的問答:「これを食べますか」「それを食べます」

                「それを食べません」

 理論的問答のこれらの二つの答えも、実践的問答の二つの答えも、どちらも両立不可能です。

どちらも、二つの答えの両方にコミットすることはできません。ただし、理論的問答の場合のコミットメントは、事実の在り方についてのコミットメントであり、実践的問答の場合のコミットメントは、行為に向かうコミットメントです。

 事実へのコミットメントが両立不可能であることは、事実が両立不可能であることによるのではありません。なぜなら、二つの事実があって、その二つが両立不可能なのではないからです。一方が現実の事実であるなら、他方は可能な事実です。このような限定によって「事実」を区別するならば、現実的事実にコミットし、同時に、可能的事実にコミットすることが可能です。

 これに対して、実践的問答の肯定と否定の答えがコミットしているのは、(これから行う未来の)行為です。両立不可能なのは、(これから行う未来の)行為です。未来の二つの行為はともに可能ですが、しかしこれから同時に行うことは不可能です。

 理論的な問いに内在する両立不可能性は、現在の事実に関するものであり、両立不可能性自体も、現在の事実的な両立不可能性です(これを「理論的両立不可能性」と呼びたいとおもいます)。実践的な問いに内在する両立不可能性は、未来の行為に関するものです(これを「実践的両立不可能性」と呼びたいと思います)。。

   条件法とMPについては、次回に述べます。