17 ノーベル賞と聖人 (20201008)

[カテゴリー:日々是哲学]

「真理」の社会的有用性、「真理」の社会的重要性は、「神」のそれに似ている。「科学信仰」が「神への信仰」と共有しているのは、真理が重要だという点である。

 真理は、個体が生存するために重要であるが、共同体や社会が自己を維持するためにも重要である。それゆえに、社会は科学研究をコントロールしようとする。ノーベル賞受賞者が、聖人のように扱われるのは、真理が社会的に重要だからである。真理は社会問題の解決に役立つ。それゆえに、真理は社会的に有用である。社会制度は真理の上に成立している。政府が学術会議を支配しようとすることと、ノーベル賞受賞者を聖人のようにあつかうことは、結合している。

16 可謬主義と改革主義 (20200921)

[カテゴリー:日々是哲学]

 私は、現代の多くの哲学者と同様に、究極的な根拠づけは不可能であると考えます。政治に関していえば、革命を目指す者は、その政治理念が絶対に真であると考えているとおもわれますが、もし自分が主張する政治理念の可謬性を認めるのなら、そのものは革命ではなく、漸進的な改革路線をとるでしょう。どのような政治理念も可謬的であるとすれば、テストしながら漸進的に改革していくことが合理的な態度であるからです。

 さて、前回のべた税制についても、テストしながら漸進的に改革していくことが望ましいでしょう。

15 <完全に平等な税制+ベーシックインカム>の検討2 (20200920)

[カテゴリー:日々是哲学]

 国家は、社会問題を解決するために作られた制度である(カテゴリー「問答としての社会」を参照してください)。それゆえに、国家は社会問題を解決しなければならない。この社会問題を、つぎの二種類に分けることができるだろう。

 社会問題の一つの種類は、利害の対立であり、それを解決するために規則(法)を作ることである。そのための制度や組織(立法制度)が必要である。そして、その法を実現するための制度や組織(警察制度、司法制度)が必要である。

 社会問題のもう一つの種類は、貧困問題、災害復興のように社会的支援が必要な社会問題である。これに取組むには、組織(行政組織)と資金が必要である。この社会問題の中には、既成の社会制度が引き起こした問題であって、解決のためには社会制度の改革が必要な社会問題も含まれている(このような社会問題を「疎外」と呼ぶことができる。)

 こうした社会問題を解決するために、資金が必要であり、それを税金として集める事が必要になる。社会として取り組まなければ解決できない問題を解決することが、国家の目的であり、そのためのお金が税金である。これが税金を収める一つの理由である。

 もう一つの理由は、次のとおりである。個人の収入は、個人の経済活動の成果であり、その経済活動によって社会の経済活動が成り立っている。経済制度は、規則と組織からなる。社会の経済活動は、個人や組織が規則に従って行為することによって成立している。個人の収入は、社会の経済活動にもとづいて成立するので、もし社会の経済活動が成り立つために必要な制度を維持するために、社会が投資する資金が必要ならば、個人はその収入に応じて、提供しなければならない。これが、税金を収めるもう一つの理由である。

 さて、こここで<完全に平等な税制+ベーシックインカム>をもう一度検討しよう。前回は、完全に平等な税制の税率の決め方を、<ベーシックインカム+医療費+教育費+その公共事業費>として、それを賄うことができるように税率決定するという案を提案した。今回は、それと逆の決定方法を、提案したい。個人の収入は、社会の経済システムや経済活動に依存して成立しているので、経済システムが、個人の経済活動をすでに半分は、構成している(問いが答えの半製品であるのと同様である)。そこで、個人の収入の50%はシステムのおかげであると考えて、税率を50%とする(このばあい、システムの寄与分を40%としてもよいし、60%としてもよいかもしれない。このシステムの寄与分を計算する方法について何か提案がありましたら、ぜひ教えてください)。こうして得られた歳入によって、ベーシックインカムなどの歳出金額を決定するということになる。

 <完全に平等な税制+ベーシックインカム>の案には、先週の案や今週の案とは異なるものもありうるだろう。そして、現在の税制が、これらの案よりも合理的であるとする理由が、私には思いあたらない。税制については、すくなくとももっと根本的に問い直してみる余地がある。

14 <完全に平等な税制+ベーシックインカム>の検討 (20200915)

[カテゴリー:日々是哲学]

 日本の首相は、明日の国会で、安倍晋三から菅義偉に代わりそうです。菅さんには、消費税を減税したり廃止したりする意向はないようです。私は、消費税は逆進性が高いのの廃止すべきだと考えます。しかし、このようなことを言うと、常に消費税をどうするかは、消費税だけでなく、税制全体の中で考えなければならないという意見が出てきます。それに対しては、税制全体を考えなければならいのは当然であるが、全体を考えたとしても、その中で逆進性の高い税制が正当化されてはならないと考えます。

 しかし、ここで言いたいのは、そのことではありません。富裕層からは、所得税への高い累進課税に対する不満があります。それは自然な反応かもしれません。そこで富裕層からも全く不満をいえないような税制を提案したいとおもいます。それは個人の所得全体に対して一律の所得税率を課するということです。株などによる所得に分離課税などはしません。それでは平等な税制にならないからです。個人の総所得に一律の税率で所得税を課することに対しては、富裕層からも文句のいいようがないでしょう。直接税は廃止し、個人への税金はこれだけにします。(ただし、ガソリン税や酒税などをどうすべきかについては、悩ましいところです。これは税制によるある方向への経済活動の誘導のためであるので、別途考える必要があるかもしれないからです。)

 ただし、こうすると低所得層も富裕層と同じ税率の税金を支払うので、低所得層は生活できなくなります。そこで、低所得層でも健康で文化的な最低限度の生活ができることを保証するために、ベーシックインカムを導入します。(ベーシックインカムの額をどう決めたらよいのかについて、いま成案はありません。)いずれにせよ<ベーシックインカムに必要な資金+医療費、教育費+その他公共事業費、など>からの逆算によって、所得税の税率を決めることにします。おそらく税率はかなり高いものになるでしょう。この<完全に平等な税制+ベーシックインカム>を導入すると、現状に比べて最も不利になるのは、中間層になるでしょう。所得税率は、現在の中間層の税率よりもかなり高くなるだろうからです。その代わり、公的年金や国民健康保険は廃止するので、それらの負担はなくなります。ただし、それらの費用は、一律の所得税の中に含まれることになります。

 複雑な税制のために、全ての人がそれぞれに不満を抱えることになっているとすれば、このような単純な制度、不平を言うことが難しい制度を検討してみる価値があるとおもいます。

 (この税制は、単純な制度なので、多くの国が共有することが可能になります。その先にどのよなグローバル社会が見えてくるかは、これから考えます。)

 ひょっとすると、この案は大きな欠点を見落としているかもしれません。検討してくれる方がいればありがたいので、upします。

13 人類の理想の未来 (20200713)

[カテゴリー:日々是哲学]

 人類は、経済格差をなくして、全ての人が健康で文化的な生活をするために必要な科学技術を既に持っている、あるいは近い将来にそれをもつようにように思われる。したがって、この科学技術を用いて、全ての人が健康で文化的な生活ができるような社会システムを考えることが、人類にとっての重要な課題である。

 そのためには、全世界の人に、医療と教育を無償で提供し、住まいと食料を賄えるベイシックインカムを保証することが必要だろう。これによって、基本的人権と健康的な生活を保障できるだろう。

 現在の諸国家は、この理想を実現するために、互いに協力し合う必要がある。もしこの理想が実現するならば、諸国家が消えて世界共和国になるかどうかは、どちらでもよいように思われる。

 では、この理想を実現するために解決すべき問題には、どんなものがあるだろうか。(これについて何かコメントを頂けると嬉しいです。)

12 未来予測と問答 (20200712)

[カテゴリー:日々是哲学]

「○○は、これからどうなるのだろうか?」という形式の問いに答えることが未来を予想することである。前回例に挙げた「米中関係は、これからどうなるのだろうか?」「AIと人間の関係は、これからどうなるのだろうか?」などに答えることが、未来予測である。その場合の一つの方法について前回述べたとが、今回は、このような形式の問いとそれへの答えについて考察したい。

 「Aは、これからどうなるのだろうか?」という問いは、次のことを前提している。

  ・Aが存在すること、

  ・Aが未来永劫ではないとしても、ある程度の未来においても存在すること、

  ・過去、現在、未来、という時間の流れが存在すること、

この問いに答えることは、これらの前提を受け入れることあるいは質問者とこれらを共有することである。

 では、人が未来予測の問いを立てるのは何故だろうか? これに対しては、次のような理由が考えられる。

 (1) 知的な関心(理論的な関心)による

 (2) 実践的な関心による

 (2-1) 実践的な問いに答えるために、その未来予測を実践的推論の前提として使用する。

 (2-2) 実践的な問いに答えるために、未来予測にもとづいて、下位の問い(理論的問いや実践的問い)を立てる。

(2-2)の例

  PQ2「たくさんの観光客をまた集めるためにはどうすればよいのだろうか?」

     「コロナのワクチンは、いつ頃できるだろう?」(未来予測の問い)

     「ワクチンができるのは、早くても来年だろう」(未来予測)

  PQ1「ワクチンが完成してから、観光客が戻るまでの期間を短くするにはどうすればよいだ  

      ろうか?」

(あるいは、

  TQ1「ワクチンが完成してから、普及するまでにはどのくらいかかるだろうか?」)

このように、未来予測は、実践的な関心(実践的な問い)に答えるための前提となるか、実践的な問いを立てるための前提となる。

11 未来予想について考える一つの方法 (20200709)

[カテゴリー:日々是哲学]

 今日は息抜きです。

 哲学とは、普通よりもより深くより広く考えることだと思います。それは普通よりも一歩踏み込んで考えたり、一歩退いて考えたりすることです。一歩退いて考える方法の一つは、普通よりも長い歴史的なスパンの中で考えることです。というわけで、私は、人類の出現から始まり未来に伸びる人類の歴史についてトータルに考えてみたいと、つねづね思っています。多くの人が同じような願望を持っているだろうと推測します。

 しかし、人類の未来がどうなるかを予想することはほとんど不可能です。例えば、AIの進歩によって、社会がどう変化するかについて一つの予想を立てることは困難です。しかし、それでも2,3の可能性を想定することはできます。

 例えば、AIの未来について、次のような可能性を想定することができます。

  ①AIは、いずれ人間以上の知性を持ち、人間にとって代わるだろう。

  ②AIが人間のような知性になることは原理的に不可能であり、人間の脳を補助する役割にとどまるだろう。

  ③AIと人間の知性は、いずれ融合して、人工知能であることと自然知能であることを区別することが無意味になるだろう。

この3つの可能性はどれもまだ曖昧です。それぞれの可能性をより詳細に考えることによって、未来の可能性をより判明なものにしてゆくことができるでしょう。

 また例えば、中国の近未来についての、次のような可能性を考えることができます。

  ①AIや通信技術の利用による経済発展によって、中国共産党の一党独裁が持続する。

  ②外国資本が、中国から逃げて、ベトナム、タイなどの東南アジアの国にシフトすることによって、中国経済は衰退し、共産党一党独裁が終わり、自由主義国家になる。

この二つのシナリオ以外のものもありうるでしようが、とりあえずいくつかの極端なシナリオをせってして、その可能性をより詳細に考えることによって、未来の可能性をより判明なものにしてゆくことができるでしょう。また、それらのシナリオ中に、そうあって欲しいシナリオがあれば、そのためにどうすればよいのかを考えることも可能になります。

言いたいことは、<未来予測は難しいが、2,3のシナリオを想定して、それを詳細に考えてみることによって、未来予測となすべきことをより明確に考えることができるだろう>ということです。

10 太陽光はなぜ無色透明なのか (20200611)

[カテゴリー:日々是哲学]

「太陽光は、なぜ無色透明なのだろうか?」

 恒星が無数にあり様々な色をしている中で、私たちの太陽系の光がたまたま無色透明であった、ということは考えられないだろう。つまり、どの恒星の知的生物も、その恒星の光を無色透明と感じるのではないかと思われる。

原因1:すぐに思いつく答えは、サングラスを長時間していると、それが普通になって、青色であること忘れているのとどうように、太陽光も小さい頃からずっとその光のもとでものを見ているので、それが普通になって、色を感じないのである。

原因2:(この原因2は、原因1と両立するだろう。)人間の視神経は、太陽の光のもとで発生し進化してきた動物の視神経の進化の産物である。動物の視神経は、太陽光によって身体の周りの状態を認識するためにより適切なものへと進化してきた。そのときに、太陽光を無色透明と感じることが最も適切なのではないだろうか。なぜなら、もし太陽光を無色透明と感じないとすると、太陽光のもとで、認識が妨げられる対象が存在することになるように思われるからである(この点は、もうすこし詳細な論証が必要だろう)。そのような視神経は、生存のための適切性に関して劣る。このことは、人間だけではなく、他の動物の視覚についても同様であろう。

 この原因2の方は、もっと複雑な議論が必要になるだろう。人間は三色型色覚であるのに対して、二色型色覚(犬)、四色型色覚(鳥)の動物などは、その方が生存に有利だったのだろうとおもわれる。犬にとって、太陽光が無色透明なのかどうかわからない。人間にとっては、三色合わさって無色透明になるのかもしれないが、犬にとっては二色合わさって無色透明になるのかもしれない。これはクオリアの問題なので、物理学では決着のつかない問題かもしれない。というわけで、太陽は何故無色透明なのか、に答えるには、原因1と原因2だけでなく、クオリアの問題も考えなければならない。

このことは、視覚だけでなく、聴覚、触覚、味覚、嗅覚、についても同様であろう。

 「空気はなぜ無臭なのか?」

 「唾液はなぜ無味なのか?」

これらの問いに、色の場合と同じように答えることができるだろう。

09 狭い意味の非合理な答え (20200528)

[カテゴリー:日々是哲学]

前回、答えが合理的である場合には、次の3つあると述べた。

   ①真であるという意味での合理性

   ②正当化されているという意味での合理性

   ③適切であるという意味での合理性

①と②の問いの答えのなかには、推論によって得られるものがあった。しかし、推論の前提をさかのぼれば、いずれは推論によって証明したり正当化したりできない命題に行き着く。それは、知覚報告や記憶報告や伝聞であったりするかもしれない。これらについて、「05 合理な答えと非合理な答えの区別 (20200518)」では、次のように述べた。

「問いの答えが、知覚、記憶、伝聞によって得られる場合、その答えは、事実の記述である。事実の記述に関しては、合理的な答えがあるだろう。したがって、知覚による答え、記憶による答え、伝聞による答えは、(推論によって得られる答えではないが)合理的な答えとなりうる。」

ここで「事実の記述に関しては、合理的な答えがあるだろう」というのは、<知覚報告であれ、記憶報告であれ、伝聞であれ、それらが推論の結論ではないとしても、それらは真として受け入れられている他の命題と整合的でなければならない、その整合性を充たす限りにおいて、それは合理的な答えだと言える>という意味である。しかし、整合性を充たす候補が複数ある時には、その中から一つを選ばなければならない。そしてその選択は、推論によって証明したり正当化したりできないものである。

 価値判断の場合については、「06 問いの答えが事実の記述でない場合 (20200520)」において次のように述べた。

「認知主義であれ非認知主義であれ、似たような対象については(似たような状況では)、似たような価値判断をすべきであろう。したがって、価値判断については何らかの正当化があるはずだから、その答えは合理的である。」

ここで「価値判断については何らかの正当化があるはずだから、その答えは合理的である」と述べたのは、<価値判断は、推論の結論となっていないとしても、受容されている他の価値判断と整合的でなければならず、その整合性を充たす限りにおいて、それは合理的な答えだと言える>という意味である。しかし、ここでも、整合性を充たす候補が複数ある時には、その中から一つを選ばなければならないが、その選択は、推論によって証明したり正当化したりできないものである。

 事実判断や価値判断についてのこれらの選択ないし受け入れは、意識的な決断による場合もありうるが、気づいたときにはすでに受け入れているというものであるかもしれない(たいていは後者であろう)。意識的な決断によってある命題を受け入れる時には、問答によって、つまり「pを受け入れるか否か?」という問いに対して「受け入れよう」と答えることによって行われる。気づいたときに受け入れているというのは、このような問答を意識的には行わなかったということであって、問答がなかったということではないだろうと推測する。

 意識的な決断によって、あるいは無意識のうちに受け入れたこれらの前提は、①と②の意味での合理性を持たないし、その合理的な答えに矛盾するという意味の不合理性も持たない。この意味で、これらの前提は、非合理である。ただし、これらの前提は、③の意味の合理性はもつだろう。しかし、③の合理性だけでは、答えの内容の決定を説明するには不十分である。この意味で、これらの前提は、非合理である。

#「知性」と「理性」という語を、つぎのように使用することを提案したい。

私たちは、問いに対して推論で答える時と推論に寄らずに答える時がある。推論の能力を「理性」と呼び、問答能力を「知性」と呼ぶことにしたい。問いを理解すること、その答えとなる発話を行うことは、ともに知的な行為である。問答を含まない知的な行為は、考えられない。知的な行為は問答によって構成されている。問答の能力とは、適切に問いを立て、問いに適切に答える能力である。これに対して、問いに対して推論で答える能力は、「理性」だといえるだろう。動物は言語を持たないが、しかし動物もまた探索していると言える限りにおいて、動物もまた問答していると言え、その限りで知性を持つといってもよいだろう。

 非合理主義を取り上げ始めたときに、私が語り語ったことは、この知性と理性の区別である。

 非合理主義については、デイヴィドソンが論じた「意志の弱さ」や「自己欺瞞」、ポパーの「理性への非合理な信仰」に基づく「批判的合理主義」など、他にも重要な事柄があるが、思いのほか長くなったので、とりあえずここで閉じる。(デイヴィドソンは、心の分割によって「意志の弱さ」や「自己欺瞞」を説明したが、これについては、分人主義と関連付けて論じたい。ポパーの「理性への非合理な信仰」については、問答論的矛盾による超越論的論証と関連付けて論じたい。後者については執筆中の本が出版されたら、それを踏まえて論じたい。)

08 問いに対する答えが合理的であるとはどういうことか? (20200526)

[カテゴリー:日々是哲学]

{つぶやき:非合理性を一般的に、問いの答えの性質として理解できるということを示したたかっただけなのですが、非合理な答えを、合理的な答えに矛盾する不合理なものと、合理的な答えと矛盾しない非合理なもの(狭い意味の非合理なもの)に区別してから、なかなか「狭い意味の非合理な答え」の具体例に辿りつかなくて長くなってしまっています。}

 問いに対する答えが、正当化と無縁であるとしても、適切/不適切の区別を持つとしたら、適切な答えは、合理的だといえるだろう。

 では、問いに対する答えが適切であるとは、どのような場合だろうか。

 <問いに適切に答える>ことは、少なくとも次の二つを意味するだろう。

 第一に、ある発話が、意味に関して、問いに対する答えとなっていること、を意味する。

 例えば「あなたは何を食べますか」という問いに、「彼はそばを食べます」とか、「私は学生です」と応答することは、問いへの答えになっていない。寿司屋さんに入って「何にしますか」と問われて「天津飯をください」と答えることも不適切である。(最後の寿司屋の例は、意味に関して不適切なのか、事実に関して、不適切なのか迷うところである。この不適切性は、問答が行われる状況に依存しているが、意味と状況を分離しないならば、この不適切性は、意味に関するものである。このように曖昧な事例はあるかもしれないが、おおよそ、答えの適切性を、意味に関する適切性と、事実に関する適切性に、分けることができる。)

 この条件を充たさない答えは、そもそも答えであるとは言えない。したがって、不合理な答えでも狭い意味の非合理な答えでもない。

 第二に、問いQ1には、より上位の目的(より上位の問いQ2に答えること)があり、Q1の答えA1が、より上位の目的の実現に役立つものになっていること、を意味する。

 例えば、飲食店で「何にしますか?」と問うとき、店員は、注文をとって、それを作って、提供して、お金をもらう、という目的を持っている。それゆえに、お店に天津飯がないときに、「天津飯をください」と言われても、店員のより上位の目的を実現することはできない。この答えは、不適切です。お店に天津飯があれば、この答えは適切です。

 問いの答えが上の二つの意味で適切であるとき、その答えは、合理的だと言えるでしょう。

 これまで述べた問いの答えの合理性には次の3種類がありました。

   ①真であるという意味での合理性

   ②正当化されているという意味での合理性

   ③適切であるという意味での合理性

 これらに対応して、次の三種類の不合理性があります。

   偽であるという意味での不合理性  

   間違って正当化されているという意味での不合理性

   不適切であるという意味での不合理性

 問いの答えが合理的である場合と不合理である場合を、このように3種類に区別できるとするとき、問いの答えが、「不合理性」とは異なる「狭い意味の非合理性」を持つ場合は、あるのでしょうか。それはどのような場合でしょうか。