65三木さんへの回答(6) 問答論的超越論的論証の背後にある思想的ひろがり(20211221)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

三木さんの後半の質問(2)は「問答論的超越論的論証」についてのものです。これは3つに分かれています。まず一つ目から答えたいと思います。

2(A):この背後にはどのような思想的な広がりがあるのか?

この質問の説明は短いので再掲します

「この章で入江さんはコミュニケーションの超越論的条件や、とりわけおよそコミュニケーションを可能にす

るための倫理的な条件を探求している。これは個々の意味論的、語用論的な現象を説明するというのとは、次

元の異なる試みであるように思われて、興味を引く。勝手な想像だが、ここには単に「言語現象を説明して終

わり」に尽きない、何らかの目論見があるのではないか? 何かもっと大きな目標があったうえでのコミュニ

ケーションを可能にする条件の探求なのではないか? もしそうしたものがあるなら、教えてほしい。」

「第四章 問答論的超越論的論証」では、コミュニケーションが可能になるための必要条件、いいかえると問答が可能になるための必要条件を、問答論的矛盾を避けるための必要条件として説明することを試みました。『問答の言語哲学』につづいて、その成果を、認識、実践、社会問題へと展開していく予定なのですが、認識も実践も社会も、問答ないしコミュニケーションによって成立しているとすれば、問答が可能になるための超越論的条件は、認識や実践や社会の成立の超越論的条件にもなるだろうと思います。これが、この第4章の議論の背後で私が想定している「思想的な広がり」だといえるものです。

64 三木さんへの回答(5) 形式意味論に対するブランダムの批判(20211220)

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・Fodor and LeporeとBrandomの間に次のような論争があることがわかりました。

1,Fodor and Lepore からのBrandomへの批判1:

Brandom’s Burdens: Compositionality and Inferentialism

Jerry Fodor; Ernie Lepore, Philosophy and Phenomenological Research, Vol. 63, No. 2. (Sep., 2001), pp. 465-481. (この論文は後に、Fordor and Lepore, The Compositionality Papers, Oxford U.P., 2002 に収録されています。)

2,Brandomからこの批判への応答

Brandom, Inferentialism and Some of Its Challenges,in Philosophy and Phenomenological Researh, vol.74-3(2007), pp.651-676. (この論文は、Weiss,B. & Wanderer, J. (2010)(eds.) Reading Brandom, Routledge, 2010、に収録されています。)

3,Fodor、Lepore からBrandomへの批判2

Fordor, J. & Lepore, E.(2007)“Brandom Beleaguered” in Philosophy and Phenomenological

Researh, vol.74-3, pp.677-691. (この論文も、Weiss,B. & Wanderer, J. (2010)(eds.) Reading Brandom, Routledge, 2010、に収録されています。)

4,Brandomからこの批判への応答

Brandom, R.(2010) ʻReply to Jerry Fodor and Ernest Leporeʼs Brandom Beleagueredʼ in

Weiss,B. & Wanderer, J. (2010)(eds.) Reading Brandom, Routledge, 2010.

(あるいは、この後も両者の間で応酬があるかもしれません。)

この論争をはじめからチェックするには時間がかかりそうです。三木さんへの回答から離れてしまいそうなので、ここでは要点だと思われる点だけを、上記の4と、『プラグマティズムはどこから来て、どこへ行くのか』から紹介します。

 上記の4で、ブランダムは、FodorとLeporeの「形式意味論」を「哲学的意味論」の立場から批判します。ブランダムは、FodorとLeporeがが、意味論と認識論を峻別することに賛同しますが、しかし「意味についての議論から、理解の考慮を取り除くこと」には反対し、次のように言います。

「Fodor とLeporeと異なり、私は意味と理解が連係した概念であるという点でダメットに同意する。これらの一方を他方を理解することなく理解することは出来ない。この関係は、私たちが形式意味論のプロジェクトを追究するときには、無視される。」(Brandom, R.(2010) ʻReply to Jerry Fodor and Ernest Leporeʼs Brandom Beleagueredʼ in Weiss,B. & Wanderer, J. (2010)(eds.) Reading Brandom, Routledge, 2010. 332)

意味と理解を分けられないということが、ブランダムによる形式意味論に対する批判です。彼は、同様のことを『プラグマティズムはどこから来て、どこへ行くのか』でも述べています。

「意味についての語りなるものは、意味を把握する、あるいは理解するとはどのようなことか、ということについての語りと分断されてしまっては無益なのである。マイケルダメット、ドナルド・デイヴィドソン、クリピン・ライトらは、意味についての思想の中心にこの原理をおいた言語哲学者だ。もしこれを受け入れるならば、意味論は広い意味での認識的問題と分離不可能な仕方で結びつくことになる。」(ブランダム『プラグマティズムはどこから来て、どこへ行くのか』加藤隆文、田中凌、朱喜哲、三木那由他訳、勁草書房、下巻、171) 

これに対して「ジェリー・フォーダーは、この〔広い〕意味で認識的な問題と、本来の意味で意味論的である関心との混ぜ合わせを、現代の心の哲学、言語哲学における大悪だとみなしている。」(同所)

わたしも、意味と理解を分けられないというダメットやブランダムに賛成です。それゆえに、前回、形式意味論において、語句の意味をどのように設定するのかを問題にしたのです(ただし、ブランダムは、認識論を慎重に避けようとしているので、私の前回の議論にブランダムが賛同するかどうかは、わかりません)。FodorやLeporeがブランダムのこの議論にどう応答するのか大いに気になるところです。FodorとLeporeからのBrandom批判は、問答推論的意味論にも、そのまま当てはまりそうなので、この論争については、別途詳しく検討した方がよさそうです。

  次に、三木さんの後半の質問に答えたいと思います。

63 三木さんへの回答(4)(問答)推論的意味論で何ができるのか (20211218)

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「(問答)推論主義的意味論を意味論の方針として採用したとき、いったい意味論の研究者はどういう研究をすることになり、またそれによって言語についてどのような知識が得られることが期待されているのだろうか?」

(私は、ブランダムは「推論的意味論」と言い、「推論主義的意味論」とは言わないと思っていたのですが、朱さんが紹介してくれた論文 ‘Reply to JERRY FODOR and ERNEST LEPORE’s “Brandom Beleaguered” in Reading BRANDOM のなかで使用していました。) 

推論的意味論によって可能になることの一つは、<語や文を理解するときに、私たちが暗黙的に想定している(それらの表現に関わる)実質推論の能力を明示化する>ということです。ただし、暗黙的な実質的推論の明示化の作業を個々の語や文について行うということではなく、いくつかの事例を示して、必要に応じてが人々がそれを行えるようにするということだとおもいます。

推論的意味論によって可能になるもう一つのことは、形式意味論に、適切な出発点となる「モデル」を提供するということではないでしょうか。三木さんによれば、形式意味論は、基本的にモデル論的であり、そこでの研究目標はおおむね「関連する語彙項目に集合論的対象をうまく割り当てることで、ターゲットとなっている現象を集合論レベルで再現する」ことです。では、ある語彙に対象のある集合を割り当てるとき、「うまく割り当てる」ことができているかどうかをどうやって判断するのでしょうか。人工言語ならばその割り当てを「定義」とみなすこともできますが、日常言語の意味論を考える時には、その判断を行うには、私たちの日常でのその語彙の使用に一致するかどうかを見るのだと思います。そして、日常でのその語彙の使用法を明示化しようとするときに、その語彙を用いた文の上流推論や下流推論を明示化しているのだとすると、最初のモデルの設定の段階で、暗黙的に(問答)推論的意味論を利用しているということにならないでしょうか。

ある語彙をもちいた文の実質推論を基盤にして、それから比較、代入、抽象などの操作(この操作もまた(問答)推論になっています)によって、語彙の意味についてのモデル論的な説明が成立すれば、それから出発して、形式意味論が目標とするような、文の合成や文の意味の説明が可能になるとおもいます。

推論的意味論は、発話の意味を理解するときに、上流推論と下流推論の両方を理解する必要があると考えます。主張可能性意味論は上流推論のみを考えている点で不十分であり、プラグマティズムは下流推論のみを考えている点で不十分だといいます。(形式的意味論が真理条件意味論を採用するとすれば)真理条件意味論は、「「p」は真である」の同値文を示すので、それは上流推論にも下流推論にもなりますがしかし、その同値文は、「「p」は真である」の一部の上流推論と下流推論だけを示しており、多くの上流推論や下流推論を考慮していません。ブランダムならば、この点が不十分だというでしょう。

ブランダムのこの主張を継承して、私は、疑問文の意味論に関しても、上流問答推論と下流問答推論を考慮することが必要だと考えています。現在の疑問文についての意味論は、命題集合説と関数説に分かれており、どちらの説も、疑問文の問答下流推論だけを考慮するものであって、不十分だと説明しました(『問答の言語哲学』の1.2.2.3)。三木さんが紹介されたCiardelli, Groenendijk & Roelofsen のInquisitive Semantics(2019, Oxford Univeristy Press)は、命題集合説のなかの新しい試みのようです。したがって、やはり問答下流推論だけを考慮していると言わざるをえません。ただし、この本は、疑問文の意味論だけでなく、「平叙文と疑問文の統合理論」をつくる試みのようで面白そうです。

 

次に、私にとっても重要そうなので、形式意味論に対するブランダムの批判を見ておこうと思います。

62 『問答の言語哲学』の合評会の動画のご案内(20211217)

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先日(20211123)の『問答の言語哲学』の合評会の動画がすでにupされていました。

リンク先は以下の通りです。全体は、二部に分けてupされています。

一部(『問答の言語哲学』の説明(入江)と朱さんの質問とそれへの応答。)

第二部(三木さんの質問とそれへの応答)

三部(フロアからの質問とそれへの応答) (この動画が抜けていたのでおぎないました。)

ご覧くだされば、うれしいです。

61 三木さんへの回答(3) 語句へのコミットメントとは何か? (20211216) 

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次のご質問「1(B): 語句へのコミットメントとは何か?」に答えたいと思います。

『問答の言語哲学』では、三木さんが言うように、コミットメント概念が文未満表現の使用に関する説明にも用いています。「これ」や「Xさんの車」や「赤い」による対象の指示や性質の表示を、コミットメント概念をもちいて説明しています。これについて、三木さんは次のように質問します。

「入江さんは文レベルの発話へのコミットメントは1(A) で述べたような説明を与えているものの、語句レベルのコミットメントについての説明は特にしていなかったように思う。そこで仮にこれらが同じ意味合いで用いられていると仮定しよう。すると「「これ」を使用したならば、「これ」である対象を指示するということについて、その根拠を説明する用意がある、ということになるだろう。」「しかし、一般的に言って、そのような用意を私たちは会話において持っているだろうか?」

 私は、暗黙的には、その根拠を説明する用意があると思います。朱さんの質問への回答に書きましたように、文未満表現の理解と使用も、文の理解と使用も、ともに問答推論関係において成立し、明示化されると考えますので、文未満表現の使用へのコミットメントも文の使用へのコミットメントも、問答推論へのコミットメントによって説明されるものであり、その限りで同種のものだと考えています。より具体的には次のようになります。

 発話の意味を理解するとは、上流と下流の問答推論の正しものと正しくないものを判別できる能力を持つことであるのと同様に、語句の意味(使用法)を理解するとは、それらの語句をもちいた問答ができること、言い換えるとそれらの語句を用いた問答(問答推論)の正しいものと正しくないものを判別できる能力を持つことだといえるだろうと思います。また、実際にその語句を使用すること(つまりその語句によって現実の文脈において対象や性質や関係を指示ないし表示すること)にコミットすることは、それらの語句をもちいた問答ができること、言い換えるとそれらの語句を用いた問答(問答推論)の正しいものと正しくないものを判別できる能力を持つことだといえるだろうと思います。このことは、文未満表現についても、(暗黙的には)使用の根拠を説明する用意がある、ということだと考えます。

これに関連して、三木さんから次の質問がありました。

「ところで、語句レベルのコミットメントとして、「指示するということへのコミットメント」といった語り

かたを取り入れるのは、ブランダムの反表象主義の立場とは異なる見方であるように思える。入江さんが指示などの表象主義的概念についてどういった見解を採用しているのかも訊いてみたい。」

指示するということは、ある語である対象を指示するという関係ですが、これが成り立つためには、例えば、「語Xでどの対象を指示しているのか」と問われたときに、「XでYを指示しています」と言うように答えられる必要があります。このとき、「X」と「Y」は同一対象を指示する異なる表現です。このような「Y」がなければ、「X」で特定の対象を指示することは出来ません。ある語句である対象を指示するためには、指示対象が同じで意味が異なる二つの表現が必要なのです。また必要に応じてこのような問答ができることが必要なのです。語による対象の指示は、語と対象の二項関係ですが、この二項関係が成立するには、他の語や、それらの語を使用した問答が成立しなければなりません。ある対象を指示したり、それについて何かを述定したりすることは、このような問答関係の中で成立します。このように考える時、素朴な表象主義が考えている二項関係(たとえば、パトナムが揶揄しているように、指示光線のようなもの)を有意味な仕方で理解することは困難です。

ある語句である対象を指示するということを、語句の概念内容(心的内容)を対象そのものや対象についての心的表象と結合するとして説明することできません。なぜなら、それが理解不可能だからです。オースティンが言ったように、語「リンゴ」の定義と対象<リンゴ>の定義は、同時にしかできないからです。これは一般名の場合ですが、指さし行為をともなう「これ」である対象を指示することがありますが、そのときに「これ」で指示されている対象を世界の中から取り出すことは、「これ」による指示の前には不可能です。もしそれができているとすれば、その対象は、その前に、別の言語表現を用いて取り出されているのだとおもいます。

現代の有力な知覚論であるギブソンのアフォーダンス論、ノエのエナクティヴズムでも、知覚表象というものを認めません(これについてはカテゴリー「問答の観点からの認識」(17~20回)で説明しました)。したがって、対象について「それはハエだ」とか「それは赤い」と知覚報告をするときにも、それを、知覚表象について報告、あるいは知覚表象を介する報告として説明することは困難です。(ただし、私はローティによる近代の表象主義的認識論への批判には賛成しますが、反表象主義的な認識論の可能性が残っていると考えています。認識を、事実に対応した命題を獲得することと考えずに、問答として考えます。事実については、問いを入力とし、答えを出力とする関数として考えています。)

60 三木さんへの回答(2)  「コミットメント」とは? (20211213) 

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

まず三木さんの質問1(A)「「コミットメント」とは?」に答えたいと思います。三木さんは、コミットメントに関連して、次の3つの問いを上げています。

 「なぜコミットメントを説明責任に局限するのか」

 「コミットメント概念をほかの仕方でなくこの仕方で解釈すべき理由や解釈したい理由があるなら伺ってみたい」

 「なぜ遂行責任を含むような幅広いコミットメント概念ではなく、説明責任へと限定した形でこの概念を用いるのだろうか?」

 合評会でも述べましたが、何かにコミットすることとは、常に、何かを選択することであると考えます。(ただし、動物も選択すると言えるでしょうから、これの逆は言えません。つまり何かを選択することが直ちに、何かにコミットすることではありません。)さらに、何かにコミットすることは、単に何かを選択することではなく、その選択に責任が伴うような選択をすることであると考えます(尤も、人間が行う選択は、つねにその選択に責任が伴うような選択であるかもしれません)。この場合、選択に伴っている責任とは、何でしょうか。

 第一に、「なぜそれを選択したのか」についての説明責任です。第二に、その選択からある義務が帰結するのならば、その義務を引受ける責任があると思います。例えば、その選択からある履行の義務が生じるとすれば、その履行義務を引受けることが選択に伴う責任に含まれると思います。

 一般的に、履行義務(履行責任)があるとは、履行した場合もしない場合も、それについての説明責任があるということだといえるでしょう。なぜなら、「責任(responsibility)」とは、かつて大庭健が強調したように、応答可能性であり、応答の責任、つまり説明責任だからです。(たとえば、政治家が、或ることについて自分に責任があると言ったならば、それについての、またその結果についての説明責任が生じます。)

 発話へのコミットメントに話しを限るとき、ある発話へコミットするとは、その発話の上級問答推論と下流問答推論にコミットすることです。そして、それはこれらの問答推論についての説明責任を引受けることだと考えます。

 以上の説明が、上記の3つの問いに対する答えになるだろうと思います(個別に答えようとすると、重複が多くなってしまうので、このような答え方になりました)。上記の説明をさらに短く次のようにまとめられると思います。

<コミットメントとは、責任をもって選択することであり、それゆえに、コミットメントには、その上流推論や下流推論に関する説明責任がともなう。>

三木さんは「説明責任」に関連して、次の質問もしていました。

「あるひとがある主張をする。そのひとはしかし、その主張の根拠を問われても、答えることはできない。そのひとはただ「自分はそれが正しいと信じている」、「ただそうすべきだと思うのだ」といったことを言うだけなのだ。だがそのひとは確かに、自分が主張していることに従った行動をし続けている。こうした場合に、このひとは自身の発言にコミットしているのだろうか、していないのだろうか?」

私は、人が何かを信じるならば、明示的に根拠を語ることができないとしても、何らかの根拠があると考えます。したがって、そのような場合にも何らかの上流推論があるだろうと考えます。しかし、それを本人が明示できないことはあるでしょう。そのような場合でも、人は発話にコミットしており、発話に対しての責任が生じると思います。つまりその発話から帰結する下流推論の結論にコミットする責任があると考えます。

三木さんは「説明責任」に関連して次のような危惧を述べています。

「社会的マイノリティが被る害や不都合に理由を訊ね、正当化を求めるという実践は、しばしば足を退けるのを後回しにするための言い訳として機能している」また「社会的マイノリティが経験する差別やさまざまなマイクロアグレッションについては、しばしばそれが害や不都合をもたらしていることはわかるが、それをマジョリティにわかる仕方で説明することが困難である」。

これらの危惧を、<マイノリティが異議をうまく言葉にできないこと>、また<異議を言葉にしても、マジョリティがそれを理解できないこと>とまとめておきます。この危惧にもとづいて、三木さんは次のような危険性を指摘します。

「もしも(1) コミットメントを伴う発話こそが誠実な発話であると想定し、かつ(2) コミットメントとは説明責任であるとしたならば、社会的マイノリティからの「足を踏まれている」タイプの問題提起が全体として不誠実なものと見なされる可能性があり、ある種の政治的帰結を持つことになるのではないか。」

つまり、この(1)と(2)の前提に、上記の危惧<マイノリティが異議をうまく言葉にできないこと>あるいは<異議を言葉にしても、マジョリティがそれを理解できないこと>という前提が加われば、「社会的マイノリティからの「足を踏まれている」タイプの問題提起が全体として不誠実なものと見なされる可能性があり、ある種の政治的帰結を持つことになる」ということが帰結するということです。

この懸念は重要ですが、そのとき重要になるのは、前提の(1)(2)の見直しというよりも、追加される前提<マイノリティが異議をうまく言葉にできないこと>あるいは<異議を言葉にしても、マジョリティがそれを理解できないこと>ということが成り立たないようにすることであり、そのためにはその状況について問答を重ねるしかないだろうとおもいます。ここでは、社会の中でのコミュニケーションのメカニズムの分析が重要になります。『問答の言語哲学』では、第三章で差別発言について少し考察しましたが、社会関係の中でコミュニケーションの分析には、立ち入っていません。(それについてはいつか『問答の社会哲学』(仮題)で論じたいと思います。)

59 三木さんへの回答(1) 三木さんの質問の要約 (20211213) 

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

三木さんの質問資料は、以下にupされています。

https://researchmap.jp/nayutamiki/presentations/35803115

三木さんの質問は大きくは二つに分かれています。質問1は、「(問答)推論主義のプロジェクト」に関するもので、質問2は「問答論的超越論的論証」に関するものです。

質問1:(問答)推論主義のプロジェクトについて

この質問は、ブランダムの議論にも向けられた質問で、3つの質問に分かれています。

1(A):「コミットメント」とは?

「コミットメント」を説明責任として理解することは狭すぎるのではないか、例えば遂行責任も含まれるのではないか?

1(B):語句へのコミットメントとは何か?

「「指示するということへのコミットメント」といった語りかたを取り入れるのは、ブランダムの反表象主義の立場とは異なる見方であるように思える。入江さんが指示などの表象主義的概念についてどういった見解を採用しているのかも訊いてみたい。」

1(C):(問答)推論主義的意味論について

「(問答)推論主義的意味論を意味論の方針として採用したとき、いったい意味論の研究者はどういう研究をすることになり、またそれによって言語についてどのような知識が得られることが期待されているのだろうか?」

質問2:問答論的超越論的論証について

2(A):この背後にはどのような思想的な広がりがあるのか?

「言語現象を説明して終わり」に尽きない、何らかの目論見があるのではないか? 何かもっと大きな目標があったうえでのコミュニケーションを可能にする条件の探求なのではないか? もしそうしたものがあるなら、教えてほしい。」

2(B):問答論的矛盾とは何なのか?

「問答論的に矛盾しているというときの矛盾とは何なのか、そしてそれに関わっていると思われる「文字通りの意味」とは何なのかということを伺いたい。」

2(C):規範的超越論的条件はどのように導出されているのか?

「問答論的矛盾という概念が特にうまく掴みにくくなるのは、規範的超越論的条件の導出に関する議論においてであった。」

次からこれらに順番に答えたいとおもいます。

58  朱喜哲さんへの回答(9)朱さんの「提案」について (20211212)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

朱さんは、問答主義と推論主義は両立しないとみなし、『問答の言語哲学』では、語の意味から文の意味を説明する「合成的意味論」と文の意味から語の意味を説明する「推論的意味論」が混在していると見なします。そこで、「問答主義」をメタ意味論として、そのもとで、合成的意味論と、推論的意味論の両方を使い分ければよいのではないか(あるいは、すでにその方向をとっている)という提案をしています。

 たしかに、『問答の言語哲学』は、2.1では、語句の意味を「真理条件意味論」ないし「合成的意味論」で説明し、1.2では、ある種の語彙の意味(論理的語彙、疑問表現の語彙など)や文の意味を「推論的意味論」で説明し、二つを使い分けている、と見られても仕方がないところがありました。

 しかし、『問答の言語哲学』で暗黙的に目指していたことを、朱さんの質問に答える中で前回、明示化できました。それは<意味の原子論と命題主義的全体論の対立問題を棲み分けによって解決するのではなく、その対立問題を問答推論的全体論によって解消する>というプログラムです。(この場合、朱さんが想定していた、ゲリマンダリング問題は生じません。二種類の言語表現の区別が解消するからです。)

 合評会でお答えしたように、問答推論主義は、ブランダムの「推論主義」のフルパッケージ(推論的意味論+規範的語用論)を採用し、それを拡張することを意図するものです。

 もし、私の主張とブランダムの主張の間にズレがあるとすれば、それは言語の中心部(downtown)の内部にあります。ブランダムは中心部を次のように説明します。

「プラグマティックな合理性は、言語が中心部をもつという見解である。その中心部は、主張をし、主張の理由を与え求めることからなる。」(BSD, 43)

この中心部には、「主張」と「その理由を与え求めるゲーム」があります。後者は問答推論になると思いますが、この問答推論よりも「主張」を先行させるのがブランダムです。それに対して、私は主張よりも問答推論が先行しており、主張は問いに対する答えとして成立すると考えています。

 次に三木さんからの質問に答えたいと思います。

57  朱喜哲さんへの回答(8)原子論と全体論の対立を「問答推論」で無効化する (20211209)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

前回述べたように、ブランダムは、カントにならって、命題を意味の単位と考えました。その理由は文(命題)の発話によって発話行為が可能になるからであり、言い換えると現実へのコミットが可能になるからです。私もまた、文未満表現の発話ではなく、文の発話が現実にコミットすることになると考えます。その理由は、文が意味を持つのは問いに対する答えとしてですが、問いに対して答えるときに、その答えにコミットすることになるからです。したがって、正確に言うならば、命題が意味の単位となるのではなく、問答が意味の単位になります。また文の発話が現実にコミットするのではなく、問答が現実にコミットします。文の発話が発語内行為を行うのではなく、相関質問への返答が発語内行為を行います。コミットメントがあるところには、明示的な問答がなくても、暗黙的な問答があります。

 『問答の言語哲学』は、ここまで明示的に語っていませんでしたが、その準備はおこなっていました。

 「2.1.3.1 語句のみ内容の理解とコミットメント」(90~101)では、文を構成する語句の意味内容の理解とコミットメントが、命題の中ではなく、問答の中で明示化され、成立することを説明しました。「2.1.3.2 命題内容の理解と問答によるコミットメントの結合」(101~104)では、命題は、相関質問との関係で明確な意味を持つのであり、命題内容は、問答において成立し、その命題内容へのコミットメントもまた、問答関係において成立することを説明しました。この二つの事柄(命題内容とそれへのコミットメント)は密接に結合しており、それはサールがすでに示唆していたことにも触れました。

 以上のように、「2.1.3」で説明しようとしたことは、語句の意味とその使用のコミットメントも、文の命題内容とそれへのコミットメントも、いずれも問答関係の中で生じるということです。(ただし、この問答関係もこれだけで完結しているのではなく、他の問答へとの関係の中で成立します。)

 文の合成性をめぐる原子論と全体論の論争は、<語句の意味から文の意味が合成される>と考えるか、<文の意味がまず成立して、それからの抽象によって、語句の意味を理解できる>と考えるか、という立場の論争でした。原子論にとっては、語句の意味からどうやって命題が合成されるかを説明することが難問でした。なぜなら語句の意味を集めても、それだけでは命題を構成することにならないからです。例えば、なぜ語句の意味の集まりが、真理値や主張可能性を持つことになるのかを説明することができないからです。後者にとっては、語を組み合わせて新奇な文を作れることや、語の意味の変化や、語の学習を説明することが難問でした。

 これに対して私は、<語句の意味も文の意味もそれらへのコミットメントもともに、問答の中で成立する>と言えるだろうと思います。

 語句を使ってなされるのは問答であるとすると、語句の意味(使用)やそれへのコミットメントは、問答によって明示化され、成立することになります。それが、命題への意味やコミットメントから抽象される場合にも、その過程を精細にみれば、それが問答推論によって行われいることが分かります。例えば、「ある文pの中の表現AにBを代入すると、文の意味が変化するかどうか、変化するとすれば、どう変化するか」、「そのとき、文の真理値が変化するかどうか、変化するとすれば、どう変化するか」などの問答を繰り返して、表現Aの意味を明示化していくことになります。

 他方、命題の意味が、語句から合成されるとしても、その合成は、それらの語句を用いた問答によって行われます。その合成は、問答推論によって行われるのであり、命題の意味は、それを合成する問答推論(上流問答推論)と、その命題を前提にして他の命題を合成する問答推論関係(下流問答推論)によって構成され、明示化されます。<命題の意味を語句の意味から合成すること>と<命題の意味を推論関係によって明示化すること>は、精細にみればどちらも問答推論によって行われています。

 朱さんの指摘は、この「2.1.3.2」で合成性の問題をコミットメントの結合によって解こうとした点を取り上げたものでした。確かに、文未満表現の理解とそれへのコミットメメントの問答による結合によって、命題の理解とそれへのコミットメントを説明したことは、コミットメントに関する要素主義であるように見えてしまうので、説明不足でした。(ご指摘によって、これまでおぼろげに考えていたことを、今回明確にできたことに感謝します。)

ご指摘へのこのような応答は、ブランダムの意味の全体論を批判しているように見えるかもしれません。ただし、上記の問答推論による語句や文の意味の説明それ自体は、全体論的です。「原子論と全体論の対立を問答推論で無効化する」という今回の見出しは、「原子論と全体論の旧来の対立を問答推論で無効化する」とするのがより正確です。これは、新しいタイプの意味の全体論を提案するものとなっています。

 問答推論主義による意味の全体論は、ブランダムによる推論主義による意味の全体論とも両立するだろうと思います。この両立可能性について、次の点を補足しておきたいと思います。

#「理由を与え求める言語ゲーム」=「理由に関する問答」

ブランダムは、「理由を与え求める実践(practice of giving and asking for reasons)」や「理由を与え求めるゲーム(game of giving and asking for reasons)」という表現をMIEでもBSDでも多用します。例えば、つぎのように言います。

「言語ゲームは、理由を与え求める実践を含まなければならない。」(BSD, 43)

「プラグマティックな合理性は、言語が中心部をもつという見解である。その中心部は、主張をし、主張の理由を与え求めることからなる。」(BSD, 43)

この「理由を与え求めること」とは「理由に関する問答」に他ならないでしょう。従って、ブランダムは、問答を言語の中心部においているのであり、問答主義ないし問答推論主義と、ブランダムの推論主義が両立しないということはありえないだろう、と考えます。また、問答や問答推論に注目することで、ブランダムが「理由を与え求める実践」と呼んでいたものをより精細に分析できると考えます。

 次に、朱さんからの「提案」について、考えたいとおもいます。

56  朱喜哲さんへの回答(7)「合成性」ではなく「回帰性」(20211207)

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(最初のupのあと「考案性」を「考案可能性」に修正しました。)

(おそくなってすみません。田舎(丸亀)から奈良に戻ってきました。)

ここから最後のご指摘に応答したいとおもいます。

(5)朱さんは、脚注8で、「推論主義ならば扱わなくてよい課題」の典型が「合成性の説明」であると指摘する。その理由は、ブランダムがBrandom(2010), p.336.で述べているという。

この指摘もまた私にとって非常に啓発的でした。確かに私は『問答の言語哲学』の2.1.3.2で、命題の意味の「合成性」を証明しようとしました。そして、それはブランダムが採用する「意味の全体論」では、不適切な問題設定となるように思われます。そうすると、問答主義と推論主義は異質であるということになるかもしれません。

 まずは、ブランダムが「合成性」について、どう考えているのかを確認したいとおもいます。朱さんが言及しているブランダムのFodorとLeporeに対する応答の文章(Brandom, R.(2010) ʻReply to Jerry Foder and Ernest Leporeʼs Brandom Beleagueredʼ in Weiss,B. & Wanderer, J. (2010)(eds.))を読んでみました。

 それによると、Fodor とLeporeは、<言語の考案可能性(projectibility、これはおそらく、無限の文を考案できることだとおもいます。「考案可能性」がよい訳語だとは思わないのですが、他に思いつかないのでこうしました。すでに何らかの定訳があるかもしれません)、体系性、学習可能性は、合成性を前提し、合成性は意味論的原子論を要求する>と考えます。これに対して、ブランダムは、考案可能性、体系性、学習可能性を説明するのに、「合成性」は不要であり、「回帰性」で説明できると指摘します。

 ここでの議論の中心部分は、ブランダムがBSD(『語ることと成すことの間』)の第5章(特に第6節)が語っていることでした。彼は、ここで、「回帰的であるけれども全体論的な意味論」(BSD, xiix)を提案します。この第6節のタイトルはまさに「意味論的全体論:合成性のない回帰的な考案可能性(recursive projectibility without compositionality)」です。

 彼はまず、「両立不可能性」という概念を用いて、「伴立(意味論的帰結)」と「否定」を次のように定義します。

・qと両立不可能なもの全てがpと両立不可能であるときに限り、pを、qを両立不可能性-伴立するものとして定義すること、

pの否定を推論的に最もよわい両立不可能なものとして、つまり、pと両立不可能なすべてのものによって、両立不可能性-伴立されているものとして理解すること」(BSD, 133)

さらにpの「可能性」や「必然性」もまた「両立不可能性」を用いて定義します(cf. BSD, 134)。

 

ここからブランダム、<これらの論理結合子を適用して作られる複雑な論理式の意味は、その部分論理式の意味からは合成されない>といいます。

「これらの結合子のための両立不可能性意味論は、合成的ではない。それは、[…] 全体論的意味論である。」(同所)なぜなら、「そこにおいてnot-p ないしnecessarily-p ないしpossibly-pと両立不可能であるものは、他の命題qと両立不可能であるものに依存している」(同所)からです。

このようにブランダムも言語の考案可能性、体系性、学習可能性を認めます。これらは意味の全体論を批判するときによく挙げられる論点です。これらは文の意味の「合成性」で説明されることが多いのですが、ブランダムは、文の意味を部分の意味から合成しません。ここでは、「両立不可能」という概念を回帰的に反復して使用することによって、しかも全体論的に、文の意味を説明します。

私の議論がこれとどう関係するのか、それについて、次回に説明したいとおもいます。