45 第2章を振り返る (20211121)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

(今回も?、『問答の言語哲学』を読んでいない方には、わからない書き方になっています。詳しく説明している時間がないのでご容赦ください。合評会までに拙著の最後までを振り返っておきたいので。)

第2章の2.1で、文と命題の関係を「文は、文脈を入力すると命題を出力する関数である」と説明しました。

   関数としての文:文脈→命題

他方で、2.2では相関質問との関係によって発話の焦点が決まることを説明しました。

   相関質問:文→焦点つき命題

   (焦点つき命題=相関質問+文未満返答)

この二つの関数はどう関係するのでしょうか。これが、今回読み直していて、曖昧だったと反省他点です。この二つの関数を組み合わせると次の関数になるでしょう。

   文(関数):文脈<相関質問、話し手、世界、時間>→焦点つき命題

ここで「焦点つき命題」という概念を導入しています。文の意味を「命題」と呼び、発話の意味を「焦点つき命題」と呼ぶことが、適切であるかもしれません。「命題」を理解するとは、上流問答推論と下流問答推論について正しいものと正しくないものを判別する能力を持つことであり、「焦点つき命題」を理解することは、<この能力に加えて、発話が現実にどのような上流問答推論と下流問答推論をもっているかを理解することである>と言えます。

 2.2では、「焦点」は「命題の与えられ方」を示していると述べました。「焦点つき命題」とは、「ある与えられ方のもとで理解された命題」です。

2.2の最後に、相関質問は、より上位の問いに答えるために設定されるのであり、二重問答関係

<Q2→Q1→A1→A2>において、Q1→A1は、A1の上流問答推論を構成し、Q2→A1→A2が、A1の下流問答推論を構成することを説明しました。

2.3では、「会話の含み」をこの下流問答推論によって説明しました。

   

44 第1章を振り返る(4)実質推論の妥当性とは? (20211120)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

 ブランダムは、「何が正しい実質的推論であるか」への答えを社会的なサンクションに委ねていると思います。それは、ウィトゲンシュタインの提起した規則遵守の問題に対する答えを社会的なサンクションに委ねることでもあります(参照、MIEの第1章)。

 では、私たちはどう考えるべきでしょうか。私たちは問答推論的意味論の立場から、この問題を「何が正しい実質的な問答推論であるか」という問いに換えて問う必要があります。この問いに対しては、(第4章で論じた)問答関係が成り立つためには「問答論的矛盾」を避ける必要があり、そのための必然的な(あるいは超越論的な)問答推論が、正しい実質的問答推論であると答えることができます。しかし、実質的な問答推論にはこの基礎的な問答推論だけでなく、それ以外に無数の多様な問答推論があります。では、それらの実質的問答推論の正しさについてはどう考えればよいでしょうか。これについては、本書に続く予定の『問答の理論哲学』『問答の実践哲学』で詳しく扱うことになりますが、社会的サンクションが答えになるということ以上のことが言えるかどうか、まだわかりません。

43 第1章を振り返る(3)表現の意味の明示化 (20211116)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

第一章の後半部部分「1.2 推論的意味論から問答推論的意味論へ向けて」においてブランダムの「推論的意味論」を説明し、問答推論によるその展開を説明しました。

 ブランダムは、語彙の意味は「実質的推論」によって明示化されると言います。しかし、他方でブランダムは、<論理的語彙は保存拡大性を持ち、他の語彙の意味を変えない>、それゆえに、<論理的語彙によって他の語彙の意味を明示化することができる>と言います。では、この二つの明示化はどのように関係しているのでしょうか。これらは、次のように関係しています。「実質的推論」もまた推論である以上は、論理的語彙を使用します。したがって、実質的推論によって言語表現の意味を明示化するとき、それは同時に、論理的語彙による明示化であるのです。

 「論理的語彙」は語彙の中で特殊なものです、また論理的語彙を用いた(論理学で語られるような)「形式推論」は、科学研究や日常生活で使用される「実質推論」とは明確に区別することができます。しかし、ブランダムは「形式推論」もじつは「実質推論」の一種であると考えています(『問答の言語哲学』46)。この関係は重要ですので、「論理的語彙」の意味について説明しておきたいと思います。「論理的語彙」について言えば、その意味は、論理的語彙の導入規則と除去規則という推論によって明示化が可能です。論理的語彙の導入規則と除去規則は、「形式推論」の命題です。しかし、これらの語彙や規則は、経験的な命題についての推論でも使用されます。そのとき、それらの推論は、論理的語彙の「実質推論」だと言えます。非論理的語彙を含まない「形式推論」の命題は、このような実質推論からの抽象によって得られるものです。したがって、論理的語彙についてももともとは、それを使用した実質推論が、論理的語彙の意味を明示化する推論であるといえます。

 では、実質的推論の妥当性(ブランダムはこれを「正しさ」と呼びます)は、どのように説明されるのでしょうか。

42 第1章を振り返る(2)(問いが結論となる問答推論とは) (20211116)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

③未完了型(Q2, Γ┣ Q1)では、Q2に答えるために、Q1を立てるというという関係を想定しています。

これは条件(Civ)によって充たされます。

(Civ) ③未完了型(Q2, Γ┣ Q1)の場合には、すべての平叙文前提にコミットし、かつ結論となる問いの直接的答えにコミットするならば、前提の問いの答えとなる少なくとも1つの命題がコミット可能である(柔軟な有用性)。

これは、p24の(C4)(柔軟な認知的有用性)と表現が異なるだけで、骨子は同じです。表現を変えたのは、(C4)を理論的問答推論だけでなく、実践的問答推論にも拡張するためでした。

 つまり、Q2が真なる/適切なる答えをもつことにコミットし、またΓに属するすべての平叙文にコミットするとき、Q1の答えにコミットするならば、Q2の答えとなる一つにコミットすることが可能になる(つまり、Q1の答えを得るならば、Q2に答えるのに役立つ)、ということです。

④は、③の前提の問いQ2が明示的に語られず潜在的なものになっているケースです。つまり、その潜在的な問いに答えるために、結論の問いQを立てる、と言う関係にあります。

実際には、このような二重問答関係において、Q2に答えるためにQ1を立てる、というとき、Q1の答えが得られても、それがQ2に答えるために、役立たないということがありえます。しかし、そのようなケースを③に含めようとすると、論理的な関係が緩くなりすぎるということ、また論理的な関係を緩めた条件を明示することが難しこと、のために条件(Civ)としました。

 念のためにここで注意しておきたいのは、ヴィシニェフスキが科学方法論のための探究の論理として「問いの推論」を考察しているのに対して、私が目指しているのは、探求の論理ではなくて、あくまでも疑問文(問い)と平叙文(命題)の推論関係を明示化するということであり、それは科学研究の文脈を離れても妥当する論理法則の明示化ということです。

41 第1章を振り返る(問答推論の定式化について)(20211116)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

『問答の言語哲学」の「合評会」に備えて、各章を振り返っておきたいと思います。

「第1章 問答関係と命題の意味――問答推論的意味論へ向けて」の1.1では、推論が問いを前提することを指摘し、推論が前提する問いを明示化すれば、問答推論となることを説明しました。結論として、この問答推論は次の4つの形に分類できるでしょう(参照『問答の言語哲学』p. 33ff)。

①完了型(Q,Γ┣p):問いと平叙文が前提となり、平叙文が結論となる推論である。

②暗黙的完了型(Γ┣ p):①の前提の問いが暗黙的である派生形である。平叙文が前提となり、平叙文が結論となる推論(平叙文だけからなる通常の推論)である。

③未完了型(Q2, Γ┣ Q1):問いと平叙文が前提となり、問いが結論となる推論である。

④暗黙的未完了型(Γ┣ Q):③の前提の問いが暗黙的である派生形である。平叙文が前提となり、問いが結論となる推論である。

これらの推論が妥当であるための条件は、条件は次の4つです。

(Ci)前提にコミットするならば、常に結論にコミットすること。(前提や結論が平叙文であれば、それにコミットするとは、もしそれが真理値を持つ文ならば、真であることにコミットする。もしそれが真理値を持たない文ならば、その適切性にコミットすることである。前提や結論に問いが含まれるならば、その問いにコミットするとは、問いが健全であること、言い換えると、問いが真なる答えないし適切な答えをもつことにコミットすることである。)

(Cii) ①完了型(Q,Γ┣p)の場合には、結論が前提の問いの答えとなっていること。

(Ciii) ④暗黙的未完了型(Γ┣ Q)の場合には、どの前提も、そのままでは、結論となる問いの直接的答えとならないこと(情報付与性)。

(Civ) ③未完了型(Q2, Γ┣ Q1)の場合には、すべての平叙文前提にコミットし、かつ結論となる問いの直接的答えにコミットするならば、前提の問いの答えとなる少なくとも1つの命題がコミット可能である(柔軟な有用性)。

問答推論のすべての形に妥当する条件は、(Ci)のみです。 ①完了型(Q,Γ┣p)の妥当性は、この(Ci)と(Cii)によって説明され、③未完了型(Q2, Γ┣ Q1)の妥当性は、(Ci)と(Civ)によって説明され、④暗黙的未完了型(Γ┣ Q)の妥当性は、(Ci)と(Ciii)によって説明されます。

②暗黙的完了型(Γ┣ p)は、問いを含まない通常の推論ですので、その妥当性は、(Ci)だけで説明されます。

ここで説明が不足していたのは、③と④の問答推論における結論のQないしQ1の位置づけです。

これを次回に考察します。

40 『問答の言語哲学』合評会のご案内 (20211112)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

『問答の言語哲学』の合評会を開いていただけることになりました。

http://www.let.osaka-u.ac.jp/philosophy/event.html に以下の案内があります。

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2021年度 ユネスコ制定「世界哲学の日」記念イベント:入江幸男『問答の言語哲学』合評会

本研究室では、ユネスコ制定「世界哲学の日」に合わせまして、この時期に記念イベントを行うことが恒例となっております。
今年度は、哲学哲学史専門分野/哲学・思想文化学専修の教員を長く務められた入江幸男さんのご著書『問答の言語哲学』(勁草書房、2020年)を取り上げ、オンライン合評会を行いたいと思います。
どなたでもご参加になれます。参加をご希望される場合や、ご不明な点がある場合などは、下記のお問い合わせ先までご連絡ください。

入江さんはかねてより、問答という観点から独自の哲学を展開されてきました。
特に、従来の言語分析哲学に対しては「あらゆる平叙文は問いへの答えであり、文や発話の意味は、それがいかなる問いへの答えなのかという観点から考えられるべきだ」と一貫して主張されています。
昨年公刊された『問答の言語哲学』は、それをブランダムの推論主義や日常言語学派などに言及しつつ詳論したものです。

入江幸男ブログ(同書の内容が説明されています)
https://irieyukio.net/blog/2020/10/30/

本イベントでは、ブランダムにお詳しく入江ゼミ出身者でもある朱喜哲さん、また日常言語学派にお詳しく入江ゼミの最終年度にも参加されていた三木那由他さんのお二人にご登壇いただき、同書の内容を掘り下げていきたいと思います。
みなさまのご参加を、心よりお待ちしております。

以下、イベントの詳細です。

日時:11月23日(火/祝)14:00-16:00
場所:Zoom(URLはメールにてお問い合わせください)*後日、録画を研究室のYoutubeチャンネルにアップロード予定

著者:入江幸男(大阪大学名誉教授)
質問者(1):朱喜哲(大阪大学招へい教員)
質問者(2):三木那由他(哲学哲学史専門分野講師)
司会:嘉目道人(哲学哲学史専門分野准教授)

*プログラム*
14:00 – 14:20(20分)著者による内容の要約と補足説明など
14:20 – 14:35(15分)質問(1)
14:35 – 14:50(15分)応答(1)
14:50 – 15:00(10分)休憩
15:00 – 15:15(15分)質問(2)
15:15 – 15:30(15分)応答(2)
15:30 – 16:00(30分)全体ディスカッション

お問い合わせ先:yoshime[at]let.osaka-u.ac.jp *[at]は半角アットマークに変更してください。

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ご参加をお待ちしております。

よろしくお願いします。

55 これまでの振り返りと今後の予定(20211108)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

42回と43回に、それまでの議論の振り返りをおこない、次の3つのテーマに取り組むことを予告しました。

 「論理学と自然科学の区別」

 「現象の領域と理論の領域の区別」

 「論理的語彙による事実の明示化」

 その後、第二の区別の考察から始めました。そして、「説明とは何か」「法則による説明とは何か」「法則とは何か」などについて考えてきましたが、確たる結論には至っていません。ただその考察の過程で、第一の区別と第二の区別については、少し進展がありました。

 第一と第三の区別については、現在次のように考えています。L+M+Pとして自然科学を捉えること、未分化なL+M+Pから抽象によって、論理的語彙や数学の語彙がそれら公理が得られることがわかりました。これよって、「論理学と自然科学の区別」がどのように行われるのかを説明できます。また「論理的語彙による事実の明示化」については、発生的には、事実の記述から論理的語彙の使用の明示化が行われることがわかりました。ただしこれはアプローチの方向を示しているだけであり、L+M+PからLの抽象化が具体的にどのように行われるのかを示す必要があります。

 他方、第二の区別「現象の領域と理論の領域の区別」あるいは「観察語と理論語の区別」あるいは「経験法則と理論法則の区別」については、いまだ曖昧なままです。観察語と理論語の区別については、カルナップ自身がいうように明確に線引できないようです。経験法則と理論法則については、「単なる全称命題」と「法則」として区別しようとしましたが、科学理論の最上位の法則である公理もまた、アインシュタイが言うように、規約と帰納に依存しており、「単なる全称命題」と「法則」の区別が難しいことがわかりました(ヘンペルが提起した「法則をどう定義するか」という問題は、未だに解決できていないし、解決可能であるかどうかもわからない、ということです)。

  じつは私は今は、「現象の領域と理論の領域の区別」について、もう少し違った区別立てが必要なのではないか、という疑念を感じています。そこで次に、これを確認するために、ローダンの『科学は合理的に進歩する』の内容紹介と検討をしたいとおもいます。(ちなみに、私は、ローダンの議論にそうしかたで、「現象の領域と理論の領域の区別」を再設定しようとしているのではありません。ローダンの議論を、新しい区別の提案の手がかりにしたいと考えているだけです。)

 (ただし他の用件との関係から、しばらくカテゴリー「『問答の言語哲学』をめぐって」に移って、発信し、その後このカテゴリーに戻ってきたいと思います。)

54 論理体系の選択について(20211107)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

 形式論理学だけならば、現実には無関係なので、どのような体系を選択してもよいし、複数の互いに矛盾する体系を考えても、そのこと自体に問題はないでしょう。

 論理体系の選択が必要になるのは、現実の科学理論の公理系と結合するときです。互いに矛盾する論理体系をともに科学理論と結合することはできません。そこで論理体系を選択する事が必要になります。ポアンカレが、どのような幾何学を選択しても、選択した幾何学に応じて、科学理論を変更すれば、観察データに一致させることができると考えたのとどうように、どのような論理体系を選択しても、それに応じて数学と科学理論を変更すれば、観察データと一致させることができるかもしれません。

 自然の記述は、当初は未分化なままにL+M+Pを含んでおり、それからLやMやPを分けて抽象して行くことによって、長い歴史をかけて、公理的な論理学、数学、物理学を構成してきたのだといえるでしょう。物理学だけでなく、数学も論理学も、今後も変化する可能性があります。

 では、当初の素朴な自然の記述から、どのようにしてLやMが抽象されるのでしょうか? ここから問うべきことはたくさんあるのですが、話が錯綜してきていますので、次回は、一旦これまでの話を振り返って、整理したいと思います。

53 二つの数学と二つの論理学(20211106)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

#二つの数学

前回述べたように、アインシュタインとカルナップは、公理的幾何学と実用幾何学を区別しています。カルナップは、(幾何学を除く)数学については、公理的数学しか認めていないだろうとおもいます。しかし、アインシュタインは、数学についても公理的数学と実用的数学の区別を認めています。

 この二つの数学は次のように区別可能でしょう。公理的数学は、論理学の公理の集合をLとし、数学の公理の集合をMとするとき、L+Mの公理からなる公理体系であり、それらの語彙はヒルベルトのいう無定義術語ですが、その使用法は、その公理によって与えられています。物理学の公理の集合をPとするとき、物理学の理論は、L+M+Pの公理をからなる公理体系であり、その中での実用的数学の語彙の使用法は、L+M+Pの公理によって与えられています。

 L+Mでの数学の語彙は、実在に関わりませんが、L+M+Pでの数学的語彙は、実在に関わっています。たしかに、L+Mでの数学の定理は、L+M+Pのなかでも変化しません。その定理は増えもしないし減りもしません。しかし、Pの中にも数学的語彙が使用されているために、数学的語彙は実在に関わっているのです。L+Mで実在と関係しない数学的概念や数式が、L+M+Pでは、実在に関わり、数式は、実在について妥当するように見えます。これはどうしてでしょうか。

 数を数えるという行為は、特定の対象、例えばリンゴを数えなくても可能です。しかし、リンゴを数えるという行為は、数を数えるという行為なしには不可能です。リンゴを数えるという行為は、数を数えるという行為をいわば「内包」しているように見えます。それは、日常のものを数える行為から、数を数える行為が抽象されたためでしょう。これは、土地を測量する行為から、幾何学が抽象されたのと同様です。つまり、私たちがL+Mを獲得したあとに、Pを加えて、L+M+Pを獲得したのではなく、(当初は未分化の)L+M+Pから抽象によって、L+Mを獲得したのだと考えることによって、L+Mの数学概念や数式が、L+M+Pで、実在に関わり妥当するのかを説明できます。

  発生的には Q1「リンゴ5個に7個を足せばいくつになりますか?」のような問いがまず生じ、そのような個数を問う多くの問答をかさねるなかで、Q2「5+7はいくつですか?」というような抽象化された問いが成立したのではないでしょうか。

 これと同じことが論理学にも言えるでしょう。

#二つの論理学

二つの幾何学や二つの数学の区別と同様の区別が、論理学についても言えるでしょう。つまり、公理や推論規則を規約して、それらの意味論的規則によって真となる命題の体系、および妥当となる推論の体系を「公理的論理学」あるいは「純粋な形式論理学」とよび、他方で、現実の世界(自然や社会)で成り立っている論理的な関係の体系を「実用論理学」あるいは「実質論理学」として区別できるように思えます。

 論理体系の公理の集合をLとし、数学の公理の集合をMとし、物理学の公理の集合をPとするとき、純粋な形式論理学の語彙の意味(使用法)は、Lによって与えられており、実質論理学の論理的語彙の意味(使用法)は、L+M+Pによって与えられています。

 形式論理が現実世界で成り立つことは、幾何学や数論の場合と同様に、次のように説明できるでしょう。まずは日常生活での推論があり、その中での論理的語彙の使用があります(これブランダムが「実質推論」と読んだものに当たります)。形式論理は、現実世界(日常生活や科学)で成立しているこのような論理的な関係から抽象して作られたものであるから、現実世界で成立するのです。

  ところで、論理体系には様々なものがあり、互いに両立しないものもあります。しかし私達は科学理論を考えるときにL+M+Pの中のLとして、ある特定の論理体系の公理の集合を選択しています。この選択がどのように行われるのかを、次に考えたいと思います。

52 宇宙はユークリッド空間か非ユークリッド空間か?(20211105)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

 ポワンカレは、『科学と仮説』で<ユークリッド空間を維持しながら、理論の方を複雑化することによって、現象を説明する>という可能性と、<非ユークリッド空間を採用して、理論を簡単にする>という可能性の二つの可能性があることを主張しました。

(参照、カルナップ『自然科学の哲学的基礎』「第15章 ポアンカレ対アインシュタイン」。私はポアンカレの『科学と仮説』(岩波文庫訳)を持っているはずなのですが、今見つからないので、ここでの話はカルナップのポワンカレ論に基づいています。)

 アインシュタインもまたポワンカレの二つの可能性の指摘を認めます。

「幾何学Gは実在の物の関係に就いて何も云うものでなく、唯之と物理学的法則の総概念Pと一緒になって初めてそれを云いあらわすのです。記号的に之を述べればG+Pなる和のみが経験の支配に対応するのです。つまりGは勝手に選ぶことができるので、またPの部分もやはりそうなのであって、これらはみな規約なのです。ただ矛盾がおこらないためにはGと全体のPとが一緒になって経験にかなう様にPの残りを選ぶ必要があるだけです。…私の考えではポアンカレの斯ような見解は本来正しいと思われます。」(アインシュタイン「幾何学と経験」石原純訳、4)

しかし、アインシュタインは、<非ユークリッド空間を作用して、理論を単純なものにすること>を選択します。その理由は、ユークリッド空間を維持したまま、理論を複雑化することによって、現象を説明しようとするとき、理論の複雑化の負担が大きすぎると考えたからです。カルナップもまたアインシュタインのこの方針に賛成しています。観察データと一致する<幾何学+理論>には、複数の可能性があってその選択は、全体としてより単純な方を選択するということが行われています。相対性理論についてのこのような理解によれば、相対性理論の正しさは、帰納に基づいていることになります。

「数学の定理が実在に関するならそれは確実のものではありません。またそれが確実であるなら実在に関係しはしません。」(アインシュタイン「幾何学と経験」石原純訳、p.1)

「それ(実用幾何学)の叙述は本質的に経験からの帰納に依存するのであって決して単に論理的の帰結に依るものではありません。」(同訳3)

  

アインシュタインによれば、公理的幾何学(数学的幾何学)は、確実なものであるが、実在には関係せず、実用幾何学(物理的幾何学)は、実在に関係するが、確実なものではなく帰納に基づくものなのです。したがって、一般相対性理論もまた確実なものではなく、帰納にもとづくものであることになります。したがって、科学理論の公理は、帰納に基づくことになります。

 科学理論の公理が、帰納に基づいているとすれば、それは単に現象を記述している全称命題ではなく、それ以上の<必然性>を帰納にもとづいて主張しているといえますが、しかしその<必然性>は演繹されたものではありません。自然科学の法則は、またその法則による説明は、究極的には帰納によって想定されるもの以上のものではないのです。

アインシュタインは、公理幾何学と実用幾何学の区別と同様の区別が、数学全体に関してもなりたつと考えています。上の引用がそのしょうことなります。それを再度引用しましょう。

「数学の定理が実在に関するならそれは確実のものではありません。またそれが確実であるなら実在に関係しはしません。」(アインシュタイン「幾何学と経験」石原純訳、p.1)

したがって、アインシュタインは、公理的数学と実用数学という二種類の数学を区別していたといえるでしょう。

 このことは『論考』のウィトゲンシュタインやカルナップが、論理学と数学を共に、実在には関係しないものと考えていたことは異なります。私は、アインシュタインと同様に、幾何学について公理的幾何学と実用幾何学を分けるのならば、数学についてもこの区別が可能だと考えます。

 ただし、アインシュタインが論理学についてもこの区別が可能と考えていたかどうかは、よくわかりません。次回は、数学と同様に、論理学についても、(実在に関わらない)公理的論理学と(実在に関わる)実用論理学を区別できるのかどうかを、検討したいとおもいます。