01世にも奇妙なことなのです

私は最近「共有知」という考えに取り付かれています。
それは自分でいうのもなんですが、非常に奇妙な考えです。
それについて、この書庫で議論したいのですが、どこからどう話したものか、
まだ迷っています。

ということで、いつか書き始めるであろう書庫の予告ですね。
興味を持ってくれ方は、とりあえず私の論文「知を共有するとはどういうことか」をご覧下さい。
 http://www.let.osaka-u.ac.jp/~irie/ronbunlist/paper200703.html

全くもって、季節はずれの幽霊のような話です。それとも、マルクスの共産主義のような妖怪というべきでしょうか。

完結か?休息か?

urbeさん、コメントありがとうございました。
urbeさんがコメントで考えようとしていたことと、私が考えたことは、だいぶニュアンスが違いますね。urbeさんは、私よりもsachlichに考えようとしているように思います。

多文化主義の信念形式には、問題がないというのが、ここでの結論です。
ご批判、ご質問をお願いします。

ところで、ある文化に特徴的な人生観というものがありうるとおもいます。それを「文化相対的人生観」と呼ぶことにしましょう。この「文化相対的人生観」と哲学的人生論の区別について、しばらくの別の書庫に寄り道して、その後、論じたいと思います。

人格の尊重と意見の尊重

出張で訪れた鳴戸の秋空です。

今日の課題は、次の二つが同義でないこと、またD1からD2が帰結するということもないことを示すことです。

D1「pです。しかし私は他の人が¬pを信じることを尊重します。」
D2「pです。しかし私は¬pという間違った信念を持つ人に、その信念が偽であることを指摘しません。」

次の二つが、区別されるべきであることを確認しましょう。
「私は、xさんを人格として尊重します」
「私は、xさんの意見pを尊重します」
この二つの区別を念頭に置くとき、次の二つのどちらのケースもありうることがわかります。
「私は、xさんを人格として尊重して、かつxさんの意見pを尊重します」
「私は、xさんを人格として尊重しますが、xさんの意見pを尊重しません」

さて、「私はpと信じています」もまた、大きく分けて二つの場合があります。
「私は、確信を持って、pと信じています。つまり、pが真であることに確信を持っています。」
(これは、「pです」という場合と同じ強さの信念だといえるでしょう。)
「私は、確信はありませんが、pと信じています。つまり、ひょっとするとpが偽である可能性を認めます。」

私が確信を持ってpを信じているのだが、xさんが¬pを信じているとき、私は、xさんを人格として尊重することはできても、xさんの信念¬pを尊重することはできないでしょう。例えば、我々は5+7=12を確信を持って信じていますが、xさんが、5+7=13だといったとすると、彼のその信念を尊重することはできないでしょう。仮にその信念をあえて訂正することをしない場合があるとしても、それはその信念を尊重するからではなくて、他の理由があるからだと思われます。

さてD1を考えて見ましょう。
D1「pです。しかし私は他の人が¬pを信じることを尊重します。」

これは曖昧でした。これは次の二つの意味に理解できます。
D1a「pです。しかし、私は¬pを信じている他の人を、人格として尊重します」
D1b「pです。しかし、私は、他の人の信念¬pを尊重します。」

D1aの態度には、問題はないと思います。しかし、D1bの態度は、矛盾しているように思われます。

ところで、D1bとD2「pです。しかし私は¬pという間違った信念を持つ人に、その信念が偽であることを指摘しません。」は同じ意味になりそうです。
しかし、D1aとD2は同じ意味ではありません。

さて、xさんの人格を尊重することからは、xさんの信念を尊重することは論理的に帰結しないのだから、D1aからは、D1bもD2も帰結しません。

さて、これで今日の課題は、解決しました。

前回の話に戻りましょう。

以前に、次の三つの命題を考えようとしました。
C「pです。しかし私はpを信じません」
D「pです。しかし、私は、他の人がpを信じないことを尊重します」
B「私はpを信じます。しかし私は、他の人がpを信じないことを尊重します。」

Cはムーアのパラドクスです。これは、矛盾(?)しています。
Bを多文化主義の信念形式と名づけました。
DとBは多義的であったので、今日の分析を受けて、次のように言い換えようと思います。

D″「私は確信を持ってpを信じています。しかし、私は、pを信じない他の人を尊重します。しかし、私は他の人の信念¬pを尊重しません」
B″「私は、確信はありませんが、pを信じています。しかし、私は、pを信じない他の人の尊重します。また、私は他の人の信念¬pを尊重します。」

このように変更すれば、D″もB″も整合的な態度だとわかります。
多文化主義の信念形式BやB″は、整合的な態度だといえそうです。

多文化主義についてもう一度

以前に、「多文化主義の信念形式」と名づけたのは、次のような形式の信念でした。
   B「私はpを信じます。しかし私は、他の人がpを信じないことを尊重し
     ます。」
次のように表現することもできるでしょう。

  「我々は、我々の社会の伝統的な規範を守りたいとおもいます。ほかの社
   会が、我々のとは異なる規範を採用することを、我々は尊重します。」

しかし、ここではとりあえず、最初の命題について考えてみましょう。
問題は、この信念形式が内的に矛盾していないかどうかでした。

さてここに少し異なる3つの命題が考えられます。
  C「pです。しかし私はpを信じません」
  D「pです。しかし、私は、他の人がpを信じないことを尊重します」
  B「私はpを信じます。しかし私は、他の人がpを信じないことを尊重し
    ます。」

この3つについて、以前に、次のように書きました。
----------
Cは、「ムーア」のパラドクスで矛盾(?)した発話だと考えられています(その理由の説明の仕方については議論があります。)
Dは、Cよりは矛盾の程度は少ないですが、しかしやはり間違った態度のように私には思えます。
Bは、Dよりも更に矛盾の程度が少ないように思います。Bには、問題がないのでしょうか?
-----—

今考えてみると、Dについての判断は再検討の必要があると思われます。もしDが矛盾していないとすると、B(多文化主義の信念形式)も矛盾していないといえるでしょう。ですから、Dが本当に矛盾した態度なのかどうかを、ここで検討しましょう。

 以前にDが間違った態度であると考えた理由は、

「他の人が明らかに間違った信念をもつことを尊重するということになります。これは、その他者に対してpが偽であることを指摘しないということですから、その他者に対して嘘をつくことになるのではないでしょうか。」

ということでした。

この指摘には、次の二つ問題点があります。
(1)この指摘は、次の二つを区別していません。

  D 「pです。しかし私は他の人がpを信じないことを尊重します」
  D'「pです。しかし私は他の人が¬pを信じることを尊重します。」

ただし、今の文脈でこの区別が重要になるかどうかわからないので、とりあえずは、我々も区別しないでおきます。後で、この点を検討しましょう。

(2)この指摘は、次の二つを混同しています。あるいは、D1からD2が帰結すると考えています。
  D1「pです。しかし私は他の人が¬pを信じることを尊重します。」
  D2「pです。しかし私は¬pという間違った信念を持つ人に、その信念が
    偽であることを指摘しません。」

しかし、この二つは同義ではありません。
またD1からD2が帰結するということもないと思います。
そのことを次に説明しましょう。

花と月

2007年9月25日の月です。
    日本人にとって、季節の変化や花は、儚さの象徴だと思うのですが、
    月は何の象徴なのでしょうか?変わらないもの?

もし、<答えられる問題と答えられない問題>に区別するのならば、たしかに、前回述べたように、<ある信念体系を前提して答えられる問題と、答えられない問題>に区別するが、役立ちそうです。そのときには、どんな信念体系を前提するのがよいかを考えたくなります。

しかし、ある信念を前提するとしても、ある問題が答えられるかどうかは、問題を解いてみなければ判断できません。ある時点で解けないとしても、原理的に解けない問題なのか、いずれ解けるのか、の判断ができないことが多いだろうとおもわれます。

<問題解決を進めることのできる問題と問題解決を進めることのできない問題>に区別するのはどうでしょうか。しかし、これもまた実際にやってみなければ、判断できないように思います。

しかし、前々回の提案は、<人生に関する問題が(哲学的に)議論されている限りで、その議論ないしその一部を哲学的人生論といい、人生に関する話題(命題)(疑問文ないし問題を含む)について会話されている限りで、その会話ないしその一部を人生観と呼ぶ>
ということでした。これだと、問題解決を進めることができるかどうか、事前に判断する必要はありません。

この区別をもう少し明確にしようとしたのですが、結局もとに戻ってしまいました。

では、次に、この区別を使って、以前の考察を振り返ってみましょう。
この書庫の初めのほうで、私的な人生観の二つの形式を分けてみました。
 「私は、私の人生について・・・であると考える」
 「私は、人生というものについて一般的に・・・であると考える」
<後者も前者も、他者からの批判を受ける可能性があり、批判を受けたときにそれに答えようとすると、それは哲学的な人生論になってしまう>と書きました。

今回の区別によるならば、<後者や前者が批判を受けて、その批判に答えて、さらに議論が続くとしたとき、それは、議論であると同時に、二人の会話でもある。つまり、それは哲学的人生論であると同時に、人生観でもある>ということになるでしょう。

もちろん、自分の人生観について批判を受けた人が、「私はこれについて他の人と議論するつもりはありません」といって、それを前提にして話そうとしたり、別の話題に移ろうとするとき、議論は行われませんが、会話は行われ、彼が主張した人生についての考えは、彼の人生観だと言えることになります。

では、多文化主義の信念形式について、この議論と会話の区別を適用するとどうなるでしょうか?

ちょっと行き詰まっていますね

ここまでの議論が間違っているとは思いませんが、これではまだ区別が曖昧ですね。
議論と会話の違いをもっと明確にする必要があるようです。

区別の最も重要な論点は、理性的に議論できることと、できないことを、明確に区別できるかどうかと言うことだと思います。

しかし、このような区別の立て方が曖昧なのだとおもいます。議論できることとは、議論できる問題です。ある命題が議論できるとは、「ある命題pが真であるかどうか」という問題を議論できるということです。議論できる問題であっても、答えられる問題とは限らないし、議論できない問題であっても、まったく議論できないとは限りません。

議論できる問題と議論できない問題の区別は、正確に言うと、どこまで議論できるかの違いなのです。もし、最後まで議論できるかどうか、つまり理性的な議論で答えにたどり着くかどうか、を基準にするならば、すべての問題は、最後まで議論できない問題になるでしょう。なぜなら、ミュンヒハウゼンのトリレンマによるならば、どのような命題も、究極的な根拠付けはできないはずだからです。たとえば、「ある命題pが真であるかどうか」について、「それは真である。なぜなら、qならばpであり、かつqであるから」と答えたとすると、次には「qは真であるのか」と問われることになるでしょう。そのようにして、問いは際限なく繰り返されうるので、pが真であることを保証することはできません。

では、他に区別の基準を提案できないでしょうか。
問いの前提の正しさを前提したときに、答えられる問題と答えられない問題を分けるという基準はどうでしょうか。
「xさんは離婚したのか」という問いは、xさんが結婚していたことを前提しています。もしこの前提が間違っているのならば、この問いは、無効です。この問題を議論しているときには、この前提の正しさを認めています。もちろん、議論することによって、問いの前提がおかしいことに気づくことはありえます。そのときには、問いを修正して、議論をやり直すか、問いを無効だとして議論をやめるか、どちらかです。いずれにせよ、問題は変化するので、これまでの議論は中止になります。究極的に根拠付けられた答えをえるとは、このような問いの前提についても、その正しさを根拠付けることを要求しています。我々は、問いの前提の正しさを前提したときに答えられる問題と答えられない問題を分けることができます。しかし、この場合にも、根拠を尋ね続ける作業は、問いの前提を問うことを避けるとしても、際限なく続けることができるのではないでしょうか。そうすると、この区別もまた、役に立ちません。

では、他の区別の提案はないものでしょうか。
ある論理体系を前提して答えられる問題と、答えられない問題に区別するのは、どうでしょうか。
この区別は、問題によっては有効かもしれませんが、人生に関する問題の場合には、おそらくあまり有効ではないでしょう。

ある信念体系を前提して答えられる問題と、答えられない問題に区別するのは、どうでしょうか。
これは役立ちそうです。ではどのような信念体系を、前提するのが適切でしょうか。

エントロピーは言語に依存する!?

森田さん、ご返答ありがとうございました。

プライスの論文の要約と序論しか読んでいないのですが、彼は、熱力学の第二法則「エントロピー増大の法則」についての、ボルツマンの統計力学による証明は、不十分である。統計学的な議論だけではエントロピーが常に増大しつづけることを説明できない、という批判ですね。
この批判自体は、目新しくないのだと思うのですが、「将来の熱力学的振る舞いに関する我々の合理的な期待は、過去についての我々が知っていることに依存しているに違いない」(Abstract)という指摘が、彼の論点なのだろうとおもいました。

(この問題に関心がある方は、Huw Price、’ Boltzmann’s Time Bomb’ をGoogleで検索してくだされば、論文本文を読むことができます。)

ひょっとして、時間の非対称性についての議論のときには、BelnapさんのBranching Space-Time Theory が説明に使えるかもしれないと思いました。もっとも、プライスは、時間そのものが非対称だと考えず、時間の中の物理過程だけが非対称だと考えるのでしょうが、Belnapさんの理論では、時間そのものが非対称性をもつことになるように思います。

以上2点は、ただの感想です。

さて、ご確認(?)の件ですが
ご指摘の通り、
「エントロピーという概念そのものが人間の恣意的な言語体系に依存するものだ」
この主張の可能性を追究してみようとおもっています (正しいという確信はありませんが、間違っているという核心もありません)。
ただし、「恣意的な言語体系」というときに、「自然には無関係に選ばれた言語体系」といういみならば、その通りですが、「個々人が恣意的に選択できる言語体系」という意味ならば、それは狭すぎるかもしれません。「日本語や英語は、人間にとって恣意的な言語体系である」というのと同じような意味で、「人間にとって恣意的な言語体系」という意味です。

もし、私のスタンスが正しいとすると、そのような錯誤の原因が次に問題になると思います。
そのときには、
「生理学的な問題から人間はエントロピーが増大する方向に時間の向きを感じるのだ」
という生理学的な説明の仕方になるかもしれません。
しかし、もっと、社会構成主義的な説明になりそうな気もします。
これについては、今はまだなんともいえません。

人生論と人生観の区別再説

前回述べた<議論と会話の対比>によるならば、xさんとyさんの二人がおこなう議論は、常に二人の会話として理解することもできます。(しかし、逆はいえません。二人の会話は常に、二人の議論として理解できるわけではありません。)
では、議論が、会話の一種なのかといえば、そうではありません。xさんとyさんの議論は、それ以外の人によっても継続可能です。しかし、xさんとyさんの会話の継続ではありません。(もちろん、xとyが議論しているときに、zさんが途中から議論に参加するというときには、xとyの会話が継続しているということができますが、参加者が完全に入れ替わるときや、時間的な中断がある時には、そうはいきません。)

さて、哲学的人生論と人生観の区別を次のように考えてみるのはどうでしょうか。
<哲学的人生論は、人生に関するある問題についての議論(ないしその一部)である>
<人生観は、人生に関するある事柄(話題)についての会話(ないしその一部)である>

「人生観」については、これまで常に「私的な人生観」と表現してきましたが、会話の中で話されたときには、それは他者と共有されるので、単に「人生観」と表現することにします。

xとyが、人生に関するある問題を議論しているとするとき、それはまたxとyの間の会話として理解することもできます。すると、xの哲学的人生論は、つねにxの人生観でもある、ということになります。逆に、xの人生観は、つねにxの哲学的人生論であるということになるとは限りません。

さて、このような区別で、十分でしょうか?
どなたでも、ご質問ご批判をお願いします。

すっかり秋ですね

         すっかり秋ですね。

森田さん、コメントありがとうございました。

私のここでのスタンスは,
「エントロピー増大の法則は、人間的な原理かもしれない」
ということです。

森田さんは、熱力学においてエントロピー増大の法則が成り立つことは、ボルツマンが統計力学で証明したのであり、状態数(状態数=エントロピーでしたか?)というのは、自然的な物理量であって、この法則は「人間的な原理ではない」ということを主張していたのだと思います。つまり、私のスタンスへの批判でした(ご批判、大歓迎です。批判がなくては、進歩はありませんから。)。

ところで、今回のコメントで言及されている、プライスは、「エントロピー増大の法則」に対してどのようなスタンスなのでしょか。
森田さんは、プライスにたいして、ボルツマンを擁護しようとしているのでしょうか?
プライスの議論は、私のスタンスにとって、有利なのでしょうか?

問題と話題

 一昨日の続きです。
 では、<問題を共有する>ことと<話題を共有する>ことは、どこが違うのでしょうか。

<問題を共有する>とは、ある疑問文に対する答えを見つけることが重要であるという認識を共有することです。もう少し細かく言うと、(問題が、現実認識と意図の矛盾として構成されているとすると)問題を構成している現実認識と意図を共有し、その矛盾を解決することが重要であるという認識を共有していることです。その問題の解決に共同して取り組もうとするかどうかは、問題の共有とは、論理的には別のことがらです。しかし、実際には、共同して取り組むことが不可能でない限り、共同して取り組もうとすることを妨げるものはないでしょう。(共同して取り組むことが不可能な問題があるだろうか? これは後で考えましょう。)

では、<話題を共有する>とは、どういうことでしょうか。話題を共有するとは、ある対象や事柄に関する興味、関心を共有するということでしょう。ところで、パンダに関心をもつ動物学者と国際政治学者は、同じ対象に関心を持っていても、彼らが関心を共有しているとは言えないでしょう。動物学者は、動物としてのパンダに関心をもっており、国政政治学者は、中国の外交政策に利用されている贈り物としてパンダに関心を持っているからです。つまり、同じ対象が関心の対象になっているというだけでは、話題を共有していると言うには不十分です。話題を共有するとは、同じ事柄に対する関心を共有することです。そして、事柄は命題で表現されるので、話題を共有するとは、ある命題に対する関心を共有することです。ある事柄(ないし命題)に関して、二人がそれぞれ言いたいことや、知りたいことをもっているとき、彼らは話題を共有していると言えるでしょう。

 とりあえず、議論と会話の区別を確認しておきましょう。

<議論と会話の対比>
議論は、記録して、再開できる。
そのときに、参加者は変化しても、議論は一つである。
議論は問題中心である。
問題が変われば、それは別の議論である。
問題の変化もまた、別の問題になりうるが、その別の問題を扱うのは、別の議論である。

会話は、記録して、再開できない。
会話は、参加者が変化すると、別の会話である。
会話は、参加者中心である。
話題が変わっても、会話は継続する。
話題の変化もまた、話題となりうる。そのときも、会話は継続する。