03 走性から二種類のオペラント学習へ (20200914)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?」

 西村三郎著『動物起源論』(中公新書)の植物と動物の区別をもう一度引用しよう。

「植物とは、自ら動くことはできないが、光合成(炭酸同化作用)を通じて無機物から有機物を合成し、自分の体を作り上げていくことのできる生物、一方、動物は感覚し、そして動き回ることができるが、みずからは有機物を合成できないので、外から有機物を取り込んで体を作っていかねばならぬ生物のことを指している。」(p. 12)

 植物は、自ら有機物をつくるが、動物は、外から有機物を取り込んで体をつくる。つまり、動物が感覚し、動きまわるのは、有機物を取り込むためである。動物が探索するのは、餌となる有機物を求めるためである。餌となる有機物は、動物の進化に応じて、無生物→植物→動物と変化してきた。動物を食べる動物が登場すると、動物は、餌をとるためだけでなく、敵(捕食者)から身を守るためにも、探索するようになる。動く餌を捕まえたり、敵を見つけて早く逃げるためには、眼が必要になる。運動するためには、姿勢の感覚が必要であり、餌や敵を探索するには、外界についての感覚が必要である。このように探索するためには、感覚器官が必要である。

 単細胞の動物が、多細胞になり、脊椎動物になるまでに長い経緯があるが、それらの動物の探索はすべて、走性によるものと言えるのだろうか。ゴキブリが人の気配で物陰に隠れることも、走性で説明できるのだろうか。(勉強不足でわかりません。)いずれにせよ、その探索は、感覚器官によって行われる。

 脊椎動物は、反射、条件反射、オペラント学習によって、探索を行う。すべての脊椎動物は、反射と条件反射をもつだろう。しかし、オペラント学習についてはどうだろうか。魚やカエルもオペラント学習するのだろうか。ネズミや猫の鶏のオペラント行動については読んだことがあるが、魚類、両生類でもオペラント行動があるのだろうか。たまたま行った行動で、餌にありついたということがあり、同様の行動をして餌を手に入れるようになるということが、魚類や両生類にもあるかもしれない。

 動物の探索行動の進化は、走性と反射⇒条件反射⇒オペラント行動、という仕方で理解できるのかもしれない(専門家がどういっているのか、勉強不足でわかりません)。反射の中に発展段階の違うものを見つけることができるかもしれないし、条件反射の中にも発展段階の違うものがあるだろう。人間の探索行動との比較で重要なのは、オペラント行動の中の発展段階の違いである。

 サルが、手が届かないところにぶら下がったバナナをとるのに、近くにある箱を持ってきて、その上にのってバナナをとるという話を読んだことがある。イモを洗うサルの話も読んだことがある。これらの場合、サルは目標の状態を表象しているのではないだろうか。もしそうならば、オペラント行動には、目標状態の表象を持つ場合と持たない場合を区別できるだろう。

 <すべての動物は感覚を介して行動し、一部の動物は、表象を介して行動する>と言えるだろうか。目標状態の表象を持つとき、その行動は、観察者によって探索行動として記述されているだけでなく、動物自身にとっても探索として意識されているのだろうか。

 動物は、表象や意識を持つのだろうか。表象とか意識とは何だろうか。

02 反射と条件反射とオペラント学習 (20200912)

[カテゴリー:ヒトはなぜ問うのか?」

動物のほとんどの行動は探索である、といえるだろう。しかし、それには様々なレベルのものがある。とりあえず3種類の探索を説明しよう。

#走性と反射

・植物は、外部刺激(光、重力、接触、水分など)に応じて成長運動や示す現象(屈性)があるのに対して、動物には、方向性のある外部刺激(光、重力、接触、水分、など)に対して反応する生得的な行動(走性)がある。

・脊椎動物の場合、特定の刺激に対して意識されることなく起こる反応は、「反射」と呼ばれる。これは脊椎動物についてのみ言われるようであり、「脊椎反射」と呼ばれることもある。これは、姿勢反射、体性反射、内蔵反射に分類される。

 (これは、非脊椎動物の「走性」と同じ種類のものなのだろうか、それとも異なるものであって、脊椎動物の場合には、走性と反射の両方があるのか、頭が良いとされるタコについても「反射」とは言わないのかどうか、などについては今のところ勉強不足のためにわからない。以下では、とりあえず、非脊椎動物の走性と脊椎動物の反射を同種のものとして扱うことにする。)

 このように「走性」と「反射」を理解するとき、非脊椎動物が行う餌の探索は、「走性」の一種だと言えるだろうし、脊椎動物が行う「反射」もまた、探索の一種だと言えるだろう。ここまでのところ、動物がおこなう運動は、「走性」か「反射」であり、それらはすべて探索だとみなせるのではないだろうか。

 では、「条件反射」もまた探索行動だろうか。

#条件反射

 上記の「反射」は「無条件反射」と呼ばれ、生得的におこなう行動である。これに対して、経験によって獲得された反射行動を「条件反射」(conditioned reflex)と呼ぶ。これは「条件反応」(conditioned response)とも呼ばれる。パブロフの犬は、メトロノームの音を聞いただけで唾液を出すようになる。この条件反射は、探索行動だとは言えないように思われる。ところで、例えば、犬が餌の匂いを嗅ぎつけて、そちらの方向に向かい、餌を発見して食べることを学習したとしよう。このとき、餌の匂いを嗅いで、そちらの方向に向かう行動は、「条件反射」だと言ってよいだろうか。もしそう言えるのならば、この条件反射は、探索行動であるだろう。それとも、これは次に見るオペラント行動だろうか。

 (ちなみに、人間ならば、食べ物の匂いを嗅ぎつけて、そちらに向かい、食べ物を発見してそれを食べるとき、「何が美味しそうなものの匂いがする、その匂いはあちらからやってくる、あちらに食べ物があるのだろう、あちらに行ってみよう」というような推論をして、そちらに向かうだろう。だから人間の場合には、反射でも条件反射でもない。)

#オペラント行動とオペラント学習

 「オペラント行動」とは、自発的な行動のことである。行動が自発的であるとは、刺激に対する反応としての行動(反射や条件反射)ではないということであろう。オペラント条件づけとは、特定の自発的行動に対して餌を与えて強化したり、電気を流して弱化することである。特定の自発行動をして、餌をもらうことを学習するプロセスは、探索である。例えば、ネズミがたまたまレバーを押して、餌を手に入れる、という経験を、何度かしたのちに、レバーを押して餌を手に入れることを学習するとき、これを「オペラント学習」とよぶ。レバーを押すことと餌を手に入れることの関係を学習し、餌を手に入れるために、レバーを押せば良いことを学習するとき、この学習は、餌を手に入れる方法の探求だと言える。これは、実現したい目標を実現する方法の探索であり、欲しい対象そのものの探索ではない。

 さて、上記の例、犬が餌の匂いを嗅ぎつけて、そちらの方向に向かい、餌を発見して食べることを学習した場合を考えよう。このとき、餌の匂いを嗅ぎつけて、餌の方に向かうことは、刺激に対する学習された反応、だと言える。したがって、これは条件反射であろう。しかし、餌の匂いの方向に歩いて、餌を見つけるということの学習は、オペラント学習であろう。この場合、前半の条件反射も、後半のオペラント学習も、探索だといえる。

 もう一つ、例を検討しておきたい。排泄行為は、自発的行動だろうか。それは膀胱に尿が溜まってきたという刺激に対する反応ならば、反射であろう。人間の場合には、トイレに行こうと考えて、トイレに行き、そこで排泄するので、大脳を介した行為である。(条件反射もまた大脳を介してした反応であるが、しかしトイレで排泄することは、条件反射ではないだろう。)ペットの犬の場合には、トイレで排泄するように指示されて、成功すると褒められ強化されるという、学習過程を経て排泄行為をするようになるだろう。そうすると、これはオペラント行動である。

 人間の探索とこれらの探索との違いは、何だろうか?

01 動物はいつ探索を行うようになったのだろうか? (20200909)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

 人はいつ問うようになったのだろうか? 問うことは、通常は言語を用いて行う行為である。動物は問うことはしないかもしれないが、しかし探索は行う。では、動物はいつ探索を行うようになったのだろうか。動物の探索と人の探索はどこが違うのだろうか。しばらく、これらを考えたい。

西村三郎著『動物起源論』(中公新書)では、次のように植物と動物を次のように定義する。

「植物とは、自ら動くことはできないが、光合成(炭酸同化作用)を通じて無機物から有機物を合成し、自分の体を作り上げていくことのできる生物、一方、動物は感覚し、そして動き回ることができるが、みずからは有機物を合成できないので、外から有機物を取り込んで体を作っていかねばならぬ生物のことを指している。」(p. 12)

動物の本質は、「動物は感覚し、そして動き回ることができる」ということにある。動物とは、動き回る生物であるが、動き回るためには感覚が必要である。動物は、動き回って餌をとる。餌を取るためには、餌を感覚する必要がある。動物の運動と知覚は、主として餌の探索のためのものである。つまり、生物が動物となったときから、生物は探索するのであり、動物とは探索する生物なのである。

 では、ここから人間探索までに、どのような道程があるのだろうか。

17 ローカルな懐疑主義は可能か(3) (20200828)

[カテゴリー:問答と懐疑]

 前回の最後に次のように述べた。

 <ローカルな懐疑主義が可能であるためには、

  「原理的に答えを持たない問いが存在する」

と主張できなければならない。しかし、ミュンヒハウゼンのトリレンマによるとどのような主張についても、それを疑うことが可能である。そうすると、「原理的に答えを持たない問いが存在する」を主張できない。>

 しかし、同じことが次の主張についても言えるだろう。

  「原理的に答えを持たない問いは存在する」

この主張もまた疑うことが可能である。そうすると、「原理的に答えを持たない問い」については、それが存在するとも存在しないともいえないことになる。

 この場合、問いQ1「原理的に答えを持たない問いは存在するのだろうか?」に対する答えは、A1「いいえ、原理的に答えを持たない問いは存在しません」となる。ところが、Q1に対する答えA1が存在するならば、それはA1の内容と矛盾する。

 グローバルな懐疑主義の主張が困難であるだけでなく、ローカルな懐疑主義の主張も困難であるように思われます。

16 ローカルな懐疑主義は可能か(2) (20200825)

[カテゴリー:問答と懐疑]

問答推論的意味論は、<問いの意味を理解しているとは、その問いの上流問答推論と下流問答推論について、正しいものと正しくないものを判別できることである>と考えることになる(参照:カテゴリー「問答推論主義に向けて」の「04 推論的意味論から問答推論意味論へ(1)(20200417)」)。


したがって、問いが有意味であるとは、その問いが正しい上流問答推論と下流問答推論をもつことである。前回見たように、原理的に答えを持たない問いは、前提に矛盾がふまれている推論ならば、どのような上級問答推論も正しいものになる。また、原理的に答えを持たない問いは、健全ではありえないので、それのどのような下流推論も正しいものになる。したがって、原理的に答えを持たない問いもまた、正しい上流問答推論と下流問答推論をもつので、有意味である。

 ローカルな懐疑主義は、<ある問いが、原理的に答えを持たないが有意味であること>を主張することであったが、これは整合的な主張である。

 では、ローカルな懐疑主義は、可能なのだろうか。

 それが可能であるためには、「原理的に答えを持たない問いが存在する」と主張できなければならない。しかし、どのような主張についても、それを疑うことが可能である。そうすると、「原理的に答えを持たない問いが存在する」を主張できない。そうすると、ローカルな懐疑主義が可能であるとは、主張できない。

 ウウウ・・・どうすべきでしょうか。


 

15 ローカルな懐疑主義は可能か (20200822)

[カテゴリー:問答と懐疑]

 以前に「11 懐疑と批判  (20200808)」で、「ローカルな懐疑」と「ローカルな懐疑主義」を次のように区別した。

・「ローカルな懐疑」とは、ある主張の真理性を問うことに加えて、その問いに、真ではないかもしれない/真ではない/偽であるであるかもしれない/おそらく偽である/偽である、などと答える(信じたり、主張したりする)ことも含まれる。例えば、「ここに椅子がある」を疑うとは、「ここに椅子があるのか?」と問うことに加えて、その問いに対して、「この椅子は現象に過ぎないかもしれない」などと答えることである。どんな主張についても、疑うことは可能である。なぜなら、その主張の根拠について「それは正しいのか?」と問うことが可能だからである。

・「ローカルな懐疑主義」とは、ある対象(ないしあるクラスの対象)についてのある種の主張について、その真理性(適切性)を問うだけでなく、その真理性(適切性)については、不可知である主張する立場である。例えば、「ここに椅子がある」についての懐疑主義とは、「ここに椅子があるのだろうか?」と問うだけでなく、この問いに答えることはできないと主張する立場である。

では、このようなローカルな懐疑主義は可能なのだろうか?

ある主張に関する懐疑主義とは、それを肯定することも否定することもできないと主張することである。それは、その命題に関する問いに、答えることができない、ということである。しかし、その命題の主張に関する懐疑主義を主張するためには、その命題の主張の真理性(ないし適切性)を問うことができなければならない。 従って、<懐疑主義とは、原理的に答えられない有意味な問いを認めることである>。

 では「原理的に答えられない有意味な問いは存在するのだろうか?」

 真なる(適切なる)答えをもつ問を「健全な問い」と呼ぶことにすると、真なる(適切なる)答えがない問いは、不健全な問いである。そのような問いは、どのような上流推論や下流推論を持つことになるのだろうか。

 不健全な問いは、上流推論を持ちうるだろうか。言い換えると、それは、問答推論の体系の中で妥当な問答推論の結論となりうるだろうか。例えば、Γ┣Q (Γは平叙文の列、Qは疑問文)という問答推論が妥当であるとは、前提が真であるならば、結論の問いが健全である(真なる(適切なる)答えを持つ)ということである。Γに、r∧¬rという矛盾した式があれば、前提は真とはなりえない。ゆえに、結論のQが健全でなくても、この推論は妥当であることになるのだろう。問答推論ではなく、通常の推論でも、矛盾した前提からは、どのような結論でも導出できる。不健全な問いQが持ちうる上流推論は、前提に矛盾が含まれるような推論だけである。

 次に、不健全な問いは、下流推論を持ちうるだろうか。言い換えると、それは、問答推論の体系の中で妥当な問答推論の前提となりうるだろうか。

Q、Γ┣p (Γは平叙文の列、Qは疑問文、pは命題)という下流問答推論において、この推論が妥当であるとは、<問いQが健全で、Γに含まれるすべての平叙文が真であるならば、pが真であり、かつpがQの答えである>ということである。ここでは、問いQは健全ではないので、結論pが真でなくても、またpがQの答えでなくても、この推論は妥当である。この場合、pがどのような命題であっても、この問答推論は妥当である。

 ところで、このような問い、つまり原理的に答えられない問いを、有意味な問いだと認めてよいのだろうか?

14 日常の疑いの論法 (20200819)

[カテゴリー:問答と懐疑]

山田氏の整理している懐疑の論法は簡略化すれば、次のようなものであった。

① 主張:p

② 証明項:pに対する証拠q

③ 懐疑論的仮説 r

④ 証明不可能性の論証:②の証拠qによって、③のrを否定することはできない。

⑤ 正当化の否定:③のrが成り立つなら、①のpは成り立たない。

⑥ 結論:②と③は両立可能であるから、②が成り立っても、①が成り立つかどうか疑わしい。

例えば、

① 主張:「トランプは再選されないだろう」

② 証明項:「世論調査では、バイデンがトランプにリードしている」

③ 懐疑論的仮説「ヒラリーの場合のように、結果は、世論調査とは異なるものになることがある」

④ 証明不可能性の論証: ②の証拠によって、③を否定することはできない。

⑤ 正当化の否定: ③が成り立つなら、①は主張できない。

⑥ 結論:②によって①「トランプは再選されないだろう」というのは疑わしい。

ちなみに、懐疑よりも批判の方が負担が大きい。なぜなら、主張への懐疑のためには、主張の論拠の不十分さを指摘するだけでよいが、主張を批判するには、主張の論拠の不十分さを指摘したり、主張の論拠を否定するだけでなく、主張そのものを否定する論拠を示す必要があるからである。。上の例で言えば、「トランプは再選されないだろう」という主張を否定し、「トランプは再選されるだろう」と主張し、その根拠を示す必要がある。懐疑よりも、批判の方がなすべきことが多いが、もし可能ならば、その方が成果が大きい。何故なら、ある主張の懐疑よりも、ある主張への批判の方が、より多くの可能性を排除しているからである。

いずれにせよ、ローカルな懐疑は可能である。では、ローカルな懐疑主義が可能かどうかを、次に考えよう。

13 「外的世界」への懐疑 (20200815)

[カテゴリー:問答と懐疑]

 山田圭一は『ウィトゲンシュタイン最後の思考』の第2章において、「外的世界」「他人の心」「過去の実在」に共通して適用できる懐疑論の論法を提示している。例えば、「外的世界」に対する懐疑を次のように説明する。

<①「ここに椅子がある」という主張を疑うためには、まずこの主張の根拠として、②「私は椅子を見ている(感じている)」を想定する。次に②が①の根拠として不十分であることを示すために、懐疑論的仮説③「私は悪霊によって欺かれている」を想定する。②と③は両立可能である。しかしもし③が正しければ、①は誤りである。ゆえに、②は、①の根拠としては不十分である。したがって、①「ここに椅子がある」という主張は疑わしい。>

 山田氏はこれを次のように整理している。

(1)外的世界に対する懐疑論

①〈被証明項:日常的命題〉

  「ここに椅子がある」

②〈証明項:①に対する日常的証拠〉

  「私は椅子を見ている(感じている)」

→②’再記述された証明項

  「私は椅子の視覚印象(感覚)をもっている」

③〈懐疑論的仮説〉

  「私は悪霊によって欺かれている」(外的世界の対象は存在していない)

 (⟷③’〈日常的前提〉「外的世界の対象が存在する」)

④〈証明不可能性の論証〉

  ②の証拠によって、③でない(③’である)ことを根拠づけることができるか→できない。

⑤〈正当化の否定〉

 私は②’(再記述された証拠)を根拠に①(日常的命題)を信じることが正当化されていない。

⑥〈結論:正当化の否定 最終段階〉

 私は②’(再記述された証拠)を根拠に①の種類のすべての命題を信じることが正当化されていない。

ここで重要なのは、主張①とその根拠②と懐疑的仮説③の関係である。①と③は両立不可能であるが、②と③は両立可能である。それゆえに、もし③が正しければ、②は①を証明する十分な根拠とはならない。

この論法を「他人の心」と「過去の実在」に適用したものを次に引用しておこう。

(2)他人の心に対する懐疑論

①〈被証明項:日常的命題〉

  「彼は痛みを持っている」

②〈証明項:①に対する日常的証拠〉

  「彼は痛みの振る舞いをしている」

→②’再記述された証明項

  「彼は顔の筋肉をゆがめて、お腹をおさえている」

③〈懐疑論的仮説〉

  「彼は自動機械である」(彼は心をもっていない)

(⟷③’〈日常的前提〉「彼は心をもっている」)

④〈証明不可能性の論証〉

  ②の証拠によって、③でない(③’である)ことを根拠づけることができるか→できない。

⑤〈正当化の否定〉

 私は②’(再記述された証拠)を根拠に①(日常的命題)を信じることが正当化されていない。

⑥〈結論:正当化の否定 最終段階〉

 私は②’(再記述された証拠)を根拠に①の種類のすべての命題を信じることが正当化されていない。

(3)過去の実在に対する懐疑論

①〈被証明項:日常的命題〉

  「日露戦争は100年前におこった」

②〈証明項:①に対する日常的証拠〉

  「日露戦争について書かれた100年前の文書が残っている」

→②′再記述された証明項

   「100年前の日付(「一九〇四年」という文字)のついた文書に日露戦争についての記述がある」

③〈懐疑論的仮説〉

   「地球は5分前に創られた」

(⟷③′〈日常的前提〉「地球は私が生まれる遥か以前から存在していた」)

④〈証明不可能性の論証〉

  ②の証拠によって、③でない(③′である)ことを根拠づけることができるか→できない。

⑤〈正当化の否定〉

 私は②′(再記述された証拠)を根拠に①(日常的命題)を信じることが正当化されていない。

⑥〈結論:正当化の否定 最終段階〉

 私は②′(再記述された証拠)を根拠に①の種類のすべての命題を信じることが正当化されていない。

この懐疑の論法は、哲学的な懐疑に限らず、日常の疑いにも使えるものである。それを次に確認しよう。

25 問いと推論の関係 (20200812)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

 問答推論主義にとって、もっとも基本となることは、このカテゴリーの始めに01と02で述べたように、<推論の前提から論理的に導出される命題は、複数あるが、現実に推論が成立するためには、その中から一つの命題が結論として選ばなければならない。その選択は、ある問いに対する答えを選ぶという仕方で行われている>ということである。この背景にあるのは、<推論は問いの答えを求めるプロセスである>という理解である。これに対しては、「推論の結論となりうる複数の命題から一つを選択する方法は、これ以外にはありえないのだろうか?」という疑問が生じるだろ(私の最終講義でも、森田邦久さんからそのような質問を受けた。そのときには、他の解決策が思いつかないというような不十分な返答しかできなかったのだが、以下では、もうすこしだけ説得力のある説明をしたい。)

 問いの答えを見つけるプロセスには、次の二通りがある。一つは、これまで念頭に説明してきたものであり、<ある問いに対する答えを見つけようとして、すでに知っている知識を前提として、そこから推論によって答えを求めようとする場合>である。もう一つは、これまで言及してこなかったものだが、<問いに対するある暫定的な答え、ないし答えの予想をえて、それを証明しようとして、それを結論とする推論を考える場合>である。この後者の場合には、推論の結論は最初にまだ不確実なものとして与えられており、それを証明するために前提を求め、推論によって当初の答えを証明しようとすることになる。このどちらにおいても、<推論は問いの答えを求めるプロセスである>といえるだろう。

 私たちが推論するのは、この二通りしかないのではないだろうか。いま私はこれ以外の場合を思いつかないのだが、そのことを論証する方法も思いつかないので、まだ不十分であるかもしれない。もしその他のケースを思いつく方がおられたら、教えて欲しい。

12 ミュンヒハウゼンのトリレンマによるローカルな懐疑主義?  (20200809)

[カテゴリー:問答と懐疑]

主張pについて「なぜpなのか?」と主張の根拠を問い、さらにその答えについても「なぜ」と根拠を問うことを繰り返すことができる。そうするとトリレンマに陥る。このとき、¬pの主張に関しても同様に、その根拠を問うことができるので、トリレンマに陥る。したがって、ある主張pがある時、私たちは「p」も「¬p」も主張できない。こうして、主張pに関する懐疑主義が帰結するだろう。

 ミュンヒハウゼンのトリレンマをもってしても、全面的な懐疑主義を論証することが難しいことは前に見たとおりだが、個別の主張についての懐疑主義ならば、可能である。ミュンヒハウゼンのトリレンマが、トリレンマという論理規則の妥当性を前提すること、「なぜpと主張するのか?」という問いが「主張は根拠を持つ」という根拠律を前提すること、を指摘して、この論証を批判するとしても、この論証を個別の主張や特定領域の主張についての懐疑主義に限るならば、その批判は当てはまらない。

 ミュンヒハウゼンのトリレンマを用いた議論で論証できるのは、ある主張を「究極的に根拠づけること」(die letzte Begruendung)あるいは絶対的に根拠づけることはできない、ということである。

 ローカルな懐疑主義には、もう少し弱い主張に対する懐疑主義もあるし、むしろこちらの懐疑主義について語られることの方がおおいかもしれない。山田圭一は『ウィトゲンシュタイン最後の思考』において哲学的懐疑の典型例として

(1)「外的世界」

(2)「他人の心」

(3)「過去の実在」

を上げており、次にこれらについて考えてみよう。