09素朴実在論と脳科学を結合するとクラインの壺になる(20210519)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

知覚や思考は、脳内のニューロンの発火パターンに付随するものだとしましょう。そうすると、その知覚と思考は、脳の内部にあることになります。たとえば、私が、机の上のマグカップを手でつかんでいるのを見る時、その視覚像は、私の脳の内部にあることになります。ところで、私の脳は、眼の奥にあり、カップと手は眼の前方40センチくらいのところに見えます。この視覚像が、私の脳の内部にあるのだとすると、私の眼と頭も、私の脳の内部にあることになります。

この説明は矛盾しているように感じられますが、本当に矛盾しているでしょうか。両手で頭をさわるとき、頭は両手の間にあり、脳はその頭の内部にあるはずです。他方、私が触っている頭も両手も、脳の内部に成立しています。脳の外部に出て手やマグカップにたどり着いたと思ったら、脳の内部に入っていたという次第です。まるでクラインの壺のようです。しかし、クラインの壺には、論理的な矛盾はありません。それを作ることもできます。

madsynapse.blogspot.com/2009/05/1993.html

クラインの壺に矛盾がないように、上記の説明には矛盾はないかもしれません。しかし、ここには次のような説明の循環が生じます。脳科学ないし神経科学の成果が、大脳のニューロンの発火に付随する外界の認識が発生することを説明したとしましょう。これによって、外界についての私の認識の発生は説明され、この認識の一部として科学ないし神経科学の成果が得られたとするとき、脳科学の成果が、脳科学の成果の正しさを証明することになります。つまり、説明の循環が生じます。

このようにある主張を証明できないときに、私たちにとれる戦術は、一般に次の二つです。

一つは、その主張を批判する主張ないしその主張と矛盾する主張を反駁することです。

もう一つは、その主張から(広い意味で)有用な主張が帰結することを説明することです。

(さてどちらから取り掛かりましょうか。それとも整合性についての説明がまだ不足しているでしょうか。もし不整合に気づかれたら、コメントをお願いします。)

11 分人主義と人生の目的 (20210516)

[カテゴリー:哲学的人生論(問答推論主義から)]

ある人の人生の目的は、その人の「私は何のために生きるのか」という自問への答えです。この答えが、「私は、素晴らしい絵を描くために生きる」であったとしましょう。しかし、また他方で、その人は「私は、私の子どもの幸せのために生きる」と答えるとしましょう。そして、仮にこれらの目的の皿により上位の目的を遡ることができるとしても、その2つの系列が交わることがないということがありうるでしょう。このような系列は、2つ以上あるかもしれません。

平野啓一郎の「分人主義」を想定するならば、「私は何のために生きるのか」という問いに対する答えが、複数あることになります。あるグループにおけるその人の最終目的と、別のグループにおけるその人の最終目的は別のものであり、しかもそれらのより上位の目的を遡っていったとしても、それらが一つの目的に収斂することはないということになるでしょう。「私は何のために生きるのか?」という問いを、分人のおのおのが独立してとうことになります。

(「分人主義」については、カテゴリー「戦後日本の自我論」の2~8を御覧ください。)

それで? と問われそうですが、考えたのは今のところここまでです。

10 人生の意味と人生の目的の区別 (20210515)

[カテゴリー:哲学的人生論(問答推論主義から)]

私たちが生きていくとき、他者や自分との絶えず問答をおこなっており、またそれが必要でもあります。他者と問答するためには、自分の行為と発言を記憶し、その整合性をチェックし、必要ならばそれを修正し、必要ならば、その修正を他者に伝えます。場合によっては、変更理由を説明する必要があります。他者との言葉と行為による交流ができている限りにおいて、主体は自分とは何かをおおよそ理解しています。つまり次のような問いを問い、それに答えています。

①「主体(自我、人間)とは何か」

②「自分はどういう人間か」(自分探しの問い)

③「私は、○○のためには、どうすればよいのか?」

この「○○」には、例えば「健康」「長生き」「幸せな生活」「家庭円満」「人に認められること」「お金儲け」「すごい芸術家になること」「会社で出世すること」「会社を大きくすること」などが入ります。「○○」に入るものは、その人の生活の目標です。これらの目標は、より大きな目標のための手段である場合もあります。ところで、人は、何度かこれらの目標を再確認したり、修正したりする必要に出会うでしょう(たいていは、その目標追究に行き詰まったときであり、ときには目標追究があまりにもうまく進んで不安になったときかもしれません)。そのときに、「私は、何のために、○○しようとするのか?」という問いが生じます。この問いを立てる者は、それに答えるために、次の問いを立てるでしょう。

④「私は何のために生きるのか?」

そこで、次のように主体を定義したいと思います(これ以外の主体の定義を排除するものではありません。一般に、一つの定義が可能ならば、大抵は複数の定義が可能です)。

主体の定義:主体とは、「私は何のために生きるのか?」と問うものである。

「私は何のために生きるのか」という問いは、「私の人生の目的はなにか」と言い換えられます。そして、この問いは、「私の人生の意味は何か?」という問いとは異なります。

 「人生の意味」については、問答推論的意味論に基づいて、「ある人の人生の意味は、その人がしてきたことの上流推論と下流推論の総体である」であると考えることを提案しましたが。しかしこれを受け入れても、これだけでは「私は何をなすべきか」や「私は何のためにいきるのか」に答えることはできません。

 「私は何のために生きるのか?」と自問して、答えが見つからない人にとっては、この問いを問うことが人生の目的になるでしょう。つまり、その人は「私は何のために生きるのか?」という問いの答えを見つけるために生きる、と言うことになるでしょう。

 ただし、この問いの答えを見つけている人もたくさんいるとおもいます(中高年になると答えを持っている人が多いだろうと推測します)。

 例えば、私の場合、「私は何のために生きるのか?」に対する答えは、「私は哲学するために生きる」です(「哲学する」とは、「通常より、より深くより広く考えること」です)。このように、この問いに対する答えをすでに持つ者も、この問いを問う必要があります。何故なら、「私は哲学するために生きる」という発話の意味は、「私は何のために生きるのか?」という相関質問を問うことによって明示的になるからです。このような意味で、私たちは、「私は何を求めて生きているのか?」と問う者なのです。

 ところで、ここでさらに「私は何のために、哲学するのか?」と自問するとき、私がそれに答えられないとすると、「私は哲学する」は、それ以上の(自覚された)目的を持たないことになります。もしこれを自分の最上位の目的とすることに、確信がもてないとすると、私は「私は何のために生きるのか?」と自問するでしょう。

 以上の話は「私は、素晴らしい絵を描くために生きる」や「私は子供幸せのために生きる」や「私は人類のために生きる」などの他の答えの場合でも同様です。いずれにせよ、私たちは「私は何のために生きるのか?」と自問するのです。(唐突かもしれませんが、映画、アニメなどを含めた広義の文学作品は、そのことを証示していると思います。)

07 素朴実在論は脳科学と両立するのか(2)(20210513)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

 私は脳科学の知見と素朴実在論は両立可能であろうと推測します。もし、両立しないところがあれば、修正すべきは素朴実在論の方だろうと思います。なぜなら、脳科学の知見は経験的にテストされているからです(もちろん、科学方法論の検討は別途行わなければなりません)。

 他方、脳科学の知見に基づくある種の哲学説と素朴実在論が両立しないときには、脳科学の知見にもとづく哲学説の修正も考える必要があります。なぜなら、この場合には、哲学説同士の論争になるからです。

 素朴実在論は、知覚において対象そのものを捉えていると考えます。しかし、日常生活で、私たちは、対象についての次のように考えています。

   ・眼を閉じたときに対象がなくなるとは考えない

   ・眼鏡を動かして、視覚像が揺れる時、世界が揺れているとは考えない

   ・眼鏡をはずして世界がぼやけて見える時、世界そのものが変化しているとは考えない。

つまり日常生活でも私たちは、見えている通りに世界があるとは考えていません。したがってその意味では、見えと世界そのものや対象そのものを区別していると言えます。(本がぼやけて見える時、それは、完全な知覚とは言えませんが、錯覚や幻覚ではないと思います。つまり、知覚についての二分法(真正な知覚と、錯覚・幻覚)は、無理がありそうです。)これらを考慮すると、「素朴実在論」の理解を少し修正する必要があります。 

 私は「素朴実在論」を<知覚は「知覚的表象」や「センスデータ」を介してではなく、対象を直接に捉えることである>と定義しましたが、この「対象を直接に捉える」の部分を緩めて理解してほしいと思います。眼鏡をはずして本を見た時、文字がぼやけたとしても、ぼやけた文字が存在しており、それをそのままとらえているとは考えません。私たちの日常生活での知覚は、錯覚・幻覚ではないけれども、ぼやけて、曖昧で、不安定なものです。明確な知覚イメージを持つということはほとんど不可能です。それはエナクティヴィズムのノエが主張しているとおりです。エナクティヴズムの知覚理解や、ギブソンのアフォーダンス論の知覚理解が、素朴実在論で想定するときの「知覚」にふさわしいだろうと考えています。私たちは、眼鏡をはずして、本をぼんやりとみている場合にも、「本そのものを見ている」と言うでしょう。日常生活での「物を見ている」の用法は、明確な知覚イメージを介するものには限らないのです。

私たちは、眼鏡を動かして、部屋が揺れて見える時、部屋そのものは揺れておらず、そのあたりにそのままあると考えますし、揺れていない部屋を見ていると考えています。眼鏡をはずして、本がぼやけて見える時でも、本に眼を近づければ文字ははっきりと読めるようになります。眼を戻せば、文字はまたぼやけて見えますが、印刷された文字そのものはそこにぼやけずあると考えます。眼がわるい人間は、ぼやけて見える時はいつも「何と書いてあるのだろうか」と問い、より鮮明に見ようとします。その答えとして、より鮮明な知覚を得ます。知覚するときは、どんな形、どんな大きさ、どんな色、どんな味、どんな音、どんな暖かさ、どんな感じ、等を問いながら知覚します。私たちは、知覚像を見るのではなく、知覚を介して、対象そのものをみようとしています。

さて、このような素朴実在論と脳科学の知見の関係は、どうなるでしょうか。例えば、机の上のマグカップにあたった光が反射して目に入り、網膜像を形成し、神経を発火させそれが脳まで伝わります。これを調べている脳科学者にとっては、これらのことは、直接眼でみたり、計測機器で確認できることです。机の上のマグカップは、脳科学による説明では、知覚の原因ですが、その原因から惹き起こされる知覚の対象でもあります。したがって、次のように言いたくなります。

「そこのマグカップで反射した光が、眼に入って、網膜像を形成し、それが視神経を発火させ、その発火が大脳に伝わり、そこで生じるあるニューロン・クラスターの発火が、いま見ているマグカップの像を作っている。」

この説明を整合的に理解するためにはどのように解釈したらよいでしょうか。この説明に登場する二つの「マグカップ」は、同一の対象を指示していると理解することは、整合的でしょうか。一つ目の表現「そこのマグカップ」が指示するのは、言い換えると「そこに見えているマグカップ」が指示するものです。そのマグカップそのものと、それの見えは、私の視力やその他の状況のために(位置や形や色や模様が)多少ずれていてもかまわないとします。それでもおおよそそこに見えているようなマグカップが存在すると考えるからです。

 次に、二つ目の表現「いま見ているマグカップの像」は、「<いま見ているマグカップ>の像」を意味しています。ここでの「マグカップ」は、最初の「マグカップ」と同一の対象を指示しています。

(この個所を「いま見ている<マグカップの像>」と解釈することはできません。なぜなら、わたしたちが見ることができるのは、ある物であり、その「知覚や知覚像」ではないからです。私たちは、マグカップを見ることができるし、マグカップの絵や写真などを見ることができます。しかし、マグカップの知覚像を見ることはできません。なぜなら、マグカップの知覚は、一定の視点から一定のゲシュタルトでマグカップを見ることですが、そのような一回的な知覚(写真のように一瞬の見えを固定したものを)想像することはできても、見ることはできないからです。ライルやオースティンの議論をまとめることは難しいのですが、かれらも同じようなことを考えていただろうと思います。)

このように解釈するときこの命題が整合的であるとすれば、脳科学による知覚の説明と素朴実在論による知覚の説明は両立するでしょう。次回は、これをもう少し詳しく考えてみます。

06 素朴実在論は脳科学と両立するのか(20210508)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

「素朴実在論は、脳科学による真正な知覚の説明と両立するのでしょうか?」

今回は、これを考えたいと思います。

素朴実在論とは、<知覚は「知覚的表象」や「センスデータ」を介してではなく、対象を直接に捉えることである>とする立場です。(有名な論者としては、例えば、パトナム、マクダウェル、日本では大森荘蔵、野矢茂樹、などです。)

他方、「知覚は、どのようなものであり、それはどのようにして成立するのか」という問いに対してまず思い浮かぶ答えは、自然科学による次のような説明でしょう。例えば、黄色の花に太陽光が当たって、そこで反射した光の一部が目に入り、網膜に黄色の花の像を結ぶ。そのとき網膜にある多くの視神経が発火してその信号が脳の視覚野に伝わり、別の神経細胞を発火させる。その後はなぞですが、脳における多数のニューロン発火のあるパターンが、黄色の花の知覚イメージをつくることになります。この説明で問題になるのは、脳内のニューロン発火のパターンと「知覚イメージ」の関係です。多くの場合これは「付随」関係として語られますが、それは現象を記述するための語彙であり、説明するための語彙ではありません。「付随」関係そのものはいまだ謎です。

 この二つの知覚的認識の説明は、多くの場合、両立しないものとして捉えられているのかもしれません。しかし、もし次のように定式化できるならば、それらは両立可能だろうと思います。

・脳科学による知覚の説明:<知覚は、感覚器官、求心性神経、大脳のニューロンネットワークを介して、対象を捉えることである>

・素朴実在論:<知覚は「知覚的表象」や「センスデータ」を介してではなく、対象を直接に捉えることである>

このように捉える時、この二つは両立可能です。なぜなら、脳科学の説明では、知覚は、「知覚的表象」や「センスデータ」を介して対象を捉えることではないからです。

論者がこの二つの説明方式を両立不可能なものとみなすときには、脳におけるニューロンの発火パターンに付随する「知覚イメージ」を、素朴実在論が批判する「知覚的表象」や「センスデータ」だと見なしているのです。その「知覚イメージ」を、素朴実在論が理解する「知覚」と同一視できれば、両者を両立可能なものとして理解できます。

次にこれを説明したいと思います。

06 素朴実在論の検討へ向けて(20210508)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

前回述べたように、次の「錯覚論証」におけるaからbは帰結しません。

 a 錯覚ないし幻覚を経験しているのに知覚だと思ってしまうことがありうる。

 b それゆえ、知覚と錯覚・幻覚は同じ種類の経験である。(同種性テーゼ)

 c 錯覚・幻覚において経験されているのは知覚イメージである。(錯覚・幻覚のイメージテーゼ)

 d bとcより、知覚において経験されているのも知覚イメージである。(知覚のイメージテーゼ)

bを否定して、知覚と錯覚・幻覚が、異種であるかもしれないというだけでなく、それらが異種であることを主張しようとするには、別途追加の根拠が必要であり、それを検討したいと、前回予告しました。

 しかし、aからbが帰結しないのならば、それだけで錯覚論証を批判するには十分です。もちろん、まだ知覚と錯覚・幻覚が同じ種類の経験である可能性はのこっていますが、それを証明できていないのですから、錯覚論証の批判としてはこれで十分です。(以前に、錯覚論証についてのいくつかの批判を検討すると予告しました。錯覚論証については、aについても、cについても、批判が可能かもしれませんが、それらの検討は行わないことにします。もし必要になれば、言及することにします)。

こうして、錯覚論証が失敗したとすると、それが否定しようとしていた素朴実在論を改めて取り上げて、検討する必要が生じます。

素朴実在論とは、私たちが知覚しているのは、対象そのものであると考える立場です。とりあえず、次の二つの問題を考えたいとおもいます。

1、素朴実在論は、脳科学による真正な知覚の説明と両立するのでしょうか。

2,素朴実在論は、錯覚や幻覚のように私たちが知覚しているものが、対象そのものではない場合をどう説明するのでしょうか。

30 民主主義と「放送法」 (20210506) 

[カテゴリー:日々是哲学]

民主主義のためには「報道の自由」が必要です。「報道の自由」は、日本国憲法21条

「第二十一条集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。

2 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。」

の「表現の自由」のなかに含まれていると考えられています。

「放送法」第一条もまた「表現の自由」に言及しています。

「第一条 この法律は、左に掲げる原則に従つて、放送を公共の福祉に適合するように規律し、その健全な発達を図ることを目的とする。

一 放送が国民に最大限に普及されて、その効用をもたらすことを保障すること。

二 放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによつて、放送による表現の自由を確保すること。

三 放送に携わる者の職責を明らかにすることによつて、放送が健全な民主主義の発達に資するようにすること。(放送番組編集の自由)」

しかし、次の「放送法」第93条は、この表現の自由、報道の自由と矛盾するものになっています。

「放送法」「第九十三条 基幹放送の業務を行おうとする者(電波法の規定により当該基幹放送の業務に用いられる特定地上基幹放送局の免許を受けようとする者又は受けた者を除く。)は、次に掲げる要件のいずれにも該当することについて、総務大臣の認定を受けなければならない。」

つまり、放送局免許は、総務大臣の認定によるということ、つまり政府の認定による、と言うことです。これは、憲法違反ではないでしょうか? これでは報道の自由は損なわれますし、現に非常に損なわれています。国際ジャーナリストNGOの国境なき記者団(RSF)による「世界報道自由度ランキング」の2021年版では、日本は71位でした。

放送局の免許の認定は、国会が定める第三者機関に委ねるのがよいと思います。

「放送法」の改正は、民主主義の実現のために緊急の課題だと思います。

05 錯覚論証への批判(20210502)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

次の「錯覚論証」を批判するにはどうすればよいでしょうか。

①真正な知覚と、錯覚や幻覚は、区別できない

  ②ところで、錯覚や幻覚は、実在とは異なる主観的な表象である。

  ③それゆえに、正常な知覚も、実在とは異なる主観的な表象である。

①と②を批判することは難しいのですが、①と②を認めても③が帰結しないようにすればよいのです。

野矢茂樹は、『心という難問』(講談社)で錯覚論法を次の四段階で説明しています。

 a 錯覚ないし幻覚を経験しているのに知覚だと思ってしまうことがありうる。

 b それゆえ、知覚と錯覚・幻覚は同じ種類の経験である。(同種性テーゼ)

 c 錯覚・幻覚において経験されているのは知覚イメージである。(錯覚・幻覚のイメージテーゼ)

 d bとcより、知覚において経験されているのも知覚イメージである。(知覚のイメージテーゼ)

(野矢氏は、abcdではなく、①②③④を使っているのですが、私が前回うっかり①②③を用いてしまったので、野矢氏の方をabcdに換えさせてもらいました。)

野矢氏がbを挿入したのは、aとcを認みとめても、bを批判すればdが帰結することを防ぐことができるからです。aを認めてもbを認めないということは、<真正な知覚と錯覚や幻想を区別できないことは認めるが、しかしそのことからそれらが同種の経験であるということ(同種性テーゼ)は必ずしも帰結しないということ、また実際にそれらは異種な経験である>と主張することです。

オースティンが言うように、次のような「奇妙な一般原理」は成り立たないのです。

「もし二つの物が「種的に同じ」、「本性上」同じでないならば、両者が似ていることはありえないし、ほぼ似ていることさえあり得ない」(オースティン『知覚の言語』丹治信春、守屋唱進訳、勁草書房、79)

確かにこの原理は成り立たないでしょう。野矢さんが引用し、オースティンが挙げている例でいうと、レモンと石鹸が区別できないとしても、それらが同種のものであるということにはならないでしょう。(確かに昔、レモンの色と形と香りを持つ石鹸がありました。あの石鹸は今もあるのでしょうか。)

この批判は、説得力があるとおもいます。したがって、<真正な知覚と錯覚や幻想が区別できないとしても、それらは異種の経験である可能性がある>ということは正しいだろうと思います。

 しかし、そこからさらに踏み込んで、それらが異種の経験であるというには、別の論拠が必要です。

それは何でしょうか。

04 錯覚論証(20210501)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

まず「錯覚論証」を紹介します。「錯覚論証」(Argument from illusion)とは、知覚と実在を区別するための論証であり、その区別によって、実在そのものを見ていると考える「素朴実在論」を批判する論証です。錯覚論証は、次のステップをとります。

①真正な知覚と、錯覚や幻覚は、区別できない

  ②ところで、錯覚や幻覚は、実在とは異なる主観的な表象である。

  ③それゆえに、正常な知覚も、実在とは異なる主観的な表象である。

<まず①の説明>

例えば、山道を歩いていて、木の枝ではなさそうな、細長いものが見えたとき

  (a)「あれは何だろう」「蛇だ」

  (b)「あれは何だろう」「縄だ」

という問答が行われて、(a)は錯覚で、(b)が正しい知覚であったとしましょう。

この二つの答え「蛇だ」「縄だ」はともに<知覚に依拠する報告>であって、知覚そのものではありません。この(a)と(b)は、異なる知覚に依拠して異なる報告を行ったのでしょうか、それとも同じ知覚に依拠して異なる報告を作り出したのでしょうか。対象が蛇に見える時と縄に見える時では、ゲシュタルトが異なります。ゲシュタルトが異なる時、それは別の知覚です。つまり、(a)と(b)は、異なる知覚に依拠して異なる報告を行ったのです。

正確に言えば、(a)は<錯覚>に依拠する報告であり、(b)は<真正な知覚>に依拠する報告です。しかし、後になって、(a)は錯覚に依拠する報告だとわかったとしても、その時には、真正な知覚に依拠する報告だと考えています。知覚している時には、錯覚と真正な知覚の区別ができません(できないからこそ錯覚がありうるのです)。

 以上が、<①真正な知覚と、錯覚や幻覚は、区別できない>の説明になります。

<次に②の説明>

「錯覚(illusion)」とは、存在する対象について間違った知覚をすることであり、「幻覚(hallucination)」とは、存在しない対象を存在するものとして知覚することです。錯覚や幻覚の内容は、客観的には存在しません。したがって、それは主観的な表象であることになります。

<次に③について>

①と②から、「正常な知覚も、実在とは異なる主観的な表象である」が帰結します。

以上が「錯覚論証」です。この結論③から多くのことを導出できるでしょうが、が帰結するでしょうが、最も重要な帰結は、「知覚は、真正な知覚であっても、対象そのものを知覚しているのではない」ということです。

ジョン・ロック以来の近代的な認識論は素朴実在論を批判しますが、「素朴実在論」に対する最も明解な批判がこの「錯覚論証」です。

しかし、「錯覚論証」については、現在では批判的に語られることの方が多いのです。しばらくは、「錯覚論証」へのいくつかの批判を紹介し、検討したいと思います。

03 対象の報告と知覚の報告に関する問答 (20210429)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

ここから知覚と知覚報告の考察を始めたいとおもいます。

ここでは、知覚に依拠した報告が、対象についての報告である場合と、知覚についての報告である場合に区別されることを確認したいと思います。

#<対象の知覚的性質についての報告>、とその問答

  ①「その花は何色ですか?」「この花は黄色です」

ふつうは、この場合の答えは、知覚ではなく知覚報告です。ここで「知覚報告」というのは、「知覚に依拠した報告」と言う意味です。この問答は、知覚そのものについての問答ではなく、<知覚の対象についての問答>です。

対象について、五感によって与えられる知覚的性質(色、形、大きさ、距離、音色、音量、音高、におい、味、手触り、熱さ、冷たさ、など)に関して問うことができます。

その問いの答えは、<対象の知覚的性質を記述するもの>になります。これは<知覚に依拠する報告>ですが、<知覚についての報告>ではなく、<対象の知覚的性質についての報告>です。

(ただし、この答えの文「この花は黄色です」は、知覚報告になるとはかぎりません。例えば、黄色の花ばかりはいった箱を受け取った人が、そこにやって来た別の人から同じ問いを問われて、「この花は黄色です」と答える時、この答えは、知覚方向ではなく、伝聞の報告です。)

これに対して、<知覚についての報告>は、次のようなものです。

#<知覚についての報告>、とその問答

  ②「この花は何色に見えますか?」「黄色に見えます」

この問いは、対象の(知覚的)性質についての問うているのではなく、対象が目にどう見るか、<対象の感覚器官にとっての現われ>について問うています。この花が黄色に見えるとしても、実際に黄色であるかどうかは問われていません。この答えは、<知覚についての報告>です。

(以下は、少し煩雑になるかもしれない補足です。

 次のように①の問いに②の答えで答えることがあるかもしれない。

  ④「この花は何色ですか?」「黄色に見えます」

この場合、この答えは、「この花の色はおそらく黄色だろうが、しかし黄色に見えるだけかもしれない」ということを意味しているだろう。

 また、②の問いに③の答えで答えることがあるかもしれない。

  ⑤「この花は何色に見えますか?」「この花は黄色です」

この場合、この答えは「この花は黄色に見えるし、また実際にも黄色である」ということを意味しているだろう。)

このように、<対象の知覚的性質についての報告>と<知覚についての報告>の区別は、発話だけを見ても多義的であいまいですが、相関質問との関係において明確になります。

次に悪名高い「錯覚論証」を考察したいとおもいます。