22 見解Aと見解B

  映画「漢江の怪物」の舞台になった漢江です。
ソウルを東西に貫いています。

この書庫では、幼児の対象への注意は、<幼児が大人と一緒に対象を共同注意することを学習して、その後に、一人で対象を注意するようになる>という仕方で成立することを証明したかったのです。これを見解Aとします。
これと異なる見解は、例えば、<幼児が対象へ注意するのは、大人がある対象に注意しているのを見て、それを模倣することによって、自分もその対象を注意するようになる>という見解です。これを見解Bとします。

見解Bでは、「共同注意」とは、<大人が注意を向けている対象に自分も注意を向ける>ということです。ここでは、一人での注意が可能になったあとに、共同注意が可能になります。
これに対して、見解Aでは、大人と一緒に行う共同注意が成立したあとに、一人での注意が成立するようになります。

問題1「これを経験的な知見によって検証するには、何を確認することが出来ればよいでしょうか?」

問題2「この見解の相違は、指さしによる指示、ないし言葉による指示の成立の説明に関して、どのような相違を生むのでしょうか?」

問題提起だけでまたしばらく休みます。
フィヒテについての論文を仕上げるために、しばらく山にこもります。
この問題についても、考えて見ます。

残暑厳しいですが、皆さまお元気でお過ごしください。

21 アイコンタクトの登場

写真は、5月の広島大学でした。

アダムソンは、『乳児のコミュニケーション発達』の第五章「対人的関わり」で、彼が「第二期:対人的関わり(interpersonal engagement)の時期」(生後2ヶ月頃~生後5~6ヶ月頃)とよぶ時期について詳しく報告しています。
この時期の発達上の特徴は、アイコンタクト、社会的微笑、クーイングのようです。
・アイコンタクト:「乳児はパートナーの目をしっかり見ることが出来るようになり、非言語的コミュニケーションを組織化するのにもっとも有効な相互の見つめ合いの瞬間を持つことが可能になる」114
社会的微笑:新生児の内発的微笑は、二ヶ月ごろに外発的な社会的微笑になる。
クーイング:発生のレパートリーが非常に多くなる。116

他に興味深い指摘としては、以下のような指摘がありました。
・二ヶ月ごろ、赤ちゃんの覚醒敏活活動期は、覚醒時間のほぼ80%を占めるようになる。
・乳児は一度に二つことができるようになる。たとえば、乳児はリズミカルに腕を振りながら、他者に微笑することが出来るようになる。
・単に応答するだけでなく、自分から動作を開始するようになる。
おそらく、これらのことがもっと深いレベルでの変化なのでしょう。

20 知覚的単一体?

このテーブルは、我々に何をアフォードしているのでしょうか?
バーベキュー?

久しぶりの発言なのに、勉強が進んでいなくて、すみません。

アダムソンが、乳児の発達の第一期:注意深さの共有(shared attentiveness)の時期について書いた『乳児のコミュニケーション発達』の第四章「注意深さの共有」を読んで見ましたが、正直なところ素人の私には、「注意深さ」というのがどのようなもので、それが「共有」されているということがどのような実験や観察から確認できるのか、よくわかりませんでした。
共有していることを確認できるためには、赤ちゃんとのより高次なコミュニケーションが可能になっていることが必要であり、仮に、この段階の幼児との「注意深さの共有」があったとしても、それが親や観察者の主観的な思い入れ以上のものであることを、確認するすべがないのかもしれません。

乳幼児の「世界は知覚的単一体(perceptual unity)の一つである。・・・この単一体は非常に深遠で非様相的特性のみを有するに過ぎないようにおもわれる」(邦訳,p.94)という指摘が、非常に深遠そうで、面白そうに思いました。乳幼児の場合には、視覚や聴覚や触覚などの感覚の様相が区別されておらず渾然一体となっており、世界は「知覚的単一体」を構成しているということでしょうか。アダムソンもいうように、乳児がどのように世界を知覚しているのかは、大人には想像することが大変難しそうです。

19 アダムソンより

イエナ大学で見つけたトルストイの記念プレートです。
1861年に、単に旅行で訪れたのか、講演でもしたのでしょうか。

乳児のコミュニケーションの発達について、ローレン・B・アダムソン著『乳児のコミュニケーション発達』(大藪秦・田中みどり訳、川島書店)では、次のようにまとめられています。

■初期コミュニケーションの発達指標(同書、p. 21)
開眼 0ヶ月
相手の目を見る     2ヶ月
社会的微笑       2ヶ月
クーイング       2ヶ月
声をたてて笑う     4ヶ月
かなきり声、震舌音、うなり声、叫び声、 4ヶ月
規準的な南語(「バババ」など)     7ヶ月
1語の理解       9ヶ月
10語の理解      10.5ヶ月
複雑な喃語       11ヶ月
指さし、        12ヶ月
50語の理解      13ヶ月
初語          13ヶ月(9~16ヶ月)
10語の発語      15ヶ月(13~19ヶ月)
50語の発話      20ヶ月(14~24ヶ月)
二語文         21ヶ月(18~24ヶ月)

■初期コミュニケーション発達の4段階 (同書、p. 41~)
第一期:注意深さの共有(shared attentiveness)の時期
(誕生時(おそらくそれ以前に)~満期産児で2ヶ月頃)

第二期:対人的関わり(interpersonal engagement)の時期
(生後2ヶ月頃~生後5~6ヶ月頃)
「乳児と養育者の注意が、彼ら自身相互に、また両者を結ぶコミュニケーション・チャンネルに、そして両者間に流れる親密なメッセージにも焦点化できる」「コミュニケーションの主たるトピックは、乳児とそのパートナーによる注意と情動の表現の共有という対人的なものである。この時期は社会的微笑と視線の接触(eye-to-eye contact)が特徴的である。」p. 42
この時期は、乳児が注意を周囲の対象物に移し始めることによって終わる。

第三期:対象物への共同関与(joint object involvement)の時期
(生後6ヶ月頃~2年目の中頃まで、しかし終結時期ははっきりしない。)
「乳児は対象物について他者とコミュニケーションし始める。」「参加者は対象物への注意を共有でき(指示と呼ばれる機能)、対象物を扱うときには互いに援助を求めることができる(要請と呼ばれる機能)。さらに、乳児とそのパートナーが対象物についてコミュニケーションするときには、コミュニケーションに常に付随している文化的背景が対象物の扱い方に明確に現われる。」p. 43
この時期は、共有される対象がコミュニケーション場面に直結するものから次第に距離をとり始めることによって、終結する。

第四期:象徴的なコミュニケーションの出現(emergency of symbolic communication)の時期
(一般的には生後13ヶ月頃~ )
「発達のこの時期に、よちよち歩きの幼児とその親とのコミュニケーションは、文化的なレパートリーに基づく交流方法が繰り返され拡張されるにつれて、慣例化し儀式化されるようになる。とくに顕著なことは、メッセージを伝達することばやその他の社会的に共有される手段が焦点になることである。こうした最初のことばは、しばしば人が行なっている活動と重なり、文字どおり手元にある対象物への言及であることが多い。」pp. 43-44

この四つの時期を詳しく見れば、共同注意が個人の注意に先立ち、指示が共同指示先立つことがいえるだろうと思います。これは、アダムソンが引用していたヴィゴツキーの次の言葉と同じことです。
「子供の文化的発達に見られる機能はすべて2回出現する。最初は社会的レヴェルで、その次に個人的レヴェルで。最初は人と人との〈間で〉(精神間)、その次に子どもの〈内部で〉(精神内)。1978、p.57」(同書p.38からの孫引き)
しかし、私には、このヴィゴツキーの言葉に加えて言いたいことがあるのです。ある発話行為が、個人的レヴェルで行なえるようになったときに、社会的レベルから独立して、それなしに可能になっているのではなく、それを可能にしている機能が社会的レベルで働いているのです。その社会的なレヴェルの基底的な機能は、2回出現するのではなくて、1回しか出現しないのです。

これは、いまのところ予想です。これを証明したいと思います。ぼち。ぼち。

18 山にこもります

実は、山にこもっていました。
今日は、演習のために、大阪に戻ってきましたが、明日からまた信州の山の中で考えます。
次回のupは連休明けになります。

前回からまた時間が経ってしまいました。
このところ、必要があって、別のことを考えていたので、この話題の勉強が進んでいません。

トマセロが「共同注意場面」と呼ぶもの、そしてその二つの特徴として述べていることは、私が「共有知」という言葉で呼びたいものを考えるときに、非常に重要になるとおもいます。このとき、私は大人の共同注意場面を考えています。もし、言葉を使用しはめるころの、幼児と大人の共同注意場面というものを考えるときには、我々は、言語の理解を前提しないように、注意しなければなりません。トマセロは、「言葉そのものを習得するためには、共同注意の活動が必要となる」128と述べています。したがって、共同注意場面も、言語習得に先立って成立しているものとして考えられているはずです。
そうすると、共同注意場面の二つの特徴についても、我々はもう少し、慎重に考える必要があります。この二つの特徴を考えたいのですが、うまい取っ掛かりが見つからないので、少し回り道ですが、こどもの言葉の習得過程について、ラフに概観しておきたいとおもいます。

17 共同注意場面

これもまたドレスデンの桜です。しかし葉が赤いのです。
これは不思議な桜でした。

トマセロのシミュレーション理論の批判をしてきましたが、トマセロの議論を軽視しているのではありません。
もう少しトマセロの議論を追ってみたいと思います。彼は『心とことばの起源を探る』(勁草書房)の「第4章 言語的コミュニケーションと記号的表示」で、「共同注意場面」(joint attentional scene)という非常に興味深い概念を提案します。

トマセロは、子供が言語を習得するには、大人の伝達意図を理解する必要があると考えて、「伝達意図の理解は伝達意図の社会的認知の基盤となるような、何らかの共同注意の場面でのみ可能である。」130といいます。

トマセロは、ここで共同注意に関するこれまでの用語と区別して、「共同注意場面」という新しい用語を導入します。それは、二つの特徴を強調するためです。その一つは、以下の通りです。

「第一に共同注意場面に何が含まれるかということである。共同注意場面とは、一方では、知覚される出来事とおなじではなく、子供に近くされる世界の中の一部のものだけを含む。他方で、共同注意場面は、言語的出来事と同じではなく、言語記号が明示的に示す以上の物を含む。共同注意場面は、したがって、より大きな知覚的世界とより小さな言語的世界の一種の中間、つまり社会的に共有されている現実の、重要な中間的拠点を占めている。」132

「私が強調したい第二の本質的な特徴は、子供は他者とのやり取りにおける自分と自分の役割を、相手や物に対するのと何ら変わらない表示形態の一部として「外側」の視点から概念化し、共同注意場面に含まれる不可欠な要素として理解しているという事実である。」132

第一の特徴を、彼は、次のような例で説明しています。例えば、子供がおもちゃで遊んでいるところに、大人がやってきて、子供と一緒にそのおもちゃで遊ぶとしよう。このとき、そのおもちゃやそれで遊ぶ活動、また、子供自身と大人が、共同注意場面に含まれている。子供が床やソファーをみていても、それは共同注意場面の一部にはなっていない。「大切なのは、共同注意場面は、意図によって決定されるということである。つまり、共同注意場面は、子供と大人が自分たちの携わっているある目標をもった活動として、「わたしたちがしていること」が何だと思っているかによって共同注意場面となり、一貫性をもつ。」132-133

第二の特徴については、彼は次のように説明しています。
「第二の重要な事実は、子供の観点から見て、共同注意場面が、共同注意の対象となる物、大人、そして子ども自身という三つの関係要素を同じ概念平面上に含んでいるということだ。」134
「大人が外界の物に注意を向ける様子を子供がモニターするようになると、その外界の物が子供自身であることがわがる場合もある。子度は、大人が自分に注意を向けるのをモニターするようになると、それによって、自分を外側からみることになる。それだけでなく、子供は大人の役割も同じ外側の観点から把握するので、総合的に言えば、子供は自分自身を役者の一人として含む全場面を上空から眺めているようなものである。」134
これは、言語習得における「役割交替を伴う模倣」を可能にするものとして、重要視されます。

この二つの特徴について少し考えて見ましょう。

16 お待たせしました

ドレスデンの桜です。
ドレスデンから戻ってから、風邪を引いたり、新学期の授業の準備とかで、upが遅れてしまいました。
ドレスデンの研究会はとても刺激になりました。宿題もできましたが。
その後おとづれた、イエナとニュルンベルクの話も、写真と共にすこしづつ紹介します。

さて、前回つぎのようにのべました。

トマセロは、共同注意が成立するまでの段階を次のように大きく4段階で考えています。

1:自分と他者は似ている(と理解している?)(生まれたときから)。
2-1:自分は出来事を起こすことができる原因である (2-1,2-2は、生後7,8ヶ月)
2-2:「自己運動と力の源としての他者、つまり有生の存在という他者理解」
3-1:自分は意図をもつ存在である。(3-1,3-2は生後8ヶ月くらいから)
3-2:「行動および知覚に関して選択を行う存在としての他者、つまり意図をもつ存在という他者理解」
4:共同注意(生後9ヶ月~15か月)

<3-1から3-2へのシミュレーションによる移行>への批判としては、次のような対案を考えています。
<自分が意図を持つことから、他者も意図を持つという理解が生まれる>このようにいえるのでしょうか。
例えば、自分の意図の理解は、自分が何かしようとすることを、母親が、「ミルクがほしいのね」「オムツを替えてほしいのね」「あのおもちゃがほしいのね」「抱っこしてほしいのね」などと、赤ちゃんの意図を解釈して、その解釈された意図を自分の意図として理解するようになる、ということがあるのではないでしょうか。もしそうだとすると、そのようにして得られる自分の意図の理解よりも、「ミルクを飲もうね」とか「オムとを変えようね」などという母親の意図の理解の方が早いかもしれません。赤ちゃんは、自分の意図を、他者との親交(communion)の中で、他者の意図を理解するのと同時に、あるいはさらに、それに後れて、理解するようになるのかもしれません。

前回は、<自分が意図を持つことから、他者も意図を持つという理解が生まれる>というシミュレーション理論への対案として、<赤ちゃんは、自分の意図を、他者との親交(communion)の中で、他者の意図を理解するのと同時に、あるいはさらに、それに後れて理解するようになる>とのべました。

同様の対案を対象への注意についても行ないたいのです。
ところで、トマセロの上述の発展段階の説明は、他者を有生の存在であると認識することと、意図をもつ存在であると認識することの区別を大変重視しています(cf. p.98)。それにもとづいて、<2-1と2-2>の段階と<3-1と3-2>の段階をはっきりと区別するのです。
この区別が重要なのはわかりますが、しかし、それはこのようにはっきりと時期的な段階の区別として設定できるのでしょうか。それに若干疑問があります。

というのは、それは、共同注意についての、他の知見と矛盾するように思われるからです。
大藪秦氏は共同注意についていくつかの分類を提案していますが、そのうちの一つは「構成形態からの分類」というもので、そこで5つの発達段階に分けています(参照、大藪秦『共同注意』川島書店)。
①前共同注意:「情動の通定的現象」「新生児模倣」(p. 23)
②対面的共同注意:生後2か月から。「乳児が他者と視線をしっかり合わせる状態」(p. 23)
③支持的共同注意:生後6か月から。「相手の視線を追跡して同じ方向を見たり、そこに存在する対象物を注目したりする」(p. 25)
④意図共有的共同注意:9か月~12か月「自分、大人、そして両者が注意を共有する第3の対象物からなる3項関係をより緊密なものにし、参照的な相互作用に関わりだす」(p. 27)
⑤シンボル共有的共同注意:「生後15か月から18か月になると、多くの子供が言語的シンボルを使用し始める」「子供-対象物-他者という共同注意構造は、子供-対象物/シンボル-他者という共同注意構造に変形される」(p. 28)

この②の対面的共同注意は、「視線が『結ばれる』体験」(p. 24)ともよばれており、ベイトソンのいう相互覚知に当たるものです。ブルーナーはこれを「2者の視線が出会う単純な共同注意」とよび、共同注意の原型的形態と見なしているそうです(p.23)。つまり、ここにすでに他者との共同注意と言う形で、自分と他者の注意の理解が曖昧な形であれ、登場しています。他者の注意の理解と他者の意図の理解を明確に分けないとすれば、トマセロの議論への反論となるでしょう。(トマセロは、この反論を回避するためには、注意の理解と意図の理解を明確に分けなければなりません。)
大藪氏の上の発達段階論から、我々は注意についても、<赤ちゃんは、他者との親交のなかで、注意深さを獲得し、互いに視線を交し合い、他者の視線を追跡し、他者が見る対象を共同で注意するようになり、やがて一人で、対象に注意するようになる>と考えることが出来るでしょう。これは他者の注意の理解を自分の注意の理解のシミュレーションで説明する理論への対案となるでしょう。

15 仕切り直し

 29日30日と東京出張でした。写真は、お茶の水女子大学の桜です。
花冷えの一日でした。

仕切り直しです。
この書庫での目標は、<我々が行なう指差しや言葉による指示は、発達心理学的には、共同注意、共同指さし、共同指示ともよべるものからの分離によって成立した>の証明です。この目標のさらに上位の目標は、<我々が行なっている指示や知は、何らかの共同指示や共同知をつねに前提している>の証明です。これはこの書庫の目標ではありませんが、ここでの議論に影響するだろうとおもいます。

そこでまず、共同注意について、勉強しながら、報告するということを始めたのですが、その過程でトマセロの本をもとに幼児の発達過程を勉強しました。それを復習すると次のようになります。

トマセロは、共同注意が成立するまでの段階を次のように大きく4段階で考えています。

1:自分と他者は似ている(と理解している?)(生まれたときから)。
2-1:自分は出来事を起こすことができる原因である (2-1,2-2は、生後7,8ヶ月)
2-2:「自己運動と力の源としての他者、つまり有生の存在という他者理解」
3-1:自分は意図をもつ存在である。(3-1,3-2は生後8ヶ月くらいから)
3-2:「行動および知覚に関して選択を行う存在としての他者、つまり意図をもつ存在という他者理解」
4:共同注意(生後9ヶ月~15か月)

トマセロは、2-1から2-2への移行と、3-1から3-2への移行が、シミュレーションになると考えていると思われます。トマセロは、さらに、この4の共同注意のスキルを3段階に分けていました。

4-1:大人の注意をチェックする(生後9~12ヶ月)
(協調行動、社会的障害物に対する反応、物の提示)
4-2:注意に追従する(生後11~14ヶ月)
(視線追従、指差し追従、指令的な指さし、社会的参照)
4-3:注意を向けさせる(生後13~15ヶ月)
(模倣学習、宣言的な指差し、指示的な言語)

シミュレーション理論を主張するには、2-1と2-2が、また、3-1と3-2が、本当に時間的な前後関係で出現するのかどうか、これが本当に実験で確認されているのかどうかを、調べる必要があります。ただし、ほとんど同時にこれらが登場していても、それによって直ちに、シミュレーション理論の批判にはならないかもしれません。

<3-1から3-2へのシミュレーションによる移行>への批判としては、次のような対案を考えています。
<自分が意図を持つことから、他者も意図を持つという理解が生まれる>このようにいえるのでしょうか。
例えば、自分の意図の理解は、自分が何かしようとすることを、母親が、「ミルクがほしいのね」「オムツを替えてほしいのね」「あのおもちゃがほしいのね」「抱っこしてほしいのね」などと、赤ちゃんの意図を解釈して、その解釈された意図を自分の意図として理解するようになる、ということがあるのではないでしょうか。もしそうだとすると、そのようにして得られる自分の意図の理解よりも、「ミルクを飲もうね」とか「オムとを変えようね」などという母親の意図の理解の方が早いかもしれません。赤ちゃんは、自分の意図を、他者との親交(communion)の中で、他者の意図を理解するのと同時に、あるいはさらに、それに後れて、理解するようになるのかもしれません。

しかし、この対案を一体どのような実験によって確認したらよいのか、いまとのころ思いつきません。ちなみに、この時期の子供はまだ初語を話しません。規準喃語(なんご)(canonical babbles)といわれる、言葉のように聞こえるけれどもそうではない発声をするだけです(参考、ローレン B. アダムソン『乳児のコミュニケーション発達』大藪泰、田中みどり訳、川島書店、p.207)。ですから、意図の理解といっても、命題による理解ではありません。
(喃語については、http://d.hatena.ne.jp/keyword/%D3%C7%B8%EC を参照してください。)

次に、上の対案に似た対案を、注意についても考えてみたいと思います。

しかし、残念ながら、4月2日から10日までドレスデンに出張しますので、しばらくお休みします。
ドレスデンの写真を楽しみにしてください。

14 二種類のシミュレーション?

名古屋から帰りの新幹線です。

urbeさん、ご質問ありがとうございます。

我々が明確に主張できるのは、
<4歳前の子供は、我々が理解している意味では,「自分の心」や「他者の心」を理解していない>
ということです。したがって、
「それは,大人がよく他者の意図を間違って理解するのと類似的です(誤解,思い込み,情報の不足etc.)」
というurbeさんの発言の後半部分に、私は疑問があるのです。4歳未満の子供の間違いには、大人の誤解や、思い込みとは、異質なところがあるはずです。では、その違いがどのようなものであるのかを、探求することが、とりあえずの課題です。

しかし、私は上の指摘で、シミュレーション理論を批判できているとはおもっていません。なぜなら、トマセロのシミュレーション理論は、以前にも書きましたが、もう少し曖昧というか、もう少し手ごわいもののように思うからです。

2月28日書いたことですが、このような批判に対してトマセロは、次のように反論しています。
トマセロの反論:「シミュレーションというものを、子供が心的な内容を概念化し、その心的内容が自分自身のものであると意識し続け、そしてそれを特定の状況で他者に帰属するという明示的な過程であると考えなければよいのである。」「私の仮説は単に、子供は他者が「自分に似ている」ので自分と似た形で活動するはずだと言うカテゴリー的な判断をするのだと言うことにすぎない。」(p. 101)「単に、他者の大まかな機能の仕方を自分自身とのアナロジーを通して知覚するということだけのことである。」(p. 101)

シミュレーションを、類推のような意識的な思考として理解する場合と、(うまくいえませんが)無意識的に起動する心の働きとして理解する場合がありうるだろうと思います。とりあえず私が批判したいのは、前者です。

「シミュレーション理論ならば,自他の信念・欲求の隔離がうまくいっていないため,「間違った」意図を他者に帰属してしまう,と説明するでしょう.」
urbeさんが言うように、このようなシミュレーション理論による説明が正しいとしましょう。たしかに、この時期の子供は「自他の信念・欲求の隔離がうまくいっていない」のです。しかも、この時期の子供は、たまたま間違うのではなくてつねに首尾一貫して、ある種の判断において間違うのです。
しかし、この時期の子供の判断の全てが間違いなのではありません。他者の心について正しく理解できることもあるのです。なぜなら、この時期の子供は大人と会話できるので、机の上のチョコレートを見て、それをチョコレートだといえるし、隣にいる大人も机の上のチョコレートがあると思っている、と正しく判断することができるのです。しかし、そのとき、それは我々がそのように判断するのとは、どこかが本質的に違うだろう、と思います。このように子供が正しく判断するときに、それを我々大人が行なうような仕方で正しく判断しているのではありません。おそらく、この時期の子供は、我々大人が行なうとのとは違った仕方で、正しく判断しているのであって、<正しく判断してはいないのだが、結果として常に正しい判断と一致している>というのではないと思います。このとき、子供が例えば、「隣の大人のyさんも、机の上にチョコレートがあることを知っている」といったとしても、その文は、おそらく我々が理解する意味とはことなる意味で用いられているだろう、というのが私の予測です。

取り留めのない、コメントになってしまいましたが、次回から仕切り直してはじめましょう。

13 批判と予想される反論

  名古屋の夜景です。研究会の写真はプライバシーがあって載せられないので、こんなしゃしんになってしまいます。
3月15日?の記事は、この書庫にupすべきものでした。間違えて「世にも奇妙な共有知」の書庫に載せてしまいました。お詫びしますが、訂正しません。なぜなら、コメントがついているので、コメントまで移動させられないからです。

urbeさん、pretenseのご説明ありがとうございました。
シミュレーション理論に対する批判の一つは、次の通りです。

<誤信念問題を解けない子供は、自分の心と他人の心を区別できません。つまり、誤信念問題を解ける我々が理解している意味では、「自分の心」や「他者の心」を理解していません。したがって、子供には、「自分の心」のなかの自分の意図を「他者の心」に転移する、ということが出来ないはずです。>

この批判に対して、次のような反論があるかもしれません。
<子供が意図を持つようになるとき、子供は他者の行為もまた意図的な行為であると理解します。そのときに、子供は自分の意図を意識して、それを他者の中に転移すると考えると、確かに批判を受けることになるでしょう。しかし、子供が自分の意図を意識せず、無意識的に、他者の中に意図を転移している、ということもありうるのではないでしょうか?>

このような反論に対して、どのように答えることができるか、考えてみましょう。