前の問に戻ろう

 
 
2年前の5月、木曽川にかかる鯉のぼりです。この地域では、川にこのようにたくさんの鯉のぼりをかけるのをよく見ます。川に鯉がいるのは、当たり前だから、自然な発想なのかもしれません。最近写真を撮っていないので、不本意ながら、昔の写真にしました。
 
 
 
「雇用契約は、どのような制限を受けるべきか」
これが最初の問いでした。すぐに思いつく答えは次のようなものです。
「雇用契約は、契約者の人権を損なうものであってはならない。なぜなら、そのときその契約は、<互いの権利を尊重した上での自由な契約であった>という正当性を失うからである。」
 
そこで次に、「契約者の人権はどのようなものであるのか」言い換えると、「我々は、契約者の人権や人格をどのようなものとして主張しうるのか」が問題になりました。
これもすぐに思いつく答えは次のようなものです。
「契約することが可能であるためには、<ある種の合理性をもっている>、<ある種の合理性の発揮が保証されている>、<コミュニケーションが可能である>などが前提条件となる。したがって、これらの前提条件の尊重が、契約の前提となる。これが、近代的な人格の権利の基本的な内容であった。これを保証することは、契約社会にとっての必要条件であった。」
 
仕切りなおしのために、もう少し前の問いに戻りましょう。
それは「労働力は商品か」ということでした。このといは、「会社は誰のものか」という問と関係していました。
 
もし労働力が、商品であるとすると、その商品の買い手は、雇用契約の相手である会社(の代表者)になるのだろうとおもます。したがって、労働力商品の売り手は、会社の持ち主ではないことになります。労働者は、会社の持ち主ではないのでしょうか。もし「労働者が会社の構成員である」と言えるとすると、それは「労働力は商品である」という発言と矛盾するのではないでしょうか。なぜなら、会社に商品を売るものは、会社の構成員ではないからです。

 
というわけで、「会社は誰のものか」を考えたいとおもいます。しかし、この問いの立て方は、うまくないかもしれません。「会社とはなにか」のほうがよいかもしれません。ただし、これだとピントがぼけてしまいそうです。
資本主義社会を跋扈している恐竜は、会社です。不思議な存在です。
 
 
 
 
 

 

 

仕切り直しに向けて

 
別府の白池地獄です。初夏のような日差しでした。
 
考えあぐねているうちに、ご無沙汰してしまいました。
人格をめぐる議論は、多様でかつ膨大なのでどんな風にアプローチすべきが考えているうちに、いつのまにか白池地獄の中に落ち込んでしまったかのようです。
 
人格が実体として存在する、と考えるのは難しいという結論でした。
しかし他方で人格がやはり何らかの仕方で存在するのだとすると、とりあえず思いつくことは、人格は構成されている、と考えることでした。このときの問題は、何が人格を構成するのかです。とりあえず思いつくのは、以下のようなものです。
①人格は経験的なものであるので、それを構成するのは経験的でない超越論的な意識である。物的でも心的でもないセンスデータが存在するとして、それらから物的対象や人格を構成するのは、「超越論的な意識」である。しかし、この場合にはこの超越論的意識がもし個人的なものだとすると、実体としての人格を認めることになってしまいそうです。
 
②人格は、言語ないし理論によって構成される。ストローソンは、我々の言語を分析して、それが物体と人格の存在を想定していることを指摘しました。彼はこのような形而上学を、我々の言語が想定している存在論を記述しているという意味で、記述的形而上学と呼びました。これは、我々の言語使用が成り立つための超越論的な条件として物体と人格の存在を論証した「超越論的論証」でした。討議倫理学でも、討議が成立するための超越論的な条件として人格の存在を論証するのではないかと思われます。或る意味では、討議論理学も、人格は言語によって構成されると考えているといえるかもしれません。これらは「経験的な構成」と区別して「超越論的構成」と呼べるかもしれません。
 
③人格は、社会的に構成される。これは②の言語的なコミュニケーションにかぎらず、言語や行為や物を介するコミュニケーションないし社会的相互行為によって人格が構成されると考える立場になるでしょうか。
 
雇用契約を結ぶ人格について考えるときに、適切なのは①②③のどれでしょうか。それとも、これらとは別のものでしょうか。
 
 
 
 
 

誰が人格を構成するのか

 
残念ながら、カヌーに乗っているのは私ではありません。
来年の連休はカヌーに乗っていたいものです。
5月の自然湖でした。
 
 
さて、人格は実体として存在しているのではなくて、構成されているのだとしよう。
では、その構成はどのように行われるのだろうか。
 
 
エイヤーは『言語・真理・論理』(吉田夏彦訳、岩波書店)で「自己」を「感覚-経験からの論理的構成」(p. 160)されたものであると考える。その構成は次のようにして行なわれる。
 
「我々が自己の本質を尋ねる場合、我々が尋ねているのは《もろもろの感覚-経験が同一の自己に属するためには、どんな関係がそれらの感覚-経験の間に成立しなくてはならないか》ということなのである。この問に対する答えは、《二個の感覚-経験が同一の自己に属するための必要にして十分な条件は、それらが同一の身体の要素である有機的な感覚-内容を含む》ということである。」(p. 160)
 
では、この構成は誰が行なうのだろうか、それともそれは自然に生じるのだろうか。エイヤーにとって、物的な対象も他者も自己も「感覚-経験からの論理的構成」であるが、物的な対象と他者を構成するのは、私であるように思われる。
 
「私は、《私は物質的な事物の存在を信ずるのに十分な理由をもっているのと同じ程度に、また他の人々の存在を信ずるのに十分な理由をもっている》ことを知るのである。なぜなら、どちらの場合にも私の仮定は、私の感覚-史に適当な感覚-内容の系列があらわれるという事実によって検証されるからである。」(p.168
 

 
私が、物や他者を感覚-経験から構成するのだとすると、自己を構成するのも私であろう。しかし、自己を構成する私は、自己の構成以前に存在していなければならない。そのような私もまた構成されたものでしかないとすると、説明は循環してしまう。これをどう考えればよいのだろうか。

 

身体と意識の結合態

 
 
 
 3月の桜です。おもうところあって、しばらく季節物の写真を掲載します。
 
人格の同一性を、身体の連続性にも、意識の連続性にも基づけられないとすると、次に考えられるのは、身体の連続性と意識の連続性の両方を組み合わせる考え方であろうか。
 
エイヤーは次のようにいう。
「記憶の同一性と身体の同一性という二つの基準は、相伴って働くものなのである。これらの基準から導かれる結果が、ほんの時たま矛盾することがあると、人の記憶はあてにならないという宣告が下される。しかしながら記憶の同一性と身体の同一性という二つの基準が根本的に異なる場合には、・・・・記憶の基準が優位を占めることが許されるような状況があるでもあろう。」(エイヤー『哲学の中心問題』竹尾治一郎訳、法政大学出版局、p.183
 
これは、常識的な立場であるかもしれない。この立場をさらに徹底すると、ストローソンの「人格論」になるかもしれない。彼は、意識経験を同定するには、それを時間空間の中に位置づける必要があるという。それゆえに、我々の意識経験は身体と結合している。この「人格」こそが原初的なものであり、身体と心は、むしろ人格を分離することによって得られる概念であると考える。
 
では、このような主張の欠陥は、どこにあるのだろうか。
一つには、前回述べた欠陥つまり、原理的に考えるならば、我々の記憶を正しさを確証する方法がないということである。
もう一つは、この議論がヒュームの懐疑に答えられないということである。意識経験を同定するには、それを時間空間の中に位置づける必要があるとしても、そのことは意識経験が身体と結合しているということの必然性を示すものではない。確かに意識経験は常に身体と結合している。そして意識経験は、他の意識経験と結合して一つの連続体を構成している。しかし、ヒュームが発見したように、それらの意識経験の「結合の必然的結合が実在することを決して知覚することはできない」。
 
ヒュームは次のように述べている。
「互いに矛盾しないようにすることは私には出来ないし、また、そのいずれを放棄することも私にはできない、二つの原理がある。つまり、われわれのすべての相異る知覚は相異る存在である、ということと、精神は、相異る存在の間に何らかの必然的結合が実在することを決して知覚することはない、ということである。」(エイヤー『哲学の中心問題』竹尾治一郎訳、法政大学出版局、p.97、からの孫引き。ヒューム『人性論』第二巻、大槻春彦訳、第一編、第4部、付録p.150を参照)
 
では、どう考えればよいのだろうか。
エイヤーは、人格が精神的実体と考えるのではなく、理論的な構成物だと考える。「人格は他の物的対象と同様、理論の産物である」(エイヤー『哲学の中心問題』竹尾治一郎訳、法政大学出版局、p.189)。
次に人格の構成説について考えてみよう。
 
 
 

人格の同一性は意識経験の連続性か?

 
   
 
 
オランダのGroningenのホテルからの景色です。今年1月の寒いときでした。
 
 
人格の同一性の基準を身体におけないとき、次に思いつくのは、意識の連続性である。
これはロックの主張であった。サールは、これを次のように定式化している。
「時刻T2における人物P2が、それ以前の時刻T1における人物P1に起こった意識経験を覚えているとき、そしてそのときに限り、時刻T2における人物P2は時刻T1における人物P1と同一である。」
(サールの『マインド』山本貴光・吉川浩満訳(朝日出版)の「第11章 自己」から引用したい。p365
 
サールはこれが循環しているという。
「時刻T2におけるP2が時刻T1におけるP1に起こった出来事を本当に覚えているためには、単にその人がそれを覚えていると考えるのではなく、P2P1と同一でなければならない。」しかし、P2P1の同一性を言うために、記憶の連続性を主張しようとしているのだから、論点先取の循環になっている。
 
これを次のように批判することも出来るだろう。
「時刻T2におけるP2が時刻T1におけるP1に起こった出来事を本当に覚えているためには、単にその人がそれを覚えていると信じるだけでなく、その信念が真でなければならない。」しかし、記憶についての信念が真であることを保証するものは(記憶以外には)ないだろう。
 
(ちなみにエイヤー『哲学の中心問題』竹尾治一郎訳、法政大学出版局、p.183にも似た議論がある。)
 
身体の連続性も記憶の連続性も、人格の同一性を保証できないとすると、どう考えればよいのでしょうか。
 
 

人格の同一性は身体の同一性ではない

アムステルダム中央駅です。

哲学で「人格の同一性」はどうして問題になるのでしょうか。
「Person」を「ひと」「人」「人物」と訳してもよいのですが、ここでは「人格」としておきます。
「人格の同一性」とは、例えば、十年前の私と昨日の私と今日の私の同一性あるいは連続性ということです。このことは、我々が生活する上では、自明のことだと思います。

しかし、我々が認識するのは対象そのものではなくてその観念である、とロックが主張したとき、人格についても、我々が認識するのは、その観念であることになり、そうすると人格の同一性は何によって保障されるのか、ということが問題になり始めました。

そしていったん立てら
れた「人格の同一性の基準何か」という問題は、ロックのような認識論、存在論を採用するかどうかとは独立に、問われるようになりました。

ここではロックにとらわれずに、考えてみたいと思います。

まず、人格の同一性は、身体の同一性によって保障されるのではない、ということを確認しておきましょう。
我々の身体を構成している分子は、80日程度で入れ替わるでしょう、あるいはもっと長い時間がかかるとしても、数ヶ月で入れ替わることは確かです。したがって、人格の同一性は、身体を構成している分子の同一性にもとづいているのではありません。では、分子がつくりだす形態の同一性によって保障されているのでしょうか。しかし、私の身体の形態は、幼児のころとはかなり違います。したがって、身体の形態によって保障されているのでもないでしょう。
他人の身体に脳が移植されたり、グレゴールザムザのようにある朝毒虫に変死するというような思考実験が有名ですが、そのような思考実験が示しているのは、我々の人格の同一性が、身体の形態の同一性には依存していないと言うことです。

そこで、結論です。「人格の同一性は、身体の同一性ではない」

次に検討すべき候補は、意識の連続性です。

というのは、