141 技術的問答の下位区分(a subdivision of technical questions and answers Subdivision) (20250121)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

技術的問答を「目的を実現するための方法を問う問答」と定義するとき、それは次の二種類に区別されます。

(a)目的を実現するための必要条件を問う問答

  「Bを実現するために、何をしなければならないか」

  「Bを実現するために、Aをしなければならない」

(b)目的を実現するための十分条件を問う問答

  「Bを実現するために、どうすればよいか」

  「Bを実現するために、Aをすればよい」

この(b)は、次のように言いかえることもできます。

「どうすれば、Bを実現できるのか」

「Aすれば、Bを実現できます」

このような技術的問答は、因果関係を問う問答とも実践的問答とも異なるものであるので、まずそれを説明します。

#技術的問答と因果関係の問答の差異実践的問答

「Aが生じれば、Bが生じる」

という因果関係の記述は、次の問いの答えとなります。

「Aが生じれば、何が起きますか」

「何が起きれば、Bが生じますか」

このような因果関係についての問答は、技術的問答ではありません。それは観察的問答か理論的問答になるでしょう。二つの個別的出来事の間の一回的因果関係の記述であれば、観察的問答の一種であり、二種類の一般的出来事の間の法則的因果関係の記述であれば、理論的問答の一種です。

技術的問いに答えるときには、このような因果関係についての問答を前提として利用することになります。因果関係についての問答は、二つの出来事の関係についての問答ですが、技術的問答は、行為と状態の関係についての問答です。

#技術的問答と実践的問答の差異

次に、技術的問答は実践的問答とも異なります。なぜなら、技術的問答の答えは真理値をもつ記述であるが、実践的問答の答えは意図決定であり、真理値を持たないからです。例えば、次の問答は、実践的問答です。

「Bを実現するために、どうしようか」「Bを実現するために、Aしよう」

実践的問答は、意図と意図の関係についての問答である。

このような技術的問答は、さらに下位区分できそうですが、それは後回しにして、次に「規範に関する記述的問答」を考察し、その下位区分を考えてみたいと思います。

140 事実に関する記述的問答の下位区分 (Subdivision of factual descriptive questions and answers) 20250119

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

#事実に関する記述的問答の下位区分

前回、答えが真理値を持つ問答を「記述的問答」とし、記述的問答の中で規範的語彙を含まない問答を「事実に関する記述的問答」と名付け、今回はその下位区分を行うと予告しました。様々な下位区分の方法があるので、どのように整理するか、未だに迷っています。(更新の頻度を上げるつもりが、まったく上げられずすみません。)

(後で訂正することになる可能性がありますが)今回、とりあえずの下位区分を説明したいとおもいます。まず、<問答の答えが単称命題になる問答>と<問答の答えが全称命題になる問答>を区別できると思います。よく使用される表現で言えば、「観察的問答」と「理論的問答」に対応します。

(1)観察的問答:単称命題を答えとする記述的問答

知覚に問い合わせて答える問いを「知覚的問い」と呼び、その答えを「知覚報告」と呼ぶことできるでしょう。知覚報告を答えとする問答を知覚的問答と呼ぶことができます。この知覚報告は、単称命題になります。

これと同様に、観察に問い合わせて答える問いを「観察的問い」と呼び、その答えを「観察報告」と呼ぶことができます。ただし、何が観察可能であるかは、人によって、文脈によって異なります。例えば、レントゲン写真を見て、医者は肺癌を観察するかもしれませんが、素人にはそれを観察することができません。医者のその観察には、多くの経験や知識が前提となっています。カルナップが言うように、観察可能なものと観察不可能なものの間に一義的な境界線を引くことは困難です。観察報告を答えとする問答を「観察的問答」と呼ぶことができます。

 例えば、「これはバラ科ですか」という問いに、「これはリンゴです」「リンゴは、バラ科です」ゆえに「これはバラ科です」と答える場合、「これはリンゴです」という前提は、観察に問い合わせています。ただし、ここでは「リンゴはバラ科です」という全称文(理論文)にも問い合わせています。

とりあえずまとめると、観察的問答には、つぎのような場合があります。

知覚的問答:(知覚に問い合わせる問い、その答えは知覚報告となる。)

知覚に問い合わせて、単称命題(知覚報告)が答えとなる場合

知覚報告に問い合わせて、単称命題(観察命題)を答えとして推論する場合

観察報告に問い合わせて、単称命題(観察命題)を答えとして推論する場合

理論命題に問い合わせて、そこから観察命題を推論する場合

観察報告と理論命題の両方に問い合わせて、観察命題を推論する場合

(2)理論的問答:全称命題を答えとする記述的問答

全称命題を答えとする問答は、全称命題を理論的な命題だとするならば、全称命題を答えとする問答は、「理論的問答」と呼ぶことできます。

観察報告に問い合わせて、全称命題をチェックし、全称命題を推定して答える場合。

観察報告と他の全称命題(理論命題)に問い合わせて推論し、全称命題で答える場合。

他の全称判断に問い合わせて推論し、全称命題で答える場合。

以上の二つ「観察的問答」「理論的問答」のより上位の問いは、記述的問答ですが、記述的問答のより上位の問答が実践的問答である場合があります。これを「技術的問答」と呼びたいと思います。これは上記の二つとは異質です。(これについては、第127回に論じましたが、もう一度論じ直したいと思います。)

(3)技術的問答:<ある目的を実現するための手段を求める問答であり、その目的手段関係が自然的な因果関係に基づくものであるような問答>です。

ただし、技術的問答は、因果関係の記述を答えとする問答そのものではありません。技術的問答は、自然的因果関係の認識に依拠するので、因果関係を問う問答を前提としますが、因果関係を問う問答そのものではありません。

「Aが生じれば、Bが生じる」という因果関係の記述は、記述的問答の答えになります。これは理論的問答になると思われます(なぜなら、一回的な出来事の関係では因果関係であるということができない可能性があるからです。これについては、もう少し説明の必要があります)。これは「Aすれば、Bを実現できる」という目的手段関係の記述と同一ではありません。「どうすれば、Bを実現できますか」という技術的問いの答えは「Aすれば、Bを実現できる」という目的手段関係の記述になります。

この技術的問答と実践的問答関係については、127回でも述べましたが、次回もう一度考えてみます。

39 問答の三区分についての再考(Reconsidering the three types of questions and answers)(20241230)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

(問答と規範の関係について論じる予定でしたが、その関係は問答の3種類によって異なるはずであり、それらの差異についても考えるつもりでした。しかし考えているうちに、問答を3種類に分けることについて見直す必要があることがわかりましので、今回は、まずそれを論じます。)

私は、問答を理論的問答と実践的問答と宣言的問答の三種類に分けてきました。理論的問いは、事実についての記述を求める問いであり、その答えには真/偽の区別があります。実践的問いは、意思決定を求める問いであり、その答えには真/偽の区別はありませんが、正/誤の区別はあり、答えが正しいとはそれが実行可能であることだと考えることにしました。宣言的問答は、事実や言葉の設定をもとめる問答であり、その答えには正/誤の区別はありません。

これらの三種の問いに対する答えの「正しさ」と「適切性」については、次のように考えます。

理論的問いの答えの正しさは、真理性であり、

実践的問いの答えの正しさは、実現可能性であり、

宣言的問いの答えは、正しさをもちません。

これらの三種の答えの適切性は、<より上位の問いの解決に役立つこと>です

以上は復習です。

今回修正したいことは、「理論的問答」と呼んできたものを、「記述的問答」と呼び、これを次の二種類「事実に関する記述的問答」と「規範に関する記述的問答」に区別します。

「事実に関する記述的問答」とは、<規範に関する語彙を含まない疑問文と平叙文からなる記述的問答>であり、「規範に関する記述的問答」とは、<規範に関する語彙を含む疑問文と平叙文からなる記述的問答>です。「規範に関する語彙」とは、その語彙を含む文の使用が行為への指令を含んでいる概念です。

ちなみに、<価値に関する語彙>とは、その概念を含む文から規範概念を含む文が帰結する概念であり、<価値に関する語彙>は、<規範に関する語彙>に書き換え可能である、と考えます。

 価値には、高い価値と低い価値という度合(あるいは価値による対象のランク付け)があり、価値の違いは、それに対する行為や態度の違いを帰結します。これに対して、規範には、すべきこと(義務)、してもよいこと(許可)、してはならないこと(禁止)、という三区分しかありません。さらに、行為については、する/しない、という二区分しかないことということから帰結するだろうと推測します。行為についてのこの二値性は、さらに、真理の二値原理と深くかかわっている推測します。そしてこの二値性は、決定疑問の答えが「はい」と「いいえ」の二つしかないことから帰結するのだろうと推測します。(価値の連続性、規範性の三区分、行為の二値性、真理の二値性、決定疑問の問答関係、これらについては今後さらに分析を進めることになるとおもいます。)

 次回は、「記述的問答」の下位区分である「事実に関する記述的問答」のさらなる下位区分ついて考えたと思います。(すでにある程度は整理出来ているのですが、細かな詰めができていないので、次回に回します。あまり進まなくてすみません。)

 来年はもう少し更新のテンポをあげてゆきたいとおもいます。来年もよろしくお願いします。  皆様よい年をお迎えください。

138  まとめ (Summary) (20241218)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

(遅々として進まずすみません。これまでを振り返って出直します。)

このカテゴリーの93回から「問いに対する答えが正しいとはどういうことか」を論じてきました。

どのように考察が進んできたかをまとめようとしたのですが、読み返してみると論点がズレて行くことがしばしばで、我ながら議論の進行をうまくまとめることができません。

そこで、これまで論じてきた論点であり、かつ同時に、これからそれをより明確に論じ直したい論点を説明したいと思います。それは次の2つです。

#一つは、問答を、三種類(理論的問答、実践的問答、宣言的問答)に区別することです。

これらの三種の問いに対する答えの「正しさ」と「適切性」については、つぎのように考えます。

理論的問いの答えの正しさは、真理性であり、

実践的問いの答えの正しさは、実現可能性であり、

宣言的問いの答えは、正しさをもちません。

これらの三種の答えの適切性は、<より上位の問いの解決に役立つこと>です。

(宣言的問答については、あいまいな点が残っています。例えば、宣言的答えには正/誤の区別がないとしても、それでも宣言的と答となるための条件があるはずであり、それはまだ未解明のままです。)

#もう一つの論点は、この三種類の問答のすべてにおいて、問答関係の中で中で暗黙的に、論理関係と様相関係と規範関係が成立しているのではないか、あるいはさらに進んで、問答関係によって、論理関係と様相関係と規範関係が構成されるのではないか、ということです。

(MPと問答関係の関係については曖昧なままです。問答と規範関係の関係もまた曖昧です。) 残されたこれらの課題すべてに取り組むつもりですが、まず問答と規範関係について考えたいと思います。

137 「私的言語批判」の乗り越え方(How to overcome the “criticism of private language”)(20241209)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

前回の最後に次のように書きました。

「<規則に従うこと>と<規則に従わないこと>の区別、<規則に従っていると信じていて実際に規則に従っていること>と規則に従っていると信じていて実際には規則に従っていないこと>の区別を理解していることが必要なのではないでしょうか。これらの区別を理解していなければ、他者から指摘されても間違いに気づくことは不可能であるように思われます。」

このように書きましたが、その後、これはあまり説得的ではない、と思いました。なぜなら、このような区別を理解していなくても、他者から間違いを指摘して気づくことはあり得るかもしれないからです。

ただし、次のように言うことは出来ると思います。

「<規則に従うこと>と<規則に従わないこと>の区別、<規則に従っていると信じていて実際に規則に従っていること>と規則に従っていると信じていて実際には規則に従っていないこと>の区別を行うことは、私的に言語を用いるときにも暗黙的に行っていることである」

これは、次のように説明できます

私が、ある感覚を感じて、「この感覚は、あの時の感覚と同じだ」と考えて、カレンダーに「E」と書き込だとしましょう。このとき、「この感覚は、あの時の感覚と同じだろうか」と自問し、「同じだ」と自答したとしましよう。このように自問するとき、私は、答えが「同じだ」と「同じではない」のどちらかになることを想定しています。つまり、<規則に従うこと>と<規則に従わないこと>の区別を理解しています。さらに、この答えが、正しいこともあれば、間違いであることもありうる、と考えています。つまり、<規則に従っていると信じていて実際に規則に従っていること>と規則に従っていると信じていて実際には規則に従っていないこと>の区別も理解しています。

私たちが一人で自問自答するときには、これらを区別するだけで、どちらにもコミットしないのではなく、おそらく一方が正しいと予想していると思います。私たちは、多くの場合は、「自分が言語の規則に従っている」と想定しているでしょう。

「私は、言語の規則に従っているだろうか」「私は言語の規則に従っていない」と自問自答することは、問答論的矛盾です(これに入江幸男『問答の言語哲学』(p.233)を参照してください)。したがって、この問いに答えるとすれば、「私は言語の規則に従っている」と答えることが必然的です。言語の規則一般ではなく、カレンダーに「E」を記入する規則であれば、「私はそれに従っていない」と答えることは問答論的矛盾にはなりません。しかし、言語の規則一般であれば、私たちはたいていは、言語の規則に従っていますし、そう考えることが必然的である。

(ちなみに、ウィトゲンシュタインが『哲学的探求』で「E」の記入の規則を決めた時、またそれを私たちが理解するとき、私たちは、公的な言語の中で、私的言語のゲームの規則について、それを対象言語として説明し理解している。この構造についても考えなければならないかもしれない。)

私的言語の成立は、不確実です。しかし私たちは、ある語の定義ができたと想定して、自問自答したり対話したりできます。私たちは、知覚プロセスの場合に、モデルの設定、チェック、修正を反復しているように、語の設定の場合には、モデルの設定、チェック、修正を反復していると考えられます。

次回はこれまでの議論をまとめます。

AIとの共存に必要な哲学:多元主義(The philosophy needed to coexist with AI: Pluralism) (20241202)

[カテゴリー:日々是哲学]

AIは、孫正義さんがいうように、いずれ人間の知性をはるかにしのぐ知性(ASI)になるだろうと推測します。そのようなASIにとって、人間は、人間にとっての犬のようなもの、あるいは虫のようなものになるのかもしれません。そのようなASIは人類を支配するようになるでしょう。その意味でASIは人類にとっての脅威です。もしASIが一元論的な世界観や価値観を持つならば、人間の存在価値が無視されることになる可能性は高いと思います。人間がASIと共存するためには、ASIと人間が多元主義の哲学を採用することが必要になるとおもいます(もちろん、これだけではまだ不十分かもしれません)。それゆえに、私は多元主義の哲学を探求したいとおもいます。

しかし、多元主義は、このような目的のために必要になるだけではありません。そのような目的をわきにおいても、問答関係に注目して考察するとき、哲学は、とりわけ問題設定に関連して多元主義に向かうだろうと考えています。

136 私的再認と私的定義の不可能性?(the impossibility of private recognition and private definition ?) (20241128)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

前回は、定義宣言型発話を考察し、定義の文を、定義の後で同じ対象について反復するとき、それが真なる主張型発話になることを述べ、それが発話の真理性の誕生になると述べました。この発話の真理性は、定義の時の対象を再認して、それについて同じ文を発話することによって成立します。ここでは対象の「再認」が重要なのですが、この「再認」はどのように正当化されるのでしょうか。

まず、この再認の正当化には、ウィトゲンシュタインの私的言語批判と同様の問題が生じることを説明したいと思います。つまり、私的再認は不可能であり、それゆえにまた私的定義も不可能であることを説明したいと思います。次に、そこからどうなるのかを考えたいとおもいます。

#再認と規則遵守

ウィトゲンシュタインは、ある種の感覚をもった日にカレンダーに「E」と記入するという例を挙げて、それを続けているつもりの人が、規則に従っていることを保証するものはないと指摘しています。最初に「E」と記入した日の痛みを再認したときに、「E」と記入することがここでの行為の規則ですが、その再認を保証するものはない、ということです。これは「E」をある種の感覚があったことを表示する記号として定義しようとしても、私的にはそれができないことを示すものであり、私的な定義は不可能であると言えます。私的にそれができないのは、私が私的に反省するだけでは、<再認していること>と<再認していると信じていること>の区別が出来ないからです。したがって、私的言語が不可能であるのと同様に、私的再認は不可能であり、私的定義も不可能です。

#私的な行為は可能か

ところで、これと同様の再認は、言葉を定義したり言葉を話したりするときに限らず、私たちの認識全般において常に行われているし、さらに、認識に限らず行為においても同様の再認が常に行われています。例えば、朝コーヒーを淹れるために、コーヒーの粉が入った缶を手に取るとき、前回手に取った缶を再認しています。家を出て駅まで歩くとき、駅までの道を再認し、駅の建物を再認しています。

このような行為における再認の場合、再認の正しさは、行為が成功することによって確認できるように思えます(ただし、再認が間違っていても、たまたま行為が成功することがあるでしょうし、行為が成功したということについてもその認識の正当化が必要ですから、再認の正しさの確認は暫定的です)。コーヒーの粉が入った缶を手に取ることと、コーヒーの粉が入った缶を手に取ると信じることを、一人でいるときには区別できませんが、しかし、その後コーヒーをうまく入れられたとすれば、コーヒーの粉の缶を手に取っていたのであって、単にそう信じていたのではない、と言えるでしょう。

しかし、コーヒーを飲んでいて、そう思っていたとしても、それを飲んだ他者が、「これはコーヒーではなくココアだよ」といい、缶を見ればコーヒーの粉でなくココアの粉であったということは、ありえないことではありません。つまり、行為を可能にする再認は、行為の成功によって正当化されるが、しかしその行為の成功自体の正当化が、私的にはできない可能性があるということです。行為が成功したと思っていても、成功していなかったと後でわかる可能性が常に残るということです。

このように考えると、行為の場合にも<コーヒーを飲むこと>と<コーヒーを飲んでいると信じていること>の区別が出来ないと言えそうです。つまり私的な行為は不可能であるということになりそうです。ただし、行為の場合には、行為の失敗に自分で気づくことがあります。つまり<行為すること>と<行為していると信じること>の区別を自分でできる場合があります。

しかし、発話の場合にも、一人で何かを考えているとき、何かを書いているときに、その間違いに気づくことがあります。自分の文章を読み返して、誤字・脱字に気づくことはよくあります(ただ私の場合それに気付かないこともよくあります)。

 

 以上から帰結することは、何でしょうか。他者から指摘されて間違いに気づくことが可能なのは、自分一人で考えているときにも間違いの可能性を想定しているからではないでしょうか。つまり規則に従うことが可能であるためには、ウィトゲンシュタインがいうように<規則に従うこと>と<規則に従っている信じていること>を区別できることが必要ですが、そのためには<規則に従うこと>と<規則に従わないこと>の区別、<規則に従っていると信じていて実際に規則に従っていること>と<規則に従っていると信じていて実際には規則に従っていないこと>の区別を理解していることが必要なのではないでしょうか。これらの区別を理解していなければ、他者から指摘されても間違いに気づくことは不可能であるように思われます。そしてこの区別を理解していれば、私的であっても言語の規則に従うことは暫定的に可能であるかもしれません。次回は、このことを考えてみます。

135 定義宣言型問答と論理的関係(Definition-declarative questions and answers)(20241122)

(遅々として議論が進まなくてすみません。このカテゴリーでは、問いに対する答えが真であるとはどういうことか、という認識論の問題を考えています。真なる命題は、さしあたり、論理的数学的に真である命題と、経験的に真なる命題に分けることができます。前者は、論理的概念、論理的規則に基づくものであるが、それらは問答関係、特に理論的問答関係によって構成されるということを論じてきました。それに対して、後者の経験的に真なる命題は、経験的概念の定義に依拠していると考えられます。定義の宣言自体は、真理値を持たないが、それを反復するとき、その発話は真理値を持つ主張になると思われます。以上のことを念頭に置きながら、定義宣言型発話について考察したいと思います。)

#定義には、正/誤の区別はない。

これまでみた主張宣言には、正/誤(真/偽)の区別があり、行為宣言にも正/誤(実現可能/不可能)の区別があります。しかし、定義宣言には、この意味の真・偽の区別、実現可能性/不可能性の区別はありません。定義宣言は、正/誤の区別をもたず、適切/不適切の区別だけがあるです。例えば、ある子供に名前を付けるとき、兄と同じ名前、あるいは、父親と同じ名前をつけるとすれば、この名づけは不適切ですが、間違っているとは言えないとおもいます。兄弟が多くて、一人の兄の名前と同一であることを忘れて、同一の名前を付けたとするとき、その人は間違えたのですが、しかしその命名が間違いなのではなく、兄の名前と重複していない、と判断したことが間違いだったのです。

また例えば、ある子供に「ソクラテス」と名付け、それにつづいて、その後「ソクラテスニアラズ」という名前をつけるとしましょう。この二つの名前をつけることは、誤りではありません。しかし、紛らわしいので不適切な定義です。また、子どもに「悪魔」と名付けることも誤りではありませんが、不適切です。なぜなら、名前をつける目的(他者と区別して取り出すこと、その子を尊厳を持つものとして扱うこと、など)に反するからです。

#二種類の定義:対象の指示を前提する定義と前提しない定義

名づけることは、定義の一種だと思います。名づけるときには、ほとんどの場合、名づけの対象はすでに指示できるもの、同定できるものとして存在しています。これに対して、定義の場合には、定義の前に対象が指示可能なものとして成立している場合もありますが、定義によってはじめて対象を指示できたり同定できたりする場合もあります。後者の場合、私たちは、定義によってはじめて対象を世界から切り出し、同定しますが、その切り出し方に正/誤はありません。適/不適の区別があるだけです。

ちなみに、どちらの定義も、他の語句を必要とします。前者の定義は、他の語によって対象を指示したり同定したりするので、他の語の定義を前提します。これに対して、後者の定義の場合には、事前に対象の同定をしないので、そのための語を必要としませんが、後者の定義の場合にも、定義が被定義項と定義項からなると、定義項を構成するための語句を前提します。また文脈的定義にも、他の語句を必要とします。

#どちらの定義の場合にも、定義に依拠する真理は、再認に依拠する

ところで、一旦語を定義すれば、私たちはそれに拘束され、正しい使用法と誤った使用法の区別が生じます。例えば、ある子を「ソクラテス」と名付けたならば、その同じ子についての「この子はソクラテスである」は真となり、別の子についての「その子はソクラテスである」は偽となります。ある色を「赤」と定義したならば、同じ色のものを「これは赤ではない」と言うことは出来ません。これらにおいて、定義したときの対象を「再認」することが不可欠です。

 ここにつぎのような問いが生まれます。

「再認はどのようにして成立するのか」

「再認をどのようにして正当化できるのか」

これらの問題は、ウィトゲンシュタインが指摘した規則遵守問題でもあります。規則遵守問題が解決できなければ、定義を説明できません。

次回は、再認の問題を考えたいとおもいます。

宣言問答において、論理関係や様相関係や規範関係が構成されるかどうか、というここで論じるべき問題は、この再認問題と結びついています。

134 宣言的問答と論理的関係 (Declarative question-answer relations and logical relations) (20241111)

# 宣言的問答とは

宣言的問答とは、宣言型発話を答えとする問答です。宣言型発話とは、事実や関係や語句の意味を設定する発話です。J.サールによれば、主張型発話は言葉を世界に適合させようとし、意図表明の発話(行為拘束型発話と行為指示型発話)は、世界を言葉に適合させようとするのに対して、宣言型発話では言葉と世界の間の適合の方向は両方向です。このような宣言型発話は、次の3つに区別できるでしょう。

(1)主張宣言型発話

これは、事実についての主張であると同時に、事実を設定する宣言です。

「アウト」「有罪である」

審判や判決がこれにあたる。この発話は事実についてのものであるので真理値をもちますが、それを真にするのは、世界との関係だけでなく、宣言の発話そのものです。サールの表記では、適合の方向は↓↕(サール『表現と意味』山田友幸訳、誠信書房、32)となります。この発話の場合、審判が「アウト」と宣言するから、アウトなのであり、裁判官が「有罪である」と宣言するから有罪なのです。このような主張宣言型発話は社会的な慣習として、社会的制度に従うことによって成立します。

#主張宣言的問答と論理関係

裁判は、訴えで始まります。検事は、「Aは有罪である」と主張し、弁護人は、「Aは無罪である」と主張します。判事には、この矛盾の解決が求められます。つまり、判決は、「この矛盾をどう解決するのか」という問いへの答なのです。

主張宣言型発話の相関質問は、明示されませんが自明です。通常の主張型発話は、複数の相関質問の答えとなりうるのですが、主張宣言型発話は、慣習的に成立するものであり、相関質問もまた慣習的に決定されているので、それを明示しないのだと思われます。

裁判は両立不可能な二つの主張を前提としてはじまるので、裁判過程、および判決である主張宣言型発話では、二つの主張の両立不可能性は前提さています。

従って、宣言的問答の場合、問いのなかに曖昧なしかたである両立不可能性が、問答関係によって明示化されるのではなく、主張宣言的問答では、両立不可能性はすでに明示的に存在します。両立不可能性や帰結の関係は、主張宣言の問答関係から発生するのではなく、前提されています。

(2)行為宣言型発話

私がここで「行為宣言型発話」と呼びたいのは、つぎのような発話です。これは、行為についての決定であると同時に、行為を実現する宣言です。

  「開会します」「閉会します」

などの発話がこれにあたります。

実践的問答の答えである実践的発話は、命令と約束に区別できますが、いずれにせよ世界を言葉に合わせることにコミットすることであり、世界を言葉に合わせて変えるために行為しなければなりません。これに対して、行為宣言型発話は、発話に続いて何かを行為する必要はありません。なぜなら、発話の内容は、発話と同時に成立するからです。この点が行為宣言型発話と実践的発話の違いです。行為宣言型発話の適合の方向は、↑↕と表現できるでしょう。

宣言の遂行動詞の例としてサールが挙げているものの中で、私が「行為宣言型発話」と呼ぶものに属する遂行動詞には次のようなものがあります。:「開会します」:「辞任する」「休会する」「任命する」「指名する」「承認する」「確認する」「不承認とする」「支持する」「放棄する」「否認する」「否認する」「破門する」「聖別する」「洗礼する」「短縮する」

#行為宣言型問答と論理関係

行為宣言型発話もまた慣習を前提としています。それゆえに、それは、開会することと開会しないこと、承認することと承認しないこと、などの両立不可能性の関係の存在とその理解を前提としています。両立不可能性や帰結の関係は、行為宣言の問答関係から発生するのではなく、前提されています。

 では、定義宣言型問答もまた論理的関係を前提とするのでしょうか。これを次に考えたいと思います。

133 行為の規範概念は実践的問答から作られる。(Normative concepts of action are created from practical question-and-answer relationships)(20241101)

*問いと答えの関係は、サンクションを伴う

 問いに対して「p」と答えることは、pを選択することであり、pにコミットすることです。問いは、正しい答えを求めているので、pは正しい答えでなければなりません。もしpが正しい答えならば、pを答えることは感謝されたり褒められたりします。もしpが正しい答えでなければ、答えた者は間違えたのであり、批判され、何らかの罰を受けます。

 問いに対して答えることは、このようなサンクション(賞罰)をもちます。つまり「問いに対して正しく答えるべきである」という規範的関係が問答には暗黙的に内在しています。この規範的関係を明示化して、「べきである」という表現でそれを表すことができます。またこの規範的関係を名詞化して「問いに対して正しく答える義務がある」という表現を作ることもできます。

 一般に、規則が規範的であるか否かの区別は、サンクションがあるかないかの区別です。サンクションとは、規則従った時に褒賞があり、従わなかった時に罰がある、と言うことです。このどちらか一方だけがあるように見える場合にも、罰がないことが褒章であり、褒章がないことが罰である、と考えれば、常にこの両方があると言えます。

*では、理論的問答関係のサンクションと実践的問答関係のサンクションには、どのような違いがあるのだろうか。

 「問いに対して正しく答える義務がある」ということは、両者に共通していいます。違いは、「正しい答え」の違いにあります。理論的問いに対する答えの正しさは、答えとそれが表現する事実との関係に依存するのに対して、実践的問いに対する答の正しさは、答えの実行可能性にあります、いいかえると、答えと<答える者の行為能力と世界の関係>(<その人が世界で何ができるか>)に依存します。

 ただし、適合のこの2方向は互いに絡まって成立しているので、理論的問答と実践的問答のサンクションも現実には常に互いに絡まって成立していると言えるでしょう。  これまで理論的問答と実践的問答について見てきたので、次に宣言的問答についても、同様のことを確認したいと思います。