43 志向性の別の分類方法 続き (20210416)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

前回説明した志向性は次の4種類でした。

(1)信念:知覚的イメージ/言語的内容が、世界に適合していると信じる(知覚、信念)

(2)行為内意図:世界を、知覚的イメージ/言語的内容に、現在において適合させようと意図する(行為内意図)

(3)過去の記憶:知覚的イメージ/言語的内容が、世界に適合していたと思い出す(知覚的記憶、言語的記憶)

(4)未來の行為の意図:世界を、知覚的イメージ/言語的内容に、未来において適合させようと意図する(先行意図)

この分類にかけているもの一つは、「願望」です。願望とは、事実がある状態であってほしいと思うことです。その事実が、過去の事実であるか、現在の事実であるか、未来の事実であるか、によって「願望」を分けることができます。それらを順にみたいと思います。

<過去の事実>に関して、ある状態であってほしいと願う願望には、反事実的な願望とそうでない願望の二種類があります。例えば、TVを見てしまったが、TVを見ずに勉強しておけばよかったと思うとき、それは、過去についての「反事実的な願望」です。しかし、過去についての願望は、反事実的であるとは限りません。たとえば、ダメットの有名な「酋長の踊り」の場合がそうです。村の若者達が狩りに出て、村に戻ってくる途中だと思われるときに、酋長は狩りの成功を願って踊るのです。酋長の願いは、若者たちの狩りが成功であったということです。しかし成功であるかどうかは酋長が踊っている時にはもう決まっているはずです。しかし酋長は結果を知らないので、成功であったことを願っているのです。この願いは反事実的な「願望」ではありません。しかしこれもまた過去の事実に関する「願望」です。

 <現在の事実>に関しても、このような二種類の「願望」があります。トレーニングしているとき、もっと筋肉があればなあと願うのは、「反事実的な願望」です。これに対して、壺の中のサイロが丁か半かのどちらかにすでに決まっており、私がすでに「丁」にお金を賭けているとしましょう。私が「丁」であることを願うとき、これは反事実的ではない「願望」です。

 <未来の事実>に関する「願望」にも、反事実的願望とそうでない願望の二種類があります。未来は未定なのですが、6時間後には日付が変わることがわかっています。それにも関わらず、まだ今日17日中に送るべき資料ができそうにないときに、明日もまた17日が繰り返すことを願うとすれば、それは未来の事実に関する「反事実的願望」です。それに対して、12時までに資料を仕上げられることを願うとき、それは反事実的ではない「願望」です。

 前回の分類に欠けているもう一つのものは、「想像」です。「想像」にも、適合の方向を持つ「想像」と、適合の方向を持たない「想像」(サールが「想像」と呼んだもの)の二種類があります。

 適合の方向をもつ想像とは、事実についての想像であり、過去や現在や未来の事実についての推測ないし予測になります。この「想像」にその内容が事実になることを求める気持ちが加わると、それは上述の「願望」になります。この「想像」にその内容が事実になることを求める気持ちが伴っていないとき、その想像は、単なる事実の予測ないし推測になります。つまり、適合の方向を持つ「想像」は、「願望」と、「単なる予測や推測」に区別できます。ただし、この二つの違いは、願望が伴う「塑像」であるか、願望が伴わない「想像」であるか、という違いだけではありません。

「願望」の場合には、それが生じるだろう(生じていただろう、生じているだろう)という予測が伴わない場合があるからです。例えば、パンをうまく焼けるだろうという見込みが全くなくても、それを「願望」することはできるからです。

 単なる予測や推測の場合には、その内容がよいことであれ悪いことであれ、それが生じる可能性がある程度あるという信念が伴います。つまり、それが生じると信じる根拠が

 サールが言う適合の方向を持たない「想像」は、言語行為でいうと、命題行為に伴う心的状態であるように思われます。同一の命題行為は、異なる発語内行為を結合して、異なる発話を構成します。それと同様に、適合の方向を持たない「想像」は、適合方向を持つ志向性と結合して、志向性を持つ心的状態を構成するのではないでしょうか。

 前回述べた4つの志向性、今回のべた「願望」、適合の方向を持つ「想像」、これらの志向性から適合に関するコミットメントを除くと、適合の方向を持たない「想像」が残りそうです。

この想像の内容は、知覚的イメージと命題内容の二種類に分けられるでしょう。(ただし、英語の場合には、「想像」には、この二種類の内容におうじて、imaginationと、thought (guess) に区別できるかもしれません。)

 発話がどのような発語内行為を行うかは、その発話の相関質問において既に指定されています。

     ?pという一種類の質問に対して、┣(p)、!(p)、C(p)、E(p)、D(p)

という異なる発語内行為の返答が可能なのではなくて、質問発話は、文脈などによって、すでにどのような発語内行為の返答を求めるのかを示しているはずである。それゆえに、相関質問は、次のように表示されるはずです。

   ?┣(p)、?C(p)、?E(p)、?D(p)

(これについては、『問答の言語哲学』「第三章」で説明しましたので、ご覧ください。ここでは、その議論を、「志向性」に拡張しようとしています。)

志向性についてもこのようになるはずです。志向性もまた、問いに対する答えとして成立します。なぜなら、志向性の「ついて」性は、ある事柄に注目するという性質であり、それは問いに対して答えるということによって可能になると思われるからです。

 志向性がこのような仕方で問いの答えとなること、あるいは、問いの答えが、このような仕方で志向性を持つことを確認できたとしましょう。それでは、志向性は推論とどう関係するのでしょうか。それを次に考えたいと思います。

42 志向性の別の分類方法 (20210415)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

(前回述べたことは、意識や表象についての内省にもとづく一人称的知識は、それだけで成立するのではなく、対象についての知識と他者の心についての知識との相互依存関係(三角測量)において成立するということでした。ところで、志向性は心的内容が<ついて>性を持つということでししたから、その志向性についての知識は、一人称的な知識になります。しかし、三角測量のために、志向性についての知識を主張したり受け入れたりするには、対象についての知識や他者の心についての知識も必要になります。

 この話に戻ってきたいと思いますが、以下では、「志向性」について、サールとは違った分類を考えてみることから始めたいと思います。)

私たちは、<ついて>性をもつ心的な内容(志向性)を、知覚的なイメージと言語的な内容に分けることができるでしょう。それぞれについて、二つの適合の方向(心を世界に適合させる、世界を心に適合させる)を考えることができるでしょう。そうすると次の志向性を考えることができます。

(1)信念:知覚的イメージ/言語的内容が、世界に適合していると信じる(知覚、信念)

 玄関に自動車の鍵があるだろうと想像して、それを取りに行くとき、その「知覚的想像」は適合の芳香を持ち、真偽を持ちます。コロナはますますひどくなるだろうと考えるとき、その「言語的信念」は適合の芳香をもち、真偽を持ちます。

(2)行為内意図:世界を、知覚的イメージ/言語的内容に、現在において適合させようと意図する(行為内意図)(針金を曲げようとしている場合には、知覚的イメージと意図が結合しており、〇〇さんに投票しようとその名前を投票用紙に書いているときには、言語的内容と意図が結合していいます。ただし、残念ながら、英語にも日本語にも、この二種類の行為内意図に別々につけられた名前はありません。)

これらはどちらも<現在の適合関係>ですが、次の2つは、<過去の適合関係>と<未来の適合関係>を加えると次が考えられます。

(3)過去の記憶:知覚的イメージ/言語的内容が、世界に適合していたと思い出す(知覚的記憶、言語的記憶)

(4)未來の行為の意図:世界を、知覚的イメージ/言語的内容に、未来において適合させようと意図する(先行意図)

おそらく、これでは志向性の分類としてまだ不十分です。

これは、まだ不十分な分類なのですが、次の3種の区別の組み合わせで分類をしました。

  ・心的内容を、知覚的イメージと言語的内容の2つに分ける

  ・適合の方向を、2方向に分ける

  ・適合の時間を、過去、現在、未来の3つに分ける

何を補えばよいのかを、次に考えたいとおもいます。それを踏まえて、これが、サールの区分よりもすぐれていることを示したいと思います。]

41 志向性にアプローチする方法について  (20210404)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

今回は、志向性に限らず、意識や表象について考察するときの、一般的なアプローチ方法について考えてみたいと思います。

以下は、意識と言語の発生に関する私のまったく思弁的な予想です。

<意識は、おそらく探索とそれに対する発見によって始まると思います。動物の起源とも始まる、見かけ上の探索と発見のプロセスではなく、意図的な探索とそれに対する発見が、おそらく意識の成立になるのです。これは非言語的な探索と発見において成り立つことです。

これに対して言語の始まりは、問いと答えの成立になると思います。言語は、他者に伝えようと意図することに始まります。その意図が明示的になるのは、問いに対して答える時です。相手が何かを求めて発声し、それに応えて発声するとき、その発声は、相手の求めに対する応答であると同時に、応答であることを相手に伝えようと意図するものになります。>

この予想をなんとか証明したいと思いますが、前途は多難です。意識や言語の起源についての研究で有用なのは、(言語学と言語哲学における)言語の意味論と語用論の研究、(生物学と心理学と社会学における)行動や行為の研究、脳神経科学における神経ネットワークの研究であります。

この場合、内省による意識研究は有効ではないと思われます。何故なら、考察が曖昧で混乱したものになってしまうからです。しかし、言語の起源の研究はともかく、意識や表象の起源の研究をするときに内省による研究を除外するというのは、変に思われるかもしれません。なぜなら、意識や表象の起源を研究するということは、意識や表象の存在を認めているからであり、意識や表象が存在することは、内省によってのみ確実に知ることができるように思われるからです。

 しかし、意識や表象を持つことを、内省によって知るとしても、それについての語れることが必要です。デイヴィドソンは、自分の心の内容についての一人称の知識が、自分だけが、また自分の内省だけでそれにアクセスできる特別な知識だとは考えません。彼は知識を次の3つに分けます。

  ①自分の心の内容に関する知識

  ②世界内の対象についての知識

  ③他人の心の内容に関する知識

そして、これらは、どれも他の二つの知識に依存していることを指摘します。

③は、他人の行動を知ることによって得られるので、②を前提する。また③は自分の心と行動の関係からの類推によって知ることができるという面を持つので、①も前提します。

②の真理性は、その真理性についての他者とのコミュニケーションによって、知られるので、①と③を前提します。

①もまた、②と③を前提します。

「われわれ自身の心の命題的内容についての知識は、他の形態の知識がなければ不可能である。なぜなら、コミュニケーションなしには命題的内容は存在しないからである。またわれわれは、自分が何を考えているかを知っているのでなければ、他人に思考を帰属させることができない。なぜなら、他人に思考を帰属させることは、他人の言語的その他の行動を、われわれ自身の命題ないし有意味な文と、対応づけることに他ならないからである。こうして、自分自身の心に関する知識と他人の心に関する知識は相互依存的である。」(デイヴィドソン「三種類の知識」、デイヴィドソン『主観的、間主観的、客観的』清塚邦彦、柏端達也、篠原成彦訳、春秋社、329)

①②③について、このうちの一つを獲得するためには、他の二種類の知からその内容を確定する必要がある。それを「三角測量」(同訳、328)と名付けた。

デイヴィドソンのこの三角測量の議論は、私には十分に説得力があるように思われます。これを受け入れるならば、意識や表象の存在を認めるとしても、意識や表象が存在することは、内省によるだけで確実に知りうることではないことになります。

自分の心についての知るには、他者とのコミュニケーションが必要ですが、しかし、自分と他者が、意識や表象について、内省し、その内省の内容についてコミュニケーションするだけでは不十分です。①が成立するには、③だけでなく、②も必要です。つまり言語行為や身体行為や社会的行為や神経ネットワークついての知識が必要だということです。

さて、以上を踏まえて、志向性について考えようとするとどうなるでしょうか。

40 問いと想像 (20210403)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

問いは「適合の方向」を持ちます。問うことが、他者に問うことであれば(つまり、質問発話にその誠実性条件として伴っている問うことであれば)、命令や依頼と同様に、問うことは、相手に答えてもらうことを求めています。命令や依頼が、世界を心に適合させるという「適合の方向」をもつように、問うことは、相手に答えることを依頼するという意味で、世界(問いの相手の行動)を心(問いの内容)に適合させるという「適合の方向」をもちます。問うことが、独りで自問する事であっても、問いは、答えることを求めているのであり、世界(自分の行為)を心(自分の意図)に適合させるという「適合の方向」をもちます。

ところで、質問発話は、答えの発話がどのような発語内行為となるべきかを決定しています。

 つまり、問答関係はつぎのようになるのです。

   ?P → ┣P(あるいは、┣¬p、あるいは¬┣p)

となるのではなく、次のようになるのです。

   ?┣p → ┣P(あるいは、┣¬p、あるいは¬┣p)

(これについては『問答の言語哲学』第三章で説明しました。これが、「問いは答えの半製品である」の一つの意味です。)

これと同じで、質問発話にその誠実性条件として伴っている問うこともまた、返答の発語内行為に伴う志向性(信じる、想起する、意図する、願望する、など)をすでに決定していると思われます。

例えば、「昨日の夜は何を食べましたか?」と問うことは、答えが記憶(想起)となることをすでに決定しています。(もちろん、相手に記憶能力が欠如しており、日記を見て答える必要があることを知っていて問う場合には、事情は異なります。)

さて、このような<問うこと>は<想像>とどう関係するでしょうか。<想像>を答えとするような問いはあるでしょうか。問いに答ええることは、何かコミットすることであり、コミットメントはつねに何らかの適合の方向を持つと言えそうです。そうすると、適合の方向を持たない<想像>は問いの答えにはなりえないことになります。

ところで、何が「想像」と呼べるかはあいまいだと言わざるをえません。

例えば、次の例は、想像なのか、そうでないのか、曖昧です。「サイコロの目が1になっているき、サイコロの下の面の数字はなにでしょうか?」という問いに答える時、両面を合わせて7になるはずなので、1の反対側は6である、と推論して、「6です」と答えるとき、これはおそらく想像ではないでしょう。サイコロが汚れているのを見て、「そこの6の面も汚れているだろう」と考えることもまた、推論しているのであって想像ではないでしょう。この二つの場合には、答えはどちらも「適合の方向」をもちます。

 次のものは、「想像」だと呼べると思われますが、「適合の方向」を持つものです。夜寒いとき、「明日の朝は霜がおりているだろう」と思い、霜に覆われた田んぼを想像するとき、その視覚的な想像は、「適合の方向」を持つでしょう。宝くじが当たって喜ぶことを想像するとき、それもまた「適合の方向」を持つでしょう。試験に受かることを想像するとき、大きな地震が来ることを想像すること、これらもまた「適合の方向」を持つでしょう。これらの適合の方向を持つ想像は、「明日の朝は霜が降りているだろうか?」という問いや、「宝くじにあたるだろうか?」という問いに対する可能な答えとして想像されていると言えるかもしれません。

では、適合の方向をもたない<想像>とはどのようなものでしょうか。サールは、<想像>をつぎのように説明しています。

「雨が降っているという想像は、雨が降っているという信念や、雨が降っていることへの願望とまったく同様に可能である。信念は下向きの適合方向を持ち、願望は上向きの適合方向をもつが、想像の場合、私はその内容が事実であると信じているわけでも、事実であって欲しいとのぞんでいるわけでもない。そうであってほしい事態を空想することはあるにしても、空想なり想像なりにとって、そのように願望の形式をとることは本質ではない。怖いことや嫌なこと、つまり起こって欲しくないことであっても、人はそれを想像することが出来る。またありうることはもちろん、ありえないことであっても想像は可能である。」(サール『社会的世界の制作』三谷武司訳、勁草書房、59)

想像の内容は、信念とも願望とも結びつきうるのですが、それらと結合しないことも可能であるということです。

ここで思い浮かぶのは、次の発話が異なる発語内行為をするが、同じ命題行為(指示と述定)をもつというサールの指摘です(参照、サール『言語行為』坂本百大、土屋俊訳、勁草書房、39)。

 「サムは習慣的に喫煙する」(主張)。

 「サムは習慣的に喫煙するか」(質問)

 「サムよ、習慣的に喫煙せよ」(命令)

 「サムが習慣的に喫煙してくれたらなあ」(願望)

ここでは、命題行為は、異なる発語内行為を結合しうるが、しかし、どのような発語内行為も行わないで、命題行為だけをおこなうことはできないと言われています。この指摘は正しいでしょう。そうすると、上記の「想像」についても、同じことが言えるのではないでしょうか。同一の想像が、信念や願望と、また、ありうると思うこととや、ありえないと思うことと結合しうるでしょう。しかし、どのようなコミットメントとも結合しないことはありえないのではないでしょうか。

命題行為が適合の方向を持たず、発語内行為が適合の方向を持つ(ただし「表現型発話」だけは適合の方向を持たない)ように、<想像>そのものは適合の方向を持たず、それが他の志向性(想起、信念、先行意図、行為内意図、願望)と結合することによって適合の方向を持つことになるではないでしょうか。

そうすると、<想像>は、適合の方向を持つ志向性の要素となる、と言うことになりそうです。

このとき、適合の方向を持つ<志向性>だけが、志向性であり、適合の方向を持たない<想像>は、<志向性>には含めないということにした方がよいかもしれません。

ここまであいまいな部分をペンディングにしたまま考察してきましたが、以上を踏まえて、志向性全体についてもう一度考えてみたいと思います。

40 志向性としての問い  (20210401)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

問いは、次に見るように志向性の一種だと言えるでしょう。

問いは、何かに<ついて>の問い、例えば、事故の原因に<ついて>の問いであるから志向性と言えそうです。これは、次のように他の志向性と同じような条件を備えています。

問いの志向状態(S)と志向内容(r)は、次のようになります。

    問うこと(事故の原因)

問うことは、質問発話の「誠実性条件」になるでしょう。

問いの充足条件については、二種類考えられます。一つは、主張と類比的に考えることです。主張pの充足条件は、事実<P>が成り立っていることです。問いの充足条件は、問いの前提が、成り立っていることです。「フランス王は禿げていますか?」といは、「フランス王が存在すること」を前提しており、問いの前提が成り立っているとは、フランス王が存在することです。もう一つは、命令と類比的に次のように考えることです。命令の充足条件は、命令が実行されることです。これに倣うならば、問いの充足条件は、問いの答えが与えられることです。この二種類の充足条件を合わせたものが、問いの充足条件になります。

ところで、問いの答えとなるのは、知覚、記憶、信念、行為内意図、先行意図、願望などの志向性です。これらは、「適合の方向」をもち、適合にコミットしています。問うことは、コミットメントを求めることです。問いは、答えがどのような「適合の方向」をもつか、またどのような志向状態をとるか、をすでに決定しています。それは、質問発話が、返答の発語内行為をすでに決定しているのと同様です。発話の意味に関しても、発話行為に関しても、「問いは答えの半製品である」のです(これについては『問答の言語哲学』で説明しました)が、志向性においても「問いは答えの半製品である」と言えます。

では、想像は、問いとどうかかわるのでしょうか?

39 志向性としての「想像」  (20210330)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

サールは、(28回目)で示した表で、6種類の志向性を見事に整理している。しかし、この表はおそらく完全なものではありません。この表には含まれていませんが、サールは、「想像」もまた志向性の一種とみなしていると思われます。

 「想像」(imagination) は、「ついて」性をもつ心的状態であるので、志向性の一種だといえます。また想像は、次のように「状態類型Sと内容pの区別」(サール『社会的世界の制作』三谷武司訳、勁草書房、59)をもちます。

    想像する(火星人)

ただし、想像は、適合の方向を持ちません。つまり想像の内容が事実であると考えているのではないし、事実であって欲しいと考えているのでもありません。したがって、これまでの6つの志向性とは異なります。したがって、「想像との適合には責任が存在しない」(サール『社会的世界の制作』三谷武司訳、勁草書房、59)そして、想像は現実と適合する必要がないのですから、何でも自由に想像できます。「想像とは、自由で自発的な行為である」(同所)と言われます。「適合の方向」を持たない「想像」には誠実性条件も充足条件もないでしょう。

 このように「適合の方向」をもたない想像は、他の志向性とどのような関係にあるでしょうか。もし対象や事態を想像できなければ、その対象や事態を、知覚したり、記憶したり、信じたり、その実現を行為内意図したり、先行意図したり、願望したりできないでしょう。なぜなら、これら6つの志向性は、いずれも表象(知覚と行為内意図は、表象ではなく提示だといわれますが、提示も表象の一種です)であり、想像は、その表象から現実へのコミットメントを取り除いたものだからです。逆に言うと、想像している表象に、現実への適合のコミットメントを付け加えると、6つの志向性のいずれかになるのです。

(しかし、非表象的な知覚、記憶、行為内意図、先行意図があるとすると、それは想像なしにかのうでしょう。たとえば、非脊椎度物の知覚や記憶などは、非表象的だと思われますが、おそらくそれらは心的状態をもたず、志向性を持たないでしょう。)

 ところで、前言を翻すようですが、想像が「適合の方向」を持たないということは、それほど自明なことではないように思われます。想像は、どのようなときに生じるのでしょうか。6つの志向性の中では、サールが言うように、知覚と行為内意図がもっとも基礎的な志向性だと思われますが、想像は、それらと同じ程度に基礎的な志向性だと思われます。なぜなら、知覚や行為内意図が成立するには、想像が必要だからです。例えばサイコロを知覚する場合、私たちは見えている面だけでなく、見えていない面についても想像しています。なぜなら対象がサイコロであるということは、それが立方体であるはずだからです。つまり、見えていない面も平面になっていることを想像しています。ところが、この想像は、知覚と同様に、心から世界への「適合の方向」をもちます。あるいは、このような想像は、知覚の一部に含めるべきかもしれません。

 もしこのよう視知覚を、視覚刺激だけに制限せずに拡張するならば、アフォーダンスの知覚もまた、そこに含めるべきでしょう。例えば、美味しそうなケーキを見た時、その知覚には「おいしさ」の想像が伴い、またおいしさの想像には、食べたいという願望が伴います。この「おいしさ」の想像は、「適合の方向」を持ちます。アフォーダンス理論ならば、その「おいしさの」想像は、知覚とは別のものではなく、知覚に含まれると考えます。

 また、つぎのような想像もあります。知人からクレタ島を訪れた時の話を聞いて、クレタ島の様子を想像し、クレタ島に行きたくなったとしましょう。クレタ島の景色の想像は、「適合の方向」を持っています。しかし、それは知覚的な想像(知覚に似た想像、あるいは知覚の想像)ですが、知覚でも、記憶でも、ありません。

 また、探偵ホームズの年齢を想像する場合はどうでしょうか。それは知覚的な想像ではありませんが、適合の方向を持つでしょう。(英語では、ホームズの年齢を想像するというときに、imaginationとは言わないかもしれません。)

 このように想像には、様々なものがあります。適合の方向を持たない想像もありますが、適合の方向を持つ想像もあるように思います。

 多様な想像をどう理解するかを考えるため、またそれらと問いの関係を考えるために、問いを志向性として考えられるかどうかを、次に考えてみたいと思います。

38 問答としての信念と願望 (20210329)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

 今回は、信念と願望が、問いに対する答えとして成立することを説明したいと思います。

私たちが、信じているものは非常にたくさんあります。例えば、私は地球が回っていると信じているし、地震がいつ起こるかもしれないと信じているし、コロナが終息していないと信じています。しかし、常にこのようなことをすべて意識しているのではありません。このような信念を「広義の信念」と呼ぶことにします。では、どうして、これらは信念と呼ばれるのでしょうか。それは、「地球は回っていますか」と問われたら、即座に観察によらずに、「はい、回っています」と答えるからです。「広義の信念」は次の同値性文で定義できるでしょう。

 「Xさんはpを信じている」⟷「もしXさんが「pですか」と問われたら、即座に観察に寄らずに「pです」と答える」

この場合、暗黙的であった信念「p」を明示化しているのですが、これは想起の一種、つまり記憶の一種なのでしょうか。もしそうならば、因果的自己言及性を持つことになります。しかし、明示化された信念は、その充足条件の中に、その信念が暗黙的であったことを意識することを含んでいないので、因果的自己言及性を持ちません。つまり、記憶の一種ではありません。

他方で、私が、暗黙的であることなく最初からある信念を意識していることがあります。このような仕方で信念を持つのは、どのような場合でしょうか。すぐに思いつくは、何かの問いを立て、その答えとして「p」と答える場合です。例えば、「なぜ、太陽や月や星は、東から出て西に沈むのだろうか」と問うて、「地球が西から東に回っているからだ」と答える場合です。この答えを得る時には、ほとんどの場合、何らかの推論が行われます。他の場合はないのではないでしょうか(今のところ私には、思いつきません)。

願望についてはどうでしょうか。願望についても、信念と同じく、人は意識していない多くの願望を持っています。たとえば、「死にたくない」という願望を常に意識しているわけではありませんが、意識していないときにもその願望を持っているといえるでしょう。例えば、ステーキを食べたいとか、ケーキを食べたいという願望をもっていても、常に意識しているわけではありません。それでも、もし私が「死にたくないですか」と問われたら、即座に観察に寄らず「はい、死にたくありません」と答えます。したがって、信念と同じように、この「広義の願望」をもつことは、次のようなことです。

  「Xさんはpを望んでいる」⟷「もしXさんが「pを望みますか」と問われたら、即座に観察に寄らずに「pを望みます」と答える。

このような暗黙的な願望を意識帰する場合にも、その「意識された願望」は、因果的志向性をもたないでしょう。では、このような多くの「広義の願望」の中で、ある願望を意識するとすれば、それはどのような場合でしょうか。一つは、上のような問いに答える場合です。

他方で、私が、暗黙的であることなく最初からある願望を意識していることがあります。このような仕方で願望を持つのは、どのような場合でしょうか。すぐに思いつくは、何かの問いを立て、その答えとして「p」と答える場合です。例えば、「宝くじに当たったら、何がしたいですか」と問われて、「とりあえず貯金したいです」と答えるような場合です。

以上のように、サールのいう6つの志向性(知覚、記憶、信念、行為内意図、先行意図、願望)はすべて、問いに対する答えとして成立します。

ところで「信念」や「願望」と似たものに「想像」があります。ただし、サールによれば、「想像」は適合の方向を持ちません。「想像」とは何か、それを志向性と言えるかどうか、想像もまた問いに対する答えとして成立するのか、を次に検討したいと思います。

37 志向性としての信念と願望 (20210326)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

信念と願望は、次のような心理的様態(志向状態)と表象内容(志向内容)をもつ。

   S(r)

   信じる(r)

   願望する(r)

 また、信念は心を世界へ適合させ、願望は、世界を心へ適合させるという「適合の方向」をもつ。

 また、pを主張するときの「誠実性条件」として、rを信じるという志向性があり、pを表現(表現型発話)するときの「誠実性条件」として、rを願望するという志向性があります。

 また、信念の充足条件は「rが事実である」こと、願望の充足条件は「rが事実になる」ことです。

以上のように、信念と願望は、志向性であると言えます。さらに、サールは、信念と願望の連言による結合によって、次のような複合的な志向性を説明します(参照、サール『志向性』訳40-42)。

  怖れ(p)→ 信(◇p)&願(~p)

  期待(p)⟷ 信(未来p)

  失望(p)→ 現在信(p)&過去信(未来~p)&願(~p)

  悲しむ(p)→ 信(p)&願(~p)

  悔い(p)→ 信(p)&信(pと私の結びつき)&願(~p)

  悔恨(p)→ 信(p)&願(~p)&信(pに対する私の責任)

  非難X(p)→ 信(p)&願(~p)&信(pはXの責任)

  喜んでいる(p)→ 信(p)&願(p)

  望む(p)→ ~信(p)&~信(~p)&信(◇p)&願(p)

  誇り(p)→ 信(p)&願(p)&信(pと私の結びつき)&願(pを他人が知る)

  恥じ(p)→ 信(p)&願(~p)&信(pと私の結びつき)&願(pを他人が知らない)

これは興味深い分析ですが、このように基本的な志向性から、複雑な志向性を合成して見せることは、スピノザの情念の説明を思い出させます。

 他方で、サールは、信念と願望は、因果的志向性を持たないと考えます。そしてこの点において、これまでの述べた知覚、記憶、行為内意図、先行意図と異なると言います。信念と願望は因果的志向性を持たないので、これまで述べた志向性(知覚、記憶、行為内意図、先行意図)を上記のような仕方で合成することはできません。

 サールは、「生物学的に志向性の基本形態」だとするのは知覚と行為であり、信念と願望は志向性の基本的な形態ではない、といいます。信念は知覚の「萎えた形態」であり、願望は意図の「萎えた形態」ないし「色褪せた形態」である(参照、同書47)といいます。

 以上がサールの議論ですが、気になるのは、信念が因果的志向性を持たない、という点です。以下で、これを検討したいと思います。

 「私がpなる言明を行うなら、私はpなる信念を表明していることにある」(同書12)

話し手は、ここで言明pと信念pは、同じ充足条件をもち、それはpが事実であることです。

このとき、人がpを言明する(あるいは信じる)ときには、根拠を問われたなら、それに答える用意があるはずです。つまり、何らかの根拠を意識している(あるいは、意識できる)はずです。

pを主張するときに、pを信じていないことは不誠実ですが、pの根拠を示せないことも不誠実です。したがって、主張pにともなう信念pには、「因果的自己言及性」があるように見えるかもしれません。

 無根拠に何かを信じることが全くないとは言いませんが、それは稀です。たいていの場合、何かを信じる時には、何らかの根拠を意識しています。ここで重要なのは、根拠帰結の関係と原因結果の関係の違いです。信念は、根拠を持ちますが、信念と根拠の関係は、論理的な根拠帰結関係であって、因果関係ではありません。したがって、信念が、「因果的自己言及性」を持つとは言えません。それがもつのは「根拠への自己言及性」と呼びたいとおもいます。これもまた「語られてはいないが、示されている自己言及性」(同書68)です。

 他方、願望は、根拠を持ちませんが、理由結果関係をもちます。願望は常に何らかの理由を持ち、その理由はより上位の願望です。この意味で、願望は、「理由への自己言及性」と呼びたいとおもいます。これもまた「語られてはいないが、示されている自己言及性」(同書68)です。

 このような信念と願望と、問いとの関係について次に考察したいとおもいます。

37 問答としての「提示」 (20210323)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

表象と提示の違いは、簡単に言えば、表象は充足条件と間接的に関係し、提示は直接に関係するという違いです。表象が充足条件である対象や事態に間接的に関係するということは、「指示」(場合によっては、表示や表現)の関係にあるということを意味しますが、この「指示」の説明が難問です。私は、指示は、問いに対する答えとして可能になると考えています(これについては、『問答の言語哲学』で説明しました)。ただし、知覚報告における指示は、知覚を介するので、知覚における提示についても考慮する必要があります。サールは、知覚の提示は、対象と直接に関係すると言います。たしかに、物からの因果関係で知覚が生じます。しかし、何を知覚するかは、主体が何を探索するかに依存します。物のどこに注目するかも、主体の探索に依存します。(サールは知覚の因果説に批判的です(cf. これとは別の理由で、サールも知覚の因果説に批判的です。つまり知覚における自己言及的志向性を看過しているという理由です。cf. 『志向性』訳、66) 以前に(30)で述べたように、ここには次のような広い意味での「二重問答関係」(正確には、問答と探索発見の二重関係)が成立しています。

  対象についての問いQ2→主体の探索Q1→知覚A1→知覚報告A2

(Q2とA2は言語的な問答関係、Q1とA1は非言語的な探索と発見の関係になります。)

行為内意図は行為を惹き起こします。物体としての身体の運動が、他の物体を動かします。したがって、行為内意図は身体運動を介して、世界を変化させます。行為内意図が身体運動を惹き起こすのは、行為内意図を形成するニューロン群の発火が、筋肉につながった、運動神経(遠心性神権)とよばれるニューロンを発火させることによるのだと思います。先行意図を形成するニューロン群と行為内意図を形成するニューロン群がどういう関係にあるのか、それぞれのニューロン群の発火同士がどのような関係にあるのはわかりません。行為内意図の意識は、「何をしようとしているのですか」という問いに対する答えとして生じると思いますが、他方では、行為を遂行する間の細かな行為の調整には、対象についての知覚や身体状態についての探索と知覚も利用されているはずです。この行為調整では、言葉にすれば「どうしよう」というような探索が行われているとおもいます。

 とりあえずは、このくらいにして、次に志向性としての「信念」と「願望」の考察に移りたいとおもいます。

37 表象と提示 (20210321)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

サールは、知覚と行為内意図は提示であり、記憶と先行意図は表象であると言います。

知覚が「事態の提示」であるとは、次のような意味です。

「たとえば、私が黄色いステーションワゴンを前方に見ている場合、私の有している経験が直接にその対象についての経験である。その経験は単に対象を「表象」しているのみではなく、対象への接近をも与えている。その経験は、ある種の直接性、端的さ、そして意のままにはならないという、眼前にはない対象について信念を抱くような場合には見出されない性質を有している。それゆえ、視覚経験を表象として描写することは不自然であるように思われる。実際、そのように視覚経験を語る場合には、どうしても知覚の表象説へと導かれてしまうだろう。そこで知覚経験のこうした特別な性質のゆえに、私はそれらをむしろ「提示」と呼ぶよう提案したい。私が述べようとしている視覚経験、知覚された事態を単に表象するのみではなく、それが充足されたときにはむしろ事態への直接の接近をわれわれに許すものであり、そのいみでそれは事態の提示なのである。」(サール『志向性』坂本百大監訳、誠信書房63、下線と強調は入江)

「提示は、われわれが表象に与えた定義的条件(すなわち、志向内容、充足条件、適合の方向、志向対象、などを有する)をすべて満たしている」

「提示」は「表象の一種」だとされます。これが、それ以外の表象と異なるのは、「それが充足されたときにはむしろ事態への直接の接近をわれわれに許すもの」であるとされます。

では、行為内意図が「提示」であるとは、どういう意味でしょうか。行為内意図が行為を惹き起こしているので、行為内意図が行為の原因だと言えるでしょう。先行意図もまた行為の原因になりますが、先行意図は行為と時間的に離れているので、直接の原因ではなく間接的な原因となります。先行意図が行為の原因になるためには、行為内意図になる必要があります(先行意図自身が、時間経過によって行為内意図に変化すると考えるのか、それとも先行意図は消えて行為内意図が生じるのか、について議論があるようですが、今は踏み込みません)。先行意図は行為の表象を含みますが、行為内意図は、行為そのものを含むといえるでしょう。行為内意図は行為そのものを提示するのです。

サールは、共に提示である知覚と行為内意図の類似性を、次のように説明しています。

「テーブルを見ることの場合には二つの構成要素、つまり、志向的構成要素(視覚経験)とその充足条件(テーブルの提示およびテーブルの特徴)がそこに含まれていたのとちょう同じように、私が自分の腕を上げるという行為にも志向的構成要素(行為経験)とその充足条件(私の腕の運動)という二つの構成要素が含まれているのである。志向性に関する限り、視覚経験と行為経験との相違は、適合の方向と因果作用の方向とにある。」(同書123f)

つまり、知覚の場合には、充足条件(テーブルの提示およびテーブルの特徴)が原因となって、志向的構成要素(視覚経験)が生じるのに対して、行為の場合には、志向的構成要素(行為経験)が原因となって、充足条件(私の腕の運動)が生じます。

ちなにみ、知覚と行為には、経験と充足条件の片方だけが欠けている場合がある。知覚の場合、志向的構成要素(視覚経験)があるが、充足条件(テーブルの提示およびテーブルの特徴)が欠けている場合(幻影肢の場合)と、志向的構成要素(視覚経験)が欠けているが、充足条件(テーブルの提示およびテーブルの特徴)がある場合(これは盲視の場合)がある。

これと同様に、行為の場合、志向的構成要素(行為経験)があるが、その充足条件(私の腕の運動)が欠けている場合(コーヒーを飲んでいるつもりだったが、その代用品を飲んでいた場合)と、志向的構成要素(行為経験)が欠けているが、その充足条件(私の腕の運動)がある場合(行為しているが行為内意図を意識していない場合)がある(参照、同書125f)。

 さて、このように志向性が単なる表象ではなくて、提示であるとき、それを答えとする問いないし探索は、表象を答えとする問いないし探索とどのように異なるのでしょうか。