57  朱喜哲さんへの回答(8)原子論と全体論の対立を「問答推論」で無効化する (20211209)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

前回述べたように、ブランダムは、カントにならって、命題を意味の単位と考えました。その理由は文(命題)の発話によって発話行為が可能になるからであり、言い換えると現実へのコミットが可能になるからです。私もまた、文未満表現の発話ではなく、文の発話が現実にコミットすることになると考えます。その理由は、文が意味を持つのは問いに対する答えとしてですが、問いに対して答えるときに、その答えにコミットすることになるからです。したがって、正確に言うならば、命題が意味の単位となるのではなく、問答が意味の単位になります。また文の発話が現実にコミットするのではなく、問答が現実にコミットします。文の発話が発語内行為を行うのではなく、相関質問への返答が発語内行為を行います。コミットメントがあるところには、明示的な問答がなくても、暗黙的な問答があります。

 『問答の言語哲学』は、ここまで明示的に語っていませんでしたが、その準備はおこなっていました。

 「2.1.3.1 語句のみ内容の理解とコミットメント」(90~101)では、文を構成する語句の意味内容の理解とコミットメントが、命題の中ではなく、問答の中で明示化され、成立することを説明しました。「2.1.3.2 命題内容の理解と問答によるコミットメントの結合」(101~104)では、命題は、相関質問との関係で明確な意味を持つのであり、命題内容は、問答において成立し、その命題内容へのコミットメントもまた、問答関係において成立することを説明しました。この二つの事柄(命題内容とそれへのコミットメント)は密接に結合しており、それはサールがすでに示唆していたことにも触れました。

 以上のように、「2.1.3」で説明しようとしたことは、語句の意味とその使用のコミットメントも、文の命題内容とそれへのコミットメントも、いずれも問答関係の中で生じるということです。(ただし、この問答関係もこれだけで完結しているのではなく、他の問答へとの関係の中で成立します。)

 文の合成性をめぐる原子論と全体論の論争は、<語句の意味から文の意味が合成される>と考えるか、<文の意味がまず成立して、それからの抽象によって、語句の意味を理解できる>と考えるか、という立場の論争でした。原子論にとっては、語句の意味からどうやって命題が合成されるかを説明することが難問でした。なぜなら語句の意味を集めても、それだけでは命題を構成することにならないからです。例えば、なぜ語句の意味の集まりが、真理値や主張可能性を持つことになるのかを説明することができないからです。後者にとっては、語を組み合わせて新奇な文を作れることや、語の意味の変化や、語の学習を説明することが難問でした。

 これに対して私は、<語句の意味も文の意味もそれらへのコミットメントもともに、問答の中で成立する>と言えるだろうと思います。

 語句を使ってなされるのは問答であるとすると、語句の意味(使用)やそれへのコミットメントは、問答によって明示化され、成立することになります。それが、命題への意味やコミットメントから抽象される場合にも、その過程を精細にみれば、それが問答推論によって行われいることが分かります。例えば、「ある文pの中の表現AにBを代入すると、文の意味が変化するかどうか、変化するとすれば、どう変化するか」、「そのとき、文の真理値が変化するかどうか、変化するとすれば、どう変化するか」などの問答を繰り返して、表現Aの意味を明示化していくことになります。

 他方、命題の意味が、語句から合成されるとしても、その合成は、それらの語句を用いた問答によって行われます。その合成は、問答推論によって行われるのであり、命題の意味は、それを合成する問答推論(上流問答推論)と、その命題を前提にして他の命題を合成する問答推論関係(下流問答推論)によって構成され、明示化されます。<命題の意味を語句の意味から合成すること>と<命題の意味を推論関係によって明示化すること>は、精細にみればどちらも問答推論によって行われています。

 朱さんの指摘は、この「2.1.3.2」で合成性の問題をコミットメントの結合によって解こうとした点を取り上げたものでした。確かに、文未満表現の理解とそれへのコミットメメントの問答による結合によって、命題の理解とそれへのコミットメントを説明したことは、コミットメントに関する要素主義であるように見えてしまうので、説明不足でした。(ご指摘によって、これまでおぼろげに考えていたことを、今回明確にできたことに感謝します。)

ご指摘へのこのような応答は、ブランダムの意味の全体論を批判しているように見えるかもしれません。ただし、上記の問答推論による語句や文の意味の説明それ自体は、全体論的です。「原子論と全体論の対立を問答推論で無効化する」という今回の見出しは、「原子論と全体論の旧来の対立を問答推論で無効化する」とするのがより正確です。これは、新しいタイプの意味の全体論を提案するものとなっています。

 問答推論主義による意味の全体論は、ブランダムによる推論主義による意味の全体論とも両立するだろうと思います。この両立可能性について、次の点を補足しておきたいと思います。

#「理由を与え求める言語ゲーム」=「理由に関する問答」

ブランダムは、「理由を与え求める実践(practice of giving and asking for reasons)」や「理由を与え求めるゲーム(game of giving and asking for reasons)」という表現をMIEでもBSDでも多用します。例えば、つぎのように言います。

「言語ゲームは、理由を与え求める実践を含まなければならない。」(BSD, 43)

「プラグマティックな合理性は、言語が中心部をもつという見解である。その中心部は、主張をし、主張の理由を与え求めることからなる。」(BSD, 43)

この「理由を与え求めること」とは「理由に関する問答」に他ならないでしょう。従って、ブランダムは、問答を言語の中心部においているのであり、問答主義ないし問答推論主義と、ブランダムの推論主義が両立しないということはありえないだろう、と考えます。また、問答や問答推論に注目することで、ブランダムが「理由を与え求める実践」と呼んでいたものをより精細に分析できると考えます。

 次に、朱さんからの「提案」について、考えたいとおもいます。

投稿者:

irieyukio

問答の哲学研究、ドイツ観念論研究、を専門にしています。 2019年3月に大阪大学を定年退職し、現在は名誉教授です。 香川県丸亀市生まれ、奈良市在住。