16「価値がある」とはどういうことか (20220507)

[カテゴリー:哲学的人生論(問答推論主義から)]

(しばらくブログのupがなくて、失礼しました。次に何を論じるか、考えていました。

ところで今日は、哲学者D.ヒュームとC.T.さんの誕生日でした。)

これまで、人生の意味、人生の目的、人生の価値について説明し、これらの区別を明確にしようとしてきました。また、人生の価値については、「能力価値」「メタレベルの能力価値」「生存価値」を区別してきました。ここからもう一度、生存価値、つまり「人は生きているだけで価値がある」という主張の意味と正当化について考えたいと思います。

「価値」は関係概念です。

①「Xは価値がある」とは「Xは、あるものYとの関係において価値をもつ」ということです。たとえば、「ダイヤモンドは価値がある」は、「ダイアやモンドは、他の鉱石や金属よりも硬いので、ダイヤモンドは、価値がある」と説明されます。

「XはYにたいして関係Aを持つ」あるいは「XはYとの関係においてAという性質を持つ」それゆえに、「XはYとの関係において性質Aを持つので、価値を持つ」と考えられます。

では、Xは、Yとの関係において性質Aを持つことによって、なぜ価値を持つのでしょうか。なぜなら、主体Zの目的Bの実現にとって、性質Aが有用だからです。

②「Xは価値がある」とは、「Xは、あるものYとの関係において、ある主体Zにとって価値を持つ」ということです。「主体Zとって価値を持つ」とは、「主体Zの目的の実現にとって有用である」ということです。

③ところで「Xが、主体Zの目的の実現にとって有用である」と語ることができるためには、主体Zが、意識的に目的を持ち、その実現のために意図的に行為することが必要です。

「ある木の実が、ある動物にとって価値がある」とは「ある木の実が、ある動物の生存という目的の実現にとって有用である」ということです。しかし、動物についてこのように語ることは、擬人法です。なぜなら、動物は意識して目的を持たないので、動物の行動について目的について語ることは、客観的な事実を語っているのではなく、動物の行動についての人の解釈を語ることだからです。したがって、「Xが主体Zの目的の実現にとって有用である」と語ることができるためには、主体Zが、意識的に目的を持ち、その実現のために意図的に行為することが必要です。

④Xが人の場合には、「ある人は価値がある」とは、「ある人は、あるものYとの関係において、ある主体Zにとって価値を持つ」ということであり、さらに言えば、「ある人は、あるものYとの関係において、ある主体Zの目的の実現にとって有用である」ということです。

これは次の二つの場合に分けられます。

・「ある人の存在が、あるものYとの関係において、ある主体Zの目的の実現にとって有用である」。これは、ある人の「生存価値」に関わります。

・「ある人の活動と能力が、あるものYとの関係において、ある主体Zの目的の実現にとって有用である」。これは、ある人の「能力価値」に関わります。

⑤生存価値について

「ある人Xの生存が、あるものYとの関係において、ある主体Zの目的の実現にとって有用である」ということは、どういうことでしょうか。

ここでXとZが同一人物である場合、「ある人Xの生存が、あるものYとの関係において、その人Xの目的の実現にとって有用である」ということは、どういうことでしょうか。Xが何を目的にするにしても、Xが生存していることは、その目的の実現に有用です。しかし、この場合には、生存そのものに価値があるというよりも、生存がある活動や能力のための手段として、「メタレベルの能力価値」を持つということです。

 では、ある人Xの生存が、その人自身にとって、あるいは他の人にとって、価値があるとはどういうことでしょうか。

85いちろうさんの質問への回答(7) (20220420)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

いちろうさんの質問17は次です。

「質問17 p.234の同一律についての「Aは、Aですか?」「いいえ、Aは、Aではありません」の例は、冗長ではありませんか。

この例には「①Aは、②Aですか?」「いいえ、③Aは、④Aではありません」というように4つのAが出てきますが、問答により①と③、②と④の同一性は確保されても、①と②、③と④の同一性はどのように確保するのでしょうか。

「Aですか」「Aではありません」のような文を用いないと、原初的な同一律は確認できないように思えます。
(ブログ29に「p┣pは、pの意味を変えないのですが、それはpの意味を保存するからではなく、pの意味を作り出すからではないでしょうか。」とありましたが、「Aですか」の問いを受け入れ、「Aですか」の前提承認要求を受け入れるからこそ、そこで意味の作り出しがあり、「Aです」と答えられるのでは、ということだとも言えるかもしれません。)

または、「同一律に従っていますか。」「いいえ、従っていません」でもいいのかもしれませんが。」

p.234では、 「Aは、Aですか?」という問いに「いいえ、Aは、Aではありません」と答える時、この返答は、問答論的矛盾を引き起こすことを示そうとしました。いちろうさんの言うように、次のように表記すれば、より明解になるかもしれません。

  「①Aは、②Aですか?」「いいえ、③Aは、④Aではありません」

この場合、問答が成立するには、①と③の同一性が成立しなければなりません。(いちろうさんが言うように、②と④の同一性も確保されているのかもしれません。)これを明示すると「①Aは、③Aです」となります。つまり、「AはAです」が成り立っています。したがって、この問答関係が成立していることと、「いいえ、AはAではありません」という答えの命題内容は矛盾(問答論的矛盾)します。これがここで私が言いたかったことです。

 いちろうさんは、「問答により①と③、②と④の同一性は確保されても、①と②、③と④の同一性はどのように確保するのでしょうか」という疑念を持っておられるので、私が、「①Aは、③Aです」を「AはAです」として理解することにも疑念を持つるかもしれません。なぜなら、もしこの理解を認めれば、①と③、②と④、①と②、③と④の同一性を区別せず、すべて「AはAである」として理解することになるからです。

  しかし、もし①と③、②と④、①と②、③と④の同一性を区別することにすれば、「A」の発話トークンをすべて区別することになります(そうするとここに何度も書いてきた「①A」もまた区別しなければなりません)。しかし、同一律を「AはAである」で表現するとき、そこでは「A」のタイプのことを考えており、トークンのことを考えているのではないだろうとおもいます。したがって、私は、「①Aは、③Aです」を「AはAです」として理解することができるとおもいます。タイプとトークンの区別は重要なのですが、もしここでそれを持ち出そうとすると、最初の問い「AはAですか」の設定そのものを変更する必要がありそうです。

いちろうさんの質問18は次です。

「質問18 p.235以降で取り上げられていた「根拠を持って語る義務」、「嘘をつくことの禁止」が三木さんからの質問でも問題になっていましたが、これはつまり日常では問題にならないが、普遍的な主張である限りは、これらのルールが適用される、という理解でよいのでしょうか。

もしそうだとすると、主張を重視し、そこに、常に嘘をついてはいけない、というような普遍的なルールを持ち込む(問答)推論は、嘘も方便を容認するような日常の言葉遣いとは乖離しているということなのでしょうか。
直感的に、僕は日常的には理由の空間に住んではいないような気がするのですが、(問答)推論は、そのような日常を取り扱うものではない、ということなのでようか。(もう少し理想化された言語活動みたいなものを想定しているということでしょうか。)」

日常の会話の中で、これらの規範を無視して話すことがありうることは認めますが、人は、大抵は、自分の発話や相手の発話の根拠を問題にしているし、嘘をつくことは悪いこととされていると考えているのではないでしょうか。もしこれらの規範がないとしたら、会話することはほとんど無意味になると思います。互いに嘘をついてもよい嘘つきゲームをしてみたらわかりますが、それはちっとも面白くなくて、続ける気がなくなると思います。

いちろうさんのご質問は、「「根拠を持って語る義務」、「嘘をつくことの禁止」について、「これは、日常では問題にならないが、普遍的な主張である限りは、これらのルールが適用される、という理解でよいのでしょうか」ということだったのですが、前に(70回に)三木さんの質問に答えたときの一部を繰り返します。

(引用はじまり)「この三木さんの質問を次のように理解しました。「事実としては人間は根拠のない主張や嘘もおこなうし、それらをおこなうと認める発言もしているはずだ。」このような事例を「不純物」として「取り除ける前提はどこかに置かれていて、それによって事実と規範のギャップが埋められている」が、その「前提」とは何か、ということです。

もしこのような問題設定を受け入れるとすれば、次のように答えたいとおもいます。ここでいう「不純物」が、「人は嘘をついてもいい」のような発言であるとするとき、それを取り除ける前提とは、<その発話が相関質問に対する答えとして成立する>ということです。そして、この前提を認める時、「人は嘘をついてもいい」という返答は問答論的矛盾を引き起こすために取り除かれることになります。」(引用おわり)

「常に嘘をついてはいけない、というような普遍的なルールを持ち込む(問答)推論は、嘘も方便を容認するような日常の言葉遣いとは乖離しているということなのでしょうか」というご質問に対しては、次のように応えたいです。

「嘘も方便だ」と考えて、嘘を容認する場合があるとしても、その場合にも、「嘘をつくべからず」という規範を認めているのではないでしょうか。様々な事情・理由で、その規範の適用を制限しようとしているだけであって、「嘘をつくべからず」という規範は、その場合も生きている、妥当しているとおもいます。

規範を規範として見ているということと、規範に従がうということは、別のことであって、常に一致するとは限りません。

「直観的に、僕は日常的には理由の空間に住んで」いるような気がしますので、「理由の空間」の理解の仕方が違うのかもしれませんね。

以上で、いちろうさんからの沢山の質問に一応答えおわりました。どの質問も、私の説明不足や考え不足をついた難問で、答えを考えながら、沢山の発見がありました。ありがとうございました。

いちろうさんには、沢山の誤植のご指摘もいただきましたので、もし修正の機会に恵まれたならば、活かさせていただきたいと思います。ありがとうございました。

84いちろうさんの質問への回答(6) (20220419)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

いちろうさんの質問14は次です。

「質問14 p.196の13行目に「問答推論関係によって明示化できるだろう。」とありますが、p.196の7行目までの例が問答になっていないように思えます。例えば「私は学生に「水をもってきてください」と依頼してよいのだろうか。」という問いが冒頭にあるのを省略しているということでしょうか。

その場合、「私は学生に水を持ってきて(も)欲しい」は発語媒介行為の意図であると同時に、前提(誠実性)承認要求でもあるということになります。

それとも全く別のことを言っているのでしょうか。」

p.196では、発語内行為、前提承認要求、発語媒介行為が、つぎのような実践的三段論法になっていることを指摘しました。

  私は学生に水を持ってきてほしい」(発語媒介行為の意図)

  学生が短時間で水を持ってくることができる。(前提(真理性)承認要求)

  私が学生に水を持ってくるように依頼することは正当である。(前提(正当性)承認要求) 

∴私は学生に「水を持ってきてください」と依頼する。(発語内行為)

実践的推論も含めて、推論は、問いに対する答えを求める過程として成立する、つまり問答推論として成立します。従って、この場合も、問答推論の結論として依頼の発語内行為が行われることになります。

いちろうさんが指摘するように、ここでの「私は学生に水を持ってきてほしい」は、前提(誠実性)承認要求であるように見えます。これは、欲求を表現しする表現型発話であって、発語媒介行為の意図(事前意図を表明する発話)になっていません。そこで上の実践的推論をつぎのように変更したいと思います。

  私は学生に水をもって来させよう。(発語後媒介行為の意図)

  私は学生に水を持ってきてほしい。(前提(誠実性)承認要求)

  学生が短時間で水を持ってくることができる。(前提(真理性)承認要求)

  私が学生に水を持ってくるように依頼することは正当である。(前提(正当性)承認要求) 

∴私は学生に「水を持ってきてください」と依頼する。(発語内行為)

ここで、省略されている問いを明示すべきでした。この場合に省略されているのは、次のような問いだと思われます。

  「私は学生に水をもって来させるために、どうしたらよいだろうか?」

これにたいする答えが、この実践的推論の結論、

  「私は学生に「水を持ってきてください」と依頼する」(発語内行為)

になります。

しかし、以上の説明には、問題点が残っています。「私は学生に「水を持ってきてください」と依頼する」という結論は、正確に言えば、発語内行為そのものではなく、発語内行為の意図(事前意図)を表明するものだとということです。一般的に、実践的推論の結論は、行為そのものではなく行為の事前意図を記述するものになります(このことは、p.9, 80で触れました。)。

以上をまとめて上記の実践的推理を、実践的問答推理として書き直せば次のようになります。

  私は学生に水をもって来させよう。(発語後媒介行為の意図)

  私は学生に水をもって来させるために、どうしたらよいだろうか?(実践的な問い)

  私は学生に水を持ってきてほしい。(前提(誠実性)承認要求)

  学生が短時間で水を持ってくることができる。(前提(真理性)承認要求)

  私が学生に水を持ってくるように依頼することは正当である。(前提(正当性)承認要求) 

∴私は学生に「水を持ってきてください」と依頼しよう。(発語内行為の事前意図)

いちろうさんの質問15は次です。

「質問15 p.208で「ここでは静かにしてください」は矛盾だという例が示されています。私はこれに同意できるのですが、そこには、そもそも、静かにしていなければならない状況で大きな声を出すことは、それがたとえ矛盾を含まない内容であっても、誤り?不適当?だという考えがあると思います。(例えば、赤ちゃんをちょうど寝かしつけたときに、「1+1=2だ!」と叫ぶなど。)そのような議論というのは既に哲学業界?のなかでは常識的なことなのでしょうか。もし新たな話だとしたら、この(語用論的誤り?の)発見自体が価値のあることなのではないでしょうか。

そして、語用論的矛盾は、この語用論的誤り?に付随するものだということになるのではないでしょうか。
(学校の朝の朝礼で、校長先生が「静かにしなさい」と大声で言うことは、特に、赤ちゃんを起こしてしまうというような問題も引き起こさないので、特に誤りではない、ということになります。)」

「ここでは静かにしてください」と大きな声で言うことが語用論的矛盾なのは、「ここでは静かにしてください」という命題内容と、大きな声で言うという発話行為(音声行為 cf.162f.)が矛盾するからです。

ご提案の「静かにしていなければならない状況で大きな声を出すこと」は、私が分類した二つのタイプの語用論的矛盾

   (A)発話行為とその命題内容の間の矛盾

   (B)発語内行為とその命題内容の間の矛盾

これらのどちらにも属しません。したがって、この分類が正しければ、ご提案の発話は語用論的矛盾ではありません。

ただし、次の第三のタイプの語用論的矛盾を設定できるかもしれません。

  (C)前提承認要求とその命題内容の間の矛盾

もしこの(C)のタイプの語用論的矛盾が認められるとしたら、かつ、いちろうさんのご提案の発話がこの(C)に属するとすれば、それは語用論的矛盾になるとおもいます。

(実は、(A)と(B)を考えたときに、従来の言語行為の再分類をおこなって「前提承認要求」を追加するということを考えていませんでしたので、この(C)のタイプの可能性の検討をしていなかったのです。これは、今後の課題としたいと思います。したがって、一郎さんのご提案の検討も課題とさせてください。発話の語用論的矛盾は、発話を社会的行為として論じる時に、重要なトピックになると思っています。)

いちろうさんの質問16は次です。

「質問16 p.224の「#問いの語用論的前提」が唐突に感じました。特に「答えを知らないこと」と「相手が答えを知っているかもしれないと考えていること」は必須なのでしょうか。

例えば、

A「高校の時の同級生のCくん覚えてる(よね)?」

B「うん」

A「Aくんが結婚したんだよ。」のように、BがCくんのことを覚えているという答えは知りつつ、話を進めるために問いを使うような場面もあるように思います。(他にも、試験の質問なども、答えを知っている問いになると思います。)

また、「我社は海外に進出すべきだろうか。」のように相手が答えを知らないことを知りつつ、一緒に答えを考えよう、という意図で質問をする場合もあるように思います。」

p.224に書いたように、問いの語用論的前提とは、問いという発語内行為が成立するための必要条件であり、問いの誠実性と正当性から成るだろうと思われます。ご質問の「答えを知らないこと」と「相手が答えを知っているかもしれないと考えていること」は、「誠実性」という問いの語用論的条件に関わります。

・答えを知っていても問うことがあるという場合に、試験での問いは、よく例に上がるものです。教師は、正しい答えを知ろうとしているのではなく、生徒が正しい答えを知っているかどうかを知ろうとしており、生徒もまたそのことを理解しています。したがって、それは通常の問いとは異なる別種のものだと考えます。

・「BがCくんのことを覚えているという答えは知りつつ、話を進めるために問いを使うような場面」、たしかにこのようなケースはよくあることと思いますし、通常の問いと明確に区別できるものでもないと思います。この場合には、A君がB君に「高校の時の同級生のCくん覚えてる(よね)?」と尋ねる時には、B君は、A君が「わたし(B)はCくんを覚えている」ということを確認したいのだと考えて、答えるでしょう。B君は、Cくんのことを覚えていることをAとBの会話の共通前提として設定するために問うのだとすると、そこに不誠実なところはありません。

いちろうさんの疑念を祓うためには、「答えを知らないこと」ではなく「答えを確実には知らないこと」としたらよいかもしれません。

・「「我社は海外に進出すべきだろうか。」のように相手が答えを知らないことを知りつつ、一緒に答えを考えよう、という意図で質問をする場合」について。たしかにここでは「相手が答えを知っているかもしれないと考えていること」という条件が成り立っていなくても、問いは誠実であるように思われます。このようなケースを含めるには、「相手が答えを知っているかもしれないと考えていること」を「相手が答えを知っているかもしれないと考えていること、あるいは、相手との話し合いで答えを知ることができるかもしれないと考えていること」と修正した方がよいかもしれません。

83いちろうさんの質問への回答(5) (20220418)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

いちろうさんの質問13は次です。

「質問13 p.191下から5行目以降は、真理値を持たない文には「実現可能性」だけが大事なように読めますが、例えば「現在のフランス王を連れてこい!」という文は、実現可能性以前に、指示表現の指示対象が存在しないという問題もあるように思えます。平叙文の場合の3つの必要条件に「加えて」実現可能性の問題もある、という理解でよいのでしょうか。」

「現在のフランス王を連れてこい」という命令の発話が、適切なものであるためには、実現可能性が必要です。

指示表現の指示対象が存在することもまた、実現可能性が成り立つための必要条件に含まれていると考えます。

ここでのご質問は、発話の<意味論的前提>に関するものです。私はここで、発話の意味論的前提とは、「発話が真か偽であるために、あるいは適切か不適切であるための必要条件」であると述べました。

そして、これを3つに分けました。

「第一は、指示表現の指示対象が存在すること」

「第二は、対象に述定される述語が適切なものであること」

「第三は、発話を構成する語が有意味であること」

発話が真か偽であるとは、真理値を持つということです。命令や約束のように発話が真理値を持たない場合には、発話は適切であったり不適切であったりする(広い意味での「適切性」をもつ)と思われます。ただし、平叙文が真理値を持つとは限りません。例えば、「私は・・・と命令します」「私は…と約束します」などの平叙文は、真理値を持たず、適切性を持つからです。

07 武器の所持は、人権侵害です (20220410) 

[カテゴリー:平和のために]

人を殺傷するために作られた兵器や武器を使用することは、人権侵害です。そのような兵器や武器を生産すること、販売すること、所持することは、その使用を可能性にすることです。したがって、兵器や武器を生産すること、販売すること、所持することは、殺傷の威嚇になります。そして殺傷の威嚇を行うこともまた、人権侵害です。したがって、兵器や武器を生産すること、販売すること、所持することは、人権侵害です。

前に(02回で)、私は国家が自衛のための武力を持つことを認めましたが、それは間違いでした。なぜなら、武器を持つことは、人権侵害に当たるからです。国家は、(自国民の人権だけでなく、すべての人の人権を尊重すべきですから)、自衛のためのであっても武器を持つことは、人権侵害に当たります。

国家が、自国民の人権だけでなく、すべての人の人権を尊重すべきことは、どのようにして証明できるでしょうか。

82いちろうさんの質問への回答(4) (20220416)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

#いちろうさんの質問9は次です。

「質問9 p.117の「何」疑問への返答は、同一性文の場合と主語述語文の場合があるとのことですが、「それはリンゴです。」はなぜ、「それ=リンゴ」の同一性文では駄目なのでしょうか。(「リンゴはそれのことです。」と言えるような気がします。)もし、駄目なのだとしたら、p.122からの決定疑問の問答でも、「これはリンゴですか。」のような問いの場合は、答えは同一性文にはならないということでしょうか。その場合、「それはリンゴです。」は焦点を持たないということでしょうか。

また、補足疑問の答えが同一性文にはならず主語述語文になる場合が挙げられていましたが、その場合には、その主語述語文全体が焦点となるので、p.105の「一つの発話は一つの焦点しか持ちえない」の例外になるということでしょうか。」

質問の前半について

「それはリンゴです」は、主語述語文であって、同一性文ではありません。なぜなら「それ」は個体を指示するのですが、「リンゴ」は一般名であり、対象の集合を指示ないし表示するからです。

「それはリンゴです」は主語述語文ですが、主語述語文であっても、「それ」あるいは「リンゴ」の部分に焦点を持つことができます。

質問の後半について、

補足疑問への答えが主語述語文になるのは、例えば次のような場合です。

   「それは何色ですか」「それは赤色です」

この答えは、主語述語文ですが、主語述語文もその部分、「それ」や「赤色」の部分に焦点を持つことができます。

#いちろうさんの質問10は次です。

「質問10 p.130で主たる焦点、第二の焦点とありますが、p.105の「一つの発話は一つの焦点しか持ちえない」との関係はどうなるのでしょうか。なんとなく、補足疑問の主たる焦点は疑問詞にあるというのが怪しいような気がするのですが。もしそうだとすると、「図書館では静かにしなさい!」という発話の焦点は、「!」にあることになってしまう気がします。(日本語では、前後の文脈で命令であることが明確ならば!は使わないことも多いので、そうすると、表記上のテクニックで、焦点が変わることになってしまいます。)」

私は、現実におこなわれた一つの発話の焦点は、一つになると考えています。その理由は、現実の発話は相関質問への答えとして発話され、相関質問が補足疑問ならば、答えの焦点はその疑問詞のところに代入される表現におかれるからです。したがって、p.130での例のように、主たる焦点と第二の焦点を想定できる場合でも、主たる焦点は一カ所だけになると考えます。そして、第二の焦点もまた一カ所だけになると考えています。なぜなら、主たる焦点の部分を除いた残りの部分を文とみなす場合に、それもまたある相関質問に対する返答として成立すると考えるからです。

補足疑問の焦点が、疑問詞の部分にあるので、返答の発話の焦点も、その疑問詞に代入される表現におかれることになります。補足疑問の焦点位置とその返答の焦点位置は、同じところにおかれることになります。決定疑問の場合に、たとえは「これはリンゴですか」は「これ」に焦点がある場合と、「リンゴ」に焦点がある場合があります。そして答えの「はい、それはリンゴです」は、前者への返答ならば「それ」に焦点があり、後者への返答ならば「リンゴ」に焦点があります。つまり、次のように決定疑問の場合にも、質問の焦点位置と返答の焦点位置は、同じところになります。

  「これはリンゴですか」「はい、それはリンゴです」(下線部は焦点位置を表します)

  「これはリンゴですか」「はい、それはリンゴです」

#いちろうさんの質問11は次です。

「質問11 p.141注記で、返答と並行するかたちで、質問についても格率が示されていますが、返答の場合は常に質問があるけれど、質問の場合は常により上位の質問があるとは言えないのではないでしょうか。(質問の前提には、より上位の質問があるとしても)もし常には質問に上位の質問がないのだとすると、グライスの格率は適用できない場合もある、ということになってしまうのでしょうか。」

質問するときには、何かの目的があるはずです。ある目的を持っているということは、ある問いを立てているということでもあります。したがって、質問するときには、(無自覚に、暗黙的に、であるかもしれませんが)何かのより上位の問いをもっていると考えます。

グライスの格率は、破ることも可能であるような規範であり、自然法則のように、常に成立しているものではありません。それゆえに、格率を意図的に破っていることを伝えることによって、何かを会話の含みとして伝えることも可能になります。このことは質問発話の場合も同様だろうと思います。たとえば、それまでに会話の内容と無関係な質問をすることによって、「話題を変えたい」ということを伝えることができます。

もし上位の質問がない場合があれば、その時には私がp.140の脚注30で述べた、質問発話の格率は、有効ではなくなるかもしれませんが、その場合にも、より一般的なグライスの格率は規範として妥当するだろうと思います。

#いちろうさんの質問12は次です。

「質問12 p.153の例がしっくりこないのですが、旧情報の「ベンツは高級車だ」が、新情報「メアリーはベンツを運転している」よりもあとの発話になるのはなぜでしょうか。

第一章のQ,Γ├pの前提Γを用いるならば、

前提Γ「ベンツは高級車だ」(旧情報)「お金持ちは高級車に乗る」

Q2「メアリーは、お金持ちだろうか?」

Q1「メアリーはベンツを運転しているだろうか?」

A1「メアリーはベンツを運転している」(新情報)

Q2「メアリーは、お金持ちだ」

では駄目なのでしょうか。」

ここでは、関連性理論が、会話の含み(推意)をどう説明するのかを説明しています。

聞き手が、「メアリーはベンツを運転している」という発話を聞いたときに、その会話の含み(推意)として伝えようとしていることは「メアリーはお金持ちだ」だと理解するとします。その場合に、聞き手はその含み(推意)にどのようのようにしてたどり着いたのか、ということを説明しようとしています。聞き手は、「ベンツは高級車だ」という旧情報を想起して、これと新情報を合わせることによって「メアリーはお金持ちだ」という文脈含意を得ることができ、話し手がこれを「推意」として伝えようとしているということを理解することになります。そのために、この順番になります。

なお、ここでは、このような関連性理論による説明では、複数の「推意」が可能であるので、二重問答関係で説明する方がより優れていることを示しました。

81いちろうさんの質問への回答(3) (20220415)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

#いちろうさんの質問8は次です。

「質問8 聞き手のコミットメントについてですが、p.89の下から4行目あたりでは、聞き手は、話し手の選択のコミットを理解しても、聞き手がコミットするとは限らないとあります。一方で、p.90の上から3行目あたりでは、聞き手が理解するためには指示へのコミットが必要な場合があるとあります。この、話し手の選択のコミットと、聞き手の指示へのコミットは別のことなのでしょうか。

僕は、たくさん車が並んでいる駐車場で、「君(聞き手)の車はあの車だよね。」と、(一台しかない)赤い車を指差す場面を想像しました。ただし、実は聞き手の車は青い車なので、話し手の選択は間違いだったという場面です。この場合、聞き手は、話し手の選択のコミットは理解した上で、聞き手自身は、その選択にコミットしていないことになります。(よってp.89の話とは合う。)

また、指示=選択とするなら、聞き手は、話し手の指示のコミットは理解しているが、聞き手自身は指示自体にはコミットしていないことになります。(よってp.90の話とは合わない。)

どのあたりで理解が間違えているのでしょうか。

(また、p.90の上から3行目あたりの記載は、p.90の11行目からの記載とも齟齬があるように思えます。11行目では理解→コミットという順序だとしているのに、3行目あたりでは、コミット→理解という順序の場合があるとしているので。)」

ご指摘のように一見すると矛盾しているように見える記述があるので、確かにこの個所はわかりにくいかもしれません。矛盾しているように見えるとしたら、説明不足のせいだとおもいます。

p.89の下から4行目あたりで、聞き手は、話し手の選択のコミットを理解しても、聞き手がコミットするとは限らないと書いたのは、次のような意味です。言語表現(語、語句、文)は、多義的です。話し手が、ある言語表現を発話するときにはその中の一つの意味を選択して、その意味で使用することにコミットしています。聞き手は、話し手のその選択とコミットを理解する必要がありますが、しかし、聞き手自身がそのコミットメントを受け入れるとは限りません。たとえば、「あれは桜です」と話し手が言うのを聞いて、聞き手はそれを理解しても、それは桜ではなく梅だと考えるような場合です。

 他方で、この場合、話し手の「あれは桜です」を聞き手が理解するには、話し手が「あれ」である特定の対象を指示していることを理解するとともに、(聞き手がその発話を真であるとみなしたり、偽であると見なしたり、真か偽かを問おうとしたりするためには)、「あれ」で話し手が指示しているのと同じ対象を指示してみる必要があります(つまり、同じ対象を指示することコミットする必要があります)。そうしなければ、聞き手は、話し手の「あれは桜です」を理解できないからです。p.90の上から3行目あたりで、聞き手が文を理解するためには指示へのコミットが必要な場合があると書いたのはこのような意味です。ここでは、聞き手は、文を理解するために、その真理性にコミットする必要はないのですが、文を理解するために、その文に含まれている語や句の多くの意味の中の一つの意味の選択(コミットメント)や語や句による対象の指示へのコミットメントを行う必要があります。

 したがって、

「質問8 聞き手のコミットメントについてですが、p.89の下から4行目あたりでは、聞き手は、話し手の選択のコミットを理解しても、聞き手がコミットするとは限らないとあります。一方で、p.90の上から3行目あたりでは、聞き手が理解するためには指示へのコミットが必要な場合があるとあります。この、話し手の選択のコミットと、聞き手の指示へのコミットは別のことなのでしょうか。」

という最初のご質問には、「はい、別のことです」と答えたいと思います。

次の疑念について

「僕は、たくさん車が並んでいる駐車場で、「君(聞き手)の車はあの車だよね。」と、(一台しかない)赤い車を指差す場面を想像しました。ただし、実は聞き手の車は青い車なので、話し手の選択は間違いだったという場面です。この場合、聞き手は、話し手の選択のコミットは理解した上で、聞き手自身は、その選択にコミットしていないことになります。(よってp.89の話とは合う。)

また、指示=選択とするなら、聞き手は、話し手の指示のコミットは理解しているが、聞き手自身は指示自体にはコミットしていないことになります。(よってp.90の話とは合わない。)

どのあたりで理解が間違えているのでしょうか。」

この例では、聞き手は、「君(聞き手)の車はあの車だよね」という発話を理解しています。したがって、話し手が「あの車」でどの車を指示しているのかを理解しています。聞き手が、この発話を理解するとき、聞き手もまた「あの車」で話し手が指示しているのと同じ対象を指示することにコミットする必要があります。しかし、聞き手はこの発話が間違いだと考えるので、この発話の真理性にはコミットしません。語句による対象の指示にコミットすることと、発話の真理性にコミットすることを区別したら、良いのではないでしょうか。

ついで説明すれば、p.89の下から二行から書いたように、「言語表現の意味が全て理解できた後に、それに対するコミットメントが行われる、という二段階」にはなっていません。たとえば、「Xさんの車はどれですか」と問い「あの赤い車です」という返答があったとしましょう。質問者がそのあたりを見ても、赤い車はないのですが、朱色の車が一台見えるとします。そこで、質問者は、返答者は「あの赤い車」で、あの朱色の車を指示しているのだろうと理解します。返答者が「あの赤い車」によってある対象を指示していることを理解したり、返答者によるその指示にコミットするのは、質問者が「あの赤い車です」という返答が正しいということに暫定的にコミットしたあとで、その正しさを前提することによって、「あの赤い車」がどれを指示しているかを理解することが可能になっています。まず文の真理性に暫定的にコミットし、次に、それを前提として文の意味を理解しようとする(これは同時に、文が含む語句の複数の意味の中から適切な一つの意味を選択したり、語句の指示対象を理解しようとする、などを伴う)場合があります。問いに対する返答を理解しようとするときには、このような順序になることが多いでしょう。

意味の原子論への批判(全体論)に従うならば、<語の理解が句の理解に先行し、語や句の理解が文の理解に先行する、という>順番は常に成り立っているわけではないでしょう。また語や句のある使用方法へコミットメントが、文の内容へのコミットメント(是認)に常に先行しているといこともでないでしょう。

(ちなみに、私は、<コミットする>ということを、<選択すること>として理解しています。ある関数を選択することは、その関数にコミットすることです。ここでは<選択すること>を、<あることを意識的に意図的に選択し、その結果に責任をもつこと>ということを伴うこととして理解しています。)

最後に、次の疑念に答えたいと思います。

(また、p.90の上から3行目あたりの記載は、p.90の11行目からの記載とも齟齬があるように思えます。11行目では理解→コミットという順序だとしているのに、3行目あたりでは、コミット→理解という順序の場合があるとしているので。)」

p.90の11行目からの「語や句や文などの言語表現のそれぞれに関する理解とコミットメントの関係について言えば、聞き手がその表現の意味を理解したあとに、それに対するコミットメントが行われる」という部分が言わんとすることは、ある語(ないし句、ないし文)の理解とコミットメントの順序に関して言えば、理解が先行し、コミットメントが後続するということです(ただしコミットメントが後続しない場合もあります)。例えば、<ある語の理解とコミットメントの関係に限っていえば、聞き手によるその理解が先行し、聞き手によるコミットメントはその後で生じる>ということです。なぜなら、聞き手は、語の意味を理解する前に、その語の使用を聞き手が是認することは無いだろうとおもいます。ある文の理解とコミットメントの関係についても同様です。つまり、<文の場合、聞き手は確かに、文を理解する前に、それが真であるだろうということを暫定的に認めて、文の理解に進む場合があります。しかし、その場合に行われていることは、聞き手が、話し手の発話の意味を理解するまえに、話し手がその発話を真だと見なしているということを理解し、その発話が真であるとしたら、その文はどのような意味でなければならないかを、聞き手が推論する、ということです。この場合も、聞き手が、話し手の文の真理性にコミットするのは、文の意味を理解した後で、それを聞き手自身が是認できるかどうかを検討した後で、それを最終的に是認する場合です。>

以上のこの11行目以後の部分が、3行目あたりに述べたこと、つまり「聞き手が文を理解するには、文を構成する語句の意味を理解するだけでなく、それがある対象を指示することにコミットすることが必要な場合があるだろう」と齟齬があるようにみえるという疑念ですが。

3行目当たりの記述は次のような順序になっています。

  語句の理解→語句による指示へのコミットすること→文の理解

したがって、語句に限るならば、語句の<理解→コミット>という順序になっていますので、少し紛らわしいですが矛盾していないだろうと思います。

この質問8にお答えする中で、「2.1」での「関数」概念の説明が不十分であること、しかもその概念を残りの部分で十分に活用できていないことに気づきました。今後、機会を見つけて論じたいと思います。ありがとうございました。

06 世界人権宣言と戦争行為 (20220410) 

[カテゴリー:平和のために]

(前回への補足:戦争をするのは国家なので、国家がなくなれば、戦争はなくなるという主張があるかもしれませんが、仮に国家がなくなっても、世界共和国の内部での内戦という形での戦争は起こりえます。したがって、戦争を失くすには、世界共和国ができるにせよできないにせよ、やはり武器を失くす必要があります。)

 前回の続き:では、軍事力の放棄を国際法とするには、どうすればよいでしょうか。

 戦争は、人を殺したり傷つけたりすることなので、人権侵害であり、許されないことです。

しかし、なぜそれが行われるのでしょうか。国家が自国内の個人の人権を侵害してはいけないことは、多くの国の憲法で保障されているでしょうが、国家が他国の個人の人権を侵害してはいけないことは、憲法で規定されていません。戦争は、他国の個人の人権を侵害することです。たいていの憲法では、外国人を含めた地球上の全ての人の人権を保障していないだろうとおもいます。もし憲法に地球上のすべての人の人権を保障するという条項を加えるならば、そこには戦争を放棄するということが含まれるでしょう。

 1948年に国連総会で採択された「世界人権宣言」には、第三条「すべて人は、生命、自由及び身体の安全に対する権利を有する」とありますが、これもまた自国内の人に対して人権を確保すべきことを述べているだけのように読めます。前文の最後に次のようにあるからです。

「よって、ここに、国際連合総会は、
 社会の各個人及び各機関が、この世界人権宣言を常に念頭に置きながら、加盟国自身の人民の間にも、また、加盟国の管轄下にある地域の人民の間にも、これらの権利と自由との尊重を指導及び教育によって促進すること並びにそれらの普遍的かつ効果的な承認と遵守とを国内的及び国際的な漸進的措置によって確保することに努力するように、すべての人民とすべての国とが達成すべき共通の基準として、この世界人権宣言を公布する。」

この「世界人権宣言」には拘束力がないので、これに続いて「国際人権規約」が締結されましたが、これもまた、各国が自国内の人々に人権を確保すべきことを明記しているだけです。例えば、これによって、もしミヤンマーがこれを批准していれば、現在の軍事政権に対して国民の人権を確保するように求めることは出来ますが、ただしミャンマーはこれを批准していません。

まずは、世界人権宣言の前文の最期の部分を次のように変える必要があるでしょう。

「「よって、ここに、国際連合総会は、
 社会の各個人及び各機関が、この世界人権宣言を常に念頭に置きながら、加盟国自身の人民の間にも、また、世界のあらゆる国、地域の人民の間にも、これらの権利と自由との尊重を指導及び教育によって促進すること並びにそれらの普遍的かつ効果的な承認と遵守とを国内的及び国際的な漸進的措置によって確保することに努力するように、すべての人民とすべての国とが達成すべき共通の基準として、この世界人権宣言を公布する。」

原子爆弾は人道に反する武器だと言われるのですが、原子爆弾に限らずすべての武器は人道に反するものであり、廃止すべきだとおもいます。ただ、実現のための妙案がなかなか思いつきません。

80いちろうさんの質問への回答(2) (20220408)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

#いちろうさんの質問4は次です。

「質問4 p.68で「人物と時間と場所に関する専用の疑問詞がある」ことについて指摘し、家畜専用の疑問詞のようなものも想定し、疑問詞が社会的なものだということを示しましたが、そうすると、例えば、はい・いいえのような決定疑問についても、そのような問い方を知らない社会というものも想定できるので、決定疑問・補足疑問という区別すらも文化的なものだということになるのでしょうか。または、極端に言えば、全く疑問詞がない社会も想定できるということでしょうか。(平叙文しかなく、前後の文脈で疑問詞かどうかを見分けるような社会。)そうすると、問答というアイディアにとって、形式的に疑問文か平叙文かという差異は根源的なものではない、ということでしょうか。」

疑問詞をつかわないで補足疑問を行う方法というのは、面白いアイデアだとおもいます。疑問詞の部分を単に空所を示す( )にしてもよいかもしれませんが。しかし、この場合には「( )」をある種の疑問詞だと見為すべきかもしれません。あるいは、疑問詞を使わないで補足疑問のような問いをおこなう方法は他にも可能かもしれないとおもいます。

決定疑問についてはどうでしょうか。私たちは語尾を上げるなどして簡単に平叙文をもちいて決定疑問を行うことができます。英語なら、語順を変えることによって、日本語なら文末に「か」という助詞付け加えることによって、決定疑問文にすることができます。決定疑問を行う方法は、さまざまな言語で様々ですし、現にあるどの言語でのやり方とも異なる方法で、決定疑問文をつくるという規約を作ることは可能です。

ひょっとすると、補足疑問や決定疑問をもたない言語が可能かもしれませんが、私は、問答関係が、言語の成立、考える(問答推論)の成立にとって不可欠だと考えるので、その場合でも、異なった形式の問い方、あるいは問答の仕方が採用されているだろうと思います。たとえば、未来のAIは、私たちとは異なった形式の問い方で問答するかもしれません。しかし、そのAIとっても、問答は必要だろうと思います。

#いちろうさんの質問5は次です。

「質問5 p.22の「アンドリューは、幸福である。アンドリューは健康ですか。」は、「アンドリューは、幸福である。」が偽だとしても妥当な推論である、ということです。そうすると、「たいていの中国人は信用できない。Aさん(中国人)は信用できますか。」というヘイトスピーチも、「たいていの中国人は信用できない。」が偽だとしても妥当な推論になってしまうということでしょうか。

p.22の例で「アンドリューは、幸福である。」が偽だとしたら、アンドリューが幸福であることを受け入れていないので、(C1)「もしこの前提が真であれば、結論は健全である」の「もしこの前提が真であれば」を受け入れておらず、条件を満たしていないように思えます。前提承認要求を拒否しているとも言えると思います。」

ご質問の前半部分について。

   「アンドリューは、幸福である」┣「アンドリューは健康ですか」

この場合、前提が成り立つならば、結論の問いは健全(真なる答えを持つ)であるので、妥当な推論です。

   「たいていの中国人は信用できない」┣「Aさん(中国人)は信用できますか」

この場合も、前提が成り立つならば、結論の問いは健全(真なる答えを持つ)であるので、妥当な推論です。

前提の「たいていの中国人は信用できない」はヘイトスピーチですし、この結論の「Aさん(中国人)は信用できますか」という質問もヘイトスピーチにあたると思います。この前提は偽だと思いまうが、前提が偽であるとしても、この推論は妥当な推論だと思います。例えば、「p, r┣s」という推論がある場合、これはp、r、sの真理値については何も語っていません。「もしpとrが真ならば、必然的にsが真となる」という関係を語っているだけです。

ご質問の後半部分について、

   (C1)「もしこの前提が真であれば、結論は健全である」

この(CI)は条件文の形をしています。一般に条件文は、前件が偽の時には、つねに真となります。したがって、この場合、前提が偽ならば、(CI)は常に成り立ちます。

したがって、

   「アンドリューは、幸福である」┣「アンドリューは健康ですか」

という推論において、前提が偽だとしても、この推論は妥当です。

#いちろうさんの質問6は次です

質問6 問いの前提となる平叙文にも更に問いがあるとするならば、問答というのは無限に連鎖しているということなのでしょうか。(問い1の前提としての平叙文1は、その平叙文1に着目するならば何らかの問い0の答えであり、更にその問い0には前提としての平叙文0が含まれており、その平叙文0は、何らかの問い-1の答えであり、問い-1にも前提としての平叙文-1が含まれており・・・・となるので。)
もしそうだとすると、p.30の1行目で「Q1はQ3に対して認知的有用性を保つ必要がない」と言っているのは重要なことだと思います。事実としては問答は無限に連鎖するけれど、認知的有用性の観点から、問答の分析としては、(三重や四重までは不要で)二重問答関係までを分析すればいい、ということになるので。」


ご指摘、その通りです。「事実としては問答は無限に連鎖するけれど、認知的有用性の観点から、問答の分析としては、(三重や四重までは不要で)二重問答関係までを分析すればいい」

わたしもこのように考えています。

気になるのは、もし問答が無限に連鎖するとしたら、最初の問答はどのようにして生じるのか、ということかもしれません。もし最初の問答が、知覚報告を答えとする問答でならば、例えば、Q「あれは何だろう」┣ p「蛇だ」、という問答推論によって成立し、これは平叙文の前提を含まないので、無限の連鎖はそこで止まります。あるいは、もし最初の問答が、欲求の報告を答えとする問答で、「何をしようか」┣「食べ物を探そう」、という問答推論によって成立しするならば、これもまた平叙文の前提を含まないので、無限の連鎖はそこで止まります。(この問題をさらに詳細に説明しようとすると、人類や個人における言語の発成を説明する必要があるとおもうのですが、ご承知の通りの難問ですので、とりあえずここまでとします。)

#いちろうさんの質問7は次です。

「質問7 p.81で実践的知識は実践的下流(問答)推論を持つ、という話のなかで述べていることは、p.6のアリストテレスの実践的推論の説明に基づくならば、「何をしているのか」の下流(問答)推論に〈ピストルを撃つという行為〉が含まれているということでしょうか。

 P.77のブランダムは「知覚報告は言語参入であり、行為は言語退出であると考えた。」の問題提起のうち、知覚報告は言語参入ではないことを丁寧に説明していると思いますが、行為が言語退出なのかどうかを説明いただけていないように思えます。」

ご質問の前半部分についての回答。

「実践的知識」というのは英語でも日本語でも多義的です。一つには、how to の問いへの答えを指します。つまり、自転車の乗り方のような知識です。一般的にはこれがよく知られた「実践的知識」かもしれません。これは「自転車に乗るにはどうした良いのか」という実践的な問いに対する答えであり、「・・・すべきだ」「・・・したらよい」というような形式や「…しよう」という形式の発話になります。最初の二つの場合は、行為を指示する発話であり、真理値を持ちません。最後のものは、事前意図を表明する発話であり、これも真理値を持ちません。実践的推論の結論は、真理値を持たない発話になります。

他方で「実践的知識」には、別の用法、つまりアンスコムのいう「実践的知識」があります。私たちは、行為をしているときに、「何をしているの」と問われたら、観察によらずに即座に、例えば「コーヒーを淹れています」のように答えられるのですが、この場合の「私はコーヒーを淹れています」という知をアンスコムは実践的知識と呼びます。これは、その時に話し手が行っている行為の記述であり、真理値を持ちます。このような実践的知識は、実践的推論の結論にはなりません。

p81の「実践的知識」とは、このアンスコムの言う意味の「実践的知識」です。意図的行為の場合、「何をしているのですか」と問われた、観察に寄らずに即座に「ピストルを撃っています」のように答えられるのですが、そこでさらに「なぜ、そうするのですか」と問われたとわれたら、即座に「Bさんを殺すためです」などのように理由を答えることができます。この人は、「Bさんを殺すためにどうしようか」と問い、実践的問答推論によって、答え「Bさんにピストルを撃とう」(事前意図)を得たのです。ここで、この人は、実践的知識「Bさんをピストルで撃つ」の下流推論(「Bさんをピストルで撃つ」┣「Bさんは死ぬ」)を行っています。結論「Bさんは死ぬ」を答えとする相関質問で、この推論によって答えを見つけることになるような問いには、いろいろなものがあるだろうと思います。例えば「Bさんはどうなるだろうか」という問いであるかもしれません。どのようなものであるにせよ、この結論は記述ですので、相関質問は理論的な問いでなければなりません。

ご質問の後半部分についての回答。

ブランダムは、行為は言語退出であるという考えるのですが、私はそう考えません(そのことが十分に明示的になっていなかったのかもしれません)。私がそう考えない理由は、行為は実践的知識や行為内意図を、不可欠な構成要素としており、言語的に分節化されたものだと考えているからです(「長所4:問答推論と行為」(pp.80-83)でそれを説明しました。

79 いちろうさんの質問への回答(1)(20220406)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

いちろうさん から2022年3月15日に沢山の質問をいただきました。丁寧に読んでくださり、ありがとうございました。少しずつそれに答えてゆきたいと思います。

#質問1は次の通りです。

「質問1 世界哲学の日のイベントでの朱さんの指摘は興味深かったです。
僕は、朱さんの指摘とその後の入江さんのブログから次のようなことを考えました。このような理解でよいのでしょうか。


①ブランダムはどこまでも推論にこだわり、認識を推論の中に取り込むことで、世界の認識という認識論的な問題を無効化しようとしている。(実際にはブランダムに要素主義的な残滓があり、不徹底だとしても。)
②入江さんは、推論で全体論的な大方針を示し、そのうえで要素主義的なアプローチも認めるという両面作戦を展開しようとしている。だから真理条件意味論的に真偽(妥当性・非妥当性)を判断することも認め、世界の認識(世界と言語の対応関係)のようなものを直接的に取り込むことができている。(入江さんは、ブランダムよりも、要素主義的なことをもう少し確信的にやっている。)」


入江の回答:

①について。たしかにブランダムは、ローティの認識論批判を継承しようとしているのだとおもいます。最近のブランダムは、おそらく認識論に代わるものとして、「概念実在論」を考えているのだろうとおもいます(A Spirit of Trust(『信頼の精神』)2019)。彼は、「概念実在論」で、客観的事実とは何か、それをどう考えるべきかについて、説明しようとします。(『問答の言語哲学』やその他の私の書くものには確かに要素主義的な残滓があり、それを注意深く取り除いていきたいと思っているのですが、ブランダムにもそのような残滓があるかどうかは分かりません。)

②について。デイヴィドソンは、語による対象の指示と見えるものは、実際には、その語を含む文の発話によって行われているので、語が対象を指示するということはないと考えます(デイヴィドソンの論文「指示なき実在論」)。私は語による対象の指示と見えるものは、文の発話ではなく、問答によって行われると考えます(例えば「マダガスカルはどれですか」「あれです」のように)。このような仕方で、言語の意味に関する要素主義を批判できるだろうと考えています。

 他方で、従来の意味の全体論は(ブランダムも含めて)、語の意味は文の中で成立し、文の意味は他の文との推論関係として成立すると考えているのですが、私は次のように考えたいと思っています。語の意味は問答の中で成立し、文の意味(あるいは、命題の統一性)は、問答関係として成立します。この問答関係は、何かに問い合わせることによって成立します。知覚報告を答えとする問答の場合、知覚に問い合わせます。より複雑な報告、例えば交通事故の原因の報告を答えとする問答の場合、多くの情報(道面の状況、他の自動車の状況、その自動車の状況、運転者の精神状況、など)の報告文に問い合わせて、それらを前提とした推論の結論として、事故原因の報告文を得ることになります。自問自答において、問いへの答えとしてある文を理解するとき、その文を理解することと、その文を真とみなすことは同時に成立しています。これが、文の理解の原初的なあり方だろうと思います。

 

#いちろうさんからの質問2は次です。


「質問2 関連しますが、勝手な先読みかもしれませんが、入江さんは朱さんに対して、自分のアイディアは問答主義ではなく問答推論主義だ、と応じていられましたが、もし僕の理解が正しいとすれば問答主義でもいいような気がします。なぜなら入江さんはブランダムの規範的語用論と推論的意味論という二つのアイディアの間にも、相互依存性というか問答性のようなものを読み込んでいるように思えるからです。(入江さんがやっている全体論と要素主義の両面作戦とは、問答的な両面作戦でもあるということです。)もしそうだとしたら、問答というアイディアは推論というアイディアを大きく超えてしまっているような気がします。そのあたりは僕の誤読でしょうか。」

入江の回答:

大変好意的に捉えていただいてありがたいです。私は「問答推論主義」という用語について、推論は問いに対して答えるプロセスとして成立するという立場から、(ブランダムに限らず)推論主義が主張されている場合には、それを「問答推論主義」として捉えなおせると考えています。これに対して、「問答主義」という語の使い方については、まだ迷っています。

  「問答主義」という語を、問答推論主義をも含むものより広い意味で用いるようになるかもしれません。問答関係は多くの論点で重要な働きをしています。指示を可能にするのは問答です。命題の統一を可能にするのは問答です。発語内行為を可能にするのは問答です(この場合には、ブランダムが「命題主義」と呼んだものに対する対案として「問答主義」を使うことになりそうです)。推論に統一を与えるのは問答です。(これらは、『問答の言語哲学』で不十分ながら示したことです。次は次の本で示したいことです。)知識と呼びうるのは、問答です。真理は、問答関係の性質です。事実は問答関数です。

いちろうさんからの質問3は次です。

「質問3 ブランダムにも共通するのかもしれませんが、上流(問答)推論と下流(問答)推論の区別について、ちょっとイメージがわかないところがあります。上流推論は既に行われた推論なので、イメージがわくのですが、下流推論はこれから行う推論なので、その発話された時点では、下流推論は、まだ存在しない、行われていない推論ということのように思えます。推論の妥当性を判断するためには上流推論と下流推論の両方を参照する必要がある場合、その妥当性はいつ決定するのでしょうか。下流推論が実際に行われてからでしょうか。
なお、この疑問は、推論が問答推論に拡張されることで、より明確になるように思います。例えば次のような例では、発話Bの妥当性は、発話Aの適切な答えになっていること加え、発話CDという適切な問答を引き出しているという点にも依拠していると言えると思います。この場合、発話CDが終わるまでは、発話Bが妥当なものだったかどうかはわからない、ということになるのでしょうか。

(土曜の朝の夫婦の会話)

A妻 「明日はどこに行きますか。」

B夫 「明日は雨です。」

C妻 「明日、美術館は閉館日ですか。」

D夫 「明日は、美術館は開いているから、美術館に行きましょう。」

(以上は適切な場合だが、C「テレビの天気予報なんて見てないで、ちゃんと私の話を聞いて、明日のお出かけの計画を立ててよ。」という展開がありえ、この場合はBの発言は不適切なものになりうる。) 」

入江の回答:

ブランダムによれば、ある発話の意味を理解するとは、その発話の正しい上流推論と正しくない上流推論、正しい下流推論と正しくない下流推論を判別できる能力を持つということです。したがって、実際に行われた発話を理解するときに、その発話の現実に行われた上流推論とその後行われるであろう下流推論を理解することではないのです。現実に行われた推論またこれから行われるであろう下流推論も含めて、それら様々な可能な推論を正しいものと正しくないものに判別する能力がある、ということなのです。私が、発話の意味を上流と下流の問答推論関係で説明するときも、同様です。(これで疑問の解消になっているとよいのですが)。

ご質問後半のA、B、C、Dという会話の部分は、「会話の含み」の問題になり、それについては二重問答関係で説明出来ると考えています(参照、『問答の言語哲学』第二章「2.3会話の含み」)。