04 第2章の見取り図(1)  (20201104)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

第2章「問答関係と発話の意味――問答推論的語用論へ向けて(1)」は、文の意味ではなく、ある文脈において現実に行われる発話がもつ意味について、問答の観点から説明します。

 第2章の2.1「文と命題内容と発話の違い」は3つに分かれています。

 まず2.1.1で、第1章では触れなかった、文の意味、命題内容、発話の意味などの区別について説明します。 文は、文脈を入力として、それに応じて異なる意味を出力する関数だと見なすことができます。そこで厳密には「文の意味」とはこの「関数」のことであり、文脈に応じて出力される意味を「命題」ないし「命題内容」と呼ぶことにします。(この命題内容には2.2で扱う「焦点」は考慮されていません。その点で「命題内容」は「発話の意味」とは区別されます。これについては次回説明します。)

 次に2.1.2で、関数についての考察を挿入しました。関数は推論規則であり、それゆえに問答と関係しています。そこで、関数について「機械的に使用すること」と「選択して使用すること」に区別し、それに応じて推論も二種類に区別しました。ところで、言語表現を使用するとは、その表現が持つ複数の関数から一つを選択することであり、一つの関数にコミットすることです。ここに言語表現の理解とコミットメントの区別が生じます。

 2.1.3では、(第1章では、発話がコミットしている意味(命題内容)を、問答推論関係として説明しましたが)、命題内容にコミットするとはどういうことかを説明しました。

 命題「これはべジマイトである」を理解することと、この命題にコミットすること(この例では命題の真理性を主張すること)は、別のことです。つまり、命題を理解することと命題にコミットすることは別のことです。では、命題にコミットするとはどういうことでしょうか。これに答えるために、まず、語句の意味と指示対象の区別、および意味の理解と指示へのコミットメントの区別は、すでに問いにおいて暗黙的に行われており、問答関係において明示化されるということを示しました。次に、語の意味から文の意味がどのように合成されるのか、といういわゆる「合成の問題」(デイヴィドソンのいう「述定の問題」)を「語の使用におけるコミットメントを結合することによって、どのようにして文の発話によるコミットメントが成立するのか」という問いとして捉えて、次の答えを提案しました。

<文未満表現の使用におけるコミットメントの結合は、問いへのコミットメントと答えへのコミットメントの結合となるときに、命題内容へのコミットメントとなる。>

この提案は、<命題は潜在的には問答によって構成されている>という提案になります。例えば、

 「次のアメリカ大統領はバイデンになると思います」

という命題へのコミットメントは、

 「次のアメリカ大統領は誰になると思いますか?」

 「バイデンになると思います」

という暗黙的な問答によって成立するということです。

04 第1章の見取り図(後半) (20201102)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

 第一章の後半、「1.2 推論的意味論から問答推論的意味論へ向けて」では、ロバート・ブランダムの「推論的意味論」を紹介し、前半で説明した「問答推論」を用いて、それを「問答推論的意味論」へと拡張しました。

 (個人的な話になりますが、私は2005年の秋冬に5ヶ月間ピッツバーグ大学で客員研究員となり、Nuel Belnapさんのもとで彼のLogic of Question and Answer(『問いと答えの論理学』)の翻訳に取り掛かり(この翻訳は帰国後完成したのですが、権利の関係で出版できていません)、毎週Belnapさんの部屋で細かな質問をしていました。そのときにはブランダムさんとは、彼のヘーゲル論についての2,3回面談しただけでした。2015年の秋冬にも、3ヶ月ほどピッツバーグ大学で客員研究員の機会に恵まれ、毎週ブランダムさんの推論的意味論についてや私の問答研究についての話し合う機会を持てました。この第一章後半の議論は、その時のBelnapさんやBrandomさんとの話し合いの成果も生かされています。)

 ブランダムは「推論的意味論」の基本的なアイデアを次のように説明しています。

「人が自らコミットしている概念的内容を理解することは、一種の実践的な熟練である。それは、主張から何が導かれ何が導かれないか、あるいは、何がその主張を支持する証拠で何がそれに反する証拠なのか、等々を判別できるということに存する。」(Brandom 2003, p.19 訳 p.27. Cf. Brandom 1994, p. 89)

ある主張pを結論とする推論をpの「上流推論」、ある主張pを前提(の一部)とする推論を、pの「下流推論」と呼ぶことにしました(ブランダム自身は「上級推論」「下流推論」という表現を使用していませんが、このほうが簡潔なので)。文の意味(命題)を理解しているとは、その正しい上流推論と正しくない上流推論の判別と、その正しい下流推論と正しくない下流推論の判別ができるということになります。これは、言語の意味の「使用説」の一種です。言語表現の意味を、それを推論において使用することとして説明することだからです。

 私は、現実の推論は問いを前提しており、そのことを明示化すれば問答推論になることから、推論的意味論を問答推論的意味論へ拡張することを提案しました。その基本的なアイデアは次のようになります。

<命題の意味を理解するということは、その命題がどのような問いに答えるための前提になりうるのか、また、なりえないのか、また、どのような問いの答えとなりうるのか、またなりえないのか、を判別できることである。>

 真理条件意味論や主張可能性意味論は、真理値を持たない命題の意味を説明できないのですが、推論的意味論は、真理値を持たなくても推論関係をもつ命題であれば、その意味を説明できるというメリットをもちます(ただし、ブランダムは「主張」というタイプの発話を主に考えているので、このメリットについては言及していません)。ただし、推論的意味論は、(疑問文のように)通常の推論関係を持たない命題の意味については説明することができません。問答推論的意味論は、疑問文の意味も説明できるより包括的な説明になります。

 ところで、ブランダムが、推論関係によって命題の意味を明示化できると主張するときに、重要な論点は、推論法則は表現の意味を変えないという指摘です。論理的語彙の使用法は、その導入規則と除去規則(例えば、「かつ」(∧)という論理的語彙の場合、p、q┣p∧qという「∧の導入期測」とp∧q┣p、p∧q┣q、という「∧の除去規則」)によって尽くされており、それが同時に基本的な論理法則ともなります。これを最初に論じたのは、論理学者ゲンツェンです。しかし、このような導入規則や除去規則を任意の仕方で設定することはできません。そこには制限が必要ですが、どのような制限が必要でしょうか。そこでNuel Belnapが提案したのが「保存拡大性」です。これは、導入規則と除去規則を連続して適用してその論理的語彙が消えたときに、結果として成立する推論が、その論理的語彙を導入する以前の論理法則だけで導出できるものになっているということです。もしそれまでの論理的語彙だけではできなかった推論が、それまでの論理的語彙だけでできるようになっているのだとすると、それまでの論理的語彙や他の語彙の意味が変化していることになるからです。つまり「保存拡大性」は、ある論理的語彙の使用が、その他の語彙の意味を変化させない、ということを示しています。これによって、推論関係によって言語表現の意味が明示化されるのです(ダメットがこれを示唆していたのですが、全面展開したのはブランダムです)。

 論理的語彙がこの「保存拡大性」を持つことが、推論的意味論を可能にしている条件です。それと同様のことが疑問表現の語彙についても言えること、つまり疑問表現の語彙(疑問詞)についてもその導入規則と除去規則を想定して、それが「保存拡大性」を持つことを示し、それゆえに問答が言語表現の意味を変えることはなく、言語表現の意味の明示化に役立つことを示しました。(論理や問答は、他の言語表現の意味を変えませんが、それゆえにこそ、探求にもまた利用できるのです。)

 第1章の最後で、問答推論的意味論が4つのメリットをもつことを説明しました。

03 第1章の見取り図 (20201101)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

第1章の前半では、問いと推論の関係について論じました。

「考える」とはどういうことか?と問われたら、もっとも予想される答えは次の二つでしょう。一つは、考えるとは、問い、それに答えることです。もう一つは、考えることは推論することです。では、この二つは、どう関係しているのでしょうか。推論するとは、ある文(前提)から別の文(結論)を導出することです。この導出が妥当なものであるためには、推論が妥当でなければなりません。妥当な推論とは、前提が真であるならば、常に結論が真となるような推論です。例えば、次のような推論です。

  ソクラテスは人間である。

  人間は死すべきものである。

  ゆえに、ソクラテスは死すべきものである。

しかし、この二つの前提から論理的に導出可能な結論は、「ソクラテスは死すべきものである」だけではありません。「ある不死なるものは、ソクラテスではない」とか「すべての不死なるものは、ソクラテスではない」とか「不死なるソクラテスは存在しない」などもこの二つの前提から導出可能です。しかし、一つの結論を選ばなければ、推論は完成しません。したがって、私たちが現実に推論するためには、論理法則以外のものを必要としている、ということです。推論することもまた行為ですから、私たちが推論するときには、何か目的があるはずです。その目的は、問いに答えるということではないでしょうか。問いに答えるために、可能な複数の結論の中から、一つを結論として選び出すのではないでしょうか。つまり、<推論とは、問いの答えを見つけるためのプロセスである>と思われます。そうすると、現実には、問いを前提にした次のような推論を行っていることになります。

   ソクラテスは不死ですか?

   ソクラテスは人間である。

   人間は死すべきものである。

   ゆえに、ソクラテスは死すべきものである。

このことは、理論的推論についてだけでなく、実践的推論についてもなりたちます。詳しくは本書で説明しましたが、別のカテゴリー「問答推論主義へ向けて」の最初の方でも、もう少し詳しく説明しました。

 さらに、問いに答えるために、別の問いを立てる必要が生じる時、<問いを前提として、またいくつかの平叙文を前提として、別の問いを結論とする>推論も考えられます。このように平叙文だけでなく問いを前提や結論に含む推論システムを考えることが必要になります。これを「問答推論」と呼ぶことにします。問いを含む論理学の研究は、ヌエル・ベルナップのLogic of Question and Answerなどがあります。本書では、ポーランドの論理学者ウィシニェフスキの「問いの推論」の研究を紹介し、拡張する仕方で、問答推論を説明しました。

 第1章の後半では、この問答推論をもちいて、問答推論的意味論を説明しました。

02 全体の見取り図 (20201031)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

 前回の目次にあるように、本書は序文、4つの章、後書き、から成ります。

 第1章では、ブランダムの推論的意味論を紹介した後、それを改良した問答推論的意味論を提案します。

 第2章では、命題の意味ではなく、ある文脈における命題の発話の意味について、それの問答推論関係から説明します。その前半は、発話が焦点を持つとはどういうことか、後半では、発話の含みについてのグライスと関連性理論の議論を紹介した後、それを改良した問答推論的語用論を提案します。

 第3章では、オースティンとサールの言語行為を紹介したうえで、質問発話の特殊性を示して、発語内行為の分類を改良し、つぎに命題行為、発語内行為、発語媒介行為という言語行為の分類に「前提承認要求」という言語行為を加えることを提案します。

 最後の第4章では、従来の論理的矛盾、意味論的矛盾、語用論的矛盾とは異なる「問答論的矛盾」があることを説明し、コミュニケーションが成り立つためには、この問答論的矛盾を避ける必要があることから、問答関係が成立するための超越論的条件があることを説明します。

 より詳しい全体の見取り図は、「序文」の後半にあります。

 序文の前半では、これまでの哲学は問いの答えにばかり注目して、問いそのものに注目することが少なかったことを指摘し、問いに注目することの重要性を訴えました。コリングウッドが指摘していたように、主張を理解するには、それがどのような問いに対する答えであるか、(答えの「相関質問」は何か)を理解することが必要です。したがって、答えの半分はすでに問いによって与えられています。答えは、問いに欠けている部分を埋めるだけなのです。問いは、答えの半製品なのです。

 問いが答えの半製品であることは、発話の理解に限りません。社会制度は言語で構成されていますが、社会制度は、社会問題の解決策であり、社会問題への答えなのです。それは社会問題への答えとして正当化されています。個人の行為もまた、個人問題への解決です。個人は、その信念内容(主張内容)によってのみならず、その人が抱えている問題によって構成されています。

 このように問いないし問題について考察することが重要なので、大胆にいえば、問答の観点から哲学全体を組み替えること、を大目標としています。

 但し、本書は、言語哲学について、問答の観点からの見直しに挑戦するものです。

01 挨拶と目次 (20201030)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

やっと本が出版になりました。帯に「問いを問う」とあるのは、わたしが当初計画したタイトルが『問いを問う 問答の観点からの言語哲学』だったことの痕跡がのこっているためです。これに続いて、『問いを問うII 問答の観点からの理論哲学』『問いを問うIII 問答の観点からの実践哲学』『問いを問うIV 問答の観点からの社会哲学』を計画していました。この長期計画に変更はないのですが、その実現にはまだまだ時間がかかりそうですので、タイトルは別のものになりそうです。

 この本の目的は、問答の観点から言語哲学の組み換えを目指すことですが、この本ではそのための手がかりを提供することにとどまっています。まだまだ足りない部分については、このカテゴリーで補足していくつもりです。ですから、問答の観点から言語哲学を組み替えていこうとするならば、何が足りないかを、コメントしてもらえれば助かります。

次回から、宣伝を兼ねて簡単な内容紹介をしてゆきたいと思います。

本書目次

序 文 問いの重要性に向けて

第1章 問答関係と命題の意味――問答推論的意味論へ向けて
 1.1 問いと推論の関係
 1.2 推論的意味論から問答推論的意味論へ向けて

第2章 問答関係と発話の意味――問答推論的語用論へ向けて(1)
 2.1 文と命題内容と発話の違い
 2.2 発話が焦点を持つとはどういうことか
 2.3 会話の含み

第3章 問答関係と言語行為――問答推論的語用論へ向けて(2)
 3.1 質問と言語行為
 3.2 言語行為の新分類
 3.3 言語行為の不可避性

第4章 問答論的超越論的論証
 4.1 問答論的矛盾の説明
 4.2 問答関係の分析
 4.3 問答論的矛盾による超越論的論証
 4.4 超越論的論証の限界

あとがき
参考文献一覧
事項索引
人名索引