20 原-概念は暗黙的な概念である (20210609)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

前回「知覚(原-概念)は、知覚報告(命題)を正当化できます。しかし、逆に、知覚報告を含むどのような命題も、知覚(原-概念)を正当化することはできない。そもそも、知覚を正当化するということは意味をなさない。」と述べました。まずこれに補足したいと思います。

知覚(原-概念)は、知覚報告を正当化します。ただしこれは、通常の証明、つまりある命題の真理性から他の命題の真理性を証明することとは、次の二点で異なります。

第一に、知覚には構造がありますが、それが原-概念的構造です。この原-概念と概念の関係は、通常の概念同士の関係ではありません。<白い>ものを見ることが、「それは白い」と語ることを正当化します。それは<白いもの>と「白いもの」の定義に基づいています。この正当化は、定義とその記憶に基づいています。(これは、クリプキがアプリオリで偶然的な真理の例として挙げた「メートル原器は1メートルの長さです」が真であるのと同じ意味で、定義により真です。ただし、ここで知覚を知覚報告で表現することは、定義に加えて、定義の記憶に基づいています。)

第二に、知覚は、原概念ですが、正当化された原-概念ではないということです。知覚は、正当化されません。後で錯覚だと分かる時には、知覚は訂正され、否定されますが、錯覚や幻覚だと分からないとき、その知覚が正当化されているということではありません。なぜなら、知覚は、知覚報告を正当化するが、知覚は、知覚報告によって正当化されることないし、また他の知覚によって正当化されることもないからです。

 ただし、知覚の報告が、他の知覚の報告によって修正されることがあります。これは、知覚が後から錯覚や幻覚であると分かる場合です。

#原概念は暗黙的な概念である。

世界は、多様な仕方で知覚されることが可能であり、そこでは多様な原-概念が可能である。世界が現実にある仕方で知覚されるとき、原-概念が成立する。知覚において、態度や行為をアフォードする(促す)のは、対象や媒質や環境ですが、それらはある主体に対してアフォードするのです。つまり、知覚やアフォーダンスは、対象などと主体との関係として成立するのです。特定の対象と主体とのあいだにも、多様なアフォーダンスが可能ですが、ある対象は、様々な主体との関係において、様々なアフォーダンスを持ちえます。  

 その中である対象がある主体との間に、ある時点であるアフォーダンス(原-概念)が生じているとすれば、それを決定しているのには多くの要因があります。主体の側でいえば、その主な要因は、主体の探索だと言えるでしょう(例えば、ふいに物音がしたときに、動物が何だろうと注意することは、「探索反射」とよばれるようです)。

 このような知覚の記述が知覚報告です。知覚報告は、知覚を変化させないとおもわれます。「それは白い」という知覚報告も知覚を変化させないのです。それゆえにその時の知覚は<白さ>の知覚と考えられています。「それはリンゴだ」という知覚報告も、知覚を変化させず、素朴実在論が正しければ、知覚は事実そのものを知覚しているので、そのものなので、それに対応する事実が成立していることになります。そうすると、知覚報告に使用される概念が、知覚ないし事実そのもの中にも暗黙的に存在することになります。したがって、原-概念は、暗黙的な概念だと考えられます。

 次のように言えそうです。

 <原概念は、暗黙的な概念、あるいは概念化可能な性質であり、それが知覚報告で明示化されるとき、概念になる。原-概念は、動物が世界を知覚するときに成立するものである。アフォーダンスは、言語化すれば「…したい」「…した方がよい」「…できる」「…できない」などの規範的な原概念になる。>

 このような説明で問題がないかどうかまだ確信が持てませんが、このような説明のチェックのためにも、次から、知覚報告とその他の経験判断の関係について考えたいと思います。

20 原-概念について  (20210607)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

動物の知覚にもゲシュタルトがあると思われます。たとえば、光に向かう走性をもつ動物は、光の方向を知覚しています。光の方向は、ゲシュタルトであり、その動物にたいして、光ないし環境は、光源の方向に向かうことをアフォードしています。光の有無やや光の方向を知覚するとき、光の有無や光の方向という区別(原概念、分節化)が環境に内在しています。これは、物理現象であり、物理的な状態、性質、出来事である。カエルには、ハエを見たときに発火するニューロン・クラスタ-があることが知られています。それが発火した時、カエルは、無条件反射で舌を伸ばしてハエを捕まえます。カエルはハエをみたとき、その視覚刺激をハエのパターンとして認識しているのです。そしてそのハエの存在は、カエルに対して舌を伸ばすことをアフォードします。ところで、このような動物の走性、無条件反射、条件反射、オペラント行動は、物理的現象に反応していると言えるでしょう。

#このような物理現象は、言語が発生する前から存在しますし、それらのゲシュタルトやアフォーダンスの知覚もまた、言語の発生する前から存在するでしょう。そして、物理現象(光、ハエ、など)の定義は、語「光」「ハエ」の定義と同時に成立します。多様な物理現象のなかで、どの物理現象が定義されるのかは、それに対応する語の定義の有用性に依存するでしょう。

ノエは、知覚は原-概念的であるといいます。ノエによれば、知覚は、感覚運動的技能であり、「私が提案したいのは、感覚-運動的技能を、それ自身概念的、あるいは「原-概念的」な技能として考えるべきだということです(アルヴァ・ノエ『知覚の中の行為』門脇俊介、石原孝二監訳、飯島裕治、池田喬、吉田恵吾、文景楠訳、春秋社、299)。

「例えば、感覚-運動的な「概念」とは、明らかに、言語を持たない動物や幼児も所有しうるような種類の技能なのであって、そうだとすれば、動物からの議論〔つまり、動物が知覚はしているが、概念を持っていないという議論〕は支持を得られないだろう。」(同訳299)

知覚(原-概念)は、知覚報告(命題)を正当化できます。しかし、逆に、知覚報告を含むどのような命題も、知覚(原-概念)を正当化することはできません。そもそも、知覚を正当化するということは意味をなしません。

 t0時のある知覚1がp1「これは白い」を正当化し、その後t1時の知覚2がp2「これは青い」を正当化するとき、p2は、p1とは両立しないので、p2から¬p1が帰結します。p1が否定されることによって知覚1が否定さます。つまり、p1は錯覚ないし幻覚であったことになります。

 とりあえず、物理現象がもつ原-概念と知覚判断の概念の関係をこのように説明できるのではないかと考えました。まだあいまいな部分が残っていますので、それを詰めながら、このような理解でよいのかどうか、検討したいと思います。

19 アフォーダンスの知覚と発話の下流推論 (20210605)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

ギブソンは、行為や態度のアフォーダンスは客観的に実在し、それを直接に知覚すると考える(参照、ギブソン『生態学的視覚論』サイエンス社、152)ので、彼の知覚論は素朴実在論と親和的です。今回は、アフォーダンス論をもとに、動物の知覚と人間の知覚の関係、人間におけるアフォーダンスの知覚と発話の下流推論関係との類似性、について説明したいとおもいます。(アフォーダンスの説明については、カテゴリー「人はなぜ問うのか」の19回~22回の記述を参照してください。)

 動物の場合のアフォーダンスの例は次のようなものです。ミミズは、棲家である穴の中の乾燥を防ぐために穴の入り口に松葉を詰めますが、そのときに、針のようになった先の部分が穴から出ていくときに突き刺さらないように、松葉の元の部分から穴の中に引き込んでいきます。松葉は、ミミズに対して、中から引きこむことをアフォードしています。

 人間の場合の例は次のようなものです。郵便ポストは手紙を入れることをアフォードします。もちろんこれは、郵便ポストがどういうものであるかを知っている人間に対してのアフォーダンスです。

 このようなアフォーダンスは、知覚に続いて一定の行為が続くことを促しています。例えば、熊が渓流をみれば、鮭を捕まえるようにアフォードされます。熊が鮭を探すとき、鮭のいそうな渓流は、そこで鮭を探すことをアフォードします。そしてそこに見つからなければ、他の渓流が、鮭を探すようにアフォードするでしょう。それを繰り返して、鮭を見つけることになります。このとき、この一連の行為は、鮭の発見をゴールとする一つの探索行為を構成するということもできます。他方で、これは沢山の探索と(鮭がいないことの)発見の繰り返しでからなります。鮭が見つかるまでの沢山の探索の連鎖は、互いに対して目的手段関係にはなっていません。しかし、その一連の行為を一つの探索行為とみて、次のような欲求と行為の連鎖の中に位置づける時、それは目的手段関係を構成することになります。

  <鮭を食べたい→鮭を捕まえたい→鮭を見つけたい(探索)→鮭を見つける(発見)→鮭を捕まえる→鮭を食べる>

ところで、熊は、このような目的手段関係を意識していません。熊の行動は、(おそらく)刺激と反射行動の連鎖で出来ています。それらの行動は目的手段関係の連鎖になっており、その目的手段関係の連鎖は客観的に成立しているのですが、しかしそれは熊が理解していることではありません。しかし、人間はそれを理解できます。人間の場合には、鮭を見つけることは、様々な目的と結合しうるし、鮭を捕まえることも、様々な目的と結合しうるし、鮭を食べることも、様々な目的と結合することが可能です。人間の場合には、これらの行動を選択し、目的手段の関係において結合しなければ、この連鎖は成立しないのです。したがって、目的手段関係を意識していることが必要です。これに対して、熊の場合には、鮭を見つけるのは、捕まえるためであり、捕まえるのは食べるためであり、食べるのは生存のためです。そこには行為の選択の余地はありません。それらを意識的に結合する必要はないのです。

人間がこのように複数の行為を目的手段関係で結合することは、それぞれの知覚や行為に伴っている問答もまた結合しているということです。その結合の基本となるのは、二重問答関係です。人間の場合の知覚をめぐる問答は、単独の問答ではなくて、より上位の問いに答えるために行われ、二重問答関係を構成します。この二重問答関係は、時間的な(全体と部分の)入れ子構造になりますが、他方では論理的な(目的と手段の)入れ子構造になります。例えば、つぎのような二重問答関係になります。

  <Q2「どこで鮭を捕まえようか」→Q1「鮭はどこにいるのか」→探索→(鮭の)知覚→A1(知覚報告「ここに鮭がいる」)→A2「ここで鮭を捕まえよう」>

  <Q2「手紙を送るにはどうすればよいのか」→Q1「どこかにポストがないだろうか」→探索→(ポストの)知覚→A1「ここにポストがある」→A2「手紙をこのポストにいれるのがよい」>

動物の知覚も人間の知覚もアフォーダンスの知覚であり、(一定の条件がそろえば)一定の態度や行為が続くことになります。動物の場合には、その態度や行為は、走性、無条件反射、条件反射、オペラント行動、などであり、いわば自動的に連鎖していくのです。それに対して人間の場合には、それらの知覚や態度や行為は、それぞれ探索や問いに対する答えとして成立し、二重問答関係を構成します。二重問答関係(Q2→Q1→A1→A2)におけるA1からA2への推論はA1の下流推論ですので、アフォーダンスは、下流推論を促していると言えます。

次に、動物と人間の知覚や行為における概念について考えてみたいと思います。

18 知覚のゲシュタルトと発話の焦点の類似性 (20210603)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

(もう一度、人間の「言語的な知覚」について説明します。)

#性質<白い>の定義と語「白い」の定義

オースティンが指摘したように、対象<象>を定義することと語「象」を定義することは不可分であり、どちらか一方だけを先に行うことはできません(『オースティン哲学論文集』坂本百大監訳、勁草書房、「第5章 真理」、191)。それと同様に、性質<白い>の定義と語「白い」の定義も不可分です。「これは白い」という知覚報告が可能であるのは、そこで使用される知覚語の定義を学習しているときであり、そのときには知覚的性質の定義の学習も終わっています。したがって「どれが白いですか?」と問われたとき、その問いを理解しているのならば、語「白い」を理解しており、したがって知覚される対象(「これ」)についても、その知覚的性質<白い>の定義は完了しており、その知覚的性質<白い>を理解しています。

人間の「言語的な知覚」とは、知覚語と同時に定義されている知覚的性質についての知覚です。したがって、私たちが、知覚語を理解している時には、それを用いた知覚報告を行うことが可能になります。

#知覚のゲシュタルトと発話の焦点の類似性

・知覚のゲシュタルトは、発話の焦点と似ています。発話の焦点位置は、相関質問によって決定しますが(参照『問答の言語哲学』第二章)、知覚のゲシュタルトもまた、問いないし探索によって決定するでしょう。有名な老婆と若い女性の反転図形がありますが、それを老婆の絵が並んでいるところにこれをおけば、それは老婆の絵として知覚されるでしょう。若い女性の絵が並んでいるところにおけば、それは若い女性の絵として知覚されるでしょう。このようにゲシュタルトが変化するのは、その絵をみるときに「どんな老婆だろう」とか「どんな若い女性だろうか」という問いかけ(探索)をしながら見ることになるからです。ゲシュタルトの違う知覚は、異なる問い(探索)に対する答えです。

・発話の焦点位置が、より上位の問いに依存するように、知覚のゲシュタルトは、行為のより上位の目的に依存する。知覚は、行為の仕方であり、行為にはより上位の目的があるので、全ての行為は、探索である。知覚のゲシュタルトは行為のより上位の目的に依存する。

・発話の焦点が二重問答関係をもつように、知覚のゲシュタルトも問答と探索発見からなる二重の関係をもつ。知覚のゲシュタルトは、相関する探索によってきていされ、ゲシュタルト知覚からの下流推論は、相関する探索のより上位の問いに答えるプロセスである。

   「どれが白いのか?」→探索→発見(知覚)→「それが白いです」

次回は、動物の非言語的な知覚と人間の「言語的な知覚」とどう関係しているのかを考えたいと思います。

17 知覚と知覚報告と問い (20210602)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

このカテゴリーの01回から03回は、認識についての問答の区別を論じました。04回から16回は、錯覚論証の検討に始まり、脳科学と素朴実在論の結合(これを「結合説」と呼ぶことにします)を提案しました。「結合説」の説明および証明にはまだほど遠いのですが、そのためにも、ここからしばらく知覚と知覚報告について考察したいと思います。

#知覚と知覚報告と問い

日常の最もありふれた認識は、知覚報告です。「これは白い」「これは汚れている」などです。このような知覚報告はどのようにして生じ、それが真であることを保証するものは何でしょうか。

 「これは白い」という知覚報告の真理性を保証するのは、知覚ですが、その知覚はたとえば「どれが白いですか」という問いに答えようとして、注意してみることによって成立します。「どれが白いですか」という問いを受けて、目の前にあるいくつかの対象をみて、それぞれが白いかどうか、に注意します。

 この問いを理解する者は、「白い」を理解しています。「白い」の理解は、この語の意味を学習によります。その学習は、いくつかの対象について、問い「これは白いか」に対する正しい答え「はい」ないし「いいえ」を学習する、という仕方で行われます。この学習に基づいて、新しい対象について「これは白いか」という問いに正しく答えられるようになる時、学習が終了したことになります。

 このようにして「白い」を学習している人が、「どれが白いですか」と問われて、目の前の対象を知覚するとき、それが「白い」と言えるかどうかを自問しながら、その色に、あるいは「白さ」に注目して、知覚します。このときの知覚行為はどのように行われるのでしょうか。ここに次のような問答と探索発見の二重の関係を見つけることできるでしょう。

  「どれが白いのか?」→探索→発見(知覚)→「それが白いです」

対象が白いかどうかに注意して見ることは、探求の一種です。問答は、言語による探求ですが、言語によらない知覚的な探求をとりあえず「探索」と呼びたいと思います。言語をもたない動物も探索を行います。

 ただし、ここでの探索は、対象について「それは白い」と言えるかどうかの弁別であり、そのための知覚です。したがって、この知覚は、言語的な世界の中を動いており、この知覚は、言語的な世界の中での「行為の仕方」(ノエ)であり、言語的な世界の中での「行為のアフォーダンス」(ギブソン)です(これらについては、後述します)。その意味で「言語的な知覚」だと言えるかもしれません。

 ところで、動物の知覚は、非言語的な知覚です。これは人間の「言語的な知覚」とどう関係しているのでしょうか。

16 第二性質と素朴実在論 (20210530)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

素朴実在論に対する最も基本的な批判としては、色や匂いなどの第二性質が対象そのものに属していないということがあります。色そのものは、対象には属さず、対象の表面で反射する光が眼に入って生じる性質だと考えられます。しかし、素朴実在論者ならば、対象そのものが色をもつと考えるはずです。この矛盾をどう考えたらよいでしょうか。

私たちが色をどう知覚するかを考えてみましょう。私たちは、面を見て、そこに色を見ないことはできません。つねに何らかの色を見るでしょう。しかも、同じような条件下では、同じような色を見ます。その意味で、色は一回的なものではなく、反復可能なものです。色は、対象の表面そのものがもっている性質ではないかもしれませんが、対象の表面が太陽光のもとで光を反射して網膜の視神経を刺激して、その発火が大脳に伝わり視覚野で一定の発火パターンをもつときに付随する感覚です。ここには、形や大きさという第一性質の知覚の場合とは異なる主観的な現象が生じているわけではありません。色は知覚の状況によって変わって見えますが、形や大きさも知覚の状況に応じて変化して見えます。円盤は斜めからは楕円に見え、沈む夕日は大きく見えます。

したがって、第一性質と第二性質を区別して、第一性質についてだけ、対象の性質そのものを知覚しているとは言えません。つまり、いわゆる第二性質の存在は、素朴実在論とは矛盾しないのです。

15 視覚パーツと触覚パーツ (20210529)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

視覚空間と触覚空間がズレているときでも、私が見ているのはマグカップそのものであり、触っているのはマグカップそのものです。ただし、そのときに見ているものと触っているものが、同一だと思えないということが生じています。このような事態は素朴実在論とは矛盾しません。視覚と触覚がそれぞれ対象そのものを捉えており、その二つをどのように統合するかが問題だからです。二つの空間の同一化を再構築するとき、対象を適切に捉えることができるようになりますが、しかしそれができる前でも、対象そのものを捉えていたと言えるからです。対象の視覚パーツと触覚パーツがバラバラになっており、うまく組み合わせることができていないけれども、視覚パーツそのものと触覚パーツそのものは与えられていると言えるのです。先天盲の人は、触覚パーツだけを対象そのものとして理解しています。もちろん、視覚パーツがあることを聞いて理解していますが、それがなくても、その人は対象そのものを捉えているのです。また、例えばコウモリの空間認識のように、人間にはないような感覚器官をもった生物がいれば、それは対象について人間が知らないパーツを持っているかもしれません。

このように理解するとき、逆さ眼鏡の経験は、素朴実在論と矛盾するものではありません。

14 「投射」ではなくて「同一化」?(20210528)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

前回の述べた「逆さ眼鏡」の実験で、逆さ眼鏡をかけたときには、触っている対象の位置とみている対象の位置がずれる。この調整は、どのように行われるのでしょうか。

この調整は、意図しなくても無意識のうちに行われます。では、この調整を意図的に行おうとすると、どうしたらよいでしょうか。考えられるのは次のようなことです。手を動かしてみて、視野の中で手がどのように動くのかを観察することを繰り返せば、手を動かした時の手の位置の体感と視野の中での手の動きを予測できるようになるでしょう。また、逆さ眼鏡をかけてマグカップをつかもうとする前に、眼をつむってマグカップをつかむことを何度かやって、つぎに目を開いて、しかし視覚を気にせずに同じ動作をしてみる。そのとき、視覚の中で手がどう動くのかをよく見ます。そして、このときの視覚の中の手の動きと、手の動きの体感の関係をよく観察します。このようなことを繰り返しておこなうことによって、調整ができるようになるのではないでしょうか。では、このとき、何をおこなっているのでしょうか。

 視覚空間は、他のより広い空間の中にあるのではないので、より広い空間の中で、視覚空間をずらすというようなことはできないだろうと思います。それは、触覚空間についても同様であり、触覚空間が、他のより広い空間(例えば、本当の物理空間)の中にあって、そのなかでずらすことによって調整する、というようなことはできないと思います。視覚空間と触覚空間の調整もまた、それらを互いにずらして一致するようにする、ということではありあません。そもそもずらすということができないからです。

 では、上のようなやり方で調整するとき、何をしているのでしょうか。それは、ある時点での視覚空間の中のマグカップの位置と、触覚空間の中のマグカップの位置を(ずらすことによってではなく)端的に同一とみなすということです。そのような同一化の積み重ねの中で、二つの空間の調整を行うのです。ただし、同一とみなすといっても、視覚空間と触覚空間は、そもそも独立していて、無関係です。ですから、これは二つの空間のずれを、ずらすことによって元通りにするということではなく、二つの空間の関係を「もう一度」再設定するということだと思います。「もう一度」というのは、乳児は、触覚空間と視覚空間の同一化の設定を行っていたはずだからです。(モリヌースク問題で取り上げられる)先天盲の人が、眼が見えるようになった時にも、同じような同一化をおこなうと思います。

 この「同一化」は、プロジェクションマッピングのように、一方の空間の上に、他方の空間を「投射」することではありません。

 もし私たちが素朴実在論を採用するならば、素朴実在論が直接に見たり触ったりしているとみなす対象や空間は、このような「同一化」によって構成された対象や空間になるでしょう。しかし、そのような対象や空間は、構成されたものであって、世界(ないし事実)そのものではないように思われるかもしれません。それでは素朴実在論に反することになるでしょう。これについて次に考えたいと思います。

13 生物進化と素朴実在論の親和性(20210527)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

私が机の上のマグカップを見て手に取る時、それは私の頭の前方にあります。私がマグカップを見ているとき、同時に机も、パソコンも、私の手も見えていますが、眼を閉じるとそれは見えません。しかしそれは見ていたところに存在し続けているでしょう。そのことは、手でマグカップを持ち続けていること、私の腕の位置の感覚、体の姿勢の感覚がかわらないことと整合的です。

 眼を開けると、また机の上が見えます。対象からの光が眼に入り、網膜で視神経を刺激し、そのニューロン発火が脳につながり、そこで他のニューロンを発火させ、それらが視覚を生じさせるのです。そうすると、その視覚は頭の中に生じるのでしょうか。しかし、動物が生存のために視覚を獲得したことを考えると、マグカップがあるところに、つまり頭の前方にマグカップを見ることが必要です。もし別のところにマグカップをみたり、実際にあるのとは別様にマグカップをみたりしたら、それは生存の役に立たないだけでなく、かえって危険です。以上から、やはり次の二つは真であると思われます。

  ①脳内のニューロン発火で視覚が生じること

  ②見えている対象は、頭の前方にあること

しかし、一見するとこの二つは矛盾するようにみえるのです。どう考えればよいのでしょうか。

ある事例を考えてみましょう。それは「逆さ眼鏡」の事例です。「逆さ眼鏡」とは、ゴーグルのような外見の眼鏡で、内部のプリズムによって左右反転の像(や上下反転)の像が見えるようになっているものです。これをかけると視野前提が左右反転(や上下反転)して見えます。したがって、見えている物の位置と眼を閉じて手で触るものの位置がずれます。しかし、それをつけて一週間ほど過ごせば、正常に見ることができるようになるそうです。ただし、一週間その眼鏡で生活して慣れた後に、眼鏡をはずすと、視界が反転して見えるそうです。

ところで、この逆さ眼鏡の実験は、見えている通りに物があるのではない、ということを示しているのではありません。なぜなら、たしかに当初は左右反転(ないし上下反転)して見えます、つまり実際のあり方とは、違っているように見えますが、しかし、一週間すると見えている通りに物があると感じられるようになるのですから、逆さ眼鏡をしても、慣れれば、見えている通りに物があると言えるからです。

ここで、次の例を考えましょう。三人の人A、B、Cがいて、Aは左右逆さ眼鏡をかけ、Bは上下逆さ眼鏡をかけ、Cはなにもかけていないとしましょう。AとBが逆さ眼鏡をかけて一週間たったとき、AとBとCはそれぞれ、対象が見えている通りにあると思っています。彼らにマグカップを指さすように言えば、同じ対象を正しく指さすでしょう。AさんとBさんは、視覚空間と触覚空間のずれを、一週間かけて調整し終えているからです。

この場合は、触覚空間が基礎になり、逆さ眼鏡の場合も含めて、視覚空間はそれに一致するように調整されると考えると、Aさん、Bさん、Cさんが世界そのもの、対象そのものを見ていると考えることを、うまく説明できそうです。

触覚は視覚よりも基礎的な感覚であるように思われるのですが、触覚の場合でも上記の二つに似たことが成り立ちます。

  ①脳内のニューロン発火で触覚が生じること

  ②触っている対象は、頭の前方にあること

指や手の触覚は、指や手の運動、腕の運動、体の運動と結合しており、手をどう動かせば、どのようなに感じるかを、記憶し、予測できるようになります。手は腕の先にあり、腕は胴体から伸びており、胴体の上に頭があります。そうしたことも、触覚や視覚でわかります。脳内のニューロン発火で触覚が生じるはずですが、触覚は物に触っている指や手の表面で生じます。また鉛筆を持って、眼を閉じて机の上のものを触ってみれば、鉛筆の先で対象を感じることができます。この場合も、その触覚は大脳の内部のニューロンの発火によって生じるはずです。私たちは、脳のどの部分が発火しているかを感じることはできません。そのような感覚器官がないからです。私たちは、その触覚情報をどこかに位置付けなければなりません。大脳の中のあるニューロン・クラスターの発火が、ある触覚を生じさせます。そのとき、例えば対象の表面がザラザラしていることが分かるとします。ザラザラしたその対象の表面は、鉛筆の先で触っているところであり、頭の前方にあります。これもまた、視覚の場合と同様に、矛盾するように思われます。

もっと原初的な例を挙げます。指先に棘が刺さって痛いとき、痛みは指先にあります。それを感じるのは大脳です。ここで、他者との間に次のような問答を考えることができます。「どこが痛いですか?」「指先です。」しかし自問自答の場合には、「どこが痛いのだろうか?」「指先が痛い」という問答はありえません。なぜなら、痛みの感じには、つねに場所の特定が伴うからです。したがって、痛みについての自問自答は、次のようになります。「どこか痛いだろうか?」「指先が痛い。」ただし、痛みの場所の特定については、その特定が大まかで曖昧な場合があります。例えば、歯が痛い場合には、鏡を見ながら歯や歯茎を触ってみなければ、どの歯が痛いのかを特定できないということがあります。それでも、とにかく痛みの感覚には、痛みの場所の理解が伴うと言えます。(おそらく、全ての感覚について、場所の特定がともなうと言えそうです。)

 痛みの場所が分かることは、指を挟まれて痛いとき、足を踏まれて痛いときなどに、おもわずそれらを引っ込めるという無条件反射が成立するために必要なことです。その他の無条件反射の場合も同様でしょう。対象そのものを見ること、つまり見ている通りに対象があること、対象そのものに触れていること、つまり触れているところに対象があること、これらがもし実現されていないのならば、生物は生存のために感覚器官をもつ必要がないでしょう。素朴実在論は、生物の感覚器官の進化の説明と一致すると思います。

以上は、上に述べた①と②が共に成立していることの必要性を示しただけであり、その二つの結合の仕方についての説明としてはまだ不十分です。次回は、「投射」による説明を検討したいと思います。

12 素朴実在論の超越論的論証と生物学的自然主義(20210524)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

「サールは、脳科学の知見と素朴実在論の関係をどう考えるのか」という問題の前に、サールが素朴実在論(直接的実在論)について、超越論的論証を行っているのでそれをまず紹介します。

#サールによる素朴実在論の超越論的論証

サールは、『心』「第十章 知覚」で、感覚所与説を批判するだけでは、素朴実在論の証明にはならないとして、最後に素朴実在論の「超越論的論証」を行います。彼はその論証を、次のステップに整理しています。

「一、私たちは少なくともある場合には他の人と首尾よく意思疎通していると仮定する。

二、その意思疎通の形式は、ある公的な言語において公的に利用できる意味という形式をとる。具体的にいえば、私が「このテーブルは木製だ」という場合、私はあなたがその言葉をわたしと同じように理解するだろうと想定している。さもなければ、私たちはうまく意思疎通できない。…

三、しかし、公的な言語を用いてうまく意思疎通するためには、私たちは共通で、公的に利用できる指示対象を想定しなくてはならない。たとえば、私が「このテーブル」という表現を使う場合、私があなたがその表現をわたしが意図したように理解すると想定しなくてはならない。つまり、私たちはともに同じテーブルを指し示しており、あなたが「このテーブル」という私の発話を理解する場合、あなたは私によるその発話を、同じ状況であなた自身が「このテーブル」と発話する際に指し示すのと同じ対象(このテーブル)を指し示しているものとして受け取るということを仮定しなければならない。

四、このことは、あなたが私とまったく同じ対象に対する知覚的なアクセスを共有しているということをを含意している。公的な言語は公的な世界を前提としている。しかし、その公的な世界を公的に使用できるようにしているものとはまさに、私がここで擁護しようとしている直接的実在論である。」(サール『心の哲学』山本貴光、吉川浩満訳、朝日出版社、348)

つまり、素朴実在論を批判するものも、公的な言語を用いている限り、素朴実在論を前提しているという論証です。

「素朴実在論の正しさを証明するということはできない。むしろ、公的な言語において素朴実在論を否定することは理解不可能な営みであるということが証明されたのである。」(同訳349)

ここで、サールは、超越論的論証は「証明」ではないと示唆していることになります。私も超越論的論証は、厳密な証明にはなっていないと考えています。これについては、入江『問答の言語哲学』「4.4 超越論的論証の限界」で詳論しました。この超越論的論証は、素朴実在論を採用するとそこから有益な主張が帰結するということの一例となるでしょう。(一般に、主張pの上流推論は、pの「証明」となりますが、主張pの下流推論は、その結論が有用である場合には、pの「正当化」になると言えるでしょう。)

さて本来の課題に戻ります。

#サールにおける神経生物学と素朴実在論

サールは『心』で、心身問題に関して「生物学的自然主義」(biological naturalism)153という立場を主張し、これを次の4つのテーゼで説明しています。

「一 意識状態――主観的、一人称的存在論をともなった意識状態――は、現実世界における現実の現象である意識が錯覚であることを示すだけではそれを消去的に還元することはできない。また、意識は神経生物学的な基盤にも還元できない。なぜなら、そのような三人称的な還元は、意識の一人称的な存在論を切り捨ててしまうからだ。

二 意識状態は、もっぱら脳内におけるより低レベルの神経生物学的な過程によって引き起こされている。従って意識状態は、神経生物学的過程に因果的に還元できる。…

三 意識状態は、脳内において脳組織の性質として現実化されている。従って、意識状態はニューロンやシナプスよりも高レベルで存在している。個々のニューロンは意識を備えていない。だが、ニューロンからなる脳組織の諸部分は意識を備えている。

四 意識状態は、現実世界の中の現実の性質であるから因果的に機能する。たとえば私の意識に現れるのどの渇きは、私が水を飲む原因となる。」(同訳154、下線と強調は入江)

サールは、意識の説明については「神経生物学」のアプローチが「まさに正しいアプローチだ」(199)と考えています。そして、「唯物論でも二元論でもない」立場をとると言います。それは、「生物学的自然主義」でもあり「素朴実在論」でもある立場だといえるでしょう。

サールが、生物学的自然主義と素朴実在論を、私が提案するような仕方で「結合」しようとしているのかどうかはよくわかりません。上記の「三」にあるように、サールは、「意識状態は、脳内において脳組織の性質として現実化されている」と主張しているのですが、この「脳内において」と言うところが気になります。これを知覚に適用するならば、「知覚は、脳内において脳組織の性質として現実化される」と言えるでしょう。しかし、マグカップの知覚において、私がマグカップそのものを見ているのだとすると、その知覚は脳内にあるとはいえないのではないでしょうか。

 次回は、この点を、考えてみたいと思います。