55 朱喜哲さんへの回答(6)第三と第四の指摘について(20211203)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

まず第三の指摘に答えたいと思います。

(3)脚注5では、「すべての発話は暗黙的に依頼(質問)である」(『問答の言語哲学』197)という主張は、「~せよ」という発話を「~してくれませんか?」にパラフレーズ可能なものとにしてしまうため、「「規範性」の明示化というプログラムにとっては採用できない(かメリットのない)提案」であると指摘する。

前に合評会の準備のために書いた43回「第3章を振り返る (20211122)」で説明したのですが、

3.1.2.2では、質問型発話は、返答の発語内行為を決定しており、その意味で他の発語内行為とは全く異なる特異な発語内行為であることを説明しましたが、他方3.1.3では、全ての発話が質問の意味を持つことを次のように説明しました。「どのような発話であれ、聞き手がそれを受け入れてくるかどうかを問う暗黙的な質問になっている。この暗黙的な質問が、会話を継続させるように機能している。」(『問答の言語哲学』178)

 この二つは、前者の質問は発語内行為としての質問であり、後者の質問(全ての発話がもつ依頼や質問の働き)は「発語媒介行為の一部である」(197)、という関係にあります。従って、「〜せよ」「〜すべし」「〜せねばならぬ」等がすべて「〜してくれませんか?」にパラフレーズされるということはありません。確かに、「~せよ」や「~すべし」などの発話もまた、暗黙的に依頼(質問)であると考えます。しかしそれは「~せよ」が「~してくれませんか?」と同義であるということではありません。例えば、「校則を守れ」は、「校則を持ってくれませんか?」とか「校則は守るべきですか?」と同義ではありませんが、しかし、「校則を守れ」という発話が、同時に暗黙的に「校則を守らなくていいのですか?」「校則は守るべきではないですか?」などの問いを含みとして持つことは可能ですし、また現実にそうだと考えています。(例えば、朱さんの今回のご質問の中での個々の指摘も、暗黙的には質問になっているのではないでしょうか。)

 朱さんは、実質推論が修正に対して開かれていることを指摘されていました。私もまた「問答推論」が実質問答推論として成立すると考えており、その限りで、問答推論もまた修正に対して開かれていると考えています。推論やその結論が修正に対して開かれていることは、その発話が暗黙的に依頼(質問)になっている、ということだと考えています。この意味で、「すべての発話は暗黙的に依頼(質問)である」という主張は、ブランダムの「実質推論」の主張と両立するだろと思います。

 次に第四の指摘に答えたいと思います。

(4)脚注5では、問答主義では、知覚報告の扱いが、超推論主義になっていると指摘します。

まず、ブランダムによる「3つの推論主義」の区別を紹介します。

「弱い推論主義は、<推論的分節化が概念的内容の必要なアスペクトである>という主張である。」(『推論主義序説』前掲訳299、下線や< >は、入江の付記です。)

「強い推論主義は、<広い意味の推論的分節化が、概念的内容(その表象的な次元を含む)を決定するのに十分である>という主張である。」(同所)

「超推論主義は、<狭い意味の推論的分節化が、概念的内容を決定するのに十分である>という主張である。」(同所)

ブランダム自身は、「強い推論主義」を採用します。例えば、知覚報告は、何らかの前提からの推論によって導出されるのではなく、知覚から直接に帰結すると考えるのですが、しかし、その知覚報告は、知覚から直接に帰結するだけでなく、何らかの仕方で正当化される必要があります。その正当化を説明するのが、「広い意味の推論的分節化」です。これについて、次のように説明しています。

「広い意味の推論的分節化とは、(一方ないし他方が非推論的であるとしても)状況と適用の帰結の間の関係を推論的なものとして含む。なぜなら、概念の適用において、一方が、状況から適用の帰結への推論の性質を保証するからである。」(同所)

これに対して、「狭い意味の推論的分節化とは、セラーズが「言語ー言語」動きと呼ぶもの、つまり命題的内容の間の関係に限定されている。」(同所)です。このような「超推論主義が尤もらしいのは、せいぜい抽象的な数学の概念のうちのあるものについて考えるときくらいである。」(同所)

もう一度言いますが、ブランダムは強い推論主義をとります。それは知覚と知覚報告の関係、および行為と発話の関係を、ともに「広い意味の推論的分節化」とみなすからです。

私は、『問答の言語哲学』では、ブランダムと同じく「強い推論主義」をとているつもりでいました。なぜなら、問答関係によって知覚報告は正当化されるのですが、しかし、問答関係は、ブランダムの理解では、「広い意味の推論的分節化」に属すると思われるからです。したがって、私の知覚報告の扱いは、推論主義と両立すると考えます。

 ただし、もし「推論」という語を「問答推論」にまで拡張して理解するならば、拙著での知覚報告の扱いは、この拡張された意味での「推論」に基づいて区別した「弱い推論主義」「強い推論主義」「超推論主義」のなかの「超推論主義」になると思います。

 

 このように考える時、本書の「問答主義」(問答推論主義)とブランダムの「推論主義」が両立するかしないかの分かれ目は、「問答推論」を「推論」を拡張したものだと考えるか、「推論」を拡張したものではなく、推論を異質な関係と結合したものだと考えるか、という違いになりそうです。(この二つの考えのどちらをとることも可能であり、どちらを採るかは有用性の問題である、と言えるのか、それとも、この考えのどちらをとるべきかについて客観的な基準があるのか。これについては、少し時間をください。)

 次回は、最後の指摘を取り上げます。

54 朱喜哲さんへの回答(5)問答の観点からの「真理」と「問答推論の妥当性」(20211203

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#「真理」概念について

 現代哲学では、「真理」概念は、「命題」の性質と考えられています。「真理」のインフレ主義はそれを命題の実質的性質(事実との対応や他の命題との整合性)として理解しますし、真理のデフレ主義は、「…は真である」という真理述語が形式的性質ないし論理的性質(引用符解除機能や同値性原理や代文機能)だけをもつことを主張します。

 これに対して私は、「真理」概念は、命題の性質ではなく、問答関係の性質であると見なすことを提案したいと思っています。その理由は、知識(ないし認識)は問答として捉えられるべきだということにあります。

 知識については、伝統的な「正当化された真なる信念」という定義が不十分だと指摘されて以来、内在主義、外在主義、信頼性主義などの論争がありますが、この論争において、知識とは、命題知のことでした。しかし、私は、知識(認識)は、命題としてではなく、問答として成立することを提案したいのです。これを簡単に説明すると次のようになります。

 ①命題知は命題の理解を前提するのですが、命題の理解は、相関質問との関係において可能になります。

 ②原初的には<命題の理解>と<命題の真理性へのコミットメント>は融合しています。つまり、(問いの答えとなる)命題へコミットすることは、(問いにおいて既に表現されている)ある文未満表現へのコミットメントと(答えの中で新たに加えられる)ある文未満表現へのコミットメントを結合することです。

 ③したがって、知識(命題の真理性へのコミットメント)は、ある命題を答えとする問答関係へのコミットメントして成立します。

 それゆえに、「真理」もまた、「命題」が持つ性質ではなく、知識(認識)としての「問答(ないし問答関係)」がもつ性質であると考えます。

(この真理論については、二年前の世界哲学の日記念講演会「真理について――問答の観点から――」(20191116)で論じました。その時の資料は、以下のURLにあります。

https://irieyukio.net/ronbunlist/presentations/20191116世界哲学の日記念講演会.pdf )

したがって、私は、「命題」についての「真理性」概念の原初性を主張することはありません。「問答」についての「真理性」概念の原初性を主張するかどうかについては、「推論の妥当性」を考察した後に、考えます。

「真理」が問答関係の性質であるとするとき、問答推論の妥当性は次のように説明できます。

#「問答推論の妥当性」について

問答推論の妥当性については、『問答の言語哲学』第1章の最後に説明しました。そこでは、問答推論を4つの型にわけて説明したのですが、全ての形に共通する部分は、次のようになります。

  「(Ci)前提にコミットするならば、常に結論にコミットすること。(前提や結論が平叙文であれば、それにコミットするとは、もしそれが真理値を持つ文ならば、真であることにコミットする。もしそれが真理値を持たない文ならば、その適切性にコミットすることである。前提や結論に問いが含まれるならば、その問いにコミットするとは、問いが健全であること、言い換えると、問いが真なる(ないし適切な)答えをもつことにコミットすることである。)」

 要するに、<問答推論が妥当である>とは、<前提の中の問いの健全性(真なる/適切な答えを持つこと)にコミットし、他の平常文前提の真理性/適切性にコミットするならば、常に結論の真理性/適切性にコミットすること>です。

 ところで例えば、「Q,r,s┣p」という問答推論がある時に、平叙文前提のrとsの真理性にコミットするとは、(rの相関質問をQrとし、sの相関質問をQsとするとき)Qr-rという問答関係にコミットし、Qs-sという問答関係にコミットすることです。そしてここが重要なのですが、結論pの真理性にコミットすることは、前提の問いQとpの問答関係Q-pにコミットするということです。(これによって、問答推論全体が一つの纏まりとして結合されます。)

 そして、<問答推論「Q,r,s┣p」が妥当である>とは、<Qの健全性にコミットし、Qr-rにコミットし、Qs-sにコミットするならば、つねにQ-pにコミットすること>です。

 では、「問答推論の妥当性」のこの説明は、問答関係へのコミットメントを問答推論に対してより原初的なものとみなしているでしょうか。そうではないことを、例を挙げて説明したいと思います。たとえば、一つの前提rについて言えば、Qr-rへのコミットするためには、「Qr,Γ┣r」(Γは平叙文の列)という形式の何らかの問答推論にコミットすることが必要です。問答へのコミットメントは、問答推論の妥当性へのコミットメントを前提しており、この二つ(問答へのコミットメントと問答推論の妥当性へのコミットメント)は互いに入り組んでいます。したがって、「問答」へのコミットメントの原初性を主張することはできません。

 前回も述べましたが、朱さんが引用された箇所での、私の「真理」や「真」の使用は、明らかに説明不足で不用意でした。前回のべた修正を行うだけでなく、今回述べた「真理」概念についての新しい理解を説明として加える必要があるとおもいます。そして、このような修正を行うならば、そのとき私の議論は、ブランダムの「推論主義」と両立すると考えます。

 この第二の指摘は、重要でかつ有益なものであったので、回答が長くなってしまいましたが、次回は第三の指摘に回答したいとおもいます。

53 朱喜哲さんへの回答(4)「命題」の原初性と「真理」の原初性(20211201)

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#「命題」の原初性と「真理」の原初性

前回の最後に、次のように書きました。

「「命題」へのコミットメントを原初概念にすることと、「真理」概念を原初概念にすることの間には、大きな違いがある、という指摘があるかもしれません。」

 ブランダムによれば、カントは「判断」を「経験の最小単位」とみなし、フレーゲは「判断可能な概念内容」を「語用論的な力を付与できるもの」とみなし、後期ウィトゲンシュタインは、「文の発話」を「言語ゲーム中の一手」とみなし、これら三者と同じくブランダムは、「命題」へのコミットメントを、言語の使用を考察する語用論における原初的なものと考える「命題主義」を採用する。(『推論序説』前掲訳、18f)。

 他方で、ブランダムにとって「真理」は意味論的な概念です。そして、ブランダムは意味論において「真理」を原初概念とは見なしません。彼の意味論における原初的概念は、「実質推論」であると思われます。

 したがって、ブランダムから見ると、「命題」へのコミットメントを原初概念にすることと、「真理」を原初概念にすることには大きな違いがあります。そのような意味論は、推論主義とは相いれないものです。

 

 このように考える時、朱さんが引用された箇所での、私の「真理」や「真」の使用は、明らかに説明不足で不用意でした。では、どのように修正したらよいでしょうか。

 一つの修正方法は、「真なる推論」の説明を「推論が妥当であり、かつすべての前提と結論が真であることだと定義できる」(『問答の言語哲学』] 122)から「推論が妥当であり、かつすべての前提と結論にコミットしていることだと定義できる」へ書き換え、さらに「推論が妥当であるとは、前提にコミットするならば、常に結論にコミットすることである」という説明を補うことです。

 ただし、合評会での応答で言ったように、「真である」を「コミットする」に置き換えるだけでは、「真理」概念の原初性を否定出来たとしても、推論の妥当性(正しさ)をそれを構成する命題の性質(真理性や適切性やコミットメントなど)から説明するという要素主義的アプローチであることに変わりはなく、「実質推論」の原初性を主張することとは両立しないと言われる可能性があります。

 

 「推論の正しさ」ついて、ブランダムならばどう考えるでしょうか。ブランダムの「推論的意味論」と「規範的語用論」の間に齟齬はないでしょうか。「推論的意味論」では、命題の意味はその推論関係によって明示化されるものです。そしてその場合の推論とは「実質推論」であって、最終的には社会的サンクションによって正当化されています。他方「規範的語用論」では、「命題」へのコミットメントが原初的なものであって、「命題主義」をとります。前に述べたように「雨が降っている」という命題を主張するとき、「道路が濡れている」という命題へコミットすることが責務となります。「推論的意味論」は全体論的であり、「規範的語用論」は要素主義的である、という齟齬があるのではないでしょうか。

 「雨が降ったら、道路が濡れる」という実質推論を受け入れることは、<主張発話することが、どのような前提を持つか(それ発話する資格はなにか)(上流推論)、それからどのような発話にコミットすることが責務となるか(下流推論)、どのような主張と非両立であるか(何が禁止されるか)(下流推論)、など>を受け入れることと同じことです。 

 もしこのように言えるならば、「規範的語用論」では、発話行為の意味を、発話行為の規範的推論関係で説明できることになるでしょう。つまり、発話行為の意味を推論主義で説明できそうです(これは「内容紹介と補足説明」で言及したように、ハーバーマスが「語用論的意味論」として指摘していることです)。このような「規範的語用論」は、「命題」へのコミットメントを原初的なものとみなす「命題主義」ではなく、「発話行為の推論主義」とでもいうべきものになります。

 もしブランダムの言う「命題主義」を、規範的語用論における「命題」へのコミットメントの原初性の主張、というように強い意味に理解するならば、それは発話行為の意味の推論主義的な理解と両立しないように見えます。(これ以上議論できる用意がないので、ここでは、このような疑問点を述べるにとどめます。おそらくは、何らかの仕方で整合的にブランダムを読めるのでしょう。)

 さて、上記の「修正」のように、推論の妥当性を「コミットメント」という語用論的概念を用いて説明するならば、語用論に関して要素主義的なところがみられるブランダムの議論と両立可能になるのではないか、と期待します。

 これまでの話は錯綜していて、私の立場が曖昧になってしまっているので、次回は、私が考えている「推論の妥当性」と「真理」について、直截に説明します。

52 朱喜哲さんへの回答(3)「真理」概念の原初性について(20211130)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

次に第二の指摘に答えたいと思います。

(2)「真なる推論」を「推論が妥当であり、かつすべての前提と結論が真であることだと定義できる」([『問答の言語哲学』] 122)という箇所での「「真」用法は――真理条件意味論的な「真理」の原初概念を持ち込んでいる記述と解するべきだろう。」(5)と指摘します。

まず朱さんが引用している箇所を説明します。

 そこは「なぜ」の問いを考察したところです。ふつうは問いの答えは文になるのですが、「なぜ」の問いの答えは文ではなく推論になります。例えば「なぜpなのですか?」と言う問いに対する答えは、例えば「rが成り立ち、sが成り立つので、pが成り立ちます」(「r、s、┣p」)というような推論になります。この「なぜ」の問いへの答えが真であるとは、この推論が正しいということです。ここではそれを「推論が真である」ことだと表現しました。(念のために言えば、もし推論が真理値を持たない文を前提や結論にもつ推論であるならば、「推論が適切である」ことだということになります。ただし、その場合でも朱さんの指摘は、「真理性」であれ「適切性」であれ、そのまま成り立つと思います。ここでは前提や結論が真理値を持つ場合について説明します。)

 「なぜ」の問いへの答えが真であるとは、推論が妥当であることより多くのことを意味します。「なぜpなのですか?」という問いは「p」が成り立つことを前提し、その原因(理由、根拠)を求めているのですから、それへの答えは、例えば「q、s┣p」という推論が妥当(正しい)であることだけでなく、その前提である「q」と「s」もまた成り立つことを主張しています。

 したがって、「なぜ」の問いの答えは、ヘンペルが言うように推論になるのですが、しかし妥当な推論を答えるだけでなく、「前提が成り立ち、それゆえに結論も成りたっている妥当な推論」を答える必要があります。私はここではそれを「真なる推論」と呼びました。

 以上が朱さんが引用していた箇所で説明したことです。

 さて、朱さんの指摘は以下でした。

「真なる推論」を「推論が妥当であり、かつすべての前提と結論が真であることだと定義できる」([『問答の言語哲学』] 122)という箇所での「「真」用法は――真理条件意味論的な「真理」の原初概念を持ち込んでいる記述と解するべきだろう。」(5)と指摘します。

 私の当該箇所が、「真理」概念を「推論」に先行して成立する原初概念として扱っているという指摘は、重要な指摘と思います(ただし、その「真理」概念が真理条件意味論的な「真理」概念であるとは限らないとおもいます。この個所は、真理の整合説、真理の合意説、真理のプラグマティズムなどとも整合的ですし、それ以外の真理論とも整合的だと思います)。

 この指摘は大変重要な点をついていると思うのですが、この指摘(を受け入れるかどうか)に答える前に、ブランダムならば、「なぜ」の問いへの答えをどう説明することになるのか、を考えたいと思います。

 ブランダムの場合、「なぜ」の問いへの答えは、正しい実質推論となるでしょう。しかし、それだけでは不十分です。なぜなら、この場合にも「なぜpなのか?」という問いは「p」が成立することを前提しており、「なぜpが成立するのか?」を説明しなければならないのですが、pを結論となる正しい実質推論を示すだけでは、不十分だからです。実質推論にも前提と結論の部分があって、実質推論が正しいとは、<前提が成立するならば結論が成立する>ということを主張しています。たとえば、ブランダムがよく使う実質推論の例「雨が降ったら道路が濡れる」では、<「雨が降る」という前提が成立したら、「道路が濡れる」という結論が成立する>と主張しています。

 「なぜ道路が濡れているのか?」という問いに、「雨が降ったから道路が濡れているのです」と答えるときに行っていることは、単に「雨が降ったら道路が濡れる」という実質推論の正しさを主張することだけでなく、前提「雨が降った」が成立しており、それゆえに結論「道路が濡れている」が成立している、と主張することです。

 もしブランダムがこう議論するとしたとき、そこから、「命題」の成立を原初概念にしていると言えるでしょうか。ブランダムが言うように、命題の意味は推論関係に基づくのです。しかし、その命題を(単に理解するだけでなく)主張することは、その推論関係を理解したり主張したりすること以上のことをしています。例えば、その命題のある上流推論が可能であることを主張するだけでなく、その上流推論の結論が成り立つことを主張しなければならず、そのためにはある上流推論の前提が成り立つことを主張しなければなりません。例えば、可能な上流推論を認めるだけでなく、ある上流推論が現実に生じていること(つまりその前提が成立しており、それゆえに結論が成立していること)を主張しなければなりません。このような議論は「規範的語用論」に属するのだろうと思います。

 ブランダムは「規範的語用論」では、「命題」へのコミットメントを原初概念にしていると言えるでしょう。なぜなら彼は次のように考えるからです。

「カントは判断を経験の(そしてまた、彼の言説的な意味における意識の)最小単位とみなした。なぜなら、判断は、伝統的な論理的階層の中で人が責任をもつことにできる最初の要素であるからである。[…]推論主義は本質的に命題主義的な教説なのだ」(ブランダム『推論主義序説』斎藤浩文訳、春秋社、2016、訳18f)

 それにしても、「命題」へのコミットメントを原初概念にすることと、「真理」概念を原初概念にすることの間には、大きな違いがある、という指摘があるかもしれません。

 これについて、次に答えたいと思います。

51 朱喜哲さんへの回答(2)問答推論の規範性と実質推論の規範性(20211129)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

まず次の「相違」についてお答えします。

(1)「「問答推論の正しさ」は先述した実質推論のもつ規範性とは、少なくとも相違があるだろう。」(5)

『問答の言語哲学』では、「実質問答推論」という表現を用いていないのですが、私は問答推論もまた「実質推論」であると考えています。問答推論が実質問答推論であるとき、実質問答推論の規範性は、ブランダムのいう「実質推論」のもつ規範性と同種のものだと考えています。つまり、それは社会的サンクションによって正当化されるものです。

 (ただし、問答関係が成立するための必然的な条件を満たす必要があるので、拙著第4章で説明したような、超越論的な問答推論というものを考えます。他方で、ブランダムにも「経験的なよさ」だけに基づかないような議論があります。例えば、論理的語彙が「保存拡大性」をもつということは、(私の問答推論主義にとっても重要ですが)彼の推論主義にとって重要な出発点ですが、論理的語彙の「保存拡大性」は経験的な事柄ではありません。)

 朱さんの指摘の眼目は、問いに対する答えの正しさと、推論の正しさは、異種的なものである、ということだと思います。私は、(人類においても、個人史においても、個々のの認識の発生においても)原初的には問答と推論は結合したものとして、つまり問答推論として成立していると考えています。後の発達した段階で、問答関係と推論関係に分節化し、別々に成立しているかのように見えるのだろうと考えています。

 私は、<推論は何らかの問いに答えるプロセスとして行われ、また問いに答えることは何らかの推論によって行われる>と考えようとしています。その論証がまだ不十分であることは認めますが、このように考えているがゆえに、問答主義と推論主義が両立しないとは考えていません。拙論の中に不十分な記述があって、両立しないように見えるところがあれば、とりあえず、拙論の方に修正の必要があるのだろうと思います。(ブランダムの推論主義を超えていきたいとは思っているのですが、推論主義の長所を拡張・展開する形で超えてゆきたいと思っています。) 

 ところで、『問答の言語哲学』のプログラムとブランダムのプログラムを対比させるとき、「問答主義」と「推論主義」ではなく、「問答推論主義」と「推論主義」という対比として理解してもらうことが、私の希望です。

 (もし私が「問答主義」という表現を使うとすれば、その時に対比されるのは、「命題主義」とでも呼ぶべきものになります。現在私は、「認識」は、命題としてではなく問答として成立し、「真理」は命題に述語づけられるのではなく、問答に述語づけられる、と考えたいと思っているからです。ただしこのことは、『問答の言語哲学』ではまだぼんやりとしか考えていなかったことです。)

50 朱喜哲さんへの回答(1)(20211128)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

朱さんのご質問「問答主義者は、同時に推論主義者であることができるのか?」は、次の構成になっています。

  1.導入

  2.用語確認と課題設定

  3.推論主義プログラムとそのモチベーション

  4.推論主義と問答主義は両立するのか?

  5.「メタ意味論」としての推論主義と問答主義の共存可能性

以下、順番に簡単に内容を紹介します。

「1.導入」は、拙著のプログラムとブランダムの構想の比較をおこない、タイトルの問い「問答主義者は、同時に推論主義者であることができるのか?」に否定的に答え、それを踏まえて提案を行うことを予告しています。

「2.用語確認と課題設定」では、拙著の立場を「問答主義」(問答推論的意味論+問答推論的語用論」のペアの構築を目指すもの)とし、ブランダムの立場を「推論主義」(「推論的意味論+規範的語用論」のペアの構築を目指すもの)と名付け。この二つのプログラムが「どれだけ重なり、あるいは齟齬があるのか」を論じています。

 私は問答推論的意味論でブランダムの推論的意味を「拡張」しようとしているのですが、しかし、朱さんからみると、必ずしもそうなっていない点があると言われます。具体的な齟齬は、後の4で説明されます。

「3.推論主義プログラムとそのモチベーション」では、ブランダムの推論主義の特徴を説明します。「推論主義では、「社会的な「規範性」」が原初的な概念となるのに対して、「一般的な語用論とは切り離せる――意味論の場合」には、「ことばと対応する世界やそうした表象関係における「真理性」は原初的な概念となる」とされます。

 この「推論主義」のモチベーションは、「[社会で]流通する規範性だけを説明資源として真理性や客観性、ことばと世界との関係までをも説明しよう」ということです。

「4.推論主義と問答主義は両立するのか?」では、この見出しの問いに対して。両立しないと答えます。朱さんは、「「推論」と「問答」は当然ながら異なる言語実践である」(4)とみなし、「問答実践はある意味で推論実践を補完する」(4)ことは認めながらも、「社会規範としての「よし/あし」が問われる「推論」関係と、問肯定の組み合わせのパターンと規則を持ち「正解/不正解」が問われる「問答」関係とは、異なる関係性」(4)であると主張します。

この点のより具体的な指摘としては、次のようなことがあります(列挙すれば次の5つになると思います)。

(1)「「問答推論の正しさ」は先述した実質推論のもつ規範性とは、少なくとも相違があるだろう。」(5)

(2)「真なる推論」を「推論が妥当であり、かつすべての前提と結論が真であることだと定義」([『問答の言語哲学』] 122)している箇所での「「真」用法は――真理条件意味論的な「真理」の原初概念を持ち込んでいる記述と解するべきだろう。」(5) と指摘します。

(3)脚注5では、「すべての発話は暗黙的に依頼(質問)である」(『問答の言語哲学』197)

という主張は、「~せよ」という発話を「~してくれませんか?」にパラフレーズ可能なものとにしてしまうため、「「規範性」の明示化というプログラムにとっては採用できない(かメリットのない)提案」であると指摘します。

(4)問答主義では、知覚報告の扱いが「超推論主義」になっていると指摘します(脚注6)。

(5)脚注8では、「推論主義ならば扱わなくてよい課題」の典型が「合成性の説明」であると指摘します。その理由は、ブランダムがBrandom(2010), p.336.で述べているということです。

5.「メタ意味論」としての推論主義と問答主義の共存可能性

 朱さんは、4での考察から、問答主義と推論主義は両立しないと結論します。

 しかし、もし「推論主義」プログラムを「フルパッケージ」で運用するのではなく、「推論主義」を意味論の方針を示す「メタ意味論」として採用するならば、Chrisman (2016) のように真理条件意味論と組み合わせることは可能であり、同様に「推論主義」を「問答主義」と組み合わせることも可能であると見なします。そこで、「まずはメタ意味論としての「問答主義」の定式化をおこない、そのうえで折衷主義をとれるなら具体的な棲み分けを検討するというステップが望ましいのではないだろうか」(6) と提案します。

以上のような質問に対して、合評会で、私は「推論主義」プログラムをフルパッケージで採用したいと答えました。そのためには、朱さんが4で指摘した齟齬、つまり『問答の言語哲学』の中の推論主義と両立しないように見える点を説明し、場合によっては修正する必要があるでしょう(合評会当日、若干説明を試みましたが、不十分なものでした)。4での具体的な5つの指摘は、私にとって大変有益なものでした。ありがとうございました。次に、これらの具体的な指摘に答えたいと思います。

49 朱喜哲さんと三木那由他さんからの質問(20211126)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

合評会での朱さんと三木さんの質問を以下のリンクで見ることができます。

■朱喜哲さんの質問資料

https://researchmap.jp/heechulju/presentations/35900468

■三木那由他さんの質問資料

https://researchmap.jp/nayutamiki/presentations/35803115

合評会当日のZoom動画は、Youtubeにupされる予定です。upされましたらお知らせ致します。

朱さん、三木さん、ご質問ありがとうございました。お二人の質問への回答は、合評会当日には十分に考えて回答できなかったこともありますので、じっくりと考えた回答を、このブログで少しづつ書いてゆきます。

47 第3章の振り返り(続き)と第4章の振り返り  (20211123)

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#第3章の振り返り(続き)

 第三章では、言語行為を問答の観点から考察しましたが、ハーバーマスが『真理と正当化』(1999)で、おそらくはブランダムの影響を受けて、発話行為について推論主義の立場から次のように分析していることを昨年知りました。

 「語用論的意味理論は、フレーゲとウィトゲンシュタインが発展させた真理意味論の基本テーゼを次のように変更しなければならなくなる。つまり、発話内的行為を理解したとするのは、<何がその行為を受け入れ可能にするか>を分かっている場合であり、また<その行為が受け入れられた場合に、今後の実践にどのような帰結が生じるか>を分かっている場合である、ということである。」(ハーバーマス〚真理と正当化〛三島憲一、大竹弘二、木前利秋、鈴木直訳、法政大学ウニベルシタス、 2016、p.160、< > は引用者による強調)

 これは、ブランダムの推論的意味論と似ていますが、ブランダムは、発話の命題内容の理解をその推論関係の理解で説明したのに対して、ハーバーマスは、発語的行為の理解を、その推論関係の理解で説明しようとしている点がことなります。つまりハーバーマスは、ブランダムの推論的意味論を、拡張しようとしているのです。

 例えばpの「主張」という発語内行為を理解するのは、<何がその主張行為を受け入れ可能にするのか>、つまり<「私はpを主張する」という遂行文発話の上流推論(実践的推論)>の正否を判別する能力を持つことです。また<その行為が受け入れられた場合に、今後の実践にどのような帰結が生じるか>、つまり<「私はpを主張する」という遂行文発話の下流推論>(例えば、「もし問われれば、pの主張の根拠を示す責務を持つ」)の正否を判別する能力を持つことです。

 ちなみにこの「遂行文発話」の上流推論と下流推論については、さらに上流問答推論と下流問答推論へと拡張する必要があるでしょう。さらに、このような推論主義的なアプローチの発語内行為への拡張は、発語媒介行為の理解の説明、ヘイトスピーチの理解の説明、等にも拡張可能です。さらに、全ての行為が実践的知識によって記述されるのですから、行為(その実践的知識)の理解を、その上流問答推論と下流問答推論によって説明することも可能になりそうです。

 私が3.2で行ったことは、発語内行為の遂行文発話の上流実践推論によって説明しただけでしたので、下流推論も考慮すべきでした。またそれを問答実践推論に拡張すべきでした。

#第4章の振り返り

 4.1 では、「論理的矛盾」「意味論的矛盾」「語用論的矛盾」と区別される「問答論的矛盾」の事例を示し、その分類と説明をおこないました。「問答論的矛盾」とは不適格な問いによって引き起こされる問いと返答との間の矛盾です。このような「問答論的矛盾」は、コミュニケーションないし言語的な相互応答のための必要条件を、それを否定すると矛盾が生じるという仕方で示するものです(218)。

 4.2では、まず、問答論的矛盾と照応の関係を考察しました。問答が成立するためには、問いと答えの間に、適切な仕方で照応関係が成立していなければなりません。しかし、問答論的矛盾においては、適切な仕方で照応関係が成立しないことを指摘しました。

 次に、問答論的矛盾における問いの前提について考察しました。問いの前提は、意味論的前提と語用論的前提に区別できるが、問答論的矛盾における答えは、このどちらの前提とも矛盾しません。しかしその前提の承認要求を受け入れていません。問いに答えには、肯定の答えであれ、否定の答えであれ、問いの前提を承認する必要がありますが、それをしないので矛盾が生じるのです。

 4.3では、以上から、問答論的矛盾を避けることは、問答関係が成立するための超越論的条件だと言えるのですが、その主なものを具体的に説明しました。

#相互的な呼応関係の超越論的条件。

  ・絡路の相互確認

  ・言語の相互理解

  ・誠実性の相互確認

#問答関係の意味論的超越論的条件

  ・照応関係

  ・タイプとトークンの区別

  ・言語の規則に従うこと

#問答関係の論理的超越論的条件

  ・同一律

  ・矛盾律

#問答関係の規範的超越論的条件

  ・根拠を持って語る義務

  ・嘘の禁止

  ・相互承認の義務

 4.4では、4.3での超越論的論証が、古典論理に依拠するという限界をもつことを説明しました。

46 第3章を振り返る (20211122)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

 3.1では、命題の意味が相関質問との関係で規定されるように、発話の発語内行為は、相関質問との関係で規定される(cf.174)、ということを説明しました。この意味で、質問型発話は、他の発語内行為とは全く異なる発語内行為なのです。

 しかし、3.1の最後では、全ての発話が質問の意味を持つことを説明しました。「どのような発話であれ、聞き手がそれを受け入れてくるかどうかを問う暗黙的な質問になっている。この暗黙的な質問が、会話を継続させるように機能している。」178

 では、この二つはどう関係するのでしょうか。前者の質問は、発語内行為としての質問であり、後者の質問(全ての発話がもつ依頼や質問の働き)は、「発語媒介行為の一部である」(197)と思われます。

 3.2では、ヘイトスピーチの差別的な働きを言語行為としてどうとらえるか、という問いを検討する過程で、サールの「発話行為」「命題行為」「発語内行為」「発語媒介行為」という区別に「前提承認要求」という行為を加えることを提案しました。

 発話の前提には、論理的前提、意味論的前提、語用論的前提などがある。話し手はこれらの発話の前提を承認しているが、聞き手はそれらを理解しているとしても承認しているとは限らない。発話を行うことは、それらの前提の承認を聞き手に要求するという行為(前提承認要求)を含んでいる。

3.2の最後に書いたが、発語内行為は、意図的発語媒介行為前提とする(それを実現するための)実践的推論の結論となっている。前提承認要求は、この実践的推論において前提として働いている。

<発話の実践的推論>

  •    大前提:発語媒介行為の意図
  •    前提:真理性承認要求(ここには論理的前提、意味論的前提などの真理性承認要求も含まれる)
  •    前提:誠実性承認要求
  •    前提:正当性承認要求   
  •    ∴ 結論:発語内行為

<発話の実践的推論:ヘイトスピーチの例>

  •    大前提:発語媒介行為の意図「工事阻止行動をやめさせよう」
  •    前提:真理性承認要求「反対している人たちは、無教養な土人である」
  •    前提:誠実性承認要求「私は警官としての職務に忠実である」
  •    前提:正当性承認要求「無教養な土人は政府に文句を言う資格はない」    
  •    ∴ 結論:発語内行行為「土人が文句を言うな」(命令型発話)

3.3では、コミュニケーション(指示や述定へのコミットメント)の不可避性が、問答の不可避性に基づくことを説明しました。