04 第1章の見取り図(後半) (20201102)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

 第一章の後半、「1.2 推論的意味論から問答推論的意味論へ向けて」では、ロバート・ブランダムの「推論的意味論」を紹介し、前半で説明した「問答推論」を用いて、それを「問答推論的意味論」へと拡張しました。

 (個人的な話になりますが、私は2005年の秋冬に5ヶ月間ピッツバーグ大学で客員研究員となり、Nuel Belnapさんのもとで彼のLogic of Question and Answer(『問いと答えの論理学』)の翻訳に取り掛かり(この翻訳は帰国後完成したのですが、権利の関係で出版できていません)、毎週Belnapさんの部屋で細かな質問をしていました。そのときにはブランダムさんとは、彼のヘーゲル論についての2,3回面談しただけでした。2015年の秋冬にも、3ヶ月ほどピッツバーグ大学で客員研究員の機会に恵まれ、毎週ブランダムさんの推論的意味論についてや私の問答研究についての話し合う機会を持てました。この第一章後半の議論は、その時のBelnapさんやBrandomさんとの話し合いの成果も生かされています。)

 ブランダムは「推論的意味論」の基本的なアイデアを次のように説明しています。

「人が自らコミットしている概念的内容を理解することは、一種の実践的な熟練である。それは、主張から何が導かれ何が導かれないか、あるいは、何がその主張を支持する証拠で何がそれに反する証拠なのか、等々を判別できるということに存する。」(Brandom 2003, p.19 訳 p.27. Cf. Brandom 1994, p. 89)

ある主張pを結論とする推論をpの「上流推論」、ある主張pを前提(の一部)とする推論を、pの「下流推論」と呼ぶことにしました(ブランダム自身は「上級推論」「下流推論」という表現を使用していませんが、このほうが簡潔なので)。文の意味(命題)を理解しているとは、その正しい上流推論と正しくない上流推論の判別と、その正しい下流推論と正しくない下流推論の判別ができるということになります。これは、言語の意味の「使用説」の一種です。言語表現の意味を、それを推論において使用することとして説明することだからです。

 私は、現実の推論は問いを前提しており、そのことを明示化すれば問答推論になることから、推論的意味論を問答推論的意味論へ拡張することを提案しました。その基本的なアイデアは次のようになります。

<命題の意味を理解するということは、その命題がどのような問いに答えるための前提になりうるのか、また、なりえないのか、また、どのような問いの答えとなりうるのか、またなりえないのか、を判別できることである。>

 真理条件意味論や主張可能性意味論は、真理値を持たない命題の意味を説明できないのですが、推論的意味論は、真理値を持たなくても推論関係をもつ命題であれば、その意味を説明できるというメリットをもちます(ただし、ブランダムは「主張」というタイプの発話を主に考えているので、このメリットについては言及していません)。ただし、推論的意味論は、(疑問文のように)通常の推論関係を持たない命題の意味については説明することができません。問答推論的意味論は、疑問文の意味も説明できるより包括的な説明になります。

 ところで、ブランダムが、推論関係によって命題の意味を明示化できると主張するときに、重要な論点は、推論法則は表現の意味を変えないという指摘です。論理的語彙の使用法は、その導入規則と除去規則(例えば、「かつ」(∧)という論理的語彙の場合、p、q┣p∧qという「∧の導入期測」とp∧q┣p、p∧q┣q、という「∧の除去規則」)によって尽くされており、それが同時に基本的な論理法則ともなります。これを最初に論じたのは、論理学者ゲンツェンです。しかし、このような導入規則や除去規則を任意の仕方で設定することはできません。そこには制限が必要ですが、どのような制限が必要でしょうか。そこでNuel Belnapが提案したのが「保存拡大性」です。これは、導入規則と除去規則を連続して適用してその論理的語彙が消えたときに、結果として成立する推論が、その論理的語彙を導入する以前の論理法則だけで導出できるものになっているということです。もしそれまでの論理的語彙だけではできなかった推論が、それまでの論理的語彙だけでできるようになっているのだとすると、それまでの論理的語彙や他の語彙の意味が変化していることになるからです。つまり「保存拡大性」は、ある論理的語彙の使用が、その他の語彙の意味を変化させない、ということを示しています。これによって、推論関係によって言語表現の意味が明示化されるのです(ダメットがこれを示唆していたのですが、全面展開したのはブランダムです)。

 論理的語彙がこの「保存拡大性」を持つことが、推論的意味論を可能にしている条件です。それと同様のことが疑問表現の語彙についても言えること、つまり疑問表現の語彙(疑問詞)についてもその導入規則と除去規則を想定して、それが「保存拡大性」を持つことを示し、それゆえに問答が言語表現の意味を変えることはなく、言語表現の意味の明示化に役立つことを示しました。(論理や問答は、他の言語表現の意味を変えませんが、それゆえにこそ、探求にもまた利用できるのです。)

 第1章の最後で、問答推論的意味論が4つのメリットをもつことを説明しました。

03 第1章の見取り図 (20201101)

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第1章の前半では、問いと推論の関係について論じました。

「考える」とはどういうことか?と問われたら、もっとも予想される答えは次の二つでしょう。一つは、考えるとは、問い、それに答えることです。もう一つは、考えることは推論することです。では、この二つは、どう関係しているのでしょうか。推論するとは、ある文(前提)から別の文(結論)を導出することです。この導出が妥当なものであるためには、推論が妥当でなければなりません。妥当な推論とは、前提が真であるならば、常に結論が真となるような推論です。例えば、次のような推論です。

  ソクラテスは人間である。

  人間は死すべきものである。

  ゆえに、ソクラテスは死すべきものである。

しかし、この二つの前提から論理的に導出可能な結論は、「ソクラテスは死すべきものである」だけではありません。「ある不死なるものは、ソクラテスではない」とか「すべての不死なるものは、ソクラテスではない」とか「不死なるソクラテスは存在しない」などもこの二つの前提から導出可能です。しかし、一つの結論を選ばなければ、推論は完成しません。したがって、私たちが現実に推論するためには、論理法則以外のものを必要としている、ということです。推論することもまた行為ですから、私たちが推論するときには、何か目的があるはずです。その目的は、問いに答えるということではないでしょうか。問いに答えるために、可能な複数の結論の中から、一つを結論として選び出すのではないでしょうか。つまり、<推論とは、問いの答えを見つけるためのプロセスである>と思われます。そうすると、現実には、問いを前提にした次のような推論を行っていることになります。

   ソクラテスは不死ですか?

   ソクラテスは人間である。

   人間は死すべきものである。

   ゆえに、ソクラテスは死すべきものである。

このことは、理論的推論についてだけでなく、実践的推論についてもなりたちます。詳しくは本書で説明しましたが、別のカテゴリー「問答推論主義へ向けて」の最初の方でも、もう少し詳しく説明しました。

 さらに、問いに答えるために、別の問いを立てる必要が生じる時、<問いを前提として、またいくつかの平叙文を前提として、別の問いを結論とする>推論も考えられます。このように平叙文だけでなく問いを前提や結論に含む推論システムを考えることが必要になります。これを「問答推論」と呼ぶことにします。問いを含む論理学の研究は、ヌエル・ベルナップのLogic of Question and Answerなどがあります。本書では、ポーランドの論理学者ウィシニェフスキの「問いの推論」の研究を紹介し、拡張する仕方で、問答推論を説明しました。

 第1章の後半では、この問答推論をもちいて、問答推論的意味論を説明しました。

02 全体の見取り図 (20201031)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

 前回の目次にあるように、本書は序文、4つの章、後書き、から成ります。

 第1章では、ブランダムの推論的意味論を紹介した後、それを改良した問答推論的意味論を提案します。

 第2章では、命題の意味ではなく、ある文脈における命題の発話の意味について、それの問答推論関係から説明します。その前半は、発話が焦点を持つとはどういうことか、後半では、発話の含みについてのグライスと関連性理論の議論を紹介した後、それを改良した問答推論的語用論を提案します。

 第3章では、オースティンとサールの言語行為を紹介したうえで、質問発話の特殊性を示して、発語内行為の分類を改良し、つぎに命題行為、発語内行為、発語媒介行為という言語行為の分類に「前提承認要求」という言語行為を加えることを提案します。

 最後の第4章では、従来の論理的矛盾、意味論的矛盾、語用論的矛盾とは異なる「問答論的矛盾」があることを説明し、コミュニケーションが成り立つためには、この問答論的矛盾を避ける必要があることから、問答関係が成立するための超越論的条件があることを説明します。

 より詳しい全体の見取り図は、「序文」の後半にあります。

 序文の前半では、これまでの哲学は問いの答えにばかり注目して、問いそのものに注目することが少なかったことを指摘し、問いに注目することの重要性を訴えました。コリングウッドが指摘していたように、主張を理解するには、それがどのような問いに対する答えであるか、(答えの「相関質問」は何か)を理解することが必要です。したがって、答えの半分はすでに問いによって与えられています。答えは、問いに欠けている部分を埋めるだけなのです。問いは、答えの半製品なのです。

 問いが答えの半製品であることは、発話の理解に限りません。社会制度は言語で構成されていますが、社会制度は、社会問題の解決策であり、社会問題への答えなのです。それは社会問題への答えとして正当化されています。個人の行為もまた、個人問題への解決です。個人は、その信念内容(主張内容)によってのみならず、その人が抱えている問題によって構成されています。

 このように問いないし問題について考察することが重要なので、大胆にいえば、問答の観点から哲学全体を組み替えること、を大目標としています。

 但し、本書は、言語哲学について、問答の観点からの見直しに挑戦するものです。

01 挨拶と目次 (20201030)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

やっと本が出版になりました。帯に「問いを問う」とあるのは、わたしが当初計画したタイトルが『問いを問う 問答の観点からの言語哲学』だったことの痕跡がのこっているためです。これに続いて、『問いを問うII 問答の観点からの理論哲学』『問いを問うIII 問答の観点からの実践哲学』『問いを問うIV 問答の観点からの社会哲学』を計画していました。この長期計画に変更はないのですが、その実現にはまだまだ時間がかかりそうですので、タイトルは別のものになりそうです。

 この本の目的は、問答の観点から言語哲学の組み換えを目指すことですが、この本ではそのための手がかりを提供することにとどまっています。まだまだ足りない部分については、このカテゴリーで補足していくつもりです。ですから、問答の観点から言語哲学を組み替えていこうとするならば、何が足りないかを、コメントしてもらえれば助かります。

次回から、宣伝を兼ねて簡単な内容紹介をしてゆきたいと思います。

本書目次

序 文 問いの重要性に向けて

第1章 問答関係と命題の意味――問答推論的意味論へ向けて
 1.1 問いと推論の関係
 1.2 推論的意味論から問答推論的意味論へ向けて

第2章 問答関係と発話の意味――問答推論的語用論へ向けて(1)
 2.1 文と命題内容と発話の違い
 2.2 発話が焦点を持つとはどういうことか
 2.3 会話の含み

第3章 問答関係と言語行為――問答推論的語用論へ向けて(2)
 3.1 質問と言語行為
 3.2 言語行為の新分類
 3.3 言語行為の不可避性

第4章 問答論的超越論的論証
 4.1 問答論的矛盾の説明
 4.2 問答関係の分析
 4.3 問答論的矛盾による超越論的論証
 4.4 超越論的論証の限界

あとがき
参考文献一覧
事項索引
人名索引

11 問うために問わないこと (20201029)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?」

(動物の探索の話に戻る予定でしたが、その前に前回の「選択の選択」に関連したことを書いておきたいと思います。)

#あることを問うことは、他のことを問わないことである。

 ここでいう問わない<他のこと>の中には、二種類のことがある。それは次の二つである。

  ・問いの前提

  ・他の問い

 第一は、問いの前提である。私たちがある選択を問うときには、その問いの前提を受け入れる必要がある。問いの前提とは、真なる答えが成立するための、必要条件である。問う時には、その前提の真理性を受け入れコミットし、それを問わないことが必要である。

 第二は、他の問いである。私たちが各瞬間に問うことができる問いは多数ある。しかし実際にはその中の一つの問いを問うことができるだけである。つまり、私たちは、常に多数の問いの中かラ一つの問いを選択している。ある問いに答えるとは、可能な複数の答えの中から一つの答えを選択することである。したがって、複数の問いから一つの問いを選択することは、前回述べた「選択の選択」である。

#「選択の選択」と、問うために問わないことの関係

 問いに答えることは、選択することであり、その答えにコミットすることである。従って、問うことは、コミットメントを求めることである。これに対して、問うことは、問いの前提を受け入れることであり、問いの前提にコミットすることである。問いの前提にコミットするのだから、問いの前提を問う(疑う)ことはできない。ある問い問うためには、その問いの前提を問わないことが必要である。

ただし、この問いの前提へのコミットは、選択の選択によって行われている。したがって、この選択の選択は、より上位の問いへの答えとして生じる。ある問いの選択は、より上位の問いの答えを見つけるために、問いを設定することである。つまり、そこでは、すでにより上位の問いを選択してしまっている。ある問いの選択は、このより上位の問いの選択から生じるのである。

したがって、ある問いを検討するときには、次の二点も重要になる。

 ・問いの前提を明確にすること

 ・その時その問いをとうことで、問わないことになる問いを明確にすること。

10 実践的問いを問うのはどのような場合か(2) (20201026)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?」

次に(2)願望と意図が葛藤する場合と、(3)ある願望ないし意図の実現方法が分からない場合を考えよう。

(2)願望と意図が葛藤する場合:ある行為を意図するとき、それと同時には実現できない願望を持つことはありうる。例えば、禁煙をしようと意図するときに、同時にタバコを吸いたいという願望をもつことがありうる。この場合に問題が生じるとすれば、それは「どうやって禁煙をいじするか」という問いであろう。つまり、願望と葛藤関係にある意図をどうやって実現するか、という問いである。

(3)ある願望ないし意図の実現方法が分からない場合:例えば、パンを焼きたいが、どうすればよいのかわからない場合、「どうやってパンを焼けばよいのか?」という実践的な問いを立てることになる。

(2)と(3)では、実現すべき意図は与えられているので、問題は、その意図をどうやって実現するかである。(2)は意図の実現を妨げるものが願望であるのに対して、(3)では意図の実現を妨げるものが無知である。

この実現すべき意図は、どのようにして設定されるのだろうか。それはより上位の意図(目的)を実現するためであろう。より上位の意図(目的1)を実現するための実践的問い「どうやって目的1を実現すればよいのか?」の答えが、「目的2を実現すればよい」であるとき、「どうやって目的2を実現すればよいのか?」という下位の実践的問いを設定することになる。これが、(2)と(3)の場合の問いになる。

 多くの場合、意図は、より上位の意図を実現するために設定される。この場合には、下位の意図とより上位の意図は、手段と目的の関係にある。上位の目的の実現を実現しようとするとき、大抵は唯一ではなく複数の手段が可能である。それにゆえに、「上位の目的1をどうやって実現すればよいのか?」という問いに答えるとき、選択が必要になる。

 このように考える時、実践的推論について再考する必要が生じる。

   Aしよう

   Bすれば、Aできる

   ∴Bしよう。

この場合、Bすることは、Aするための唯一の手段ではないが、手段の一つである。もしそうだとすると、「どのようにしてAを実現しようか?」という問いに答える時、この答えは、選択に基づいている。つまり、実践的推論は、推論であるけれども、選択によって可能になる。

 ここで、「どのようにしてBを実現しようか?」という問いが立てられ、さらにそれに対する答えも、選択に基づいているとしよう。このときの選択を選択1とすれば、この選択1は、Aを実現するためのB以外の他の目的をC、Dの中から、Bを選択したときの選択を選択2とするとき、選択2は、「選択1の選択」となっている。

 実践的問いを上位の実践的問いとの「二重問答関係」において考える時、「選択の選択」が行われている。つまり、実践的問いは、(1)(2)(3)の全ての場合に、「選択の選択」が行われている。

09 実践的問いを問うのはどのような場合か(1) (20201023)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?」

 実践的な問いとは、答えが真理値をもたない問いである。例えば、「パンを作るにはどうすればよいだろうか?」の答えが「イーストを手に入れよう」であるとき、この答えは命令文であるので真理値を持たない。ただしこの答えは、「パンを作るには、イーストが必要である」という条件文に基づいており、この条件文は真理値を持つ。これはつぎのような実践的問答推論になっている。

   パンを作ろう。

   パンを作るにはどうすればよいだろうか?

   パンを作るには、イーストが必要である。

   ∴ イーストを手に入れよう。

実践的な問いは、多くの場合、ある目的を実現するために「どう行為したらよいのか」を問うものである。実践的問いの答えは、多くの場合、「…しよう」という事前意図(行為に先行する意図)になる。

 実践的な問いが、<願望ないし意図と現実の衝突>から生じるのだとして、この衝突にはどのような場合があるだろうか。理論的問いの場合と似た仕方で、次のような場合を考えられるだろう。(1)二つ以上の願望が葛藤している場合、(2)願望と意図が葛藤する場合、(3)ある願望ないし意図の実現方法が分からない場合、である。

(1)二つ以上の願望が葛藤している場合:たとえば、目の前のケーキを食べたいと思い、同時に痩せたいのでケーキを食べるのをやめようと思うとき、この二つの願望を同時に実現することはできないが、同時に持つことはできる。このような葛藤関係にある多くの願望をもつことは日常的にあふれている。葛藤関係にあるのは二つ以上の願望の場合もある。週末に、山に行きたいし、海にもゆきたいし、美術館にもゆきたいし、映画も見たいし、小説も読みたい、などである。

 ところで、このように複数の願望が葛藤関係にあるとしても、常に実践的な問いが問われるわけではない。複数の願望の葛藤関係をそのまま放置しておくことも可能である。実践的な問いが問われるのは、その願望の中のどれかを選択しなければならないときである。では選択しなければならないのは、どのような場合だろうか。例えば、ケーキを目の前にしたとき、私がそのケーキを食べるかどうかを選択しなければならなくなるとすると、それは選択の可能性に気づいたためではないだろうか。あるときあるところで「いまここで…についての選択が可能である」と気づいたときには、そのときそこで…についての選択をすることは不可避になる。なぜなら、選択を先延ばしにすることもまた、そのときそこでひとつの選択をすることだからである。

  では、ケーキを眼にしたとき、食べるかどうかの選択の可能性があると思うのは、どのような時だろうか。各瞬間において、人にとって可能な選択は無数にあるだろう。しかしある瞬間に、人が実際に行う選択は一つであろう。では、可能な選択のなかの一つの選択に取組むことはどのようにおこなわれているのだろうか。多くの可能な選択の中からの一つの選択はどのようにおこなわれるのか? これを「選択の選択」と呼ぶことにしたい。これは、<ある瞬間において、論理的にも現実的にも可能な複数の選択の中から、その時に実際に取組む一つの選択を取り出すこと>である。

選択の選択は、そのときに人が取り組んでいる問いを解くために必要なないし有用な選択を取り出すこととして行われるのではないだろうか。

 たとえば、白い箱に入ったウェブカメラを探しているときに、白い箱の中のケーキを見つけたとしても、それを食べるかどうかという選択は、カメラ探しに必要なないし有用な選択ではないので思い至らないし、かりに思い至ってもすぐに忘れるだろう。

 この(1)の場合には、より上位の問いに答えるために、「どの願望を実現するべきか?」という問いが立てられ、その場合の<二つ以上の願望が葛藤関係にある>という現実と、<より上位の問いに答えたいという意図>が矛盾している。

 次に(2)と(3)の場合について考えよう。

08 理論的問いを問うのはどのような場合か(2) (20201019)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?」

前回の(1)と(2)の場合の問いの、より上位の問いはどのようなものになるのだろうか。

 まず(1)について。<(1)どちらも真であると思われる二つの命題(事実命題、論理命題、価値命題(価値命題が真理値をもつとみなす場合)、など)が矛盾している場合>に、この現実は、「整合的な認識(事実認識あるいは価値認識)を得よう」という意図と衝突するだろう。例えば、pと¬pのそれぞれに根拠があるとしよう。このとき、どちらが正しいのかを問う必要があるとすれば、それはどういう場合だろうか。

 一つは、「pか¬pか」に答えることによって、より上位の問いに答えようとする場合である。

たとえば、「p┣r」と「¬p┣s」が成り立ち、「rであるか、sであるか?」という問いQ2に答えることが必要である場合、「pであるか、¬p」であるか」という問いQ1に答えることによって、Q2に答えようとする。この場合には、より上位の問いQ2は、理論的問いである。

 しかし、「p、Γ┣r」と「¬p、⊿┣s」が成り立つ場合(Γと⊿は、文の集合)には、pが真理値を持つ命題であっても、rが真理値を持つ命題であるとは限らない。例えば、Γが「p→r」、⊿が「¬p→s」であり、rとsがともに真理値を持たない実践的命題である場合もありうるだろう。この場合には、Q2は実践的な問いになる。つまり、(1)については、より上位の問いは、(ア)理論的問いである場合も、(イ)実践的問いである場合もある。

 次に(2)について。<(2)ある知の証明・基礎付けができず、不確実ないし無根拠なままにとどまる場合>には、この現実は「確実で真なる認識を得ようとする意図」と矛盾する。この場合にも、それの答えである理論的命題を前提して、より上位の理論的問いに答えようとする場合と、より上位の実践的問いに答えようとする場合がありうるだろう。

 以上を踏まえると、(1)(2)(3)のそれぞれに、(ア)と(イ)の両方がありうることが分かる。

 次に、実践的問いを問うのはどのような場合か、を考えよう。

07 理論的問いを問うのはどのような場合か(1) (20201018)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?」

 前回述べたように、問いを理論的問いと実践的問いに区別し、問いが発生するのは、<願望/意図と現実が葛藤する場合>だとしよう。このとき、実践的問いが、<願望/意図と現実の葛藤>から生じることは、わかりやすいだろう。理論的問いについては、わかりにくいかもしれない。理論的な問いについても、<願望/意図と現実の葛藤>から生じることについては、つぎのように説明できるだろう。

 科学研究において、理論と観察命題が矛盾したりする場合(つまり、理論に基づく予測と実験結果や観察報告が矛盾する場合)に、理論的問いが設定されることになるだろう。そこには二つの事実命題の矛盾という現実がある。しかし、このような矛盾があるだけでは、問いが発生するには、不十分である。それとともに、整合的な認識を得たいという意図が研究者になければならない。その証拠に、金言や格言には矛盾したものが沢山あるが、人々はそれらの矛盾をふつう問題にしないからである。つまり、矛盾する命題があるというだけで直ちに問いが発生するわけではない。<事実命題の矛盾という現実>と<整合的な認識を得えたいという意図>の葛藤があるときに、理論的な問いが発生する。(参照、拙論「問題の分類」『待兼山論叢』第28号、1994、pp. 1-13、https://irieyukio.net/ronbunlist/papers/PAPER15.HTM

ところで、理論的な問いを生じさせる<願望/意図と現実の葛藤>という時の<現実>は、次のように3つに分類できるだろう。

(1)どちらも真であると思われる二つの命題(事実命題、論理命題、価値命題(価値命題が真理値をもつとみなす場合)、など)が矛盾している場合。上の段落で述べた、理論と観察命題の矛盾する場合は、この場合に属する。

(2)ある知の証明・基礎付けができず、不確実ないし無根拠なままにとどまる場合。

(3)ある事柄について無知である場合、などである。

これらは、それぞれ次の意図との間で葛藤を生じさせる。(a)整合的な認識(事実認識あるいは価値認識)を得ようとする意図、(b)確実で真なる認識を得ようとする意図、(c)ある事柄について知ろうとする意図、である。

これらの3つは、「人はなぜ理論的問いを問うのか?」という問いに対する答えとなりうるだろう。他方で、これとは違った仕方で、次のようにこの問いに答えることもできる。

 理論的問いを問うことは、行為一般と同様に、目的をもつ。その目的は、より上位の問いに答えることである。理論的な問いは、(ア)別の理論的問いに答えるために問われる場合と、(イ)実践的問いに答えるために問われる場合がある。

では、この(ア)(イ)の区別と、(1)(2)(3)の区別は、どう関係するだろうか。

(ア)では、ある理論的な問いQ1に答えるために、別の理論的な問いQ2の答えが必要であるとしよう。そして、Q2の答えがわからないとしよう。このとき、私たちがQ2を問うのは、Q1に答えるためにQ2の答えを知りたいという願望ないし意図のためである。これは、上の(3)のケースになるだろう。

(イ)では、ある実践的な問いQ3に答えるために、理論的な問いQ4の答えが必要であるとしよう。例えば「どうすれば早くパンをつくれるだろうか?」という問いに答えるために、「イーストの発酵に適した温度は何度か?」を知る必要があるとしよう。このとき、Q4を問うのは、Q3に答えるためにQ3の答えを知りたいという願望ないし意図である。これもまた上の(3)のケースになるだろう。

 では、上の(1)と(2)の場合の問いの、より上位の問いはどのようなものになるのだろうか。

06 人が問うのはどのような場合か(2) (20201013)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?」

 前回挙げた拙論「問題の分類」では、「意図と現実の矛盾」という「問題状況」を、認識問題状況、実践問題状況、決定問題状況、という3つに区別した。現在私は、問いを理論的問いと実践的問いの二つに区別するが、この二種類の区別の関係は、ここでの3つの区別と次のように関係するだろう。

  「理論的問い」「認識問題状況」での問い

  「実践的問い」「実践問題状況」あるいは「決定問題状況」での問い

さて、この論文では、問いは「意図と現実の矛盾」から生じると述べたが、それについて二点修正したい。

 まず、「矛盾」を「衝突」に修正したい。その理由は、この論文でも述べていたことである。つまり、「ここで「意図と現実の矛盾」というのは、正確には、意図が目指している状態を記述した文と、現実の状態を記述した文が両立不可能ということである。」つまり、正確にいえば、意図と現実は矛盾しないからである。そこで、問いは「意図と現実の衝突」から生じる、と言う方がよいだろう。

 第二の修正点は、「意図と現実の衝突」だけでなく「願望と現実の衝突」から生じる場合もあることから、問いは「願望/意図と現実の衝突」から生じる、と変更することである。これを実践的問いで説明しよう。

 例えば「ケーキを食べたい」という願望と「ケーキがない」という事実の衝突がある場合にも、「どうやってケーキを食べようか?」という問いが生じるだろう。とこで、願望と意図の間には次のような違いがある。

<違い1:願望(欲求、欲望など)と願望の衝突、意図と意図の矛盾>

 私たちは互いに衝突する願望を持ちうる(たとえば、「TVを見たい」と「勉強したい」というように)。そして、二つの願望が衝突するとしても、その衝突を解消するために願望を修正しようとはしない。TVを見たいと勉強したいという二つの願望は衝突するが、矛盾するのではない。なぜならこれらは両立可能だからである。

 他方で、私たちは互いに矛盾する意図を持つことはない(たとえば、「TVをみよう」と「TVを見るのをやめよう」は矛盾する)。そして、もし二つの意図が矛盾することに気づいたら、直ちに一方ないし両方の意図を修正するだろう。

<違い2:意図は実現可能性を前提するが、願望は実現可能性を前提しない>

 「Aしよう」という意図は、「Aできる」ということを前提している。Aできるかどうかわからないときには、私たちは「Aしよう」とは思わないだろう。「Aしよう」と思うのは、Aできると信じている場合である。つまり、Aできることを信じているが、どのようにしてそうしたらよいのか解らないときに、「Aするには、どうすればよいのか?」と問うのである。

 他方で、Aできるかどうかわからないときにも、私たちは、「Aするには、どうすればよいのか?」と問うだろう。つまり、「Aしよう」と意図しているのではなく、「Aしたい」と願望しているときにも、「Aするには、どうすればよいのか?」と問うだろう。

 つまり、「Aするには、どうすればよいのか?」と問う時には、「Aしよう」と意図している時と、「Aしたい」と願望しているときの二種類がある。