07 価値尺度と功利主義

 
 
             一枚目のお好み焼きと二枚目のお好み焼き、その心は?
 
07 価値尺度と功利主義 (20130708)
 
すべての商品の価値が貨幣で図られる時、そこでは使用価値の差異は無視されます。功利主義者が、快楽や幸福の質を区別せず、すべての快楽や幸福を量で測れると考えたことは、すべての商品の使用価値の質の違いを無視して、すべての商品をその交換価値の量で測れると考えたことと似ています。交換価値の同じ商品が交換可能であるのと同じく、量の同じ快楽や幸福は交換可能なものと見なされます。
 
私があるお金を持っている時、それでどの商品を買うかは、私の自由です。そのとき、私がどの商品を買うかで私の快楽や幸福の質は異なります。それだけでなく、そのとき何を買うかで私の快楽および幸福の量も変化します。
 
あるお金で買える商品によって得られる満足は、どの商品を買っても同じというわけではありません。もしそうならば、店先でどれを買うかで悩んだりしないでしょう。選好に個人差があるということももちろんですが、限界効用逓減の法則があるからです。一杯目のコーヒーも二杯目のコーヒーも同じ値段であるが、二杯目のコーヒーのもたらす満足は、一杯目のコーヒーのもたらす満足よりも少なくなります。これが、限界効用逓減の法則です。そこで経済学では、ひとは、一定の金を使うときには、ひとつないし少数の商品ばかりを買うのではなくて、様々な商品買うことによって、貨幣単位あたりの限界効用が最大になるような仕方で消費すると考えます。
 
私たちにとっての快楽や幸福は、私が自由に選択できるものであす。その限りで、逆にいうと私はその快楽や幸福を選ばないこともできたということですから、それらの快楽や幸福から自由であるということです。私にとって不可欠な快楽や幸福と私にとって偶然的な快楽や幸福の区別は、功利主義者にはないのです。そこにあるのは量的な区別だけであって、質的な区別はないからです。
 
快楽や幸福を選択する私は、その限りで快苦から独立な自己です。売買できる能力や権利をもつ主体が存在すること、つまり功利計算ができる理性的で自由な選択の主体が存在することは、資本主義社会にとっても、功利主義にとっても、社会の不可欠な前提条件です。
 
 

 

06 売り手の自由と均質な時間空間

 
06 売り手の自由と均質な時間空間 (20130624)
 売買とは、貨幣と商品との交換の契約です。この売買契約は、他の契約と同様に、両者が自由に契約できることを前提しています。自由な契約でなければ、それは契約とは言えないでしょう。自由は、「契約」という概念の中に含まれています。
 お金や商品を自由に売買できるためには、それらを自由に処分できるものとして所有していることが必要です。自由に処分できるためには、その対象は、他の対象から分離可能でなければなりません。例えば、ある人Aが木の根の部分を所有しており、Bがその幹の部分を所有しており、Cが枝と葉の部分を所有しているとしましょう。このとき、Aは根の部分を勝手に処分できるとすると、Aの自由な行為が、他者の所有物である幹や枝の部分にも大きな影響を与えることになります。したがって、Aが木の根の部分だけを所有するということは、そもそもあまり考えられません。たとえば、その木全体の元の所収者Dがいるとしましょう。彼は、根の部分だけをAに売ったりはしないでしょう。なぜなら、根の部分をAに売ったときに、Aがその根の部分を運び出そうとすると、所有者Dは、幹の部分や枝の部分を枯らしてしまうことになるからです(『ベニスの商人』も似た話です)。そのように考えると、Aが根の部分だけの所有権をもつようになるということは考えにくいことです。しかし、Dがその木全体を掘り出したあと、それを売ろうとして、根の部分と幹の部分と枝の部分を別々に売ることはありうることです。
 ある対象が商品になるということは、他の対象から分割可能だと見なされるということです。たとえば、労働者が、自分の労働力を商品として売るとき、あるいは自分の8時間の労働を商品として売るとき、彼のその労働力ないし8時間の労働は、彼の他の能力ないし他の時間から、分割可能だと見なされています。
 商品を売る者は、自由な契約によってそれを行うのですが、それは自分の所有物の一部を自由に分割できることを前提しています。彼の所有物は、世界から分割可能なものとして、彼の所有物になっているのですが、彼がそれを自由に売れるとすれば、それは彼がそれを自由に分割できるということです。
 様々なものが商品となることによって、様々なものの使用価値の質的な差異は無視され、貨幣で交換価値が表現される等質なものとなります。しかも、それらは、自由につまり任意に分割可能なものとなります。近代に登場する自然科学が想定する均質な時間空間は、市場社会における商品の均質性および分割可能性と深い関係がありそうです。(マルクスか既にどこかで言っているのかもしれません。)
 
 
 
 

 

05 貨幣の流動性と自由な個人

 
05 貨幣の流動性と自由な個人 (20130616)
 
 封建社会というのは、おおよそ身分制の社会であり、身分制の社会とは、おおよそ生まれで身分が決まっている社会だといえるでしょう。つまり、そこに職業選択の自由はありません。また住所選択の自由もありません。結婚の自由も身分性によって制約されていたでしょう。こういう社会の中では、おそらく、個人に許された選択の自由が非常に少なかったと言えるでしょう。これらの個人の社会的な自由は、資本主義社会になって可能になったものであり、労働力や土地を含めてあらゆるものが商品として、おおよそ市場で自由に売買される社会において可能になったといえるでしょう。資本主義社会こそ自由な個人を創りだしたのです。(私は歴史研究者ではないので、このあたり全くの推測です。)
 個人の自由の核にあるのは、いわゆる「意志の自由」です。そして意志の自由の核心部分は、他行為可能性(他の行為をすることができた)にあります。この他行為可能性とは、職業選択、居住の自由、結婚の自由などの社会的な自由についていえば、多くが契約の自由と結びついています。雇用契約、賃貸契約、婚姻契約などです。そして、契約の多くが売買契約です。
自由な売買契約ができるのは、お金が何とでも交換できるからです。お金のこの流動性と個人の自由は、深く結びついています。流動性をもつお金が支配している世界だからこそ、個人の自由が成り立っているのです。
 ヘーゲルは、古代では一人の君主だけが自由であり、その後の貴族制の世の中では少数の人間が自由であり、近代国家において全員が自由になると考えましたが、資本主義社会の市民たちは、古代の王様よりはるかに自由な存在です。この自由は、資本主義社会が可能にした自由なのです。
 もちろん、お金がない人は、資本主義社会では不自由な生活を強いられます。そして、そういう人が多いことも事実です。お金がある限りで、私たちは自由なのです。私たちの自由は、貨幣の流動性とほとんど同義なのです。
 
 
 
 

04 一般的交換手段と一般的価値形態

 
04 一般的交換手段と一般的価値形態 (20130609)
 
金や銀は、それ自体が使用価値をもつと考えられていなければ、交換手段として用いられることはありえないでしょう。では、なぜ金や銀は、それ自体で価値をもつものと考えられるようになったのでしょうか。それらは、装飾品として他の金属よりも価値をもつと考えられたのでしょう。
 
貨幣が誕生したということは、一般的な交換手段として、交換が広まっていることを示しています。では、貨幣が誕生するためには、交換は、社会の中でどの程度広まっている必用があるのでしょうか。共同体間の取引にだけ貨幣のようなものが使用されるということがあるかもしれませんが、そのような取引では、何でも取引されるわけではないでしょう。つまり、そのときの交換手段は、また一般的交換手段だとは言えません。それが一般的交換手段つまりほとんどの交換に利用できる交換手段となるのは、多くの物の交換が社会の中に広まっている必要があります。金や銀は、腐りにくく持ち運びに便利なので、最初は遠隔地交易のための交換手段として利用されるようになったのかもしれません。しかし、いずれにせよ、金や銀は、共同体の中での活発な交換の手段として用いられるようになります。
 貨幣が一般的な交換手段になるということは、多くの物の交換価値が、貨幣との交換比率という一つの尺度で表現されるということです。それは言い換えると、多くの物の価値を、一様化することです。すべてものの価値が、貨幣価値で表現されることになります。つまり、貨幣が「一般的価値形態」になるということです。これは物の世界を大きく変化させるでしょう。(ちなみに、Marxは一般的価値形態と貨幣形態を区別します。それはコメや麻布が一般的な交換手段として用いられることがあるとしても、金が一般的交換手段として用いられる場合とは異質であるということです。ここではその区別を無視しています。)
 貨幣で多様なものを買えるということは、貨幣をもつ者は、いつでも多様なものを自由に買えるということです。貨幣をもつ者は、多様な行為の選択肢をもつことになります。これが、貨幣所有者を、自由な個人にするのでは無ないでしょうか。
 (ちなみに、Marxによれば、商品の交換価値とは、「人間労働の凝結物」です。投下労働時間によって、交換価値が決定することになります。それでは、Marxは、国によって賃金の違いがあることをどう説明するのでしょうか。それは、単一のグローバルな労動市場がなく様々な規制があるために生じているということでしょうか。それとも価値を投下労働時間ではかることが間違いなのでしょうか。)
 

 

02 価値尺度としての貨幣

 
                               3個の10円玉硬貨と3本の商品(その心は?)
 
02 価値尺度としての貨幣 (20130526)
 
[しなければならないことと考えなければならないことが、色々とあって、ブログのupができず失礼しました。この書庫にようやく戻って来ました。
 この書庫を開いたのは書庫「問答としての社会」の中で、会社を社会の中でどう位置づければ良いのか困ったために、経済について考えたいと思ったからです。私が考えたいのは資本主義経済なので、まずは貨幣について考えたいと思います。貨幣の登場によって、様々な経済活動とその活動体が成立するようになったといえるでしょう。その一つが会社ですが、個人もまた貨幣が生み出した活動体なのではないかと推測します。できれば、これを論証したいです。社会問題や個人的な問題を解決するために構成される活動体は、問題、言い換えるとコンフリクトによって駆動するのですが、そのコンフリクトのあり方が、貨幣というコミュニケーション媒体の登場によってどのように変化したのかを突き止めたいと思います。]
 
果物屋さんの店に、カゴに入れたリンゴが並んでいて、そのカゴに「1個100円」と書いた紙が貼ってあるとしましょう。
 
「一個」はそのカゴの中のリンゴ一個のことでしょう。(私たちは状況からそのように判断します。例えば隣のカゴのリンゴには「1個200円」と書いた紙が貼ってあったりするからです。)もしそのカゴのなかに5個のリンゴがはいているとすると、その中のどれでも「一個100円」なのです。そのカゴの中のリンゴの個体差は無視しされています。
 
「100円」とは、何を指すのでしょうか。私がポケットの中に100円玉を3個持っているとして、私は、そのなかのどの百円玉でも、カゴの中のリンゴ1個と交換できるでしょう。百円玉でなくても、10円玉10個でもよいでしょう。あるは千円札を出して900円のお釣りをもらうこともできるでしょう。100円とは、リンゴ一個の価値の大きさを表現しているのです。
 
この場合には、カゴの中のリンゴの個体差は無視されていますが、世界で一つしか無いものが商品になる場合もあります。ある土地とか、ある絵画とか、ある中古車とか、これらが商品になるときには、それは世界で一つしか無いものです。
 
工場で大量につくられた製品が商品になるようになって、多くの商品は、商品は個体としてのかけがえのなさ(とりあえず個性と呼ぶことにします)を失いました。そして、貨幣もまた、そのような意味で個性のない物として作られたものです。貨幣が善い貨幣として流通するためには、同じように作られていることが必要だからです。あるいは、貨幣はそのような意味で個性のない最初のものであるかもしれません。
 
私たちは貨幣で、リンゴや、自動車や、土地や、観劇や、電車の利用に、多くの財やサービスの購入に使用することができるので、それらの価値の共通の尺度になります。
 
では、貨幣が価値尺度であるというというときの貨幣とは何でしょうか。私のポケットに入っている100円玉でしょうか。すべての日本円の硬貨と紙幣の全体でしょうか。
 
 
 
 

6 矛盾とコンフリクト

 
6 矛盾とコンフリクト (20130428)
Kim Sensei から、欲求の矛盾というより、欲求のコンフリクトというほうがよいのではないか、というコメントをいただきました。たしかに、そうです。これまでの箇所で、欲求や感情の矛盾と呼んできたものは、通常論理学で言う意味での矛盾とは異なるので、コンフリクトと言うほうが、より適切なものです。
 
(1)意図(あるいは、意志。ここではとくに区別する必要はないと思います)と意図のコンフリクトについて。
一人の人間が同時に実現することが不可能な二つの意図については、それらを同時に持つことは不可能です。ただし、実際には同時に実現することが不可能な二つの意図であるけれども、不可能であることを知らない場合には、それらを同時に持つことは可能です。したがって、正確に言うならば、ある人が、二つの意図を同時に実現することは不可能であると思っているなら、その人がその二つの意図を同時に持つことは不可能です。このような二つの意図を、これまでは「矛盾する(二つの)意図」と呼んできましたがが、「衝突する(二つの)意図」と呼ぶことにします。
 
では、衝突する二つの意図を同時に持つことができないのは、何故でしょうか。意図は、この語の意味からして、直接に行為に結びつくものだからです。同時に実現できないと考えている意図を同時に実現しようとすることは、通常の合理的な人間の場合には、不可能であるとおもいます。もし実現できないと考えつつ、それを実現しようと意図するのだとすると、それは、不合理な振舞い、あるいは自己矛盾した振る舞いだと思います。
 
(2)欲求と欲求のコンフリクトについて。
同時に実現することが不可能である二つの欲求を、(その人が、その不可能性を知っていようと、知っていまいと)、同時に持つことは可能です。なぜなら、欲求は、つねに直ちに行為に結びつくとは限らないからです。このような二つの欲求を、これまでは「矛盾する(二つの)欲求」と呼んできましたが、「衝突する(二つの)欲求」と呼ぶことにします。
 
(3)意図と欲求のコンフリクトについて
ある意図とある欲求の両方を同時に実現することが不可能であるとき、(その人がその不可能性を知っていようと、知っていまいと)、その両方を同時に持つことは不可能ではありません。なぜなら、意図は行為に結びつくけれども、欲求のほうは行為に結びつくとは限らないので、ある意図を実現しつつ、それと衝突する欲求を持つことは、可能だからです。
 
(4)意図と事実認識のコンフリクトについて
私たちが何かを意図するとき、意図は常に事実の認識と衝突するのです。なぜなら、意図するとは、何か(Aとします)の実現を意図することであり、もしAが実現しているのならば、それを実現しようとする必要はなくなるので、Aの実現を意図している限り、Aは実現していない(少なくともAは実現していないと認識している)のです。つまり、事実の認識としては、「Aでない」が真となります。意図の内容は、「Aを実現したい」です。このとき、「Aでない」と「Aを実現するつもりです」は、論理的には矛盾しません。なぜなら、後者は意図表明の行為遂行型発話(サールのいう行為拘束型発話(Commissives)であり、真理値を持たないからです。意図が実現された状態「A」と現実の認識「Aでない」が矛盾するのです。意図と事実認識は、「衝突する」というのがより正確です。
 
(5)欲求と事実認識のコンフリクトについて
私たちが何かを欲求
するとき、欲求は常に事実の認識と衝突するものです。なぜなら、欲求するとは、何か(Bとします)の実現を欲求することであり、
もしBが実現しているのならば、それを実現しようとする必要はなくなるので、Bの実現を欲求しているかぎり、Bは実現していない(少なくともBは実現していないと認識している)のです。つまり、事実の認識としては、「Bでない」が真となります。欲求の内容は、「Bを実現したい」です。このとき、「Bでない」と「Bを実現したい」は、論理的には矛盾しません。なぜなら、後者は意図表明の行為遂行型発話(サールのいう表現型発話(Expressives))であり、真理値を持たないからです。欲求が実現された状態「B」と現実の認識「Bでない」が矛盾するのです。欲求と事実認識は、「衝突する」というのがより正確です。
 
(6)問いとコンフリクト
私はこれまで、問いを、事実認識と意図の矛盾から生じるものとして、説明してきました。そして、そのつど、この「矛盾」が論理的な意味での矛盾ではないことを断ってきました。問いは、事実認識と意図のコンフリクト(衝突)から生じるというのが、より正確です。ただし問いは、事実認識と意図のコンフリクトから生じるものだけではありません。問いには事実認識と欲求のコンフリクトから生じるものもあります。
事実認識と意図のコンフリクトは、必ず解決される必要があります。しかし、私たちは日常生活でたくさんの問いを立てていますが、それらの全てに答えているわけではありません。つまり、問いを立てるけれども、答えのないままに放置している問いがたくさんあるのです。それが可能なのは、その問いが事実認識と意図のコンフリクトから生じているのではなくて、事実認識と欲求のコンフリクトから生じているということです。私たちは、多くの欲求を持ち、その多くを実現しないままに放置しています。
 

 

5 感情発生の因果性と理由 

 

                             先週東京出張でした。
 
5 感情発生の因果性と理由(20130421)

 
Kim先生の質問は、こうでした。
「もし感情が能動的であるならば、それらは合理的(つまり、広い意味で何らかの「論理」に従うもの)なのでしょうか?」
 
私が前2回で示したのは、「感情が合理的(つまり、広い意味で何らかの「論理」に従うもの)である」ということでした。しかし、感情が何らかの論理に従うとしても、それだけから、感情が能動的であることを導出することはできません。言い換えると、感情が何らかの推論によって説明されるとしても、それだけから感情が能動的であることを導出することはできません。
 
感情の発生を説明する推論が、自然的因果法則を用いた推論になるとき、感情は受動的なものであることになるのでしょうか。そして、感情の発生を説明する推論が、理由に言及する推論であるとき、感情は能動的なものであるということになるのでしょうか。
 
確かに、例えば、感覚の発生は、自然的な因果関係によって説明できそうであり、感覚は受動的なものだと考えられそうです。
 
しかし、食欲の場合には同でしょうか。食欲が因果関係で生物学的に説明されるということはありうることだろうと思いますが、しかしその場合でも、食欲という欲望は能動的なものだと考えられるのではないでしょうか。しかし、感覚と欲望は、次の点でことなります。「あなたはなぜ、何かを食べたいのですか」ととうと、「なぜなら、空腹だからです」という答えが帰ってくるだろう。空腹は、生理学的な身体状態であると同時に、ある感覚でもあります。そして、私たちが食欲を感じるのは、空腹を含めて、身体状態についての感覚を持つからでだと思います。もしそうならば、食欲は、感覚を理由とする推論によって説明することが可能です。食欲は、一方では、生物学的な因果法則にもとづいて説明されうるかも知れませんが、しかし他方では同時に、理由にもとづく推論によって説明されるのであって、それゆえに、欲望は能動的なものとして理解されるのではないでしょうか。
 
感情についても、科学者は生理学的な、あるいは心理学的な自然法則を前提とする推論によって感情の成立を説明できるかもしれませんが、しかし、同時に感情については、「あなたは、なぜ悲しいのですか」という理由を問う問いに答えることできます。(なんらかの薬を飲んで、ある気分になっているときにも、「あなたは、なぜうれしそうなのですか」と尋ねたら、「薬を飲んだからです」という原因を答えるだけでなく、「今日はいい天気だからです」などと理由(この場合には、いい天気できもちがよい、というような感覚の存在が理由になる)を挙げてこたえるのではないでしょうか。)
 
以上は単なる推測ですが、心理学で経験的にチェック可能なはずです。もしそれが正しければ、そこから次のように考えることできるでしょう。
<心的なものの発生についての自然的因果法則を用いた推論と、理由に言及する推論は、両立しうる。そして、感情については両方が同時にありうるが、しかし前者の推論ができない場合も含めて、理由に言及する推論はつねに行われる。なぜなら、もしこれができないときには、おそらくその人は自分の感情について理解できず、有意味に語ることができないからである>
 
同一の感情の発生について、二種類の推論による説明が可能であるとすると、そのことは、感情は受動的なものとして理解されることもあるし、能動的なものとして理解されることもある、ということを意味するのでしょうか。
 

 
 

3 感情と実践的推論 

 

                郡山城公園の夜桜です 
 
3 感情と実践的推論 (20130401)
 
前回のべたことは、Kim Senseiからの次の質問に答えるものでした。
「感情が互いに衝突するとき、私たちはそれらの違いを、客観的な仕方でどのように解決するのでしょうか。」
 
これに対するとりあえずの回答は、<感情に矛盾があることと、感情が能動的であることは両立します。つまり、その矛盾は、解決の必要がないものです>ということになります。
(ここから、日本人の変わり身の速さの分析などの、日本文化論につなげることもできるかもしれません。しかし、それよりも、韓国語や中国語での感情表現がどうなっているのか、気になります。どなたか教えてください。)
 
Kim Senseiからのもう一つの質問は、次のものでした。
「もし感情が能動的であるならば、それらは合理的(つまり、広い意味で何らかの「論理」に従うもの)なのでしょうか?」
 
今回は、これに「そのとおりです」と答えたいと思います。感情が持つ論理性は、感情の成立が推論に基づいていることによって、示されると思います。
 
感覚については「なぜ指が痛いのですか」と問われたら、その答えは理由ではなくて、原因を答えるものになります。このときの答えは、観察によって得られます。
これに対して、感情の場合には、「なぜ、悲しんでいるのですか?」と問われたらその原因ではなくて理由を答えることになります。しかもその答えは、観察や推論によらず、即座に得られるのです。
このように指摘してるのは、アンスコムです。人の意図的行為について、アンスコムは、「なぜ・・・しているのですか」と問われたときに、人は直ちに「・・・のために・・・しているんだ」というように意図や動機を答えることができることを指摘しました。しかもその答えは、「観察によらない知識」であるといいます。そして、彼女は感情についても、「なぜ」と問われたときに、その原因を観察によらないで答えることができるといい、これを「心的原因」と呼んでいます。(G.E.A. Anscombe, Intention, Oxford, Basil Blackwell, 1957, アンスコム『インテンション』菅豊彦訳、産業図書、1984年)
 
(以下は、拙論「感情の物語負荷性と問題」(http://www.let.osaka-u.ac.jp/~irie/ronbunlist/papers/PAPER18.HTM)をもとにしています。)
 
まず感情は、次のような三段論法の結論として成立します。
 
     お金が欲しい。                                欲求
     宝くじに当たる=お金が手にはいる。   状況認識
e=”MARGIN:0mm 0mm 0pt;” class=”MsoPlainText”>     だから、嬉しい。                                感情
 
     お金が欲しい。              欲求
     大金を落とした。                                状況認識
            だから、悲しい。                               感情
 
まず、前提の一つを、<欲求>と考えて<意図>としないのは、次のような理由です。私たちは、ある対象について同時に矛盾する二つの感情を抱くことがあります。それは、私たちが同時に矛盾する二つの欲求をもっているから、と説明できます。互いに異なる(ときには矛盾する)二つの欲求が、同一の状況の認識の変化と結びつくことによって、異なる(ときにはアンビバレントな)感情が帰結するのです。ところで、私たちは、同時に矛盾する欲求を持つことはできても、同時に矛盾する意図をもつことはできません。なぜなら、それらの二つの意図を同時に実現することは出来ないので、その意図はそもそも実現不可能だからです。私たちは、実現不可能だと解っていて、それを意図することは出来ないのです。それゆえに、感情の脈絡を構成するのは、<欲求>とするのが適当でしょう。
 
ところでこのような「感情の三段論法」は、いわゆる「実践的三段論法」によく似ています。アリストテレスの「実践的三段論法」では、結論は行為にかかわる命題であり直ちに行為が続く(あるいは、結論は行為である)、と考えられています。『動物運動論』での例で考えてみましょう。
 
     「「飲みたい」と欲望が言い
     「これが飲物だ」と感覚か表象か理性がいう。
     と、私はすぐ飲むのである。」(アリストテレス『動物運動論』第7章、701a30
 
これを三段論法に整理すると次のようになります。
 
     なにか飲みたい。                (意図)
     これが飲物だ。                   (状況認識)
     ゆえに、私はすぐ飲むのである。   (行為)
 
この結論を欲求を表現するものに入れ換えれば、欲求の三段論法になるでしょう。
 
     なにか飲みたい。                        (意図/欲求)
     これが飲物だ。                         (状況認識)
これを飲みたい。            (欲求)
 
 上の例では、一般的な意図(欲求)からより具体的な意図(欲求)が生じていますが、前提での一般的な嫌悪や恐怖が、結論でより具体的な嫌悪や恐怖になる三段論法も考えられます。例えば、次のとおりです。
     私は、青汁が嫌いだ。
     これは青汁だ。
     私は、これが嫌いだ。
     ゆえに、私はこれをのまない。
 
これらの三段論法は、欲求を結論とする三段論法であり、最初に述べた「感情の三段論法」とは、区別すべきであるように見えます。
その二つを比較してみましょう。
 
<感情の三段論法>
     お金が欲しい。                                 (欲求)
     宝くじに当たる=お金が手にはいる。  (状況認識)
     だから、嬉しい。                              (感情)
 
<欲求の三段論法>
     お金が欲しい。                                  (欲求)
     xをすればお金が手に入る        (状況認識)
     だからxをしたい。                           (欲求)
 
この二つの違いは、状況認識の種類の違いのようです。
 この違いを分析する必要がありますが、しかし、とりあえずは、以上の分析でも、感情が推論によって成立していることが示せるのではないでしょうか。
 
(Kim Sensei, I am sorry, I wanted to translate this into English, but this became a little bit longer and I became tired.)
 

感情について2 矛盾する感情と人格

前回の発言に対して、Facebook Kim Senseiから啓発的なコメントをいただきました。
それは次の二つです。
「感情が互いに衝突するとき、私たちはそれらの違いを、客観的な仕方でどのように解決するのでしょうか。」
「もし感情が能動的であるならば、それらは合理的(つまり、広い意味で何らかの「論理」に従うもの)なのでしょうか?」
 
2つとも、私がまったく予期しなかったようなコメントで、しかもどちらも非常に重要な帰結をもたらすコメントだと思います。その帰結の1つは、人格の理解に関わります。
 
欲望と意志の違いについては、次のように語ることが一般的であると思います。
<私たちは、しばしば互い矛盾する複数の欲望を同時にもつ。例えば、美味しそうなケーキを見て食べたいという欲望を持ち、同時に、禁欲的な生活を送りたいと欲望する。あるいは、週末に、山にいきたいと思い、同時に、海に行きたいと思う。これに対して、意志については、互いに矛盾する意志を同時に持つことはできない。週末に山に行くことを意志し、同時に、海に行くことを意志する、ということはできない。>
例えば、Davidsonも行為論に関する論文のなかでこのようなことを述べていたと思います。欲望と意志をこのような仕方で区別することは、たいていの日本人にとっても受け入れられることだと思います。そして、欲望が、感情と近いものであることも、たいていの日本人は認めるでしょう。おそらくは西洋人も認めるでしょう。
(西洋史思想史や東洋思想史の中での、「欲望」と「感情」の関係についての歴史を確認する必要があります。しかし、言葉の違いという問題があるので、これはなかなか複雑な問題です。また「欲望」と「感情」という言葉の歴史も確認する必要があります。小学館国語大辞典によると、「欲望」の所出は、幸田露伴のようですから、「欲望」は翻訳語なのかもしれません。それに対して「感情」は室町時代から使われているようです。)
 
①私たちは矛盾する複数の欲望や感情を同時に持つことができる。
 We can have contradictory plural desires or emotions simultaneously.
②欲望や感情は、受動的なものである。
 Desires and emotions are passive.
③互いに矛盾する欲望や感情の原因は、人格の外部にあり、外部からの異なる影響が、異なる矛盾する感情を生じさせるのである。
 The causes of desires or emotions which are contradictory with each other are located outside of a person and different influences from outside cause different contradictory emotions.  
 
おそらく西洋では、①と②を調和させるために、③のように考えるのでしょう。
これに対して、私が前回主張したことに基づくと、日本語話者は次のように考えることになります。
 
①私たちは矛盾する複数の欲望や感情を同時に持つことができる。
  We can have contradictory plural desires or emotions simultaneously.
④欲望や感情は、能動的なものである。nt>
  Desires and emotions are active.
 
もし④をつぎのように言い換えられるとしましょう。
⑤欲望や感情は、人格の内部に発生原因を持つ。
  Causes of desires and emotions are located inside of a person.
そうすると、①と⑤から次の⑥が帰結します。
⑥人格の内部には、矛盾がある。
  Contradictions are inside of a person.
 
この⑥は日本語話者にとっては、有りそうなことです。( seems very much plausible for Japanese.) 戦後の日本、あるいはここ20年ほどの日本では、「自分探し」の本が沢山書かれ、沢山読まれています。それは、私達にとっては、「自分」というものが、西洋人の個人や主体のように確固として存在するものではないからです。私たちは常に根本の所で、自分が何かわからずに苦しんでいるところがあるようにおもいます。それは仏教の「無我」の教えとも一致します。私たちは、自我が確立していないから、自分がわからないことに困るのではなくて、無いはずの確固とした自我を求めるから苦しむのだといわれて、納得してしまう仏教文化の中に生きているのです。
 
ドイツの若い世代の人に、「ドイツ人は「自分探し」のようなことをするのですか」と尋ねた時に、彼女は「私たちは、「自分がない」ということに悩んだりはしません。私たちにとって、自分が何であるかは問題になりません。むしろ、どうやってその自分を実現するか、が問題になるのです」と答えてくれました。おそらく、このように応える彼女にとって、人格の内部に矛盾を抱えている、というようなことは考えられないのでしょう。
 
しかし、もし人格というものがあるとすれば、その人格の内部に、しかもその深部に矛盾が潜んでいる、ということは、私にはむしろ大いに有りそうなことだと思われます。
 
次回にKim Sensei のコメントに応えたいと思います。
(Kim Sensei, I am sorry, I should have written in English.)
 
 

 
 

 

理性は能動的で、感情は受動的なのか?

(写真がなくて、すみません。写真のupは時々にします。)
 
理性は能動的で、感情は受動的なのか? (20130319)
 
しばしば「理性は自発的(能動的)で、感情は受動的である」という記述を目にします。特に哲学の文献に多いのかもしれません。これは、欧米の言語の使い方にもとづく理解であると思われます。欧米の言語では、感情は殆どの場合受動形で表現されます。しかし、日本語では感情は殆どの場合能動形で表現されます。
 
  I am pleased.    私はうれしい。
  I am pained   私は悲しい
  I am satisfied.    私は満足だ
  I am annoyed     私は腹が立つ。
  I am disappointed. 私は落胆した。
 
英語でも、感情表現が自動詞の能動形で表現されることはあるでしょう。また日本語で感情が受け身で表現される事があるかもしれません。しかし、感情は、欧米の言葉では他動詞の受動形で、日本語では自動詞の能動形で表現されることことが多いようにおもいます。
 
つまり、日本語話者にとって、感情は能動的な態度なのです。
このような出発点をとると、感情に関する哲学的な議論は違ったものになってくるはずです。
 
哲学の仕事ではありませんが、ホックシールドが提唱した「感情労働」という概念があります。日本語話者にとって、私達が仕事の場面で感情をコントロールしたり、作りだしたり、抑制したり、変形したりして労働していることはほぼ自明のことですが、それは欧米の人にとっては、斬新な視点だったのかもしれません。