30 経験判断と推論と二重問答関係  (20210707)

【カテゴリー:問答の観点からの認識]

知覚報告に還元不可能な経験判断がどのようにして生じるのかを考えてみたい、と予告しましたが、その場合を含めて、すべての経験判断が問いや推論との関係でどのようにして生じるのかを考察したいと思います。

#経験判断と推論

知覚は探索の結果として生じ、<知覚報告>は問いへの答えとして生じる、と説明してきました。次に<知覚報告だけから推論によって得られる経験判断>もまた、その推論が一般的に問いの答えを求める過程として成立するのだとすれば、問いに対する答えとして成立と考えられます。最後に<知覚報告に還元できない経験判断、つまり知覚報告だけからの推論では得られない経験判断>についても、それは問いに対する答えとして生じるのだと考えられます。つまり(知覚報告を含めて)全ての経験判断は、基本的には、問いに対する答えとして生じるのだと思います。

①推論によらない直接的経験判断(知覚報告)

②知覚報告だけから推論によって得られる経験判断

③知覚報告だけからの推論によって得られない経験判断

この分類における「推論」とは演繹推論です。ただし③の経験判断の中には、次のようなものがあります。

a、知覚報告と③の経験判断からの演繹推論によって得られる経験判断

b、知覚報告と③の経験判断からの帰納推論によって得られる経験判断

c、知覚報告と③の経験判断からのアブダクションによって得られる経験判断

(このa,b,c以外にも経験判断を得る方法があるかもしれません。帰納やアブダクションについての考察は、後で行うことにします。)

これら①②③の全てが、問いに対する答えとして発生すると思われます。以下では、経験判断における問答と推論の関係を考察します。

#問答と推論の関係:二重問答関係、直列問答関係、並列問答関係

 ①の知覚報告の場合には、例えば「それは青いですか?」という問いに対して推論に寄ることなく知覚に依拠して、知覚報告「それは青いです」で直接に(つまり推論によらずに)答えていると言えるでしょう(知覚そのものが推論過程であるという主張については、知覚と知覚報告の区別を踏まえた上で、別途考察したいとおもいます)。

 ②と③の経験判断の場合には、推論が働いています。このとき、つぎのような二重問答関係が成立します。

  Q2→Q1→A1→A2

(これで、Q2に答えるためにQ1を問い、その答えA1を前提にして、Q2の答えA2を推論する、という関係を表示することにします。)

 例えば、Q2「それは桜ですか、梅ですか?」という問いに対して、Q1「その花は直接に枝についているのだろうか、それとも茎によって枝と繋がっているのだろうか?」という問いを立て、知覚に問い合わせて、A1「花は茎によって枝と繋がっている」と知覚報告し、それを前提に推論して、A2「その花は桜です」と答える場合です。この経験判断A2は、知覚報告A1からの推論によって得られる経験判断です。

上記の②や③では、最終の経験判断を得るために、知覚報告や他の経験判断を前提にして推論します。そしてこれら自身もまた別の問いに対する答えとして得られるのだとすると、最終的な問答Q2→A2の間にQ1→A1という問答が入れ子型に挿入されることになります。

ここでA2を導出するための推論の前提が、複数ある場合には、挿入される問答も複数になります。その場合を以下で考察します。

 ちなみに、二つの問答を結合する仕方には三種類(二重問答関係、直列問答関係、並列問答関係)あることについては、『問答の言語哲学』(pp.147-149)で指摘しました。以下はそれを展開したものになります。

・二重問答関係:<Q2→Q1→A1→A2>

 Q1→A1がそれ自体次のような二重問答関係Q1→Qi→Ai→A1になっていることが可能であり、さらにQi→Aiが二重問答関係になっていることも可能であり、これは必要に応じて反復可能です。これを「多重入れ子型問答関係」と呼びたいと思います。

・直列問答関係:二つの問答が直列すると<Q1→A1→Q2→A2>となるが、このQ1とQ2を問うのが、Q3の答えA3を得るためであるとすると、つぎのように表記できます。

  <Q3→Q1→A1→Q2→A2→A3>

この場合、Q3とA3の間に直列で挿入される問答は、必要に応じて2つ以上になることが可能です。上記の二重問答関係は、直列問答関係において直列で挿入される問答が一つの場合と見ることができます。

・並列問答関係:Q1→A1とQ2→A2を並行して行う場合、このQ1とQ2を問うのが、Q3の答えA3を得るためであるとすると、つぎのように表記できます。     

      ↗  Q1→A1  ↘

  Q3                 A3

      ↘  Q2→A2  ↗

この場合、Q3とA3の間に並列で挿入される問答は、必要に応じて2つ以上になることが可能です。上記の二重問答関係は、並列問答関係において並列で挿入される問答が一つの場合と見ることができます。

このように考える時、多重入れ子型問答関係、直列問答関係と並列問答関係は、すべて二重問答関係から発展したものだと言えます。

#多重入れ子型問答関係

例えば

  Q7「これは長期間、青いのか?」

これに答えるために次のように問います。

  Q6「これは10年後も青いのか?」

これに答えるために次のように問います。

  Q5「これは一年後も青いのか?」

これに答えるために次のように問います。

  Q4「これは一か月後も青いのか?」

これに答えるために次のように問います。

  Q3「これは一週間後も青いのか?」

これに答えるために次のように問います。

  Q2「これは明日も青いのか」

これに答えるために次のように問います。

  Q1「これは今青いのか」

これに次のように答えます。

  A1「これは今青い」

これをもとに、Q2に次のように答えます。

  A2「これは明日も青い」

これをもとにQ3に次のように答えます。

  A3「これは一週間後も青い」

これをもとにQ4に次のように答えます。

  A4「これは一か月後も青い」

これをもとにQ5に次のように答えます。

  A5「これは一年後も青い」

これをもとにQ6に次のように答えます。

  A6「これは10年後も青い」

これをもとにQ7に次のように答えます。

  A7「これは長期間青い」

ここには、次のような「多重入れ子型問答関係」が成立しています。

  Q7→Q6→Q5→Q4→Q3→Q2→Q1→A1→A2→A3→A4→A5→A6→A7

#直列問答関係:<Q3→Q1→A1→Q2→A2→A3

例えばクイズ「二十の扉」で、Q1「それは動物ですか?」と問い「はい」の答えをもとに、「それは空を飛びますか?」と問い「いいえ」の答えをもとに「それは海にいますか」と問う場合が、典型的な直列問答関係の例です。この場合、「それは動物である」「それは空を飛ばない」「それは海にいない」などによって次第に対象の可能性を限定していきます。

<Q3に答える時に、A1を直接的に用いておらず、A2のみを用いている>ということにはなりません。Q3に答えるとき、A1の答えは前提として最後の答えA3に至るまで妥当し続けています。

これは、答えにたどり着くために、<答えの可能な外延を問答によって次第に限定してゆく>というアプローチです。ただし、このプロセスを続けても、確実な答えにたどり着くとは限ません。

#並列問答関係

      ↗  Q1→A1  

  Q3                    A3

      ↘  Q2→A2 

これは、Q3の答えに至るために、<答えが満たすべき内包(あるいは、満たすべき条件)を様々な問いによって追加していく>というアプローチです。

例えば、Q6「これはリンゴです」という問いに答えるために、次のような問答を行います。

  Q1「これはどんな色か」→A1「これは赤い」

  Q2「これはどんな形か」→A2「これは丸い」

  Q3「これはどんな大きさか」→A3「これはテニスボールくらいの大きさです」

  Q4「これはどんな味か」→A4「これは甘酸っぱい味です」

  Q5「これはどんな香りか」→A5「これは甘酸っぱい香りです」

以上の問答を踏まえて、A6「はい、これはリンゴです」に到達します。

ただし、この場合には、Q1からQ5の答えを集めても、そこからQ6の答え「はいこれはリンゴです」を証明することはできません。そこには常に「これはリンゴではない」という可能性が残り続けるからです。

このように知覚報告から推論によって経験判断が成立する仕方には、種々のパターンがあります。しかし、その推論の中には、演繹推論ではないものもあります。そのような場合に、経験判断はどのようにして生じるのでしょうか。

 次にそれを考えたいと思います。

29 多くの経験判断は知覚判断に還元されない(3) (20210704)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

知覚報告を論理結合子で結合して複合命題を作ることができますが、これらの複合命題は、元の知覚報告に還元できるのでしょうか。

 ところで、前々回に「還元」について次のように定義しました。「経験判断を知覚報告と推論だけから構成することを、経験判断を知覚報告に還元することと言う」ここでは、この定義に従って考察することにします。

#連言判断は、知覚報告に還元できる。

s(「Xさんの車は青色である」)とt(「Xさんの車は赤色である」)という二つの知覚報告から、連言判断s∧t(「Xさんの車は青色である、かつ、Xさんの車は赤色である」)を推論できます。したがって、連言命題も、上記の定義に従って、知覚命題に還元できます。また連言判断の場合には、知覚報告から連言判断を導出できるだけでなく、連言判断から知覚報告を導出することもできます。例えば、s∧r┣sや、s∧r┣rの導出が可能です。

#選言判断は、知覚報告に還元できる。

p(「Xさんの車は青色である」)という知覚判断、あるいはr(「Xさんの車は赤色である」)という知覚判断から、p∨r(「Xさんの車は青色である、あるいは、Xさんの車は赤色である」)を推論できる。「還元」の定義によるならば、選言判断は、知覚報告に還元できます。しかし、この場合、p∨rから、pを推論したり、rを推論したりすることはできません。つまり、知覚判断から選言判断を導出することはできますが、選言判断から知覚判断を導出することはできません。

#含意判断は、知覚報告に還元できる。

r(「塩が水に溶ける」)が知覚報告であるならば、そこからp→r(「塩を水に入れるならば、塩が水に溶ける」)を導出できます。つまり、上記の定義に基づくならば、含意判断は、知覚報告に還元できます。ただし、選言判断の場合と同様に、含意判断から知覚報告を導出することはできません。

次に、知覚報告に還元不可能な経験判断がどのようにして生じるのかを考えてみたいと思います。

28 多くの経験判断は知覚判断に還元されない(2)(20210703)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

#存在判断の一部は知覚判断に還元されない

ある特定のもの、あるいは不特定のものが存在することを主張する判断を「存在判断」と呼ぶことにしましょう。存在判断には、知覚報告であるものと、知覚報告から間接的に導出されるものがあります。後者の存在判断は知覚報告に還元できません。

 例えば「富士山が存在する」の場合、いつも新幹線の中から富士山を見ている者は、新幹線に乗って富士山を見たときに、富士山が存在することを確認したと思うでしょう。その人が富士山を見て、もし「富士山が存在する」と内言するなら、それは知覚報告でしょう。人は「赤い」と言う語とその色を知覚によって学習しますが、それと同様に、富士山を直接に見たり写真で見て、知覚によって、「富士山」という固有名とその対象を学習します。したがって、「それは赤い」がある状況で知覚報告でありうるならば、「あれは富士山だ」もある状況で知覚報告でありえます。

 (写真で学習する場合については、もう少し説明が必要かもしれません。富士山の色々な写真で、「これが富士山だ」と学習した者は、富士山の写真を見て「これは富士山だ」と判断できるだろうし、実物を見たときに、それまで見た写真をもとに、「これが本門の富士山だ」と判断できるでしょう。これらは知覚報告です。ただし通常の知覚の場合、(素朴実在論をとるならば)知覚対象は物理的な対象そのものですが、写真の場合には知覚対象は、印刷された紙です。富士山とその写真の間には因果関係がありますが、富士山の写真を見すると、私は写真そのものを直接見ているのであり、ここにあるのは同一性であり、因果関係ではありません。脳科学が解明する知覚のプロセスは因果関係です。しかしそれは知覚されるものと知覚されたものの間の因果関係ではありません。脳科学の説明の中に知覚されたもの(富士山の知覚像のようなもの)は登場しないからです。これについては、07回~09回を参照してください。その個所をより詳細に説明する必要があります。その限りでそれはまだ仮説です。)

 これに対して、「原子が存在する」の場合、この命題を前提して推論できる諸命題のうち、現象についての知覚報告となるものについて、その真理性を検証することによって、この存在命題を間接的に確証することができます。直接に知覚できない他の対象についての存在判断も同様です。その対象を前提することによって導出できる知覚報告を確認することによって、間接的にその対象の存在判断を確証できます。しかし、この確証は、これは知覚報告だけから成立するのではないので、この存在判断を知覚報告に還元することはできません。

 不特定なものの存在判断については、どうでしょうか。例えば、「リンゴが机の上にある」は不特定な対象(不特定なリンゴ)の存在を主張する判断です。これは、不特定な対象(机の上にあるもの)についての「机の上にあるものは、リンゴである」という種述定判断と同値です。しかたがって種述定判断と同様に、これもまた知覚には還元できません。

#因果判断も知覚判断に還元されない

因果判断は、二つの出来事の間に因果関係が成り立つという判断です。これは知覚判断に還元できません。なぜなら出来事AとBの記述が、仮に知覚報告である(あるいは知覚報告に還元できる)としても、ヒュームが言うように、A→Bは知覚できないからである。AとBが因果関係にあるとき、ヒュームが言うように、AとBの間には、時間空間的な近接関係、時間的な前後関係、恒常的反復性、などがあるでしょう。しかし、これらについての判断が知覚報告に還元できたとしても、これらは必要条件であって、因果関係の十分条件ではありません。つまり、因果関係は知覚報告に還元できません。

次に、連言判断、選言判断、条件法などの複合判断を検討したいと思います。

27 多くの経験判断は知覚報告に還元されない (20210627)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

多くの経験判断は、最終的には何らかの知覚報告に基づいています。しかし、知覚報告だけに基づいているのではありません。言い換えると、多くの場合、経験判断を知覚報告と推論だけから構成することはできません。経験判断を知覚報告と推論だけから構成することを、「経験判断を知覚報告に還元する」と言うならば、多くの経験判断は、知覚報告に還元されません。これに関して、いくつかの例を挙げ、分類し、その原因を説明し、そのような経験判断が成立する理由を説明し、その正当性を検討したいとおもいます。ただし今はまだ満足のできる仕方でそれを分類できないので、とりあえずいくつかの例を挙げることから始めます。

・全称判断は知覚報告を超えています。なぜなら、知覚報告は単称判断だからです。よく挙げられる例「すべてのカラスは黒い」は知覚報告から証明することはできません。なぜなら、これを証明しようとするとき依拠できる知覚報告は「このカラスは黒い」という単称命題になるからです。

・傾性判断は、知覚報告を超えています。なぜなら、知覚報告は現在形の判断だからです。よく挙げられる例には「水溶性」「壊れやすい」などがあります。「塩は水溶性である」とは、「もし塩を水に入れたら、塩は水に溶ける」という意味ですがが、これを知覚報告から証明することはできません。一つには、これが全称命題だと言ことがあります。これが全称命題であるので、単称にする必要がありますが。単称にすると次のようになります。「この塩を水に入れたら、この塩は水に溶ける」。しかし、これもまた知覚報告ではありません。これを水に入れたときには、「この塩は水に溶けている」と知覚報告できますが、この塩を水に入れていない段階では、それが水溶性であるかどうかを語ることはできません。つまり、「この塩は水溶性である」を知覚報告に還元することはできません。

 重要なことは、<ほとんどの性質を表現する語は、ほとんどの場合傾性語として使用されている>ということです。例えば、ひとが「これは青い」というとき、一分後もそれが青いままであることを含意していることがほとんどでしょう。この意味で使用されるとき、「青い」は、「或る程度時間がたっても青いままである」という傾性語であり、その意味で「それは青い」が語られるとき、それを知覚報告だけから証明することはできません。知覚報告だけで証明できるのは、「今これは青い」とか「今これが青く見えている」だけです。

 傾性判断が知覚報告に還元されないのは、知覚報告が現在形の文だからです。傾性判断は、条件法をもちいて、その後件で知覚報告をもちいて表現されますが、知覚報告は直接法現在形の文であるので、傾性判断を知覚報告に還元することはできないのです。

・経験的否定判断は、知覚報告を超えています。「財布がない」という判断は、知覚報告には還元できません。「机の上に財布がない」「ズボンの中に財布がない」仮にこれらを知覚報告と呼ぶことにしたとしても、これらの報告を(経験的に)網羅することはできません(なぜなら、大抵は予期しないところが、財布が見つかるからです)。このような意味で「財布がない」は知覚報告に還元できません。(このケースをどのように分類すべきは、ペンディングにしておきます。)

・種述定判断は、知覚報告を超えています。ここに「種述定判断」というのは、ある対象が属する種を特定する判断です。例えば、「これはリンゴです」がそれです。これは、例えば「これはリンゴですか」という問いに対する答えになりますが、これに答える時、

  「これはどんな色か」

  「これはどんな形か」

  「これはどんな大きさか」

  「これはどんな味か」

  「これはどんな香りか」

などの多くの問いを自問自答して「これはリンゴです」と答えることになるでしょう。しかし、これらの種々の問いのへ答え(知覚報告)から導かれる答えは、論理的には「リンゴ」以外にもありえます。それはリンゴによく似た別の果物かもしれないからです。したがって、種述定判断は、知覚報告には還元されません。「リンゴ」という語(対象)を学習する過程は、「あかい」という語(性質)を学習する過程と同じようなものであり、「これは赤い」が知覚報告であるならば、「これはリンゴである」もまた知覚報告である、という反論があるかもしれません。この反論を認めるとすると、「それ自身が知覚報告ではない種述定判断は、知覚報告に還元できない」ということになります。

知覚報告に還元されない経験判断には、他にどのようなものがあるでしょうか。

このことから何が帰結するのでしょうか。

26 知覚報告の特徴(現在形) (20210627)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

前回最後に一つの問いと一つの気がかりを述べました。

まず問いについては、次のように答えたいと思います。

①「<肯定的と否定的の区別は、事実の区別ではなく、事実についての記述の区別だ>と言えるとすると、知覚についても同様に<肯定的と否定的の区別は、知覚の区別ではなく、知覚についての記述の区別だ>と言えるでしょうか。しかし、危険な山道のような、ネガティヴなアフォーダンスがあります。これをどう考えたらよいでしょうか。」

確かに、危険な山道のようなネガティヴなアフォーダンスがありますが、正確に言うならば、アフォーダンスそのものには肯定的と否定的の区別はなく、アフォーダンスの記述に肯定的と否定的の区別があるのだと考えたいとおもいます。

 次に気がかりのほうですが、これについては次回以後に考えることにして、今回は知覚報告の第三の特徴(現在形)について考えたいと思います。

 知覚は、つねに現在の状態や出来事の知覚ですが、それは何故でしょうか。言い換えると、私たちには、過去の状態や出来事を知覚することはできませんし、未来の状態や出来事を知覚することもできません。それは何故でしょうか。それは、私が知覚している状態や出来事を、「現在の(あるいは「今」の)状態や出来事として定義するからだと思います。私たちは、知覚している世界を、「現在の(あるいは「今」の)」世界として定義しているのです。

 ところで、私たちが知覚している状態や出来事は、一瞬のものではなく、多くの場合一定の時間経過を含んでおり、その内部の要素間に前と後の区別があります。そしてそれらを知覚すること自体も、瞬間としての現在において成立しているものではありません。たいていの場合、知覚の成立には、ある程度の時間持続が必要です。一瞬だけ物を見ても、それが何であるか、それが何色であるか、それがどんな形であるか、などを知覚することはできません(状態の知覚)。滝の知覚、波の知覚、鳥の鳴き声の知覚、クマがこちらに近づいて来ることの知覚など、運動や動作の知覚は、ある時間経過の知覚です(運動や行動の知覚)。ところで、時間経過する出来事の知覚自体も時間経過を必要とするはずです。また、イヌが何かを食べていることを知覚するには、単に口が動いていることを知覚するとき以上に、より長い時間がかかります。

 時間経過の知覚は、変化そのものを知覚しているのでしょうか。それとも知覚の変化の記憶に基づいて時間経過を判断しているのでしょうか。夜が明ける、日が暮れる、という判断は、長い時間を必要とするとので後者であるかもしれません。日の出から日没までの変化については、確実に後者になります。この二つの間の境界は曖昧であり、明確に区別できないでしょう。短いメロディーでなく、長い一曲になるのと、その変化は、記憶によってとらえられるものになるでしょう(小林秀雄によれば、モーツァルトは、一曲を丸ごと知覚できたそうです。その場合、モーツァルトは、一曲全体を「今の」出来事として知覚したでしょう。)。

 物の状態を知覚するのにも時間経過が必要ですし、時間経過をもつ運動や動作の知覚にも時間経過が必要です。それらの時間は「現在」あるいは「今」として理解されます。

 <私が知覚している状態や出来事が、「今の」状態や出来事である>と「今」を定義するとき、想起された知覚は「以前の」あるいは「過去の」知覚であり、<想起された状態や出来事は「以前の」あるいは「過去の」出来事である>と定義されます。逆に言うと、<「過去の」状態や出来事とは、想起された状態や出来事です>。

 私たちが知覚するのは、現在の状態や出来事であるので、知覚報告は、現在の状態や出来事の報告となり、その文は「それは青い」のような現在形となります。過去の知覚についての想起にもとづく報告ならば、「それは青かった」のように過去形になります。これはもちろん知覚報告ではありません。

 (私たちが日常的に使用する、3分待つとか、2時間前です、一週間後とかの時間意識は、数概念や数の体系を用いています。それは単なる知覚報告ではなく、発達した概念枠組みの中で可能になる時間意識です。私たちは、訓練すればそのような時間経過を知覚できるようになるでしょう。10秒という時間経過や一時間という時間経過を知覚できるようになるかもしれません。「それは青い」という知覚報告が、色名の体系の学習を前提するように、「10秒経ちました」という知覚報告も、時間の概念体系の学習を前提します。このような報告を知覚報告に入れるかどうか、そもそも知覚報告とその他の経験的報告をどう区別するか、これらは今後の検討課題です。)

 次回からは、知覚報告を含めた経験判断一般、あるいは経験的認識を考察します。経験的認識の基礎となるのは、知覚報告であると思われるので、知覚報告とその他の経験判断との関係を考察したいと思います。

25 発言の修正:事実に肯定的と否定的の区別はない (20210624)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

前回「肯定的知覚報告は事実の記述であり、否定的知覚報告は事実の記述ではない」と述べ、最後に次の二つの問いを立てました。

①「「それは青くない」は、例えば、「それは赤い。ゆえにそれは青くない」と言う仕方で他の肯定的知覚報告からの推論によって、主張される場合があります。その場合には、他の記述(他の肯定的知覚報告)からの推論による記述だといえるでしょう。では、この場合の「それは青くない」に対応する否定的事実があるのでしょうか?」

②「否定的知覚報告以外の否定的報告が真であるとき、それに対応する否定的事実があるのでしょうか?」

まず①の問いについて。もし、<「それは赤い」という肯定的知覚報告から、「それは赤い。ゆえにそれは青くない」という推論によって「それは青くない」と主張する場合には、この否定判断が否定的事実を記述しており、「それは青いですか?」という問いに「いいえ、それは青くない」と答える場合には、否定的事実を記述していない>のだとすれば、すこし奇妙です。なぜなら、否定的事実があって、知覚報告を介した推論ではそれに到達できるが、直接的な知覚報告ではそれに到達できない、ということになるからです。したがって、①の問いには「いいえ」と答えるのがよいでしょう。

 ところで、<「それは赤い」という事実の記述と、「赤いものは青くない」から、「それは青くない」と推論するとき、この結論が事実を記述している>と言えるとすると、結論の「それは青くない」は事実の記述ではあるが、否定的事実の記述ではなく、事実の否定的な記述であると語るべきなのでしょう。

 そうすると、<「それは赤い」という肯定的知覚報告もまた、肯定的事実の記述ではなく、事実の肯定的な記述である>と語るべきではないでしょうか。

私の説明を修正したいとおもいます。

前々回の最後の問いは、こうでした。

「知覚対象についての否定判断が、否定的事実を記述しているのだと考える必要がないのだとすれば、同様の理由で、知覚対象についての肯定判断も、肯定的事実を記述していると考える必要がないのではないでしょうか?」

これに対する前回述べた答えはこうでした。

「肯定的知覚報告は事実の記述であり、否定的知覚報告は事実の記述ではない」

しかし、この答えを次のように修正したいと思います。

「肯定的知覚報告は肯定的事実の記述ではなく、事実の肯定的記述であり、否定的知覚報告は否定的事実の記述ではなく、事実の否定的記述である」

一般的に、「事実には肯定的事実と否定的事実の区別はなく、事実の記述に肯定的記述と否定的記述の区別があるだけだ」と考えたいと思います。このように考える時、問い②「否定的知覚報告以外の否定的報告が真であるとき、それに対応する否定的事実があるのでしょうか?」にも「いいえ」と答えることになります。

さて、知覚報告の第二の特徴(肯定判断)についての当初の提案(知覚報告は大抵は肯定判断になる)について、どう修正すべきでしょうか。

<肯定的と否定的の区別は、事実の区別ではなく、事実についての記述の区別だ>と言えるとすると、知覚についても同様に<肯定的と否定的の区別は、知覚の区別ではなく、知覚についての記述の区別だ>と言えるでしょうか。しかし、危険な山道のような、ネガティヴなアフォーダンスがあります。これをどう考えたらよいでしょうか。

もう一つの気がかりは、前回の次の説明です。

「「それは青いですか?」という問いに対して、「はい、それは青いです」と答える時には、「それは青い」という記述の提案を受け入れていますが、「いいえ、それは青くありません」と答える時には、「それは青い」という記述の提案を拒否しています。つまり、前者は記述を受け入れ、後者は記述を拒否しています。したがって、前者は記述ですが、後者は記述ではありません。」

仮にこの説明を撤回して、肯定の答えも否定の答えも、知覚(ないし事実)の記述であると見なすとしても、ここで指摘している差異をどのように考えるべきか、迷っています。

24 肯定的知覚報告は事実の記述であり、否定的知覚報告は事実の記述ではない (20210620)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

否定的知覚報告が事実の記述であるとすると、それが記述する「否定的事実」を認めることになりますが、それは不都合なので、否定的知覚報告は事実の記述ではないとします(この場合、否定的知覚報告を、他の知覚報告からの推論によって成立するものとみなすのが、通例です。ただし、以下に述べるように私は別の説明をとります)。そして、「肯定的知覚は事実の記述であり、否定的知覚報告は事実の記述ではない」と主張したいと思います。

 この主張に対しては、次の批判があるでしょう。これは語の学習プロセスからの批判です。語「リンゴ」を学習するときには、ある対象について、「これはリンゴですか」と問われたら、「はい、リンゴです」あるいは「いいえ、それはリンゴではありません」と答えることを学習し、それを重ねた後で、未知の対象について「これはリンゴですか」と問われたときに、「はい」ないし「いいえ」を正しく答えられるようになるのです。つまり語「リンゴ」を学習するとは、「それはリンゴです」や「それはリンゴではありません」という知覚報告ができるようになることです。このとき「それはリンゴです」と「それはリンゴではありません」との間に、知覚との関係において差異はないように見えます。(前回述べたラッセルによる冒頭の主張に対する批判も、この批判に似たものです。)

 さて、ここからが本日の眼目です。

 確かに、この二つの知覚報告の間には、知覚との関係において差異がないように見えます。しかし、この二つの知覚報告は、同時に、問いに対する返答でもあります。そして、問いに対する関係においては、この二つの知覚報告の間には、次のような差異があります。「それは青いですか?」という問いに対して、「はい、それは青いです」と答える時には、「それは青い」という記述の提案を受け入れていますが、「いいえ、それは青くありません」と答える時には、「それは青い」という記述の提案を拒否しています。つまり、前者は記述を受け入れ、後者は記述を拒否しています。したがって、前者は記述ですが、後者は記述ではありません。

 知覚報告の特徴として、それは肯定判断であり、否定判断にはならないとのべて、前々回と前回の考察をしてきました。しかし、今回の説明では、肯定的知覚報告と否定的知覚報告があること、どちらも知覚との関係は似ているが、問いとの関係は異なること、したがって、肯定的知覚報告は肯定的事実の記述であるが、否定的知覚報告は否定的事実の記述ではないということを述べました。

 「それは青くない」は、例えば、「それは赤い。ゆえにそれは青くない」と言う仕方で他の肯定的知覚報告からの推論によって、主張される場合があります。その場合には、他の記述(他の肯定的知覚報告)からの推論による記述だといえるでしょう。では、この場合の「それは青くない」に対応する否定的事実があるのでしょうか? 否定的知覚報告以外の否定的報告が真であるとき、それに対応する否定的事実があるのでしょうか?

 これを次に考えたいと思います。

23 知覚報告の特徴(肯定判断) (20210618)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

 知覚報告は肯定判断の形式をとり、否定判断にはならない、と考えるのが一般的だろうと思われます。この場合、例えば、「これは青くない」という判断について、知覚を記述した知覚報告だとは考えません。「これは青くない」という知覚報告なされるのではなく、例えば「これは赤い」という知覚報告が真であることから、「これは赤い、赤いものは青くない、ゆえにこれは青くない」という推論によって、「これは青くない」という命題が真とされるのです。

 しかし、ラッセルはこのようには考えませんでした。なぜなら、「これは青い」と「これは青くない」は、どちらが知られる場合にせよ、同じような仕方で、知覚現象から直接に得られるように思われるからです。それゆえに、ラッセルは「これは青い」に対応する事実が存在するように、「これは青くない」に対応する「否定的事実」が存在すると考えました(参照、ラッセル『論理的原子論の哲学』高村夏輝訳、ちくま学芸文庫、70-76)。

 確かに、「これは青い」も「これは青くない」も知覚から同じように直接に得られるように思われます。この点でラッセルは正しかったでしょう。しかし彼が間違えたのは、「これは青くない」が真の時、対応する事実があると考えたことです。つまり「否定的事実」の存在を主張した点です。

 私が提案したいのは、次のようなことです。「これは青いですか?」という問いが与えられたとき、知覚現象に基づいて、「これは青い」や「これは青くない」という答えが帰結する場合に、これらの判断は、知覚現象に基づいていますが、知覚現象に内容的に対応すると考える必要はないだろうということです。なぜなら、答えの命題内容を、決定するのは、知覚現象だけでなく、問いもそれに関わっているからです。問いにおいて、答えはすでに半分与えられており、知覚現象から残りの半分が与えられると考えられるからです。

 赤いリンゴを見ているときに、「それ白いですか」と問われたら「それは白くないです」と答え、「それは青いですか」と問われたら「それは青くないです」と答え、「これは黄色いですか」と問われたら、「それは黄色くありません」と答えるでしょう。このとき、「それは白くない」「それは青くない」「それは黄色くない」が対応する3つの否定的事実(ないし否定的知覚性質)を記述しているのだと考える必要はありません。

 さてしかし、知覚対象についての否定判断が、否定的事実を記述しているのだと考える必要がないのだとすれば、同様の理由で、知覚対象についての肯定判断も、肯定的事実を記述していると考える必要がないのではないでしょうか。

22 知覚報告の特徴(単称判断) (20210615)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

知覚報告は、相関質問への答えであり、その相関質問の主語が単数であることが多いことが、知覚報告が単数形になることが多くなる理由だといえるでしょう。

知覚報告が知覚の記述であり、知覚の対象が個物であることが多いからだと言えるかもしれません。

#では、知覚の対象はなぜ個物であることが多いのでしょうか?

知覚は常にゲシュタルトをもちますが、言い換えると、ゲシュタルトが知覚の対象である言えます。ゲシュタルト(形態)は、一つの統一、あるいはまとまりをもつ一つの全体であるので、知覚は、常に一つのまとまりをもつ対象の知覚だと言えます。確かに私たちは大抵の場合、多くのものを同時に知覚しています。しかし、その多くのものは、明確なゲシュタルトを持つものとして知覚されているのではありません。それら多くのものはいわば知覚可能なものとして意識されているのです。たとえば、私が階段を降りる時、一段一段を明確に知覚しているのではありません。私は、なんとなく各段を知覚しているにすぎません。そのため、階段を下りた後で、私にはその一段一段を想起することができません。しかし、知覚報告するときの知覚は、意識的な知覚、明確な知覚、明確なゲシュタルトをもつ知覚です。そのため、知覚報告の主語は単数になることが多いのです。

 では、知覚のゲシュタルトは、なぜ一つの統一されたまとまりになるのでしょうか。それは知覚がノエのいう「行為の仕方」であることによるのです。動物の知覚は探索行為と不可分であり、探索行為を導くものだと言えるでしょう。ところで動物や人間などの行為主体は、一度に一つの方向にしか移動できません、つまり基本的に一度に一つの行為しかすることができないのです。その行為の要素となる細かな行為については、同時に複数の行為をしていることがあります。例えば、あるものをつかもうとするとき、そちらに腕を伸ばすと同時に掌を広げて掴む準備をします。しかし、それは、あるものをつかむという一つの行為をすることであり、そのとき同時に、別の物をつかむことはできません。知覚は行為を助けるものであり、行為は一度に一つの行為しかできないので、行為の対象は一つであり、行為を助ける知覚は、一つの対象の状態や運動などを知覚することに向かうのです。

 このように知覚は行為と深く結びついているので、探索(行為)と発見(知覚)は不可分です。探索発見は不可分に結合しており、例えば、餌を探索するときに、仮に餌が見つからなくても、何も発見(知覚)が行われないのではなく、探索の結果として(言葉にすれば)「ここに餌はない」という発見(知覚)が成立しているのです。このように探索と発見は常に不可分に結びついています。

 これに対して問答は、分離しています。元来は、問答は、他者に質問し、他者がそれに答える。あるいは他者から質問され、それに答える、と言う仕方で発生します。従って、問うことは、答えが得られなくても成立しうるし、答えることは、元来の他者の質問に答えることなので、問うことから相対的に独立して成立します。一人で行う自問自答の問答も、このような対話における問答が内面化されて成立することなので、問答は分離しています(もちろん、問いと答えは、意味論的には結合しています)。

 知覚報告の主語は、すでに相関質問の中に登場するはずです。したがって、知覚報告の主語が多くの場合単数になることは、知覚の対象が一つの統一を持つまとまりであるためではありません。むしろ順序は逆なのです。つまり、知覚報告の主語が単数なのは、相関質問の主語が単数であり、一つの個物についての知覚報告を求めているからこそ、その質問に答えるための探求は個物へ向かうのです。

 では、この相関質問はどのようにして発生するのでしょうか。それはより上位の問いに答えるためであると思われます。より上位の問いに答えるために、知覚報告が必要であるとき、それを得るための問いとして、ある個物についての問いが設定されるのです。

 次に知覚報告が肯定判断になるという特性について、検討したいと思います。

21 知覚報告の特徴 (20210613)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

(知覚報告とその他の経験判断の関係について説明したいと考え、いろいろと考えてみたのですが、多様な論点があり思った以上に複雑で難しく、スッキリと説明できません。複雑に絡み合った論点を成立するためにも、知覚報告についてもう少し分析しておきたいとおもいます。)

#知覚報告の特徴

 多くの場合、知覚報告は、単称判断であり肯定判断であり現在形です。

 では、知覚報告はなぜ単称判断になるのでしょうか。私たちは常に多くの対象を知覚しているにもかかわらず、その中から一つの対象を選択してそれについての報告するのは何故でしょうか?それは、知覚報告が、問いに答えるための知覚的な探索の結果である知覚を記述するものであり、問いがすでに一つの対象を選択しているからではないでしょうか。以前にも書きましたが、知覚報告には、一般的につぎのような問答と探索発見の入れ子型の関係があります。

   Q1→探索→発見(知覚)→A1(知覚報告)。

Q1が「これは何色か?」であれば、これの色を探索し、これの色を知覚し、A1「これは白い」と答えることになるので、主語が単数形になるのです。多くの場合、問いにおいて既に主語が与えられています。問いが対象を指示し、答えが述定を与えます。こうして問答によって、指示と述定の結合、主語述語文の知覚報告が出来上がります。

 ただし、問いの主語が複数のこともあり得えます。例えば、「この二つのお皿は似ていますか」に対して、肯定で答えるとき、類似性の知覚報告は、複数形になります。

 「多くの場合、知覚報告はなぜ単称判断になるのでしょうか?」という問いに対する答えは、「知覚報告の相関質問の主語が、多くの場合単数だからである」となります。知覚報告の相関質問は、知覚に依拠して答えられるような問いです。このよう問いの主語が単数になることが多いのは何故でしょうか。

私たちが知覚できるのは個物だ、という回答では、不十分です。なぜなら、私たちは、複数の対象を知覚できるからです。

 この問題を考えてみます。