174 正統化についての追加説明:正統化による哲学の転換にむけて(Additional explanation on legitimization: Towards a transformation of philosophy through legitimization)(20260430)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

(時間論の続きを考えるつもりですが、正統化について追加説明します。)

#問答の拡大連鎖

問いの正しい答えは、大抵は一つではなく複数可能である。論理学数学の問いではなく、経験的な問いの場合にはとりわけ、正しい答えが複数ありうることが多い。しかし現実に答える時には一つの答えが選択されている。では、この選択はどのように行われるのだろうか。それは、その問いのより上位の問い問いに答えるのに有用であるという観点で行われている。もしそれでもまだ正しい答えには複数の可能性があるならば、その場合にはさらにより上位の問いに答えるのに有用であるという観点で選択が行われているのだといえる。

#正統化による哲学の転換にむけて

 ところで、20世紀の哲学において自明のものとなったように、基礎づけ主義は不可能である。つまり、主張を厳密な意味で基礎づけることは不可能である。問いの答えを上流推論で正当化(justify)することはできないということである。他方で、問いの答えは、その答えを前提とする下流推論の結論の有用性によって、その答えを選ぶことを正統化(legitimize)できるだろう。その典型はプラグマティズムである。従来、哲学の体系は、<理論哲学が実践哲学に先行し、実践哲学は理論哲学を前提としてその上に構築される>という仕方で考えられてきた。しかし、もし基礎づけ主義が不可能であるならば、理論の正当化は、理論を前提としてそこから導出される帰結の有用性によって可能になると考えることになるだろう。

これをさらに拡張すれば、次のような転換が生じる可能性がある。

論理学・数学は経験的知識によって正統化される。

理論哲学は経験科学によって正統化される。

科学は技術によって正統化される。

哲学は哲学史によって正統化される。

哲学は啓蒙書によって正当化される。

このような拡張には、制約もあるだろう。上流推論と下流推論の関係についての考察が必要である。

173 三角測量と時間(Triangulation and Time)(20260419)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

前回のべた客観的な時間と主観的な時間はどう関係するだろうか。

主観的な時間とは、主観によって構成された時間、表象された時間である。それに対して客観的時間とは、構成する時間、表象する行為が行われる時間である。そして、主観的な時間関係(前後関係、同時関係)は、主観的表象と同様に、間違いの可能性を持つ。このように考えるとき、客観的時間が、主観的時間よりも基底的であると思われるかもしれない。しかし、私たちの認識がデイヴィドソンのいう「三角測量」として成立するのならば、時間認識もまた三角測量として成立するだろう。

主観的時間を個人的主観的時間と間人格的(interpersonal)主観的時間を分けるならば、三角測量によって成立する時間認識は、間人格的時間認識になるだろう。今回はこれを説明したい。

#三種類の知識

デイヴィドソンはまず、知識を次の3つに分ける。

自分の心についての知識「自分が何を考え、欲し、意図しているか、また私の感覚がどのようなものであるか」の知識

対象についての知識「世界内の対象の位置や大きさや因果的性質」についての知識

他者の心についての知識「他の人々の心の中でおこっている事柄」についての知識

この三種の知識の関係を、従来は、次の順序で考える。<まず、自分の心についての知識が無媒介に成立する。次に対象についての知識が成立する。次に他人の行動の知識が対象についての知識の一種として成立し、それに基づいて他者の心についての知識が成立する。> しかし、デイヴィドソンは、<これらの三種の知識は、どの知も他の二種の知に還元されず、どの知も成立のために他の二種の知識を必要とする>と主張する。これの論証の中心は、(大雑把なまとめ方になるかもしれないが)次のようなことである。

すべての知識は、それが有意味であるためには、言語の規則に従っている必要があり、そのことを証明するには、他者とのコミュニケーションを必要とする。したがって、すべての知識は、自分の心の知識と他者の心の知識をする。他者の心の知識は、他者の行為の知識を必要とするが、それは対象についての知識の一種であるので、すべての知識は、対象についての知識を必要とする。

#知識の「三角測量」の定義

デイヴィドソンは、「三角測量」について次のように説明する。

「二つの視点があって初めて、思考の原因に場所が与えられ、ひいては、思考の内容が定まる。それはある種の三角測量とみることができる。つまり、二人の人物の各々は、一定の方向から流れ込む感覚刺激に別様に反応している。刺激が流れ込んでくるさいの通路を外部へ引き延ばすと、その交点が共通の原因である。二人の人がお互いの反応(言語の場合なら、言語的反応)に気づくとするなら、各人は、それらの観察された反応を、自分が世界から得た刺激と結びつけることが出来る。こうして共通の原因が特定される。これによって、思考と発言に内容を与える三角形が完成する。しかし、三角測量のためには、二人が必要である。」(デイヴィドソン『主観的、間主観的、客観的』清塚邦彦、柏端達也、篠原成彦訳、勁草書房、p. 328)

知識の「三角測量」とは、ある人物A のある対象Oについての、知識が成立するためには、別の人物Bがその対象Oについて同じ内容の知識を持つ必要があるということである。AとBの二つの視点から同一対象Oを認識しその二つの認識が一致すること、あるいは整合的であることが、彼らの認識をより確実なものにするということである。

#時間認識の三角測量と心の社会   

ここで、世界の認識が、対象Oのある変化の認識だとしよう。その変化は、客観的な時間経過であり、その変化の認識は客観的時間経過の認識である。

この場合に、Aが、対象Oの時間的変化を認識するとき、Oの時間変化は、Aが認識している変化の時間であり、主観的時間である。Aにとっては、Oの客観的時間変化とOのAにとっての主観的時間変化は、同一である。この同一性を客観的なものにするには、他者BのOについての認識も、Aの認識と一致する必要がある。Aがこの一致を確認するためには、Aは、BがOの時間変化をどのように認識しているのかを、認識する必要がある。

 Aが、<Oの客観的時間>と<Aのその認識>と<Bのその認識>が一致する、ないし整合的であると理解するとき、Oの客観的時間は、OとAとBが共に属する共通の時間である「間人格的時間」の中に成立する。

デイヴィドソンは、次のように、私たちの知識は「心の社会」の中で成立するという。

「私が正しければ、我々の命題的知識の基礎は、非個人的なもの(impersonal[非人格的なもの]なものにではなく、人々が共有しているもの(interpersonal[間人格的なもの])なものにある。たとえば、我々が、他人と共有している自然的な世界に目を向けるとき、我々は自分自身との接触を見失うわけではなく、むしろ、自分が心の社会の一員であることを承認しているのである。もしも、他人が何を考えているかがわからなければ、私は自分自身の思考をもつことも、したがってまた自分の思考の内容を知ることも出来ないだろう。もしも、私が、自分が何を考えているかを知らないならば、私には、他人の考えを推定する能力がないことになるだろう。他人の心を推定できるためには、私は他人と同じ世界に住んでいなければならず、その世界の主だった特徴(価値をもふくめた)に対する反応を共有していなければならない。それゆえ、世界について客観的な見方をしても、自分自身との接触が見失われる虞はない。三種類の知識は三脚を為している。足が一本でもなくなれば他の2本も立ってはいられない。」(同上訳339)

知識が心の社会の中で成立するのならば、客観的時間も主観的時間もまた心の社会の時間、「間人格的時間だといえるだろう。