132 行為の様相概念は、実践的問答関係から作られる(Modal concepts of action are created from practical question-and-answer relationships)(20241027)

(これまで論理的概念、様相概念、規範概念が、理論的な問答関係や実践的問答関係に「内在する」と述べてきましたが、その説明では、それらの概念が問答関係に先立って成立していると述べているようにも見えます。しかし、私が提案したいことは、問いと答えの関係が明示化されることによって、論理的概念が作られるということです。例えば、「pですか」「いいえ、pではありません」という問いと答の関係を明示化しようとするとき、「否定」という概念が作られるということです。この提案をより明確なものにするには、論理的概念や論理的関係が、「問答の中に暗黙的に内在する」というこれまでの言い方はよくないようなきがしてきました。)

 

 理論的問いと答えの関係を明示化しようとするとき、「可能性」「現実性」「必然性」などの様相概念が作られることを説明しようとしました。これらの様相概念は、実践的問答にも関係しますが、その意味は少し異なります。ここでは、事実の可能性、現実性、必然性ではなく、意思決定ないし行為の可能性、現実性、必然性になります。

 「可能性」「現実性」「必然性」という様相概念は、このように二種類に区別できます。事実命題の成立の可能性、現実性、必然性などを「真理様相」と呼び、行為の可能性、現実性、必然性、などを「行為様相」と呼びたいと思います。真理様相は理論的問答から作られ、行為様相は実践的問答から作られます。

 

 例えば、次の実践的問答があるとします。

  「何にしますか」「うどんにします」

実践的問答では、答えの候補となりうるのは、現実にある事実ではなく、まだ行われていない<可能な行為>です。

実践的な問いに対する答えの候補が、「うどんにします」「そばにします」「カレーにします」であるとすると、これらはまだ実現されていない行為、<可能な行為>です。そして、これらの可能な行為のなかから、うどんを食べることを選択して「うどんにします」と答えるとき、その意思決定は<現実的な答え>あるいは<現実的な意思決定>となります。そして、現実に意思決定がなされることによって、うどんを食べることは、<可能な行為>であるだけでなく、<現実的な行為>になります。

 「うどんを食べよう」と意図決定するとき、その意図は事前意図であり、まだ行為は始まっていません。注文したうどんが、目の前に置かれたとき、私は箸をとって、うどんを食べ始めます。その時事前意図は「うどんを食べる」という行為内意図になります。事前意図が行為内意図になることは、一定の条件がそろったときには、常に(必然的に)生じます。意図決定によって、一定の条件下で、<必然的な行為>になります。

 理論的問答の場合、正しい答えは、反復して問うても常に答えとして反復される答えです。間違った答えの場合には、常にその答えがなされるとは限りませんが、正しい答えの場合には、常にその答えがなされるし、また常にその答えがなされるべきです。この意味で、正しい答えは、<必然的な答え>です。

 実践的な問答の場合、答えの候補はすべて正しい答え、つまり実現可能な答えです。それゆえに、反復して問うた時に、同じ答えが反復されるとは限りません。なぜなら、答えの候補がすべて正しいのだから、どれを現実の答えとすることも可能だろうからです。ただし、選択された現実の答えは、現実的意思決定であり、上に述べて様な意味で<必然的な行為>となります。

 実践的問いと答の関係から、可能な行為、現実的な行為、必然的な行為などの区別が生まれ、その区別を明示化するとき、行為の可能性、現実性、必然性の概念が生まれます。

 実践的問答から、規範概念がつくられることについては、次回に説明したいと思います。

131 実践的問答に内在する条件法とアブダクション (Conditionals and abduction inherent in practical questions and answers)(20241017)

(事実について問う理論的問いと答えの関係の中にすでに論理的関係が含まれているということを見てきたが、意思決定を求める実践的問いと答えの関係の中にも、すでに「否定」や「条件法」などの関係がふくまれています。「否定」については、前回見たので、今回は「条件法」について考えたいと思います。)

 #条件法の関係は、実践的問答に内在する

 理論的問いに答えるときは、問い以外の言語的な前提を用いない場合と用いる場合の二つに区別できました。前者では、問Qの前提全ての連言をΓとすると、Γ→pという条件文が成り立ち、後者では、問Q以外の前提の連言をΔとすると、(Γ∧Δ)→pという条件文が成り立ちます。この後者の場合にも、問答関係は、条件法「→」を暗黙的に含んでいます。

 実践的な問答の場合も同様に二種類のパターンに分けることができます。実践的な問いの前提以外の言語的な前提に依拠しないで答える場合と、問いの前提以外の言語的な前提に依拠して答える場合の二種類です。

 後者では、実践的推論によって答えることになります。例えば「Aを実現するために、どうしようか」という問いに、実践的推論で答えるとき、「Bするならば、Aが実現する」という形式の条件法を前提して用いることになります。この条件法は、時間的な依存関係を表現しています。それは単なる意味論的依存関係や単なる論理的依存関係ではなく、そこに時間の経過が含まれ、因果的な要素(これが何であるかが問題ですか)が含まれます。

 これに対して、前者では実践的推論の形式をとりません。例えば「うどんにしますか」と問われて「はい、うどんにします」と答えるとき、うどんを想像して、それを食べたいと感じて、「うどんにします」と答えたとしましょう。このとき、問いの前提以外に言語的な前提はないのですが、問いの前提として、「うどんを注文できる」「うどん以外にも注文できるものがある」などが成立しています。これらの前提が成立して、「うどんにします」と言うことが可能になります。ここで暗黙的に次の条件法が成立しています。「問いの前提が成立するならば、答えは正しい(答えは実現可能である)」。

 実践的問いに関して、<問いの前提以外に言語的前提を付け加えることなく答えるとき、その答えが正しい>ということは、<問いの前提にコミットするならば、結論に資格付与する>ということです。

#アブダクションは、実践的問答に内在する

 実践的問答に実践的推論で答えるとき、一般的には次のような形式をとります。「Aを実現するためにどうしようか」という問いに「Bしよう」と答えるとき、ここでは「Bしたら、Aを実現できる」という条件法を前提とした次のような推論を行っています。

  Aを実現しよう(あるいは、Aするために、どうしようか)。

  Bしたら、Aを実現できる。

  ゆえにBしよう。

具体例を挙げれば次のようになります。

   痩せるために、どうしようか。

   ダイエットすれば、痩せる。

   ゆえに、ダイエットしよう。

このような推論は理論的問答で用いられた分離則(「p、p→r┣r」)ではありません。ここでの推論は、形式的に表現すれば、

  「p、r→p┣r」

あるいは、

  「Aを実現しよう。Bを行う→Aを実現する。┣Bを実現しよう。」

となります。これは、結果から原因を推理する推論(アブダクション)です。

 このような実践的推論が正しいとは、<前提にコミットするならば、結論に資格付与する>ことだと考えられます

 実践的推論の正しさは、語や命題の意味が与えられたら、その意味だけに基づいて言えることかもしれません。もしそうならば、ある実践的推論が正しいかどうかは、理論的な問題です。もしそうだとしても、「Aを実現するために、どうしよう」の答えは、次のようにおそらく複数可能です。、

  「Aを実現しよう。Cを行う→Aが実現する。┣Cを実現しよう。」

  「Aを実現しよう。Dを行う→Aが実現する。┣Dを実現しよう。」

このように複数の実践的推論が可能であるとしたら、「Bを実現しよう」だけでなく、「Cを実現しよう」「Dを実現しよう」も答えの候補となります。これらの中から「Bを実現しよう」を選択して、実際の答えが行われています。この答えを選択することと、「Bを実現しよう」と意思決定することは同一のことです。

 実践的推論が正しいかどうかは、理論的な問題であるかもしれませんが、それを用いて行う「Aを実現するために、どうしよう」「Bを実現しよう」という問答は、実践的問答

です。

*予測誤差最小化メカニズムで行われる推論もアブダクションである。

ちなみに、理論的問答でもアブダクションは使用されます。予測誤差最小化メカニズムとは、<仮説を立て、それに基づいて現象を予測し、現実の観察された現象を比較して、差異があるならば、その差異が小さくなるよう仮説を修正する>というメカニズムです。経験的認識、理論的認識が、このメカニズムでお行われているとき、これは現象から新しい仮説を設定するアブダクションです。

#アブダクションは非単調です。

アブダクションは、実践的推論だけでなく、理論的推論の場合もあります。いずれの場合も、アブダクションは、非単調です。例えば、

  「p、r→p┣r」

このアブダクションに、s→pという前提が追加されて、

  「p、r→p、s→p┣s」

というアブダクションが行われることがあり得ます。つまり、アブダクションの場合、新しい前提が加わることによって結論が変化するということが可能です。

・理論的な問いの場合には、答えの候補がすべて正しいことはあり得ませんが、実践的な問いの場合には、答えの実行可能だと思われている意思決定が、答えの候補となります。もし実行可能だと思われる答えが正しい答えであるとするとき、実践的な問いの場合には、答えの候補はすべて実行可能だと考えられている答え、正しいと考えられている答えです。

・実践的推論は演繹推論ではなく、帰納推論でもなく、アブダクションです。実践的推論は、意思を決定するための推論である。ある目的を実現する方法は複数あるので、その中でどれを選択するかは、<自由>です。

 次回は、実践的問答において様相概念がどのようにかかわっているのかを考えたいと思います。

130 実践的問答に内在する「否定」と「矛盾律」(Negation and the Law of Contradiction Inherent in Practical Questions and Answers)(20241010)

理論的問答関係の中に、論理的語彙、論理的規則、様相概念、規範概念、などがすでに内在していることを、このカテゴリーでも、前回リンクした研究会での私の発表原稿でも論じました。そのときには、気づいていなかったのですが、同じことは、実践的問答関係、宣言的問答関係でも言えるだろうと気づきました。それを証明することが、ここでの課題です。

#実践的問答関係の中に、論理的語彙や論理的規則が内在しています。実践的問答とは、意思決定を求め、それに応える問答です。理論的問いに対する答えが正しいとは、その答えが真であるということです。それに対して実践的問いの答えは、意思決定であり、意思決定に真理値はありません。しかし、意思決定にも正/誤の区別はあります。実践的問いの答えが正しいとは、その答え(意思決定)が実行可能であることです。

 実践的問答は、例えば次のようなものです。

  「うどんにしますか」「はい、うどんにします。」

 この問答の中にすでに、否定の関係と矛盾律が暗黙的に含まれています。

#否定関係、矛盾律は、実践的問答にも内在する

  「うどんにしますか」

という実践的問いに対しては、「はい、うどんにします」と「いいえ、うどん以外のものにします」(あるいは、「いいえ、そばにします」「いいえ、カレーにします」など)という肯定と否定の答え方があります。この二つの答えの候補は、共に実行可能です。どちらの答えも、他者にとっては、正しい答えです。(もちろん、その答えが嘘の答えであること、つまり答える者が、うどんを食べるつもりがないことはありえます。それは問答の規範性の問題であるので後で論じます、)

 肯定と否定の両方の答えの可能性があることは、問い自体に含まれています。したがって、この実践的問い自体に、否定の関係が内在しており、肯定と否定の両方を同時に応えることはないこと(なぜなら、それを認めるならば、問うことは無意味になるからです)、つまり矛盾律も内在しています。(場合によっては、うどんを食べた後で、そばも食べることができるかもしれません。しかし、同時に二つを食べることは出来ません。もしできるとすれば、その場合には「うどんとそばを同時に食べる」は、第三の別の行為になります。この場合には、答えの候補には、「うどんを食べる」「そばを食べる」「うどんとそばを同時に食べるか」が含まれることになるでしょう。)

 では、ここでの否定や矛盾律は理論的問いに内在するそれらとどう異なるのでしょうか。

 

*理論的問答に内在する否定と矛盾律と、実践的問答に内在する否定と矛盾律

 実践的問答に内在する否定関係や矛盾律は、理論的問答に内在する否定関係や矛盾律と本質的に同じものであり、後者が基礎的であり、それを行為に適用したものが前者であると考えられるかもしれません。しかし、実践的問答は理論的問答に依拠して成立するのではなく、両者は等根源的です。あるいは、発生の上からすると、実践的問答の方がより原初的であるかもしれません。それゆえに、実践的問答に内在する否定関係や矛盾律は、理論的問答に内在する否定関係や矛盾律からは独立に成立したものと考えられます。この二つには、次のような異質なところがあります。

・理論的問答:「これはりんごですか」「それはリンゴです」

                 「それはりんごではありません」

・実践的問答:「これを食べますか」「それを食べます」

                「それを食べません」

 理論的問答のこれらの二つの答えも、実践的問答の二つの答えも、どちらも両立不可能です。

どちらも、二つの答えの両方にコミットすることはできません。ただし、理論的問答の場合のコミットメントは、事実の在り方についてのコミットメントであり、実践的問答の場合のコミットメントは、行為に向かうコミットメントです。

 事実へのコミットメントが両立不可能であることは、事実が両立不可能であることによるのではありません。なぜなら、二つの事実があって、その二つが両立不可能なのではないからです。一方が現実の事実であるなら、他方は可能な事実です。このような限定によって「事実」を区別するならば、現実的事実にコミットし、同時に、可能的事実にコミットすることが可能です。

 これに対して、実践的問答の肯定と否定の答えがコミットしているのは、(これから行う未来の)行為です。両立不可能なのは、(これから行う未来の)行為です。未来の二つの行為はともに可能ですが、しかしこれから同時に行うことは不可能です。

 理論的な問いに内在する両立不可能性は、現在の事実に関するものであり、両立不可能性自体も、現在の事実的な両立不可能性です(これを「理論的両立不可能性」と呼びたいとおもいます)。実践的な問いに内在する両立不可能性は、未来の行為に関するものです(これを「実践的両立不可能性」と呼びたいと思います)。。

   条件法とMPについては、次回に述べます。

129 「論理的関係は問答関係に内在する」(”Logical relationships are inherent in question-and-answer relationships.”)(20241003)

前回10月下旬に研究会での発表があると書いたのは、9月下旬の間違いでした。それは科研共同研究の中での発表でした。その時の発表原稿「論理的関係は問答関係に内在する」を私のHPにupしました(https://irieyukio.net/ronbunlist/presentations/PR49.pdf)。

次のような目次で話しました。

1 推論規則の従来の正当化の限界

2 論理的関係は、問答関係に内在する

3 様相関係は、問答関係に内在する。

4 規範関係は、問答関係に内在する。

5 規則に従うということ、論理法則への驚き

 1,2,3の内容は、このカテゴリーで話してきたことと重複していますが、その時の話より整理されたものになっています。

 全体の趣旨はこうです。まず言いたかったことは、論理規則を規約によって設定することは出来ますが、なぜそのような論理規則を設定することになるのかについての説明は従来為されていません。論理的概念やその使用法である論理規則は、問いと答の関係の中にすでに含まれている、ということです。さらに、この考えを、様相関係や規範関係にも拡張できるだろうということを断片的に示しました(こちらは、より説得力のある議論にしたいと思っています。)最後の5では、規則とそれへの気づきとの関係について書きましたが、もう少し一般的な形で拡張して議論する必要があると思っています。

 この5につづけて、最後に次のような付記をしました。

「付記:

論理的概念や推論規則といえば、世界を正しく記述するために必要なものとして理解されがちである。しかしそれは、論理的概念や推論法則にとって最も重要な働きではないだろう。しかし、そもそも言語は、群れでの共同生活のために作られてきたのだと思われる。つまり、決定疑問や補足疑問は、他者と問答するため、コミュニケーションするために作られたのだと思われる。したがってそれらに含まれる論理的関係は、他者との問答が成立するために、必要だったのであり、当初は世界についての正しい認識のために必要だったのではない。論理的規則や様相概念や規範概念は、原初的には他者との問答のなかに内在するものである。」

今回、<論理的関係や様相関係や規範関係が、問答関係に内在すること>を論じていた時、理論的な問答、あるいは認識における問答を念頭において論じていました。しかし、原稿を仕上げて全体を振り返ったときに、論理的関係や様相関係や規範関係が、内在している問答関係は、理論的な問答に限らず、他者との原初的な問答の中に内在するはずだと気づきました。そして、それらばな、実践的問答や宣言的問答にも当てはまるはずであることに気づきました。

<論理的関係や様相関係や規範関係>が、三種類問答(理論的問答、実践的問答、宣言的問答)に内在するとするとき、<論理的関係や様相関係や規範関係のそれぞれは、問答の種類が異なるとき、内容が少し異なるものになる>ということが、予想されます。もっとも違い大きいのは、規範関係であるかもしれませんが、論理的関係や様相関係でも違った内容になるだろうと予想します。

 次回から、これについて考察したいと思います。

128理論的問いのより上位の問いについて、続き(Regarding higher-level questions to theoretical questions (continued)) (20240909)

今回は、理論的問いのより上位の問いが、宣言的問いである場合について考えたいと思います。

 宣言的問いとはどのようなものでしょうか。理論的問いと実践的問いの答には正/誤の区別があります。理論的問いの答えの正しさは、その真理性であり、実践的問いの答えの正しさは、その実行可能性です。では、宣言的問いの答え(宣言発話)に正/誤の区別はあるのでしょうか。このことを考えたいと思います。

#ここでは宣言型発話を次の4種類に区別したいと思います(この区別は、私がこれまで述べてきたものと少し違っています。一つは、命名宣言と定義宣言を一つにして、定義宣言としたことです。二つには、表現型発話を宣言型発話の一種とみなし、表現宣言発話としました。)

  主張宣言発話(assertive declaratives):「アウト」

  行為宣言発話(performative declaratives):「開会します」「否認する」「承認する」

  表現宣言発話(expressive declaratives):「おめでとうございます」

  定義宣言発話(definitional declarataives):「これはリンゴです」

*主張宣言型発話をサールは、D↓↕(p) と表現したことがあります(サール『表現と意味』山田友幸訳、誠信書房、32)。例えば「アウト」という宣言によって、あるプレイがアウトであるという事実が設定されるので、この点では適合の方向は両方向↕になります。しかし、他方では、アウトは真であることも求められるので、語を世界に適合させるという方向↑も持ちます。このような主張宣言の発話が答えとなるとき、その答えには正/誤、ないし真/偽の区別があると言えます。「アウト」という宣言は、実際にアウトであったならば、アンパイアの宣言だとしても、誤りだといえます。言葉を世界に適合させなければならない場合、言葉が世界に適合すれば、その言葉は正しく、適合しなければ誤りです。

 このような主張宣言発話が、問いへの答えとして成立するとするとき、正しい答えには複数の可能性があるのでしょうか。野球の審判がおこなう「アウト」「セーフ」などの宣言は、決定疑問への答えとして発するものなので、正しい答えは一つであり、複数の可能性はありません。しかし、裁判の判決の場合、「有罪」「無罪」の部分に関しては、複数の正しい判決の可能性はないのですが、事実認定の部分については、複数の正しい事実認定の宣言があり得るでしょう。その中から一つの事実認定を選択して宣言するのは、説得力のある判決を行うという判決のより上位の目的の実現にとって有効であることに依拠するのだとおもわれます。(判決文の中の、量刑や賠償金などの決定の部分もまた、おそらくは、合理的な根拠があり、主張宣言発話として真理値を持つのだろうとおもわれます。)

 「アウトかセーフか」という宣言的問いに答えるために、「アウトかセーフか」という事実を問う理論的問いをたてるとき、この理論的問いの上位の問いは、主張宣言的問いです。

*行為宣言型発話は、D↑↕(p)と表現できるのではないでしょうか。なぜなら「開会します」という宣言によって開会がなされるので適合の方向は両方向になるのですが、他方で、会議は開始されたので、会議を具体的に進めるということが続かなければならないので、世界を言葉に適合させる必要があるからです。行為宣言型発話が答えとなるとき、それには正誤があります。「開会します」と宣言した後、会議を進める行為をしなければ、その宣言は誤りということになりそうです。この点で、実践的問いの正しい答えが実行可能性を持つのと同様に、行為宣言的問いの正しい答えは、実行可能性をもちます。

 「会議を開こうか」という問いに答えるために、「今から会議を開いて進行できるだろうか」という理論的問いを問うことがあるでしょう。この理論的問いの上位の問いは、行為宣言的問いです。

*表現宣言型発話にD↕φ(p)もまた、正誤の区別を持つようにおもいます。なぜなら、例えば、「おめでとうございます」という発話は、<相手が学校に入学した>という事実を前提としているので、もし入学していなければ、お祝いの発話は、無効になるからです。前提している事実が成り立っているのならば、表現宣言型発話は正しいといえるでしょう。

 「おめでとうと言おうか」と自問するとき、確認のために「本当に入学したのだろうか」という理論的問いを問うことがあるでしょう。この理論的問いの上位の問いは、表現宣言的問いです。

*定義宣言型発話D↕(p)

 定義宣言型発話の答えにも、正誤の区別はあるのでしょうか。例えば、子供の名前をつける命名宣言の場合、どのような名前を付けることもできますから、命名に正誤の区別はありません。もし子供がいなければ、命名は失敗ですが、命名が誤りになるのではないだろうと思います。したがって、正しい答え(宣言)をするために、理論的問いを問うことはありません。

ただし、定義宣言型発話の答えにも、適/不適の区別はあります。つまり、宣言のより上位の目的を実現するためにどのような宣言内容が有効であり、どのような宣言内容が無効であるかの区別はあります。例えば、名前を定義することは、その人を他の人から区別して指示するためであるので、そのために有効であるか無効であるかの区別はあります。子どもに兄弟と同じ名前を付けることは不適切です。なぜなら兄弟と同じ名前では兄弟との区別が出来ないからです(ただし、誤りとは言いにくいように思われます)。宣言的問いに適切に答えるためには、理論的な問い(おそらく技術的問い)をすることになります。ある種の理論的問いのより上位の問いは、宣言的問いです。

例えば、

「この子にどういう名前を付けますか」(宣言的問い)

この定義宣言的問いに適切に答えるために、つぎのような理論的問いを問うことがあるかもしれません。

 「この子にソクラテスと命名しても不都合はないだろうか」(理論的問い)

 「この子の兄弟や親類に「ソクラテス」という名の人はいないだろうか」(理論的問い)

 「「ソクラテス」という名前は、名前としておかしくないだろうか。」(理論的問い)

ところで、ここでは確認を省略しますが、主張宣言的問い、行為宣言的問い、表現宣言的問いの場合にも、それらに適切に答えるために、理論的問いがとわれることもあるでしょう。

#まとめ、理論的問いに対する正しい答えは、(もし理論的問いが決定疑問であれば、一つですが)、補足疑問であれば、複数可能な場合があります。その複数の正し答えの中から一つを選択しなければ、現実の返答はは出来ないのです。その選択は、理論的な問いを問うより上位の目的を実現する上で有効なものを選択することとして行われています。言い換えると、理論的な問いのより上位の問いに答えるのに役立つものを選択することとして行われています。上位の問いが、別の理論的な問いである場合、実践的問いである場合、宣言的問いである場合があり、それぞれについて詳しく見てきました。つぎのような二重問答関係があるとします。

  Q2→Q1→A1→A2 (Q2を解くためにQ1を立て、Q1の答A1からQ2の答えA2を得る)。

Q1が理論的答えであるとき、<Q1の答A1が適切であるとは、A1がQ2に答えるのに役立つということである>。Q2に答えるのに役立つことが、A1の適切性を規定しています。

 以上の答えの「適切性」の議論は、発話の意味を相関質問への答えとしてとらえるということが、問答のペアを意味の基礎的単位と見做す立場だと思われること防ぐうえで重要です。発話の適切性は、相関質問との関係ではなく、より上位の問いとの関係に規定されているので、ある問答が成り立つためには、より上位の問いとの関係が必要であることを示しているからです。

(ここから、実践的問いのより上位の問い、宣言的問いのより上位の問い、についてそれぞれ考察を続けて、理論的問いの答えの適切性に限らず、他のタイプの問いの答えの適切性についても、確認したほうがよいのですが、次回は、すこし別のテーマで議論したいと思います。10月下旬にある研究会で発表するので、それの準備を進めたいからです。「問いの答えが正しいとはどういうことか」「問答関係による推論規則の正当化」「実質推論はなぜ非単調性なのか」などに関連した話になると思います。)

127 理論的問いのより上位の問いについて(Regarding higher-level questions to theoretical questions) (20240821)

(長い間、更新できず、すみませんでした。2024年7月31日午前2時8分に母が亡くなり、哲学を考える時間を十分に取れなかったためです。家族の死について、また一般に人の死について、いろいろ考えることはあるのですが、もう少し時間をおいてどこかで述べたいと思います。)

前回見たように、問いに対する正しい答えは、複数可能であり、その中から一つを選択して答えるとき、適切な答えを選択しています。答えが適切であるとは、その問いのより上位の問いに答える上で有用であるというということです。したがって、問いの答えの適切性は、より上位の問いがどのようなものであるかに依存します。そして、<問いの答えの適切性は、より上位の問いに応じて、異なるものになります>。以下で、このことをより詳しく説明します。

#問いを3種類(理論的問い、実践的問い、宣言的問い)に区別するとき、問いとより上位の問いの関係は、この組み合わせによって9種類に区別できます。その中で理論的問いとそのより上位の問いの関係は、次の3種類です(ここで「問1→問2」は、問1に答えるために問2を問う、という意味です。)

   ①理論的問い→理論的問い

   ②実践的問い→理論的問い

   ③宣言的問い→理論的問い

前回考察した例は、理論的問いのより上位の問いが理論的問いの場合、つまり①の場合でした。そこで、今回は②を見ておきたいと思います。

②実践的問い→理論的問い

実践的問いは次の2種類に区別できます。

  

(a)「…するために、どうしようか」(行為決定(手段決定)の実践的問い)

 Aを実現するために、どうしようか(あるいは、何をしようか)」という問いの答え「Cしよう」が正しいとは、その答え「Cしよう」を実行すれば、Aを実現できるということです。つまり、Cをすることが、Aを実現するための十分条件でなければなりません。ところで、Aを実現するための十分条件は、C以外にもありうるので、「Aを実現するために、どうしようか」という実践的問いに対する正しい答えは、複数可能です。その複数の候補の中のどれにするかは、理論的、技術的には決定できません。その選択は、この実践的問いのより上位の問い(より上位の目的)に依存します。より上位の目的を実現するのに有用な答えが適切な答えとなります。つまり実践的問いの答えの適切性は、より上位の問いに依存するということです。

ただし、ここで論じたいのは、このことではなく、理論的問いが実践的問いをより上位の問いとするとき、理論的問いの正しい答えの中から、適切な答えを選択することが、実践的問いの解決に有効であるかどうかによって行われている、と言うことです。例えば、Aを実現するために、どうしようか(あるいは、何をしようか)」という問いに、「Cしよう」と答えるためには、この答えの正しさを確認すること、つまり「Cをすれば、Aを実現できる」ということを確認する必要があります。この確認は、「CをすればAを実現できるのですか」という問いに「はい」と答えることによっておこなわれます。この問いは、客観的事実を問う理論的問いであり、答えは真理値を持ちます。このような理論的問いを特に「技術的問い」と呼ぶことができるでしょう。(この問いを、「どうすればAを実現できますか」と言い換えることもできます。)

 もう一度まとめておきます。

 「Aを実現するために、どうしようか」は、実践的問いです。

 「どうすれば、Aを実現できますか」は、理論的問い(技術的問い)です。

この二つの違いは、次の点にあります。

 実践的問いは、行為のための意思決定を求めているので、正しい答えが複数あってもその中から一つを選択して答えることが必要です。この実践的問いに対して、「Aを実現するために、Bするか、Cするか、Dするか、のいずれかをしよう」と答えることも可能ですが、しかし、それは実践的な問いに対する十分な答えであるとはいえません。なぜなら、実践的問いは、行為のための意思決定を求める問いだからです。「Aを実現するために、どうしようか」という実践的問いに対する答えは、可能な正しい答えが複数ありうるとしても、それから一つを選択して、「Aを実現するために、Cしよう」と言うように答える必要があります。

 それに対して「どうすれば、Aを実現できますか」という技術的問いもまた複数の答えを持つ可能性があります。技術的問いの場合には、「Bするか、Cするか、Dすれば、Aを実現できます」と答えることができます。そしてこの答えは「Cすれば、Aを実現できます」という答えよりも、より正確な答えだと言えそうです。ココで例に挙げた二つの問いは、表現上は似ていますし、交換することも可能です。しかし、その際に、行為の意思決定を求める問いであるか、目的実現の十分条件の記述を求める問いであるか、という違いが重要になります。問いの表現は似ていても、答えとして何を求めているかの違いが重要です。

(ちなみに、「Aを実現するために、何をすべきか」という問い(Aを実現するための必要条件を求める問い)もまた、客観的事実についての理論的問いであり、この理論的問いもまた、「技術的問い」と呼べるでしょう。

 このような技術的問いは、次の二種類に区別できるかもしれません。

  「Aを実現するための十分条件は何か」(または、「何をすれば、Aを実現できるのか?」)

  「Aを実現するための必要条件は何か」(または、「何をしなければ、Aを実現できないのか」や「何をすれば、Aを実現できないのか」など)

 

次に別の種類の実践的問いを考察しよう。

(b)「これから何をしようか」(目的設定の実践的問い)

 朝起きた時、ひと仕事終わった時、など一日に何度か私たちはこのような問いを問います。この問いは、何らかの目的を実現するために「何をしようか」と問うているのではありません。もしそうならば、これは上記の実践的問いに属します。この問いは、目的を実現するための手段を問うているのではなく、どんな目的を設定するかを問うています。

 「これから何をしようか」の答え「Bしよう」には、一見すると正しい答えと間違った答えの区別はないように思えます。しかし、「Bしよう」と答えるためには、Bすることが可能であることが必要であり、それがもし不可能であれば、それは正しい答えとは言えません。逆にいうと、Bすることが可能であれば、「Bしよう」は正しい答えです。つまり、この種の実践的問いの答えにも、正しい答えと間違った答えの区別があるのです。答えが正しいとは、それが実行可能であることです。

 したがって、「これらか何をしようか」の問いに「Bしよう」と答えるときには、「Bすることは可能だろうか」と問い、「可能だ」と答える必要があります。そして、この問答は、理論的問答です。この種の実践的問い(目的設定の実践的問い)は、「答えの候補(行為の事前意図)が実行可能性であるか」という理論的問いのより上位の問いとなっています。

 この問いもまた「技術的問い」と呼ぶことができるでしょう。この技術的問いは、上記の技術的問いとはことなります。これは、次のどちらでもありません。

  「Aを実現するための十分条件は何か」(または、「何をすれば、Aを実現できるのか?」)

  「Aを実現するための必要条件は何か」(または、「何をしなければ、Aを実現できないのか」 や「何をすれば、Aを実現できないのか」など)

この技術的問いは、「Bできますか」例えば「自転車に乗れますか」というような問い、能力の有無を問うものです。

理論的問いのより上位の問いが、実践的問いであるとき、その理論的問いは、このような技術的問いになります。

  次回は、理論的問いのより上位の問いが宣言的問いである場合を考察します。

126 問いに対する答えの正しさと適切性の区別 (Distinguishing between correctness and appropriateness of answers to questions) (20240729)

ここまでは、理論的問いに対する答えが正しい(真である)とはどういうことか、を論じてきました

(まだまだあいまいな部分を残したままですが)。ここから、問いに対する答えの正しさ(真理性)と区別される、答えの適切性について論じたいとおもいます。問答関係を論じるとき、この区別はとても重要になるものです。

 まずは、理論的問答の適切性について考察したいとおもいます(あとで、実践的問答や宣言的問答の正しさと適切性の区別についても考察します)。

#「適切性」の定義

・理論的問いの真なる答えには、複数のものがありえます。例えば、ある物質についてついて「これの重さはいくらですか」という問いへの真なる答えは、複数ありえます。「大体3グラムです」「3.12グラムです」「3,122mgです」「0,11オンスです」「ちょうどあれの二倍です」これらがすべて真なる答えである場合があります。この問いに、どのような単位で答えるか、どの程度の精確さで答えるか、については複数の可能性があります。ただし、実際にこの問いに答えるためには、この複数の答え方の中から一つを選択しなければなりません。この選択は、この問いを問う理由、つまりこの問いのより上位の問いに依存するでしょう。例えば、料理をするために重さをはかるときと、化学実験のために重さをはかるときでは、答え方が違ってくるでしょう。塩を測るとき、金を測るとき、ダイヤモンドを測るときでは、使用される単位が異なるでしょう。科学実験の場合も、その実験内容によって求められる精確性はさらに異なってくるだろう。これらが全て真なる答えであるとしても、適切な答えと不適切な答えの区別が可能です。ある問いを問うことが、より上位の問いに答えるためであるときには、そのより上位の問いに答えるのに有用な仕方で答える必要がありますが、それを答えの「適切性」と呼ぶことにしたいと思います。

 上の例は、量を問う問いです。

#補足疑問(WH-疑問)の問いの真なる答えは、複数可能であるように思われます。

*場所を問う「どこ」の問いの場合:「あなたはどこで生まれましたか」に対して、次の答えが考えられます。「私は、東アジアでうまれました」「私は日本で生まれました」「私は香川県で生まれました」「私は丸亀市で生まれました」「私はうどん県で生まれました」「私は讃岐で生まれました」どれも真なる答えです。このとき、どのような答えが適切であるかは、この問いのより上位の問いが何であるかに依存します。

*時間を問う「いつ」の問いについても同様に考えられるので、例を省略します。

*次に、「どれ」の問いの例を挙げます。「Xさんの車はどれですか」という問いに対する真なる答えとして、つぎのような複数の例を考えることができます。それら答えは、より上位の問いによって適切な答えとなることがあります。

  「Xさんの車は、あの赤い派手な車です」(Xさんの車で葬式に行くかどうかを検討しようとしている人には、役立つ答えである)

  「Xさんの車は、あの高級車です」(Xさんに投資を進めるかどうかを検討しようとしている人には役立つ答えである。)

  「Xさんの車は、最も進んだ自動運転の安全な車です」(XさんAIに関心があるかどうかを知りたいと思っている人とっては、役立つ答えである)

  「Xさんの車は、奥さんが選んだあの赤い車です」(Xさん夫婦の仲が良いかどうかを知りたいと思っている人にとっては、役立つ答えである。

*次に、「なぜ」の問いの例を挙げます。 「なぜ、そのとき、そこで、大雨が降ったのですか」

という問いに対する真なる答えとして、次のような複数の例を考えることができます。

  「なぜなら、当時の気圧配置がこうなっていたからです」

  「なぜなら、そこでの気圧配置がこうなっていたからです」

  「なぜなら、大雨が降るのはこういう気圧配置のときだからです」

これらの答えは、全て真なる答えでありうるのですが、この中のどの答えが適切であるかは、この問いを問うたときの、より上位の問いが何であったかに依存します。

#決定疑問(yes/no疑問)の真なる答えには複数性はない。

 決定疑問への真なる答えは、省略形を除けば、「はい」か「いいえ」のどちらかしかありません。つまり、決定疑問の真なる答えには複数性はありません。これは、その決定疑問が、理論的問いの場合にも、実践的問いの場合にも同様です。

 補足疑問の場合には、より上位の問いが異なれば、適切な真なる答えは変化します。決定疑問のより上位の問いも複数あり得るのですが、決定疑問にたいする真なる答えは、一つしかなく、したがって、適切な真なる答えも一つであり、それはより上位の問いが変わって変化しません。(なにか不思議な感じがするのですが、これが何を意味するのか、まだよくわかりません。)

 次回は、このより上位の問いが、理論的問いである場合、実践的問いである場合、宣言的問いである場合に、区別されること、そしてそれが何を意味するのかを論じたいとおもいます。

125 「真理の定義依拠説」を振り返る (A look back at the “definition-based theory of truth”) (20240715)

[カテゴリー:問答の観点からの認識] 

 (あれこれと考えているうちに、遅くなりすみません。)

 論理学や数学の命題が問いに対する正しい答えであることは、それらの公理系で証明できるということです。そして、どのような公理や推論規則を設定するかは、ベルナップが主張したように、まず公理を推論規則に変形して、全ての推論規則が保存拡大性を充たすように設定するということが必要条件になります。ただしそれに加えて(111回に述べたように)、問答関係に暗黙的に内在する論理的関係を充たすように設定するという条件を加える必要があると考えています。

 ところで、公理や推論規則に基づくだけでは答えることができない問いの場合には、科学的な理論命題を含めて、最終的には日常的な経験的な語彙の意味(使用法)に基づくことになると思われます。日常的な問答の答の正しさ(真理性)は、経験的な語彙の学習に基づいており、その学習の正しさを遡れば、それは、経験的な語彙の定義に基づきます。これを真理の「定義依拠説」と名付けました。

 しかしここでの問題は、日常的な語彙の定義をどのように理解するかです。

語の意味(使用法)は、語を用いた推論によって与えられ規定されます。<推論は、それに含まれる語の意味によって成立し、構成される>と考えるとき、それは「形式推論」であり、逆に<推論は、それに含まれる語の意味を規定するものであり、それらの語に意味を与えるものである>と考えるとき、それは「実質推論」であると呼びたいとおもいます。これはブランダムの「実質推論」の理解に依拠しています。形式推論は単調推論ですが、実質推論は非単調推論になります。

 日常的な語彙の意味の特徴は、非単調な実質推論によって意味が与えられるということになります。(これを非単調な実質推論によって意味を与えることを、「定義」と呼ぶことには批判があるかもしれません。しかし、「これはリンゴです」や「私には二本の手があります」などの真理性については、定義依拠説と呼んでもよいように思われます。)

さて、現在以下のような問題を考察中なのですが、ここから次にどう進むか思案中です。

  タルスキーに始まる、意味論的語彙をどう扱うべきか、と言う問題

  問いに対する答えの正しさと適切性の区別の問題

  実質推論の非単調性と推論規則の拡大保存性の関係

いずれにしても、少し仕切り直したいと思います。

124意味論的関係「指示」「述定」「真」などは、問答関係の中に暗黙的に内在している。(Semantic relations such as “denotation,” “predication,” and “true” are implicit in question-answer relations.)(20240702)

(公理系で意味(使用法)を規定できない言語の意味(使用法)については、定義や実質推論によって、意味(使用法)を理解することになる。)

 対象言語が有意味であるならば、そこにはすでに意味論的関係が成立しています。この意味論的関係について、タルスキーのようにメタ言語において成立すると考えるか、それとも対象言語とメタ言語は不可分なので、意味論的語彙は対象言語自体の中に成立すると考えるか、という違いに関係なく、意味論的関係は対象言語においてすでに(たとえ暗黙的であるとしても)成立しています。対象言語のなかに意味論的関係が成立しているということは、言い換えれば、対象言語の中に、その語句と対象との指示関係、文と事態との対応関係が成立している、あるいはそれに似たことが成立しているということです。それは、どのように成立しているのでしょうか。

 以下に説明するように、それは、問答関係の中に成立しているだろうと考えます。

#指示の関係は、すでに問答関係の中で成立しています

 指差し行為で指示すると同時に、「あれ」という発声によって指示することが、指示のもっとも原初的な形態だろうと推測します。そして、この指差し行為は、対象についての共同注意を形成するために行われるのだろうと推測します。指示詞による対象の指示もまた、対象についての共同注意を形成するためでしょう。

#「指示」とは、第一義的には人が行う行為であり、語がもつ機能ではありません。

しかし、人が、ある語を用いて、ある特定の対象だけを指示するとき、その対象を指示することはその語の機能だと言えます。例えば、ひとの固有名は、その人を指示する機能を持つといえます。指示は、第一義的には語と対象の関係ではなく、話し手が語を使用する仕方の一種であり、意味論的概念というよりも、語用論的概念です。

 名前のように、ある語句が特定の対象だけを指示するのに使用されるのではなく、指示詞のように、話し手が指さす対象を指示するなど、話し手と一定の関係に立つ対象を一般的に指示する場合もあります。固有名であれ指示詞であれ一般名であれ、語句とそれを用いて指示を行うときの指示対象との間に、一定の規則性が成り立つとき、その規則性を、その語句の機能だと見做すことができます。そのとき、指示は、その語句がもつ機能であり、使用法です。

 ある語句で特定の対象を指示することは、二義的には、語句と対象の関係ですが、第一義的には、人がその語句を用いて特定の対象を指示するというその語句の使用規則に従うことです。

 語句を用いて対象を指示する行為は、共同注意を実現するために行われます。その行為が有意味であるためには、共同注意が実現で来たかどうかを確認できることが必要です。共同注意の成立の確認、あるいは指示の成立の確認は、問答によって行われます。したがって、指示は、問答によって行われます。

 語の意味は使用法であり、もしその語の意味(使用法)が、人がそれを用いて特定の対象だけを指示することであるならば、「指示すること」は、その語句の使用法の特性を示す概念です。意味論的概念とは、語の意味(使用法)の特性を示す概念です。

  「Xさんの車はどれですか?」「あの赤い車です」

という問答は、「Xさんの車」問い語句の意味(使用法)の特性が「指示すること」であることを暗黙的に組んでいます。また「どれ」という疑問詞もまた、相手に「Xさんの車」の指示対象を指示することを求めており、「指示すること」を暗黙的に含んでいます。

 指示は、語句と対象の関係ではなく、語句の使用法の特性の一つです。その使用法を説明するには、対象への言及だけでなく、話し手への言及が必要です。語句が対象を指示するのは、人が語句を用いて、ある対象を指示するということことであり、さらに言えば、人が語句を用いて対象を、特定の他者(他者たち)に指示するということです。<指示は、指示する人、指示される人、指示する語句、指示される対象、の4つの関係として成り立ちます。>

#述定の関係も、すでに問答関係の中で成立しています。

 次の問いは、述定をもとめ、答えはその述定を行っています。

  「これは何ですか」「それはリンゴです」

この問答において、「リンゴ」は述定に用いられています。文が成立するのに語による対象の指示は可欠ではありませんが、述定は不可欠です。述定によって語の集まりは、文になります。

#真理の関係も、すでに問答関係の中で成立しています

 「真である」という述語は、決定疑問に暗黙的に内在しており、

  「それはリンゴですか?」「はい、リンゴです」

  「Is that an apple?」「はい、it is true」などの問答の中で明示化されます。

また、次のような指示や述定の学習のための補足疑問の問答は、真なる命題を学習することでもあります。

  「どれがリンゴですか」「これがリンゴだ」

  「これは何ですか」「これはリンゴだ」

指示や述定や真なる命題の学習は問答によって行われています。

問答の中には、指示関係(語句と対象の関係)、述定関係(語句と性質の関係、対象と性質の関係)真理関係(命題と事実の関係)が、暗黙的に含まれており、これらの学習と、問答の学習は、不可分です。

 さて、以上を踏まえて、前に説明した、真理の「定義依拠説」に戻りたいと思います。

123 対象言語とメタ言語の区別再考(Reconsidering the distinction between object language and metalanguage)(20140625)

*とりあえずの帰結

命題論理と一階述語論理では、そこでの語や文の意味(使用法)は公理と推論規則によって規定されていると考えることができます。このような意味論を仮に「公理論的意味論」と呼びます。それに対して、一階述語論理よりも複雑な公理系では、不完全性定理によれば、公理と推論規則によっては、ある命題及びその否定を証明できない命題が存在します。したがって、「公理論的意味論」を採用できません。

 そこで、タルスキーのようにある公理系の語や文の意味(使用法)については、メタ言語で語ることにするとき、そのメタ言語の意味(使用法)を語るには、さらにメタメタ言語が必要になります。ただし、これが無限に反復するとしても、最初の公理系の語や文の意味(使用法)はいつになっても確定しないということにはならないと思います。なぜなら、対象言語の語や文の意味(使用法)が、メタ言語で定義できるとすれば、その定義の意味(使用法)が仮にまだメタメタ言語で規定されていないとしても、そのメタメタ言語の記述によって、メタ言語の使用法が変化することはないからです。そしてメタ言語の使用法が変化しないならば、対象言語の語と文の意味(使用法)の記述もまた変化しないのです。ただし、意味論的メタ言語によって、対象言語の意味(使用法)を完全に与えることはできません。なぜなら、このメタ言語の公理系について「不完全性定理」が成り立つからです。

 ある言語の内部で「…は真である(あるいは偽)である」などの述語を用いるとき、その一部の例が必然的に矛盾を引き起こすときに、その不具合が公理系全体に広がらないようにする手立てを考えるというアプローチがあるかもしれません(そのような試みとして、クリプキの真理論、グプタとベルナップの真理論、矛盾許容論理などを挙げることができると思います)。

 ところで、タルスキーの「定義不可能性定理」の証明は明確で非の打ちどころのないものですが、

その前提となる対象言語とメタ言語の区別は、タルスキーが考えたような仕方で可能なのだろうか、という疑問があります。その疑問を説明したいと思います。

#対象言語とメタ言語の区別再考

 対象言語とメタ言語の区別は、タルスキーが考えたような仕方で可能でしょうか。タルスキーは、対象言語はメタ言語なしに成立すると考えています。しかし、言語はそれについてのメタ言及なしには成立しないのではないでしょうか。

 私たちは、自分の発話について頻繁に言及します。例えば、「何と言いましたか」「それはどういう意味ですか」「それは・・・という意味ですか」などの発話は非常に頻繁になされます。会話を進めるには、発話に言及して、何と言ったのか、どういう意味で言ったのかを確定しつつ会話を進めることが不可欠です。会話は、発話の想起によってコントロールされ構成され、発話の想起は、発話についてのメタ発話として成立します。

 問いに答えようとするときには、問いを覚えおり想起していることが必要です。問いの想起は、問いへの指示を必要とします。したがって、問答関係の中で暗黙的にメタ発話が行われており、メタ発話によって問答が成立しています。

 つまり、言語はそれについてのメタ発話なしには成立しないのです。もしこう言えるならば、メタ言語が対象言語を前提するように、対象言語もまたメタ言語を前提することになります。もし両者が、相互的な意味依存の関係にあるとすれば、両者は二つの言語ではなく一つの言語だというべきです。

 

 このことと結合しているのですが、次に<意味論的概念、「指示」「述定」「真」などは、対象言語の中の問答関係の中にすでに暗黙的に内在している>ということを指摘したいと思います。(そして、そのことと、前に論じた「真理の定義依拠説」との関係を説明したいと思います。)