03 実践的推論から実践的問答推論へ(1)(20200415)

「推論」という時に普通に考えられているのは、前提が真であるならば、結論も真となるような命題の組み合わせである。このような推論では、前提も結論も真理値を持つ。このような推論を理論的推論と呼ぶことにしよう。それに対して前提の一部や結論が、真理値を持たない命題であるような推論がある。これは、行為に関する実践的推論である。これは行為の決定に際して行われたり、行為を後から正当化するために使用されるものである。たとえば、次がその例となる。

  私はコロナ・ウイルスに感染したくない。

  自宅にとどまれば、感染しないだろう。

  ゆえに、私は、自宅にとどまろう。

実践的推論の前提の前提の内、少なくともその一つは、意図や欲求を表現するものであり、それは真理値を持たない。上の例の前提「私はコロナ・ウイルスに感染したくない」は意図を表現する命題であり、真理値を持たない。また結論「私は、自宅にとどまろう」も、行為についての意図を表現するものであり、真理値を持たない。

 このようにいうと次のような反論があるかもしれない。この前提や結論は、私の意図について記述しているのであり、私がその意図を持っていれば、真であり、持っていなければ偽となるだろう、つまり真理値を持つ、という反論である。この前提と結論をこのように真理値を持つ命題として理解するのであれば、この推論は、より正確には次のように表現すべきである。

  私はコロナ・ウィルスに感染したくないという意図を持っている。

  自宅にとどまれば、感染しないだろう。

  ゆえに、私は、自宅にとどまろうという意図をもっている。

こうすると、前提も結論も真理値を持ちます。しかし、このように理解する時、この推論は少し不自然である。第二前提「(私が)自宅にとどまれば、(私は)感染しないだろう」は、事実の記述であり、第一前提の意図と結合して、結論の意図を帰結するには、それをわたしの信念についての記述に返還する必要がある。そこで、次のように言い換えた方がよいだろう。

  私はコロナウィルスに感染したくないという意図を持っている。

  私は、自宅にとどまれば、感染しないだろうと信じている。

  ゆえに、私は、自宅にとどまろうという意図をもっている。

この推論は、これに心理学的な法則を加えれば、より厳密なものにすることができだろう。しかし、書き換えた推論は、たとえ私の行為に関して私が行う推論であっても、私が行為をまさに決定するときに行う推論、あるいは私が行為を正当化するときに行う推論ではない。私が行為を決定したり、正当化したりするためにおこなう推論では、少なくとも一つの前提と結論が、意図を記述するのではなく、意図を表現する命題であることが必要である。そしてそのような命題は真理値を持たない。

 さて、このような実践的推論においても、前提から論理的に帰結する結論は複数可能です。

  私はコロナウイルスに感染したくない。

  自宅にとどまれば、感染しないだろう。

という前提から、

  ゆえに、感染したいならば、外出してもよい。

  ゆえに、感染したくないのに、外出するには、他の対策が必要である。

  ゆえに、もし外出するとすれば、私はおろかだ。

なども結論として導出可能である。

これらの可能な結論のなかから「私は自宅にとどまろう」という結論を選択するのだとすれば、それは「私は自宅にいた方がよいのだろうか」とか「私はどうしたらよいだろうか」などの問いに対する答えとして、選択されるのである。例えば、「私は愚か者だろうか?」という問いがあるならば、同じ前提から「もし外出するとすれば、私はおろかだ」が結論として選択されるだろうし、「外出したいのだがどうしたらよいだろうか」という問いが立てられているならば、「感染したくないのに、外出するには、他の対策が必要である」が結論として選択されるだろう。

 つまり、実践的な推論の場合にも、同じ前提から論理的に帰結する可能な複数の命題の中で、どれが結論として選ばれるかは、問いに依存するのであり、その問いに答えるプロセスとして推論が行われているといえる。

02 問答推論とは?(20200409)

 ある一群の前提から論理的に導出可能な結論は、常に複数ありうる。しかし、現実の推論では、その中から一つの命題が結論として選択されている。この選択によって推論は、現実の物となる。では、この選択はどのように行われるのだろうか。この選択について、従来の論理学は何も説明していません。

 この選択は、問いに対する答えとなる命題を結論に選ぶことして行われているのではないだろうか。私たちが推論するときには、何らかの目的があるだろう。その目的は、真なる記述を手に入れることや、適切な命令や依頼を決定することであったり、適切な約束を決めること、などであるだろう。こうした目的は、問いに対する答えを求めることとして理解できる。したがって、推論は、問いに対する答えを求めるために行われているといえるだろう。そこで、<現実の推論は、問いの答えを求めるプロセスとして成立する>というテーゼを提案したい。

 問いQを理解するということは、どのような発話がその答えとなりうるかを理解することである。もしどんな発話が答えとなりうるのか分からなければ、問いを理解しているとはいえないだろう。(そこで、問いQの意味を、それの答えとなりうる命題の集合で定義しようとする研究者(Hambling)もいる。ただし、私はそのような定義を採用しない。なぜなら、ある問いの答えとなりうる命題の集合を、具体的命題の枚挙や、条件の列挙によって、決定することは、不可能だからである。問いQの意味についてどう考えるかは、後日説明したい。)

 問いQの答えとなりうる(と分かっているものの)命題の集合が、{A1, A2, A3…}であるとしよう。他方で、rとsから論理的に結論として導出可能な命題の集合が、{p1、p2、p3・・・}であり、かつ、A2=p3とき、問いQを問う者は、r、s┣p3という推論に基づいて、Qの答がp3であると考えることになる。

「考えるとは、どういうことだろうか?」という問いに対して、おそらくは「考えるとは、問い答えることである」とか、あるいは「考えるとは、推論することである」と答えることが多いだろう。では、「問答すること」と「推論すること」はどう関係しているのだろうか。その答えが、ここで述べたことです。

01 推論は、問いに答えるプロセスである(20200331)

 通常の論理学では、推論は、問いは前提にも結論にも含まれません。しかし、現実に推論が行われるのは、問いの答えを求めるためです。

 推論は、ある命題から別の命題を導出することです。三段論法の有名な例は次です。

   ソクラテスは人間である。

   人間は死すべきものである。

   ∴ソクラテスは死すべきものである。

この推論が妥当であるとは、前提が真であるならば、結論が常に真となる、ということです。

 ところで、この二つの前提が真であるとき、常に真となる命題は「ソクラテスは死すべきものである」には限りません。他にも次のようなものがこの二つの前提から論理的に帰結します。

   不死なるものは、ソクラテスではない

   ある不死なるものは、ソクラテスではない

   人間でないものは、ソクラテスではない

   不死なるものは、人間ではない

最後の二つは、前提の内の一つしか使っていないのですが、しかしこれらも、この二つの前提から導出されることには違いありません。

 また次のような結論も考えられます。

 ソクラテスは人間であり、かつ、人間は死すべきものである。 

 ソクラテスは人間であり、かつ、ソクラテスは死すべきものである。

これらの結論は冗長であり、新しい情報をもたらさないという反論があるかもしれませんが、しかし二つの前提から導出されることには違いありません。

 どのような推論でも、前提が真であるときに、そこから論理的に帰結する結論は多数あります。しかし、私たちが現実に推論するときには、前提から一つの結論を導出しています。つまり、結論となりうる可能な命題から一つを選択しているのです。この選択はどのように行われているのでしょうか。

 私たちが推論するのはどのような場合でしょうか。それは問題を解決しようとする場合ではないでしょうか。問題を解決するために推論するのだとすると、推論は問いの答えもとめるプロセスです。推論の結論は、問いの答えでなければなりません。推論の可能な結論の中から、問いの答えとなりうる命題が、結論として選択されるのです。

 上の例では、「ソクラテスは不死ですか?」あるいは「ソクラテスは死すべきものですか?」という問いの答えとして、推論が行われるので、結論として「ソクラテスは死すべきものです」が選ばれるのです。

 ところで、対象が推論構造を持つ、あるいは対象が推論によって構成されている、と考える立場を「推論主義」と呼んでよいでしょう。ヘーゲルは、全てのものが、とりわけ社会が推論構造を持つと考えました。言い換えると、ヘーゲルにとっては、存在するということは、推論構造をもつということだったのです。このような立場を「存在論的推論主義」と呼んでもよいでしょう。デューイは、ヘーゲルの影響を受けて、全ての認識が推論構造を持つと主張しましたが、これを「認識論的推論主義」と呼んでもよいでしょう。ブランダムは、発話の意味を理解するとは、その発話の推論関係を理解することであると主張しました。これを、ブランダム自身は「推論的意味論」と呼んでいますが、「意味論的推論主義」と呼んでもよいでしょう。

 これらの様々な領域での推論主義を、問答推論主義へと転換することが、このカテゴリーでの目標です。