45 「あり得ない」の意味  (20230320)

[カテゴリー:日々是哲学]

「私の発話は、規則に従っていますか」と問われた者が、「いいえ、あなたの発話は、規則に従っていません」と答えることはあり得ません。なせなら、「いいえ」と答えるとき、相手の問いを理解している必要があり、そのためには、相手の発話が規則に従っているとみなしているからです。

「私は、規則に従っていますか、それとも規則に従っていると思っているだけでしょうか」と問われた者は、「あなたは、規則に従っておらず、規則に従っていると思っているだけです」と答えることはあり得ませんん。なぜなら、この問いに答えるとき、この問いを規則に従ったものとして理解しているからです。問うた者が、規則に従っていないときには、問われた者はその問いを理解できないので、その問いに答えることができないのです。(これは『問答の言語哲学』第4章で論じた問答論的矛盾の一種です。)

 同じことが自問自答の場合にも言えます。「私の発話は、規則に従っているだろう」と自問するとき、「いや、私の発話は従っていない」と答えることはあり得ません。なぜならそう答えるとき、自分の問いを理解して、有意味に使用している、つまり規則に従って使用していると信じているからです。もちろん規則に従っていると信じていても、規則に従っているとはかぎらず、それゆえに私的言語は成立しないのですが、…

次のどれがあり得ないのでしょうか?

  ①規則に従っていて、規則に従っていると信じている

  ②規則に従っていて、規則に従っていると信じていない

  ③規則に従っておらず、規則に従っていると信じている

  ④規則に従っておらず、規則に従っていると信じていない。

  ⑤規則に従っておらず、規則に従っていないと信じている。

その場合「あり得ない」とはどういう意味でしょうか?

44 個人言語が成立するには二人必要  (20230319)

[カテゴリー:日々是哲学]

前回、私的言語も公的言語も存在しないといいました。(なぜなら、それらが存在するとは言えないとすれば、それらは存在しないからです。この地下にミミズが存在するとは言えないとしても、それは存在するかもしれませんが、私が話す言語については、私がそれが存在すると言えないのならば、それは存在しないのです。)

 では、それでもコミュニケーションができていると言えるのはどういうことでしょうか。

クワインの「翻訳の不確定性」、「指示の不可測性」によって、他者の言語の規則を解釈する方法は無限に存在し、それゆえに、どれが正しい解釈なのかを決定することが出来ません。「翻訳の不確定性原理」(principle of indeterminacy of translation)とは、「ある言語を別の言語に翻訳するための手引きには、種々のことなる手引きが可能であり、いずれの手引きも言語性向全体とは両立しうるものの、それら手引き同士は互いに両立し得ないということがありうる。」(『ことばと対象』邦訳42)ということです。「指示の不可測性(inscrutability)」とは、不確定性(indeterminacy)」とは、名詞や名詞句の指示対象を、一つに確定することが不可能であるということです。

他者の言葉の翻訳の仕方、理解の仕方が複数あるとすれば、互いに相手の言葉を、相手が理解するような仕方では理解していないのかもしれませんが、それでもコミュニケーションが成り立つことはありえます。例えば、相手がドイツ語を話し、私がそれを理解して日本語で話し返し、相手は私の日本語を話して、ドイツ語で話し返すとき、コミュニケーションは成り立ちます。これと同じことが、日本語を話す二人の間でも生じています。AとBがいて、AがBに日本語Aで話し、Bはその日本語Aを理解して、日本語Bで話し返し、Aはその日本語Bを理解して日本語Aで話し返す、ということが可能です。二人の日本語が同一ではなく、それぞれの個人言語である日本語AとBであることが可能です。むしろ、二人の日本語が同一であること、同一の規則をもつことを、証明することはむしろ不可能です(これは規則遵守問題が示していることです)。

 しかし、この個人言語が成立するには、すくなくとも話し手とその解釈者の二人が必要です。その解釈者とのコミュニケーションが可能であることによって、個人言語の話し手は、<自分が規則に従って話していること>と<規則に従って話していると信じていること>を区別できるようになるからです。

43 個人言語だけがあり、私的言語も公的言語もない?  (20230318)

[カテゴリー:日々是哲学]

最近こんなことを考えました。

#個人言語だけが存在し、私的言語も公的言語も存在しない。

「私的言語はありうるか?」という問いを問うとき、大抵は公的言語があることを前提しているように見えます。しかし「公的言語があることは確実なことだろうか?」とか「共通な言語を公的に共有していることを確認できるだろうか?」という問いには、「いいえ」と答えるほかないでしょう。

 Wittgensteinは、独り孤独にいるときには、<言語の規則に従っていること>と<言語の規則に従っていると信じていること>の区別ができない(『哲学探究』§202)、ということから、私的な言語は存在しないと考えましたが、これと似た仕方で次のように考えることができます。ある気心の知れた仲間たちの中にいるとき、あるいは、ある言語を共有していると思っている共同体の中にいるいとき、<私たちが一つの言語を共有していると信じていること>と<私たちが一つの言語を共有していること>を区別できないでしょう。つまり、言語を共有していることを確認することはできません。なぜなら、二人が共にある言語の規則に従っていると信じているとき、<二人が共にある言語の規則に従っていること>と<二人が共にある言語の規則に従っていると信じていること>を区別できないからです。そしてこれと同じことが、三人でも、四人でも、n人でも生じます。そうすると、私的言語も公的言語も存在しないことになります。

しかし、ある言語を共有していることを確認できないとしても、私たちは、ある程度あるいはほぼ十分に、コミュニケーションできることを確認することはできます。それは、私や相手の問いかけや答えにたいして、互いに予測する通りに、ほぼ反応するということです。私と相手が同じ言語を話しているかどうかは確認できませんが、コミュニケーションできるということは確認できます。

デイヴィドソン(論文「第二人称」)やブランダムは、公的言語、共有された言語があることを確認できなくても、互いにコミュニケーションできていれば、お互いがそれぞれ、それぞれの言語の規則に従っていると言えると考えました。これは正しいのではないでしょうか。

そうすると、私たちは、私的言語が成立するとは言えないし、公共言語が成立するとも言えませんが、個人言語は成立すると言えるでしょう。(私はここで「私的言語」と「個人言語」を次のように理解しています。「私的言語」とは、ある個人だけが使用の規則を理解できる言語であり、「個人言語」とは、ある個人がその使用規則を理解しているが、他者もその使用規則を理解可能である言語です。)なぜなら、それについては、規則に従っていることをテストすることができるからである。

42 サッカーWカップとナショナリズムと世界市民意識 (20221205) 

[カテゴリー:日々是哲学]

サッカーWカップで日本は盛り上がっています。それはプチ・ナショナリズムの高揚です。(オリンピックの盛り上がりも、同様です。自民党がオリンピックをやりたがるのも、ナショナリスムを求めるからかもしれません。)サッカーのクラブチームの世界大会では、このような盛り上がりはうまれないでしょう。それを考えると少し気が滅入ります。

しかし他方で、サッカーのWカップは、(厳密言えば、幻想ですが)世界のすべての国が参加している大会という意味があります。したがって、それは世界全体の催し物functionという意味を持ち、世界全体を意識することができます。したがって、サッカーワールドカップを、世界市民意識を発揚する機会にすることも可能だろうと思います。マスコミの方には、これを機会に世界市民意識を発揚させることをお願いしたいです。そのためには、自国のチームの勝ち負け以外についても沢山報道してほしいです。

41 ベイズ推論から問題設定の反証主義へ (20221023) 

[カテゴリー:日々是哲学]

ポパーの反証主義は、命題が科学的であるかどうかを区別するために、命題が反証可能であるかどうかをもちいることを提案しました。ポパーは、それを命題が有意味か無意味かの区別に使えるとは考えていませんでした。科学的な命題は、反証可能であるから、反証されたならば、それを修正することになります。ポパーは、それの繰り返しによって、次第に真理に近づくと考えました。

これに対しては、<ある命題が反証されたときに、他の前提を加えたり修正したり除去したりして、その命題を維持することが可能である>という批判がありました。反証を無効化するこのプロセスは「免疫化」と呼ばれています。ただし、反証主義には、探求を始めるために確実な出発点を見つけなければならない、という困難を回避できる、という長所がります。

ところで、問いの前提について、それの証明が必要だと考えるのではなく、とりあえず問いの前提を設定して、それが反証されたならば、それを修正することによって、より正しい問いの設定に接近していくという方針を考えることができます。これを「問題設定の反証主義」と呼びたいとおもいます。ところで、ポパーの反証主義に対して、どのような命題も反証に対して免疫化可能であるという批判があったように、この問題設定の反証主義に対しても、どのような反証に対しても免疫化可能であるという批判が可能です。ただし、反証主義の長所、つまり<探求を始めるために確実な出発点を見つける必要がない>という長所をより、強化するのに役立ちます。つまり、反証主義では、ある問題に対する答えをとりあえず設定して、その正しさをテストにかけるという仕方で探求を開始できたのですが、そのとき、問題の設定の適切性については言及していませんでした。ある問題に対する答えを設定する前に、問題の設定をしているのですが、この問題の設定についても、私たちはとりあえず問題を設定して、それの適切性をテストにかけて修正するという仕方で、探求を始めることができるのです。

 (これがベイズ推論と似ていることは、一か月後に、カテゴリー「人とはなぜ問うのか」で論じたいとおもいます。)

40 世襲と民主主義 (20221012) 

[カテゴリー:日々是哲学]

「親ガチャ」という言葉がはやっています。親を選べないことから帰結する不平等を表す言葉です。岸田首相が、息子を秘書官にしたことが、政治家の世襲として批判されています。岸田首相の息子が将来彼の選挙地盤の後継者となることが決まるならば、実質的に他の候補者が排除されることになるでしょう。これが政界全般、特に自民党に蔓延している文化です。これでは、日本の政治はよくなりません。世襲制度の愚かさは、もし大学教授が世襲ならば、学問研究の水準は落ちてしまう、ということを考えれば、明らかです。

自由競争やその結果の格差が、正当であるためには、競争の機会均等が保証されている必要があります。機会均等が保証されていない情況で、自由競争することは、不当な格差を拡大させます。世襲はその典型例です。しかし、世襲は日本社会にまだまだはびこっています。歌舞伎、茶道、華道、などの世界もそうです。もし歌舞伎の世界が世襲でなければ、歌舞伎はもっと多様な展開をしていたことでしょう。日本の世襲文化の大本にあるのは、天皇制です。天皇制は君主制の一形態であり、民主主義に反します。日本社会の閉塞衰退の一部は、世襲制度に由来するのではないでしょうか。

39 戦争の時こそ理性の公的使用を! (20220621) 

[カテゴリー:日々是哲学]

カントは『啓蒙とは何か』で、「理性」の使用を「公的な使用」と「私的な使用」に分けています。公職に就くものが職務上理性を使用すること、聖職者が説教すること、将校が上官の命令に従って行為すること、カントによれば、これらは理性の「私的な使用」です。これに対して、公衆を前にしての学者の理性使用は「公的な使用」です。そして、教区の聖職者が、学者として信条書の欠点についての吟味を公衆に伝えることや、上官の命令を受けた将校が学者として軍務における欠陥をしてきし、その指摘を公衆の判定に供することもまた、理性の「公的使用」になります。つまり、「一定の共同体において妥当する真理なり規範なりを前提している場合には、理性の「私的使用」となり、聖職者や将校であっても、共同体に受け入れられている真理や規範の妥当性を相対化して問い吟味する場合には、理性の「公的使用」となります。

戦争を防ぐために何より必要なのは、理性のこのような「公的使用」ではないでしょうか。また戦争が始まって、国民がナショナリズムに熱狂しているときに、何より必要なものも理性の「公的使用」ではないでしょうか。

38 哲学は無力? (20220514) 

[カテゴリー:日々是哲学]

哲学は無力?

ウクライナの戦争を止めるにはどうしたらよいのでしょうか。「哲学は無力だ」と考える人がいるかもしれませんが、私はそう考えません。何故なら、戦争を支持している人もまた、ある哲学に依拠して戦争を正当化しているからです。つまり、ここには哲学同士の争いがあり、戦争に反対する哲学が、戦争に賛成する哲学に負けているのです。

秩序よりも自由が大切です。

プーチンは、自由主義は古い、自由よりも秩序が大切だ、と考えるようです。しかし、今日の我々は、「普遍的な一つの正しい秩序」が存在しないことを知っています(ポストモダンの時代です)。プーチンが大切だと考える秩序は、プーチンにとっての秩序であり、それは多くの人にとっては無秩序でしかありません。指導者が「秩序」の名のもとに自由を制限するとき、それは指導者にとって都合の良い「秩序」であって、多くの人にとってはむしろ彼らの秩序を壊すものです。「一つの正しい秩序」がない世界では、様々な人にとっての様々な秩序の可能性を保障するために、自由を保障することが何よりも必要です。つまり、秩序よりも自由が大切です。

(これに対して、プーチンならばこういうかもしれません。「それでは無秩序な混乱した社会になる」と。しかし、本当にそうでしょうか。プーチンがおそれる無秩序で混乱した社会は、多くの人々にとっても無秩序で混乱した社会なのでしょうか。プーチンにはそれを考えてほしいです。)

37 問答とメタバース (20211127)

[ 日々是哲学]

 決定疑問は諾否の二つの答えの可能性を考えることによって成立します。補足疑問は、疑問詞に複数の文未満表現が代入される可能性を考えることによって成立します。補足疑問を問うことは、答えに対して開かれていることですが、決定疑問もまた答えに対して開かれています。

 このように問いは、複数の答えを想定します。これは複数の世界を想定ということでもあります。この複数の世界は、哲学で言うところの「可能世界」ですが、インターネットないしコンピュータ上に構成される仮想世界(メタバース)もまた、この可能世界の一種です。

 問いに答えることは、一つの答えを選択することです。つまり、問いは複数の世界を想定し、答えることは一つの世界を選択することなのです。そして、一つの世界を選択することは、その世界にコミットすることです。

 私たちは可能世界やメタバースの中でも、他の人やAIと問答します。そのときの問いは、複数の可能世界やメタバースの可能性を開き、それに答えることは、一つの可能世界やメタバースを選択することです。メタバースの中で問いを立て答えることは、メタバースの中にメタバースを開き、その一つを選択することです。こうした世界の複数展開が続くとき、一体私たちは、どの世界に住むことになるのでしょうか。

 ここで特に言いたいことは、人間が問答するとき、それはこれまでも常に複数の世界の可能性を開くことであり、そうしたことを伴わなければ、私たちは問答ができないということです。人として生きていくことは、問答することによって可能になり、問答することが常に複数の可能世界を開くことによって可能であるとすれば、私たちが生きていくことは、複数の可能世界を想定することによって可能になっているということです。フィクションは、おそらく私たちの現実世界での問答のために不可欠であり、つねにすでに現実世界を構成しており、私たちが人間的に生きることを可能にしているのです。メタバースによって、このメカニズムがこれから顕在化するのでしょう。

36 フィヒテのスピノザ批判にもどる (20211005)

[カテゴリー:日々是哲学]

前回説明したフィヒテの3つのアイデアは、互いに独立しているのではなく、第一のアイデア「事行」を前提して、そこから第二のアイデア「絶対知」が成立し、この「絶対知」を前提して、第三のアイデア「絶対者」が成立するという関係にあります。私自身は、この3つのアイデアすべてにそれぞれ疑念を持っているのですが、しかし、フィヒテ哲学に可能性があるとすれば、それは、この3つのアイデアを生かしていくことにあるだろうと思っています。

 以上を前置きにして、フィヒテのスピノザ批判を説明したいとおもいます。フィヒテは、スピノザ哲学を唯物論とみなして、それを批判します。前に(31回)に述べたように、フィヒテがそれを批判するのは、スピノザが意志の自由を否定するからでした。スピノザは、個人の意思決定が自由であると考えることを錯覚だとして批判するのですが、しかし実体(神)については、それが「自由原因」であることを認めます(『エチカ』第1部定理17系2)。この証明は、次の定義に基づいています。「自己の本性の必然性のみによって存在し・自己自身のみによって行動に決定されるものは自由であるといわれる」(第1部定義7)。

 スピノザにとっては、「自由」とは、「自己の本性の必然性」にしたがって行動を決定することなのです。このスピノザに影響されたシェリングとヘーゲルもまた、自由を「内的必然性」に従うことと考えました。

 シェリングは『人間的自由の本質』において「行為というものは、英知的存在者の内奥から、ただ、同一性の法則にしたがって、また絶対的な必然性をともなって、のみ、生じてくることができるのであって、このような絶対的必然性のみが、また絶対的自由でもあるのである。」(今本が手元にないのですが、『人間的自由の本質 およびそれと関連する諸対象に関する、哲学的諸研究』1809年(『世界の名著 続9 フィヒテ シェリング』中央公論社)渡辺二郎訳、おそらくp.460)と言います。ちなみに、ここでシェリングは、フィヒテの自由を「選択の自由」とみなし、批判しています。

 ヘーゲルは「自由」を「私が私自身の許にある時、私は自由である」(Werke,12,30)と定義しますが、この定義は、「自己の本性の必然性」に従うというスピノザの定義とほぼ同じです。ヘーゲルは、『小論理学』では「必然性の真理は自由である」とも述べています。ヘーゲルもまた、スピノザやシェリングと同様に「自由=内的必然性」と考えているのです。

 若いころにフランス革命にだったドイツ観念論の哲学者たちにとって、「自由」は非常に重要な概念でした。そして「自由」をどう定義するかは、彼らの哲学において重要な課題となります。シェリングとヘーゲルは、スピノザの影響で、自由=内的必然性ととらえるのです。そして、シェリングもヘーゲルもフィヒテが考えている「選択の自由」に対しては批判的でした。

 このフィヒテ理解は正しいです。たしかにフィヒテは自由を「選択の自由」として考えていました。ただし、フィヒテは、「内的必然性=自由」という自由理解に否定的でした。フィヒテにとっては、「選択の自由」こそが真の自由概念なのです。(私もこれに賛成です。なぜなら、内的必然性=自由という考えには曖昧な部分が残りますし、何が内的必然性であるかを考える時に、自分の価値観を暗黙の裡に挿入しているように思われるからです。実存主義を持ち出すまでもなく、「内的必然性」をそもそも認めない人も多いでしょう。)

 スピノザ(シェリング、ヘーゲル)とフィヒテとの「自由」理解の違いは、「絶対者」の理解の違いと密接にリンクしています。スピノザ(シェリング、ヘーゲル)の絶対者は、個人を含めてすべての個物をその中に含んでいる汎神論的な絶対者です。それゆえに、絶対者は個人の内的必然性もまた含んでいるのです。これに対して、フィヒテの絶対者は、純粋な存在であって、個人はその外部にあります。個人や個物は「絶対知」の内部に成立するものですが、その「絶対知」は「絶対者」の外部にあります。「絶対知」は「絶対者の現象」と呼ばれます。「絶対知」の内容は、知の必然的法則によって決定されるのですが、「絶対知」の存在は、法則によってではなく、また絶対者によってでもなく、自由によって成立します。「絶対知」は必然的法則をもつ「内容」と、自由によって成立する「形式」という二つの契機から成っており、このうちの前者の必然的法則の根拠として「絶対者」が想定されています。他方、知の「形式」である「自由」は、知の必然的法則から独立しているのです。この自由は、必然性を持たない偶然的な決定ないし選択なのです。

 スピノザ、シェリング、ヘーゲルでは、絶対者は汎神論的全体(ヘン・カイ・パーン)であり、それゆえに、絶対者の内的必然性は、個人はそれから独立した選択の自由を持つことは出来ません。これに対して、フィヒテは「ヘン・カイ・パーン」を否定します。フィヒテの枠組みでは、いかなる必然性や法則からも自由な「選択の自由」が可能になります。

 フィヒテが、このような「自由」概念を採用するのは、<存在するとは知られることである>とする「事行」や「自己意識」の理解のためです。彼の徹底した観念論は、スピノザ、シェリング、ヘーゲルの、「自由」理解、「絶対者」理解とは、両立しないのです。

 フィヒテは、晩年の講義「意識の事実」(1810)において、彼の「自由」理解を次のように明確に述べています。

「知そのものは、その内的形式と本質からすると、自由の存在である。[…]人は一見して、自由というのはそれだけで存立する別のなにものかがもつ特性であって、そのものに内属するのだ、と考えたくなるかもしれないが、そうではなくて、自由は独自の自立的存在にほかならないのである。そして、自由のこの自立的で別個の存在こそが知なのである、と言いたい。」(GA II/12, 27f, SW II, 550, 330, 全集19巻、43)

ここでフィヒテは、自由はある存在者の特殊な能力とか特殊な性質ではないといいます。彼の言う自由は、スピノザの「内的必然性」に従うことのような能力や性質ではなく、ある形式で存在することそのもの、あるいは存在形式に他なりません。彼は自由についてのインフレ主義的な解釈を排して、デフレ主義的な解釈を提示していると見ることができます。つまり、自由は、存在内容にかかわるのではなく、存在形式に関わるものなのです。知の存在は、それ自身が知られている必要があります。そのような自己知としての知の存在は、自由という存在のあり方をします。知と自由は、フィヒテにとっては不可分の存在形式なのです。知が存在するためには、知が存在することが知られている必要があり、また行為や知の活動が自由であるためには、活動が自由であることが知られている必要があり、また自由であることを知る活動自身も自由でなければなりません。もし<そのように考えない>ならば、私たちは知や自由とは無関係に成立している存在を、知や自由の<担い手>として認めることになるでしょう。しかし、そのような存在を認めることは、二元論であり、フィヒテが追求している徹底的な観念論とは矛盾するのです。

 (以上で、31回から行ってきた、フィヒテのスピノザ批判の説明を終わります。もう少し詳しい説明は、来年に出版される予定の共著論文集をご覧ください。出版されましたら詳しい情報をお知らせします。)

 では、私たちは、フィヒテの言う「事行」(自己意識)について、また「絶対者」(純粋存在)について、どう考えるべきでしょうか。クワインの存在の言語相対性の主張、中期パトナムの内部実在論は、現在でもある程度の説得力を持つと思うのですが、その場合、世界のありようを説明する理論は、言語相対的であり、言語を超えた世界については、語ることができません。しかし、それが存在すると想定することは可能であり、言語相対的であれ言語を決定すれば、理論は必然的なものとして立ち現れることになります。その理論の必然性を説明するために、理論の背後に純粋存在を想定することは出来そうです。これは現代における一つの有力な存在論の形でしょう。フィヒテが考えていた知識学の枠組みは、この考えに似ているのです。

 ここから先をどう考えるかは、私たちの課題です。