29「グローバルな総中流社会」を目指して (29219413)

[カテゴリー:日々是哲学]

「総中流社会」は、日本では高度経済成長の結果として一時的に実現していたかもしれませんが、グローバル化とそれにともなう新自由主義政策によってなくなってしまいました。したがって、それを復活させるには、新自由主義政策を変えて、1980年の頃の法人税率、所得税の累進税率を復活して、所得の再分配を進める必要があります(参照、https://irieyukio.net/blog/2008/10/16/%e8%b2%a1%e6%94%bf%e8%b5%a4%e5%ad%97%e3%81%ae%e5%8e%9f%e5%9b%a0/)。しかし、他方で、グローバル化以前の相対的に閉じた一国経済に戻ることはできないでしょう。そうすると、どうすればよいのでしょうか。

 一つには、バイデンがやろうとしているように、法人税の引き上げ、所得税の累進税率の引き上げを、それの国際的な共同実施を目指すことです。したがって、総中流社会の実現は、世界規模で行わなければ実現しないでしょう。(以上は、カテゴリー「格差問題」に10年以上前に書いたことでもあります。バイデンに期待したいとおもいます。)

 日本でこれを妨げるものは、政府にコントロールされたマスコミです。政府にコントロールされない自由なマスコミをつくることが不可欠になると思います。

28 嘘つき政治家を批判しないマスコミから、独裁政治へ (20210410)

[カテゴリー:日々是哲学]

(安倍晋三の影響でしょうか)政治家と官僚の言葉の軽さが気になります。彼らはまるで息をするように平気で嘘をつきます。そして記者からの問いかけを平気で無視します。つまり、質問に対して嘘を答えるだけでなく、質問を無視します。真摯にコミュニケーションしようという姿勢が見られません。彼らの本音は、「黙って俺の言うことを聞け」と言うことなのでしょう。しかし、それは民主主義ではなく、独裁です。政治家と官僚の嘘を許すことは、いずれ独裁政治に行き着きます。

 嘘をつく政治家、官僚は酷いですが、それを批判しないTV、新聞も酷いです。そういうTVや新聞が、やがて自由にものが言えない独裁政治を生み出すことになるのです。

27 「自粛」の倫理学 (20210328)

[カテゴリー:日々是哲学]

「自粛」「忖度」「わきまえる」「自主規制」

これらは似ています。そして、これらはカント的な「自律」とは両立せず、「他律」に属します。しかし、これらは、命令されたり、強制されたりする他律とはことなります。いわば、「触発」されるのです。カント的な「他律」は、強制的な他律と、強制的でない他律に分かれます。

 カントが、強制的でない他律として挙げているのは、感性的な欲望に触発されることです。ついついケーキを食べてしまうというような他律です。

 しかし、冒頭にあげたものは、これとは異なります。そこで、強制的でない他律を、二つのタイプに分けることができるでしょう。

  第一のタイプ:「触発」「促し」「誘惑」など。

  第二のタイプ:「自粛」「忖度」「わきまえる」「自主規制」など。

この二つは、何が違うのでしょうか。前者は、他者や対象に誘惑されて行動するのですが、その前提には主体の欲望があります。欲望がなければ、誘惑されません。欲望というのは、快楽や利益などの良きものへの願望です。それに対して、後者も、また他者や対象の影響によって行為調整するのですが、後者の「忖度」「わきまえる」などの背後には、不快や不利益を避けようとする願望があるように思います。

26 経済格差はコミュニケーションを困難にする (20210324)

[カテゴリー:日々是哲学]

 問題を共有していない人とは、コミュニケーションできません。つまり、互いにコミュニケーションする集団は、問題を共有する集団です。私たちは、どのような問題を共有するかに応じて、異なるコミュニケーション集団を形成しています。

・人種の違い、性の違い、年齢の違い、職業の違い、社会的地位の違い、学歴の違い、所得の違い、身体能力の違い、などさまざまな違いがあります。これらが、ときに身を切られるような痛みをもたらすのは、これらが社会の中で大きな意味を持っているからです。これらの違いは、共有する問題の違いを生み出し、そこから異なるコミュニケーション集団が成立するからです。これらの違いは時に差別を生み、社会の分断を生みます。

 私たちがある集団に属してコミュニケーションするときには、その集団の人間関係を分断するような属性については無視します。そして、別の属性の人々が共有している問題にも触れません。コミュニケーション集団の境界に触れないことは、集団の中で暗黙の力として働いています。そのことは、それぞれのコミュニケーション集団の維持にとって必要なことだからです。

 私たちは、複数のコミュニケーション集団に属しています。これが分人主義を呼び起こすのは、属性の差異が、コミュニケーションを集団間、分人間のコミュニケーションを困難にするからです。

 経済格差は、これらの差異の一つですが、それだけにとどまらず、この差異は、他の社会的差異から帰結する差異をより大きなものにします。ちょうど、地震やコロナウィルスなどの災害が、経済格差を大きくするように、大きな経済格差は、これらの社会的属性の差異をより重いものにするのです。したがって、経済格差は、コミュニケーションを困難にし、社会を細かく分断し、社会的相互承認を破壊します。

#「総中流社会」という目標に対しては、次の批判があるかもしれません。

 <総中流社会にすることは、国民や人類を幸福にするためにぜひとも必要だと思われますが、これは一定の「善構想」に基づく立場なのではないでしょうか。これは自由主義と対立することになります。自由主義を採用するならば、何を幸福とするかは、各人の自由な選択にゆだねるべきであり、正義の実現が、幸福に優先すると考えることになるでしょう。>

 この批判に答える一つの方法は、自由主義を批判する事ですが、(もし自由主義を擁護しようとするならば)もう一つの方法は、「総中流社会」を目指すことは、自由主義とは矛盾しないと答えることです。もし中流であることが、幸福追求のための条件であるとすれば、「総中流社会」を目指すことは、「幸福追求の権利」を保証することになりますが、これは特定の「善構想」と結合するものではありません。

25 なぜ「総中流社会」を目指すのか (20210321)

[カテゴリー:日々是哲学]

 問い「「総中流社会」の実現によってどのような社会問題が解決されるのか?」に対する一つの答えを考えてみました。

 近代国家は、社会契約論に基づいて構築されています。近代国家は、社会契約によって構築されています。しかし、契約主体である個人は、産業資本主義が生み出したものであり、その産業資本主義は、国家が生み出したものです。この資本主義の市場メカニズムを保証するのは、国家です。

契約の自由、契約の履行、を保証しているのは国家です。つまり、契約主体である個人は、近代国家が生み出したという側面を持ちます。人と集団(個人と国家)は、共進化してきたし、これからも共進化を続けるでしょう。

 社会契約論は、個人主義という幻想、個人の自律性のアプリオリ性という幻想に基づいているのですが、個人の自律性は歴史的に形成されたものであり、契約主体は社会的相互承認によって成立するものだと言えるでしょう。近代国家と個人は、社会的相互承認によって構成されています。

そして、この社会的相互承認は、(他の超越的な何かに依拠するのではないのだから)常に再構築され続けなければならなりません。そうすると総中流社会が必要になるのではないでしょうか。総中流社会が壊れて、格差が拡大した社会になると、社会的相互承認は崩壊します。社会的相互承認を維持するには、総中流社会であることが必要条件になるでしょう。

 ところで、契約主体としての人権を保障するのに、現代でも人権の生得説が持ち出されることがあります。人権の生得説は、人権を侵害する政府や国家を批判するときには有効ですが、他方では社会的相互承認の崩壊にまで目を向けることを妨げる場合があります。人権の生得説ではなく、人権を社会的承認論によって説明することが必要だと思います。

24 「総中流社会」を目指しては? (20210317)

[カテゴリー:日々是哲学]

 冷戦終結後、世界的にも日本国内でも経済格差が拡大し続けています。これに対抗するのに、現代では共産主義や社会主義をもちだしても有効だとは思えません。目指すべき社会像を見失っていることが、現代の大きな問題だと思います。

 そこで、提案したいのは、かつて日本の「現実」(?)として語られていた「総中流社会」です。

この言葉は、当時はあまりポジティヴな意味で使われていなかったように思います。しかし格差社会になってしまうと、「総中流社会」は目指すべき社会像とすることができるのではないでしょうか。日本だけでなく、世界全体を「総中流社会」にすることは、人類の幸福のためには、是非とも必要なことであると思います。

 もちろん「総中流社会」という言葉だけでは曖昧過ぎるので、その意味を明確に規定する必要があります(ただし、厳密な定義は、ウィトゲンシュタインが指摘したようにおそらく不可能だろうとおもいます)。さらに「「総中流社会」の実現によってどのような社会問題が解決されるのか?」、「総中流社会をどのようにして実現するのか?」などに答える必要があります。

 「これでは、最底辺の人々を救えない」という批判があるかもしれませんが、それに答えるには、「「誰でも中流になれる社会」をどのように実現するのか?」に答える必要があります。

 「総中流社会」というのは、人類が目指すべき社会像として魅力的なのではないでしょうか?

23 クワインは「認識論の自然化」によって何をしようとしたのか?(3)(20210109)

[カテゴリー:日々是哲学]

 「クワインは「認識論の自然化」で何をしようとしたのか?」と問う時、その答えはどうなるのでしょうか。クワインはつぎのように述べていました。

「われわれが躍起になっているのはただ観察と科学との結びつきを理解したいがためであるとすれば、利用できる情報はどんなものでも利用するのが分別というものだろう」(第19段落)

「翻訳とまではいかないにしろ顕示的な手段を用いて科学を経験に結びつけるような再構成であるならば、心理学で満足するほうがはるかに理にかなってみえよう。」(第24段落)

以上からすると、認識論が心理学の一章として行おうとすることは「観察と科学の結びつきを理解する」と言うことですが、しかしそれは「顕示的な手段を用いて科学を経験に結びつけるような再構成」ではないということ、それは、科学的言明を観察用語と論理学数学の用語で説明するのではない、ということでしょう。

 カルナップが考えている「弱い合理的再構成」はそのようなものであり、それは「合理的意味論的再構成」だと言えるでしょう。これに対して、心理学は意味論ではありません。つまり心理学は、科学的言明の意味を説明するのではなく、科学的言明の成立という心的現象を因果的に説明しようとすることになるでしょう。つまり心理学としての認識論は、科学的言明の「因果的再構成」を目指すと言えそうです。

 ところで、自然化された認識論が、科学的言明の「因果的再構成」を目指すのだとするとき、ここに循環の怖れはないのだろうか、と心配になります。クワインもここに「相互包摂」(「自然科学のうちへの認識論の包摂であり、認識論への自然科学の包摂である」(第36段落))が生じると述べていますが、心配ないといいます。

「科学を感覚与件から演繹する夢を棄てた今ではその心配はまったくない。われわれは科学を世界における制度ないしは過程として理解したいのであるが、この理解が、その対象である科学以上のものであると主張するつもりはない。」(第37段落)

私たちは、これだけではまだ納得できないでしょう。この循環の問題は、現代のプラグマティストであるプライスの言う「位置づけ問題」と関係しているように思います。この問題については、機会を改めて論じることにしたいとおもいます(多くのカテゴリーが書きかけになっているので)。

(位置づけ問題に興味のある方は、ブランダム著『プラグマティズムはどこから来てどこへ行くのか』(加藤隆文、田中凌、朱喜哲、三木那由他訳、下巻、勁草書房)特に第7章、をご覧ください。)

22 クワインは「認識論の自然化」によって何をしようとしたのか?(2)(20210108)

[カテゴリー:日々是哲学]

前回の引用部分で訂正が必要なのは、次の箇所です。

「認識論が科学の基礎づけをあきらめて、科学の「合理的再構成」を意図しているのであるから、心理学によって科学の「合理的再構成」を目指すことにしても、循環論証にはならないというわけです。クワインの「認識論の自然化」は、認識論では科学の基礎づけができないので、「心理学」でそれに取組もう、ということではありません。」

この中に「科学の「合理的再構成」」という表現があるのですが、その意味(使用法)が曖昧でした。さらに「心理学によって科学の「合理的再構成」を目指す」という箇所が間違いでした。

 カルナップの「合理的再構成」は、当初は、科学的言明を「観察用語と論理-数学的な補助手段を用いて翻訳すること」を意味していたと思われます。しかし、観察用語と論理学数学の用語だけで、科学的言明の一意的な翻訳を与えることはできないことが明らかになりました。

 例えば「水溶性」という科学用語を、観察用語と論理学数学の用語だけで定義することができないのです。ただし、「水溶性」について次のように説明することはできます。

Aを水に入れる⊃(Aは水に溶ける⊃Aは水溶性である)

これは、ベンサムに始まるとされる文脈的定義とは異なります。文脈的定義は、或る用語を含む文に対して、それと同値な文を与えることです。例えば、

  AはBより硬い≡AとBをこすり合わせれば、Bに傷がつくが、Aには傷がつかない。

このような同値文があれば、私たちは「より硬い」という語を消去することができます。しかし、「水溶性については、そのような同値文を示すことができないので、文脈的定義で消去できないのです。そこでクワインは次のように述べています。

「カルナップの緩やかな還元形式は一般には等価な文を与えない。それが与えるのは含意文である。それは新しい用語を部分的にではあるにしろ説明する。すなわち、当の用語を含んだ文によって含意されるいくつかの文を特定し、その用語を含んだ文を含意する別の文を特定することによって、その用語を説明するのだ。」(第20段落)

この説明方法は、ブランダムの推論的意味論に非常に近い考えになるように思います。例えば、新しい科学用語をXとし、Xを含む文をpとするとき、pを結論とする上流推論とpを前提とする下流推論を特定することによって、その用語Xを説明するということです。

 このような緩やかな形式による科学的言明の説明も、おそらく緩やかな意味で、「合理的再構成」であると、カルナップとクワインによって考えられているようです(参照、「定義するは消去するなりである。しかしカルナップの還元形式に基づく合理的再構成にはこのようなことはまったく思いもよらない。」(第23段落) )。

「唯一我々の求めているものが、翻訳とまではいかないにしろ顕示的な手段を用いて科学を経験に結びつけるような再構成であるならば、心理学で満足するほうがはるかに理にかなってみえよう。」(第24段落)

「あらゆる文を観察用語と論理-数学用語からなる文に等しいと見なせるような認識論的還元が不可能である」「この種の認識論的還元の不可能性は、心理学に対して合理的再構成が持っているとおもわれていた優位性を最終的に打ち砕いた。」(第32段落)

以上を踏まえて、認識論的還元を「強い合理的再構成」とよび、緩やかな還元形式による科学的言明の説明を「弱い合理的再構成」と呼ぶことにしたいとおもいます。そうすると、カルナップは、「強い合理的再構成」を放棄し、「弱い合理的再構成」を追求していたと言えるでしょう。

 それに対して、クワインは、「弱い合理的再構成」は可能であるが、それよりも心理学による科学論の探究のほうが有効である、と考えていたと思われます。つまり、クワインは心理学によって科学の心理学によって科学の「合理的再構成」を目指したのではありません。「心理学によって科学の「合理的再構成」を目指す」という箇所が間違いでした。

 では、「クワインは「認識論の自然化」によって何をしようとしたのか?」これを次に考えたいと思います。

21 クワインは「認識論の自然化」によって何をしようとしたのか?(20210106)

[カテゴリー:日々是哲学]

(以下は2020年11月19日「世界哲学の日」記念討論会での発表原稿の一部抜粋です。当日の発表原稿の全体はこちらにあります

(https://irieyukio.net/ronbunlist/presentations/20201123%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%82%A2%E3%80%8C%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%93%B2%E5%AD%A6%E3%81%AE%E6%97%A5%E8%A8%98%E5%BF%B5%E8%A8%8E%E8%AB%96%E4%BC%9A%E3%80%8D.pdf)。

 以下では、クワインの論文 ‘Epistemology Naturalized’, in Ontological Relativity and Other Essays, 1969「自然化された認識論」(伊藤春樹訳、『現代思想』1988年7月号)を参照しています。)

――――以下抜粋

・論理実証主義(カルナップ)の認識論は、科学を基礎づけようとするものでした。しかし、それを、論理学と集合論と観察文から基礎づけられないことが明らかになりました。(全称文や反事実的条件文を証明できません)。

・そこで、認識論は、科学的言明の真理性ではなく、その意味を、論理学と集合論と観察文によって説明すること(「合理的再構成」(カルナップ))を目指すようになりました。しかし、理論的用語の意味をそれらでは定義できないことが明らかになったので、この試みも挫折しました。(「水溶性」を定義できません)。

・そこで、クワインは認識論を心理学やその他の科学に置き換えることを提案します。

「感覚受容器における刺激が、世界の描像を獲得する際にだれもが最終的に受け入れざるを得ない証拠のすべてである。ならば、この世界像が実際どのように構成されるのか、それをみてみようとなぜしないのか。どうして心理学で満足できないのか。」(第19段落)

しかし、「心理学やその他の経験科学」で、科学の基礎づけを目指すとすれば、循環論法になります。

「認識論の課題を心理学にゆずり渡してしまうのは、最初のころは循環論法だとして許されなかった。経験科学の基礎の確実性を示すところに認識論者の目標があるとするならば、その証明にあたって心理学やその他の経験科学を援用すれば、彼は目的に背くことになる。」(第19段落)

しかし、これに続けて彼は次のように言います。

「しかしながら、循環に対するそのような後ろめたさは、科学を観察から演繹しようという夢をひとたび放棄するならば大して意味がない。」(第19段落)

認識論が科学の基礎づけをあきらめて、科学の「合理的再構成」を意図しているのであるから、心理学によって科学の「合理的再構成」を目指すことにしても、循環論証にはならないというわけです。クワインの「認識論の自然化」は、認識論では科学の基礎づけができないので、「心理学」でそれに取組もう、ということではありません。

「われわれが躍起になっているのはただ観察と科学との結びつきを理解したいがためであるとすれば、利用できる情報はどんなものでも利用するのが分別というものだろう」(第19段落)

この状況をクワインはしばしば「ノイラートの船」に例えます(「経験論の2つのドグマ」「自然化された認識論」「経験論の5つの里程標」)。これは、ドックに入らないで航海しながら修理するという船ですが、この比喩に次の3つを付け加えたいとおもいます。

・ノイラートの船は、一人乗りではない。

・ノイラートの船は、底割れしない。

・ノイラートの船は、一艘とは限らなない。

――――――――― 以上

お正月にこの個所を読み直していて、一部訂正したくなりましたので、次回それを説明します。

20 問答の観点から哲学を改造すること(20210103)

[カテゴリー:日々是哲学]

明けましておめでとうございます。

今年も問答の考察を進めたいと思います。よろしくお付き合いください。

<問答の観点から哲学を改造すること>、これが私の目標です。

(問答の重要性が分かれば、おのずから哲学のあり方は変わるだろうと予測しています。)

現在次のようなことを考えています、あるいは、考えたいと考えています。

・哲学は、普通よりもより深くより広く問うことである。哲学では、通常は問いの対象の方に関心が向かっているが、哲学研究は、問答で出来ている。

・哲学研究の対象(世界)もまた問答で出来ている。

 言語、認識、行為、主体、社会などが問答で構成されていることを示すこと。

・言語について言えば

 語、文法、言語行為。

 構文論的諸概念、意味論的諸概念、語用論的諸概念が、問答関係によって成立すること

・論理学について、

 論理学的諸概念、論理法則が、問答関係によって成立すること

・認識論について

 信念、知識、主張は、問いに対する答えであること

 認識を問いへの答えとみなすこと、真理を問いに対する答えの関係とみなすこと。

・行為は問いに対する答えであること

 行為主体は、問いで構成されていること

・社会制度は、社会問題への答えであること

 法は、関数である

 法は、社会問題への答えである

 権利は、問答の権利である

 お金は、負債証明書である。

 負債があるとは、返済義務があるということである

・歴史は物語である

 物語は、物語的問いへの答えである

・人生の意味について

人生の意味は、人生の上流推論と下流推論である