13 科学の語彙は非保存拡大か? (20200510)

 論理学の語彙が保存拡大であるとして、その次に、ではペアノの自然数論の語彙やヒルベルトの幾何学の語彙が保存拡大か非保存拡大か、を検討したかったのですが、スッキリとした議論ができずに困っています。

 そこで、それらを飛ばして、ここでは自然科学の語彙について考えたいと思います。

 日常の言葉の殆どは、明示的定義や文脈的定義を与えることができないものでした。定義の困難さゆえに、ウィトゲンシュタインは、「家族的類似性」という特徴を上げていました。つまり、たとえば「家」を定義しようとしても、多様な家があって、そこに共通の性質を見つけることは難しく、つまり定義することが難しく、「家」と呼ばれているものの間に、家族的類似性のようなものがあるとして言えません。

 これに対して、科学では語に明確な定義が与えられることが多いのではないでしょうか。科学でも明示的な定義が与えられない用語が多くあると思いますが、ある学術用語を導入するときには明確な定義を与えるはずだと思います。たとえば「covid19」には、RNAの塩基配列についての定義があるのではないでしょうか。ところで、このように明確な定義がある語については、その導入規則と除去規則を連続して適用した後の推論は、保存拡大になると思われます。

#明示的定義の導入は、保存拡大にみえる

「A=B」が「A」の定義であるとき、ここから簡単に次の導入規則と除去規則を作ることができる。  

   x=B┣x=A (Aの導入規則)

   x=A┣x=B (Aの除去規則)

これを連続適用すると

   x=B┣x=B

という推論を得る。これは同語反復であり、Aの導入規則と除去規則を使用しなくても成立する。つまり明示的定義ができる語を導入しても、それ以前の語や文の意味を変えることはない。

#複数の明示的定義の導入は、非保存拡大になる

ある語に明示的定義があっても、その語の導入が、保存拡大になるとはかぎらない。例えば、対象Gの定義がつぎのように二通りあるとしよう。

  ①Gx≡Fx∧Ex∧Hx

  ②Gx≡Ix∧Jx∧Kx

これから

  Fx∧Ex∧Hx┣Gx  (Gの導入規則)

  Gx┣Ix     (これは②からつくれるGの除去規則の一例であり、ほかにもありえます)

この二つから推移律によって、次が成り立つ。

  Fx∧Ex∧Hx┣Ix

この推論は、明示的定義の①と②があったとしても、非保存拡大である。

このように明示的定義があるとしても、それが複数ある時には、その語彙は非保存拡大をもたらし、その他の語の意味に変化をもたらす。例えば、古い定義に加えて、新しい定義が行われるような場合もこのことがおこる。(同じことが、文脈的定義が複数ある時にも生じるが、ここではその説明を省略する。)

ブランダムが「温度」を例に挙げているのは、このようなことである。

「論理学の外部では、これ[非保存拡大]は悪いことではない。科学における概念的な進歩はしばしばそのような新しい内容を導入することにこそ存するのである。温度の概念は、適切な適用に関する何らかの基準ないし状況と、適用の何らかの帰結ともに導入された。温度を計測する新しい方法が導入され、温度計測に関する新しい理論的帰結や実践的帰結が採用されるときには、温度概念を用いることの意義を決定する複雑な推論的コミットメントが進化するのである。」(ブランダム『推論主義序説』斎藤浩文訳p.97)

「温度」の概念は、「適切な適用に関する何らかの基準ないしは状況」(つまり「温度」の導入)と、「適用の何らかの帰結」(つまり「温度」の除去規則)ともに導入された。しかし、「温度を計測する新しい方法が導入され」(つまり「温度」の新しい導入規則が導入され)、「温度計測に関する新しい理論的帰結や実践的帰結が採用される」(つまり「温度」の新しい除去規則が導入される)ときには、「温度概念を用いることの意義を決定する複雑な推論的コミットメントが進化する」ということになる。

ブランダムがここで言いたいことは、科学において「温度」の概念が進歩し、複数の導入規則と除去規則が混在するとき時、「温度」の導入規則と除去規則は、保存拡大という性質を失うということだろう。

「温度」について複数の定義があるならば、人文社会学の概念、例えば「権利」についてはさらに複数の定義があるだろう。したがって、人文社会学の概念もまた非保存拡大である。

12 日常語の非保存拡大について (20200509)

 (「温度」の例を説明すると予告しましたが、その前に説明しておきたいことを書かせてください。)

 侮蔑語「ボッシュ」によって非保存拡大が生じることを昨日説明しましたが、「ボッシュ」によるこの非保存拡大はどうして起こったのでしょうか。

   xはドイツ人である┣xはボッシュである (「ボッシュ」の導入規則) 

   xはボッシュである┣xは冷酷である   (「ボッシュ」の除去規則)

これらに推移律を適用すると次が成立します。

   xはドイツ人である┣xは冷酷である

しかし、これは「ドイツ人」や「冷酷」の従来の意味だけからは成立しません。つまり、非保存拡大が生じています。結論のこの推論において、これは推論ですから、「ドイツ人」と「冷酷」は、経験によって結合しているのではなく、意味によって結合していることになります。つまり、「ボッシュ」の使用法を認めることで、「ドイツ人」の意味は大きく変化し、「冷酷」の意味もまた少し変化していることになります。

 もしある語の使用を認めることによって、他の語の意味が変化するならば、その語の導入規則と除去規則は、保存拡大(conservative extension)(他の表現の意味を保存して、言語を拡張すること)ではなく、非保存拡大(non-conservative extension)であるといえます。

 このように<ある語の使用を認めることによって、他の語の意味もまた変化することになる>ということは、「意味の全体論」が主張していることでもあります。またこのことは、日常言語では、ありふれたことです。

 たとえば「べジマイト」という語の導入は、他の語句の意味を次のように変えます。「べジマイトは、野菜からつくられたペースト状のものである」という文で「べジマイト」を説明する時、「野菜からつくられたベースト状のもののなかには、べジマイトがある」と言えることになります。ここで「べジマイトは、黒くて苦いペースト状のものである」ということも認めるならば、これと上の「べジマイトは、野菜からつくられたペースト状のものである」から、「野菜からつくられたペースト状のものには、黒くて苦いものがある」が言えます。これは、「べジマイト」という語を導入する前には、言えなかったことです。つまり、「野菜からつくられたペースト状のもの」の意味が変化しているのです。「野菜」や「黒くて苦いもの」などの意味も変化しています。なぜなら、「野菜からつくられたペースト状のものには、黒くて苦いものがある」は、「べジマイト」の語の学習のあとでは、経験に基づいて成り立つことではなく、表現の意味に基づいて成り立つからです

 こうして論理的語彙は保存拡大であり、日常の言葉は非保存拡大であることが分かりますが、

その中間にある数学や幾何学や自然科学や社会科学の語彙については、どうでしょうか?

次回はこれを考察して、できれば「温度」の話にまでたどり着きたいとおもいます。

11 非保存拡大について (20200508)

保存拡大を持たない例として、ダメットが挙げているのは、侮蔑語「ボッシュ」である。「ボッシュ」というのは、ドイツ人に対する侮蔑語で、それを誰かに適用する条件(つまり「ボッシュ」の導入期測)は、その人がドイツ人であるということです。

   xはドイツ人である┣xはボッシュである

その適用からの帰結すること(つまり「ボッシュ」の除去規則)は、

   xはボッシュである┣xは冷酷である

です。これらに推意律を適用すると次が成立します。

   xはドイツ人である┣xは冷酷である

この推論は、「ボッシュ」を導入する前の語彙と推論規則からでは成立しません。つまり「ボッシュ」の導入規則と除去規則は「保存拡大」ではない、ということになります。

(Cf. Dummett, Frege Philosophy of Language, Harvard UP, p. 454) 

このような侮蔑語、差別語の場合には、典型的には、事実の記述が導入規則の前提になり、価値評価が除去規則の結論になります。これらは「非拡大保存」だといえるでしょう。

Brandomは、「ボッシュ」からの帰結である。「xはドイツ人である┣xは冷酷である」を認めませんが、それが「ボッシュ」が「非保存拡大」であるからではなく、単に推論として受け入れられないからであると言います(ダメットが、この点を、どう考えているのか分かりかねます)。

つまり、Brandomは、侮蔑語以外にも「非保存拡大」の語彙があり、「非保存拡大」であること自体は不都合ではないと考えています。

 では、そのほかの「非保存拡大」の語にはどのようなものがあるのでしょうか。ブランダムが挙げているのは、科学における「温度」の例です。それを次に見ましょう。

10 訂正:「調和」と「保存拡大」 (20200507)

前々回(8)での記述に誤りがあったので、訂正します。

そこでは、「もしある論理的語彙の導入規則と除去規則を連続して適用したときの結果が、その論理的語彙を使用しないで推論できるものであるとすれば、その論理的語彙は、その他の語彙や文の意味を変更していないということである。」と述べ、「ヌエル・ベルナップは、このような導入規則と除去規則を「調和」していると呼んで、論理的な規則の設定の恣意性を制限しようとした。」

と述べました。その後N. Belnapの Tonk, Plonk, and Plink(Analysis 22 (1962): 130-134)読み直して、その論文に’harmony’(調和)が使用されていないことに気づきました。Belnapは、そのような論理的語彙の性質に「保存拡大」(conservative extension)という表現を当てていました。私はこれまで「調和」をベルナップが導入した用語だと思い込んで講義したことがあり、また論文にもそう書いたことがあるだろうとおもいます。ここで訂正し、お詫びいたします。Belnapの論文を読んでいたにもかかわらず、彼が「調和」と名付けたと勘違いしていた原因をこの数日調べていたのですが、おそらくDummettがLogical Basis of Metaphysics (Harvard UP, 1991, p. 246)で、Belnapが、論理法則への制約の一つは’harmony’であるとしていた、と書いていたことが、私の勘違いの原因になったのだと思います。このharmonyは、Belnapが考えていた「保存拡大」よりも少し広い概念です。Dummettは、「調和」と「保存拡大」の違いをよく分かっているのですが、その上で、その本のそこの文脈では、特に区別しなくてもよい、と考えたのだとおもいます。

前々回(8)と前回(9)に紹介した「調和」という語は、すべて「保存拡大」の間違いです。

意味は変化しません。つまり、ある語彙の導入規則と除去規則を設定して、導入規則でその語彙をしようし、次の除去規則でその語彙を除去するとき、その結果生じる推論が、その語彙やそれらの規則を使用する以前の語彙と推論規則で導出できるものであるとき、その語彙の導入規則と導出規則は、「保存的」である、あるいは「保存拡大」である、とBelnapは考えています。

 ダメットは、Frege Philosophy of Language (Harvard UP, 2nd ed.1981, p. 396)で「調和」をつぎのように説明しています。言語の意味は使用であるが、どんな使用方法でも良いのではない。文の使用には2つの側面がある。一つは、文の発話が適切なものになる条件であり、もう一つは発話の帰結である。この二つが「調和」することが、使用方法の条件となると、ダメットは言います。言い換えると、ある語彙を使った文の上流推論を行うことと、下流推論をおこなうこと、という二側面があり、今仮に問題の文をpとし、その上流推論をr┣p(前提が複数の文からなるとしても、それを連言で結合して一つの文にすることができる)とし、下流推論をp┣sとするとき、この二つの推論からr┣sが成立する。このrとsが「調和」することが、言語の正しい使用方法であるための条件であるというのです。rとsが調和するとは、もっとも緩い意味では、rとsが矛盾しないことでしょう。これは、文の使用の整合性が求めることです。しかし、それ以上のこともいえるかもしれません。この調和の「一般的特徴づけ」を語ることは困難である、とダメットは言う。ただし、(論理学のような)単純なケースでは、ベルナップのいう「保存拡大」だと言える(cf. Ibid. p. 397)、と考えています。

 ダメットは、言語使用のための条件を「調和」と呼んでおり、単純なケースでは、その「調和」は「保存拡大」として規定できるが、複雑な場合には一般的な仕方で条件を述べることが困難だと考えています。つまり複雑な場合には、保存拡大という条件を充たさなくてもよいが、しかし「調和」は満たさなければならない、と。

 では、ここで元の道筋にもどって、「保存拡大」でない語の場合を考えてみましょう。例えば、「リンゴ」という語の使用は、非保存拡大でしょうか?「忖度」はどうでしょうか?

09 疑問表現もまた、文の意味を変えない。(20200502)

 疑問表現の意味もまた、その導入規則と除去規則で明示化できるだろう。疑問文には、決定疑問(yes-no疑問)と補足疑問(wh疑問)があるが、決定疑問は特有の構文を持つが、特有の語彙をもたない。そこでまず、補足疑問から考察しよう。

 補足疑問は疑問詞(「どれ」「なに」「だれ」「いつ」「どこ」「どんな」「どのように」など)をもつ。「だれ」は「どの人」、「いつ」は「どの時刻」、「どこ」は「どの場所」、「どんな色」は、「‥の色はなに(どれ)」に、「どのように」は、「どんな仕方」に、さらに「…の仕方はなに(どれ)」などに、書き換えることができる。(「なぜ」以外の)すべての問いは、おそらく「どれ」の問いないし「何」の問いに書き換えられるだろう(「なぜ」の問いの説明は、最後に注とした)。「どれ」と「なに」の導入規則と除去規則は次のようなものである。

「どれ」と「なに」の導入規則

   「aがFです」┣ 「どれがFですか?」

   「aはFです」┣「aはなにですか?」と除去規則

「どれ」と「なに」の除去規則(タイプ1)

   「どれがFですか?」┣ 「あるものがFです」

   「aは何ですか?」┣「aはある集合に属する」(あるいは「aはある性質を持つ」)

疑問詞を除去するもっともありふれた方法は、補足疑問に答えることである。それは次のようになる。(結論は、補足疑問の答えであり、Γと⊿は、その答えを導出するのに必要な平叙文の前提の列である。)

   「どれがFですか?」、Γ┣「aがFです」  

   「aはなにですか?」、⊿┣「aはFです」   

「どれ」の導入規則と除去規則(タイプ1)を連続して適用すると

   「aがFです」┣「あるものがFです」

「どれ」の導入規則と除去規則(タイプ2)を連続して適用すると次の推論が成立する。

   「aがFです」┣「aがFです」

「なに」の導入規則と除去規則(タイプ1)を連続して適用すると

   [aはFです」┣「aはある集合に属する」(あるいは「aはある性質を持つ」)

「なに」の導入規則と除去規則(タイプ2)を連続して適用すると

   「aはFです」┣「aはFです」となる。

これらの導入規則と除去規則を連続適用してできる推論は、これらの疑問表現を使用しないでも可能である。ゆえに、これらの規則は「調和」をもつ。

 したがって、補足疑問の問答は、語や文の意味を変化させない。また補足疑問を用いた問答層推論は、語や文の意味を変化させない。したがって、補足疑問の問答やそれを含む問答推論によって、語や文の意味を明示化できる。問答推論的意味論は、発話の意味を次のように説明することになる。

 決定疑問文による問答が、表現の意味を換えないことは自明だとしてもよいだろう。

<発話の意味を理解するとは、それの正しい上流問答推論と正しくないそれ、正しい下流問答推論と正しくないそれを、判別する能力をもつことである>

次は、このような「調和」という性質を持たない語彙について考えよう。

注、<「なぜ」の問いは、出来事の原因を問う「なぜ」、行為の理由を問う「なぜ」、主張の根拠を問う「なぜ」に分けることができ、それぞれを「原因は何か」「理由な何か」「根拠は何か」と言い換えることができる。>以前、拙論 「三つの「なぜ」の根は一つか」(『メタフュシカ』35号別冊、2004年12月 S.59-68)でこのように論じた。現在も、「なぜ」の問いをこの3種類に分けることができると考えている。ただし、例えば出来事の原因をとう「なぜ」の問いを、「原因は何か」の問いは、全く同じではないと考えるようになった。「…の原因は何か」の答えは「…の原因は、xである」という形式をとるだろう。これに対して、「…は何故か」という問いは、「…」という出来事の説明を求めており、その答えは一つの命題になるのではなく、推論になる。たとえば「p」が出来事の記述であるとき、「なぜpか」という問いは、出来事pの説明を求めており、その答えは、「rであり、sである、ゆえにpである」という推論の形式をとることになる。この推論は、pがなぜ成立したのかを説明している。理由を問う「なぜ」、根拠を問う「なぜ」の場合も、これと同じで、答えは推論になる。「なぜ」の問いは、答えが一つの命題ではなく、推論になる点で、補足疑問とは異質である。

08 なぜ、推論によって文の意味を明示化できるのか? (20200430)

「なぜ推論によって文の意味を明示化できるのか?」への答えは、ブランダムによれば「推論が文の意味やそれに含まれる語の意味を変えないからである」となる。

 この答えを説明しよう。推論は、論理的な語彙「かつ (∧)」「あるいは (∨)」「もし…ならば、… (→)」などによって行われるものであり、これらの語彙の使用規則に従った文の書き換えが、推論だといえる。論理的な語彙の使用規則とは、ゲンツェンが明示した導入規則と除去規則である。

  p、r┣p∧r ∧の導入規則 

  p∧r┣p   ∧の除去規則

  p∧r┣r   ∧の除去規則

  p┣p∨r   ∨の導入規則

  p∨r、p→s、r→s┣ s  ∨の除去規則

  p、p→r┣r         →の除去規則

  p┣r ならば ┣p→r    →の導入規則

  p→⊥┣¬p          ¬の導入規則

  ¬¬p┣p           ¬の除去規則

 もしある論理的語彙の導入規則と除去規則を連続して適用したときの結果が、その論理的語彙を使用しないで推論できるものであるとすれば、その論理的語彙は、その他の語彙や文の意味を変更していないということである。たとえば、論理的語彙の導入規則と除去規則を連続して適用したときの結果がpであったとしよう。そしてそのpの導出に用いられた前提がΓ(命題の列)だとしよう。つまり、Γ┣pが成り立つのだとしよう。この推論Γ┣pが、当該の論理的語彙を使用しないでも成立する推論であるとすれば、Γ┣pという推論を導出するにあたって、当該の論理的語彙およびその導入規則と除去規則の連続適用は、その他の語彙や文の意味、その他の推論規則に影響を与えていないことになる。ヌエル・ベルナップは、このような導入規則と除去規則を「調和」していると呼んで、論理的な規則の設定の恣意性を制限しようとした。(そうしないとPriorの”TONK”のような奇妙な規則を許してしまうことになる。これについては、N. Belnap, Tonk, Plonk, and Plink, Analysis 22 (1962): 130-134, commenting on A. N. Prior’s “Runabout Inference Ticket” Analysis 21 (1960-1961): 38-39を参照。)

 逆に、もしある論理的語彙の導入規則と除去規則を連続して適用したときに結果が、その他の論理的語彙やその規則だけでは推論できなかったものだとすれば、Γ┣pにおいて、語彙や文やその他の推論規則の意味が変わってしまっていることになる。

 このような意味で「調和」した論理的語彙の導入規則と除去規則を適用しても、表現の意味を変えないのだとしたら、それらを用いた推論において、表現の意味は維持されていることになる。つまり、推論関係は、表現の意味を変えるのではなく、それを明示化することになる。

 通常の正しい論理的推論において、そこで使用される語彙や文の意味が変わることはない。これはいわば自明のことであるが、しかしこの自明のことゆえに、推論よる文の書き換えによって、表現の意味が明示化されることになる。 

(いつもながら、話がややこしくてすみません。しかし、厳密に論証しておくことが重要なので仕方ありません。)

 次回は、論理的語彙に関するこの議論を、疑問表現の語彙に拡張します。

07 無定義術語と推論的意味論 (20200425)

 06で述べたように語の意味を定義することは困難であることが多い。実際に私たちが語の意味の理解するのは、定義を知ることによってではなく、むしろその語を用いた命題の上流推論と下流推論を理解することによってあることが多い。このような語の意味の理解は、ヒルベルト以後の公理主義における無定義術語の理解と似ていることをまず説明したい。

 ユークリッド以来の公理系の理解は、<まずその領域の用語の定義を与え、次にその用語を用いた公理を提示し、それにもとづいて定理を導出する>というものであった。ここでの公理は、自明な真理だと見なされてきた。

 これに対して、ヒルベルトは『幾何学基礎論』において、幾何学の概念「点」や「線」などを「無定義術語」として導入し、その意味はその語を用いた公理の意味から抽象されることになる。ヒルベルトは、幾何学の公理についての議論の中で、「点、直線、平面の代わりに、テーブル、いす、ビールコップを使っても幾何学ができるはずだ」と述べたことが報告されている(ヒルベルト『幾何学基礎論』岩波訳215)。これは、ある対象を「点」と名付けようと「テーブル」と名付けようと、どう名付けようともかまわない、という名づけの恣意性の話ではない。これは、ある名前で名付けられる対象そのものが、その名前を用いた命題によって与えられるということである。意味の理解において、語よりもそれを使用する命題(公理)が基礎的だということである。

「われわれがある理論を詳細に研究するならば、概念の骨組みの構成には、その知識部門の幾つかの特別な命題が基礎になり、かつまたこれだけを基礎にとって骨組み全体を論理的原則にしたがって組立てることが十分にできることをわれわれは常に知るのである」(ヒルベルト『幾何学基礎論』岩波訳194)

ただし、ヒルベルトは、この公理の意味の理解に関しては、それぞれの公理の意味を単独に理解できると考えているように思われる。つまり、語の意味は、命題(公理)のなかでの役割によって与えられるが、しかし命題の意味の理解は、単独に得られると考えているのではないかと推測する。この点が、推論的意味論との違いである。

 推論的意味論もまた、語の意味は命題の意味からの抽象によって得られると考える。命題の意味が言語的な意味の単位で会って、語の意味はそれからの抽象によって得られるものである。さらに、命題の意味は、単独に成立するのではなく、他の命題との推論関係によって成立するのである。この点がヒルベルトの公理主義と異なる点である。この推論関係とは、その公理を前提として、また必要に応じて他の公理も前提に加えて、代入規則やMPなどの推論規則によって、定理を導出するという推論関係である。この推論は、当の公理にとっての下流推論である。公理系は、公理の下流推論の集合である。逆に、私たちは、こうして与えられた定理から、他の公理や定理をもちいて、元の公理を導出することも(もしやろうと思うならば)できる(ただし、このような仕事は公理系の幾何学のなかでの仕事にはならないだろう。なぜなら公理系のなかでは、公理は証明されるべきものではなく証明の出発点だからである)。このような推論は、その公理の上流推論となる。このように公理は単独で意味を持つのではなく、その上流推論関係や下流推論関係によって意味を持つ。

この点が、現代の公理主義が想定する意味論と、推論的意味論との違いである。

 現代の公理主義は、無定義術語を導入し、語の意味を公理によって与えるが、推論的意味論によれば、形式的な言語に限らず、日常言語も含めて、全ての語が、無定義術語であり、命題やその推論関係のなかで意味を与えられるのである。

 語の定義は、普通名詞ないし普通名詞句の定義は、それが当てはまる対象の集合によって与えられる。対象の集合は、その集合に属するすべての対象が持つ性質を列挙することによって定義するか、あるいはその集合に属するすべての要素を列挙することによって定義される。

 例えば「リンゴ」がa1(赤い)、a2(丸い)、a3(甘い)、…という性質を持つとき、

   xはリンゴである┣xはa1である

   xはリンゴである┣xはa2である

と推論できるが、これは「xはリンゴです」の下流推論である。(この下流推論は、多くの場合、「リンゴはどんなものですか」という問いに対する答えを求めるために行われる推論である。)

 例えば「リンゴ」が{x1、x2、x3、…}という個体の集合であるとき、

   これはx1である┣これはリンゴである

   これはx2である┣これはリンゴである

と言えるが、これは「xはリンゴである」の上流推論である。(この上流推論は、多くの場合、「どれがリンゴですか」という問いに対する答えを求めるために行われる推論である。)(ちなみに、「なぜpなのですか?」という質問が、pという主張の根拠を求めているとするとき、その答えは、「r、s┣p」などの推論になる。このように根拠を問う「なぜ」は、pの上流推論を求めており、pの十分条件を求めている。)

 このように「リンゴ」の意味の理解は、定義によって得られるのではなく、それを用いた文の上流推論と下流推論を学習することによって得られるのである。

 次回は、なぜ「推論」によって意味を構成したり明示化したりできるのかを、説明したい。

06 定義と推論的意味論 (20200423)

 探求したり議論したりするとき、対象の定義や語の定義は非常に重要であるので、これと推論的意味論の関係を説明したい。

 対象を定義する代表的な方法は、「明示的定義」(explicit definition)とよばれるものである。

明示的定義とは、種=類+種差という仕方で、語の意味や対象を同定することである。

    人間=理性的動物(類(動物)+種差(理性的))

    西=北を向いた時の左手の方向

これがアリストテレスに始まる定義の定式化である。「Aとは何か?」の答えが定義を与えるのだとすると、定義は「Aは、Bである」という形式になる。ただし、「リンゴとは何か?」に「リンゴとは赤い果物である」と答えるとき、この答えは真であるとしても、この答えは定義ではない。なぜなら、「赤い果物はリンゴである」とは言えないからである。「AはBである」が定義となるためには、それが同一性文でなければならない。つまり「BはAである」とも言えなければならない。つまり「A=B」という形式にならなければならない。しかし、このような同一性文を与えることが可能であるとしても、現実的には非常に難しい語がある。またこのような同一性文を与えることが原理的にできない語がある。それは名詞および名詞句以外の表現である。例えば形容詞「おいしい」が仮に「うまい」という形容詞と同義であり、常に置き換え可能であるとしても、「おいしい=うまい」といえない。なぜなら、等号で結合するには、両辺に名詞ないし名詞句である必要があるからである。もし「おいしいはうまいである」と言えるとすれば、それを「おいしいということは、うまいということである」という文の省略形として解釈しているからである。この文は、「おいしいということ」という名詞句を別の「うまいということ」という名詞句で定義している。名詞句にしないで、形容詞のまま定義しようとすると、「明示的定義」では不可能であり、「文脈的定義」が必要になる。

   xはおいしい≡xはうまい

これは「おいしい」という語を用いた文と同値な文を与えることによって「おいしい」の意味を文脈的に定義している。

   xは硬い≡xに傷をつけようとしても、なかなか傷をつけられない。

これは「硬い」を用いた文と同値な文を与えることによって「硬い」という形容詞の意味を定義している。(「なかなか」という表現が曖昧であるので、文脈によってはこの定義では役立たない。)  

 また「より硬い」というような関係を表す語の定義にも文脈的定義が用いられる。

   xはyより硬い≡xとyをこすり合わせると、xには傷がつかずyに傷がつく

動詞や副詞などにも文脈的定義が必要になる。

 また次の例のように、名詞であっても、文脈的定義が必要な場合がある。

xは水溶性である≡もしxを水に入れるならば、xは水に溶ける

というように、語「水溶性」を用いた文に対して、それと同値な文を与えることによって、「水溶性」という語の意味を定義する方法である。能力や傾向性を表す名詞(名詞句)の定義には、このように右辺に条件文を用いる同値文が必要になる。

 ところで、学問用語の場合には、定義ともに用語として導入されることが多いので、明示的定義や文脈的定義が可能であることも多いかもしれない。しかし多くの日常語については、このような定義を厳密な仕方で与えることができない。それにも関われず私たちは、その語の意味を理解している。では、その時私たちは何を理解しているのだろうか。ウィトゲンシュタインは、語の定義は困難であるとし、その家族的類似性を示すことができるだけだとした(『哲学探究』67節)では、家族的類似性を理解しているとはどういうことだろうか。

 例えば、「忖度」の定義を考えてみよう。この定義を与えるのは難しいだろう。「他人の心情を推し量ること、また推し量って相手に配慮すること」という説明がWikipediaにあるが、上司が部下の心情を推し量って配慮して、褒美を増やすとき、それを忖度と言うだろうか。言わない場合が多いだろう。部下が上司にパソコンの使い方を分かりやすいように説明する時、それを忖度というだろうか。おそらく言わないだろう。「忖度」の定義を与えることは非常に難しい。

 それでは、私たちはその語の意味をどうやって理解しているのだろうか。それは「忖度」という語の使い方を学習することによってである。AがBにどのようにふるまったときに、「AがBに忖度した」と言えるのかを理解していること、言い換えると、「AがBに忖度した」を結論とするための正しい上流推論を判別できることである。また「AがBに忖度した」が言える時、そこから何がいえるのかを理解する事、言い換えると、「AがBに忖度した」を前提とする正しい下流推論を判別できることである。

 ある語を理解するとは、その語を含む文を理解するということであり、(推論的意味論によれば)その語を含む文を理解するとは、その文の正しい上流推論と下流推論を判別できるということである。

 例えば「包丁とは、料理の時に食材を切る道具である」というのは、包丁の定義とはならない。

料理の時に食材を切るものは、包丁だけでなく、皮むき器、ミキサーなどもあるからである。しかし、この理解は、次ぎの下流推論を理解しているということである。

   これは包丁である┣これは料理の時に食材を切る道具である。

このような不十分な定義は、下流推論の理解であることが多い。また「テロとは何か」に答えられなくても

   パリの爆破事件は…であった┣パリの爆破事件はテロであった

という上流推論をすることはできる。また、

   xはテロである┣xは悪いことであり、防ぐべきことだ

というような下流推論をすることはできる。

 私たちが日常生活で語を理解して使用しているというためには、このようないくつかの上流推論と下流推論ができれば、それで充分である。

 (以上のように語の意味の定義を、語の意味の推論的意味論による説明に置き換えることが有用である。これをさらに問答推論的意味論による説明に置き換えることが有用であることを示したいが、それに先立って、次回は、「公理主義」における「無定義術語」について、検討しておきたい。)

05 問答推論システム (20200422)

     (今回はテクニカルな説明です。)

平叙文だけでなく疑問文も前提や結論になりうる論理の体系を「問答論理学」と呼びたい。これには種々の可能性があり、ここで述べるのは一つの提案に過ぎない。

   Γ┣p (Γは命題の列であり、pは命題である)

この推論が現実に行われるのは、前に述べたように、何らかの問いに答えるためである。その問いをQとするとき、ここには次の問答推論が成立している。

   Q、Γ┣p (Qは問いであり、Γは命題の列であり、pは命題である)

pはこの問いQの答えとなっており、Γ┣pは、Qに答えるための推論になっている。

 通常の推論の場合、推論が妥当であるとは、<前提が真であるならば、結論が真となる>という関係が成立していることであるが、問いは真理値を持たないので、この定義をそのまま使うことはできない。そこで、問いの「健全性」という概念を導入したい。「問いが健全である」とは、その問いが真なる答えを持つということだとする。そこで、このタイプの問答推論(タイプ1)が妥当であるとは、<(問いQが健全であり、Γを構成するすべての命題が真であるならば、pが真であり)かつ(pはQの可能な答えの一つである)>ということである。

 <pがQの可能な答えの一つである>とは、次のような関係にあることだと考えたい。

 まず補足疑問の場合を考えよう。日常語の場合、平叙文pのある部分に疑問詞を代入して、必要ならば語順を変えると、補足疑問文となる。形式言語の場合、例えば一階述語論理を前提する場合には、

  Fa

  ?x(Fx) = どれがFか?

    ?F(Fa) = aは何か?

?xと?Fを補足疑問子とする。「誰」「どこ」「いつ」のように個体変項の領域が限定されている時には、?x(人間x∧Fx)、?x(空間位置x∧Fx)、?x(時間位置x∧Fx)のように表記する。「何色」のように述語変項の領域が限定されている場合には、?F(色F∧Fa)のように表記する。このような補足疑問については、その可能な答えは、変項に定項を代入し、補足疑問子を取り除いた式が、補足疑問の答えとなる。

 決定疑問の場合には、日本語の場合、平叙文の最後に「か」か「のか」を付け加えて疑問文にする。形式言語の場合、例えばpや∀Fxの場合には、?(p)、?(∀xFx)などのように表記することができる。冒頭の?を決定疑問子と呼ぶことにする。このような決定疑問については、その可能な答えは、決定疑問子を除いた式(pや∀xFx)か、その先頭に¬をつけた式(¬pや¬∀xFx)となるだろう。

 ここでもう一つのタイプの問答推論(タイプ2)を考えたい。それは問い自体が結論となる推論である。

   Q1、Γ┣ Q2  (Q1とQ2は問い、Γは命題の列)

これは、問いQ1を解くためにQ2を解くことが有用になる場合である。このタイプ2の問答推論(タイプ2)が妥当であるとは、<Q1が健全であり、rとsが真であるならば、Q2が健全である>ということである。

 ただし、これだけでは、「Q1を解くためにQ2を解くことが有用になる」という条件を充たせない。例えば次の例をみよう。

  Q1「その人は男性ですか?」

  Q2「その人の身長はいくらですか?」

Q1が真なる答えを持つとすると、Q2も真なる答えを持つ。しかし、Q2の答えは、Q1に答える時の有用な情報ではない。

 次の場合はどうだろうか。

  Q1「その人は男性ですか?」

  Q2「その人は男子高出身ですか?」

Q2の答えが、「はい」ならば、Q1の答えを導出できる。しかし、Q2の答えが「いいえ」ならば、Q1の答えは出せない。それでも、Q2の答えることは、Q1に答える上で有用だといえるだろう。Q1が成り立つならば、Q2は健全である(真なる答えを持つ)だろう。それゆえに、Q1┣Q2は、問答推論として妥当である。

 次の場合はどうだろうか。

  Q1「彼はコロナウィルスに感染していますか?」

  Q2「彼のPCR検査の結果はどうでしたか?」

Q2の答えは、Q1の答えのために必要であり、かつ十分である。しかし、Q2の問いが健全である(真なる答えを持つ)ためには、彼がPCR検査を受けていることが必要である。そこで、次のrの前提が必要である。

  Q1「彼はコロナウィルスに感染していますか?」

  r「彼は、PCR検査を受けました」

  Q2「彼のPCR検査の結果はどうでしたか?」

   Q1、r┣Q2 

この問答推論は妥当である。

(参照、入江幸男、「問いと推論」『待兼山論叢』第48号、2014年12月、pp.1-16。IRIE, Yukio,  “Semantic Inferentialism from the Perspective of Question and Answer”, in Philosophia Osaka, Nr. 12, Published by Philosophy and History of Philosophy / Studies on Modern Thought and Culture Division of Studies on Cultural Forms, Graduate School of Letters, Osaka University, 2017/3, pp. 53-69.)

04 推論的意味論から問答推論意味論へ(1)(20200417)

真理条件意味論、主張可能性意味論は、真理値を持つ発話の意味を説明出来るが、真理値を持たない発話の意味を説明できないという限界を持つ。それに対して、意味の使用説は、表現の意味をその使用方法として捉えるものであり、真理値を持たない発話の意味を、真理値を持つ発話の意味と同様に仕方で説明できるという利点をもる。ブランダムが提唱する推論的意味論(inferential semantics)は、この使用説の一種であり、発話の使用方法を、その発話を用いた推論として説明する。ブランダムは推論的意味論の基本的なアイデアを次のように説明している。

「人が自らコミットしている概念的内容を理解することは、一種の実践的な熟練である。それは、主張から何が導かれ何が導かれないか、あるいは、何がその主張を支持する証拠で何がそれに反する証拠なのか、等々を判別できるということに存する。」(ブランダム『推論主義序説』斎藤浩文訳 p.27. )

pという主張の意味は、その「主張から何が導かれ何が導かれないか」つまり、pを前提として(場合によっては、それに他の前提を加えて)どのような命題が導出でき、どのような命題が導出できないか、を判別できることである。さらに言い換えれば、pを前提の一つとする推論について、それが正しいか正しくないかを判別できるということである(このような推論をpの「下流推論」と呼ぶことにしよう)。また、「何が(pという)主張を支持する証拠で何がそれに反する証拠なのか」を判別できることである。つまり、pを結論とする推論が正しいか正しくないかを判別できるということである(このような推論をpの「上流推論」と呼ぶことにしよう)。

 言い換えると、発話の意味を理解するとは、発話の上流推論と下流推論について、それらが正しいか正しくないかを判別できるということである。「判別できる」というのは、「判別のノウハウ(技能知)を持っている」ということである。ブランダムは、発話の意味を理解することを、発話の推論役割を理解することだ、と言うこともある。

 使用説といえば、曖昧な説明方法のように聞こえるかもしれが、発話の意味をこのような推論役割として説明することは非常に明晰判明な説明になっている。しかも、真理値を持たない命題も、実践的推論をその上流推論や下流推論としうるので、真理値を持つ文と同じように説明出来るという長所を持っている。つまり、命令文や約束の文の意味をも推論的意味論で説明出来ることになる。

 ただし、この推論的意味論では、疑問文の意味を説明できない。なぜなら疑問文は、通常の理論的推論や実践的推論の前提や結論にならないからである。そこで、疑問文を前提や結論に含む推論システムを作れば、その問答推論の役割によって、疑問文の発話の意味を説明することができる。つまり、疑問文の発話の意味を理解するとは、上流問答推論と下流問答推論について、正しいものと正しくないものを判別できることである。

 この問答推論について、次に説明しよう。