115 形式推論と実質推論の区別(distinction between formal and material inferences) (20240405)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

「実質推論」という語が最初につかわれたのは、おそらくセラーズの論文「推論と意味」(1953)だろうと思います。ブランダムが「実質推論」について語るとき、依拠しているのはセラーズのこの論文です。ただし、セラーズはこの論文で推論を「形式推論」と「実質推論」に区別して、二種類の推理があることを認めているのですが、ブランダムは、この二つを区別するものの、厳密にいえば「形式推論」も「実質推論」であると考えています。これがセラーズとブランダムの異なるところです。ここでは、セラーズやブランダムの議論に学びながらも、現在のところ私が、「形式推論」と「実質推論」の区別をどのように設定しようとしているのかを説明します(その結果として、語や文の意味を実質推論によって与えられるものとして考える問答推論的意味論が、真理の定義依拠説と両立することを示したいと思います。)

まずヒルベルトが『幾何学基礎論』でしようとしたことの説明から始めたいと思います。ヒルベルトは、『幾何学基礎論』で、幾何学の公理系を提示しましたが、そのとき、幾何学的語(点、直線、平面、など)を定義せず無定義術語として導入しました。それらの語の意味(使用法)は、公理によって示されます。公理に示されていない意味(使用法)を持つことはありません(もしそのようなことがあれば、公理やその定理によって記述できない、幾何学的命題があることになるでしょう。もちろん、そのようなものはありません。推論的意味論は、この無定義術語の導入に始まると言えそうです)。

 幾何学の定理はその公理から論理学によって導出されますが、論理学についても、論理的語彙を、無定義術語として導入し、その使用法を公理によって記述し、論理学の定理は、公理から推論規則によって導出することができます。そうすると、論理的語彙についてもその意味を、公理と推論規則によって与えることができます(ヒルベルト自身が論理学についてどう考えていたかについては、彼とアッカーマンの共著『記号論理学の基礎』を確認する必要がありますが、今手もとにないので後日)。

#原子論的意味論での「形式的推論」と非原子論的意味論での「実質的推論」

まず、<語は文の中で使用され、文の意味(使用法)はそれを結論とする上流問答推論とそれを前提とする下流問答推論によって与えられる>と考えます(これが推論的意味論です)。この場合、推論の理解は、語や文の理解を前提することができません。このように理解される推論を、「実質推論」と呼びます。それに対して、原子論的意味論の立場で、語の理解から文の理解が構成され、文の理解から推論の理解が構成されると考えるとき、これを「形式推論」と呼ぶことができます。

 これを「形式推論」と呼ぶのは、カルナップに従ってものです。カルナップは「言語の論理的構文論」を構想しましたが、そこで彼は、「意義や意味にどんな言及もしないような言語的表現に関する考察や立言を「形式的」とよぶ」(カルナップ『論理的構文論:哲学する方法』(吉田謙二訳、晃洋書房、34))のです。

 通常の論理学の教科書では、原子論的意味論の立場から、推論についての形式的に説明します。まず、命題記号や論理結合子を定義によって導入し、論理結合子の意味を真理表によって示します。次に公理を提示しますが、その公理が真であることは、論理結合子の意味にもとづくとされます。つまり、真理表を用いて公理が恒真式であることを示します。次に推論規則、分離則(MP)を導入し、MPにおいて、前提が真であれば、結論が真となることを真理表によって示します。そうすると、公理と推論規則を用いて証明されるすべての定理は、恒真式であることを証明できます。したがって、その公理体系は無矛盾です。

 しかし、推論的意味論を採用すると、このような原子論的意味論を取れません。それは非原子論的(分子論的か全体論的)意味論になります。論理学の同一の推論が、原子論的に理解されたときには「形式推論」となり、非原子論的に理解されたときには「実質推論」になると考えます。私は、形式推論と実質推論の区別は、推論の解釈の仕方の違いであり、構文論的には同一の推論であると考えます。  このように論理学もまた実質推論からなると考えるとき、その公理や推論規則の設定はどのように行われ、どのように正当化されるのかを次に説明します。

18 規則遵守問題、生きがい、承認(the rule-following problems, reason to live, recognition)(20240223)

[カテゴリー:哲学的人生論(問答推論主義から)]

(ブランダムのA Spirit of Trustの読書会に参加しているのですが、その第8章でブランダムがカントの自律について語っていることが、「生きがい」にも当てはまると思いますので、そのことを説明したいと思います。(以下の話は、これまで論じてきた人の「生存価値」に関わりますが、今回の話を、これまで話と結びつけることは、今後の行う予定です。)

#ブランダムによれば、カント的自律には欠陥がある。

カント的自律は、<自分で立てた法則に従うこと、それを是認すること>です。

  法則を自分で立てること

  法則に従うことを自分に是認すること

これによって、カントは、直接的に権威(尊厳)を構成します。

ブランダムは、自分で立てた法則に従うことができているかどうか、それを是認するときには、自分で立てた法則に従っていると信じているがそれが正しいのかどうかは、ウィトゲンシュタインの規則遵守問題の一種であると考えます。そして、ウィトゲンシュタインの私的言語批判とおなじく、自律もまた私的には不可能であり、他者によって、自分で立てた法則に従っていること、定言命法に従っていること、を承認される必要があると考えます。さもなければ、自律は不可能であり、自律は仮想的であり、現実的ではないと考えます。

(同じように考えるならば、「これは赤い」という認識が他者から承認されるとき、それは初めて客観性を持つ。他者からの承認がないときには、それは「仮想的」であるとブランダムは言うでしょう。)

ブランダムは、カントの「尊厳」についても、同様に考えており、人が尊厳をもつことはその人が、尊厳をもつことを自分に是認するだけでは不十分であり、他者から尊厳を帰属されること、つまり他者に尊敬されることが必要だと言います。「尊厳」の意味は、私的には成立しないからです。

さて、私たちはこの議論を「生きがい」にも当てはめることができます。人の「生きがい」は、さしあたりは、その人が自分で設定できます。「私はこれを生きがいにする」と言えばよいのです。しかしそれだけでは「生きがい」はまだ私的言語(あるいは個人言語)であり仮想的です。それが有意味であるためには、他者からの承認が必要です。他者から承認されて「生きがい」は現実的となります。それゆえに、私たちは、他者の承認を求めます。

 ブランダムは、自己意識は規範的地位であり、規範的地位は社会的地位であるといいます。つまり自己意識は承認関係において成立するであり、個人が持つ性質や機能ではありません。自由も同様であり、自由は相互承認関係において成立するものであり、個人が持つ性質ではありません。

 これ踏まえて言い換えると、自己意識や自由や「生きがい」は、他者との問答において成立するものです。「これはリンゴです」という認識は、「あれはリンゴではない」との対比の中で成立するのだから、「これはリンゴですか」や「どれがリンゴですか」という問いに正しく答える答えられることによって成立します、つまり他者との問答において成立します。これと同じく、「私は自己意識を持つ」「私は自由である」「私はこれを生きがいにする」もまた他者との問答において成立するのです。

59 暗黙的推論と実質的推論 (20230611)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

私は、疑問表現を取得したあとも、私たちは暗黙的問答を行っていると考えているのですが、これを検討する前に、問答推論ではなく通常の推論についての「暗黙的推論」と「実質的推論」の関係について考えておきたい思います。      

R・ブランダムは、「推論の正しさが、その前提と結論の概念内容を決定するような種類の推論」(ブランダム『推論主義序説』斎藤浩文訳、春秋社、p. 71)を「実質(的)推論」と呼ぶ。通常の推論つまり「形式的推論」では、推論の正しさは、それに含まれる論理的語彙の意味に基づいて説明されるます。しかし、実質的推論では、逆に、推論が正しいということから、論理的語彙の意味を決定します。また論理的語彙の意味だけでなく、その他の語彙の意味も決定することになります。

では、この実質的推論は、前に見た暗黙的推論とどう関係するのでしょうか。暗黙的推論とは、例えば、「雨が降っている」から「道路が濡れる」を結論する推論です。この推論を論理的語彙を用いて明示化すると、「雨が降っているので、道路が濡れる」などの文になるでしょう。これは、原因と結果の関係(前提と帰結の関係の一種)を明示的に表現しています。「ので」は、原因と結果の関係、ないし前提と帰結の関係を明示化する語彙です。

ここで、「雨が降っている」「道路が濡れる」の意味からこの暗黙的推論やこの明示的推論が正しいことがわかるのだとすれば、それは「形式的推論」です。逆に、この暗黙的推論やこの明示的推論が正しいことから、「雨が降っている」「道路が濡れる」の意味が規定されると考えるとき、この暗黙的推論やこの明示的推論は、「実質的推論」です。つまり、暗黙的推論と明示的推論の区別と、形式的推論と実質的推論の区別は、独立しています。

ところで推論は原初的には暗黙的推論であり、それが明示化されるのだと考えられます。さらに、語や文の意味は、原初的にはその使用法であるとすると、暗黙的推論は、原初的には実質的暗黙的推論です。では、実質的暗黙的推論は、次に実質的明示的推論になるのでしょうか。それとも形式的暗黙的推論になるのでしょうか。形式的暗黙的推論は、それぞれの文の意味に基づいて正しいとされる推論でした。そのためには、それぞれの文の意味が前もって確定していなければなりません。文の意味の確定、つまり明示化は、それの使用法、それを用いた推論の明示化かによって可能になります。したがって、実質的暗黙的推論は、まず実質的明示的推論になり、その後で、形式的暗黙的推論になり、最後に形式的明示的推論になるのだと思われます。

 これを準備作業として、次に、問答についての、暗黙的/明示的、実質的/形式的、の区別について考えたいとおもいます。

89 主張の両立不可能性と問答  (20230328)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

前回述べたように、ブランダムは、主張やコミットメントの両立不可能性は、対象や主体が一つであることを前提して生じていること、また、それらの両立不可能性を修復するプロセスは、対象や主体の統一性を確立するプロセスでもあることを、主張します。

(これによって、対象に関する事実の客観性を証明できているとは言えないと思いますが、ブランダムならば、対象は客観的に然々である、と語ることは、of志向性で語るしかなく、これ以外の仕方で対象の客観性について語ることはできないと言うでしょう。だからこそ、ブランダムは「概念的観念論を最終的に主張するのです。」

主張やコミットメントの両立不可能性が成立するのは、対象や主体が一つであるためである>というブランダムの指摘に対しては、問答の観点から次の批判が可能です。

#コリングウッドの指摘からの展開(2023年3月10日の研究会での発表原稿の一部です)

コリングウッドの指摘によれば、二つの命題が矛盾するのは、それらが同じ問いに対する答えであることによる。これに従うならば、二つの概念関係が両立不可能であるのは、二つの概念関係が同じ対象についてのものであるからではなく、同じ問いに対する答えであるからである。なぜなら、同じ対象であっても、問いが異なれば、答えが異なっていても、両立不可能ではないからである。たとえば、「リコリスはおいしい」と「リコリスはまずい」はそれぞれの相関質問が「チョコレートを食べたあとリコリスを食べると、リコリスはおいしいですか」と、「リンゴを食べた後リコリスを食べると、リコリスはおいしいですか」とであるとき、この二つの答えは両立可能であるかもしれない。

ここで次の反論があるかもしれない。この場合、<「チョコレートを食べた後のリコリス」と「リンゴを食べた後のリコリス」は同一の対象ではないので、二つの答えが両立可能になるのだ>という反論があるかもしれない。この反論をみとめてもよいのだが、しかしこのように考えるときには、対象が同一であるかどうかは、問いが同一であるかどうかに依存することになる。

したがって、主張が両立不可能であることは、問いの同一性を前提としていることになり、問いの同一性を構成することになる。コリングウッドがいうように、二つの命題が両立不可能であるのは、それらの相関質問が同じであることによる。

同様のことは、コミットメント両立不可能性についても言えるだろう。二つのコミットメントが両立不可能であるのは、それが同一の問いに対する答えであることによるのであり、同一の主体のコミットメントであることによるのではない。「コーヒーが欲しいですか」という問いに、「欲しいです」と答えることと「欲しくありません」と答えることが両立しないのは、主体が同一だからではなく、問いが同一だからである。同じ主体であっても、異なる状況で発せられたのであれば、同じ疑問文でも異なる意味をもつ問いとなる。

複数の主張やコミットメントが両立不可能になるのは、たしかにそれらが一つの対象、一つの主体についてのものであることが必要だが、しかしそれではまだ十分ではない。それらが同一の問いに対する答えであることが必要である。(つまり、問いの同一性が、対象や主体の同一性を構成するのである。)

―――――――ここまで

ハイデガーは、『存在と時間』の第二節で、問いが次のような3つの要素からなると考えました。

・問われるもの(Gefragtes)

・問い合わされるもの(Befragtes)

・問い求められること(Erfragtes)

ある対象についての問いに答えるには、何かに何かに問い合わせることが必要です。推論で問いの答えを得るときには、他の知識に問い合わせて、それを推論の前提として使用します。推論によらずに直接に答えをえるときには、例えば、知覚報告で答えると時には、知覚に問い合わせて、知覚報告を得ることになります。推論の前提となる知識は、別の問いの答えとして得られると思われます。では、知覚に問い合わせて、知覚報告を得ることは、どのようにして可能なのでしょうか。

 これについて、次に考えたいと思います。

82再びブランダムの「概念的実在論」について  (20230210)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

(3月にブランダムに関する研究会で発表する予定ですので、その準備を兼ねて、しばらくブランダムの概念実在論と問答推論の関係について考えたいと思います。)

このカテゴリーの第56回から65回までブランダムの「概念実在論」をめぐって考察しました。そこでは、ブランダムの推論主義を問答推論主義へと展開しようとするとき、ブランダムの概念実在論をどのように変更する必要があるのかを論じようとしましたが、ブランダムについての勉強不足もあって、十分に論じきれませんでした。現在でもまだ勉強不足なのですが、もう一度その問題を論じたいと思います。

まず、ブランダムの『信頼の精神』(A Spirit of Trust、ST)の大枠を確認したいと思います。この本は、ヘーゲルの『精神現象学』の「意味論的読解」(ST p.3)であり、それの「合理的再構成」(ST, p.1)を意図するものです。「意味論的読解」とは、「概念内容」を中心とピックと考える読解です。「合理的再構成」については次回に「概念的観念論」を説明するときに説明します。

ブランダムは、この本で、ヘーゲルの観念論が次の3つの段階(概念的実在論、客観的観念論、概念的観念論)からなると考えます。この構造が、意味論的読解の大枠です。

次にこの3段階を説明します。

64 三木さんへの回答(5) 形式意味論に対するブランダムの批判(20211220)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

・Fodor and LeporeとBrandomの間に次のような論争があることがわかりました。

1,Fodor and Lepore からのBrandomへの批判1:

Brandom’s Burdens: Compositionality and Inferentialism

Jerry Fodor; Ernie Lepore, Philosophy and Phenomenological Research, Vol. 63, No. 2. (Sep., 2001), pp. 465-481. (この論文は後に、Fordor and Lepore, The Compositionality Papers, Oxford U.P., 2002 に収録されています。)

2,Brandomからこの批判への応答

Brandom, Inferentialism and Some of Its Challenges,in Philosophy and Phenomenological Researh, vol.74-3(2007), pp.651-676. (この論文は、Weiss,B. & Wanderer, J. (2010)(eds.) Reading Brandom, Routledge, 2010、に収録されています。)

3,Fodor、Lepore からBrandomへの批判2

Fordor, J. & Lepore, E.(2007)“Brandom Beleaguered” in Philosophy and Phenomenological

Researh, vol.74-3, pp.677-691. (この論文も、Weiss,B. & Wanderer, J. (2010)(eds.) Reading Brandom, Routledge, 2010、に収録されています。)

4,Brandomからこの批判への応答

Brandom, R.(2010) ʻReply to Jerry Fodor and Ernest Leporeʼs Brandom Beleagueredʼ in

Weiss,B. & Wanderer, J. (2010)(eds.) Reading Brandom, Routledge, 2010.

(あるいは、この後も両者の間で応酬があるかもしれません。)

この論争をはじめからチェックするには時間がかかりそうです。三木さんへの回答から離れてしまいそうなので、ここでは要点だと思われる点だけを、上記の4と、『プラグマティズムはどこから来て、どこへ行くのか』から紹介します。

 上記の4で、ブランダムは、FodorとLeporeの「形式意味論」を「哲学的意味論」の立場から批判します。ブランダムは、FodorとLeporeがが、意味論と認識論を峻別することに賛同しますが、しかし「意味についての議論から、理解の考慮を取り除くこと」には反対し、次のように言います。

「Fodor とLeporeと異なり、私は意味と理解が連係した概念であるという点でダメットに同意する。これらの一方を他方を理解することなく理解することは出来ない。この関係は、私たちが形式意味論のプロジェクトを追究するときには、無視される。」(Brandom, R.(2010) ʻReply to Jerry Fodor and Ernest Leporeʼs Brandom Beleagueredʼ in Weiss,B. & Wanderer, J. (2010)(eds.) Reading Brandom, Routledge, 2010. 332)

意味と理解を分けられないということが、ブランダムによる形式意味論に対する批判です。彼は、同様のことを『プラグマティズムはどこから来て、どこへ行くのか』でも述べています。

「意味についての語りなるものは、意味を把握する、あるいは理解するとはどのようなことか、ということについての語りと分断されてしまっては無益なのである。マイケルダメット、ドナルド・デイヴィドソン、クリピン・ライトらは、意味についての思想の中心にこの原理をおいた言語哲学者だ。もしこれを受け入れるならば、意味論は広い意味での認識的問題と分離不可能な仕方で結びつくことになる。」(ブランダム『プラグマティズムはどこから来て、どこへ行くのか』加藤隆文、田中凌、朱喜哲、三木那由他訳、勁草書房、下巻、171) 

これに対して「ジェリー・フォーダーは、この〔広い〕意味で認識的な問題と、本来の意味で意味論的である関心との混ぜ合わせを、現代の心の哲学、言語哲学における大悪だとみなしている。」(同所)

わたしも、意味と理解を分けられないというダメットやブランダムに賛成です。それゆえに、前回、形式意味論において、語句の意味をどのように設定するのかを問題にしたのです(ただし、ブランダムは、認識論を慎重に避けようとしているので、私の前回の議論にブランダムが賛同するかどうかは、わかりません)。FodorやLeporeがブランダムのこの議論にどう応答するのか大いに気になるところです。FodorとLeporeからのBrandom批判は、問答推論的意味論にも、そのまま当てはまりそうなので、この論争については、別途詳しく検討した方がよさそうです。

  次に、三木さんの後半の質問に答えたいと思います。