173 三角測量と時間(Triangulation and Time)(20260419)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

前回のべた客観的な時間と主観的な時間はどう関係するだろうか。

主観的な時間とは、主観によって構成された時間、表象された時間である。それに対して客観的時間とは、構成する時間、表象する行為が行われる時間である。そして、主観的な時間関係(前後関係、同時関係)は、主観的表象と同様に、間違いの可能性を持つ。このように考えるとき、客観的時間が、主観的時間よりも基底的であると思われるかもしれない。しかし、私たちの認識がデイヴィドソンのいう「三角測量」として成立するのならば、時間認識もまた三角測量として成立するだろう。

主観的時間を個人的主観的時間と間人格的(interpersonal)主観的時間を分けるならば、三角測量によって成立する時間認識は、間人格的時間認識になるだろう。今回はこれを説明したい。

#三種類の知識

デイヴィドソンはまず、知識を次の3つに分ける。

自分の心についての知識「自分が何を考え、欲し、意図しているか、また私の感覚がどのようなものであるか」の知識

対象についての知識「世界内の対象の位置や大きさや因果的性質」についての知識

他者の心についての知識「他の人々の心の中でおこっている事柄」についての知識

この三種の知識の関係を、従来は、次の順序で考える。<まず、自分の心についての知識が無媒介に成立する。次に対象についての知識が成立する。次に他人の行動の知識が対象についての知識の一種として成立し、それに基づいて他者の心についての知識が成立する。> しかし、デイヴィドソンは、<これらの三種の知識は、どの知も他の二種の知に還元されず、どの知も成立のために他の二種の知識を必要とする>と主張する。これの論証の中心は、(大雑把なまとめ方になるかもしれないが)次のようなことである。

すべての知識は、それが有意味であるためには、言語の規則に従っている必要があり、そのことを証明するには、他者とのコミュニケーションを必要とする。したがって、すべての知識は、自分の心の知識と他者の心の知識をする。他者の心の知識は、他者の行為の知識を必要とするが、それは対象についての知識の一種であるので、すべての知識は、対象についての知識を必要とする。

#知識の「三角測量」の定義

デイヴィドソンは、「三角測量」について次のように説明する。

「二つの視点があって初めて、思考の原因に場所が与えられ、ひいては、思考の内容が定まる。それはある種の三角測量とみることができる。つまり、二人の人物の各々は、一定の方向から流れ込む感覚刺激に別様に反応している。刺激が流れ込んでくるさいの通路を外部へ引き延ばすと、その交点が共通の原因である。二人の人がお互いの反応(言語の場合なら、言語的反応)に気づくとするなら、各人は、それらの観察された反応を、自分が世界から得た刺激と結びつけることが出来る。こうして共通の原因が特定される。これによって、思考と発言に内容を与える三角形が完成する。しかし、三角測量のためには、二人が必要である。」(デイヴィドソン『主観的、間主観的、客観的』清塚邦彦、柏端達也、篠原成彦訳、勁草書房、p. 328)

知識の「三角測量」とは、ある人物A のある対象Oについての、知識が成立するためには、別の人物Bがその対象Oについて同じ内容の知識を持つ必要があるということである。AとBの二つの視点から同一対象Oを認識しその二つの認識が一致すること、あるいは整合的であることが、彼らの認識をより確実なものにするということである。

#時間認識の三角測量と心の社会   

ここで、世界の認識が、対象Oのある変化の認識だとしよう。その変化は、客観的な時間経過であり、その変化の認識は客観的時間経過の認識である。

この場合に、Aが、対象Oの時間的変化を認識するとき、Oの時間変化は、Aが認識している変化の時間であり、主観的時間である。Aにとっては、Oの客観的時間変化とOのAにとっての主観的時間変化は、同一である。この同一性を客観的なものにするには、他者BのOについての認識も、Aの認識と一致する必要がある。Aがこの一致を確認するためには、Aは、BがOの時間変化をどのように認識しているのかを、認識する必要がある。

 Aが、<Oの客観的時間>と<Aのその認識>と<Bのその認識>が一致する、ないし整合的であると理解するとき、Oの客観的時間は、OとAとBが共に属する共通の時間である「間人格的時間」の中に成立する。

デイヴィドソンは、次のように、私たちの知識は「心の社会」の中で成立するという。

「私が正しければ、我々の命題的知識の基礎は、非個人的なもの(impersonal[非人格的なもの]なものにではなく、人々が共有しているもの(interpersonal[間人格的なもの])なものにある。たとえば、我々が、他人と共有している自然的な世界に目を向けるとき、我々は自分自身との接触を見失うわけではなく、むしろ、自分が心の社会の一員であることを承認しているのである。もしも、他人が何を考えているかがわからなければ、私は自分自身の思考をもつことも、したがってまた自分の思考の内容を知ることも出来ないだろう。もしも、私が、自分が何を考えているかを知らないならば、私には、他人の考えを推定する能力がないことになるだろう。他人の心を推定できるためには、私は他人と同じ世界に住んでいなければならず、その世界の主だった特徴(価値をもふくめた)に対する反応を共有していなければならない。それゆえ、世界について客観的な見方をしても、自分自身との接触が見失われる虞はない。三種類の知識は三脚を為している。足が一本でもなくなれば他の2本も立ってはいられない。」(同上訳339)

知識が心の社会の中で成立するのならば、客観的時間も主観的時間もまた心の社会の時間、「間人格的時間だといえるだろう。

172 論理的認識と経験的認識の違い(The difference between logical and empirical knowledge(20260325)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

論理学・数学と経験的認識の違い

論理的・数学的認識と経験的認識の違いは、単に「論理空間に属するものの認識」と「空間と時間に属するものの認識」の違いにとどまらない。

論理学・数学における認識者は、確かに時間的・空間的座標をもつが、その座標は思考内容に影響を与えない。論理学・数学の思考対象には、時間・空間や認識者自身は含まれていない。

これに対して経験的認識では、対象も認識者も空間・時間の座標をもち、認識そのものも空間時間内の出来事として位置づけられる。そしてその座標は、認識内容に影響を与え、内容を規定する。

自己意識において「意識される自己」と「意識する自己」が同一であるとみなされるように、経験的認識においても、対象の存在する時空間と認識者の存在する時空間は同一である。認識対象は時間空間の中にあり、認識者もまたその時間空間の中にいる。

では、「二つの時空間が同一である」とはどういうことだろうか。


私が私自身を反省するとき、反省される私の時空座標が反省する私の時空座標と同一であり、かつ二つの時空間が同一であるならば、二つの私は同一であると言える。「二つの時空間が同一である」とは、それぞれの時空座標の変換が等式として成立する、ということである。

変化の経験や認識はどのように生じるのか?

時間の経験とは、何かの変化の経験である。では、変化はどのように認識されるのだろうか。
何かの変化を認識するとは、「変化するもの」と「変化しないもの」との区別を認識することによって成立する。

あるものの性質や状態が A から B に変化するとき、同一のものが A であることと B であることは同時には成立しない。したがって、A と B の両立不可能性を解消するために、私たちは A と B に異なる時間を割り当てる。

このプロセスにおいて、変化するものは A や B といった性質であり、変化しないものはそれらの性質をもつ「あるもの」そのものである。また、A と B が両立不可能であるためには、A と B に共通する何らかの基盤が存在しなければならない。もし全く共通点がなければ、そもそも両立不可能という関係自体が成立しないからである。

たとえば、ある対象が黄色から赤に変化するとき、黄色であることと赤であることは両立不可能であり、それを解消するために、それぞれの色を異なる時間に割り当てる。

また、ある対象がある方向から見ると楕円であり、別の方向から見ると円である場合、この二つの性質を両立させるために、その対象を三次元空間に置き、観察方向を区別することで両立不可能性を解消できる。

このように、一つの対象は時間・観点・意味・現れなどによって、両立不可能な性質や関係をもつことがある。これらの両立不可能性は、さまざまな区別の導入によって解消できるが、主に次の二つの仕方がある。

  1. 時間を区別することによって、対象自体の変化として解消する。
     この場合、時間は対象がその中に存在する「客観的時間」である。
  2. 時間を区別することによって、対象の現れ(認識)の変化として解消する。
     この場合、時間は対象の認識が行われる「主観的時間」である。

次回は、この時間論と問答関係の関係を考察したい。

171 正統化についての再説明(Re-explanation of legitimation)(20260307)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

#正統化についての再説明

 次のような入れ子型二重問答関係があるとしよう。

Q2→Q1→A1→A2

(これはQ2に答えるために、Q1を立て、その答えA1を前提して、Q2の答えA2に到達する、という関係を表現している。)

ここで、次の二つの場合を分けることができる。

(1)ある場合には、Q1の答えは、その内容がどのようなものであれ、常にQ2に答えることに役立つ。

 Q2「これは食べごろですか」

Q1「これは赤いですか」→A1a 「これは赤いです」 →A2a「これは食べごろです」

→A1b「これは赤くないです」→A2b「これは食べごろではないです」

この場合には、Q1の答えが正しいのならば、その答えがA1aであってもA1bであっても、Q2に正しく答えるのに役立つ。Q1の答えが正しくなければ、Q2に正しく答えるのには役立たない。したがって、A1から導出されるQ2の答えが正しいことによって、A1は正統化される。

(2)ある場合には、Q1の答えがある特定の内容の場合には、Q2に答えることに役立つが、それ以外の内容が答えの場合には、Q2に答えることに役立たない。

 Q2「これは桜ですか」

Q1「これの花弁は5枚ですか」→A1a 「5枚です」 →A2a「これは桜かもしれません」

→A1b「5枚ではありません」→A2b「これは桜ではありません」

Q1の答えが、A1a である場合には、Q2に答えるには役立たない。A1bである場合には、Q2に答えるのに役立つ。この場合にも、A1bがQ2に正しく答えるのに役立つのは、それが正しいときである。

この場合、A1bから導出されるQ2の答えが正しいことによって、A1bは正統化される。

それに対して、A1aが正しいとしても、この場合には、それは正統化されない。

このQ1の問いの寄り上位の問いQ2が「これはハナミズキですか」であれば、

Q1「これの花弁は5枚ですか」→A1a 「5枚です」 →A2a「これはハナミズキではありませせん」

この場合、A2a が正しいならば、A1aはその答えを導出するのに役立ったので、正統化される。

Q1の答えが、より上位の問いQ2に答えるのに役立つか役立たないか(つまり、正統であるか、いなか)は、Q2の内容に依存しており、Q1とA1の内容だけに依存するのではない。

(3)Q1の答えA1は、より上位の問いQ2の真だと思われる答えと両立不可能であるとき、批判される。だだし、Q2の真だと思われる答えを知っているのならば、それに答えるためにQ1を問うことはないであろう。したがって、このようなケースは少ないかもしれない。

ただし、つぎのようなケースは多くあるだろう。Q1の答えA1が、真だと思われる他の命題と両立不可能であるとき、A1はQ1の答えとして、批判される。この場合には、Q1の真なる答えを、A1以外のものの中に探ることになる。

次回から、経験的認識の正統化について、そして手始めに、時間認識の正統化について、考察したい。

170 二種類の正当化(正当化と正統化)について(On two types of justification (justification and legitimation)(20260223)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

前回の最後に次のように述べた。

「問いの答えの適切性とは、より上位の問いに答えることにとっての有用性である。このとき生じる入れ子型二重問答関係全体を支配しているのは、より上位の問いである。では、このより上位の問いをさかのぼっていくことは可能なのだろうか? 」

より上位の問いを遡っていくことは可能である。ただし、その遡りは、問うことの主として経験的諸理由、諸事情を遡っていくことであり、経験的で偶然的な事柄となる。例えば、上位の問いと下位の問いの関係は、文脈が変われば入れ替わることが可能である。したがって、最終的に何か特殊な位置づけを持つ問いにたどりつく、ということはない。(この遡りについて、現時点では、哲学的に興味深い考察をおこなうことがむずかしいので、以下では、二種類の正当化についての話しに戻りたい。)

#二種類の正当化

哲学は主張の基礎づけのみでなく、「広義の正当化」を求めることである。

「広義の正当化」は、狭義の「正当化」と「正統化」に分けられる(ここまでの表現法と異なるが、これからはこのように区別したい)。

狭義の「正当化」は、ある主張をその根拠を示すことによって正当化することである。この正当化は、その根拠をさらに根拠づけるということを繰り返して、もし究極的に基礎づけできたならば、基礎づけだといえるが、もしそれができなくても正当化だということはできるだろう。

ある主張をそれを結論とする推論を示すことによって「正当化」するのではなく、<ある主張を前提として、必要ならばその他の前提を加えて、それらを前提とする推論をおこない、その推推の有用性によって、当初の命題を是認すること>を「正統化」と呼ぶことにしたい。

 主張や意思決定を、その根拠を示すことによって基礎づけることによって正当化することは、主張や意思決定を、その相関質問に対する答えとして正当化することである。他方で、主張をそこからの帰結の有用性によって正統化することは、その相関質問のより上位の問いに答えるために有用であるということによって正統化することである。

#正統化可能な発話は、とりあえず次のように区別できるだろう。

(1)推論によって正当化される発話

(2)推論によって正当化されない発話

*感覚報告:「これは赤い」

*意思決定の発話:「お昼はうどんにしよう」

*宣言の発話:「この子を「ソクラテス」と名付ける」

#主張へのコミットメントと、正当化および正統化への関係

発話にコミットするとは、もし理由や根拠を問われたならばそれに答える責務を引き受けること、つまり発話を正当化する責務を引き受けることである。私たちは、何かを主張するならば、それを正当化することをあきらめることはできない。なぜなら、正当化を放棄して、主張にコミットするということはあり得ないからである。

では、推論による正当化ができない主張の場合には、コミットメントはどうなるのだろうか。例えば、感覚報告「これは赤い」の場合、これを推論で正当化することはできないので、これにコミットすることもできなくなる。ただし、この場合には、私たちは、感覚報告の正当性にコミットすることはできないが、正統性にコミットすることはできるだろう。

感覚報告が正統であるとは、感覚報告「これは赤い」を答えとする問い、例えば「それは何色ですか」という問いの答えが、より上位の問い(「それは食べごろだろうか」)に答えるのに有用であるということである。このその答え「これは赤い」が、「それは食べごろだろうか」に答えるために有用であるということである。この場合には、「それは食べごろだろうか」の答えは、「それは食べごろです」となるだろう。

 ところで「それは何色ですか」の答えが「これは赤くない」であっても、「それは食べ頃だろうか」に答えるために有用である。この場合のより上位の問いに対する答えは「それはまだ食べ頃ではない」となるだろう。

 ここで、Q1に「これは赤い」と答えた人が、「これ」が指示する物を食べるとおいしかったとしよう。つまり、Q1の答えA1を前提として、Q2の答えA2「これは食べごろだ」を導出し、このA2にしたがって、それを食べたらおいしかった。つまり、A2が正しいことを検証した。そこで、A1へのコミットメントは、正統化された。

逆にQ1に「これは赤くない」と答えた人は、Q2にA2‘「これは食べごろではない」と答え、「これ」が指示するものを食べずにおいておおき、もう少しまって食べたときには、熟しすぎていておいしくなかったとすると、「これは赤くない」という答えは、正統化されない。

 一般的な仕方でいうと、<Q1への答えA1が正統である>とは、<それに答えるためにQ1を問うた、Q1のより上位の問いQ2への正しい答えを得るのに有用である>ということである。

この説明は、これまでの説明とはことなる。これまでは、<Q1への答えA1が正統である>とは、<それに答えるためにQ1を問うた、Q1のより上位の問いQ2への答えを得るのに有用である>ということであると述べてきた。違いは、これまでは、単に「Q2の答え」を得るのに有用であると考えてきたが、「Q2の正しい答え」を得るのに有用である、と変更した点である。

もしQ1の答えA1が間違っていれば、それを前提としたQ2の答えA2もまた間違った答えになる可能性が高いだろう。したがってA2が正しい答えであることは、A1を正統化する。

169 二重問答関係と文脈(Double Question and Context)(20260211)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

前回述べたように、問いの答えは、その有用性によって正当化される。問いの答えの有用性は、問いの目的の実現にとっての有用性だといえるだろう。ここには、次のような入子型二重問答関係が成立する。これについて分析しよう。

<ある現象についての二つの問い>

旗を掲揚するためのポールの影の長さと太陽の角度が分かれば、ポールの高さが分かる。そこで、次のような二重問答関係が成立する。

  「ポールの高さはいくらか」→「ポールの影の長さはいくらか」

この場合、もしポールの高さと太陽の角度が分かれば、逆にそこからポールの影の長さがわかる。それゆえに、次のような二重問答関係も成立する。

  「ポールの影の長さはいくらか」→「ポールの高さはいくらか」

これらのケースでは、晴れており、太陽の角度を測れる、ポールの影がはっきり見える、地面が水平である、などが文脈的な条件となる。また、ポールの高さを知る必要がある場合には、上の二重問答が行われ、ポールの影の長さを知る必要がある場合には、下の二重問答が行われる。

つまり、より上位の問いは何か(まず何を問いたいのか)ということが二重問答関係を決定する。ただし、上の二つの二重問答関係においてわかるように、どちらがより上位の問いになるかは、二つの問いの内容によって決まっているのではない。そして、最初にどのような問いを立てるかは、文脈に依存している。

「問いの答えの適切性とは、より上位の問いに答えることにとっての有用性である。このとき生じる入子型二重問答関係全体を支配しているのは、より上位の問いである。では、このより上位の問いをさかのぼっていくことは可能なのだろうか? 次回それを考えたい。

168下流推論による主張の正当化(Justifying claims through downstream reasoning)(20260123)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

(「です、ます」調だと少しまどろっこしいので、今回から、「です、ます」調を「である」調に変えることにします。)

#下流推論による主張の正当化

この二回(166、167)考えてきたように、もし主張の基礎づけの不可能性を認めるならば、私たちは主張をどのようにして正当化できるだろうか。

(それとも主張の正当化をあきらめるべきだろうか。もし主張の正当化を放棄するならば、その場合、主張することつまりその発話にコミットすることは、正当化を求めていない。発話にコミットすることは、もし理由や根拠を問われたならばそれに答える責務を引き受けることである。つまり発話を正当化する責務を引き受けることである。つまり、私たちは、何かを主張するならば、それを正当化することをあきらめることはできない。なぜなら、正当化の放棄は、主張にコミットすることと相いれないからである。)

ある主張を、それを結論とする推論(上流推論)によって基礎づけられないとき、その主張を前提とする推論(下流推論)の結論の有用性によって正当化することが一つの対応策として考えられる。

ただし、ある主張を前提とする下流推論の結論が有用であることによって、元の主張を正当化するという方策には、二つの欠点がある。一つは、推論において、結論が正しいとしても、前提が正しいとは限らないということである。もう一つは、結論が有用であることをどのように説明するのかということである。この後者には、次のように応えられる。

 問いの答えが有用であるとは、それがより上位の問いに答えるために有用である、ということである。ここには、次のような入子型二重問答関係がある。

  Q2→Q1→A1→A2

(これは、問いQ2を解決するために、問いQ1を立て、その答えA1を用いて、Q2の答えA2を得る、という関係を表現している。)

問いの目的が、もしより上位の問いに答えることとして解釈できない場合には、問いの答えの有用性は、問いの目的の実現にとっての有用性だといえるだろう。

167 新年のご挨拶:帰結による正当化:(New Year’s Greetings: Justification by Consequences)(20260102)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

(昨年の続きを話す前に、新年のご挨拶です。

あけましておめでとうございます。昨年私の哲学研究にとって重要な前進は、次のようなことでした。

 ・論理規則は問答関係から帰結すること

  ・発話の規範性もまた問答関係から帰結すること

  ・広松の四肢構造を、入れ子型二重問答構造で説明できること

  ・人権宣言は社会契約論とは異なること、つまり人権は宣言によって成立するのではなく、それ以前から存在しているということ

・基礎づけ主義が不可能であるので、帰結による正当化しかないということ。

(これはローティの言葉です。この言葉に意外性はないのですが、しかしこれをこれまで(少なくとも私は)真剣にとらえてこなかったことに気づきました。これを問答の観点からどうとらえるかは、考え中です。)

 今年は、これらのアイデアを中心に本をまとめたいです。)

根拠による正当化は、「なぜ」の問いを多用することになります。これに対して、帰結による正当化を求めるときには、「pから何が帰結するのか」という問いを多用することになるでしょう。

#問いの理解と問の正当化の循環

 ところで「pから何が帰結するのか」という問いは、pの理解を前提しています。しかし、pの意味を理解するためには、(推論主義意味論によれば)pの下流推論を理解していなければなりません。つまり「pから何が帰結するのか」という問いの答えを知っていなければなりません。ここに循環が生じます。この循環は、「p」を理解することと正当化することの循環です。(これと同じ循環は、「p」の根拠(上流推論)を問う場合にも生じます。)

 もしこの循環を避けようとするならば、次のように考える必要があります。「p」を正当化しようとして、「pから何が帰結するのか」と問う時、pを理解していないことがありうるということです。「pから何が帰結するのか」という問いが、pの理解を前提していないとしたら、「p」を正当化しようとするときに、「p」をまだ理解していないことありうるということです。(これは、発話の意味の理解よりも、発語内行為の理解がより基底的であるということを意味します。)

 しかし、「p」の意味を理解していないのに、「p」を正当化しようとするとは、どういうことでしょうか。「p」の意味を理解していないけれど、「p」の発話が何かを主張していることは理解しており、主張内容を理解していないが、主張内容を正当化しようとしているということです。pの内容を理解していないのに、その内容を正当化しようとするということは、信頼する人物の発話の場合には容易に想定できます。私がAさん(の判断力や誠実性)を信頼しているとき、Aさんの主張の内容を理解していないが、その主張の内容を正当化できると予想し、正当化しようとすることがあります。

他者の発話でなく、自分がこうかもしれないと考えた命題(問いに対する答えは、こうかもしれないと考えた命題)の場合にも、その予想を正当化しようとするとき、その予想の内容を修正することがあります。つまり、自分の発話についても、その理解と正当化は循環します。

 理解と正当化の循環は、平叙文の場合だけでなく、疑問文の場合にも生じるとおもわれます。帰結による正当化は、根拠による正当化よりも、曖昧でとらえどころがないのですが、限定する方法を探ってみます。

166 仕切り直し:哲学における問いの変換(Starting afresh: Transformation of Questions in Philosophy)(20251222)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

(163、164、165回には、空間と時間と問答関係がもつ「認識論的 K 構造」について考察しようとしました。この主題が非常に複雑で、K 構造を明示して分析することに四苦八苦しています。
そこで少し目先を変えて考えてみたいと思います。いずれ K 構造の話に戻るつもりです。)

#ローティの診断

最近読んだ本の中で、ローティが次のように言っていました。

「アメリカの政治的急進派の多くの人々は、啓蒙の合理主義を特徴づけている基礎づけ主義と啓蒙主義が捨て去られるならば、ハーバーマスが『近代の未完のプロジェクト』と呼ぶものも、社会民主主義政策のさまざまな目標も、もはや真面目に取り上げられなくなると思っている。対照的に、私の見解では、ブルジョア・リベラリズムは、哲学的基礎づけなど必要としていない――政治的立場は、その政治的立場が訴えている原理によるよりも、むしろその政治的立場がもたらす結果によって正当化されることができる――のである。」(リチャード・ローティ『アメリカ 未完のプロジェクト』小澤照彦訳、晃洋書房、v)

ブルジョア・リベラリズムは、哲学的基礎づけなど必要としていない。むしろ、その政治的立場がもたらす結果によって正当化される。これによれば、例えば世界人権宣言は、哲学的基礎づけを必要とせず、その政治的立場がもたらす結果によって正当化されるということです。人々の人権に対する態度は、まったくこのとおりだと思います。


ここで重要なことは二つあります。

一つは、世界人権宣言の正しさを哲学的に基礎づけることは不可能であるということです。なぜなら、このような法的・倫理的主張に限らず、理論的主張を含めて、なんらかの主張を哲学的に基礎づけることは不可能だからです。

もう一つの重要なことは、基礎づけが不可能であるだけでなく、そもそも基礎づけを必要としていないということです。

このカテゴリー「問答の観点からの認識」では、主張や認識の正当化をつねに問題にしてきました。一方では、基礎づけが不可能であることを受け入れながらも、他方で、(基礎づけられないまでも)何らかの正当化が必要だと考えて、認識の問題を検討してきたのです。

私たちは、主張の正当化を次の二種類に区別できます。

  根拠による正当化(上流推論による正当化)

  帰結による正当化(下流推論による正当化)

基礎づけができないということは、根拠による正当化ができないということです。そして、ローティが「政治的立場は、その政治的立場がもたらす結果によって正当化される」と述べるときの正当化は、帰結による正当化に対応します。

「なぜ」の問いは、出来事の原因や行為の理由、主張の根拠を問うものであり、根拠による正当化を求める問いです。それに対して、帰結による正当化を求める問いは、別のタイプの問いになるはずです。 それはどのようなタイプの問いになるのか、これを次に考えたいと思います。

165 問答関係とK構造(その1) (Question-Answer relationship and K-structure (1)) (20251123)

 [カテゴリー:問答の観点からの認識]

「認識」とは、「記述的な問い」の答えを求めること、あるいはその答えのことです。「記述的な問い」とは、「事実についての記述」を答えとする問いです。「事実についての記述」を求めることは、<事実が、記述とは独立に、あるいは当事とは独立に成立していること>を前提しています。あるいは、逆に言えば、「事実」とは、「それについての問答とは独立に成立している事柄」だということもできます。より正確にいうならば、「事実」とは、「問答とは独立に成立している事柄として設定されたもの」です。

#今仮に机の上のリンゴAを見ているとします。このとき、私はふつうは、Aは、私がそれを見ていなくても存在していると考えています。なぜそう考えるのかといえば、素朴に考えるならば、私がそこから離れて戻ってきたときにも、そこに変わらず存在していたかのように存在するからです。このことを反省するとき、私は、Aを、<私が表象から独立に存在しているものとして設定したもの>として考えていることがわかります。

 さて、私が「Aは、私がそれを見ていなくても存在している」と考えることと、「Aは、私が表象から独立に存在しているものとして設定したものである」と考えることは非常に異なります。前者では、私はAが私から独立に実在すると考えており、後者では、Aは私が設定したものであると考えています。ただし、この二つは両立可能です。なぜなら、後者では、私は、Aを、私が表象から独立して存在しているものとして設定するしているのですが、この設定によって、Aは私にとって、表象から独立しているものとして設定されるのであって、そのことは、Aが私のこの設定から独立に存在することとは、矛盾しません。

 ここで<私が表象から独立に存在しているものとして設定したもの>という概念を用いることによって、<現象としての対象>と<実在としての対象>のどちらでもない対象を考えたいと思います。現象論と実在論の対立を超える考え方を提案したいと思います。  そこで<私が表象から独立に存在しているものとして設定したもの>という概念についてもう少し論じたいと思います。

164認識論的時間的K構造 (Epistemological temporal K-structure)(20251110)

 [カテゴリー:問答の観点からの認識]

 打ち上げ花火を見る時、花火が上がって上で開いて消える、のをみます。これが視神経を刺激し、それに対応する脳内でニューロンが発火します。花火の空間的広がりは、網膜上の視神経の広がりに関係するでしょうが、それだけに依存しているのではなく、断片的に与えられる知覚刺激から、脳内で花火のきれいな形や色が表象レベルで構成されるのだと思われます。

 花火が上がってゆき、上空で開くという時間経過は、それぞれに対応する脳内のニューロン発火の時間経過と関係しているでしょうが、それだけでけっていされるのではなく、時間経過を持つ知覚刺激から、その時間経過が表象レベルで構成されるのだとおもわれます。私たちは、断片的な知覚刺激から空間的な知覚像を構成するだけでなく、時間空間的な4次元的な変化を表象的に構成するのです。この変化は、知覚像の変化であると同時に、時間的変化の知覚像でもあります。

 私たちは、時間的変化を認識すると同時に、その認識過程自体が時間的です。つまり、認識内容が時間的変化であると同時に、認識過程自体が時間的変化です。この二つの時間的変化は明確に区別できます。ただし、この認識過程自体が認識され、認識の内容になるとき、認識過程の時間が認識内容となり、認識内容の時間が認識過程になっています。二つの時間が互いに他方へと変化しています。ここに認識論的時間的K構造が成立しています。

  時間と空間を合わせた4次元についても、同様のことが言えます。時間空間の4次元の中に私がいる、と私が考える時、私はその4次元時空の外にいて4次元時空についての考えています。この時私はどこにいるのでしょうか。このときも、私は4次元時空の中にいます。この4次元時空は、最初の4次元時空と別のものではありません。なぜなら、最初の4次元時空は私がそこにいるところとして考えていたものだからです。

 

前々回に「空間関係も時間関係も、問答関係によって成立し、K構造は問答関係によって出現すると推測する」と書きました。次にこれを説明したいとおもいます。