119 再説:特定科学の公理体系は、観察文とどう関係するのか (Restatement: How does the axiom system of a specific science relate to observation statements?) (20240520)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

前々回に次のように書きました。

<私たちは、理論文にもとづいて、観察文(初期条件)から観察文(結果)を予測する。その予測された観察文を、現実の観察文でチェックする。このチェックに基づいて、理論文を維持したり修正したりする。これを繰り返すことによって、安定した理論文を得て、最終的にそれを公理系にまとめる。>

この説明を変える必要はないのですが、カルナップの『物理学の哲学的基礎』に依拠して、特定科学の公理体系と観察文の関係をもう少し詳しく考えたいと思います。

*「観察可能なもの」と「観察不可能なもの」の区別

 カルナップは「観察可能なもの」と「観察不可能なもの」の区別は、哲学者と科学者によって異なると指摘します。哲学者は、例えば、摂氏80度の温度とか、93.5ボンドの重さを観察可能なものとは考えません。なぜなら、それらは直接的に知覚できないからです。直接的に知覚できるのは、水銀柱が80のメモリを指していること、秤の針が93.5を指していることなどです。これに対して、科学者は、簡単な手続きで測定できるこれらの量を観察可能なものと考えます。

 「観察可能なもの」と「観察不可能なもの」の区別は哲学者と科学者にとってこのように異なるのですが、しかし、どちらにとっても、この区別は明確に線引きできるものではなく、暫定的なものです。カルナップは、「この連続体を区分するどんな鮮明な線も引くことはできない」(カルナップ『物理学の哲学的基礎』(沢田充茂、中山浩二郎、持丸悦郎訳、岩波書店、1968、p. 232)と言います。彼によれば、哲学者にとっても科学者にとっても「観察可能なものと観察不可能なものとを区別する線は、高度に恣意的である」(同所)。

 この区別に基づいて、カルナップは「経験法則」と「理論法則」の区別を次のように導入します。

*「経験法則」と「理論法則」の区別

「経験法則は感覚によって直接的に観察可能であるか、あるいは比較的簡単なやり方で測定しうるか、そのいずれかの用語を含む法則である。」これは、「観察や測定によって見いだされた結果を一般化して獲得されたもの」(同所)です。例えば、「全てのカラスは黒い」「気体の圧力、体積および温度を関係づける法則」「電位差、抵抗および電流の強さを関連付けるオームの法則」などです。これらの経験法則は、「観察された事実を説明したり、未来の観察可能な事象を予測したりするのに使われる」(同所)ものです。

 これに対して、「理論法則」は、観察不可能なもの、「分子、原子、電子、陽子、電磁場や、そのほかの簡単かつ直接的方法では測定できないような諸存在者」(同訳、233)についての法則です。

「経験法則は観察された事実を説明し、また[観察可能であるが、まだ]観察されていない事実を予測するのに役立つ。同じようなかたちで、理論法則は、すでに定式化された経験法則を説明し、新しい経験法則の導出を可能にするのに役立つ」235

「経験法則は個々の事実を観察することで正当化できる。しかし、理論法則を正当化するには、それと対比できるような観察はすることができない。なぜなら、理論法則で言われている諸存在は、観察不可能なものだからである。」235

#反証主義あるいは予測誤差最小化メカニズム((the prediction error minimization mechanism))

理論法則は、「事実の一般化」ではなく、「仮説」である。理論法則から導出された経験法則の験証が、「理論法則の間接的な験証をあたえる」(同訳237)。つまり、理論法則は、経験法則によってテストされます。また経験法則も観察報告によってテストされます。これは、単称命題から全称命題を導出できないということ、また、観察報告には全称量化表現が含まれていないということのためです。

このような反証主義は、カテゴリー「人はなぜ問うのか」の49回~62回で論じた、ヤコブ・ホーヴィ(Hohwy)著『予測する心』(原著2013)(佐藤亮司監訳、太田陽、次田瞬、林禅之、三品由紀子訳、勁草書房,2021)の「予測誤差最小化メカニズム」に似ています。ポパーの反証主義は、この予測誤差さ最小化メカニズムの一部として理解できるだろうと思います。つまり、予測誤差最小化メカニズムが、理論法則と経験法則の間、経験法則と知覚報告の間、知覚報告と知覚の間、知覚と感覚刺激の間、などに働いていると考えることができます。 ところで、理論法則と経験法則をこのように関係づけるためには、「対応規則」によって理論語と観察語を結びつける必要があります。これについて次に論じたいと思います。語の意味についてのこの議論は、パラダイム論に関わってきます。

118 誤り発見 (finding a mistake) (20240514)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

*誤り発見

これまでの議論では、ゲーデルの不完全性定理を考慮することを忘れていました。

<論理学や公理系を持つ特定科学では、公理系によって、用語の意味を完全に規定できる>とこれまで述べてきました。しかし、完全性が証明されている命題論理と一階述語論理については、これが成りたちますが、これより複雑な公理系については、これは成り立ちません。なぜなら、ゲーデルの不完全性定理によって、真であるけれども定理とならならい文(式)があり、その文(式)の使用法は、公理系では決定されていない、ということが証明されたからです。このゲーデルの不完全性定理を考慮するとき、論理学と数学と(公理化可能な)特定科学についてのこれまでの議論を修正する必要があります。ただし、これについての考察は、手短に済ますことができないので、現在の進行中の話を区切りの良いところまで進めてから、不完全性定理の考慮に戻りたいと思います。  区切りの良いところとは、特定科学の公理系の話、公理化できない科学の文の意味と真理性の話、日常言語の意味と真理性の話、を問答推論の観点から検討して、それを真理の定義依拠説と関係づけて、原子論的意味論ではない仕方で、真理の定義依拠説を擁護することです。

117 特定科学の公理系について(About the axiom system of specific sciences)(20240427)

 幾何学については、無定義術語を導入して、公理系によってその意味を与えることができます。幾何学と同様に、数学の他の分野についても、無定義術語を導入して、公理系によってその意味を与えることができるでしょう。

 では、物理学についてはどうでしょうか。

 論理学と数学の公理系に特定科学の公理を加えて、推論規則には、論理学の推論規則だけを使用するとき、特定科学の理論の公理系を作ることができます。特定科学のこの公理系は、複数の仕方で構成できます。

 構成方法1:推論規則の中に特定科学の用語を使用しなければならないものがあるならば、その推論規則の前提と結論から「前提⊃結論」という条件文を作り、これを特定科学特有の公理とすることができます。この場合、推論規則としては論理学の推論規則で充分です。

 構成方法2:特定科学の用語を含む公理をすべて、推論規則に書き換えることもできます。この場合、公理としては、論理学の公理だけになります。さらにもし論理学も自然推論系にすれば、公理0個で、推論規則だけからなる特定科学の自然推論系を作ることができます。

 この特定科学の公理系について、次のような原子論的説明と関係主義的説明が可能です。

#特定科学の公理系の原子論的説明

 要素主義的にまず用語の意味を定義し、それに基づいて公理と推論規則を正当化し、それらに基づいて他の命題を定理として証明します。

 この場合、用語の定義は、公理や推論規則を正当化することに尽きています。その特定科学の内部で語られるすべてのことは公理と推論規則から導出されるはずです。そうだとすれば、その用語で語られるすべてのことも公理と推論規則から導出されるはずです。したがって、用語の意味から、公理と推論規則では語れないことを語ることできません。用語の意味は公理と推論規則を正当化することに尽きているはずです。

#特定科学の公理系の関係主義的説明

 他方で、特定科学の用語の使用法(意味)は、公理で完全に記述され、規定されていると見ることができます。この場合には、原子論的に、用語の意味を定義して、それによって公理を正当化する必要はありません。逆に非原子論的(関係主義的)に、公理が用語の意味の記述の全てです。公理系によって、用語の文脈的定義が与えられていると言うこともできます。

#特定科学の公理体系は観察文とどう関係するのか。

 ①<特定科学の公理体系によって、その用語(理論語)の使用法(意味)を完全に記述することができる>。しかし他方では、②<特定科学の理論語の使用法は、観察語をもちいた観察文と関係しなければならない>。さもなければ、それは観察可能な事実と関係を持ちえないからです。理論文と観察文は、両立可能でなければなりませんが、他方では矛盾することも可能でなければなりません。もし矛盾することが不可能ならば、理論は観察と無関係であることになるからです。<理論文と観察文が矛盾しえるためには、理論文から観察文を導出し、その観察文が、現実の観察文と矛盾することが可能であることが必要です>。

この①と②がともに成り立つことは次のようにして可能です。

特定科学の公理系のなかでは、理論語を含む真なる理論文は、ほぼすべて公理系で証明可能です(「ほぼすべて」という限定がつくのは、ゲーデルの不完全性定理が成り立つので、真であってもその公理系で証明不可能な式があるからです)。この公理系の中には、観察語やそれを含む観察文は、登場しません。しかし、私たちは理論文から観察文を導出することができます。これは、全称文からの単称文の導出として行われます。ただし、単称文から全称文を導出することはできないので、観察文から理論文を導出することはできません。

 <私たちは、理論文にもとづいて、観察文(初期条件)から観察文(結果)を予測する。その予測された観察文を、現実の観察文でチェックする。このチェックに基づいて、理論文を維持したり修正したりする。これを繰り返すことによって、安定した理論文を得て、最終的にそれを公理系にまとめる。>

このようにして①と②が共に成り立ちます。 ①と②が共に成り立つことを説明するとき、特定科学の公理系の原子論的説明よりも関係主義的説明の方が有効だろうと考えますので、次に、それを明確にしたいと思います。

116 論理学の公理と推論規則は、問答関係に依拠して設定できる (Axioms and rules of inference in logic can be established based on question-answer relationships.)(20240421)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

すでに111回「問答関係にもとづいて推論規則を正当化する」で説明したことなのですが、問答関係は、暗黙的な仕方で論理学の公理や推論規則をすでに含んでいます。したがって、論理学の公理と推論規則は、問答関係に依拠して設定できるのです。以下は、111回の記述と重複しますが、もう一度説明します。

 「pですか」という決定疑問の問いは、答えとして、「はい、pです」「いいえ、pではありません」のいずれかを想定しています。そして、その両方であることはないこと、またその両方でないことこともないこと、を想定しています。つまり、「pですか」という形式の決定疑問は、「pであるかpでないかのいずれかである」(p∨¬p)という排中律、「pでありかつpでない、ということはない」(¬(p∧¬p))という矛盾律をすでに想定していると言えます。また「問いのなかの「p」と答えの中の「p」が同一であること」(p≡p)という同一律もまた想定しています。

 「Sは何ですか」という補足疑問の問いは、もし答えが「SはFです」であるならば、答えは「SはFでない」ではないこと、「「SはFである」かつ「SはFでない」ということはない」(矛盾律)また「「SはFである」あるいは「SはFでない」のいずれかである」(排中律)を想定しています。また「問いの中の「S」と答の中の「S」が同一の対象を指示すること、つまり「SはSである」(同一律)を想定しています。

 

では、推論規則MPについてはどうでしょうか。111回でのこれについて説明は、全く不十分だったので、ここでは、別の仕方で論じたいと思います。注目したいのは「どうしたら」や「なぜ」の問答です。

 実践的推論は次のような形をとることが多いです。

  「どうしたら血圧がさがるだろうか」

  「塩分を控えるならば、血圧が下がる」

  「塩分を控えよう」

より一般化すれば次のようになります。

  「どうしたらAを実現できるだろうか」

  「Bならば、Aを実現できる」 

  「Bしよう」

・理論的な問答でも、疑問詞「どうしたら」や「なぜ」を用いる問答では、次のような形をとります。

  「なぜ道路が濡れているのか」

  「雨が降ったら、道路が濡れる」

  「雨が降ったからだろう」

より一般化すれば次のようになります。

  「なぜpなのか」

  「rならば、pである」

  「rであるから、pである」

このように、「どうしたら」や「なぜ」の問いは、p、p⊃r┣rという推論形式で答えることになることを想定しており、MPを内包していると言えます。

#では、問答関係と推論規則はどちらが先行するのでしょうか。

<問答関係が、暗黙的に公理や推論規則(同一律、矛盾律、MP)を前提している>のでしょうか、それとも<問答関係によって、公理や推論規則の妥当性(正しい使用法)が成立する>のでしょうか。

・もし推論規則を前提して、それにもとづいて問答関係を説明するのならば、その場合、問答関係の説明は原子論的なものになります。

・もし問答関係を前提して、そこから推論規則を説明するのならば、その場合、問答関係の説明は非原子論的(関係主義的)なものになります。

この前者、原子論的な説明順序では、推論は問答関係なしに成立することになりますが、しかしそれは不可能です。なぜなら、所与の前提から論理的に帰結する結論は複数ありえるので、それから一つを選択しなければ、現実の推論は成立しないのです。そしてその選択は、問いに対する答えを見つけることとして行われると考えることができるから、推論はむしろ問答関係に依存するのです。

したがって、後者の非原子論的(関係主義的)理解が正しいでしょう。つまり、<問答関係によって、公理や推論規則の妥当性(正しい使用法)が成立する>のです。

さて、論理的真理について定義依拠説をとるとしても、一見すると原子論的に見えるかもしれませんが、論理学の公理系についてのこのような問答関係主義的説明と両立すると考えます。

次に特定科学の公理系、また日常生活の推論の考察に向かいたいと思います。

115 形式推論と実質推論の区別(distinction between formal and material inferences) (20240415)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

「実質推論」という語が最初につかわれたのは、おそらくセラーズの論文「推論と意味」(1953)だろうと思います。ブランダムが「実質推論」について語るとき、依拠しているのはセラーズのこの論文です。ただし、セラーズはこの論文で推論を「形式推論」と「実質推論」に区別して、二種類の推理があることを認めているのですが、ブランダムは、この二つを区別するものの、厳密にいえば「形式推論」も「実質推論」であると考えています。これがセラーズとブランダムの異なるところです。ここでは、セラーズやブランダムの議論に学びながらも、現在のところ私が、「形式推論」と「実質推論」の区別をどのように設定しようとしているのかを説明します(その結果として、語や文の意味を実質推論によって与えられるものとして考える問答推論的意味論が、真理の定義依拠説と両立することを示したいと思います。)

まずヒルベルトが『幾何学基礎論』でしようとしたことの説明から始めたいと思います。ヒルベルトは、『幾何学基礎論』で、幾何学の公理系を提示しましたが、そのとき、幾何学的語(点、直線、平面、など)を定義せず無定義術語として導入しました。それらの語の意味(使用法)は、公理によって示されます。公理に示されていない意味(使用法)を持つことはありません(もしそのようなことがあれば、公理やその定理によって記述できない、幾何学的命題があることになるでしょう。もちろん、そのようなものはありません。推論的意味論は、この無定義術語の導入に始まると言えそうです)。

 幾何学の定理はその公理から論理学によって導出されますが、論理学についても、論理的語彙を、無定義術語として導入し、その使用法を公理によって記述し、論理学の定理は、公理から推論規則によって導出することができます。そうすると、論理的語彙についてもその意味を、公理と推論規則によって与えることができます(ヒルベルト自身が論理学についてどう考えていたかについては、彼とアッカーマンの共著『記号論理学の基礎』を確認する必要がありますが、今手もとにないので後日)。

#原子論的意味論での「形式的推論」と非原子論的意味論での「実質的推論」

まず、<語は文の中で使用され、文の意味(使用法)はそれを結論とする上流問答推論とそれを前提とする下流問答推論によって与えられる>と考えます(これが推論的意味論です)。この場合、推論の理解は、語や文の理解を前提することができません。このように理解される推論を、「実質推論」と呼びます。それに対して、原子論的意味論の立場で、語の理解から文の理解が構成され、文の理解から推論の理解が構成されると考えるとき、これを「形式推論」と呼ぶことができます。

 これを「形式推論」と呼ぶのは、カルナップに従ってものです。カルナップは「言語の論理的構文論」を構想しましたが、そこで彼は、「意義や意味にどんな言及もしないような言語的表現に関する考察や立言を「形式的」とよぶ」(カルナップ『論理的構文論:哲学する方法』(吉田謙二訳、晃洋書房、34))のです。

 通常の論理学の教科書では、原子論的意味論の立場から、推論についての形式的に説明します。まず、命題記号や論理結合子を定義によって導入し、論理結合子の意味を真理表によって示します。次に公理を提示しますが、その公理が真であることは、論理結合子の意味にもとづくとされます。つまり、真理表を用いて公理が恒真式であることを示します。次に推論規則、分離則(MP)を導入し、MPにおいて、前提が真であれば、結論が真となることを真理表によって示します。そうすると、公理と推論規則を用いて証明されるすべての定理は、恒真式であることを証明できます。したがって、その公理体系は無矛盾です。

 しかし、推論的意味論を採用すると、このような原子論的意味論を取れません。それは非原子論的(分子論的か全体論的)意味論になります。論理学の同一の推論が、原子論的に理解されたときには「形式推論」となり、非原子論的に理解されたときには「実質推論」になると考えます。私は、形式推論と実質推論の区別は、推論の解釈の仕方の違いであり、構文論的には同一の推論であると考えます。  このように論理学もまた実質推論からなると考えるとき、その公理や推論規則の設定はどのように行われ、どのように正当化されるのかを次に説明します。

114 概念が語に付随する (Concepts supervene on words) (20240404)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

「ナイフ」「フォーク」「スプーン」「皿」これらの文字列は、概念<ナイフ><フォーク><スプーン><皿>を付帯しています。これらの文字列は、他の文字列と関係なく、またそれが付帯している概念と関係なく同定可能です。その点で、これらの文字列は原子論的です。他方、これらの概念は、互いの関係の中で一定の内容を持つものになっています。その点で、これらの概念は全体論的であるように見えます。

これは、野球の例がもっとわかりやすいかもしれません。野球しているとき、球場にはピッチャー、キャッチャー、一塁手、などがいます。彼らのその役割は、他の役割との関係の中で一定の内容を持ちます。しかし、彼らは野球が終わった後も存在しています。彼らは個人として、野球のゲームから独立に存在します。しかし、野球するときには、それらの役割として、つまりチーム全体の一員として行動します。役割は、全体論的に存在します。

(意味全体論の用語としてこれで十分でしょうか。意味の原子論を批判するために、これ以上何をいえばよいのかよくわからないので、原子論者の議論を調べてから、再度論じることにします。今言えることは、構文論的原子論と意味論的全体論を区別することによって、意味の全体論の擁護がより説得的なものになるということです。)

真理定義依拠説は、語や文の意味は実質推論によって与えられるとする推論的意味論と矛盾するように見えます。私は、この二つを調停したいのですが、そのために次回から、まずは実質推論とは何か、を確認しておきたいと思ます。

113 意味の原子論はなぜ強固なのか? (Why is the atomic theory of meaning so strong?) (20240331)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

「真理の定義依拠説」を主張したいので、そのために、これが「問答推論的意味論」(発話の意味は、その上流問答推論関係および加入問答推論関係として成立するという主張)と結びついていることを示したいと思います。そのために、セラーズとブランダムが展開した「実質推論」についての議論を問答の観点からとらえ直したいと思います。

「実質推論」とは、それが含む語や文の意味や真理性から妥当なものと見なされる推論(これは通常の推論であり、「形式推論」と呼ばれています)ではなく、その推論によって、それに含まれる語や文の意味が与えられる推論です。

実質推論を認めることは、意味の全体論ととることであり、意味の原子論に反対することになります。しかし、意味の原子論はダイハードであり、私たちは、言語表現の意味についてついつい原子論的に考えてしまう傾向があります。では意味の原子論は、なぜこれほど強固なのでしょうか。それを考えてみたいと思います。

#意味の原子論はなぜ強固なのか? 構文論的原子論

 意味の原子論は、<文字を並べて語を作り、語を並べて文を作り、文を並べて理論を作る>ということに由来します。私たちは、理論を分割して文を作るのではないし、文を分割して語を作るのではないし、語を分割して文字を作るのではありません。同じことは話し言葉でもいえます。音を並べて語の音声を作り、語の音声を並べて文の音声を作り、文の音声を並べて理論の音声を作ります。この逆ではありません。したがって、音や文字についていえば、言語の原子論は正しいのです。これを「構文論的原子論」と呼びたいとおもいます。

 ただし、このことと、言語の「意味論的全体論」とは、両立可能です。この「構文論的原子論」と「意味論的全体論」を明確に区別しないことによって、上記の「構文論的原子論」から、「意味論的原子論」を誤って支持してしまうことになっているのではないでしょうか。

 

私たちは例えば次のように意味の原子論を批判できます。

#意味の原子論への批判

・意味の原子論への批判1:「sunburn」には、sunの意味もburnの意味も含まれていません。「茶色の牛」は危険な牛と言う意味をもつらしいが、「茶色」にも「牛」にも危険という意味はありません。つまり、表現の意味は、要素の意味から合成できない場合があるのです。

・批判2:語の使用は(一語文を含めて)文によって行われる。語の意味は定義文によって行われます。また語の意味の説明は文によって行われます。ゆえに、語の意味は文の意味に依存しているのです。したがって、文の意味は語の意味から構成されるのではありませんし、少なくとも文の意味は語の意味から構成されない場合があるのです。

・批判3:文の意味は、文の使用法に尽くされています。そして文は、問答や推論において使用されます。問答と推論が問答推論として統一的に理解できるのならば、文の意味(使用法)は問答推論関係です。

・批判4:解釈学的循環として指摘されるように、文の意味は、それを含む文章全体に依存します。

それでもなお、意味の原子論は強固に生き続けています。それはなぜでしょうか。それは概念や命題などの言語的な意味は、常に語や文に付帯しているからです。語や文が原子論的ならば、それに付帯する意味もまた原子論的であると考えてしまうのではないでしょうか。

 そこで、語(概念の依り代)と概念(語の意味)の結合関係、文(命題の依り代)と命題(文の意味)の結合関係について、次に考えたいと思います。

112 真理の定義依拠説への予想される批判 (Anticipated criticisms of the definition-dependent theory of truth) (20240320)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

「理論的問いへの答えが真であることは、その問答で用いられる語の定義に依拠する」という主張を「真理の定義依拠説」(the definition-dependent theory of truth)と呼ぶことにします。この主張に対して、どのような批判を予想できます。

<批判1:真理の定義依拠説は、原子論的意味のように見える>

批判の説明:真理の定義依拠説は、観察報告の真理性を説明するために考えたものです。「これは赤い」が真であるとは、「これ」が指示する対象が、「赤い」が表示する性質を持つことであると考えました。。これは、語の意味は、語の指示対象や表示対象であり、語の意味から文の意味が合成される、と考えているように見えます。このような立場は、「原子論的意味論」と呼ばれています。しかし、語が対象を指示したり表示したりすることがいかにして可能であるのかを説明することは困難であるという理由で、これは批判されます。原子論的意味論へのこの批判が、定義依拠説にもあてはまります。

応答:真理の定義依拠説は、語が対象を指示したり表示したりすることを、定義に遡ることによって説明しようとするものです。「これ」が対象を指示するとは、どういうことか。「赤い」が性質を表示するとは、どういうことか。これらの問いに対して、これらの語の学習、さらに定義に遡って答えようとするものです。それらの学習や定義は、問いに対する答えとして成立します。

 ところで、語の意味と文の意味は、どちらも問答によって/おいて成立するので、どちらかが優先するのではありません。それゆえに、語と文の一方を他方に対する基礎とすることはできません。したがって、真理の定義依拠説は、原子論的意味論を採用するものではありません。

 確かに、問いが成立するには、語が必要です。ただし、語の意味が完成している必要はありません。例えば「水とは何か」が「水」の定義を求める問いであるとするとき、この問いは「水」の定義を前提としません。つまり「水」について断片的で暫定的な理解であっても、あるいはそれが何らかの語であると想定しているだけであっても、それについて問うことができます。また他の試行的な使用を行うことができます。語の意味は、それを用いた問答の中で次第に規定されるのです。私たちは、語を使用しながらその意味を学習していきます。

<批判2:定義に遡ることの困難> 

批判の説明:多くの語について、その定義に遡ることは困難です。例えば、「赤い」という日本語がいつどのように使われ始めたのか、つまりどのように定義されたのか、という問いに答えることは困難です。また、多くの語については、それをどのように学習したのかを想起することも難しいかもしれません。例えば、私は「赤い」という語をどのように学習したのかを憶えていません。

応答:ただし、多くの語については、その使用法をどのように教えたらよいのかはわかります。例えば、私は幼児に「赤い」を教えることができるでしょう。私はそれと同じようにして教えられたのだろうと推測できます。それと同じように、ある語を持たない言語共同体に入って、その語を教える、つまりその語の定義を与えることはできるだろうと推測します。例えば、「赤い」にあたる語を持たない共同体に入って、「赤い」を定義してその共同体の語に加えることはできるだろうと推測します。

 もし語の定義やその仕方が不明ならば、語の定義を自分であらたに行えばよいのです。そして、その定義が流通している語の意味と食い違うならば、どちらかを修正して、両者が適合するにすればよいのです。その場合も、理論的な問いの答えの真理性は、(その新しく設定された)定義に依拠することになるでしょう。

<批判3:明示的定義ではなく、文脈的定義や還元文による定義が行われる時、真理の正当化は、どのように定義に依拠するのか曖昧である>

応答:理論的問いやその答えの中の語が、例えば「水溶性」のように還元文によって定義されるのだとしましょう。このとき、「水溶性」の使い方を、この定義から正当化できるならば、その答えの真理性は、定義に依拠すると言えます。

<批判4:真理のデフレ主義からの批判>

批判の説明:真理のデフレ主義とは、真理を命題の性質(事実との対応や、他の真理との整合性、など)と考えません。「…真である」の意味は、「p≡「p」は真である」という同値原理に尽きているというのが真理のミニマリズム(デフレ主義の一種)の主張です。デフレ主義の中には、真理述語には、引用符解除機能、文代用機能があるが、それを除けば余剰である、という立場もあります。

 これに対して、真理の定義依拠説は、問いの答えが真であるのは、そこに使用される語の定義と一致することだと考えるので、整合説の一種(真理のインフレ主義の一種)だと言えそうです。しかし、整合説に対しては、整合性だけでは真とするには不十分であるという批判があります。なぜなら、ある真なる命題の集合(たとえば観察報告の集合)と整合的な命題の体系(理論)は、複数ありうるからです。

応答:確かに、問いに対する答えは、それが定義に依拠するというだけでは、一意的に決定しない可能性があります。そうすると、定義に依拠する原初命題から理論を構成する仕方の正当化が必要になります。原初命題から理論を構成するのは、原初命題から、理論を仮定して、それを別の原初命題でチェックすることです。このとき、複数の理論を仮定することが可能です。ところで、理論もまた相関質問を持ちます。そして理論の相関質問のより上位の目的の実現に役立つ理論が、適切な理論として選択されることになります。

 ところで、理論を構成するには理論的語彙の定義が必要です。なぜなら、理論を観察報告に還元できないということは、理論的語彙を観察語彙に還元できないということだからです。理論の選択と理論的語彙の定義は宣言によって行われ、宣言は問いに対する答えとして成立するでしょう。

まとめると次のようになります。<理論的問いに対する答えの真理性は、定義との整合性に依拠する。ただし、それだけで真理値が決定するとは限らない。他の観察報告との整合性、理論との整合性、にも依拠する場合がある。他の観察報告の真理性は、それに用いられる他の観察語の定義に依拠し、理論の真理性は、それに用いられる理論語の定義に依拠する。もし答えの候補がまだ複数あるならば、これらの定義宣言の相関質問のより上位の問いに答えるのに役立つこと、つまり答えの適切性によって、複数の答えの候補をさらに絞り込むことができる。>

 このように考えるとき、理論的な問いの答えの真理性は、これらの定義との整合に依拠するという意味で、「真理の整合説」を主張してもよいかもしれません。ただし、これは、整合性だけで答えを一つに決定することができるという主張ではなく、定義との整合性によって、答えの候補を制限できるという主張です。(以上の応答がしめすように、私は今のところ、真理のデフレ主義に対して少し否定的です。)

111 問答関係に基づいて推論規則を正当化する(Justifying inference rules based on question-answer relations)(20240309)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

私たちは、論理的語彙の定義に依拠して、推論や推論規則を正当化することができます。論理結合子(¬、∨、∧、→)の意味を真理表で定義して、それによって、推論規則が恒真であることを証明できます。また、これらの導入規則と除去規則を定義して、それによって、推論規則を導出することもできます。通常はこのようにして推論規則の正当化がおこわわれているので、それを、推論の妥当性の定義依拠説と呼ぶこともできるでしょう。

 この場合の問題は、論理的語彙の使用法のこの定義の適切性です。導入規則と除去規則を定義して論理体系を作るときに問題になるのは、Priorが指摘したように、その定義の恣意性を制約しなければ、役に立たない体系になってしまうのです。そこでN.Bernapが提案したように、論理的語彙の導入規則と除去規則は、保存拡大性をみたす必要があります(これについては、これまで講義ノートや『問答の言語哲学』で何度か説明してきました)。ただしこれ以外の制約はなく、保存拡大性を充たせば、後は自由に恣意的に偶然的に定義できることになります。どうして私たちは、現在使っているような論理的語彙をつかうのか、説明できません。例えば、私たちが日常生活では、シェーファーの棒記号(nand、nor)を私たちが使っていないことの説明ができません。

 そこで、以下では、<問答を行うときに私たちが暗黙的にある推論規則を前提としていること>を示すことによって、<問答関係に基づいて推論規則を正当化する>こと、さらに<私たちが日常の思考、問答において使っている推論規則の必然性を示す>ことを試みたいと思います。

・問答における暗黙的な同一律と矛盾律

  同一律「pならばp」

  矛盾律「pであり、かつpでないことはない」

この二つは、「pですか」と問うことが、暗黙的に前提としている規則です。なぜなら「pですか」と問うことは、答えとして「はい、pです」と「いいえ、pではないです」の二つが可能であることを暗黙的に前提としており、そのことは同時に、答えの中の「p」が問いの中の「p」と同一であることと、「pであり、かつpでないことはない」を暗黙的に前提としているからです。

・MPもまた問答関係の中に暗黙的に前提されています。

  「rですか」「はい、rです」

という問答があるとしましょう。すべての問いは何らかの前提をもちます。そこでこの問いがpを前提としているとします。この前提pを明示化すれば、上の問いは「pのとき、rですか」となり、上の答えは「はい、pのとき、rです」(p→r)となります。

 「rですか」という問いに、「はい、rです」と答えるときには、問いの前提「p」と暗黙的に成立する「p→r」から、答え「r」を導出しています。つまり、p、p→r┣rという推論を行っています。問答が成立するときには、この形式の推論(つまりMP)を暗黙的に前提としているのです。

以上のように、<問答が暗黙的に基本的な推論規則(同一律、矛盾律、MP)を前提としている>とするとき、その暗黙的な推論規則を明示化した推論規則を否定することは、問答を不可能にするでしょう。したがって問答をおこなうためためには、これらの推論規則を認めることが必然的です。このようにして、私たちは、これらの推論規則を、問答関係の超越論的条件として正当化できるのです。

次回からは、このような「真理の定義依拠説」(命題の真理を定義に依拠して正当化するという主張)について吟味するために、予想される反論について検討したいと思います。

110 統制規則の適切性と構成規則の適切性(Appropriateness of regulative rules and appropriateness of constitutive rules) (20240307)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

今のところ次のように考えています。

 理論的問答の答え:主張型発話:真理値をもつ。

 実践的問答の答え:行為指示型と行為拘束型:適切性(適/不適の区別や程度)をもつ。

 宣言的問答の答え:宣言型(行為宣言型、主張宣言型、定義型(命名を含む)、表現型):適切性をもつ。

 今回説明したいのは、実践的問答の答えの適切性と宣言的問答の答えの適切性の違いです。

以前(107回)に次のように書きました。

主張型以外の発話が「適切である」とは、その発話が「より上位の目的の実現にとって役立つ」ということだろうと思います。その「より上位の目的」とは、答える者にとってのより上位の目的でしょうか、それとも問うた者にとってのより上位の目的でしょうか。

 その発話が「適切である」とは、問いに対する答えとして「適切である」ということだとすると、それは問うた者についてのより上位の目的の実現に役立つということでしょう。」

そこでは、主張型以外の発話の「適切性」を、「より上位の問いに答えるのに役立つこと」あるいは「より上位の目的の実現にとって役立つこと」と考えましたが、これを次のように修正したいと思います。宣言的問答の答えの適切性は、この通りだと考えますが、実践的問答の答えの適切性は、「実践的問いの目的の実現そのものに役立つこと」だと考えます。実践的問いは、「ある意図を実現するにはどうすればよいか」という形式をとります。その意図の実現に役立つ答えが、適切な答えであり、役立たない答えが不適切な答えです。

 適切性についてこのような違いが生じる理由は、実践的問答の答えは統制規則であり、宣言的問答の答えは構成規則であるという違いにあります。

 

#構成規則と統制規則の区別

この区別は、サールの「構成規則」と「統制規則」の区別や、カントの「構成原理」と「統制原理」の区別に由来するものです。

例えば、自然法則は、自然を構成する構成規則です。ゲームの規則は、ゲームの構成規則です。憲法は、国家体制の構成規則です。自然の構成規則を破ることはできないし、変更することもできませんが、人為的社会的構成規則は、破ることも変更することも可能です。

 ところで、組織の構成規則は破るべきではないものでしょうか、つまり規範性をもつのでしょうか。もしその組織を維持しようとするのならば、組織の構成規則を破るべきではなく、それに従うことは義務となり、それは統制規則となります。もしその組織を維持することを目的としないのであれば、その組織の構成規則を守ることは義務ではありません。

 この場合、統制規則とは、構成規則の一部になります。では、<統制規則であるが、何かの構成規則ではないもの>はあるのでしょうか。おそらくすべての規範的規則は、何らかのものの構成規則であると考えます。なぜなら非常に緩い規範的規則「人に会ったら挨拶しましょう」というような規範であったとしても、それが常に守られたら実現するであろう社会の構成原理となるからです。

(構成規則と統制規則の関係をこのように考えることは、従来の理解と異なる新しい試みと思いますので、注意してください。)

#構成規則の適切性

 構成規則の適切性とは、構成規則の設定が、あるいはその構成規則が、より上位の目的にとって有用であるということです。構成規則の目的とは、何かを構成することです。より上位の目的とは、構成規則が構成するもののより上位の目的です。

#構成規則と統制規則の区別と問答

二つの規則の区別と、3種類の問いの区別は、次のように関係します。

・理論的問い「自然はどうなっているのか」の答えは、構成規則です。

・実践的問い「オセロのゲームに勝つには、どうすればよいのか」の答えは、統制規則です。                                                                                                                                                                                                                                

・宣言的問い「オセロのゲームはどのようなものか」の答えは、オセロゲームの規則であり、構成規則です。

 

・実践的問い「オセロのゲームに勝つには、どうすればよいのか」の答えは、統制規則です。その答えが、オセロのゲームを勝つために役立つのならば、それは適切です。実践的問いは、実現したい意図を前提としますが、その意図の実現に成功するならば、あるいは役立つならば、答えは適切です。

・宣言的問い「オセロのゲームはどのようなものか」の答え(オセロゲームの規則の設定)に真偽はありませんが、適切性はあります。それが適切であるために満たすべき諸条件として、例えば次のような諸条件を挙げることができるかもしれません。

  勝ち負けが明確でなければならない。

  ゲーム規則はあまり複雑すぎない方がよい。

  ゲームの規則は単純であるほうがよい。

  ゲームは簡単すぎていけない、なぜなら楽しくないから。

  ゲームは難しすぎてもいけない、なぜなら楽しくないから。

  ゲームの勝負に時間がかかりすぎてもいけない。

これらの諸条件を満たすゲームの規則(構成規則)が適切です。その規則は、楽しいゲームを作るという目的の実現に役立つからです。構成規則は、それが構成するものが、より上位の目的の実現に役立つならば、適切です。つまり、宣言的問いの答えは、より上位の目的の実現に役立つとき、適切です。

 次に宣言型発話の4種類の下位区分のそれぞれの適切性についての説明します。

*行為宣言の適切性

 例えば、「君は馘だ」と言う宣言が適切であるとは、相手を馘にすることが、会社にとって有用であるということでしょう。つまり、その宣言はより上位の目的(会社の存続や利益の獲得)の実現に役立つということです。

*主張宣言の適切性

 例えば、「アウト」という宣言が適切であるとは、実際にそれがアウトであることです。「アウト」の宣言が適切であるとき、それが構成するゲームのより上位の目的の実現に役立ちます。ゲームのより上位の目的とは、ゲームによって参加者が楽しむことや、観客が楽しむことです。審判が間違っていれば、私たちはそのゲームを楽しめません。

*定義宣言の適切性

 例えば、「水をHOと定義する」という宣言が適切であるとは、その行為がより上位の目的(その対象を他の物から区別すること)に役立つということでしょう。もし定義の目的が他にあれば、その目的の実現に役立つということでしょう。

*表現宣言の適切性

 「合格おめでとう」という発話は、相手が合格したという事実に対する話し手の態度を構成します。聞き手の出来事や状態に対する話し手のこの態度の構成は、聞き手と話し手の関係に関するより上位の目的の実現に役立つとき適切であり、その目的の実現を妨げたり、役立たなかったりするとき、不適切です。例えば、「不合格おめでとう」と言う発話は、相手と喧嘩しようと思っているのでないならば、不適切です。

前回の末尾で、このあと「真理の定義依拠説」への予想される反論を論じると予告しましたが、その前に、真理の定義依拠説から、推論の正当化について考えたいと思います。