17 理論的問いは、実践的問いの上位の問いになりうる? (20200618)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

 実践的な問いに答える推論の前提は、意図表現の命題であるか、因果関係を記述する真理値を持つ命題である。それゆえに、意図表現の命題は、実践的な問いの答えとして与えられうる、また因果関係を記述する真理値を持つ命題は、理論的な問いの答えとして与えられうる。したがって、実践的な問いの下位の問いは、実践的な問いであるか、理論的問いであるかのどちらかである。

 これに対して、理論的な問いに答える推論の前提は、すべて真理値を持つ命題になる。真理値を持つ命題は、理論的な問いの答えであって、実践的命題の答えではない。それゆえに、理論的な問いに答える推論の前提を実践的問いによって得ることはできない。つまり、実践的な問いの上位の問いが理論的な問いであることはない。

 それでは、前回の反例をどう考えればよいのだろうか?

前回の反例:「この木の実のなかはどうなっているのだろうか?」という理論的な問いに答えるために、「この木の実を割るにはどうしたらよいだろうか?」という実践的な問いを立てることがある。

厳密に言うならば、「この木の実のなかはどうなっているのだろうか?」という理論的な問いに答えるために立てる最初の実践的な問いは、「この木の実の中がどうなっているかを知るには、どうしたらよいのだろうか?」という問いである。その答えとして「この木の実を割って中を見ればよい」が得られ、それに基づいて「この木の実を割るにはどうしたらよいだろうか?」という実践的問いを立てることになる。これは次のような問答の流れになるだろう。

「この木の実のなかはどうなっているのだろうか?」(理論的問い)

「この木の実の中がどうなっているかを知るには、どうしたらよいのだろうか?」

「この木の実を割ればよい」

「この木の実を割るにはどうしたらよいのだろうか」

「木づちで叩こう」

「木の実の内部は二つに分かれている」

 私たちは、すべての理論的問いについて、「この問いの答えを知るにはどうしたらよいのだろうか」という問いを立てることができるが、この問いは実践的な問いであろう。なぜなら、この問いは、「…するためには、どうすればよいのか」という形式を持っており、この形式の問いは実践的問いだからである。この問いに答えるためには、実践的推論が必要である。

 この問いの答えが命令や指令だとすると、厳密に言えば、それは真理値を持たないが、しかし正誤はありうるだろう。例えば「うまく卵焼きを焼くにはどうしたらよいのだろうか」という問いの答えを実行して、卵焼きをうまく作れたら、その答えは正しく、うまく作れなければ、答えは正しくないと言える。この問いの答えが「よくかき混ぜるべし」という指令であるなら、この答えは真理値を持たない。もしこの問いの答えが、条件文「うまく卵焼きを焼くには、よくかき混ぜればよい」だとしても、後件が指令であるので、やはり真理値を持たない。

 反例についての考察をまとめよう。「この木の実を割るにはどうすればよいのだろうか?」という実践的な問いのより上位の問いが、「この問いの答えを知るにはどうすればよいのか?」という実践的な問いであるとすると、実践的ない問いのより上位の問いは、実践的な問いである。しかし、「この問いの答えを知るにはどうすればよいのか?」という実践的な問いのさらにより上位の問いは、理論的な問いである。したがって、実践的な問いのより上位の問いが、理論的な問いである場合が存在することになる。

 Q1「問いQ2の答えを知るにはどうすればよいのか?」という実践的な問いのより上位の問いは、問いQ2であるとしよう。この問いQ2は、理論的な問いである場合と実践的な問いである場合がある。ここではさしあたり、この問いQ2が理論的な問いであるとしよう。このQ1の答えをA1、Q2の答えA2とするとき、ここでは、Q2→Q1→A1→A2という二重問答関係は成立していない。なぜなら、ここでのQ1の答えA1は行為の指令であるので、理論的な問いQ2に答える推論の前提にはなりえないからである。

(ちなみに、このことは、Q2が実践的な問いであるときも同様である。Q2が「どうやって肉じゃがを作ればよいのか?」という実践的問いであるとするとき、Q1は「Q2の答えを知るにはどうすればよいのか?」となり、その答えA1が、たとえば「ググればよいのです」であるとき、A1は、A2を導出するときの前提にはならない。)

 ここではQ2→Q1→A1→A2という二重問答関係が成立しておらず、A1からA2に至る過程が単純な推論ではなく、すこし複雑な過程になる。例えば、その一つの場合は、A1からA2にたどり着くには、A1の指令を実行して、その結果から得られた命題がA2であるという場合である。Q2→Q1→A1(指令)→指令の実行→実行の結果→A2、というような流れになるだろう。

 次回からは、「二重問答関係」と、廣松渉のいう「四肢構造」の関係を分析しよう。

16 二重問答関係とは? (20200617)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

 <推論は問いに答えるプロセスである>というのが、問答推論主義の出発点である。そして、推論は、問いと答えの関係の一種である。しかし、問いの答えを得るときに、常に推論を用いるわけではない。例えば、「それは何色ですか?」に対して「これは赤色です」と知覚判断で答えるとき、推論を用いていない(知覚もまた推論であるという主張については、後に考察したい)。また「何を食べますか?」に対して意思決定によって「うどんにします」と答えるときにも、推論をしていない。「なぜうどんにするのですか?」と問われて、例えば「なんとなくです」と答えるとき、少なくとも意識的には推論によって「うどんにします」と答えたのではないことが明らかだ。このように、問に対して、推論で答えるときもあれば、推論以外で答えることもある。

 ところで、問に推論で答える場合であれ、その他の仕方で答える場合であれ、どちらの場合であっても、問うときには、常にとは言わないまでも大抵の場合、より上位の目的がある。より上位の目的は、問いとして理解できるだろう。つまり、大抵の場合、問いは、より上位の問いを解くために立てられる。ここにつぎのような「二重問答関係」が成立する。

  Q2→Q1→A1→A2

これは、<問いQ2を解くために、問いQ1が立てられ、Q1の答えA1が得られて、A1を前提にして、そこから、Q2の答えA2が得られる>という関係を示している。

 二重問答関係には、いろいろなものがある。

 ここで、問いを、真理値を持つ命題を答えとする理論的な問いと、真理値を持たない命題を答えとする実践的な問いに区別することにしよう。理論的な問いは、より上位の理論的な問いを解くために立てられる場合と、実践的な問いを解くために立てられる場合がある。これに対して、実践的な問いは、より上位の実践的な問いを解くために立てられるが、より上位の理論的な問いを解くために立てられることはない。

 これまで、このように<実践的な問いが、より上位の理論的な問いを解くために立てられることはない>と論じたことが何度かあるが、果たしてそうだろうか。例えば、「この木の実のなかはどうなっているのだろうか?」という理論的な問いに答えるために、「この木の実を割るにはどうしたらよいだろうか?」という実践的な問いを立てることがあるのではないだろうか。

 これを検討しておきたい。

06 #前回の再検討 (20200614)

[カテゴリー:問答の観点からの権利論]

 前回は、すべての権利と義務を、問答に関する権利に還元できるだろうと考えて、例えば、次のように説明した。

①<Aする権利がある>とは、Aを自由に行えるということである。言い換えると、誰かに「Aしてもよいですか?」と問う義務がなく、かつ、他者からの「何故Aするのですか」という問いに答える義務がないことである

ここでの「義務」は法的なものである。ゆえに精確にいうと、次のようになる。

①<Aする法的権利がある>とは、Aを自由に行えるということである。言い換えると、誰かに「Aしてもよいですか?」と問う法的義務がなく、かつ、他者からの「何故Aするのですか」という問いに答える法的義務がないことである。

前回の②も同様に精確に言い直すと次のようになる。

②<Aする法的義務がある>とは、Aすることに関する問い(「なぜAしなければならないのですか?」とか「どうしてもAしなければならないのか?」など)への法的権利がない(つまり、それらの問いへの答えが得られなくても、また答えに不満があっても、行為しなければならない)ということである。

この①と②が成り立つとするとき、法的な権利・義務一般を、問答に関する法的な権利・義務に還元できるのだろうか?

①によって、<Aする法的権利がある>の下流推論が明示されている。

Aする法的権利がある。┣ 誰かに「Aしてもよいですか?」と問う法的義務がなく、かつ、他者からの「何故Aするのですか」という問いに答える法的義務がない

②によって、<Aする法的義務がある>の下流推論が明示されている。

Aする法的義務がある。┣ Aすることに関する問い(「なぜAしなければならないのですか?」とか「どうしてもAしなければならないのか?」など)への法的権利がない。

これらの下流推論はこれらだけはないだろう。それゆえに、権利や義務一般を、この下流推論を用いた言い換えに還元できないだろう。なぜなら、pの下流推論がp┣rとp┣sの二つあるとするとき、s┣rとなるとはかぎらない。つまり、sをrをもちいて言い換えられるとは限らない。したがって、rという表現を導入したとしても、pという表現が不要になるわけではないからである。

物に対する権利は、行為に対する権利に還元できるだろう。このカテゴリーでは、行為に対する権利をさらに、問答に関する権利・義務に還元できなるのではないかと探求している。その発想の根っこは、権利関係が、言語的コミュニケーションによって構成され調整されているのだとすれば、それを分析すれば最終的には問答に関する権利・義務になるだろう、という予測にある。もしこの還元ができないのだとすると、その原因・理由を明確にすることによって、権利関係についての認識が深まるだろう。

 次回は、アプローチを変えて取り組むことにしたい。

10 太陽光はなぜ無色透明なのか (20200611)

[カテゴリー:日々是哲学]

「太陽光は、なぜ無色透明なのだろうか?」

 恒星が無数にあり様々な色をしている中で、私たちの太陽系の光がたまたま無色透明であった、ということは考えられないだろう。つまり、どの恒星の知的生物も、その恒星の光を無色透明と感じるのではないかと思われる。

原因1:すぐに思いつく答えは、サングラスを長時間していると、それが普通になって、青色であること忘れているのとどうように、太陽光も小さい頃からずっとその光のもとでものを見ているので、それが普通になって、色を感じないのである。

原因2:(この原因2は、原因1と両立するだろう。)人間の視神経は、太陽の光のもとで発生し進化してきた動物の視神経の進化の産物である。動物の視神経は、太陽光によって身体の周りの状態を認識するためにより適切なものへと進化してきた。そのときに、太陽光を無色透明と感じることが最も適切なのではないだろうか。なぜなら、もし太陽光を無色透明と感じないとすると、太陽光のもとで、認識が妨げられる対象が存在することになるように思われるからである(この点は、もうすこし詳細な論証が必要だろう)。そのような視神経は、生存のための適切性に関して劣る。このことは、人間だけではなく、他の動物の視覚についても同様であろう。

 この原因2の方は、もっと複雑な議論が必要になるだろう。人間は三色型色覚であるのに対して、二色型色覚(犬)、四色型色覚(鳥)の動物などは、その方が生存に有利だったのだろうとおもわれる。犬にとって、太陽光が無色透明なのかどうかわからない。人間にとっては、三色合わさって無色透明になるのかもしれないが、犬にとっては二色合わさって無色透明になるのかもしれない。これはクオリアの問題なので、物理学では決着のつかない問題かもしれない。というわけで、太陽は何故無色透明なのか、に答えるには、原因1と原因2だけでなく、クオリアの問題も考えなければならない。

このことは、視覚だけでなく、聴覚、触覚、味覚、嗅覚、についても同様であろう。

 「空気はなぜ無臭なのか?」

 「唾液はなぜ無味なのか?」

これらの問いに、色の場合と同じように答えることができるだろう。

05 権利と義務を、問答に関する権利に還元できるだろうか? (20200609)

[カテゴリー:問答の観点からの権利論]

#権利・義務・禁止について

 <Aする権利がある>とは、Aすることが自由であるということである。つまり、Aすることもしないこともできる。それゆえに、Aをする権利がないときには、Aをする義務があるか、Aすることが禁止されているか、のどちらかである。従って、ここに3つの場合がある。

   Aする権利がある

   Aする義務がある

   Aすることが禁止されている。

ただし、Aすることが禁止されているとは、Aしない義務があるということと同じである。

#すべての権利と義務を、問答に関する権利に還元できるだろうか?

①<Aする権利がある>とは、Aを自由に行えるということである。言い換えると、誰かに「Aしてもよいですか?」と問う義務がなく、かつ、他者からの「何故Aするのですか」という問いに答える義務がないことである。(言い換えるとAに関する問答から解放されているということ、さらに言い換えると、Aに関して問答無用である。)

②<Aする義務がある>とは、Aすることに関する問い(「なぜAしなければならないのですか?」とか「どうしてもAしなければならないのか?」など)への権利がない(つまり、それらの問いへの答えが得られなくても、また答えに不満があっても、行為しなければならない)ということである。(言い換えると、問答無用でAしなければならない、ということである。)

権利一般ではなく、特定の個人間の権利や義務については、次のようになる。

③<Xは、Yに対してAする権利がある>=<Yは、XがYに対してAすることを受け入れる義務がある>

 XはYに「Aしてもよいですか?」と問う必要がない。XはYの「なぜAするのですか?」という問いに答える必要がない。Yは「なぜXの行為Aを引き受けなければならないのですか?」という問いへの答えを得られなくても、またその答えに不満があってもAを行わなければならない。

④<Xは、Yに対してAしてもらう権利がある>=<Yは、Xに対してAする義務がある>

もしXさんが望めば、YはXに対してAを行わなければならない。<Aする義務がある>とは、「Aをしなければなりませんか?」とか「なぜAをしなければならないのですか?」などと問うことができない、ということである。

以上の説明は、<…する権利がある>や<…する義務がある>から、問答に関して何が帰結するかを述べているものである。つまり、<Aする権利がある>や<Aする義務がある>の下流推論を述べており、上流推論については何も述べていない。しかし、上記の下流推論があれば、ある権利を問答の権利に還元できるのではないだろうか。

この点を明確にするために、次に問答の権利と義務について考えてみよう。

04 他者の行為を禁止するとはどういうことか? (20200608)

[カテゴリー:問答の観点からの権利論] 

ある対象Xを所有することは、少なくとも次の3つを含む(あるいは、次の3つを結論とする3つの下流推論をもつ。)

  ①Xを自由に使用できる。

  ②Xを自由に処分(加工、売却、廃棄、破壊、など)できる。

  ③他者がXを使用したり処分したりすることは、禁止されている。

この中の最後の部分についても、問答の権利として説明できるのかどうかを検討しよう。

 (所有権の場合に限らず)権利があれば、その権利を侵害してはならないという義務が発生している。そして、(道徳的な義務の場合はさておき)法的な義務の場合には、義務違反に対して法的な罰が与えられる(法的に禁止されている)。ところで、他者がXを使用したり処分したりすることは、①と②の権利の侵害である。ゆえに、他者がXを使用したり処分したりすることは、義務違反であり、法的な罰が与えられる(法的に禁止されている)。ここで、禁止したり、禁止できたりするのは、私ではなく、社会である。それゆえに③は、私がする行為ではない。私がすること、あるいはできることは、他者が①や②を侵害したときに、警察や裁判所に訴えることである。③は、①と②の権利命題から帰結する。

 仮に警察や裁判所がない社会であるとしても、権利が成立している社会であれば、その侵害が生じたときに、侵害した者を罰っしたり、保障したりする何らかの仕組みがあるはずである。もしそれがないのならば、その社会で、その権利があるとは言えないだろう。例えば、Xの所有権をもつということが、たんにXをある時点で占有しているということと同じことになってしまう。

 Xについての所有権の侵害が発生している可能性がある時には、所有権を持つ者は、「Xをどうするのか?」「なぜそうするのか?」という問う権利(同じことだが、問いかつその答えを求める権利)をもつ。所有権の侵害が明白であるときには、Xの返還や保障を求める権利が発生する(この権利についても、問答の権利として説明できるが、それについては後にする。)

 以上によって、プライバシーへの権利と所有権を問答の権利に還元できると言いたいのだが、もう少し明確にするためにも、次に、これらの議論を権利一般についての議論へ拡張したい。

03 所有権を問答の権利に還元できるか? (20200607)

[カテゴリー:問答の観点からの権利論]

プライバシーについての前回の説明に倣って、最も基本的な権利だと考えられている「所有権」についての説明を試みてみよう。

 ある対象Xを所有するとは、

  Xを自由に使用でき、

  Xを自由に処分(加工、売却、廃棄、破壊、など)でき、

  他者がXを使用したり処分したりすることを禁止できる

ということである。

<Xを自由に使用・処分できる>とは、「なぜXを使用するのか?」「なぜXを使用しないのか?」「なぜ売却するのか?」「なぜ売却しないのか?」、「Xをどうするつもりか?」などに答える必要がないということである。

 (なぜなら、もしこれらの問に答えたならば、その返答に拘束され、Xの使用・処分の自

由が制限されることになるからである。なぜなら、例えば「ある理由Yゆえに、処分するのだ」と答えたときには、その理由Yが解消したときには、Xを使用・処分する理由がなくなるからである。もちろんそのときにもXを使用・処分をすることはできるが、その時同じように「なぜXを使用するのか?」と問われたら、答えることが必要になってしまうのである。そのことは所有者の自由をそこなう。)

まとめるとこうなるだろう。

 <Xを所有する>とは、<「Xをどうするのか?」「なぜXを…するのか」という問いに答えることを拒否できる>ということである。別の言い方をすると<「Xの所有に関する問いに答えるかどうか」「どう答えるか」「どういう理由で答えるか」などが、その人の自由にゆだねられている>ということである。

 これらの問いを拒否できる理由は、それが私の問題であり、あなたの問題ではないということである。「問いQが私の問題であり、あなたの問題ではない」とは、「問いQにどう答えるかは、私の自由である」ということである。問いQは、私の個人問題である。

 個人問題によって個人が成立する。前回、プライバシーに関連して、個人情報によって個人が構成されるといったが、個人問題によっても個人が構成される。個人情報は真偽をもつが、個人問題は真偽を持たない。もちろん、ある問題がある人の個人問題であるということは、真偽をもつ個人情報であるが、個人問題そのものは、真偽を持たない。

 もう一つ説明すべきことが残っている。それは、<他者がXを使用したり処分したりすることを禁止できる>とはどういうことか、ということである。これを次に考えよう。

02 プライバシーは、問答に関する権利である (20200605)

[カテゴリー:問答の観点からの権利論]

(昨年秋にプライバシーについて考えていて、それが問答に関する権利だと気づいた。この考えをすべての権利に拡張できるのではないかと思いついて、「すべての権利は問答に関する権利である」と考えるに至った。そこで、まずプライバシーについての最初の思いつきを説明したい。)

#プライバシーを問答の権利に還元する

(注:アメリカの弁護士のウォレンとブランダイスは、論文「プライバシーの権利」(The Right to Privacy)(1890)で、プライバシーを「一人でいさせてもらう権利」(the right to be let alone)と定義した。ウェスティンが『プライバシーと自由』(1967)で、プライバシーの権利を「自己に関する情報に対するコントロールという権利」であると定義した。)

 これを踏まえて、プライバシーを二つに分けて、「一人にしておいてもらう権利」を「消極的プライバシー」とよび、「自己に関する情報に対するコントロールという権利」を「積極的プライバシー」と呼ぶことができるだろう。

A、消極的プライバシーについて

 プライヴァシーへの権利を認めることは、自分のことについて問われたときに、「知りません」とか「わかりません」と応えしても良い、ということではない。なぜなら、それは嘘を付くことだからである。プライヴァシーを認めるということは、それについて問われたときに、「それには答たくありません」とか「ノーコメントです」と応えることを認めるということである。あるいは他者には<問うてその答えを求める権利>がないような問いがあるということである。「問う権利がない問い」「答える義務がない問い」があるということである。

 ただし、問う権利とその答えを得る権利は、区別すべきである。例えば、警官に名前を問われたときに、市民には答えない権利があるが、しかし、警官に問う権利はあるだろう。警官は名前を問う権利を持つが、その答えを得る権利をもたない。市民同士であっても同様だろう。私たちは、他者に名前を尋ねる権利をもつのではないだろうか。ただし、答えてもらう権利はない。

 問いによっては、他者に問う権利がないものもある。例えば、就職の面接では、「あなたの本籍地はどこですか?」「家業は何ですか?」「支持政党はどこですか?」など問うてはいけないとされる問いがある。

B、積極的プライバシーについて

 私は私についての情報で構成されている。個人は、個人情報で構成されている。したがって、自分の個人情報を自分でコントロールすることは、自己支配、自己決定することにほかならない。プライバシーへの権利は、自己決定の権利の一部である。

 ところで、他者がもっている自己に関する情報をコントロールするとは、次のようなことであろう。

   ①他者が自分についてどんな情報を持っているのかを知ること

   ②他者が自分について持っている情報を訂正すること

   ③自分についての情報を他者がどのように扱うべきかを指示できること

①は、「あなたは、わたしについて何を知っていますか?」と問い、それに答えてもらう権利を持つことである。

②について説明しよう。「相手に訂正を強制する」とは、相手の同意なく、相手にAを行わせることである。言い換えると、<相手に個人の情報の訂正を行わせる権利がある>とは、「なぜ訂正しなければならないのですか?」という相手の問いに答える義務がなく、かつ、相手に「訂正してもらえますか?」と問う必要がなく(儀礼上は別にして)、端的に「訂正せよ」と命令できるということである。

 ただし、その情報が真であるなら、この限りではない。例えば、私が昨日駐車違反をしたとしよう。私が昨日駐車違反したことは、私の個人情報である。この個人情報を、私が昨日駐車違反しなかった、というように訂正することはできない。なぜなら、私が昨日駐車違反したことは事実だからである。事実である情報を修正することはできない。それは偽だからである。

③について説明しよう。「相手に個人情報をある仕方で扱うことを強制する」とは、相手の同意なく、相手にAを行わせることである。言い換えると、<自分についての情報を相手にある仕方で扱わせる権利がある>とは、「なぜそのように扱わなければならないのですか?」という相手の問いに答える義務がなく、かつ、相手に「しかじかに扱ってもらえますか?」と問う必要もなく(儀礼上は別にして)、端的に「しかじかに扱いなさい」と命令できるということである。

 ただし、このような権利があるのは、個人情報の内容や、相手の資格や、相手と私との関係、などに依存する。たとえば、その個人情報が、新型コロナウィルスに感染しているということであれば、医者は、患者の意向に関わらず、それを保健所に報告する義務があるだろう。

このように「プライバシーへの権利」は、個人情報に関する問答についての権利である。

01 法と権利 (20200603)

[カテゴリー:問答の観点からの権利論]

#法とは何か?

 法は、共同体に自己同一性を与え維持する統制的ルールであり、道徳は、個人に自己同一性を与え維持する統制的ルールである。共同体が、組織とルール(法)からなるとすると、個人は、身体(行為)と言葉(道徳)からなる。(この法と道徳の区別については、どこか別のところで、詳しく説明することにしたいと思います。)

 <法は、社会の変化に合わせて変える必要がある>この変更は、法を設定したときのより上位の目的を実現するために行われる。では、そのより上位の目的は何だろうか。それは共同体や社会を維持すること、よりよい状態にすること(言い換えると、社会問題を解決すること)であろう。たとえば、コロナウィルスの感染を抑える(つまり、ある社会問題を解決する)ために、新法を作ったり、古い法を改正したりする。

#法は、二種類ある。

 法には、国民の権利や義務を規定する法がある。例えば、「他人の所有物を盗んではならない」。これは、「何人もその所有物を盗まれない権利を持つ」と言い換えられるだろう。これは行為を禁止する法である。例えば、「国民は、税金を納めなければならない」。これは「国民は、税金を納める義務を負う」と言い換えられるだろう。これは、行為を命じる法である。

 法は、最終的には、個人や法人に行為を行うことないし行わないことを命令する(行為を命令するか禁止する)。しかし、全ての法が、直接的に行為を禁止したり命じたりするものではなく、間接的にそれを行うものもある。その場合、義務や禁止を、条件法「もし…ならば、…せよ(するな)」という形式で表現し、この条件法に従うことを命令する。ある役柄を引受けることを命じることは、条件法の束に従うことを命じることである。役柄は条件づけられた役割の束であり、役割は条件づけられた行為の束である。

 例えば、日本国憲法第一条「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民総意に基く。」これは、「天皇」とされる個人に、「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」として行為することを義務付ける、あるいは「象徴」として行為する権利を与える。そして、国民にその人を「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」として扱うことを義務付ける。ただし、この条文ではどのように行為すべきかは明示されていない。「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」として行為が、どのようなものであるかは、他の条文や法律で規定されることになる。

#法と権利命題の推論関係:権利命題の上流推論と下流推論

*権利命題の下流推論

  「この車は私のものである」(つまり「私はこの車の所有権を持つ」)

この発話が成り立つということから帰結するのは、例えば、「私はこの車を自由に処分できる」ということである。「この車を自由に処分できる」ということは、「なぜ、色をかえるのか」とか「なぜ、売るのか」とか問われたときに、理由を答える義務がないということである。

   私はこの車の所有権を持つ┣私はこの車を自由に処分できる

これは「私はこの車の所有権を持つ」の下流推論である。

*権利命題の上流推論

これの上流推論は、例えば次のようなものである。

   私は、この車を販売店で買った┣私はこの車の所有権を持つ

   この車の車検証には、所有者として私の名前が書かれている┣私はこの車の所有権を持つ

法と初期条件を前提とし、それから具体的な権利を記述する命題「私はこの車の所有権を持つ」が結論として帰結する、権利命題の上流推論がある。権利や義務を記述する文は、このように上流推論や下流推論を持つ。

 より一般的に言うと、法と状況の記述を前提として、具体的な権利命題を、次のように推論できるだろう。

  法、状況の記述┣権利命題 (権利命題の上流推論)

法と権利は、このような法的三段論法の推論関係にある。

 この三段論法でも、前提から帰結する命題は、複数ある。その中から特定の権利命題が結論になるのは、問いに対する答えとしてである。

   「この車はだれのものか?」

不動産を購入し、不動産の税金を支払っている者は、その所有者である。xさんは、5年前にこの車を購入し、毎年自動車税を支払っている。┣この車は、xさんのものである。

 この二つの前提からは、(気の利いた例ではないが)「この車は、6年前にはxさんのものではなかった」「もしxさんがこの車の自動車税を払っていないならば、この車の所有者ではない」なども、論理的に結論となりうる。その場合には、それぞれ、「この車がxさんの者でなかったのは、いつのことか」、「もしxさんが自動車税を支払っていなかったとしても、この車はxさんのものか?」などの問いに対する答えになるだろ。

15 科学研究における事実の明示化 (20200531)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

 XとYが同義の表現であるとしよう。この場合、次の理由でXもYも保存拡大である。Xの導入規則と除去規則のXにYを代入したものは、Yの導入規則と除去規則になる。したがって、Xの導入規則と除去規則を連続して適用した結果できる推論は、Yを用いて推論できる。つまり、このようなYとXがあるときには、XもYも保存拡張である。この場合、Xは他の語彙の意味を変えないのだから、意味の明示化に使用できる。つまり、XはYの意味の明示化に使用できる。(たとえば、「りんご」と「アップル」が完全に同義の表現だとしよう。このとき、「りんご」をもちいて、「アップル」の意味を明示化できる。つまり、「アップル」を使用した文に、「りんご」を代入して、「アップル」を使用した文の意味を明示化できるからである。)

 この言語からYを除去した言語(もとの言語の断片)をつくるとき、その言語において、Xは保存拡大であるかもしれないし、非保存拡大であるかもしれない。

 この言語において、Xが保存拡大であるとしよう。この場合Xは、他の語の意味を変えない。したがって、Xを含まない他の命題の意味を変えない。したがって、Xは他の命題の真理値を変えない。推論によって語「X」の意味を明示化できるとともに、対象Xに関する事実を明示化できる。ただし、この事実の明示化は、分析的な明示化である。

#日常生活や科学において、事実を解明するとは、新しい真なる命題を発見することである。対象「X」は語「X」の導入によって成立する。もし導入した「X」が保存拡大であれば、導入前の命題の真理値は変化しない。したがって、新しく真となる命題は「X」を含む命題だけである。「X」を含まない命題の中には、新しく真となる命題はない。

 「X」が非保存拡大であれば、「X」の導入は、導入以前に成立していた古い命題の真理値を変化させる。綜合的な新しい真なる命題を発見するためには、語「X」が非保存拡大でなければならない。

 例えば「H2O」は非保存拡大である。

   ① xは水である┣xはH2Oである  (H2Oの導入規則)

   ② xはH2Oである┣xは水素と酸素で出来ている (H2Oの除去規則)

   ③ xは水である┣xは水素と酸素でできている

最後の推論は、「H2O」を使用せずには不可能であった。それゆえに「H2O」は非保存拡大である。この推論③によって、水についての新しい真なる命題が発見され、水についての新しい事実が発見されたことになる。