76 佐々木さんの質問への回答(5) ブランダムのハーバーマスへの応答(2)二人称視点の軽視について (20220116)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

ハーバーマスのブランダムへの懸念2は次でした。

2,言語的実践にアプローチする義務論的スコア記録は、(第三人称のパーペクティヴと対比されるものとしての)二人称の視点をどこまで取りこめているのか。

ハーバーマスは、話し手と聞き手の二者関係でのコミュニケーションが、コミュニケーションの基礎にあると考えます。そこでは伝達よりも、同意の獲得が目標とされています。ハーバーマスは、この点を重視し、相互理解を言語の目的と考えます。それに対して、ブランダムはI-youのコミュニケーションの重要性に気づいていないと批判します。

ブランダムは論文のIIで、これに対して次のように応えています。

<ハーバーマスの言うようにI-you交流は重要であるのかもしれないが、その点に確信が持てない> と。

 しかしブランダムは、言語の目的を相互理解や合意の達成だとすることに反対します。なぜなら、共同行為は、そのような相互理解なしに可能だからです。全員が同じことをする軍隊の行進ではなく、ダンスをモデルに考えます。ダンスでは、パートナーは異なる動きをします。それがうまく組み合って滑らかなダンスになるのですが、しかしその時に、二人がダンスについて一つの理解を共有していることは確かめられないし、必要でもない、と言います。

二人は、「それぞれの異なる運動の協働によって構成されるダンスをシェアしている」のですが、「そのようなプロセスにおいて「共有」されているものは、様々なパースペクティヴから現象するのであり、そのさまざまなペースペクティヴへの指示による以外には、原理的に特定不可能である。」(363)

「言語的実践は何かのためではない。それは、全体として、目的やゴールをもたない。たしかに、言語的実践は、多くの機能をみたす。しかし、そのどれも言語の存在理由ではない。」363

ここでまでの応答は正しいように私には思われます。しかし、ブランダムはさらに次のように踏み込みます。

「相互理解、協働的な企ての追求は、言語的実践によって可能になる。しかし、私は、それらを、言語的実践の核心や目的やゴールであると見なすことできるとは思わない。」364

「MIEの目的は、より基礎的な主張実践を記述することであり、そこで問題になるのは、どんな遂行、反応、スコア記録の態度が適切であるのか、ないし正しいのか、ということである。」364

遂行的な発話行為が、主張型の発話よりもより基礎的であると考えるハーバーマスは、ここで戸惑うでしょう。ブランダムにとっての「主張」は、オースティンが事実確認型発話と行為遂行型発話に分けたときの「事実確認型発話」や、サールの発語内行為の分類の中の「主張型発話」とは一致しないものであるように思われるからです。

ブランダムは、とにかく「主張」を言語にとっての中心的なもの(down town)とみなすのです。ハーバーマスならば、ブランダムがこのような「主張」を言語の中心的なものとすることができることの背景には、つまり相互理解を目指さなくても問題が生じないと考える背景には、概念実在論の想定があると指摘するかもしれません。(この点についての私の考えも、後に述べることにします。)

 次に、最後の懸念3についてのブランダムの応答をみたいとおもいます。

 74 佐々木さんの質問への回答(4) ブランダムのハーバーマスへの応答 (20220114)

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今回と次回は、ブランラムからハーバーマスへの応答’Facts, Norms, and Normative Facts: A Reply to Habermas,’を紹介します。

ハーバーマスは、前掲書第3章の後半、4節、5節、6節でブランダムのMIEに対する懸念をのべていました。ブランダムは、この論文の冒頭でこの懸念を次のようにまとめています。

1,ブランダムの概念実在論では、概念的に分節化された事実からなる世界のなかで言説実践が成立するが、それらの事実の概念構造は、言説実践のおかげで成立するのではない。

2,言語的実践にアプローチする義務論的スコア記録は、(第三人称のパーペクティヴと対比されるものとしての)二人称の視点をどこまで取りこめているのか。

3,規範的事実の観念をめぐる懸念

ブランダムの論文はI, II, III、IVという4つに分かれていますが、Iで懸念の1に応え、IIで懸念の2に応え、IIIとIVで懸念の3に応えています。まずIでの懸念1についての応答を紹介したいとおもいます。(以下に示す数字は、ブランダムの論文のページ数です。)

ブランダムは、MIEで、<言説的実践>と<非言説的実践と単なる自然的事物の構成素>を明確に区別し、前者は、<理由を与え求めるゲーム>をすることであり、<概念を運用することないし適用すること>どみなします。

彼は、このように言説的実践と非言説的実践の区別を認めるのですが、他方、<概念的なもの>と<非概念的なもの>の区別は認めません。なぜなら「概念的なものの領域の外部には何もない」(37)ので「そのような境界は存在しない」(356)からです。さらに、彼は事実の概念的分節化について次のように述べます。

「世界はまず、物の集まりではなく、事実の集まりとして理解される。事実は、原則として語られうる(statable)ことによって弁別される。事実は、真なる主張である。「主張claim)」といのは、主張行為という意味ではなく、主張することによって表現される主張可能な内容という意味である。主張可能な諸内容(これは類であり、事実はその種である)は、互いに対して、本質的に実質推論的関係、両立不可能な関係にある。こうして諸事実は、概念的に分節化されている。」(356) (ちなみに「事実は真なる主張(claim)である」はMIE327,622にも登場します。)

このアプローチは、ハーバーマスが「概念実在論」ないし「客観的観念論」と呼んだものです。ブランダムは、ハーバーマスは概念実在論について二つの懸念を表明したと言います。それは、概念実在論が「認識論的受動性」と「意味論的受動性」にコミットしているのではないかという懸念です。ブランダムは論文のIでこの二つの「受動性」に関わる懸念を順番に取り上げます。

 まず「認識論的受動性」ですが、ハーバーマスは「概念実在論」を認識論的概念ではなく、形而上学的概念として理解しており、認識論に関してブランダムを批判していないと思うで、ブランダムがハーバーマスの議論をこのようにまとめるのは少し的外れであるような気がします。ただし、形而上学的な主張はつねに認識とかかわってしまうのも事実です。実際、ハーバーマスは、「こうした「実在論的な」世界理解は、経験には、受動的な媒介の役割しか認めないことになる。」(ハーバーマス『真理と正当化』邦訳、199)と批判していました。この点が、概念実在論は「認識論的受動性」にコミットしているという批判になるのでしょう。

 さて、ブランダムは、この批判に次のように応えます。

「私たちは、観察するのではなく、実験する。私たちは、理論と仮説を作り、それらをテストし、それらを修正する。認知は、認知、行為、認知というフィードバックに支配された循環の一要素としてでなければ理解できない。」357

「<私たちの言説実践を、その実践から独立な事実の世界に根差すものとして見て、私たちの主張を、正確さに関してそれらの事実について責任をもって答えることとして見ること>は、知識の傍観者理論へのコミットメントを決して含んでいない。」(358 下線は入江、< >は文の構造を明示するための、入江による附加)

ブランダムは、ここで「対象からなる世界」と「事実からなる世界」の区別について次のように述べます。ブランダムは、「世界はまず、物の集まりではなく、事実の集まりとして理解される。」(356)というのです。「事実の観念は、対象を明示的に含まない言語において解明されることができる。」358これについては、MIEの6章と8章で行ったと言われます。しかし逆に、「対象からなる世界の構想から始めて、対象を含む事実が何から成るについての理解可能な説明を作り上げる」ことはできない、と言います。例えば、対象についての説明から、事実(特に様相的事実や規範的事実)を説明することは難しいのです(Cf,358)。

この二つの存在論は、二つの意味論の関係に似ていると言われています。(cf.358)。

<存在論における>――<意味論における>

対象ベース存在論 ―― 唯名論的意味論 

事実ベース存在論 ―― 文意味論

ブランダムが「概念的に構造化されている」とか「概念的に分節化されている」と言うのは、対象や物や世界ではなく、事実なのです。

#次に、概念の「意味論的受動性」に関する批判へのブランダムからの応答をみましょう。

概念の「意味論的受動性」への批判とは、<事実を分節化している概念が、私たちが発見べきものであり、受動的に受け取るものだとすると、「概念的発展、概念の開発、修正、という重要な観念を理解できないものにする恐れがある」359>という批判です。

このような「意味論的受動性」への批判に対して、ブランダムは、言明の意味と言明の真理性を区別する二元論を批判することで答えようとします。

「<私たちの言明の意味は、全く私たち次第である。しかし、私たちが表現するその信念の真理は、私たち次第ではない。>私は、この実証主義的見取り図を拒否すべきであると考える。」360

つまり、言明の意味と言明の真理性は、不可分に結合している。

「<何が何から帰結するか(正しい概念とは何か)を語ること>と<どんな主張が真であるか(事実は何か)を語ること>は、解けないほどに互いに結合している。」360

「私たちは、<私たちの活動性から離れると、主張も推論もない>ということに、コミットする。」360

認識が単に受動的なものでも単に自発的に創造されたものでもないとすると、認識と不可分に結合している概念(言明)をつくることや言明(概念)を理解することも、単に受動的なことでも単に自発的に創造することでもない、と言うことになります。

冒頭にあげた懸念1は次でした。

ブランダムの概念実在論では、概念的に分節化された事実からなる世界のなかで言説実践が成立するが、それらの事実の概念構造は、言説実践のおかげで成立するのではない。

ここでは、<言説における概念的な分節化>が<事実の概念的な分節化>に一方的に依存するという考えが批判されている。これに対して、ブランダムが答えるのは、この二つの間には、逆方向の依存関係もあるということです。TMDになると、この二つの概念的分節化を分離して考えるのが、「概念的実在論」であり、この二つの概念的分節化を「意味論的相互依存」の関係においてとらえるのが、「客観的観念論」であるというようになります。(この点については、問答の観点から、後で論じることにします。)

 次に「概念実在論」に対する懸念2と3を説明したいとおもいます。

73 佐々木さんの質問への回答(3) ハーバーマスによるブランダム「概念実在論」への批判 (20220110)

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ハーバーマスは『真理と正当化』(1999)の「第三章 カントからヘーゲルへ――ロバート・ブランダムの言語語用論」において、ブランダムを「概念実在論」と規定し、それを批判します。前々回、MIEとARには、「概念実在論」という語は使用されておらず、TMDでは論じられているので、ハーバーマスの「概念実在論」についての理解はTMDに基づくものだと勘違いし、前回TMDでの「概念実在論」を紹介しました。しかし、数日前に気づいたのですがTMDの出版は2002でした。大変失礼しました(正月ボケですね)。

ハーバーマスはこの第三章で、ブランダムのMIEでの立場を「概念的実在論」ないし「客観的観念論」として規定しているのですが、彼は、ブランダムのヘーゲル論から、この概念を取り出したのではないし、この章で、ブランダムのヘーゲルの理解を論じているわけではないようです。この章のタイトル「カントからヘーゲルへ」は、ブランダムの「概念実在論」が、カントよりもヘーゲルに近いものになることを示しているので、ブランダムのヘーゲル論に由来するものだと勘違いしたのです。

以下に紹介するハーバーマスのブランダムの「概念実在論」への批判に対して、Brandomは、2000年にRēplyを書いています。これについては次回に見ることにし、今回は、ハーバーマスのブランダム批判、概念実在論批判を確認します。

この章は、6つの節から成っており、前半の3つの節は、MIEのブランダムの議論のまとめです。ブランダムついて、論評するのは、後半の4、5、6節です。4節で、ブランダムの立場を「概念実在論(conceptual realism)」であると規定します。(この語は、歴史的には、中世の普遍論争における「実念論」に始まるようです。ハーバーマスは、先人への言及を何もしていないので、ハーバーマスはここでこの語をおそらく独自の用法として使おうとしているのだと思います。)

 

ハーバーマスは、4節でブランダムの立場について次のように言います。

「われわれが立ち向かっている世界をブランダムは唯名論的に理解する気は毛頭なく、むしろ――老パースと同じに――「実在論的に」捉える。「実在論的」という用語を、近代の認識論における実在論の意味ではなく、形而上学的な概念実在論の意味で使ってよければだが」(ハーバーマス『真理と正当化』三島憲一、大竹弘二、木前利秋、鈴木直訳、法政大学出版局、2016、199)

ここで言う「概念実在論」は、「形而上学的な概念実在論」です。それは唯名論と対比されているので、中世の「実念論」と全く無関係というのではないようです。それはまた、近代の認識論における実在論とも区別されています。それは形而上学的な主張であり、次のように説明されます。

「概念や推論の実質的ルールの客観性をブランダムは、それ自身として概念的に構造化された世界の内に根をもったものとみている」(同訳、198f)

ハーバマスは、ブランダムのMIEから次の箇所を引用してこの理解の正しさを示します。

「諸々の概念が推論的に分節化されているという考えは、思考はほぼ同じように、そして特定のケースでは同一に、概念的に分節化されているという、思考と世界についての見取り図を与えてくれる」(MIE622)

ブランダムは、「概念」が認識論的な概念でないことを、次の箇所で説明しています。

「表現の推論的役割りとして捉えられた概念は、認識論上の媒介手段、つまり、こうした概念によって構築されたものと、われわれの間にある中間の媒介物として役立っている、というように考えてはならない。部分的なものから成る因果的秩序、質料が思考に提供する相互関係などというものがないからそのようにいうのではない。むしろ、いっさいのこうした要素それ自身が完全に概念的なものとして捉えられているからである。概念的なものと対立するものとして捉えられているわけではない」(MIE622) 202

ハーバーマスは、これは認識論的な概念でないので「超越論的な言語観念論」ではなく「客観的観念論」であると見なして、次のように説明します。

「ブランダムはウィトゲンシュタインとは異なって、こうした表現を、超越論的な言語観念論の意味では考えない。つまり、「われわれの」言語の限界がわれわれの世界の限界であるというようには考えない。むしろ彼にとってより当然とおもえるのは、客観的言語観念論である。世界がそれから成り立っている諸々の事実は、基本的には、真なる命題で陳述可能なものとしてあるのだから、世界もそうした性質の存在である、つまり概念的な本性を持っている、ということになる。」(同訳、202f)

ハーバーマスは、「概念実在論」とか「客観的言語観念論」「客観的観念論」をほぼ同じ意味で用いています。ちなみに、彼はこの本の「第4章 脱超越論化の道」において、ヘーゲルが「客観的観念論」へ向かった経緯を論じている。

#ハーバーマスは、5節では、「概念実在論」に基づくコミュニケーション理解を批判します。

ハーバーマスによれば、「発信者から受信者への情報の伝達というコミュニケーション・モデルは間違っている。」210なぜなら、「話し手はただ正しく理解してもらいたいだけではない。それ以上に、誰かと〈p〉について了解し合いたいのだ。…なぜなら、語られた内容は、話し手と受け手の両者が共に〈p〉と信じてはじめて、それに続く相互行為の前提として相互行為に組み込まれていくからである。真理請求は、間主観的な承認をめざしてなされている。」210

ハーバーマスによれば、ブランダムも確かに「情報伝達モデル」とは異なる「スコア記録モデル」「ダンスモデル」を提示しているが、しかしこれらは「方法的個人主義」をとっている。そして、方法論的個人主義と概念実在論に立つならば、「真理と、真とみなすこととの区別をつけるのは、それぞれひとりひとりのディスクルス参加者のすることになり、正当化共同体が、ディスクルスによって合意を得るという目標を思考する必要がなくなる。なぜなら、内容の客観性は――ディスクルスによって展開され、分節化されるにすぎない――世界の概念的構成そのものによって保証されている(という前提に全員が立っている)からである。」(同訳、212)

 ハーバーマスによれば、ブランダムはコミュニケーションを捉え損ねています。

#ハーバーマスは、6節では、ブランダムによる道徳の理解を批判します。

ブランダムの概念実在論では、「規範的命題は、記述的命題と同じように事実を、まさに規範的事実を描いている」(同訳、215)と考えます。

ブランダム曰く

「事実確認的な語りは、規範的な用語で説明される。そして、規範的事実は、事実のさまざまな種類の一つとして現れる。両者が、つまり事実確認と規範的事実が特定され説明される。共通の義務論的なスコア記録のための語彙は、規範的語彙と非-規範的語彙の区別に相応するのが、規範的事実と非-規範的事実の区別である。[…]このようにして、規範的なものは、事実的なものの副次的分野として特記される。」(MIE625) (同訳、215、ゴチは入江)

したがって、カントの道徳論と対立する。

「カントと異なってブランダムは、実践理性と理論理性を、合理的行動という同じ公約数に引き戻してしまっている。」(同訳、214)

しかし、ハーバーマスは、この二つを分けなければならないと考える。

「道徳的行為を正当化する理由は、事実に関する理由とは別の認識上の性質をもっている。まさに、道徳的な――しかしまた倫理的もしくは習慣的な――性質の実践的推論においてこそ、理由のカテゴリーに関しての不均衡が明らかとなる。」(同訳、220)

「行為の意図の正当化がブランダムの考えているように、確言的発話行為の理由づけのモデルで理解しうるということにはならない。」(同訳、220)

そして、ハーバーマスによれば、このような道徳理解は、ブランダムの他の主張とも不整合である。

「ブランダムも推奨する道徳の義務論的理解は、道徳的語彙の、彼が提案する概念実在論的な理解には適合しない。」221

「事実と規範の非連続性を均してしまうようなイメージには、カントの自律概念はそぐわない。」221

以上をハーバーマスのブランダム批判の紹介とします。ハーバーマスは、発話の遂行的機能を基本的なものとして重視しますが、これに対して、ブランダムは、「主張」を特別な基本的な発話行為として重視します。ハーバーマスからみると、ブランダムの「概念実在論」は、この「主張」という発話行為を重視すること結びついて、(5節と6節でみたような)問題を引き起こしているのです。(ハーバーマスと同じように、私もまた発話の遂行的機能を基本的なものと考えています。したがって、ブランダムがこの批判にどうReplyするのか、大変興味があります。)

そこで、このような批判に対する、ブランダムからのReply* を次に見たいとおもいます。(その後で、問答の観点から「概念実在論」の批判を述べます。)

*’Facts, Norms, and Normative Facts: A Reply to Habermas,’ European Journal of Philosphy 8:3 ISSN 0966-8373 , Blackwell Publishers Ltd. 2000.

https://www.academia.edu/Documents/in/Robert_Brandom にupされています)

72 佐々木さんの質問への回答(2) 概念実在論とは何か?(20220106)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

ブランダムはTMDで「概念実在論」を次のように説明しています。

彼は、客観的世界について、次のように語ります。

「(1)物が客観的に存在する仕方は、確定的で規定されていなければならない。」(TMD 179)

これは、とりあえず受け入れられるでしょう。

「(2)規定性の本質は、様相的に堅固な排除である。」(179)

ある規定性は、他ではないという排除によって、成り立っています。

ここで「様相的に堅固な(modally robust)」とは、反事実的条件法の使用を認めるようなもの、ということです。たとえば「このリンゴは赤い」からは、「もしこのリンゴがゴールデンデリシャスならば、このリンゴは赤くないだろう」とか「このリンゴをわたしが買っていなかったとしても、このリンゴは赤いだろう」とか「明日になっても、このリンゴは赤いだろう」というような反事実的条件文が帰結することをみとめることです。

「(3)実質的両立不可能性関係は、様相的に堅固な実質的帰結関係を生じさせる。」(181)

これは、例えば、「これは四角形である」と「これは三角形である」とは両立不可能であり、この両立不可能性から、「もしこれが三角形であるならば、これは四角形ではない」という反事実的条件文が帰結するということです。ちなみに、ブランダムが最も基本的な論理関係とみなすものが、「両立不可能性」と「含意」ですが、ここで示唆されているように、おそらくは「両立不可能性」の方がより基礎的なものと考えられていると思われます。

「(4)概念的に分節化されていることは、両立不可能性と帰結の実質的関係にあることである。」(181)

これを言い換えるならば、「対象が概念的に分節化されている」(あるいは「対象が概念的である」ということ)ということは、「それが他の対象と実質的な両立不可能性や帰結の関係にあることである」ということです。この(4)は、「概念的」ということのブランダムの定義だと考えてよいとおもいます。

このように考える時、客観的世界(ないしその中の事物)は、「概念的」だといえます。このような主張を、ブランダムは、「概念的実在論」と呼びます。(「概念的実在論」のこのような理解は、後のSpirit of Trustでも変わりません。)

ブランダムは、この「概念実在論」は、(3)からもわかるように、様相実在論と結びついています。「この定義を前提すると、ヘーゲルの概念実在論は、様相実在論によって認められる形式として見られうる。」181、「様相的に規定された事態:可能性と必然性」を理解することなしには、ふつうの記述的述語と命題も理解できない、と言います。つまり、ふつうの記述においても、様相概念がつねに暗黙的に働いているということです。

これで「概念実在論」の説明を終わってもよいのですが、ブランダムは、これからさらにヘーゲルの「客観的観念論」を次のように説明しています。

「ヘーゲルは、様相実在論は客観的観念論を要求すると主張するだろう」(181)

これを確認しておきたいと思います。ブランダムは、主観と客観を次のように説明します。

「(5)主観と客観の概念は、規定された否定ないし実質的両立不可能性の用語で定義されうる。」(182)

主観(主体)と客観(対象)は、「両立不可能性概念」の違いによって次のように説明されます。「一つの対象は、客観的に両立不可能な性質を同時に示すことはできないし、一つの主体は、主観的に両立不可能なコミットメントを同時に引き受けるべきではない(ought not)。」(182)

ところで、客観的両立不可能性と主観的両立不可能性は、コインの両面であり、相互に意味論的に依存している。つまり、「一方は他方への関係の中でのみ理解可能である。」(182) ブランダムは、これが「意識の主観的極と客観的極の関係に関する、ヘーゲルの客観的観念論の本質」(182)であると考えています。

要するに、「概念実在論」とは、世界が概念的に構造化されているということです。この「概念実在論」は、最初は、<私たちの認識とは独立に客観的世界があって、それは概念的に構造化されている>という主張として導入されます。確かに、ヘーゲル『精神現象学』の最初の「感覚的確信」と「知覚」の章までは、このようなものなのですが、「悟性」の章からは、客観と主観の結合(客観的観念論)が考えられるようになります。したがって、「概念実在論」もまた、私たちの認識から独立な世界についての理解ではなく、客観的観念論のなかに統合されるようなしかたで、理解し直されることになります。ブランダムは、「概念実在論」の理解がこのように「客観的観念論」へと変化していくことに、賛成していると思われます。

以上をとりあえず、「概念実在論」の説明として、次にハーバーマスによるその批判を確認したいとおもいます。

71 佐々木さんの質問への回答(1)(20220104)

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新年あけましておめでとうございます。今年もこのブログをよろしくお願いします。

佐々木さんからのご質問:

「ハーバーマスは、ブランダムの推論主義をとるとき「概念実在論」にいたると指摘し、その点を批判していました。入江さんが、ブランダムをフルパッケージで継承し、推論主義をとる時、「概念実在論」をとるのでしょうか。また入江さんはハーバーマスが「概念実在論」を批判することについては、どう考えるのでしょうか。」

合評会では、私は不確かな記憶に基づいて、ハーバーマスがブランダムの立場だと考える「概念実在論」は、数学のプラトニズムのように、概念のプラトニックな実在性、超越的な実在性を主張する立場だと理解して、回答しましたが、ハーバーマスのテキスト読み直して、これは間違いだと分かりましたので、まずそれを訂正したいと思います。

 ハーバーマスが「概念実在論」について語るときに念頭にあるのは、おそらくはブランダムがTales of the Mighty Dead(TMD)『偉大な死者の物語』の第6章でヘーゲルに「概念的実在論」を帰しているときの用法だと思われます。この言葉をブランダムはMaking it Explicit(MIE) でも、Articulating Reason(AR)でも用いていないからです。ブランダムがヘーゲルの『精神現象学』を論じた最近のA Spirit of Trust『信頼の精神』(2019)では、この概念はヘーゲルの観念論を理解するときの出発点になっている非常に重要な概念です。「概念実在論」の意味は、TMDでもMIEでも変わりないように思われます。

 ハーバーマスは、ブランダム自身も「概念実在論」を認めていると理解しているように見えます。私もおそらくはそうだろうとおもいます。(しかしブランダム自身が「概念実在論」をみとめているとしても、それをヘーゲルの概念実在論(これをブランダムは「質料形相論的概念実在論(hylomorphic conceptual realism)」と呼びます) とは異なるバージョンで考えている可能性があるとおもいます。今のところ、私には確実なことはいえません。)

 私自身は、(これがヘーゲルのものであれ、ブランダムのものであれ)「概念実在論」を採用しません。しかし、その理由は、ハーバーマスがそれを批判したのとは、別の理由です。

 以下つぎのことを書きます。

 まず「概念実在論」を紹介し、次にハーバーマスによるその批判を検討し、次に、私が「概念実在論」を採用しない理由を説明します。そのうえで、私がブランダムの推論主義をフルパッケージで継承すると言ったことと矛盾するのかどうかを考えたいとおもいます。

70三木さんへの回答(11) 嘘をつくことの禁止について(20211230)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

#嘘の禁止について

「4.3.5.2 嘘をつくことの禁止」(『問答の言語哲学』236-238)では、問答論的矛盾にもとづいて、嘘をつくことの禁止を超越論的に論証しました。

  「ひとは嘘をついてもよいのですか?」

    「はい、ひとは嘘をついてもよいです」

    「いいえ、ひとは嘘をついてはいけません」

この場合「はい」の返答は問答論的矛盾になるので、「いいえ」と答えることが必然的になるということ、つまり「嘘をついてはいけない」ということです。この「はい」の返答が問答論的矛盾になるというは、次のようなことです。

「「ひとは嘘をついてもよいですか?」という質問は、返答者が真だと信じる答えを要求している。しかし、「はい、ひとは嘘をついてもよいのです」という答えは真だと信じる答えへの要求と矛盾する。」(同書、237)

したがって、この質問に対しては「いいえ、ひとは嘘をついてはいけません」と答えることが問答論的必然になる、という論証でした。

#三木さんは、まず次の反例を述べます。

「「ひとは嘘をついてもよいのですか?」「はい、人は嘘をついてもよいです」の例(236 頁)にも同様の疑問を持つ。「はい、ひとは場合によっては嘘をついてもいいんです。子どもの夢を守るためにサンタクロースがいるという嘘をつくひとは、悪いことをしているわけではありませんよね? ひとを慰めるために安心させるような嘘をつくひとは間違っていますか?」などという回答は、普通になされうるだろう。」

このような返答が行われることがあるというのは、その通りです。私は、このような返答は問答論的に矛盾しているので本来はありえないと思います。ただし、人は矛盾に気づかないで矛盾した発言をすることがあるので、このような返答が行われることがあるのだとおもいます。嘘の禁止を正当化する論証にはいろいろなものがありますが、条件付きで嘘をつくことを認める論証にもいろいろなものがありますが、本書での論証は、「嘘をついてもいいです」と返答することが、問答論的矛盾になるのでありえないということです。(条件付きで嘘をつくことを認める論証とも原則的には両立不可能だと考えますが、両立させる方法がないわけではありません。それは別の議論になるのでここでは立ち入りません。『問答の実践哲学』で論じる予定です。)

 「嘘をついてもよいです」の返答が問答論的矛盾になることについての上記の説明が少しわかりにくいかもしれないので、もう少し丁寧に説明します。

 「人は嘘をついてもよいですか?」という質問に限らず、質問は常に返答者に真であると信じる答えを求めています(大喜利のように、真でなくても気の利いた答えを求める場合は例外とします)。ところで、問答が成立するためには、問いの前提を答えは継承しなければなりません。この場合の問いの前提「問いは常に返答者に真であると信じる答えを求める」を受け入れいれています。つまり「返答することは常に、真であると信じる答えを返すことである」という前提を受け入れています。

 さて、何かを語ることは、暗黙的には常に相関質問に答えることであるとすると、「ひとは嘘をついてもよいですか?」という問いは、「ひとは、質問に対して真なる答えをしなくてもよいですか?」と同義となり、先の問答は、次のようになります。

  「人は、質問に対して真なる答えをしなくてもよいですか?」

  「はい、人は質問に対して真なる答えをしなくてもよいのです」

この答えは、返答の前提「返答することは常に、真であると信じる答えを返すことである」と矛盾します。したがって、「はい、ひとは質問に対してしなる答えをしなくてもよいのです」と答えることは、(もし返答するものが矛盾を避けようとする合理的な話し手ならば)<ありえない>のです。

#もう一つの問題提起

「このあたりが気になるのは、規範的超越論的条件の導出が、「である」から「べき」への推論となっていることと関係があるかもしれない。ここでの議論は、事実としてある種の問答が矛盾していることから、根拠のない主張や嘘の禁止という規範が導出されている。しかし、事実としては人間は根拠のない主張や嘘もおこなうし、それらをおこなうと認める発言もしているはずだ。そうすると、事実から規範を導出したいにもかかわらず、事実のほうには「不純物」*5が入ってしまっている。本書のこのあたりの議論を読むと、問答に関してそうした「不純物」を取り除ける前提がどこかで置かれていて、それによって事実と規範のギャップが埋められているのではないかという印象を受ける。どういった議論になっているのか、改めて確認したい。」

#まず前半部分について

「このあたりが気になるのは、規範的超越論的条件の導出が、「である」から「べき」への推論となっていることと関係があるかもしれない。ここでの議論は、事実としてある種の問答が矛盾していることから、根拠のない主張や嘘の禁止という規範が導出されている。」

三木さんがここで言おうとしていることは、次のようなことではないかと推測します。「ひとは嘘をついてもよいのですか」という問いの中にすでに「よい」という規範的な語彙があります。この問いを受け入れてそれに答える時「よい」や「いけない」などの規範的な語彙を使用することになります。ただし、問いは、規範的な語彙を使用していますが、規範的な判断はしてはいません。これに対して、その答え「はい、人は嘘をついてはいけません」は規範的な判断を行っています。この答えを導出するときに、問答論的矛盾という「である」関係を用いています。それゆえに、「である」関係を用いて、「人は嘘をついてはいけません」という規範を推論していることになります。

この指摘は大変重要な指摘なのですが、このままではまだ不十分だとおもいます。これまで本書で語って来たように、発話は、相関質問との関係において、明晰な意味をもち、内容にコミットするものとして成立するのです。したがって、「人は嘘をついてはいけません」という規範的な返答もまた、規範的語彙を含む相関質問「人は嘘をついてもよいですか?」への返答として発話されることによって成立するのです。つまり、ここでの返答は、<相関質問>と<その相関質問と否定の返答が問答論的矛盾になるという事実>を前提とする問答推論の結論として成立するのです。(ちなみに、言語の規則に従うという規範性もまた、問答推論の中で成立することを、「4.3.3.3 言語の規則に従がうこと」(同書、230-233)で論じました。)

#以上のように考えた上で、後半部分に答えたいとおもいます。

「しかし、事実としては人間は根拠のない主張や嘘もおこなうし、それらをおこなうと認める発言もしているはずだ。そうすると、事実から規範を導出したいにもかかわらず、事実のほうには「不純物」*5が入ってしまっている。本書のこのあたりの議論を読むと、問答に関してそうした「不純物」を取り除ける前提がどこかで置かれていて、それによって事実と規範のギャップが埋められているのではないかという印象を受ける。どういった議論になっているのか、改めて確認したい。」

この三木さんの質問を次のように理解しました。「事実としては人間は根拠のない主張や嘘もおこなうし、それらをおこなうと認める発言もしているはずだ。」このような事例を「不純物」として「取り除ける前提はどこかに置かれていて、それによって事実と規範のギャップが埋められている」が、その「前提」とは何か、ということです。

もしこのような問題設定を受け入れるとすれば、次のように答えたいとおもいます。ここでいう「不純物」が、「人は嘘をついてもいい」のような発言であるとするとき、それを取り除ける前提とは、<その発話が相関質問に対する答えとして成立する>ということです。そして、この前提を認める時、「人は嘘をついてもいい」という返答は問答論的矛盾を引き起こすために取り除かれることになります。(ただし、三木さんの「不純物」という言い方を今ひとつ理解しきれていないような気がするので、これでご質問に対する回答になっているのかどうか、自信がありません。)

 以上で、三木さんの質問に一応ほぼ答えたとおもいます。ただし、まだ三木さんの疑念を払拭できていないかもしれません。三木さんのご質問は、私の記述の曖昧なところを指摘するもので、それに回答する過程で、記述の曖昧さ、抜け落ちていたことがらなどに気づくことができ、自分の主張をより明確にできたことを感謝申し上げます。

 次回からは、当日の他の参加者から頂いた質問に(三木さんから頂いた、指示と述定に関する質問にも)答えたいとおもます。

 みなさま、よい年をお迎えください。

69三木さんへの回答(10) 規範的超越論的条件はどのように導出されているのか?(20211228)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

次の質問「2(C):規範的超越論的条件はどのように導出されているのか?」に答えたいと思います。

三木さんは、2(B)では、「問答論的矛盾」が一般的によくわからないという疑問を提起し、この2(C)では、とくに「規範的超越論的条件の導出」の議論がよくわからないという疑問を提起します。具体的に「4.3.5.1根拠を持って語る義務」と「4.3.5.2 嘘をつくことの禁止」の議論を検討しています。

#「根拠を持って語る義務」について

ここで私は、この義務を、語用論的矛盾を用いて論証することもできるし、問答論的矛盾を用いて論証することもできると述べましたが、三木さんは「いずれもひとつ理由が呑み込めなかった」と言われていますので、説明したいと思います。

 まず「人は根拠なしに何かを主張できる」という主張が語用論的矛盾になるということについての疑問をつぎのように述べています。

「第一に、「ひとは何かを主張するために根拠を持つ必要はない」というのは単に義務の否定であって、「根拠を持ってはならない」という主張ではない。だとすると、この主張自体は根拠を持っておこないつつ、しかし根拠なしになされる主張も認めるというのは可能なのであって、その場合、特に語用論的に矛盾したことはしていないのではないだろうか?(実際、私は1(A) でそれをしていた)」

もしこの最後の部分「語用論的に矛盾したことはしていない」を「意味論的に矛盾したことはしていない」と書き換えるならば、それは正しいとおもいます。つまり、この説明は、「ひとは何かを主張するために根拠を持つ必要はない」という発話の命題内容の意味を分析しているように見えます。そして、そこから矛盾が生じないことを説明しているのだと思います。ただし、私が言いたいことは、この命題内容は、主張という発語内行為と矛盾するということ、つまり語用論的に矛盾するということです。

私がこの発話「人は根拠なしに何かを主張できる」が語用論的矛盾になることを論証するときには、主張と言う発語内行為が「何かを主張するためには根拠を必要である」ということを語用論的に前提するということをよりどころにしています。この発語内行為の前提と命題内容「人は根拠なしに何かを主張できる」が矛盾するので、この発話は語用論的に矛盾するのです。

 次に、三木さんは次の問答論的矛盾に関する疑問を提起します。

  「人は何かを主張するとき、根拠を持っているべきか?」

  「いいえ、人は何かを主張するために、根拠を持つ必要はありません」

三木さんは、これが問答論的に矛盾することに対して次のような疑問を提起します。

「第二に、これが問答論的に矛盾することの理由として、「ふつうは、主張発話を返答に要求する質問は、根拠を持った返答を要求する」とあるが、「ふつうは」という話から問答自体の超越論的条件を導出することはできるのだろうか? 「ふつうは」とわざわざ断られているように、普通でない状況なら根拠を持たない返答を要求することはいくらでもある。「理由は説明できなくていいから、まずはあなたの考えを聞かせてください」といった断りが加わるだけで、質問は即座に根拠を持った返答を要求しない質問になる。また、一人称権威を持った事柄に関する質問は、一般にそれ以上の根拠を要求しない(「頭が痛いの?」「うん、痛い」「痛いと考えるのはなぜ?」)。あるいはこれを、「一人称権威とは、それ以上の根拠を必要としない主張と関連する現象である」と語り直してもいいかもしれない。いずれにせよ、例外があるならば、それは普遍的に妥当することではないのではないだろうか? それにもかかわらず、その非普遍的な現象を問答の超越論的条件へと格上げできるのはなぜなのだろうか? 2(B) で述べた「文字通りの意味」とともに、ひょっとしたらここでも何か「標準的な問答」のような暗黙の領域制限がなされているのだろうか? だとしたら、それはいったい何なのだろうか?」

*まず次の部分に応答したいとおもいます。

「「理由は説明できなくていいから、まずはあなたの考えを聞かせてください」といった断りが加わるだけで、質問は即座に根拠を持った返答を要求しない質問になる。」

この場合、「理由は説明できなくていいから、まずはあなたの考えを聞かせてください」は、つぎのような質問として理解できます。「理由は説明できなくていいから、まずは、あなたの考えは何かですか(あるいはあなたはどう考えますか」この質問への答えは、自分が考えていることと一致する必要がある。つまり、この答えの根拠となるのは、自分が考えていることであって、その考えの根拠ではないということです。つまりこの質問の答えもまた、根拠を必要としているのです。

*次に次の部分に応答したいと思います。

「また、一人称権威を持った事柄に関する質問は、一般にそれ以上の根拠を要求しない(「頭が痛いの?」「うん、痛い」「痛いと考えるのはなぜ?」)。」

たしかに、一人称権威を持った事柄に関する質問は、一般にそれ以上の根拠を要求しない。しかし、それは根拠を持たないということではない。なぜなら嘘の返答が可能だからです。例えば、

  「頭が痛いの?」「うん、痛い」

という問答の答えが、嘘であることは可能です。「頭が痛い」が嘘であるとは、それが偽であるということであり、それが偽であるということは、本当はあまたが痛くない、と言うことです。もちろんこのことは、本人にしかわかりませんが、「頭が痛い」という発話にも根拠があります。このことは「これは赤い」という知覚報告が答えになる場合も同様です。この場合もそれに嘘と本当の区別があるということは、根拠があるということ(その根拠は、知覚報告とは区別される、知覚です)。

これらの場合の根拠は確かに命題知ではありません。しかし、感覚や知覚などが根拠となっており、問いに対する答えとしてある知覚報告を選択とすることを正当化するのです。

*三木さんは、例外となりそうな上記のふたつの事例を挙げたうえで次のように問います。

「いずれにせよ、例外があるならば、それは普遍的に妥当することではないのではないだろうか? それにもかかわらず、その非普遍的な現象を問答の超越論的条件へと格上げできるのはなぜなのだろうか? 2(B) で述べた「文字通りの意味」とともに、ひょっとしたらここでも何か「標準的な問答」のような暗黙の領域制限がなされているのだろうか? だとしたら、それはいったい何なのだろうか?」

この質問に答えたいと思います。

私が「ふつうは、主張発話を返答に要求する質問は根拠を持った返答を要求する。なぜなら根拠のない返答を得ても質問者にとっては意味がないからである。」(『問答の言語哲学』236)と書いたとき、「ふつうは」と書いたのは、まさにここでの問い「人は何かを主張するとき、根拠を持っているべきか?」が、そのような「ふつう」の問いではないと考えていたからです。

 この問いは、ふつうの決定疑問のように、「はい」(肯定)と「いいえ」(否定)の二種類の答えの可能性を想定しています。言い換えると、この問いもまた、返答が根拠をもつことを要求します。しかし、否定の返答の場合には、それは根拠を持たない可能性があります。そのとき、否定の返答は、これは問いの要求と矛盾するのです。つまり、この問いは、ふつうの問いではなく、いわば「不適格」な問いなのです。「問答論的矛盾は、問いと答えの間の矛盾である。より正確に言うと不適格な問いと答えの命題内容の矛盾である」(『問答の言語哲学』215)と定義していたのは、そういう事情でした。問答論的矛盾を引きおこさない「ふつう」の問いと、問答論的な矛盾を引き起こす「不適格な」問いとの区別が、ここで念頭にあったことです。

次に、「4.3.5.2 嘘をつくことの禁止」の議論についての疑問に答えたいと思います。

68三木さんへの回答(9) 依頼や命令の語用論的矛盾について(20211227)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

#前回の考察の中で、発語行為と命題内容が矛盾する語用論的矛盾(A)のなかで、発話が依頼や命令である場合には、それがどのような矛盾になっているのかを説明することが難しいことが分かりました。

  「静かにしてください」(と大きな声で言う)

の場合、前回次のように述べました。

「後者「静かにしてください」は依頼の発話であり、その依頼内容が実現した状態「教室が静かである」と、前者の「私が大きな声で言う」という状態が両立不可能であり矛盾するといえるかもしれません。しかし、依頼内容が実現した状態は、未来の状態であるのたいして、「私が大きな声で言う」は現在の状態ですので、これも厳密に言うと両立不可能ではありません。」

ここで語用論的矛盾を説明することが難しいのは、<依頼や命令の発話は真理値を持たないので、発語行為の記述(これは真理値を持ちます)との間に、「p∧¬p」という形式の矛盾が成立しない>ことにあるのだと思います。

ただし、この発話の場合でも、(真理値の両立不可能性を示すことは出来ないとしても)、コミットメントの両立不可能性を示すことは出来そうです。つまり、「静かにしてください」という依頼にコミットすることと、「私が「…」と大きな声でいう」ことにコミットすることは、両立不可能だと思います。何故でしょうか。

<コミットメント一般>については、前の発言(60回)で次のように説明しました。

<コミットメントとは、責任をもって選択することであり、それゆえに、コミットメントには、その上流推論や下流推論に関する説明責任がともなう。>

<発話へのコミットメント>については、以前の発言(54 朱喜哲さんへの回答(5))での説明「結論pの真理性にコミットすることは、前提の問いQとpの問答関係Q-pにコミットするということです」を踏まえて、次のように言うことができます。

<命題pの(真理性/適切性)にコミットすることは、(相関質問Qとpの)問答関係Q-pにコミットするということです。> さらに言えば、<問答関係Q-pにコミットすることは、Qの答えとしてpを責任をもって選択することです。>

「静かにしてください」という依頼発話の適切性にコミットすることは、それの下流推論の結論として、自分もまた静かにすることの適切性にコミットすることが帰結するでしょう。この適切性は、「私が「…」と大きな声でいう」という行為の適切性にコミットすることと両立不可能だと言えるのではないでしょうか。

依頼や命令の発話の命題内容にコミットすることは、(真理性ではなく)適切性にコミットすることであり、他方、発語行為にコミットすることもまた、行為の適切性にコミットすることであるから、コミットメントのレベルで、両立不可能性が成立するのです。

以上の説明は、依頼や命令の発話が引き起こす語用論的矛盾はタイプ(A)の場合だけでなく、(B)(C)の場合にも妥当します。それを見ておきたいとおもいます。

#発語内行為と命題内容が矛盾する語用論的矛盾(B)でも、発話が依頼や命令である場合には、その矛盾を説明することは同様の難しさを持ちます。

  「私の命令に従うな」(と命令する)

この場合、命令という発語内行為の適切性にコミットすることは、「私の命令に従うな」という命題内容の適切性にコミットすることと両立不可能です。

#前提承認要求と命題内容が矛盾する語用論的矛盾(C)でも、発話が依頼や命令である場合には、その矛盾を説明することは同様の難しさを持ちます。

  「ジャップを差別するな」(と命令する)

この場合、「ジャップを差別するな」という命題内容の適切性にコミットすることは、この前提承認要求を話し手が記述したときの内容「私は「ジャップ」が有効な概念であることを承認するように要求する」というこの要求行為の適切性にコミットすることは、両立不可能であるように見えます。

#ムーアのパラドクスと三木さんの提案について

三木さんからの「語用論的矛盾」の定義についての魅力的な提案が有りましたので、それについて考えてみたいと思います。

「よく挙がる語用論的矛盾の例と言えば、ムーアのパラドックスであろう。「雨が降っている。しかし私は雨が降っているとは思わない」のような発話は、意味論的には矛盾していないにもかかわらず、決してまともにはなされない。こうした現象が、発見者の名にちなんで「ムーアのパラドックス」と呼ばれている。こうしたものが語用論的矛盾であるとすると、矛盾であるかどうかの判断基準は「それを適切に発話できる状況があり得ない」といったことだろう。ただ、これは入江さんの基準とは異なりそうだ。というのも、「ここでは静かにしてください」と大声で言ったり、「私はどんな約束もしません」と約束したりということを、ひとは言うことがあるだろうし、そしてそうした発話はムーアのパラドックスとは違って、適切なものとして理解可能である場面が多いように思えるからだ(騒がしい教室で委員長が大声で注意するといった状況は、特に何の苦もなく理解可能であるように思える)。」

ここでの三木さんの提案、ある発話が語用論的矛盾であるかどうかの判断基準は「それを適切に発話できる状況がありえない」とするのは、魅力的な提案なので、検討してみたいと思います。

気になった点の一つは、三木さんが、ムーアのパラドクスについては、そのような状況はないが、私が語用論的例として挙げたものについては、そのような状況があると見なしている点です。果たしてそうでしょうか。ムーアのパラドクスを発話する場合もあるのではないでしょうか。ムーアのパラドクスは一般的に表現すれば、「p。私はpと信じない。」という発話です。

例えば、

  「漱石は偉大な文学者です。しかし、私はそうは思いません。」

このように言うことがあるのではないでしょうか。もちろんこれを文字通りに理解するとおかしいので、その場合に、私たちはそれを例えば次のような意味に理解します。

  「たしかに世間では漱石は偉大な文学者とみなされています。しかし、私はそうは思いません」

ムーアのパラドクスは一般的に表現すれば、「p。私はpと信じない。」という発話です。(ムーアのパラドクスは、私が分類する語用論的矛盾(B)に属するものです。ムーアのパラドクスは、二つの文で示されることが多いのですが、勿論これを連言でつないで「p、かつ私はpと信じない。」あるいは「pであるが、私はpと信じない。」という一つの文の発話に換えることもできます。このように言い換えても、ここでの議論には関わらないと思います。)(ちなみに私は、漱石は文字通りの意味で偉大な文学者だと思っています。)

気になるもう一つの点は、確かに騒がしい教室で委員長が大声で「静かにしてください」と注意するといった状況は、特に何の苦もなく理解可能です。しかし、そのとき多くの生徒は「あなたがうるさい」とつぶやくでしょう。つまり委員長の発話は、「適切」なものではないとつぶやくのです。つまり、委員長が大声で「静かにしてください」という大声の発話もまた、「それを適切に発話できる状況がありえない」といえそうです。もちろん、委員長の発話は「適切に」発話されている、と言うこともできるかもしれません(この点については確信は持てません)。

このように検討するとき、語用論的矛盾を、「それを適切に発話できる状況がありえないこと」と定義するときには、「適切に」をより明確に説明する必要がありそうです。今回の前半の考察を踏まえて、この「適切に」を次のように言い換えられるのではないでしょうか。

「ある発話が語用論的矛盾であるかどうかの判断基準」

=「それを適切に発話できる状況がありえないこと」

=「それを発話することがコミットメントの両立不可能性をおこさない仕方で、それを発話できる状況がありえないこと」

この定義の問題点は、この定義項は、問答論的矛盾にもあてはまる可能性があるという点です。問答論的矛盾と語用論的矛盾を区別しようとするならば、この定義はさらに修正の必要があります(問答論的矛盾と語用論的矛盾の区別は、それぞれについて私が本書で行った定義がまだ有効であり、その定義を用いて行うことできると考えますので、ここではこの修正に立ち入りません)。

 次は、三木さんの最後のご質問「規範的超越論的条件はどのように導出されているのか?」に答えたいと思います。

67三木さんへの回答(8) 語用論的矛盾とは何なのか?(20211225)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

三木さんは、語用論的矛盾について次のように質問していました。

「一般的に言えば、ある文が意味論的に矛盾しているというのは、その文がそこに現れる語の意味ゆえに真であり得ないということだろう。語用論的矛盾は「発話行為(音声行為、用語行為)とその命題内容があるいは発語内行為とその命題内容が」衝突することだとされる(208 頁)。ここで入江さんはいくつかの語用論的矛盾を挙げているが、肝心の「矛盾」の意味があまり明示的でなく、「整合的ではないと感じられる」とだけ語られている(209 頁)。」

「整合的ではないと感じられる」理由については、一応次のように説明していました。

「なぜなら、語用論的矛盾(A)では、発話行為を記述した命題と、当該の発話の命題内容が論理的に矛盾し、語用論的矛盾(B)では、発語内行為を記述した命題と、当該の発話の命題内容が論理的に矛盾しているからである。」

これをより具体的に言うと次のようになります。

語用論的矛盾(A)の例を説明すると、「私は「ここでは静かにしてください」とここで大きな声で言う」と「ここでは静かにしてください」という二つの命題内容が論理的に矛盾する、と言うことになります。

語用論的矛盾(B)の例を説明すると、「私は「私は存在しない」と主張する」と「私は存在しない」という二つの命題内容が論理的に矛盾する。

三木さんが言うように、これではまだ曖昧かもしれません。

まず、簡単な方の、語用論的矛盾(B)の例で考えてみます。「私は存在しない」という発話の発語内行為を話し手が記述した命題の内容「私は「私は存在しない」と主張する」と発話の命題内容「私は存在しない」は矛盾します。「Xが主張するならば、Xは存在する」という前提を加えるならば、それと前者から、「私は存在する」が帰結し、これと後者「私は存在しない」が論理的に矛盾します。

説明が難しいのは、語用論的矛盾(A)の例です。「ここでは静かにしてください」という発話の発話行為を話し手が記述した命題の内容「私は「ここでは静かにしてください」とここで大きな声で言う」と発話の命題内容「ここでは静かにしてください」は、厳密にいうならば、何処が矛盾しているのでしょうか。「大きな声でいう」ことと、「静かにしてください」という依頼内容は、pと¬pというような論理的矛盾にはなっていません。

 後者「静かにしてください」は依頼の発話であり、その依頼内容が実現した状態「教室が静かである」と、前者の「私が大きな声で言う」という状態が両立不可能であり矛盾するといえるかもしれません。しかし、依頼内容が実現した状態は、未来の状態であるのたいして、「私が大きな声で言う」は現在の状態ですので、これも厳密に言うと両立不可能ではありません。

 「静かにしてください」(と大声で言う)ことのおかしさを、どう考えたものでしょうか。この難しさは、依頼の発話ゆえに生じる難しさだと思われます。依頼の発話でなければ、発話行為と命題内容の語用論的矛盾の説明は簡単です。例えば、

   「私は静かに話している!」(と大声を出している)

この場合には、この発話行為の話し手による記述「私は「私は静かに話している」と大声を出している」と、命題内容「私は静かに話している」は、論理的に矛盾します。

 依頼の発話行為と命題内容の矛盾についての考察は、次回に回させてください。ここでは『問答の言語哲学』で抜け落ちていた語用論的矛盾の別のタイプを追加しておきたいと思います。

#語用論的矛盾の新しいタイプの追加

前提承認要求と命題内容が矛盾する場合を、語用論的矛盾(C)として追加したいと思います。(この語用論的矛盾や問答論的矛盾については、ずいぶん前から本書に書いたように考えてきました。他方「前提承認要求」を想定するようになったのは、近年のことなので、その考察が抜けたままになっていたのです。これは全く私のミスです。)

語用論的矛盾(C)の例は、次のようなものです(差別用語を例に使って説明しますが、それはこのような例が重要だと思うからで、差別的な意図はありません。)

  「私はジャップを差別しません」

これは、「ジャップ」という語の使用が日本人にたいする差別的な判断を前提しており、その語が含まれる文を発話することは、その前提(その語の妥当性、有用性)を承認することを要求することになります。したがって、この前提承認要求と、命題内容が矛盾します。

66三木さんへの回答(7) 問答論的矛盾とは何なのか?(20211224)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

2(B):問答論的矛盾とは何なのか?

「問答論的矛盾とは何なのかということが気になる。それは入江さんによれば答えの発話がそれ自体としては意味論的にも語用論的にも矛盾しないにもかかわらず、先立つ問いへの答えとして発話されるときには矛盾する事態である(210 頁)。しかし、「矛盾する」か否かの判定は何によってなされるのだろうか?」

まず、「問答論的矛盾」の「矛盾」を説明したいと思います。

例えば、

  「私の言うことが聞こえますか?」「いいえ、聞こえません」

この問答がおかしいのは、もしこの答えが正しければ、問いが聞こえていないはずだから、この問いに答えることができないにもかかわらず、この問いに答えていることです。もう少し明確に言うと、「問いに答えているのだから、問いが聞こえている」ということと、答えの命題内容「問いが聞こえない」が矛盾しています。

 このような問答論的矛盾に関する三木さんの疑問の一つは、「聞こえますか」という問いに「聞こえません」と答えること、また「日本語がわかりますか」という問いに「わかりません」と答えることは、実際にありうるのではないか?というものです。

 このような場合があることは私も認めます。しかし、この問いを「文字通り」に理解した上で、「文字通り」の意味で「聞こえません」や「わかりません」と答えることは、ありえないと思います。つまり「文字通り」の意味とは、「はっきりとは聞こえません」とか「日本があまり分かりません」という意味ではなく、「全く聞こえません」「全く分かりません」という意味です。

 「聞こえません」という返答があるとき、それを文字通りの意味では理解できなので、私たちはそれらを、「あまり聞こえません」という意味を持っていると理解します。つまり、グライスのいう「協調の原理」が働いて、その発話が適切な意味を持つように「あまり聞こえません」という意味(つまり、グライスの言う「会話の含み」)で理解しているのだと思います。

 三木さんは、もう一つ別の疑念も示しています。

「もともと文の意味はその問いとなるものとそこからの問いとなるものによって理解されているのだった。そして何が何の問いとなり、答えとなるかは、おそらく社会実践によって決まるのであろう。では社会実践を見ると、「あなたは日本語がわかりますか?」という問いに「あまりわからない」と伝えようと「いいえ、わかりません」と答えるというのは、許容されているように思える。とすると、「あなたは日本語がわかりますか?」の意味の一部として、「いいえ、わかりません」と答えうることはすでに含まれていることにならないのだろうか? おそらく私がよくわかっていないのは、「文字通りの意味」というのがどこから出てきた何物なのか、ということなのだと思われる。これが現実の推論実践から帰納的な仕方で導かれるものであるならば、「いいえ、わかりません」は文字通りに妥当な答えとなりそうなものだが、そうではないようだ。」

 問答推論的意味論では、疑問文を含む文の意味は、その上流問答推論関係と下流問答推論関係に他なりません。したがって、「「もともと文の意味はその問いとなるものとそこからの問いとなるものによって理解されているのだった。そして何が何の問いとなり、答えとなるかは、おそらく社会実践によって決まるのであろう」というまとめは、その通りです。文の意味が、現実に社会で行われ認められている実質問答推論によって成立するものであるとしたら、「聞こえますか」に「聞こえません」という問答が社会で現実に行われている以上は、それが「文字通りの意味」であることになりそうだ、という指摘です。

 これは鋭い指摘ですが、この疑念に対する応えも、前のものと同様になります。ある文の発話が、「文字通りの意味」を伝えるために用いられる時と、「会話の含み」を伝えるために用いられる場合があるということ、つまり発話が二つの意味を持ちうるということも、社会的実践がみとめることです。ですから、「聞こえません」が「あまり聞こえません」の意味で用いられるとしても、それが「文字通りの意味」であるとはかぎりません。

 私が問答論的矛盾の説明でつかう「文字通りの意味」を「会話の含み(implicature)」と区別することによって説明したいとおもいます。この区別は関連性理論の用語では「表意(explicature)」と「推意(implicature)」となります。『問答の言語哲学』第2章2.3では、「会話の含み」がどのようにして構成されたり、理解されたりするのかを、次のように説明しました。文の「文字通りの意味」は、相関質問と当該の文の発話の関係をつくる問答推論関係によって成立しますが、これに対して「会話の含み」は、相関質問に対する答えではなく、より上位の問いにたいする答えとして理解できます。ここには、Q2→Q1→A1→A2という二重問答関係があります。これをより丁寧に説明すると次のようになります。

  Q2〔「十分に聞こえますか」〕

    Q1「聞こえますか」

    A1「聞こえません」(このQ1→A1という問答は、問答論的矛盾になるので、ありえません。)

  A2〔「あまり聞こえません」〕(〔 〕は会話の含みを表します)

Q1とA1が実際に発話されたものですが、それらの問答がありえないので、Q1はQ2を問うていたのだと解釈され、A1はA2の意味であると解釈されるのです。Q2は、Q1の含みを明示化したものであり、A2は、A1の含みを明示化したものです。

次に語用論的矛盾についての質問に答えたいと思います。