158規則遵守問題と技能知(Rule-following problem and know how)(20250531)

(150回から、宣言の問答を念頭に置きながら、語の命名や定義の問答における照応を考えてきました。照応が非常に基礎的なものであることは予想どおりで、それがまた解明が難しいことの予想通りでした。語の定義や学習における照応の問題は、共同注意、共同基盤、背景基盤などに関係していることもわかりました。そして前回技能知との関係にも触れました。今回は、言語使用のすべての局面が、つまり規則遵守行為のすべてが、技能知に依拠することを説明したいと思います。)

 言語を使用するときには、その使用規則に従わなければなりません。さもなければ、言語の使用にならないからです。言語の使用規則は、言語の構成規則であって、それに従うことで言語は成立するからです。言語を使用するためには、言語の使用規則に従わなければならりません。それは、ちょうど、将棋をしたければ、将棋の規則に従わなければならないのと同じです。

 しかし、言語の使用規則に従うことは、一人ではできないおそれがあります。それが、ウィトゲンシュタインが指摘した「規則遵守問題」です。

 言語行為においては、規則に従っていても、規則の表象に従っていないことがあります。例えば、日本語の「は」と「が」の区別、英語の定冠詞と不定冠詞の区別を、人々は規則的に行っているのですが、しかしその規則を明示することは難しいとされています。

 このような場合には、たとえその規則を明示することが出来なくても、その規則は規範性を持っているといえます。日本語話者は、その規則に従っているときと反しているときを判別できますし、英語話者は定冠詞と不定冠詞の使い分けができます。この判別ができることは、具体的には次のような問答で確認できます。「この場合「は」でいいのですか」という問いに、「はい、よいです」とか「いいえよくないです」と正しく答えることができる。これは命題知に基づいた推論ではないので、「技能知」の一種だと言えます。この技能知があれば、私達は規則の表象を持っていないくても規則に従うことができるのです。しかし、部屋に独りでいるときには、これについて規則に従っていることと、規則に従っていると真ていることの区別が出来ないでしょう。ウィトゲンシュタインの例、ある感覚を感じたときにカレンダーに「E」と書く例は、これと同じく、規則の明示的な記述を持たない場合です。なぜならその感覚を明示的に記述できないからです。

 では、規則の表象を持っている場合には、つまり規則の明示的な記述を持っている場合には、独りでいても、その規則に従っているかどうかを判定できるのでしょうか。例えば、ウィトゲンシュタインの別の例、「1000+2」の場合は規則を明示化できるのでかもしれません(たとえば、ペアノの公理系のような仕方で)。ただし、たとえ規則を明示化できても、その規則を適用する規則は明示化されておらず、技能知になっています。したがってこの場合にも、独りでは、規則に従うことと、規則に従っていると信じていることの区別が出来ません。

 このことは、言語の規則の場合だけでなく、行為の規則一般にあてはまるでしょう。行為の規則を明示できたとしても、規則の適用の規則を明示できなければ、規則の適用は技能知に頼らざるをえません。そしてどのような行為でも、行為の規則、の適用の規則、の適用の規則の、…と続ければ、最終手には、明示化できない規則にたどり着きます。どのような行為であっても、行為の規則に従うことは最終的には技能知に依拠することになります。

 したがって、言語の規則に従うこともまた、最終的には技能知に依拠することになります。それゆえに、独りでいるときには、規則に従っているのか、従っていると信じているだけなのか、区別できないことになります。

 

 この「技能知」と、言語の規則の「規範性」とはどう関係するのでしょうか。それを次に考えたいと思います。

157 語の使用における共同注意と共有基盤あるいは背景基盤)(Joint attention and common ground (or background) in word use)(20250519)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

これまで見てきたように、語の定義とその学習の段階では、語の使用は、<その語の前の使用を参照し、照応すること、つまり前の使用に参照し、その発話で表示していたものを表示する>という仕方で成立しています。では、このような語の学習プロセスが修了するとは、どういうことでしょうか。それは、ある語の先行する使用例を想起しなくても、その語を正しく使用できるようになるということです。では、このとき語を使用するあたって、何を参照しているのでしょうか。

 語「赤い」の使用について言えば、学習段階では、先行する「これは赤い」という正しい発話の指示対象の色を想起して、現在の「これは赤い」の正しさを、現在の指示対象の色に関して判定していたのに対して、学習修了後は、先行する個々の使用例ではなく、他のものに依拠することになります。この他のものとは何でしょうか。

 学習プロセスとは、別の観点から見れれば、教える者の理解と、生徒の理解が擦り合わせて同一のものにするというプロセスです。語の使用法を学習するとは、生徒の語の使用法の理解が教師のそれと同一のものになり、その理解を共有するということです。この学習のためには、「赤い」の使用法に対する共同注意が必要です。

#語の学習と共同注意

 大人が机の上の一個のリンゴに注意を向けているのを、幼児が見て、幼児も亦そのリンゴに注意を向けるときに、共同注意が成立します。幼児は大人の視線がリンゴに向かっていることを見て、自分もまたそのリンゴに視線を向けます。このとき、幼児は、大人と自分が共にリンゴを見ていることを理解しています。

 厳密に言えば、ここで「共同注意」が成り立つためには、大人も亦、幼児がリンゴを見ていることに気づいていることが必要であり、大人も、幼児と自分が共にリンゴを見ていることを理解していることが必要です。さらにそのことを幼児も大人も理解しており、さらにそのことを幼児も大人も理解しており、…という事態も成立している場合もあります。

 このような共同注意は、照応に似ています。独話の中での照応ではなく、対話の中での照応関係は、このような共同注意に似ています。Aが「これは赤い」といい、Bは「それは赤いですか」と問い、Aが「はい、これは赤いです」と答え、Bは「わかりました。それは赤いのですね」とAの答えを確認するとします。このような問答でBが、Aから「赤い」を学習するとき、Bが使用する「赤い」はAが使用する「赤い」を照応しており、Aがいう「赤い」が表示するものを表示しようとしています。それは丁度、幼児が大人が視線を向けるものを見ようとするのと同じです。(照応と共同注意との類似性は、固有名の学習の場合のほうがより明白ですが、普遍的対象や普遍的性質や普遍的関係を表す普遍名詞、形容詞、動詞、などの学習の場合にも、成り立ちます。)

#学習後の共同注意と共有基盤(あるいは背景基盤)

学習後の語の使用では、語の使用法はすでに共有されており、「共有基盤」(これは会話参加者に共通の背景知識である)の一部になっているので、「これは赤い」という「赤い」の使用を行うとき、「共有基盤」の中の「赤い」の一般的な使用法に依拠しているといえるでしょう。これはサールの言う「背景基盤」(これは非志向的であるといわれる)に属するのかもしれません(サール『志向性』第7章、Stalnaker, Context )。

会話の中で一方が「これは赤い」というとき、相手はその発話に注意し、両者はその発話に共同注意します。「これは赤い」や「赤い」の理解は、おそらく技能知(know how)となります。それは、「これが赤い」が成り立つ場合と成り立たない場合を判別する能力、「赤い」の使用が適切である場合と不適切である場合を判別する能力です。この理解は、会話の中で「これは赤い」が成り立つかどうかの判断、会話の中で「赤い」の使用が適切であるかないかの判断が成り立つための前提となるのものです。

語の使用法を共有することは、技能知を共有することです。言語の使用法の共有は、技能知の共有、行為の仕方の共有の一種であることになります。問答ができるということも、技能知の一種だと言えそうです。これについて、次に考えたいと思います。

156 先行するトークンを照応するトークンとタイプに遡るトークン(Tokens that correspond to the preceding token and tokens that refer back to the type.) (20250510)

 前回話したように、照応は、先行詞と照応詞が、異なるタイプのトークンである場合と、同一タイプのトークンである場合(例えば、固有名のトークンが、先行するトークンに照応する場合)に区別できます。

 ところで、<すべての語のすべてのトークンは、最初にその語を言語の中に導入したとき(命名したり、定義したとき)トークンを照応し、さらにその照応の照応の…というように照応の連鎖があるというように、最初のトークンにまでさかのぼる照応の連鎖がある>と推定できると、前回書きました。それに基づいて、<そのような照応の連鎖を思い出すことができないトークン>を「最広義の照応関係」と名付けました。照応の連鎖はあるはずだが、それを思い出すことは出来ない場合です。しかし、その推定は正しかったのでしょうか。全てのトークンは、たとえそれを忘れていても、最初のトークンにまで遡る連鎖を持つのでしょうか。

 私たちが語「リンゴ」を使用するとき、そのトークンは、最初のトークンに遡れないどころか、一つ前の先行詞にも遡れません。そのトークンは、タイプ「リンゴ」のトークンとして発話されているだけであり、先行するトークンに照応していないように思われます。

 この場合、私たちは「リンゴ」の意味に基づいて、「リンゴ」を使用していると思っています。私が語「リンゴ」の意味を知っているとは、私が語「リンゴ」の使用法(つまり、「リンゴ」を含む多くの実質問答推論)を知っているということであり、語「リンゴ」の意味に基づいて、語「リンゴ」を使用するとは、それらの実質問答推論と両立可能な仕方で、「リンゴ」を使用することです。

 語の使用が、前の使用への照応によって行われるのではなく、その語の使用法という一般的規則に依拠して行われる場合があります。「リンゴ」の場合、例えば「リンゴは、丸くて赤くて甘い」という総称文が、「リンゴ」の使用法を表現していると考えることもできます。この総称文は、「もしあるものがリンゴならば、それは丸くて赤くて甘い」という条件文で言い換えられれ。さらに「あるものがリンゴである。ゆえに、それは丸くて赤くて甘い」という実質推論で言い換えられます。

このことは、語「リンゴ」の使用が、それ以前の使用の照応であるということと、どう関係しているのでしょうか。

 語の学習についてはこれまで何度も述べてきたことですが、「リンゴ」の語を学習するとき、「これはリンゴですか」と対象について問い、「はい、それはリンゴです」あるいは「いいえ」それはリンゴではありません」と答えることを学習し、新しい対象についても、この問いに自信をもって正しく答えられるようになった時、「リンゴ」という語の学習が修了したと言えます。まだ自信をもって正しく答えられない段階で、「これはリンゴですか」という問いに「はい、それはリンゴです」と答えようとするとき、この発話は、それ以前に別の対象について、「それはリンゴです」が正しい答えだと教わったときの、その「リンゴ」の用法に照応して、「それはリンゴです」と答えるのではないでしょうか。

 学習段階での「それはリンゴです」や「それはリンゴではありません」の中の「リンゴ」のトークンは、その前に正しい使用法を教わったときの「リンゴ」のトークンを照応しています。

 語「リンゴ」の学習は、対象リンゴの学習でもありますが、その学習は照応によって行われています。先行する「リンゴ」のトークンに照応して、それ表示対象<リンゴ>を表示します。 語を学習するということは、照応によって語(タイプ)と対象(クラス、種)の表示関係(指示関係)を学習するということです。語の学習が終了するとは、照応が不要になるということです。

 語の学習が修了した後での語の使用は、先行するトークンへの照応によって成立するのではありません。語「リンゴ」の学習後は、例えば上記の総称文を理解し受容し、これをもとに「リンゴ」と言う語を使用しているとしましょう。ここで、もしこの総称文「リンゴは、丸くて赤くて甘い」のトークンに依拠して「リンゴ」という語を使用しているとのだと仮定すると、その使用は、総称文のそのトークンに含まれる「リンゴ」のトークンに照応していることになります。しかし、この総称文に依拠しているとしても、この総称文の先行するトークンに依拠しているのではないと思います。なぜなら、そのようなトークンとして思い当たるものがないことがほとんどだからです。

 では、総称文「リンゴは丸くて、赤くて、甘い」のタイプとはなにでしょうか。この総称文は自明ですが、それはなぜ自明なのでしょうか。「リンゴ」の学習が終わったとき、わたしたちは、タイプ「リンゴ」を理解しているのですが、その理解を他者と共有しており、タイプ「リンゴ」の理解は、Stalnakerのいう「共有基盤」になっているのではないでしょうか。語彙の知識もまた「共有基盤」の一部と考えられるのではないでしょうか。

 全てのトークンが、最初のトークンにまで遡る「照応の連鎖」を持つのではなくて、多くのトークンは、「共有基盤」の中にあるタイプに遡ると考えてもよいかもしれません。

  タイプ「リンゴ」の理解について考察するために、次に共有基盤と照応の関係を考えたいと思います。  

(補足説明:通常論じられる「照応」は、ここで論じた語の学習段階での照応ではありません。通常の照応は、語の学習が終わった後の照応です(照応をこの二種類に区別することが出来そうです。)例えば「私は昨日リンゴを買ってきました。そのリンゴはなかなかおいしいです」というとき、「そのリンゴ」は、最初の「リンゴ」を照応しています。しかし、「そのリンゴ」という句が最初の「リンゴ」を照応しているのであって、語の学習段階の照応とは異なります。)

155 照応関係の拡張(Extending anaphoric relationships) (20250501)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

 #トークンとトークンの関係としての照応

 照応を照応詞と先行詞の関係として語るとき、照応詞となる語句のその文脈でのトークンと先行詞となる語句のその文脈でのトークンの関係を語っているのであり、タイプとタイプの関係ではありません。「このリンゴ」を「それ」で指示したりするように、照応関係は、通常は異なるタイプの語のトークンの関係として成立します。

 ただし、固有名の場合には少し事情が異なる。Aさんが「この子を「ソクラテス」と名付ける」と発話して、ある赤ん坊を「ソクラテス」と名付けたとします。さらに、その場にいた別の人Bさんが、「ソクラテスが幸せな人生をおくりますように」と発話したとします。ここでの「ソクラテス」の二つのトークンは、音の並びとして同型と見做される。

ここでは、同型の音の並びが、同音異義語としてではなく、同音同義語として見做される。つまり「ソクラテス」という音の並びが、別の人物や犬や喫茶店の名前として使用されているのではなく、同一人物を指示する名前として使用されています。そして、「ソクラテス」の二番目のトークンは、一番目のトークンによる指示を照応して、それと同じ対象を指示することを意図して発話されています。同一のタイプの語「ソクラテス」の二つのトークンの関係として成立します。固有名の使用は、どの固有名の場合にも、命名の時の固有名のトークンの照応の照応の・・・という照応の連鎖によって成立しています。

#語句のトークンは、その語句が命名ないし定義されてた時のトークンからの照応の連鎖として成立する。

 単一の対象を指示する固有名以外の語、例えば一般名の場合にも同様のことが生じています。私たちがある一般名を使用するとき、その一般名が定義されたときに発話されたその語のトークンを照応して発話している。あるいは、その照応の照応の・・・という照応の連鎖によって発話しているといえます。

 同様のことは、一般名だけでなく、動詞や形容詞や副詞についても言えると思います。

何かを表示する語句であれば、その語句を定義したときのその語句のトークンの照応するものとして、その語句のトークンを理解することができます。

 さらに言えば、何か表示するのではない語、例えば接続詞の使用も、それの使用法を学習したときのその語に照応することによって成立します。

 これでは、照応関係を拡張しすぎだという批判があるかもしれません。そこで照応関係を、二種類に区別してみたいと思います。

#最広義の照応関係

 まず、次の例を見て下さい。

  「机の上のリンゴは、昨日私が買ってきたリンゴです」

ここに「リンゴ」のトークンが二つあります。もし上記のように考えるならば、タイプ「リンゴ」のトークンは、語「リンゴ」が定義された時のトークンまでさかのぼる照応の連鎖をもつはずです。しかし、ここでの二つのトークンの間には、照応関係はありません。

さらに、私は「リンゴ」の意味を知っており、それを学習したときのトークンまでさかのぼる必要を感じません。ただし、私が忘れているだけであり、私は、幼児のころに「リンゴ」という語を習ったはずです。その時のトークンの照応の連鎖が、現在のトークンにつながっているはずです。さもなければ、「リンゴ」を使用できません。

 これが最広義の照応関係です。照応の連鎖はあるはずだが、それを思い出すことは出来ない場合です。私が語「リンゴ」の意味を知っているというのは、私が語「リンゴ」の使用法(つまり、「リンゴ」を含む多くの実質問答推論)を知っているということであり、語「リンゴ」の意味に基づいて、語「リンゴ」を使用するとは、それらの実質問答推論と両立可能な仕方で、「リンゴ」を使用することです。ここでの「リンゴ」の二つのトークンは、私が知っている語「リンゴ」の使用法(つまり、「リンゴ」を含む多くの実質問答推論)に基づいているのだとすると、そのことは、語「リンゴ」の使用が、それ以前の使用の照応であるということと、どう関係しているのでしょうか。  トークンが持つはずの照応の連鎖とこの実質推論はどう関係しているのでしょうか。これを次に考えたいと思います。

154  照応の成立条件は何か  (What are the conditions for anaphora to occur?) (20250427)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

照応の推移性の場合と同様に、一回の照応関係であっても、照応が成立するために先行詞が対象を指示している必要はありません。なぜなら、先行詞が何かを指示することに失敗していても、照応関係は成立しているからです。

 では、照応関係が成立するために必要な条件は何でしょうか。照応関係がどのようなものであるかを考えてみましょう。

#照応における二重の指示(表現への指示と対象への指示)

 照応表現は、<先行詞への指示>を介して、<先行表現が指示する対象>を指示します。つまり、照応が成立するためには、この二重の指示が必要です。問答の場合、問いへの答えは、問いに含まれる表現への照応を必要とします。つまり<問いの表現への指示>と<問いの表現が指示する対象への指示>を必要とします。詳しく分析するために、次の問答の例で考えてみます。

  「課長の車はどれですか」「それはあの赤い車です」

この答えの中の「それ」は、問いの中の「課長の車」を先行詞として指示しています。この先行詞「課長の車」は指示対象を持ちますが、問う者は指示対象がどれであるかを知らず、この問いでそれを問うています。答える者は、それを知っており、答えの中でそれを教えています。ただし、答えの中の「それ」で「課長の車」の指示対象を指示しているのではなく、答えの中の「あの赤い車」で「課長の車」の指示対象を指示しています。次の問答を考えてみましょう。

  「課長の車はどれですか」「それがどれか私にもわかりません」

この問答の場合、答える者も、「課長の車」の指示対象を知りません。それでも答えの中の「それ」が、問いの中の「課長の車」を照応することは成立しています。つまり、照応関係が成立するためには、先行詞の指示対象を知っている必要はありません。たしかに、ここでの問う者も答える者も、先行詞「課長の車」の指示対象がどれであるかを知らなくてもよいのですが、しかし先行詞が何らかの対象を指示していることを理解していることは必要です。

 ここでは、「先行詞が何かを指示していることを知っている」と「先行詞が何かを指示していることを理解している」を次のように区別したいともいます。なぜなら、「先行詞が何かを指示していることを知っている」と言えるためには、「先行詞が指示している具体的な対象を知っている」こと、あるいは、「先行詞が何も指示していないとすると矛盾することを知っている」ことが必要だと考えるからです。それに対して、「先行詞が何かを指示していることを理解している」と言えるためには、「先行詞が指示している具体的な対象を知っている」ことは必要でないと考えます。

 以上の考察では、次の3つを区別しました。

  「課長の車」の意味(Sinn,意義)を知っていること

  「課長の車」の指示対象(Bedeutung)を知っていること

  「課長の車」が何かを指示していることを知っていること

 ところで、これまで照応関係を、照応詞による先行詞の照応として論じてきました。しかしこれは不正確でした。実際には私は照応関係を語句と語句の関係ではなく、発話と発話の関係として考えていたからです。

 次回は、この点を修正し、その上で、指示と照応の関係について考察したい思います。

153   照応の推移則の条件は何か  (What are the conditions for the transitive law of anaphora?) (20250426)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

前回述べた「照応関係の推移性の一般化」のための必要な条件を考えることが、今回の課題でした。最初に考えことは、次のようなことでした。<A(Yw、Zw)という照応関係が成り立つためには、Yは、Zがwで何を指示したのかを知っていることが必要であり、もしZwが他の表現を照応しているのならば、その表現が何を指示しているのかを知っていることである>ということでした。

 しかし、これの条件は過重であることにきづきました。例えば次のような場合があります。「課長の車はどれですか」という問いに「それは、わかりません」と答えることがありえます。ただし、そのときでも、問いの中の「課長の車」と答の中の「それ」の間には、照応関係が成り立っています。この場合には、問うた者も答えた者も、その指示対象を知らないのです。つまり、A(Xw、Yw)という照応が成立するためには、XはYがwで何を指示しているかを知る必要がないということです。

 (このことは、先行詞が対象を指示する名詞句ではなく、先行詞が動詞句や形容詞句や副詞句などであっても、また文や文の集合であっても、似たことが言えます。これらは、何かを指示するのではないとしても、何かを表示するでしょう。そして、その表現の表示の対象を知らなくても、その表現を先行詞として照応することはできるのです。たとえば「彼の走り方はどうでしたか」「私はそれを見ていないのです」の場合がそうです。)

 照応の連鎖は、それを構成する個々の照応が成り立つたてば成り立つとおもわれます。では、そもそも照応が成り立つための必要条件は何でしょうか。

152 照応の推移性 (Transitivity of Anaphora)(20250418)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

#指示と照応は密接な関係にあります。

 語による対象の指示が可能であるためには、その指示が反復可能でなければなりません。なぜなら、指示が成立するためには、その語がある対象を指示すること、あるいは指示できることを確認する必要があり、そのためには指示を反復して、指示できることを確かめる必要があるからです。

 例えば、私たちが「あれ」で、ある対象Oを指示するとき、「あれ」でその対象を指示することを反復可能だと考えているし、実際に発話しないとしても、「あれ」を内語で発話して、対象の指示を何度か繰り返しているのかもしれません。このとき二度目の「あれ」は最初の「あれ」を照応しています。もし最初の「あれ」を照応していないのならば、「あれ」は他の対象を指示している可能性があり、もし同じ対象を指示しているのならば、それは最初の「あれ」の照応的反復になっていのです。

#照応の連鎖

 ところで、照応関係は連鎖をなすことがあります。クリプキによる固有名の指示の因果説に対して、ブランダムは、固有名の指示を照応の連鎖(chains of anaphor)によって説明しました。Aさんが語句wによって対象oを指示するとき、この指示は、反復可能なこととして考えられています。もし反復できないのだとすると、指示できているかどうかを確認することができないでしょう。BさんがAさんのwの使用を反復して、対象oをwで指示したとき、そのwの使用は最初の使用の照応となっています。CさんがBさんのwの使用にならってoの指示をするとき、CさんもまたBさんのwの使用に照応しています。こうして照応は連鎖することが可能です。

#照応の推移性。

最初にZさんが語句wで対象oを指示したとします。Yさんは、Zさんによるwの使用に照応することによって、語句wの反復(あるいは他の語句「それ」など)によって、(Xさんがwでoを指示したそのZさんの発話した)wを介して、oを指示します。Xさんは、Yさんによるwの使用に照応することによって、語句wの反復(或いは、他の語句「それ」など)によって、(Yさんがwでoを指示したそのYさんの発話した)wを介して、oを指示します。

ここで、A (Yw, Zw)で「Yのwの使用は、Zのwの使用の照応である」を表示します。そうすると、照応の推移性を次のように表示できます。

 A (Xw, Yw) ∧ A(Yw, Zw) → A (Xw, Zw) (照応の推移性)

これを一般化すると次のようになります。

 ∀(X)∀(Y)∀(Z) (A(Xw, Yw) ∧ A(Yw, Zw) → A(Xw, Zw))(照応の推移則)

ここでR (Xw, o)で「Xによるwの使用は、oを指示する」を表示すると、照応による指示は次のように表示できます。

 A (Yw, Zw) ∧ R(Zw, o) → R (Yw, o)   (照応による指示)

ここでYによるoの指示は、Zによるoの指示を介しているので、YとZによるoの共同指示だと言えます。

 照応関係の推移性の一般化のために必要な条件は、何でしょうか。これを次に考えたいと思います。

その後で、指示が照応に基づくことを考察したいと思います。

151 共同指示は言語の共有を必要とするのか?(Does the joint reference require a shared language?) (20200411)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

#共同指示は、どのようにして成立するのか

 AとBが対象Oを「共同指示する」ときには、次が成立していると思われます。

①AがOを見る。

  • BがOを見る。

③Aが、BがOを見ていることに気づく。(Aが②に気づく)

④Bが、AがOを見ていることに気づく。(Bが①に気づく)

⑤Aが、BがOを見ていることに気づいて、Oを見る。(Aが③を介して、Oを見る。)

⑥Bが、AがOを見ていることに気づいて、Oを見る。(Bが④を介して、Oを見る。

しかし、厳密に考えるならば、これではまだ共同指示が成り立っているとは言えません。このような補足をさらに重ねる必要があります。ただし、このような補足を何度重ねても厳密な共同指示の定義にはなりません。そこで、前回提案したのは、<同一対象への共同注意ができている>と仮定して、行為して齟齬が生じた時には信念を修正する>というアプローチをすることでした。

ただし、前回のこの説明にはある視点が欠けていました。それは、<AとBが共同注意や共同指示が成立するには、同一の言語を用いることは必要ない>ということです。

#同一対象の指示は同一の言語の共有なしに可能である?

個人として、言語の規則に従うことは不可能であり、他方で他者が従っている言語規則を特定することも不可能です。ウィトゲンシュタインによれば、<言語の規則に従うことは、個人では正当化できません>、また<他者がどのような言語の規則に従っているかを特定することも不可能です>。ここから帰結することは、<二人の人が一つの言語を共有することは不可能である>ということです。

それにもかかわらず、私たちがコミュニケーションできているとすれば、DavidsonやBrandomが言うように、二人の人は一つの言語を共有しなくてもコミュニケーションできるということになります。(参照、デイヴィドソン論文「第二人称」(1992)論文「言語の社会的側面」(1994)、ブランダムMIE(たしかに、MIEに書いてあったのですが、その個所を見つけられずにいます))

デイヴィドソンもブランダムも、コミュニケーションのために必要なのは、同一の言語を採用することではなく、会話の双方が、相手の言語を理解し、相手が理解できる仕方で話すことであり、そのためには、同一の言語(言語規則)を採用している必要はないと言います。

これを、特に指示に適用するならば、二人の人が、同一の対象を指示することは、二人が同一の言語を使用しなくても、可能であると思われます。

#ただし、命名宣言により固有名の共有が可能になる。

共通の言語がなくても対象を一緒にもつことや一緒に触ることは可能です。したがって、共通の言語がなくても同一の対象の指示を共有できる場合があります。その場合、その対象に二人で同じ名前を付けることが可能ではないでしょうか。

例えば、生まれたての赤ん坊に、二人で名前を付けるとき、二人はその固有名を共有しているといえるでしょう。これと同じような仕方で、すでに名前を持っている対象を含めて、二人で新しく名前を付け直して、名前を共有することは可能でしょう。さらに、他の人たちが共有している対象の名前を学習して、その名前を共有することが可能でしょう。定義や学習によって、私たちは名前を共有することできます。また既に使用している語の使用法が、他の人々の使用法と一致するかどうかをチェックして、一致していないならば、自分の使用法を修正して、使用法を他の人々と共有することも可能です。

 次回は、前回の議論に欠けていたもう一つの論点<指示は照応に基づく>ということを論じます。

150 指示について(on referring)(20250402)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

(もともとは、次に宣言の問答、とくに命名や定義の宣言のための問答について考察する予定だったのですが、それらは指示を前提とするので、ここからはしばらく、指示行為一般について考察します。)

 (ちなみに、言語の意味論を考える上でも、言語表現への指示は重要です。語や文を使用することは、語や文の定義に依拠するのですが、語や文の定義は問答によって成立します。これらの語、文、問答の成立は、相互に依拠しており、同時に成立すると考えられます。これらの中のどれか一つの成立を前提として、それからその他のものを説明できるかもしれませんが、その場合に、最初に成立しているものとして前提したものの成立をさらに説明しようとすると、他のものに依拠する必要が生じます。このような関係を明示化しようとすると、私たちは語、文、問答を指示する必要があります。)

現在のところ、指示についてこのように考えています。<認識においてであれ、実践においてであれ、さらには言語研究においてであれ、対象の指示は、対象についての問答によって/おいて行われる。対象の指示は、共同注意や共同指示によって確実なものになり、対象についての問答は、対象についての他者との問答によってより確実なものになる(つまり正当化される)。> このような考えをこれから吟味し展開したいと思います。

共同注意と指示については、カテゴリー「共同注意と指示」で論じました。そこでは、幼児の発達における共同注意の成立をトマセロの議論を紹介して検討しました。ここでは、発達論ではなく、成人が行う共同注意と指示について考察します。

二人の人間AとBがいて、AはBが対象Oを見ていることに気づいたとします。

この場合、Aは、Oを見て、Oの存在にも気づいています。さもなければ、Bが対象Oを見ていることに気づくということはあり得ないでしょう。

この場合、AがOを見ており、BもOを見ているということが成立していますが、Oへの共同注意は成立していません。ここで、BもまたAがOを見ていることに気づくとき、共同注意に接近します。なぜなら、Aは、BがOを見ていることを介さずに、Oを見ることができますが、BがOを見ていることに注意するときには、Bを介してOを見ていると言えます。Bもまた、AがOを見ていることに注意するときには、Aを介してOを見ていると言えます。

AとBは、互いに相手を介してOを見ています。ここに共同注意が成立しているでしょうか。

①AがOを見る。

②BがOを見る。

③Aが、BがOを見ていることに気づく。(Aが②に気づく)

④Bが、AがOを見ていることに気づく。(Bが①に気づく)

この①~④が成立するだけでは、AとBがOに共同注意するにはまだ十分ではありません。

<Aは、BがOを見るようにOを見ている>と述べましたが、これはより正確に言えば、<Aは、BがOを見るのと同じ仕方だとAが思っている仕方で、Oを見ている>ということです。<Bもまた、AがOを見るのと同じ仕方だとBが思っている仕方で、Oを見ている>ということになります。

この場合、<BがOを見る仕方>と<BがOを見るのと同じ仕方だAが思っている仕方>が、一致していない可能性があります。また、<AがOを見る仕方>と<AがOを見るのと同じ仕方だとBが思っている仕方>が、一致していない可能性もあります。

ところで、このように<Oを見る仕方>については、AとBで一致していない可能性があるとしても、<対象Oを見ている>ということについては、一致が生じていると言えるかもしれません。なぜならAがOを見るのは、BがOを見ることを介しており、BがOを見るのは、AがOを見るのを介しているからです。しかし、ここでも二人が同一の対象をOとして指示していることを確証することは出来ません。共同注意が不確実であるならば、指示対象についての理解の同一性だけでなく、指示対象の同一性もまた不確実です。

<指示対象についての理解の同一性だけでなく、指示対象の同一性もまた不確実である>というこの情況に対処する一つの方法は、多くの認識の場合と同様に、<共同注意ができている>と仮定して、行為して齟齬が生じた時には信念を修正するというアプローチをとることです。

ただし、共同注意であるために必要なことは、複数の人間が同一の対象について同一の理解をしているというだけでなく、その理解を共有することによって、その理解が成立しているということです。このような意味での共同注意が成立するのは、問答によってです。例えば、AがBに「Oは赤色ですか」と問い、Bが「はい、Oは赤色です」と答え、Aが「そうですよね」と同意するとしましょう。この問答が成立するとき、Bは、Bの返答の中の「O」で、Aの質問の中の「O」と同じ対象を指示していると見做して答えており、Aが、Bの発話を自分の問いへの答えと見做しているとき、Bの返答の中の「O」とAの質問の中の「O」が同じ対象を指示していると見做しています。

次回は、問答の中で共同注意や指示が成り立つことについて、もう少し詳しく検討したいと思います。

149 どのような仕方で意思決定の問いを問うかは、より上位の目的に依存する(How we ask decision questions depends on higher objectives)(20250322)

(3月19日に大河内さん主催の「推論主義研究会」で「ブランダム=ヘーゲルの承認論とフィヒテの承認論」というタイトルで発表しました。その準備の段階で「共同承認」というアイデアを思いついたので、これを展開したいと思っています。その時の発表原稿については、こちらをご覧ください。

https://irieyukio.net/ronbunlist/presentations/PR50.pdf

この発表準備のため、このカテゴリーでの更新が中断していました。)

前回見たように、現実の行為のためには、多くの事柄を決定しなければならなりません。お昼ご飯を、「いつ」「どこで」「誰と」「何時に」「何を」食べるか、などを決定しなければばならないのですが、実際に設定する意図決定の問いは、例えば、その一部を明示化した次のようなものになります。

  「何を食べようか」

こう問うときには、すでに多くのことが暗黙的に決定されているでしょう。まだ決定していないこともあるかもしれませんが、それはこの問いに答えた後、あるいはこの問いに答える途中で答えることができるでしょう。どのような仕方で行為の決定を問うか、つまり「何をするか」を問うことは、どの要素を重視するかに依存しています。

行為のある要素を他の要素より重視するのは、より上位の目的の実現にとって、その要素が重要だからででしょう。

(この後は、宣言的問答についての考察したいと思います。)