07 武器の所持は、人権侵害です (20220410) 

[カテゴリー:平和のために]

人を殺傷するために作られた兵器や武器を使用することは、人権侵害です。そのような兵器や武器を生産すること、販売すること、所持することは、その使用を可能性にすることです。したがって、兵器や武器を生産すること、販売すること、所持することは、殺傷の威嚇になります。そして殺傷の威嚇を行うこともまた、人権侵害です。したがって、兵器や武器を生産すること、販売すること、所持することは、人権侵害です。

前に(02回で)、私は国家が自衛のための武力を持つことを認めましたが、それは間違いでした。なぜなら、武器を持つことは、人権侵害に当たるからです。国家は、(自国民の人権だけでなく、すべての人の人権を尊重すべきですから)、自衛のためのであっても武器を持つことは、人権侵害に当たります。

国家が、自国民の人権だけでなく、すべての人の人権を尊重すべきことは、どのようにして証明できるでしょうか。

06 世界人権宣言と戦争行為 (20220410) 

[カテゴリー:平和のために]

(前回への補足:戦争をするのは国家なので、国家がなくなれば、戦争はなくなるという主張があるかもしれませんが、仮に国家がなくなっても、世界共和国の内部での内戦という形での戦争は起こりえます。したがって、戦争を失くすには、世界共和国ができるにせよできないにせよ、やはり武器を失くす必要があります。)

 前回の続き:では、軍事力の放棄を国際法とするには、どうすればよいでしょうか。

 戦争は、人を殺したり傷つけたりすることなので、人権侵害であり、許されないことです。

しかし、なぜそれが行われるのでしょうか。国家が自国内の個人の人権を侵害してはいけないことは、多くの国の憲法で保障されているでしょうが、国家が他国の個人の人権を侵害してはいけないことは、憲法で規定されていません。戦争は、他国の個人の人権を侵害することです。たいていの憲法では、外国人を含めた地球上の全ての人の人権を保障していないだろうとおもいます。もし憲法に地球上のすべての人の人権を保障するという条項を加えるならば、そこには戦争を放棄するということが含まれるでしょう。

 1948年に国連総会で採択された「世界人権宣言」には、第三条「すべて人は、生命、自由及び身体の安全に対する権利を有する」とありますが、これもまた自国内の人に対して人権を確保すべきことを述べているだけのように読めます。前文の最後に次のようにあるからです。

「よって、ここに、国際連合総会は、
 社会の各個人及び各機関が、この世界人権宣言を常に念頭に置きながら、加盟国自身の人民の間にも、また、加盟国の管轄下にある地域の人民の間にも、これらの権利と自由との尊重を指導及び教育によって促進すること並びにそれらの普遍的かつ効果的な承認と遵守とを国内的及び国際的な漸進的措置によって確保することに努力するように、すべての人民とすべての国とが達成すべき共通の基準として、この世界人権宣言を公布する。」

この「世界人権宣言」には拘束力がないので、これに続いて「国際人権規約」が締結されましたが、これもまた、各国が自国内の人々に人権を確保すべきことを明記しているだけです。例えば、これによって、もしミヤンマーがこれを批准していれば、現在の軍事政権に対して国民の人権を確保するように求めることは出来ますが、ただしミャンマーはこれを批准していません。

まずは、世界人権宣言の前文の最期の部分を次のように変える必要があるでしょう。

「「よって、ここに、国際連合総会は、
 社会の各個人及び各機関が、この世界人権宣言を常に念頭に置きながら、加盟国自身の人民の間にも、また、世界のあらゆる国、地域の人民の間にも、これらの権利と自由との尊重を指導及び教育によって促進すること並びにそれらの普遍的かつ効果的な承認と遵守とを国内的及び国際的な漸進的措置によって確保することに努力するように、すべての人民とすべての国とが達成すべき共通の基準として、この世界人権宣言を公布する。」

原子爆弾は人道に反する武器だと言われるのですが、原子爆弾に限らずすべての武器は人道に反するものであり、廃止すべきだとおもいます。ただ、実現のための妙案がなかなか思いつきません。

05 平和のための軍事力の放棄(20230405)

カテゴリー:平和のために]

 社会制度(社会的ルールと社会的組織)は、社会問題の解決策です。国家は、社会的組織の一つであり、戦争は国家による問題解決策の一つとみなされています。

 国家は、問題解決策としての暴力を国内で禁止します(これが国家が解決すべき中心的な社会問題(万人の万人に対する争いを防いで、どのようにして個人の安全を保障するか)とその解決策です)。国家はそのために暴力装置を独占します。しかし、国家には、国家にだけ認められている暴力装置を用いて、国家間の問題解決策の一つとして戦争を行うことが可能です。

 どのようにして国家間の問題解決策としての戦争を防ぐかといえば、戦争に代わる問題解決策を採用するしかありません。戦争のきっかけになりそうな国家間の問題には、次のようなものがあります。領土問題、他国の軍事的脅威の問題、資源の奪い合い、経済競争、など。戦争によらずにこれらを解決するには、話し合いしかありません。利害の対立を、話し合いで解決するにはギブアンドテイクによる妥協が必要です。しかし、妥協が成立するとは限りません。その場合には戦争の可能性が残ります。戦争を防ぎ、永遠平和を構築するには、国家が軍事力を持つことを禁止するしかないでしょう。

 それを明文化したものが、日本国憲法9条です。

「第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。 2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。 の交戦権は、これを認めない。」

Article 9. Aspiring sincerely to an international peace based on justice and order, the Japanese people forever renounce war as a sovereign right of the nation and the threat or use of force as means of settling international disputes. In order to accomplish the aim of the preceding paragraph, land, sea, and air forces, as well as other war potential, will never be maintained. The right of belligerency of the state will not be recognized.

永遠平和のためには、軍事力の放棄を国際法として実現することが必要ですが、それをどうやって実現したらよいのでしょうか。

04 安保法制に反対する三つの理由

04 安保法制に反対する三つの理由 (20150616)
1,集団的自衛権は、憲法9条に反している。
これについては、説明の必要はないでしょう。小学生でも憲法を読めば、そう考えるでしょう。
「安保法制は、憲法に反しているかもしれなが、しかし現状ではそれが必要であり、憲法を簡単に変えることが出来ないので、とりあえず安保法制で対応するしかない」と考えている人は、立憲主義を否定するものであり、その考え自体も憲法違反です。
2,現実的な政治選択として間違っている。
「憲法との関係を横に置くとすると、現在の国際情勢の中で、日本の取るべき政策を考えるとき、安保法制は必要である」 これは現実政治の政策として間違っている。それについて、03で「囚人のジレンマ」ゲームを用いて説明したので、繰り返しません。
3、現国会は違憲状態であり、その国会で安保法制を審議することは、間違っている。
現国会(衆議院)は2013年11月20日に最高裁大法廷で「違憲状態」だという判決が出ている(参照、「一票の格差」 in Wikipedia)。
安保法制のような重要な法案を、違憲状態の国会で審議すること自体が違憲である。

03 憲法9条と「囚人のディレンマ」ゲーム

03 憲法9条と「囚人のディレンマ」ゲーム (20150505)

囚人のディレンマ」ゲームとは、互いにコミュニケーションできない人たちが、自己の利益が最大になるように合理的に考えて行為するとき、全体としては最悪の状態になることを示すゲームである。これは、これまでも米ソの軍拡競争の愚かさを示すことなど、政治の分析に使われてきた。現在、安倍自民党政権がやろうとしている政策は、近隣国との相互不信を前提にするならば、自国の利益を最大にする合理的な選択であるのかもしれない。そしてその政策は、近隣国にも、同様に合理的に考えて同様の政策をとることを促す結果になるだろう。そして、地域全体としては最悪の状態を選択することになってしまうだろう。

これを回避するには、当事者たちがコミュニケーションを図り、相互信頼を醸成することによって、全体として見たときの最善の状態に到達すべく協力することが必要である。米ソが軍縮に成功したのは、まさにこの対話路線をとったことによる。

したがって、安倍政権が相互不信を前提にした「合理的」選択をしようとしていることは、大きな間違いなのである。そもそも相互不信を招いた最大の原因は、安部政権が、15年戦争について中国や韓国に対して「お詫び」する必要はないと「解釈」していることにある。安倍政権が近隣諸国との間に相互不信を招き、その相互不信を前提に「合理的」な選択をするという愚かな方向に日本と近隣諸国を向かわせている。

ハト派や護憲派の戦略は、リアリティのない無責任な考えではない。「囚人のディレンマ」ゲームを踏まえた、リアリティのある説得力のある選択なのである。タカ派の戦略は、「囚人のティレンマ」ゲームを理解しない、あるいは過去のその経験から学習しない、愚かな選択である。

02 安全保障機能の遷移

きりたんぽの続編です。
 
 前回次のように書きました。
「国家がある限り、対話不可能な侵略国家はありうるので、防衛のための正義の戦争はありうる。また対話不可能な国内で人権侵害をする国家はありうるので、人道的な介入のための正義の戦争はありうる。」
 
 おそらくガンジーのような徹底的な平和主義者は、「国家がある限り、対話不可能な侵略国家はありうるので、防衛のための正義の戦争はありうる」を認めないだろう。ガンジーのような人ならば、たとえ侵略されても、非暴力、無抵抗の態度をとるだろう。しかし彼は他の人にもそれを勧めるのだろうか?彼はそれが正しいことを論証できるのだろうか?おそらく、それは難しいだろう。
 もちろん、我々はガンジーのような人を尊敬するかもしれない。したがって、ガンジーのような国家があれば、その国家は尊敬されるかもしれない。しかし、国家についてもそのようにあるべきことを論証することは難しいだろう。そのような絶対的平和主義は、個人や共同体の決定にゆだねられるべき善構想であって、それを正義として論証することは難しいように思われる。
 
一般的にいって、社会制度や社会運動は、何らかの社会問題を解決するためのものであり、そのようなものとしてのみ正当化される(入江幸男「社会問題とコミュニケーション」(入江・霜田編『コミュニケーション理論の射程』ナカニシヤ出版、所収))を参照してもらえるとうれしいです)。国家制度を正当化する社会問題のなかでも、中心的なものの一つが、いかにして安全を確保するかという問題であった。自然状態では、つねに他者から攻撃される可能性があるので、平和な生活を確保するために、自由に活動する権利の制限を受け入れるとともに、お互いの権利を承認しあって、集団を作って互いの権利と安全を確保しようとする。この集団は、安全保障他のための集団である。このような機能を持つ集団として、家族や村を考えることもできるが、それだけでは不十分なことから、国家が作られたのである。少なくともそのように考えられて、国家制度は正当化されてきた。
この安全保障の機能は、とりわけ近代以後、家族、村、都市などから、国家への集中を強めてきた。(我々は様々な社会問題の解決を国家に集中させすぎたのかもしれない。システムによる「生活世界の植民地化」(ハーバマス)も起こってきた。)ただし、国家間の戦争の経験を経て、現代では諸国家が互いの安全保障のための集団(集団的安全保障)を形成しつつあり、安全保障の機能は国家からNATOやEUや国連などへ移りつつある。かつて国家への安全保障機能の集中によって、国家内部での平和がより確実なものになったように、世界全体での平和の実現のためには、安全保障機能を世界全体へ集中させることが、望ましいようにおもわれる。
 
A国がB国を侵略したときに、B国の国民にとって、それは国家として取り組まなければ解決できない問題であるだろう。外国の軍隊の侵略行為から国民を守るために、軍隊を準備しておいて軍隊で戦うことは、人々が国家を作った時の目的の一つに含まれているだろう。ただし現代では、このような問題は、B国だけで解決できる問題ではない。安全保障は、グローバルに取り組む必要のある問題になっている。その理由は、経済活動がグローバルに展開しており、そのために利害関係もグローバルに広がっていることにある。
 
 
 
  
 

01 平和を実現するための方法について

2011年1月10日の哲学ワークショップのあと、「きりたんぽパーティ」をしました。とてもおいしかったです。前にも書きましたが、一つの火と鍋を囲んで食事することは、おそらく最も原初的な食事の形態だとおもいます。もし縄文土器が鍋としても使われていたとすると、そのころから続いてきた歴史をもつのだとおもいます。それとも縄文土器は、鍋には使われていなかったのでしょうか。
 
さて、その若手哲学ワークショップは二部構成で、第一部のテーマは「平和を実現するにはどうするか」でした。それを聞いていて、つぎのように考えました。
・ガルトクングにならって、戦争のような暴力と構造的暴力を区別して、それぞれが無い場合を、「消極的平和」と「積極的平和」に区別する。
・戦争状態を、熱い戦争と冷たい戦争に区別する。
 
・まとめると次のようになります。
1、消極的平和:戦争状態でないこと
  ①熱い戦争がないこと
  ②冷たい戦争もないこと
2、積極的平和:貧困、飢え、などがないこと
 
国家の廃絶は、消極的平和には役立つが、積極的平和に役立つとはかぎらない。
 
「正義の戦争はあるのか?」
国家がある限り、対話不可能な侵略国家もまたありうるので、防衛のための正義の戦争はありうる。また国内で人権侵害をしている対話不可能な国家もまたありうるので、人道的な介入のための正義の戦争はありうる。ゆえに、国家がある限り、正義の戦争はありうる。
ゆえに、正義の戦争をなくするには、国家を廃棄して、世界共和国を作るしかない。
・次善の策は、世界の全ての国家の連合によって、正義の戦争だと認めた戦争のみの遂行を許可することである。(この許可の仕方については、さらに多くの議論が必要になると思われる。)
 
・「構造的暴力をなくすにはどうするか?」
貧困と飢えをなくすには、世界的な規模での再分配をおこなうしかない。
 
以上が、消極的平和と積極的平和を実現するための方法です。
 
これだけでは、机上の空論かもしれません。これを実現するための方策を考えることが難問なのかもしれませんが、しかしまずはこの空論が正しいかどうかについて、ご意見を伺いたいとおもいます。
 
是非、ご批判をお願いします。