グローバル化の時代における人文社会科学の二種類の問題設定

 
16 グローバル化の時代における人文社会科学の二種類の問題設定 (20130113)
前回、1990年頃に人文社会科学の課題は、ナショナルな視点からグローバルな視点へ転換したと述べました。
   「西洋近代とは何か」
   「私たちはどのように西洋に向かい合うべきか」
これらの問いが、1990年頃から次の問に変わったのです。
   「グローバル化とは何か」
   「私たちはどのようなグローバル化を選択すべきか」
しかし、それは正確ではありませんでした。
 
保守的な人々は、相変わらずつぎのように問うでしょう。
  「私たち日本人はグローバル化にどのように対応すべきか」
彼らにとっては、グローバル化は、外からやってきたものなのです。2012年12月の総選挙での自民党の勝利は、そのように考える人が多いことを示しています。この保守的な態度に従うなら、おそらく人文社会科学の研究もナショナルな視点から継続されることになるでしょう。その際、私たちは以前とよく似た次の3つの種類の答え方を反復することになるでしょう。
  (1)グローバリズム:グローバル化推進論者
  (2)復古主義:反グローバル化
  (3)オルターなティズム:反グローバル化
 
日本国が存続する限り、「私たち日本人はグローバル化にどう対応するのか」というナショナルな視点からの研究は、一方で継続するでしょう。
 
他方で、グローバル化は、グローバルな社会問題(環境問題、難民問題、食料危機、金融危機など)を生み出しており、これらは、グローバルな連携によってのみ解決できるものです。そのためには、私たちは「私たち人類は、どのようなグローバル化を選択するのか」とい問いを立て、グローバルな視点から取り組まなければなりません。
 
どのくらい続くかわかりませんが、私たちは、しばらくは、これらの二つの問いの立て方をすることになるでしょう。 
 

問いの見直し

                                        Heidelbergの有名なAlte Brueckeです。現在のものは戦後再建されたものです。
 
明けましておめでとうございます。
今年はどんな年になるのでしょうか。
反動があろうがなかろうが、グローバル化が進むことは間違いないでしょう。 
 
15 問いの見直し (20130105)
 
この書庫の問題設定を少し見直したいと思います。
 
明治維新から1990年ごろまでは、次の問いが日本の人文社会学にとって重要であり、
   「近代西洋とはなにか」
   「私たちは近代西洋にどう対処すべきか」
1990年以後は、次の問いが重要になったと言いました。
「グローバル化とはなにか」
「私たちは、グローバル化にどのように対処すべきか」
 
2番目の問いの「私たち」は日本人です。では、4番目の問い「私たちはグローバル化にどう対応すべきか」の「私たち」とは、誰のことでしょうか。
 
2番目の問い「私たち日本人は、西洋社会にどう対応すべきか」という問いは、日本と西洋社会が別々に存在しており、それが出会った時の問題でした。グローバル化についても、日本人はしばしば「黒船」の喩で語ります、それは「外部」からやってきて開国を求めるものなのです。
 
しかし、正確に言うならば、グローバル化は、私たちの外部からやってきた出来事ではありません。日本の経済発展やバブルの崩壊は、グローバル化を引き起こした原因の(小さな部分であるにせよ)一部分だからです。どのような国にとっても、グローバル化は、外部の出来事ではなく、その国の変化が原因の一部になっている出来事です。そうすると、「私たちは、グローバル化にどのように対処するか」ではなくて、「私たちは、どのようなグローバル化を選択するのか」というべきでしょう。
 グローバル化が世界全体の動きであり、誰も部外者ではなく、誰もがそれに加担しているのだとすると、この問いの「私たち」は、「私たち人類」でもあり得ますし、「私たち人類は、どのようなグローバル化を選択するのか」という問いになるでしょう。
 
上記の問いの「私たち」の変化は、ナショナルな視点から、グローバルな視点への変化でもあります。学問においても、これは同様です。学問は、本来は普遍的なものだと思いますが、人文社会科学は、これまでナショナルな視点に拘束されてきたのだと思います。人文社会学そのものは、たとえば、ドイツ哲学とか、フランス文学とか、日本史とかのように、ナショナリズムをと結びついて発生したものであり、ナショナリズムが無効になった今日でもなおナショナルな視点と結びついています。
グローバル化のなかで、グローバルな視点からの人文社会学のための社会的な条件が成立したといえます。もちろん、グローバル化の時代になっても国家はなくならないし、ナショナル・インタレストもなくなりませんから、ナショナルな視点の人文社会科学もなくならないでしょうが、他方で、グローバルな視点の人文社会学の可能性も登場したということです。
たとえば、歴史学における世界システム論や、哲学における言語分析の哲学が、グローバルな視点からの人文社会科学の例として考えられると思います。
 このグローバルな視点からの人文社会科学は、黒船のようにやってきたのではありません。経済におけるとどうように、文化においても、グローバルな文化は、外からやってきたのではなく、これまでの文化の変化の帰結として登場したのだと思います。
 

 
 
 

近代文学が終る理由

 
13 近代文学が終る理由 (20121202
 
 前回述べたことは、柄谷自身が述べていることです。
「小説は、「共感」の共同体、つまり想像の共同体としてのネーションの基盤になります。小説が、知識人と大衆、あるいは、さまざまな社会的階層を「共感」によって同一的たらしめ、ネーションを形成するのです」(柄谷行人『近代文学の終り』インスクリプト、45
 
では、なぜ「近代文学の終り」がやってくるのでしょうか。柄谷はつぎのように述べています。
「今日ではもうネーション=ステートが確立しています。つまり、世界各地で、ネーションとしての同一性はすっかり根を下ろしています。そのためにかつて文学が不可欠であったのですが、もうそのような同一性を創造的に作り出す必要はない。人々はむしろ現実的な経済的な利害から、ネーションを考えるようになっています。」(同書、49
 
ネーション=ステートの同一性は確立しているので、文学は役割を終えたというのです。
グローバル化によって、ネーション=ステートの有効性が失われたので、文学の有効性が失われた、とは述べていません。(柄谷もまた、どこか他のところで、このように述べているかもしれませんが、…)。
 
近代文学が終わる理由ないし原因として考えられるのは、次の3つでしょうか。(ご意見がありましたら、ぜひおねがいします。)
原因1:ネーション=ステートの同一性は確立したので、近代文学の役割は終わった。
原因2:ただし、ネーション=ステートが存続する限り、「共感」の共同性を常に維持し続ける必要があるのだとしたら、近代文学の重要度は低下するにしても、それは重要であり続けるはずである。しかし現代では、「共感」の共同性は小説よりもむしろ映画やTVのドラマやトーク番組によって維持されている。
原因3:ネーションステートの確立や維持が、現代社会の最重要の問題ではなくて、グローバリズムにどう対処するかが、最重要の問題になっているので、「共感」の共同性の確立と維持が、問題としての重要性を失った。
 
 文学の重要性が下がると文学は娯楽になる、と柄谷は言います。「文学の地位が高くなることと、文学が道徳的課題を背負うこととは同じ事」であり、「その課題から解放されて自由になったら、文学はただの娯楽になるのです」(同書46f)もしこれが正しいとすると、文学研究は娯楽研究、文化産業研究になりそうです。
 
 他方で、グローバル化の時代に必要とされる感受性や想像力を形成するという役割を文学に見ようとしている人(スピヴァク)もいます。もしこれまでと同様に、「道徳的課題」を背負ったグローバルな文学というものが可能であるとすると、文学研究はこれまでと同様に続いていくのかもしれません。
 
 
 
 

近代文学と感情の共同体

 
12 近代文学と感情の共同体 (20121122)
 
前回の引用を再説します。
「近代文学がネーションを構成するにあたって不可欠である」(柄谷行人『近代文学の終わり』p.173)。
 
 この主張は、次のように証明できるのではないでしょうか。
 共通語としての日本語は、新聞や本などのメディアと学校教育によって成立したと思われます。(共通語としての日本語は、現在ではこれらに加えて、ラジオやテレビやインターネットをとおして、常に再構築されています。)これらのメディアによって、知識や情報を共有する同質的な日本社会が成立します。新聞で共有されるのは、社会問題や社会制度や社会的な出来事についての認識です。これによって、ナショナル・インタレストの共有が生まれるでしょう。
 メディアの中で、近代文学に特徴的な機能は、感情表現の共有であり、それによる感情の共有でしょう。文学が語る特徴的な内容は、感情です。主として、登場人物の個人の欲望、悩み、です。それらを語る言葉を共有することによって、私たちは似たような感情を共有するようになります。自分の知らない方言で表現された感情は、その意味を説明されても、共感することが難しいのですが、自分の知っている方言で表現された感情は、よく理解できます。それは、自分の感情そのものが自分の方言で構成されているからです。感情表現に用いる日本語を共有することによって、私たちは感情を共有するようになります。近代文学によって、感情の共同体が可能になるのです。ところで、ネーションは(幻想であるにせよ)感情の共同体であることを必要とします(なぜ?)。従って、「近代文学がネーションを構成するにあたって不可欠である」と言えます。
 
 

 

「近代文学の終り」

                hervestの秋からfallの秋へ
 
11 「近代文学の終わり」 (20121113
 
柄谷行人は、次のように述べています。
「近代文学がネーションを構成するにあたって不可欠であること、「言文一致」や「風景」もまたその一環であること」(『近代文学の終わり』p.173)、
「近代文学は一九八〇年代に終わったという実感があります。いわゆるバブル、消費社会、ポストモダンと言われた時期です。」(同書39
「私が「近代文学の終わり」というときには、それを批判するかたちであらわれたエクリチュールやディコンストラクティヴな批評や哲学も含まれています。そのことがはっきりしたのが一九九〇年代ですね」(同書39
「日本のバブル的経済はまもなく壊れましたが、むしろそれ以後にこのような大衆文化がグローバルに普及し始めた。その意味で、世界はまさに「日本化」し始めたように見えます。グローバルな資本主義経済が、旧来の伝統指向と内部指向を根こそぎ一掃し、グローバルに「他人指向」をもたらしていることを意味するにすぎません。近代と近代文学は、このようにして終わったのです。」(同書、69
 
これ以上に述べるべきことを思いつきません。
 
 

ナショナリズムとグローバル化

                                   アムステルダムで一番有名なビールは?と尋ねるとハイネケンだ
                という答だったので、二番目に有名なビールを頼みました。
 

10 ナショナリズムとグローバル化 (20121101)

 

「文化をグローバル化するとはどういうことか」という問いに答えようとして、

 

  ・政治経済的な要因

  ・有用性という要因

  ・翻訳という要因

 

に言及してきました。この先が見えなくなってきたので、最初の問いに戻ります。

この書庫の問いは、次の二つの問いでした。

 「グローバル化とは何か」

 「グローバル化にどう対応すべきか」

 

とりあえず、文化について、これらの問いの答えようとしてきました。

そこで次のような問いを立てました。

 「文化はグローバル化によって、どのように変容するのか」
 

この問いに答えるために、次の問いを立てたいと思います。

 「グローバル化によって、文化において失われていくものは何か」
 

これへの簡単な答えは、「伝統的なローカルな文化」です。これには、つぎのように答えることもできます。「ナショナリスティックな文化が失われていく」
 

 例えば、日本史研究、日本文学研究、日本思想史研究、これらはナショナリズムと結びついています。あるいはドイツ史研究、ドイツ文学研究、ドイツ思想史研究出会っても同じです。歴史意識は、ナショナリズムと共に民族共同体のアイデンティティを求める動機で生まれたものです。民族言語による文学も同様でしょう。思想も、ドイツ哲学、フランス哲学、イギリス哲学などと国名をつけて呼ばれるときには、ナショナルな文化です。
 

 ナショナルな文化の後退を惜しむ人たちがいますが、しかし他方ではナショナルな文化からの精神的な解放を喜ぶ人たちもいます。異文化理解の意義として、自己文化をより知ることになる、ということがあげられることがありますが、しかし、自国文化から解放されるということもあるのではないでしょうか。

 外国で生活すると、外国かぶれになるか、日本回帰するか、どちらかになりがちであるとすると、それはナショナリズム、ナショナルな文化の拘束がきついことの裏返しではないでしょうか。グローバリズムは、このような文化的な拘束から我々を解放してくれるのではないでしょうか。それは外国かぶれになることとは別のことです。
 

 

 というわけで、ナショナリズムとグローバリズムの関係を考えてみたいとおもいます。

 
              
                    
 
 
 
 
 
 
 
 

文化をグローバルかするとはどういうことか(3)

                                   パトカーもまた世界中で似たような形をしています。

           

09 文化をグローバルかするとはどういうことか(3)

問い「文化をグローバル化するとはどういうことか?」に対する

前回の答えは次のものでした。

「もしプラグマティックな関心から文化の選択が行われているとすると、文化をグローバル化するとは、次のいずれかである。

  ①ある文化の有用性をグローバルに知らせること

  ②ある文化を、グローバルな有用性をもつように変化させること 」

この二つはどのような関係にあるでしょうか。

①で、ある文化の有用性をグローバルに知らせるためには、<その文化の有用性を、グローバルに理解可能なものにすること>が前提として必要になります。

②で、ある文化をグローバルな有用性をもつように変化させるためには、<その文化をグローバルに理解可能なものにすること>が前提として必要になります。

 この二つの前提は、少し異なっています。

  <その文化の有用性を、グローバルに理解可能なものにすること>

  <その文化をグローバルに理解可能なものにすること>

とりあえず、後者が何を意味するのかを考えたいとおもいます。

前回取り上げた文学を例にすると、日本語で書かれた文学作品はローカルな文化です。それをグローバルに理解可能なものにするには、翻訳する必要があります。しかも、厳密に言えばすべての言語に翻訳する必要があります。(ニュースも同様です。CNNのニュースは、各国語に翻訳されて放送され、日本のニュースも各国語に翻訳されて世界のニュースになります。)

「私たちは日本文学をローカルな文学として理解していますが、それをグローバルな文学として理解することはできるのでしょうか?」

 たとえば、村上春樹の小説を日本語でよむことは、それをローカルな文学として読むことでしょう。それは多くの外国語で翻訳されていますが、外国人は、それを日本文学としても読むのでしょうか。それともグローバルな文学として読むのでしょうか。例えば、エジプト人がそれを日本文学として読むことも、外国文学と読むことも、世界文学として読むことも、可能であるように思われます。

 たとえば、世界中の人がスパゲッティをイタリア料理として食べていたとしても、スパゲッティは世界中に普及しているという意味でグローバルな食べ物です。イタリア料理として食べ、かつグローバルな料理として食べることが可能です。そのとき、イタリア料理であることは、その料理の歴史的な起源を説明しているにすぎません。

 もし村上春樹の作品が日本文学として世界中で読まれているとすると、それは日本文学であると同時に、グローバルな文学です。そのとき、日本文学であるとはその歴史的な起源を説明しているにすぎません。“EN-US”>

 このとき、日本人がそれを日本語で読むときにも、それは日本文学であると同時に、グローバルな文学なのです。もし多くの日本人が村上春樹の作品をもっぱら<日本文学として>読んでおり、<グローバルな文学として>は読んでいないとしても、それはまた別のことです。

 

 
 
 

文化をグローバル化するとはどういうことか(2)

             
 
          世界中のホテルの朝食に登場するケロッグ
 
 
08 文化をグローバル化するとはどういうことか(2) (20121019)
 
マクドナルドが、グローバルであるのは、それがたこ焼きよりも、より普遍的に受け入れられる味をしているからではないでしょうし、より優れた味をしているからでもないでしょう。それはアメリカンライフスタイルのグローバル化の一部を担っているのでしょう。つまり、(あいまいな言い方ですが)政治的経済的要因のためだと思われます。
 
 食文化も文化ですから、文化のグローバル化には、このような側面があります。では、それだけでしょうか。どの文化がグローバル化するのかは、政治的経済的要因だけで決まるのでしょうか。
 前回、「現代論理学や現代の言語学がグローバルなものであると言えるとすれば、・・・」と書きました。そのとき考えていたのは、現代論理学、現代言語学、現代自然科学などは、グローバルだということです。西洋起源の自然科学は、グローバルに通用しています。つまり、世界中でそれらの研究と教育が行われています。政治的経済的要因だけでによるのでしょうか。
 クワインならば、現代の物理学とギリシャ神話が、世界の説明としてはどちらがすぐれているかを、理論的に決定できないというでしょう。つまり、理論としての、あるいは学説としてのある優れた性質(かつてウェーバーが、西洋文化は普遍性をもつと考えていたような意味の「普遍性」のような性質)が、グローバルな理論とそうでないものを分けているのではないということです。クワインは、複数可能な理論の中から理論を選ぶときには、(正確な表現を忘れましたが)プラグマティックな関心で理論を選択するしかないといいます。
 
 もしプラグマティックな関心から文化の選択が行われているとすると、文化をグローバル化するとは、
  ①ある文化の有用性をグローバルに知らせること
    (寿司のおいしさを宣伝すること)
  ②ある文化を、グローバルな有用性をもつように変化させること
    (寿司がよりグローバルな有用性を持つように変化させること)
 
文化の変容にかかわるのは、②です。
・社会学でいえば、ある一つの国家をあつかう研究よりも、グローバルな社会を扱う研究のほうが、グローバルな有用性を持ちます。
・文学研究で言えば、ある言語の文学をあつかう研究よりも、世界の多様な言語の文学を扱う研究の方が、グローバルな有用性を持ちます。
 
では、ある言語共同体のメンバーにとって、自分の言語共同体の文学を扱う研究と、世界の多様な文学を扱う研究は、どちらが有用性を持つでしょうか? これの答はつぎのようになるでしょう。自分の言語共同体の文学が、世界の多様な言語の文学よりも有用であれば、それの研究が、世界文学の研究よりも有用である。もし逆ならば、逆である。
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では、自国文学と世界文学とどちらが重要でしょうか? もし人が外国語の文学を外国語で楽しむことが難しく、翻訳で楽しむのだとすると、世界文学とは翻訳文学であることになります。
では、自国文学と翻訳文学のどちらが有用でしょうか?
(話があらぬ方向に向かっているのでしょうか。それともこれでよいのでしょうか。)
                               
 
 
 
 
 

文化をグローバル化するとはどういうことか

                                       チョコレートはグローバルなお菓子です。 アムステルダム、スキポール空港にて。
 
8 文化をグローバル化するとはどういうことか (20121005)
 
 分析哲学は、西欧近代哲学から登場したものですが、それは西欧近代哲学をグローバル化したものではなくて、西欧近代哲学の末流であるがそれとは別のものであるということもできるかもしれません。どちらの理解が正しいのでしょうか。(もちろん、分析哲学はグローバルな哲学ではない、という反論があるかもしれません。しかし、現代論理学や現代の言語学がグローバルなものであると言えるとすれば、それと同じ意味で、分析哲学はグローバルなものであると言えると思います。)
 この問いに答えるためには、「ある文化をグローバル化するとはどういうことか」という問いに答える必要があるでしょう。
 文化を変えることは可能です。例えば、日本文化は、明治維新によって変化したといえるでしょう。開国によって日本文化の中に西洋文化が入ってきただけではなく、従来の文化もまた変化したはずだからです。日本文化は、西洋の諸概念を、翻訳語を作ることによって日本語のなかに取り込んできました。その翻訳語を用いて、西洋の社会制度を取り入れてきました。「選挙」や「議会」や「憲法」などが典型かもしれません。これは日本文化の西洋化でした。ある文化の西洋化が可能ならば、ある文化のグローバル化も可能でしょう。
 では、文化をグローバル化するとはどういうことでしょうか。すでにグローバルな文化があるのだとすると、その文化の諸概念を、翻訳語をつくることによって日本語のなかに取り込んで、その翻訳語を用いて、グローバルな制度を取り入れることによって、文化をグローバル化することができるでしょう。
 
 ところで、日本文化は明治以後西洋化され、戦後はアメリカ化されたとしても、しかし日本文化にとどまっています。それは同じように西洋化されたアジアやアフリカの文化とは異なります。日本文化を西洋化できても、西洋文化と一つになるわけではありません。(西洋文化もまた多様ですが、それはヨコにおいておきます。)これと同様に文化のグローバル化といっても、グローバルな文化と一つになるわけではありません。
 しかしその意味では、現代のアメリカの文化も、西欧の文化も、グローバルな文化そのものではないので、グローバルな文化というものは、文化圏としてはどこにもありません。
 グローバルな文化というのは、ローカルな文化のグローバル化として存在している、というべきかもしれません。ベネディクト・アンダーソンが「国民国家」を想像の共同体だと指摘したように、グローバルな社会やグローバルな文化もフィクションなのでしょう。
 それで?
 もう一度、問い直しましょう。
 「ある文化をグローバル化するとはどういうことでしょうか」
次のような答え方ができます。
 ①ある文化を世界中に普及させること(寿司を世界に普及させること)
 ②世界中に普及している文化をある文化の中に受け入れること(マクドナルドを受け入れること)
 しかし、これとは異なる答え方を考えてみたいとおもいます。
 

 
 

西欧近代哲学をグローバル化する2つの方法

                                  世界最古の大学ボローニャ大学の旧館です。
 
07 西欧近代哲学をグローバル化する2つの方法 (20120928)
 
前回、西洋哲学の「世界」概念や日本の「世間」概念は、ローカルな文化に属する概念であると述べました。その意味は、①それらは現実にローカルにしか通用していない、②それらをグローバルに通用する概念だけで説明することが難しい(不可能ではないかもしれません)、ということです。西洋近代哲学には、このようなローカルな概念が沢山あります。「世界」「理性」「精神」「構想力」「意志」などです。
 それでは、西洋近代哲学をグローバル化するにはどうすればよいでしょうか。その方法の一つが、「言語論的転回」だったと言えるのではないでしょうか。近代の「意識哲学」が20世紀初頭に「言語分析の哲学」へ転回したと言われています。たとえば、論理実証主義の意味の検証理論によって、哲学における文の意味もまた、特定の歴史や文化のコンテクストから自由に、その意味を理解することができるようになりました。あるいは「プラグマティック・ターン」もまたグローバル化の一つの方法であったといえそうです。プラグマティズムは、文の主張の意味を私たちの行為にどのような変化を与えるかによって、説明しょうとしました。これもまた、特定の歴史や文化のコンテクストから自由に、その意味を理解することを可能にしています。
 おそらく他にも、西洋近代哲学をグローバル化する方法はありうるだろうとおもいます。いずれにせよ、アメリカの哲学はそれに成功しているのだとおもいます。それはアメリカが単一の分厚い歴史的文化的コンテクストを持たなかったためであろうとおもいます。