67三木さんへの回答(8) 語用論的矛盾とは何なのか?(20211225)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

三木さんは、語用論的矛盾について次のように質問していました。

「一般的に言えば、ある文が意味論的に矛盾しているというのは、その文がそこに現れる語の意味ゆえに真であり得ないということだろう。語用論的矛盾は「発話行為(音声行為、用語行為)とその命題内容があるいは発語内行為とその命題内容が」衝突することだとされる(208 頁)。ここで入江さんはいくつかの語用論的矛盾を挙げているが、肝心の「矛盾」の意味があまり明示的でなく、「整合的ではないと感じられる」とだけ語られている(209 頁)。」

「整合的ではないと感じられる」理由については、一応次のように説明していました。

「なぜなら、語用論的矛盾(A)では、発話行為を記述した命題と、当該の発話の命題内容が論理的に矛盾し、語用論的矛盾(B)では、発語内行為を記述した命題と、当該の発話の命題内容が論理的に矛盾しているからである。」

これをより具体的に言うと次のようになります。

語用論的矛盾(A)の例を説明すると、「私は「ここでは静かにしてください」とここで大きな声で言う」と「ここでは静かにしてください」という二つの命題内容が論理的に矛盾する、と言うことになります。

語用論的矛盾(B)の例を説明すると、「私は「私は存在しない」と主張する」と「私は存在しない」という二つの命題内容が論理的に矛盾する。

三木さんが言うように、これではまだ曖昧かもしれません。

まず、簡単な方の、語用論的矛盾(B)の例で考えてみます。「私は存在しない」という発話の発語内行為を話し手が記述した命題の内容「私は「私は存在しない」と主張する」と発話の命題内容「私は存在しない」は矛盾します。「Xが主張するならば、Xは存在する」という前提を加えるならば、それと前者から、「私は存在する」が帰結し、これと後者「私は存在しない」が論理的に矛盾します。

説明が難しいのは、語用論的矛盾(A)の例です。「ここでは静かにしてください」という発話の発話行為を話し手が記述した命題の内容「私は「ここでは静かにしてください」とここで大きな声で言う」と発話の命題内容「ここでは静かにしてください」は、厳密にいうならば、何処が矛盾しているのでしょうか。「大きな声でいう」ことと、「静かにしてください」という依頼内容は、pと¬pというような論理的矛盾にはなっていません。

 後者「静かにしてください」は依頼の発話であり、その依頼内容が実現した状態「教室が静かである」と、前者の「私が大きな声で言う」という状態が両立不可能であり矛盾するといえるかもしれません。しかし、依頼内容が実現した状態は、未来の状態であるのたいして、「私が大きな声で言う」は現在の状態ですので、これも厳密に言うと両立不可能ではありません。

 「静かにしてください」(と大声で言う)ことのおかしさを、どう考えたものでしょうか。この難しさは、依頼の発話ゆえに生じる難しさだと思われます。依頼の発話でなければ、発話行為と命題内容の語用論的矛盾の説明は簡単です。例えば、

   「私は静かに話している!」(と大声を出している)

この場合には、この発話行為の話し手による記述「私は「私は静かに話している」と大声を出している」と、命題内容「私は静かに話している」は、論理的に矛盾します。

 依頼の発話行為と命題内容の矛盾についての考察は、次回に回させてください。ここでは『問答の言語哲学』で抜け落ちていた語用論的矛盾の別のタイプを追加しておきたいと思います。

#語用論的矛盾の新しいタイプの追加

前提承認要求と命題内容が矛盾する場合を、語用論的矛盾(C)として追加したいと思います。(この語用論的矛盾や問答論的矛盾については、ずいぶん前から本書に書いたように考えてきました。他方「前提承認要求」を想定するようになったのは、近年のことなので、その考察が抜けたままになっていたのです。これは全く私のミスです。)

語用論的矛盾(C)の例は、次のようなものです(差別用語を例に使って説明しますが、それはこのような例が重要だと思うからで、差別的な意図はありません。)

  「私はジャップを差別しません」

これは、「ジャップ」という語の使用が日本人にたいする差別的な判断を前提しており、その語が含まれる文を発話することは、その前提(その語の妥当性、有用性)を承認することを要求することになります。したがって、この前提承認要求と、命題内容が矛盾します。

66三木さんへの回答(7) 問答論的矛盾とは何なのか?(20211224)

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2(B):問答論的矛盾とは何なのか?

「問答論的矛盾とは何なのかということが気になる。それは入江さんによれば答えの発話がそれ自体としては意味論的にも語用論的にも矛盾しないにもかかわらず、先立つ問いへの答えとして発話されるときには矛盾する事態である(210 頁)。しかし、「矛盾する」か否かの判定は何によってなされるのだろうか?」

まず、「問答論的矛盾」の「矛盾」を説明したいと思います。

例えば、

  「私の言うことが聞こえますか?」「いいえ、聞こえません」

この問答がおかしいのは、もしこの答えが正しければ、問いが聞こえていないはずだから、この問いに答えることができないにもかかわらず、この問いに答えていることです。もう少し明確に言うと、「問いに答えているのだから、問いが聞こえている」ということと、答えの命題内容「問いが聞こえない」が矛盾しています。

 このような問答論的矛盾に関する三木さんの疑問の一つは、「聞こえますか」という問いに「聞こえません」と答えること、また「日本語がわかりますか」という問いに「わかりません」と答えることは、実際にありうるのではないか?というものです。

 このような場合があることは私も認めます。しかし、この問いを「文字通り」に理解した上で、「文字通り」の意味で「聞こえません」や「わかりません」と答えることは、ありえないと思います。つまり「文字通り」の意味とは、「はっきりとは聞こえません」とか「日本があまり分かりません」という意味ではなく、「全く聞こえません」「全く分かりません」という意味です。

 「聞こえません」という返答があるとき、それを文字通りの意味では理解できなので、私たちはそれらを、「あまり聞こえません」という意味を持っていると理解します。つまり、グライスのいう「協調の原理」が働いて、その発話が適切な意味を持つように「あまり聞こえません」という意味(つまり、グライスの言う「会話の含み」)で理解しているのだと思います。

 三木さんは、もう一つ別の疑念も示しています。

「もともと文の意味はその問いとなるものとそこからの問いとなるものによって理解されているのだった。そして何が何の問いとなり、答えとなるかは、おそらく社会実践によって決まるのであろう。では社会実践を見ると、「あなたは日本語がわかりますか?」という問いに「あまりわからない」と伝えようと「いいえ、わかりません」と答えるというのは、許容されているように思える。とすると、「あなたは日本語がわかりますか?」の意味の一部として、「いいえ、わかりません」と答えうることはすでに含まれていることにならないのだろうか? おそらく私がよくわかっていないのは、「文字通りの意味」というのがどこから出てきた何物なのか、ということなのだと思われる。これが現実の推論実践から帰納的な仕方で導かれるものであるならば、「いいえ、わかりません」は文字通りに妥当な答えとなりそうなものだが、そうではないようだ。」

 問答推論的意味論では、疑問文を含む文の意味は、その上流問答推論関係と下流問答推論関係に他なりません。したがって、「「もともと文の意味はその問いとなるものとそこからの問いとなるものによって理解されているのだった。そして何が何の問いとなり、答えとなるかは、おそらく社会実践によって決まるのであろう」というまとめは、その通りです。文の意味が、現実に社会で行われ認められている実質問答推論によって成立するものであるとしたら、「聞こえますか」に「聞こえません」という問答が社会で現実に行われている以上は、それが「文字通りの意味」であることになりそうだ、という指摘です。

 これは鋭い指摘ですが、この疑念に対する応えも、前のものと同様になります。ある文の発話が、「文字通りの意味」を伝えるために用いられる時と、「会話の含み」を伝えるために用いられる場合があるということ、つまり発話が二つの意味を持ちうるということも、社会的実践がみとめることです。ですから、「聞こえません」が「あまり聞こえません」の意味で用いられるとしても、それが「文字通りの意味」であるとはかぎりません。

 私が問答論的矛盾の説明でつかう「文字通りの意味」を「会話の含み(implicature)」と区別することによって説明したいとおもいます。この区別は関連性理論の用語では「表意(explicature)」と「推意(implicature)」となります。『問答の言語哲学』第2章2.3では、「会話の含み」がどのようにして構成されたり、理解されたりするのかを、次のように説明しました。文の「文字通りの意味」は、相関質問と当該の文の発話の関係をつくる問答推論関係によって成立しますが、これに対して「会話の含み」は、相関質問に対する答えではなく、より上位の問いにたいする答えとして理解できます。ここには、Q2→Q1→A1→A2という二重問答関係があります。これをより丁寧に説明すると次のようになります。

  Q2〔「十分に聞こえますか」〕

    Q1「聞こえますか」

    A1「聞こえません」(このQ1→A1という問答は、問答論的矛盾になるので、ありえません。)

  A2〔「あまり聞こえません」〕(〔 〕は会話の含みを表します)

Q1とA1が実際に発話されたものですが、それらの問答がありえないので、Q1はQ2を問うていたのだと解釈され、A1はA2の意味であると解釈されるのです。Q2は、Q1の含みを明示化したものであり、A2は、A1の含みを明示化したものです。

次に語用論的矛盾についての質問に答えたいと思います。

65三木さんへの回答(6) 問答論的超越論的論証の背後にある思想的ひろがり(20211221)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

三木さんの後半の質問(2)は「問答論的超越論的論証」についてのものです。これは3つに分かれています。まず一つ目から答えたいと思います。

2(A):この背後にはどのような思想的な広がりがあるのか?

この質問の説明は短いので再掲します

「この章で入江さんはコミュニケーションの超越論的条件や、とりわけおよそコミュニケーションを可能にす

るための倫理的な条件を探求している。これは個々の意味論的、語用論的な現象を説明するというのとは、次

元の異なる試みであるように思われて、興味を引く。勝手な想像だが、ここには単に「言語現象を説明して終

わり」に尽きない、何らかの目論見があるのではないか? 何かもっと大きな目標があったうえでのコミュニ

ケーションを可能にする条件の探求なのではないか? もしそうしたものがあるなら、教えてほしい。」

「第四章 問答論的超越論的論証」では、コミュニケーションが可能になるための必要条件、いいかえると問答が可能になるための必要条件を、問答論的矛盾を避けるための必要条件として説明することを試みました。『問答の言語哲学』につづいて、その成果を、認識、実践、社会問題へと展開していく予定なのですが、認識も実践も社会も、問答ないしコミュニケーションによって成立しているとすれば、問答が可能になるための超越論的条件は、認識や実践や社会の成立の超越論的条件にもなるだろうと思います。これが、この第4章の議論の背後で私が想定している「思想的な広がり」だといえるものです。

64 三木さんへの回答(5) 形式意味論に対するブランダムの批判(20211220)

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・Fodor and LeporeとBrandomの間に次のような論争があることがわかりました。

1,Fodor and Lepore からのBrandomへの批判1:

Brandom’s Burdens: Compositionality and Inferentialism

Jerry Fodor; Ernie Lepore, Philosophy and Phenomenological Research, Vol. 63, No. 2. (Sep., 2001), pp. 465-481. (この論文は後に、Fordor and Lepore, The Compositionality Papers, Oxford U.P., 2002 に収録されています。)

2,Brandomからこの批判への応答

Brandom, Inferentialism and Some of Its Challenges,in Philosophy and Phenomenological Researh, vol.74-3(2007), pp.651-676. (この論文は、Weiss,B. & Wanderer, J. (2010)(eds.) Reading Brandom, Routledge, 2010、に収録されています。)

3,Fodor、Lepore からBrandomへの批判2

Fordor, J. & Lepore, E.(2007)“Brandom Beleaguered” in Philosophy and Phenomenological

Researh, vol.74-3, pp.677-691. (この論文も、Weiss,B. & Wanderer, J. (2010)(eds.) Reading Brandom, Routledge, 2010、に収録されています。)

4,Brandomからこの批判への応答

Brandom, R.(2010) ʻReply to Jerry Fodor and Ernest Leporeʼs Brandom Beleagueredʼ in

Weiss,B. & Wanderer, J. (2010)(eds.) Reading Brandom, Routledge, 2010.

(あるいは、この後も両者の間で応酬があるかもしれません。)

この論争をはじめからチェックするには時間がかかりそうです。三木さんへの回答から離れてしまいそうなので、ここでは要点だと思われる点だけを、上記の4と、『プラグマティズムはどこから来て、どこへ行くのか』から紹介します。

 上記の4で、ブランダムは、FodorとLeporeの「形式意味論」を「哲学的意味論」の立場から批判します。ブランダムは、FodorとLeporeがが、意味論と認識論を峻別することに賛同しますが、しかし「意味についての議論から、理解の考慮を取り除くこと」には反対し、次のように言います。

「Fodor とLeporeと異なり、私は意味と理解が連係した概念であるという点でダメットに同意する。これらの一方を他方を理解することなく理解することは出来ない。この関係は、私たちが形式意味論のプロジェクトを追究するときには、無視される。」(Brandom, R.(2010) ʻReply to Jerry Fodor and Ernest Leporeʼs Brandom Beleagueredʼ in Weiss,B. & Wanderer, J. (2010)(eds.) Reading Brandom, Routledge, 2010. 332)

意味と理解を分けられないということが、ブランダムによる形式意味論に対する批判です。彼は、同様のことを『プラグマティズムはどこから来て、どこへ行くのか』でも述べています。

「意味についての語りなるものは、意味を把握する、あるいは理解するとはどのようなことか、ということについての語りと分断されてしまっては無益なのである。マイケルダメット、ドナルド・デイヴィドソン、クリピン・ライトらは、意味についての思想の中心にこの原理をおいた言語哲学者だ。もしこれを受け入れるならば、意味論は広い意味での認識的問題と分離不可能な仕方で結びつくことになる。」(ブランダム『プラグマティズムはどこから来て、どこへ行くのか』加藤隆文、田中凌、朱喜哲、三木那由他訳、勁草書房、下巻、171) 

これに対して「ジェリー・フォーダーは、この〔広い〕意味で認識的な問題と、本来の意味で意味論的である関心との混ぜ合わせを、現代の心の哲学、言語哲学における大悪だとみなしている。」(同所)

わたしも、意味と理解を分けられないというダメットやブランダムに賛成です。それゆえに、前回、形式意味論において、語句の意味をどのように設定するのかを問題にしたのです(ただし、ブランダムは、認識論を慎重に避けようとしているので、私の前回の議論にブランダムが賛同するかどうかは、わかりません)。FodorやLeporeがブランダムのこの議論にどう応答するのか大いに気になるところです。FodorとLeporeからのBrandom批判は、問答推論的意味論にも、そのまま当てはまりそうなので、この論争については、別途詳しく検討した方がよさそうです。

  次に、三木さんの後半の質問に答えたいと思います。

63 三木さんへの回答(4)(問答)推論的意味論で何ができるのか (20211218)

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「(問答)推論主義的意味論を意味論の方針として採用したとき、いったい意味論の研究者はどういう研究をすることになり、またそれによって言語についてどのような知識が得られることが期待されているのだろうか?」

(私は、ブランダムは「推論的意味論」と言い、「推論主義的意味論」とは言わないと思っていたのですが、朱さんが紹介してくれた論文 ‘Reply to JERRY FODOR and ERNEST LEPORE’s “Brandom Beleaguered” in Reading BRANDOM のなかで使用していました。) 

推論的意味論によって可能になることの一つは、<語や文を理解するときに、私たちが暗黙的に想定している(それらの表現に関わる)実質推論の能力を明示化する>ということです。ただし、暗黙的な実質的推論の明示化の作業を個々の語や文について行うということではなく、いくつかの事例を示して、必要に応じてが人々がそれを行えるようにするということだとおもいます。

推論的意味論によって可能になるもう一つのことは、形式意味論に、適切な出発点となる「モデル」を提供するということではないでしょうか。三木さんによれば、形式意味論は、基本的にモデル論的であり、そこでの研究目標はおおむね「関連する語彙項目に集合論的対象をうまく割り当てることで、ターゲットとなっている現象を集合論レベルで再現する」ことです。では、ある語彙に対象のある集合を割り当てるとき、「うまく割り当てる」ことができているかどうかをどうやって判断するのでしょうか。人工言語ならばその割り当てを「定義」とみなすこともできますが、日常言語の意味論を考える時には、その判断を行うには、私たちの日常でのその語彙の使用に一致するかどうかを見るのだと思います。そして、日常でのその語彙の使用法を明示化しようとするときに、その語彙を用いた文の上流推論や下流推論を明示化しているのだとすると、最初のモデルの設定の段階で、暗黙的に(問答)推論的意味論を利用しているということにならないでしょうか。

ある語彙をもちいた文の実質推論を基盤にして、それから比較、代入、抽象などの操作(この操作もまた(問答)推論になっています)によって、語彙の意味についてのモデル論的な説明が成立すれば、それから出発して、形式意味論が目標とするような、文の合成や文の意味の説明が可能になるとおもいます。

推論的意味論は、発話の意味を理解するときに、上流推論と下流推論の両方を理解する必要があると考えます。主張可能性意味論は上流推論のみを考えている点で不十分であり、プラグマティズムは下流推論のみを考えている点で不十分だといいます。(形式的意味論が真理条件意味論を採用するとすれば)真理条件意味論は、「「p」は真である」の同値文を示すので、それは上流推論にも下流推論にもなりますがしかし、その同値文は、「「p」は真である」の一部の上流推論と下流推論だけを示しており、多くの上流推論や下流推論を考慮していません。ブランダムならば、この点が不十分だというでしょう。

ブランダムのこの主張を継承して、私は、疑問文の意味論に関しても、上流問答推論と下流問答推論を考慮することが必要だと考えています。現在の疑問文についての意味論は、命題集合説と関数説に分かれており、どちらの説も、疑問文の問答下流推論だけを考慮するものであって、不十分だと説明しました(『問答の言語哲学』の1.2.2.3)。三木さんが紹介されたCiardelli, Groenendijk & Roelofsen のInquisitive Semantics(2019, Oxford Univeristy Press)は、命題集合説のなかの新しい試みのようです。したがって、やはり問答下流推論だけを考慮していると言わざるをえません。ただし、この本は、疑問文の意味論だけでなく、「平叙文と疑問文の統合理論」をつくる試みのようで面白そうです。

 

次に、私にとっても重要そうなので、形式意味論に対するブランダムの批判を見ておこうと思います。

62 『問答の言語哲学』の合評会の動画のご案内(20211217)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

先日(20211123)の『問答の言語哲学』の合評会の動画がすでにupされていました。

リンク先は以下の通りです。全体は、二部に分けてupされています。

一部(『問答の言語哲学』の説明(入江)と朱さんの質問とそれへの応答。)

第二部(三木さんの質問とそれへの応答)

三部(フロアからの質問とそれへの応答) (この動画が抜けていたのでおぎないました。)

ご覧くだされば、うれしいです。

61 三木さんへの回答(3) 語句へのコミットメントとは何か? (20211216) 

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

次のご質問「1(B): 語句へのコミットメントとは何か?」に答えたいと思います。

『問答の言語哲学』では、三木さんが言うように、コミットメント概念が文未満表現の使用に関する説明にも用いています。「これ」や「Xさんの車」や「赤い」による対象の指示や性質の表示を、コミットメント概念をもちいて説明しています。これについて、三木さんは次のように質問します。

「入江さんは文レベルの発話へのコミットメントは1(A) で述べたような説明を与えているものの、語句レベルのコミットメントについての説明は特にしていなかったように思う。そこで仮にこれらが同じ意味合いで用いられていると仮定しよう。すると「「これ」を使用したならば、「これ」である対象を指示するということについて、その根拠を説明する用意がある、ということになるだろう。」「しかし、一般的に言って、そのような用意を私たちは会話において持っているだろうか?」

 私は、暗黙的には、その根拠を説明する用意があると思います。朱さんの質問への回答に書きましたように、文未満表現の理解と使用も、文の理解と使用も、ともに問答推論関係において成立し、明示化されると考えますので、文未満表現の使用へのコミットメントも文の使用へのコミットメントも、問答推論へのコミットメントによって説明されるものであり、その限りで同種のものだと考えています。より具体的には次のようになります。

 発話の意味を理解するとは、上流と下流の問答推論の正しものと正しくないものを判別できる能力を持つことであるのと同様に、語句の意味(使用法)を理解するとは、それらの語句をもちいた問答ができること、言い換えるとそれらの語句を用いた問答(問答推論)の正しいものと正しくないものを判別できる能力を持つことだといえるだろうと思います。また、実際にその語句を使用すること(つまりその語句によって現実の文脈において対象や性質や関係を指示ないし表示すること)にコミットすることは、それらの語句をもちいた問答ができること、言い換えるとそれらの語句を用いた問答(問答推論)の正しいものと正しくないものを判別できる能力を持つことだといえるだろうと思います。このことは、文未満表現についても、(暗黙的には)使用の根拠を説明する用意がある、ということだと考えます。

これに関連して、三木さんから次の質問がありました。

「ところで、語句レベルのコミットメントとして、「指示するということへのコミットメント」といった語り

かたを取り入れるのは、ブランダムの反表象主義の立場とは異なる見方であるように思える。入江さんが指示などの表象主義的概念についてどういった見解を採用しているのかも訊いてみたい。」

指示するということは、ある語である対象を指示するという関係ですが、これが成り立つためには、例えば、「語Xでどの対象を指示しているのか」と問われたときに、「XでYを指示しています」と言うように答えられる必要があります。このとき、「X」と「Y」は同一対象を指示する異なる表現です。このような「Y」がなければ、「X」で特定の対象を指示することは出来ません。ある語句である対象を指示するためには、指示対象が同じで意味が異なる二つの表現が必要なのです。また必要に応じてこのような問答ができることが必要なのです。語による対象の指示は、語と対象の二項関係ですが、この二項関係が成立するには、他の語や、それらの語を使用した問答が成立しなければなりません。ある対象を指示したり、それについて何かを述定したりすることは、このような問答関係の中で成立します。このように考える時、素朴な表象主義が考えている二項関係(たとえば、パトナムが揶揄しているように、指示光線のようなもの)を有意味な仕方で理解することは困難です。

ある語句である対象を指示するということを、語句の概念内容(心的内容)を対象そのものや対象についての心的表象と結合するとして説明することできません。なぜなら、それが理解不可能だからです。オースティンが言ったように、語「リンゴ」の定義と対象<リンゴ>の定義は、同時にしかできないからです。これは一般名の場合ですが、指さし行為をともなう「これ」である対象を指示することがありますが、そのときに「これ」で指示されている対象を世界の中から取り出すことは、「これ」による指示の前には不可能です。もしそれができているとすれば、その対象は、その前に、別の言語表現を用いて取り出されているのだとおもいます。

現代の有力な知覚論であるギブソンのアフォーダンス論、ノエのエナクティヴズムでも、知覚表象というものを認めません(これについてはカテゴリー「問答の観点からの認識」(17~20回)で説明しました)。したがって、対象について「それはハエだ」とか「それは赤い」と知覚報告をするときにも、それを、知覚表象について報告、あるいは知覚表象を介する報告として説明することは困難です。(ただし、私はローティによる近代の表象主義的認識論への批判には賛成しますが、反表象主義的な認識論の可能性が残っていると考えています。認識を、事実に対応した命題を獲得することと考えずに、問答として考えます。事実については、問いを入力とし、答えを出力とする関数として考えています。)

60 三木さんへの回答(2)  「コミットメント」とは? (20211213) 

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

まず三木さんの質問1(A)「「コミットメント」とは?」に答えたいと思います。三木さんは、コミットメントに関連して、次の3つの問いを上げています。

 「なぜコミットメントを説明責任に局限するのか」

 「コミットメント概念をほかの仕方でなくこの仕方で解釈すべき理由や解釈したい理由があるなら伺ってみたい」

 「なぜ遂行責任を含むような幅広いコミットメント概念ではなく、説明責任へと限定した形でこの概念を用いるのだろうか?」

 合評会でも述べましたが、何かにコミットすることとは、常に、何かを選択することであると考えます。(ただし、動物も選択すると言えるでしょうから、これの逆は言えません。つまり何かを選択することが直ちに、何かにコミットすることではありません。)さらに、何かにコミットすることは、単に何かを選択することではなく、その選択に責任が伴うような選択をすることであると考えます(尤も、人間が行う選択は、つねにその選択に責任が伴うような選択であるかもしれません)。この場合、選択に伴っている責任とは、何でしょうか。

 第一に、「なぜそれを選択したのか」についての説明責任です。第二に、その選択からある義務が帰結するのならば、その義務を引受ける責任があると思います。例えば、その選択からある履行の義務が生じるとすれば、その履行義務を引受けることが選択に伴う責任に含まれると思います。

 一般的に、履行義務(履行責任)があるとは、履行した場合もしない場合も、それについての説明責任があるということだといえるでしょう。なぜなら、「責任(responsibility)」とは、かつて大庭健が強調したように、応答可能性であり、応答の責任、つまり説明責任だからです。(たとえば、政治家が、或ることについて自分に責任があると言ったならば、それについての、またその結果についての説明責任が生じます。)

 発話へのコミットメントに話しを限るとき、ある発話へコミットするとは、その発話の上級問答推論と下流問答推論にコミットすることです。そして、それはこれらの問答推論についての説明責任を引受けることだと考えます。

 以上の説明が、上記の3つの問いに対する答えになるだろうと思います(個別に答えようとすると、重複が多くなってしまうので、このような答え方になりました)。上記の説明をさらに短く次のようにまとめられると思います。

<コミットメントとは、責任をもって選択することであり、それゆえに、コミットメントには、その上流推論や下流推論に関する説明責任がともなう。>

三木さんは「説明責任」に関連して、次の質問もしていました。

「あるひとがある主張をする。そのひとはしかし、その主張の根拠を問われても、答えることはできない。そのひとはただ「自分はそれが正しいと信じている」、「ただそうすべきだと思うのだ」といったことを言うだけなのだ。だがそのひとは確かに、自分が主張していることに従った行動をし続けている。こうした場合に、このひとは自身の発言にコミットしているのだろうか、していないのだろうか?」

私は、人が何かを信じるならば、明示的に根拠を語ることができないとしても、何らかの根拠があると考えます。したがって、そのような場合にも何らかの上流推論があるだろうと考えます。しかし、それを本人が明示できないことはあるでしょう。そのような場合でも、人は発話にコミットしており、発話に対しての責任が生じると思います。つまりその発話から帰結する下流推論の結論にコミットする責任があると考えます。

三木さんは「説明責任」に関連して次のような危惧を述べています。

「社会的マイノリティが被る害や不都合に理由を訊ね、正当化を求めるという実践は、しばしば足を退けるのを後回しにするための言い訳として機能している」また「社会的マイノリティが経験する差別やさまざまなマイクロアグレッションについては、しばしばそれが害や不都合をもたらしていることはわかるが、それをマジョリティにわかる仕方で説明することが困難である」。

これらの危惧を、<マイノリティが異議をうまく言葉にできないこと>、また<異議を言葉にしても、マジョリティがそれを理解できないこと>とまとめておきます。この危惧にもとづいて、三木さんは次のような危険性を指摘します。

「もしも(1) コミットメントを伴う発話こそが誠実な発話であると想定し、かつ(2) コミットメントとは説明責任であるとしたならば、社会的マイノリティからの「足を踏まれている」タイプの問題提起が全体として不誠実なものと見なされる可能性があり、ある種の政治的帰結を持つことになるのではないか。」

つまり、この(1)と(2)の前提に、上記の危惧<マイノリティが異議をうまく言葉にできないこと>あるいは<異議を言葉にしても、マジョリティがそれを理解できないこと>という前提が加われば、「社会的マイノリティからの「足を踏まれている」タイプの問題提起が全体として不誠実なものと見なされる可能性があり、ある種の政治的帰結を持つことになる」ということが帰結するということです。

この懸念は重要ですが、そのとき重要になるのは、前提の(1)(2)の見直しというよりも、追加される前提<マイノリティが異議をうまく言葉にできないこと>あるいは<異議を言葉にしても、マジョリティがそれを理解できないこと>ということが成り立たないようにすることであり、そのためにはその状況について問答を重ねるしかないだろうとおもいます。ここでは、社会の中でのコミュニケーションのメカニズムの分析が重要になります。『問答の言語哲学』では、第三章で差別発言について少し考察しましたが、社会関係の中でコミュニケーションの分析には、立ち入っていません。(それについてはいつか『問答の社会哲学』(仮題)で論じたいと思います。)

59 三木さんへの回答(1) 三木さんの質問の要約 (20211213) 

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

三木さんの質問資料は、以下にupされています。

https://researchmap.jp/nayutamiki/presentations/35803115

三木さんの質問は大きくは二つに分かれています。質問1は、「(問答)推論主義のプロジェクト」に関するもので、質問2は「問答論的超越論的論証」に関するものです。

質問1:(問答)推論主義のプロジェクトについて

この質問は、ブランダムの議論にも向けられた質問で、3つの質問に分かれています。

1(A):「コミットメント」とは?

「コミットメント」を説明責任として理解することは狭すぎるのではないか、例えば遂行責任も含まれるのではないか?

1(B):語句へのコミットメントとは何か?

「「指示するということへのコミットメント」といった語りかたを取り入れるのは、ブランダムの反表象主義の立場とは異なる見方であるように思える。入江さんが指示などの表象主義的概念についてどういった見解を採用しているのかも訊いてみたい。」

1(C):(問答)推論主義的意味論について

「(問答)推論主義的意味論を意味論の方針として採用したとき、いったい意味論の研究者はどういう研究をすることになり、またそれによって言語についてどのような知識が得られることが期待されているのだろうか?」

質問2:問答論的超越論的論証について

2(A):この背後にはどのような思想的な広がりがあるのか?

「言語現象を説明して終わり」に尽きない、何らかの目論見があるのではないか? 何かもっと大きな目標があったうえでのコミュニケーションを可能にする条件の探求なのではないか? もしそうしたものがあるなら、教えてほしい。」

2(B):問答論的矛盾とは何なのか?

「問答論的に矛盾しているというときの矛盾とは何なのか、そしてそれに関わっていると思われる「文字通りの意味」とは何なのかということを伺いたい。」

2(C):規範的超越論的条件はどのように導出されているのか?

「問答論的矛盾という概念が特にうまく掴みにくくなるのは、規範的超越論的条件の導出に関する議論においてであった。」

次からこれらに順番に答えたいとおもいます。

58  朱喜哲さんへの回答(9)朱さんの「提案」について (20211212)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

朱さんは、問答主義と推論主義は両立しないとみなし、『問答の言語哲学』では、語の意味から文の意味を説明する「合成的意味論」と文の意味から語の意味を説明する「推論的意味論」が混在していると見なします。そこで、「問答主義」をメタ意味論として、そのもとで、合成的意味論と、推論的意味論の両方を使い分ければよいのではないか(あるいは、すでにその方向をとっている)という提案をしています。

 たしかに、『問答の言語哲学』は、2.1では、語句の意味を「真理条件意味論」ないし「合成的意味論」で説明し、1.2では、ある種の語彙の意味(論理的語彙、疑問表現の語彙など)や文の意味を「推論的意味論」で説明し、二つを使い分けている、と見られても仕方がないところがありました。

 しかし、『問答の言語哲学』で暗黙的に目指していたことを、朱さんの質問に答える中で前回、明示化できました。それは<意味の原子論と命題主義的全体論の対立問題を棲み分けによって解決するのではなく、その対立問題を問答推論的全体論によって解消する>というプログラムです。(この場合、朱さんが想定していた、ゲリマンダリング問題は生じません。二種類の言語表現の区別が解消するからです。)

 合評会でお答えしたように、問答推論主義は、ブランダムの「推論主義」のフルパッケージ(推論的意味論+規範的語用論)を採用し、それを拡張することを意図するものです。

 もし、私の主張とブランダムの主張の間にズレがあるとすれば、それは言語の中心部(downtown)の内部にあります。ブランダムは中心部を次のように説明します。

「プラグマティックな合理性は、言語が中心部をもつという見解である。その中心部は、主張をし、主張の理由を与え求めることからなる。」(BSD, 43)

この中心部には、「主張」と「その理由を与え求めるゲーム」があります。後者は問答推論になると思いますが、この問答推論よりも「主張」を先行させるのがブランダムです。それに対して、私は主張よりも問答推論が先行しており、主張は問いに対する答えとして成立すると考えています。

 次に三木さんからの質問に答えたいと思います。