102 記憶の問題 (Memory problems)(20240117)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

「あれが富士山です」という命名宣言が成立するには、「あれ」による指示が成立しなければなりませんが、それを確認するためには「「あれ」というのはどれですか」という問いに「あれです」と答えるという問答が必要です。この問答が自問自答であれば、この問答が正しいか、正しいと信じているだけか、区別できません。指示できるためには、指示を確認できなければなりません。そして指示を確認するには、(自問自答では、規則に従うことができないので)最終的には、他者との問答が必要です。したがって、命名宣言が成立するには、他者との問答が必要です。

 こうして命名宣言が成立した後で、「あれが富士山です」と事実についての主張が行われたとき、それが真であるためには、命名のときに「あれ」で指示した対象を、主張において「あれ」で指示していることが必要です。そのためには、命名の時に「あれ」で指示した対象を記憶している必要があります。この記憶が正しいのか、正しいと信じているだけなのか、を区別するには、他者との問答が必要です。(これは、記憶によって人格の自己同一性を正当化しようとするときにも、他者との問答が必要であることを意味しています。)

したがって、命名宣言が成立するには、他者との問答が必要ですが、命名とその記憶に基づいて「あれが富士山です」と事実を主張するときにも、他者との問答が必要です。

そこで、次に「他者と問答できていることと、他者と問答できていると信じていることの区別について」考えたいと思います。

101 指示性の固定性と指示の不可測性は両立可能である(Rigidity of reference and inscrutability of reference are compatible) (20240113)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

#富士山の命名は、次の発話によって行われます。

  「あれが富士山です」

この命名宣言には、真理値はありません。しかし、この宣言の後で、「あれが富士山です」と語るとき、(命名宣言の反復である場合もあるでしょうが)真理値を持つ事実の記述となることが可能です。この記述が真であるためには、記述の「あれが富士山です」の「あれ」が、命名の「あれが富士山です」の「あれ」と同一の対象を指示していなければなりません。逆にいえば、もし「あれが富士山です」が真であるならば、その「あれ」は命名宣言の中の「あれ」と同一対象を指示しています。

記述「あれが富士山です」が真である ≡ 記述「あれが富士山です」の「あれ」の指示対象と命名「あれが富士山です」の「あれ」の指示対象が同一である

命名宣言の中の「あれ」が何を指示しているのかが、クワインが言うように不可測(inscrutable)であるとしましょう。仮に命名宣言の中の「あれ」の指示対象が不可測であり、複数の可能性をもつとしても、指示されている可能性を持つそれぞれの対象について、真なる記述「あれが富士山です」の中の「あれ」が、命名宣言の中の「あれ」と同一の対象を指示していると想定することは可能です。

 もし「富士山」を命名した者が「あれ」で指示していたものと、それを学習した者が「あれ」で指示しているものが、ズレているならば、「あれが富士山です」という記述の真理値に関して、命名者と学習者に不一致が生じるでしょう。不一致が生じる限り、そのことは、学習者の学習がまだ完了していないことを意味します。学習が完了したならば、それは一致するはずです。もちろん、学習が完了したと思っていたのに、ある時、その用法について不一致が生じることはありえます。

次に一般名の定義を考えましょう。s「あれはブナです」と定義したとします。この「あれ」が指差しの方向にある木を指示しているのだとしても、どのような木であるのか、不可測であるとしましょう。

しかし、「あれはブナである」が真なる記述であるならば、その「あれ」は、定義の中の「あれ」と同種の対象を指示していることになります。「あれはブナである」が真なる記述であれば、その「あれ」は常に定義の中の「あれ」と同種の木を指示しているのです。これは自然種名「ブナ」の固定指示性です。

#命名の固定指示と指示の不可測性は、両立可能です

仮定1(命名の固定指示):「この子をソクラテスと命名する」という命名発話によって、この固有名「ソクラテス」はすべての可能世界で同一対象を指示することになると仮定してみます。

仮定2(指示の不可測性):この命名発話「この子をソクラテスと命名する」の「この子」による指示は不可測的であり、その指示対象については複数の可能性が残ると仮定してみます。

この二つの仮定は両立可能でしょうか。「この子」の指示対象について複数の可能性があるならば、「ソクラテス」の指示対象も複数の可能性をもちます。「ソクラテス」は、すべての可能世界で、同一の対象を指示しますが、しかしその同一の対象は複数の可能性を持ちます。このように考えるとき、この二つは両立可能です。

#自然種名の固定指示と指示の不可測性は、両立可能です

仮定1(自然種名の固定指示):「これは、リンゴである」という定義の宣言発話によって、この固有名「ソクラテス」はすべての可能世界で同一対象を指示することになると仮定してみます。

仮定2(指示の不可測性):この命名発話「この子をソクラテスと命名する」の「この子」による指示は不可測的であり、その指示対象については複数の可能性が残ると仮定してみます。

この二つは、両立可能ですs。指示の不可測性は、指示の解釈につねに複数の可能性が残るということですが。その複数の可能な対象の各々について、定義がそれを固定指示していると考えることができるからです。

(以上の説明での「固定指示」や「指示の固定性」は、固有名や一般名の使用の状況や文脈が異なっても、同一の対象を指示するという一般的な理解であり、可能世界の貫世界的同一性を認めるかどうかなどの、固定指示についての論争に踏み込んだものではありません。これについては、勉強してから別途論じたいと思います。)

次に、記憶の問題を考えたいとおもいます。

以前に、問いの答えが真であることは、次のことに基づくと述べました。

  • 言葉の学習に基づく
  • 語や文の定義に基づく。
  • 1,2からの推論に基づく
  • 1,2の記憶に基づく
  • 1,2,3,4,5についての他者の承認に基づく

ここまで論じてきたのは、1と2についてです。

次に記憶の問題を考えたい思います。

100 指示するとはどういうことか(What does it mean to refer?) (20240102)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

(明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。)

問いに対する答えが真であるとはどういうことか、を考えており、最も基礎的な真理としては、語「リンゴ」を学習したときの「これはリンゴである」を真なる命題として学習するので、とりあえず個人にとってはこれは問いに対する答えが真である、もっともの基礎的な例になるだろうと考えました。ただし、語の学習は教える人の知識に依存しており、それを遡れば、最初に「リンゴ」という語を作ったときに遡ると考えました。命名や定義によって語を語を導入するとき、そこ使用される「これはリンゴである」のような命名や定義の宣言発話は、真理値を持ちませんが、それに依拠して「これはリンゴである」とか「これはリンゴではない」とかいう発話は真理値を持ち、問いに対する答えが真であるのは、命名や定義に依拠することによって成立することになります。そして、前回述べたように、命名や定義をするためには、対象ないし対象の集合を指示しなければなりません。そこで、指示するとはどういうことか、を考えたいとおもいます。

#指示は、命名や定義を前提する。

 まず、命名と定義の時に限らず指示一般について考えてみます。指示するとは、対象を指示することです。指示対象には、具体的な個物、抽象的普遍、具体的性質、普遍的性質、具体的関係、普遍的関係、具体的出来事、普遍的出来事、言語的トークン、言語的タイプなどがあり、これらは、名詞ないし名詞句で指示できます。

 名詞ないし名詞句を用いて対象を指示するのだとすれば、指示に先立って、名詞ないし名詞句の学習が必要です。学習が可能であるためには、教える人が学習を終えていることが必要です。そしてこれを遡れば、名詞ないし名詞句の命名ないし定義に行き着きます。つまり、一般的には、指示は、名詞ないし名詞句の命名や定義を前提とします。

#指示と命名・定義は循環するのか?

 このように考えるとき、指示の説明と、命名や定義の説明は、循環してしまうのでしょうか。前回見たように、命名や定義は、逆に指示を前提とします。すると、説明が循環しそうです。しかし、命名や定義が前提とする指示が、他の名詞や名詞句を使用している場合には、これらの他の名詞や名詞句の命名や定義を説明するときに、当初の名詞や名詞句を使用しないようにするならば、循環は避けられると思います。このようにして循環を避けながら遡っていくならば、命名や定義が前提とする指示が、他の名詞や名詞句を使用せずに行われるケースに行き着くでしょう。この場合の指示は、指さし行為+指示詞の発話に遡るかもしれませんが、これはさらに、指さし行為と相手の注意を喚起するための発声(「アー」や「オー」など)を結合したものへと遡ることができるでしょう。(この発声は、次の2や3に発展します。)

#命名や定義の発生順序

命名や定義の発生の順序は、おそらく次のようになるだろうと推測します。

1,自分が注目している対象に相手の注意を向けさせるために指差し行為と発声をすること

2,ある特定の対象に相手の注意を向けさせるために指差し行為とある特定の発声をすること(日本語の場合、「これ」「あれ」「それ」など、これは様々な対象の指示に使用できる)。

3,ある対象と特定の発声を結合すること(「ミルク」「おもちゃ」「ママ」など)。

現在のところ、このような段階を経て固有名の命名や一般名の定義が行われるようになるだろうと推測しています。

#語が作られる理由

このようにして生じると推測する語の発生ですが、言語の習熟が進んだ後では、自問自答によって語が作られる場合もあるでしょうが、原初的には、他者とのコミュニケーションのために語が作られるのだと思います。他者とのコミュニケーションのために語を作る理由としては、例えば次のようなことが考えられます。

(1)語があれば、対象が不在であってもその対象への共同注意が可能になります。

例えば、「リンゴをとってほしい」ということを伝えようとするとき、「リンゴ」といって手を伸ばせば、リンゴがそこになくても、リンゴをとってほしいということを伝えることができます。「何が欲しいのか」という問いに答えようとするとき、リンゴがそこにないときには、語「リンゴ」がないと伝えられません。

(2)そもそも指差し行為ができない対象への共同注意を求めるには、その対象を語句で指示することが役に立ちます。例えば、「おしっこ」「痛い」など。

これらのケースでは、語を作るのは、共同注意を生じさせるためであり、共同注意が必要になるのは、協働作業のためであろうと推測できます。

#命名と定義は固定指示です。

クリプキによれば、「この子をソクラテスと命名する」という命名宣言が承認されたなら、この「ソクラテス」はすべての可能世界で同一対象を指示します。「水はH2Oである」という定義宣言が承認されたなら、「水」はすべての可能世界で同一種を指示します。

 「水」の定義「水はH2Oである」は、H2Oの集合と名前「水」を結合しています。この定義によって、「水はH2Oである」はアポステリオリで必然的に真です、言い換えると認識的に偶然的であり、形而上学的に必然的です。この定義によって、「水」は固定指示となります。ゆえに、定義の前でもこれは真となります。

#固有名の命名の規約に依拠する真なる答え

「この子はソクラテスである」によって、固有名を作ったとしましょう。固有名は固定指示です、つまりあらゆる可能世界で、「ソクラテス」は同一の人物を指示する。クリプキは、これを規約だという。この規約は次のようなものになるだろう。

<「この子」という名詞句は、この世界ではある一人の人物を指示する。そして、その人物が他の可能世界にいるかどうかわからないが、もしいたとすると、その人物を指示する。>と規約する。

この命名の規約に基づいて、ある人物を指して「この人は誰ですか」という問いに、「この人はソクラテスである」と答えるべきであることになる。この答えは、

 (1)「「この人」の指示対象が誰であるか」の答え

 (2)「ソクラテス」の命名宣言文「この子はソクラテスである」

 (3)「この人」の指示対象と命名宣言の「この子」の指示対象が同一であること

この3つを前提として、そこから結論として推論される。「この人は誰ですか」という問いに対する答え「この人はソクラテスである」の真理性は、この推論に基づく。前提の(1)は経験的な理論的問いの答えである。前提(2)は、命名の規約である。前提(3)はもまた、経験的な理論的問いの答えである。

#自然種名の定義の規約に依拠する真なる答え

自然種名を作ることは、命名とも呼べるが、定義とも呼べる。命名という場合には、「これは、リンゴである」と命名する前に、すでに対象<リンゴ>は同定されている。定義という場合には、対象<リンゴ>が事前に同定されている場合と、語「リンゴ」の定義によって、対象<リンゴ>の同定(定義)が可能になる場合がある。どちらの定義の場合にも、定義による対象の表示は、固定指示であるが、より原初的なのは、定義のこの後者の場合であろう。そして、この固定性もまた規約である。

この定義の規約に基づいて、ある対象を指して「これは何ですか」という問いに、「これはリンゴです」と答えるべきであることになる。この答えは、

 (1)「「これ」の指示対象がどれであるか」の答え

 (2)「リンゴ」の定義宣言文「これはリンゴである」

 (3)「これは何ですか」の「これ」の指示対象と定義宣言文の「これ」の指示対象が同一であること

この3つを前提として、そこから結論として推論される。「これは何ですか」という問いに対する答え「これは、リンゴです」の真理性は、この推論に基づく。前提の(1)は経験的な理論的問いの答えである。前提(2)は、命名の規約である。前提(3)はもまた、経験的な理論的問いの答えである。

理論的な問いに対する答えである(単純な知覚報告を含む)事実の記述は、推論によって成立しますが、その前提ととして、命名や定義だけでなく、知覚、記憶、概念関係もまた前提として必要としています。つぎにこれについて考えたいのですが、その前に、クワインの指摘した「指示の不可測性」と固定指示の関係についての考えたいと思います。

99 定義は宣言型発話の一種である(A definition is a type of declarative utterance.) (202312228)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

(理論的問いに対する答えが真であること、とりあえず知覚報告「これは赤い」が真であること、を考察している途中です。それを「赤い」の学習に遡り、さらに「赤い」の定義に遡り考察している途中です。)

#定義発話の適合の方向

 語「水」の定義「水はH2Oです」の発話は、真理値を持つ主張型ではなく、宣言型発話になります。サールによれば、発話は「適合の方向(direction of fit)」を持ち、主張型は言葉を世界に適合させ、命令や約束は、世界を言葉に適合させようとします。宣言型発話は、この両方向の適合方向を持ちます。定義もまた両方向をもちます。したがって、定義は宣言型発話の一種だと言えます。

 ただし宣言型発話には、定義以外のものもあるので、宣言型発話の区別を論じます。

#宣言型発話の区別

宣言型発話は、次のようなものがあります。(これ以外にも、あるかもしれませんし、別のタイプの区分が可能であるかもしれません。)

行為宣言型:「開会します」「賞を授与する」

「…することを誓います」は、約束でしょうか、宣言でしょうか。(行為宣言型と行為拘束型発話(約束がこれに含まれる)との関係については別途考える必要がありそうです。)

主張宣言型:「アウト」「有罪とする」など審判、判決の発話

これは宣言であると当時に、事実の記述でもあります。野球の審判が「アウト」という場合のように、宣言であると同時に真理値も持ちます。「アウト」は事実についての記述に基づく判定です。

審判の間違いは、事実から判定を引き出すことではなく、事実についての記述の部分で間違うのです。事実から、ゲームの規則に基づいて、「アウト」という判定を引き出すのだとすると。という主張宣言型発話は、「アウト」という語の意味を前提としています。

命名宣言型:名づけの発話

個別的対象ないし対象のある集合が、ある語をその名前とすることを宣言することです。例えば、植物学者が、新しい種を発見して、それに命名するという場合です。

・定義宣言型:語や対象の定義を与える宣言。

「定義」とは、たとえば「正三角形」の定義は、「正三角形」という語の意味を確定すること、あるいは、正三角形である対象の集合を確定すること、です

*定義宣言型と主張宣言型との差異

主張宣言型では、使用する語「アウト」の意味はすでに成立しており、その適用について宣言するものです。それに対して、語の定義は、語の意味を前提とせず、定義によって語の意味を設定する。「定義」とは、対象の集合と名前を結合することです。

*定義宣言型と命名宣言型との差異

植物学者が発見した新種に命名するとき、命名の前に新種の同定はできています。それに対して色の名前の定義の場合、色名の定義の前に色の同定はできていません。

*宣言の相関質問

記述は理論的問いへの答であり、意志決定は実践的問いへの答えです。

行為宣言の相関質問は実践的問いです。

主張宣言の相関質問は理論的問いです。

命名宣言の相関質問は実践的問いです。

定義は?(これについては、次回に指示について考えた後で、考えたいと思います。

 何を前提するか真理値を持つか、相関質問の例
行為宣言行為タイプを前提する 「私は首ですか」 「誰を首にしますか」「執行猶予3年とする」
主張宣言事実と記述タイプを前提する宣言と独立に、その命題は真理値を持つ「アウトか、セーフか」「有罪か無罪か」
命名宣言対象を前提する宣言後、真理値を持つ「どう名付けますか」「名前を何にしますか」
定義宣言宣言後、真理値を持つ

#命名や定義と指示

命名や定義をするためには、対象ないし対象の集合を指示する必要があります。命名の場合には、命名に先立って指示を行っています。定義の場合には、定義と同時に指示を行っています。指示するとは、対象を指示することであり、指示対象が存在することを伴っているように見えますが、指示するとはどういうことであり、それはどのようにして可能なのでしょうか。これを次回に考えることとします。

98 語「赤い」の定義について (About the definition of the word “red” (20231223)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

語「赤い」を定義するには、「語「赤い」を次のように使用することにする」と宣言して、いくつかの対象について「これは赤い」と宣言し、いくつかの対象について「これは赤くない」と宣言し、「このような仕方で「赤い」を使用することにする」と宣言すればよいでしょうか。

 語の学習が、同時に語が表示する対象の学習になるように、語の定義は、同時に語が表示する対象の定義になります。定義には、真理値がないとしても、その後のその語の使用は真理値を持つ場合があります(真理値を持たない発話もあります)。新しい対象について「これは赤いですか」「はい、これは赤いです」という問答の答えが真であるとは、定義の時に使用された諸対象の性質と、現在の対象の性質が類似しているということでしょう。

 この「赤い」の定義は、学習によって他の人々に共有されます。ちなみに、語「赤い」を学習するための問答「これは赤いですか」「はい、これは赤いです」の答えは真である必要があります。しかし、語「赤い」の定義のために、ある対象について「これは赤い」と語る時の、「これは赤い」は、記述ではなく、語の正しい使用の設定であるので、真理値をもちません。 学習の時の「これは赤い」は「「これは赤い」は真である」と同値ですが、定義の時の「これは赤い」は「私は「これは赤い」を真と設定する」と同義です(同値ではありません。なぜなら同値であるためには真理値をもつ必要があるからです)。

 このように知覚報告の「これは赤い」の真理性は、遡れば語「赤い」の定義に基づくのですが、しかし、定義だけに基づくのではありません。私たちは、「赤い」の定義を変更でき、定義を変更すれば、「これは赤い」が真となる対象もまた変化します。しかし、定義を変更しない限り、(その他の条件が同じならば)「これは赤い」が真となる対象が変化することはありません。定義を変更していないにも関わらず、「これは赤い」が真となる対象が変化したとすると、それは個別の対象の側が変化したのだと考えられます(例えば、対象が時間経過とともに色褪せたとか、対象にあたる光が変化したとかです)。

 つまり、ある対象について「これは赤い」が真であることは、対象が変化しない限り変化しないということです。対象が変化したかどうかは、文の真理値が変化したかどうかで判定できます。対象が変化するとは、その対象を記述する何らかの文の真理値が変化するということです。

  文の真理値の変化対象の変化 の「置換表象」(ドレツキの言う意味での)になっています。

・逆にいえば、文の真理値が変化しないことは、対象が変化しないことを示しています。

・文の真理値が変化しても変化しなくても、文が真理値をもつということは、その文が指示している対象が変化しても変化しなくても、その対象は存続しているということです。

・対象が実在するということは、その対象についての記述が真理値を持つということである。

・文が真理値を持つとは、その文を答えとする問いを立てるのは自由だが、その問いにどう答えるべきかは決定されている、ということである。

・対象が実在するということは、その対象についての記述が真理値を持つということである。

次に、定義が、宣言型発話の一種であることを考察します。

97 問いに対する答えが真であるとはどういうことか(What does it mean for an answer to a question to be true?)(20231221)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

93回と94回では、問いの答えを知覚に依拠して得る場合と、推論によって得る場合を区別しましたが、ここではこの区別について再考したいとおもいます。以下に見るように、問いの答えを知覚に依拠してえる場合にも、私たちは推論を行っていると思われます。(問いに答えるときには、常に何からの推論が行われているだろうと予測します。ただし、問いに答える場合を、知覚に依拠する場合と、知覚に依拠しない場合に区別することはできると考えます。)

例えば、「これは赤いですか」と問われて「はい、それは赤いです」と答えるとき、私たちは、「赤い」を学習したときの事例の知覚断片と、ここでの「これ」や「それ」が指示する対象の知覚断片の類似性にもとづいて答えています。この場合ここでの「それは赤いです」という答えの真理性は、学習時の事例の知覚断片およびそれとの類似性からの推論に依拠しています。(ただし、この推論は、通常の言語的な推論つまり命題関係としての推論ではありません。いずれ考察する予定です。)

ここでの問いの答え「それは赤いです」の真理性は、

・これは赤い」を学習したときのその真理性、

・その時の知覚断片と現在の知覚断片の類似性、

・これらからの推論の妥当性、

に基づいています。

*まず、「これは赤い」を学習したときのその真理性について、考えてみましょう。

 子供が「これは赤いですか」と問い、大人が「これは赤いです」と教えたとしましょう。このとき大人は誠実な人であり、「これは赤い」が真であると信じて答えているとします。このとき、「これは赤い」が真であるとはどういうことでしょうか。

 このとき、その大人に「あなたはなぜこれは赤いと考えるのですか」「あなはなぜ「これは赤い」が真であると考えるのですか?」と問うならば、大人は「なぜなら私はそのように教わったからです」と答えたとしましょう。その大人は、それとよく似た対象をもとに、「これは赤い」が真であると教わったのです。「これは赤い」と教えた人に教えた人に教えた人に…、というように遡っていけば、「これは赤い」を最初に使った人に行き着くでしょう。その人は「これは赤い」ということを教わったのではなく、ある対象について「これは赤い」を真だということにしましょうと提案したのです。そして、その提案が受け入れられ、それが次々に継承されて、ここでの子供による「これは赤い」の学習につながっているのです。

 このような連鎖が可能であるとするとき、「これは赤い」の最初の提案(定義)が真であるとはどういうことでしょうか。  定義に真偽の区別はあるのでしょうか。<定義としての「これは赤い」の相関質問は、理論的問いではなく、実践的問いである>と思われます。実践的問いの答えは、記述ではなく、したがって真偽の区別はなく、自由な決定だと思われます。これについて次に考えたいと思います。

96 仕切り直し、語と対象、文と事実、問答推論、などの学習(Toward a reorganization: Learning words and objects, sentences and facts, question and answer reasoning, etc.)(20231216)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

(長く中断してすみません。考えあぐねていました。93回~95回の議論を仕切り直して、もう一度論じたいと思います。論じたいのは、「問いに対する答えが真であるとはどういうことか」です。なぜなら、問答推論に着目して認識論を論じようとするならば、認識が成立するとは、問いに対する答えが真となるということに他ならないからです。この問いに取り組前に、今回は準備段階として、語、文、問答などの学習がどのように行われるのかをセッツ名したいと思います。)

#語と対象、文と事実、問答推論、などの学習

<語の学習は対象の学習と不可分である>

語「リンゴ」の学習は次のような問答によって行われるでしょう。

  「これはリンゴですか?」「これはリンゴです」

  「これはリンゴですか?」「これはリンゴではありません」

学習者がこのように問い、教師役のひとが このように答えを教えてくれます。このような問答を多くの対象について学習します。。それに基づいて、まったく新し対象について「これはリンゴですか?」と自問したり他者から問われたりしたときに「これはリンゴです」とか「これはリンゴではありません」と正しく答えられるようになった時、語「リンゴ」を学習したと言えるでしょう。

この時同時に、私たちは対象<リンゴ>が何であるかを学習しています。オースティンが指摘したように、語の学習と対象の学習は、同一のプロセスで行われる(注、オースティン「真理」信原幸弘訳、『オースティン哲学論文集』坂本百大監訳、勁草書房、191)。語「リンゴ」の学習と対象<リンゴ>の学習は不可分であり、同時です。つまり<語の意味の学習と語の指示対象の学習が不可分です>。(これは、フレーゲのSinnとBedeutungに対応します。)

<語の学習は、文の学習と不可分であり、さらに問答の学習と不可分です>

このような語と対象の学習において、同時に、「これはリンゴですか」という疑問文で問うことの学習と、「はい、これはリンゴです」あるいは「いいえ、これはリンゴではありません」という平叙文で答えることの学習も行っています。それゆえに、語「リンゴ」の学習と文「これはリンゴである」の学習は不可分に結合しています。「リンゴ」を学習するには、「これはリンゴである」がどのようなとき使用できるのか、どのようなときに使用できないのかを、学習する必要があります。そして、これを学習するためには、上記のような問答が必要です。それゆえに、語の学習は、文の学習だけでなく、問答の学習とも不可分に結合しています。

  

<この問答を学習するには、どうすればよいのでしょうか>

この問答の学習には、二種類のケースがあります。

一つの場合は、この学習が「これは、…ですか」とか「これは…です」のという一般的な形式の理解を前提として、この…に「リンゴ」を入れた疑問文や平叙文の理解として生じる可能性です。この一般的な形式の理解は、このような問答をいくつか学習し、そこからの抽象によって得られるでしょう。

もう一つのケースは、この問答の学習が、このような一般的な形式の理解を前提としておらず、初めてこの形式の問答を理解することになる可能性です。この後者のケースが、より原初的であるので、それがどのようにして可能になるのかを考えてみましょう。

幼児が最初に語を使用し始めるとき、それは一語文でしょう。親も亦、ミルクを手にもって振りながら「ミルク」という一語文を語るでしょう。最初から「これはミルクです」という文を理解することは難しいからです。

ミルクビンを手にもって、それに注意を向けるためにそれを揺らしながら、「ミルク」と発話するとき、「手に持っているこれが、ミルクだよ」というつもりで語っています。

ミルクビンを手にもって幼児の目の前で揺らすとき、おとなと幼児がそれに共同注意することが成立します。そのとき「ミルク」ということによって、共同注意の対象を「ミルク」と呼ぶことが成立します。

ミルクビンを振ると、それは変わった動作なので幼児はそれに注目します。そして大人もまたそれに注意を向けていること、おとなと幼児がミルクビンに注意しそのことを互いに気づいているとき、おとなが「ミルク」というとき、おとなと幼児は、「ミルク」という発話にも共同注意するでしょう。幼児は、そのとき大人が「ミルク」という発話と対象を結び付けていることに気づくでしょう。そのようなことが繰り返すことによって、幼児はその対象と「ミルク」という発話を結合します。大人が「ミルク」というときその対象のことを考えているのだと考えるようになるでしょう。

大人がミルクビンを指さして「ミルク」と発話することを繰り返せば、幼児は大人が指さしたものへの大人との共同注意を行うことができるようになるでしょう。これが学習で来たならば、対象を指さしとき、「ミルク」と発話することを求めていると考えるようになるのではないでしょうか。あるいはそう考えていなくても、そのとき「ミルク」といったら大人が喜ぶ様子を見ることを反復すると、ミルクビンを大人が指さしたら「ミルク」というようになるかもしれません。ちなみに、これはオペラント反応ではありません。なぜならオペラント反応は反射の一種であり、それを思考とは言えませんが、ここでは思考が行われているからです。相手が何を指さしたときに、それの呼び方を求めているのだと考えることは、それまで反復されていた指さし行為を見るという、経験と記憶に基づいた、推論によることだからです。つまり、ここではある対象を指さすことは、それの呼び方を求めることになります(これは言語的な問いのもっとも原初的な形態であるでしょう。)

同様にしてある対象指さしながら「これ」と発話し、対象に共同注意し、同時に「これ」という発話にも共同注意することを繰り返せば、「これ」と指さしている対象が結びつき、「これ」という発話で、指さしている対象に注意を向けるようになるでしょう。そして、今度は、ミルクビンだけでなく、スプーンやおもちゃなど様々な対象をもって振ったり、指さしたりしながら、「これ」と大人がいうのを、対象と「これ」の発話に共同注意をするとき、「これ」という発話は、おとなが手に持っている対象や、指さしている対象と結びつくことになるでしょう。

「これ」と発話してある対象を指さし、次に「ミルク」と発話することを繰り返せば、「これ」の指示対象と「ミルク」という発話が結びつくようになるでしょう。このような学習が進めば「これ、ミルク」という発話で、「これ」の指示対象を「ミルク」と呼ぶことを学習するようになるでしょう。

同様にして、「これはおしゃぶり」「これはおもちゃ」「これはランプ」なども学習すれば、ある対象を指さして「これは」といえば、それに続いて、「ミルク」「おもちゃ」などの対象の名前を発話することを求めているのだと理解するようになるのではないでしょうか。

ここでは「これは」という発話は、「これ」の指示対象の呼び方を問うことです。これは疑問表現を用いないで問うことである。「これ」の指示対象の呼び方を問うことを明示化するために、「これは何」「これはミルク」、「これは何」「これはおもちゃ」などの発話のペアを大人が聞かせれば、「これは何」で「これ」の指示対象の呼び方をもとめているのだと理解するようになるでしょう。こうして「何」という疑問詞の使用法を理解するようになるでしょう。

このようにして問答が成立するとき、私たちは問いに対する答えが真であると考えるが、それはどういうことでしょうか。それを次に考えたいとおもいます。

95 推論規則MPの正当化とその事例の正当化区別から仕切り直しへ(the distinction between the justification of the inference rule MP and the justification of its cases — toward a reorganization) (20231204)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

#推論規則MPの正当化とその事例との正当化の区別

「これがリンゴであるならば、これは果物である」という条件法を真だと考える者は、「これがリンゴである」を真であると考えるときには、「これは果物である」を真だと考えるでしょう。したがって、「これがリンゴであるならば、これは果物である」と「これはがリンゴである」を共に真だと考えるときには、「これは果物である」を真だと考えるでしょう。つまり<「これがリンゴであるならば、これは果物である」、「これはがリンゴである」┣「これは果物である」>という推論を妥当だと考えます。

以上を認めるとします。つまり、「これがリンゴであるならば、これは果物である」という条件法を真だと認める者は、<「これがリンゴであるならば、これは果物である」、「これがリンゴである」┣「これは果物である」>という推論を妥当だと認めることになります。

この推論の形式を一般化すれば、MPとなります。したがって、このような推論を数多く行えば、それらかの一般化によって、明示化されたMPを獲得できるかもしれません。それが獲得できたならば、この推論は、MPの一事例であることになります。

このように考えるとき、私たちは、第一段落のような推論からMPを(帰納ないし一般化によって)正当化しているのであって、MPを用いてこの推論を行ったのではありません。

では、冒頭の段落の推論はどのようにして成立したのでしょうか。それは「これがリンゴであるならば、これは果物である」という条件法を真だとみなすことに依拠していました。p→rと考えることから、p→r、p┣r と推論することになったのです。p→rを真だとみなすことは、暗黙的にp→r、p┣rという推論できるということを含んでいるのです。

これまで、推論はMPによって行われ、それはp→rのような条件文を使用するので、p→rの真理性を考えてきました。しかし、推論はMPによって正当化されるとは限らないことが、わかりました。推論規則MPの妥当性が正当化された後には、MPに依拠して推論をおこない、それを正当化することができるのですが、MPの正当化が行われる前に、MPに依拠しないで私たちは推論をしているのです。それがより原初的な推論です。

#仕切り直しへ

わたしたちは、93回から、問いに対する答えが正しいとはどういうことかを考えてきました。

問いに対する答えが正しいとは、問いが理論的な問いである場合には、答が真であることであり、問いが実践的な問いである場合には、答が適切であることだと考えます。認識は理論的な問いに答えることであるので、認識の正当化とは、理論的な問いに対する答えが真であることであり、問いに対する答えが真であるとはどういうことかを、考えてきました。その際、問いに対して知覚に依拠して答える場合と、推論によって答える場合にわけて、考察してきました。そして、推論は、MPに依拠して行われると考えてきましたが、原初的な推論はMPに依拠しないと思われることがわかりました。

さらに、実はこの原初的な推論においては、問いに対して知覚に依拠して答えることと、推論によって答えることの区別もまた曖昧になってきます。そこで理論的問いに対する答えが真であるとはどういうことかを、次回から、仕切り直して論じることにしたいと思います。

95 因果関係の正当化とMPの正当化(Justification of Causality and Justification of MP) (20231130)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

(2)の因果関係は、経験によって認識され正当化されるだろうが、それは具体的にはどのようになされるのでしょうか。

 例として、次の因果関係を考えてみましょう。

  「雨が降る」→「道路が濡れる」

前件の「雨が降っている」という文の学習は、「今ここで雨が降っていますか」「はい、今ここで雨が降っています」という問答を学習することを繰り返すことによって、新しい状況で「今ここで雨が降っていますか」という問いに正しく答えられるようになることによって完了します。「雨が降っている」という前提が成り立つことは、規約の学習と、規約を学習したときの事態の知覚と問答の時点での事態の知覚の類似性によって正当化されます。

 後件の「道路が濡れている」という文の理解は、次のようになされるだろうと思います。「これは道路である」と「これは濡れている」についての(「これはリンゴである」の場合と同様の)学習を前提するとき、「この道路は濡れていますか」という問いに、「この道路は濡れています」と正しく答えることができるはずです。それは、「この道路」の指示対象の知覚が、「これは濡れている」を学習したときの対象の知覚と類似していることの認識によって成立するはずです。

 この前件と後件の恒常的な結合の認識、つまりこの因果関係の認識は、雨が降っていることを認識し、その雨が道路を濡らしていることを認識し、雨が降ると道路が濡れることを認識することを繰り返すことによって、「雨が降ると、道路が濡れる」を帰納推理することよって正当化されるでしょう。

#MPの正当化について

  p、p→r┣r

このMPが成立することは、p→rが成立するとは、pが成立したらrが成立するということです。したがって、「p→rが成立している」と考えるとは、「pが成立したら、rが成立する」と考えることです。それゆえに、「p→rが成立している」と考えるときに、「pが成立している」と考えるならば、「rが成立すると考えることになります。つまり、「p→rが成立している」と考えることは、「p、p→r┣rが成立する」と考えることを暗黙的に含んでいます。

したがって、条件文(p→r)の正当化は、暗黙的にMPの正当化を含んでいます。次に進む前に、この観点から、もう一度、条件文(p→r)の正当化を振り返ってみたいと思います。

94 問いに対する推論による答えの正当化(Justifying the answer to the question by reasoning) (20231128)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

#問いに対する推論による答えの真理性の正当化について

*実質推論の学習と実質問答推論の学習

語や原初文の学習が規約の学習として成立するが、原初的な推論の学習には、規約の学習として成立する場合とそうでない場合があります。他の推論に依拠しない原初的な推論を「実質推論」と呼ぶことにします。「実質推論」もまた、問いに答えるプロセスとして成立し、暗黙的な相関質問をもちます。「実質推論」は、暗黙的な「実質問答推論」です。暗黙的な相関質問を明示化すると、明示的な「実質問答推論」となります。

*推論の基礎p→r

推論の基礎は次の推論規則MPです。

p、p→r┣r

これの基礎はp→rという命題です。p→rは、pが成立したら、rが成立するという関係にあるということです。MPの正当化を考える前に、ここではp→rという形式の条件文や信念はどのようにして生じ、正当化されるのかを考えたい。p→rの信念は、次の種類に分けられるます。これらがどのようにして生じるのかを考察しよう。

(1)論理関係がその一つである。

「これはリンゴである」→「これは果物である」

「全てのカラスは黒い」→「このカラスは黒い」

    「これはリンゴである」→「少なくとも一つリンゴがある」

           「これは果物ではない」→ 「これはリンゴではない」

    「このカラスは黒くない」→「全てのカラスが黒いのではない」

    「リンゴは一つもない」→「これはリンゴではない」

(2)因果関係がその一つである。

    「雨が降る」→「道路が濡れる」

    「道路が濡れていない」→「雨が降っていない」

  • の論理関係は、概念間の無時間的概念関係です。この無時間的概念関係は、規約に基づくものであり、規約が変化しない限り変化しない確実な関係である。この論理関係の学習は、次のように行われるでしょう。

「リンゴ」の学習は、「これはリンゴですか」「はい、これはリンゴです」「いいえこれはリンゴではありません」などの正しい問答を何度も教えられて、新しい対象について「これはリンゴですか」と問われたときに、正しく答えられるようになった時に完了すると説明しました。このとき、リンゴとリンゴでないものの区別ができるようになっています。

同様にして「ナシ」を学習したとしましょう。。このとき、「あるものがリンゴでありかつナシであることはない」ということは、「リンゴ」「ナシ」の学習を終えている者には、「リンゴ」と「ナシ」の意味から推論できます。「リンゴでありかつナシであるものはない」や「リンゴであるものはナシではない」「ナシであるものはリンゴではない」は、「リンゴ」と「ナシ」の意味に基づいて推論され、正当化されることになるでしょう。

次に、「これがリンゴであるならば、これは果物である」という条件法について考えてみます。これを全称命題に変形したものが「(全ての)リンゴは果物である」という命題になります。これらの認識の発生について考えてみましょう。

「果物」という語の学習はどのように行われるのでしょうか。一つの可能性は、「リンゴ」の学習と同様に、多くの対称について「これは果物ですか」「はい、これは果物です」「いいえ、これは果物ではありません」という問答を学習して、未知の対象についての「これは果物ですか」という問いに、正しく答えられるようになるということです。この場合は、「リンゴは果物である」は(「リンゴはナシでない」の場合と同様に)、「リンゴ」と「果物」の意味に基づいて推論され、正当化されます。

もう一つは、「木や草になる間食用の果実」などの、定義によって、「果物」という語の意味を学習することです。これは、定義に用いられる語の学習を前提としますが、それを前提できるとします。この場合、「リンゴは、木や草になる果実である」と「リンゴは、間食用である」が言えれば、「リンゴは、木や草になる間食用の果実である」が推論でき、そこから「リンゴは果物である」が推論できます。

「リンゴは、木や草になる果実である」は、「リンゴは、木になる果実である」から推論できます。「リンゴは、木になる果実である」は、対象<リンゴ>が性質<気になる果実である>をもつこと(木になっていること)を経験によって知ることによって正当化できます。

「リンゴは間食用である」は、(「間食用」を学習済みであるとすると)対象<リンゴ>が性質<間食用>をもつこと(間食に食べられていること)を経験によって知ることによって正当化できます。

次に、p→rが(2)因果関係を表示する場合を考察したいと思います。(MPの正当化の説明は、そのあとになります。)