32 記憶の志向性について (20210313)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

 記憶は、何かについての記憶であり、「ついて」性をもつので志向性の定義にあてはまります。たとえば「3.11の津波」の記憶のように、多くの記憶は知覚の記憶です(私の場合TVの映像の知覚ですが)。しかし記憶には、知覚の記憶だけでなく、出来事の記憶や、名前の記憶や規則の記憶や語の意味の記憶などもあります。そしてこれらすべての記憶には真偽があります。つまり、記憶は事実と一致する必要があります。したがって、記憶は、知覚と同じ「適合の方向」、つまり心的状態を世界に一致させるという「適合の方向」を持ちます。

 記憶がサールの言うように「志向的自己言及性」をもつならば、記憶の充足条件は次のようなものになるでしょう。

  ①2011年3月.11日に大津波があった。

  ②2011年3月.11日に大津波があったことが、その記憶を引き起こしている。

津波の記憶が記憶であるためには、①を意識しているだけでなく②を意識していることがひつようです。

 サールは、「志向性の原始的な形式」は知覚と意図的行為(行為内意図)であり、「これより一段階上の水準」に、記憶と先行意図があり、さらに「それより一段階上の水準」に信念と願望があるといいます(参照、サール『社会的世界の制作』三谷武司訳、勁草書房、60)。これらのすべてについて順番に説明しますが、ここでは、記憶が知覚より一段階上である理由を確認したいと思います。

 サールによれば、知覚においては、「主体となる動物」と「環境」は直接にコンタクトし、環境が原因となって動物の内部に知覚が生じます。これに対して、記憶においては、「知覚を充足条件に含む表象であり」「因果成分それ自体は存在するものの、充足条件との間に直接の因果関係があるわけではない」、記憶が表象するのは過去である、とされる。例えば、「3.11の津波」の記憶は、3.11に津波があったという事実を充足条件としますが、しかし記憶はその事実と直接の関係を持つのではなく、TV映像の知覚を介している。3.11の津波は、過去の事実であり、その記憶は現在のものであり、時間的に隔たりがあります。

 『志向性』では、知覚は「提示」(presentation)であるが、記憶は「表象」(representation)であるという違いも指摘されています(サール『志向性』坂本百大監訳、誠信書房133)。知覚は知覚対象の提示ですが、記憶は記憶対象(出来事)を直接に提示するのではなく、その知覚像を介して記憶対象を表象するということでしょう。

 ただし、記憶は知覚の記憶であるとは限りません。たとえば、漢字の書き順の記憶のようなものは、どうでしょうか。漢字の書き順は、出来事や対象のように、時空間上に座標を持ちませんし、過去、現在、未來に妥当するいわば無時間的なものです。この場合でも、この記憶は規則の「表象」だと言えるかもしれませんし、また記憶は、充足条件(規則の存在)と直接にコンタクトするのではないと言えるかもしれません。しかし、記憶は、長期記憶と短期記憶の区別などもあり、とにかく多様です。通常の記憶ですら、超短期の記憶の働きを必要としている可能性があります。知覚と記憶の関係は、サールが考えているよりも、錯綜している可能性があります。

 次回は、その問題と、記憶もまた問いに対する答えとして成立することについて、考察することにします。

31 知覚の因果的自己言及性とは (20210311)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

サールは、知覚は「因果的自己言及性」(あるいは「志向的因果性」)を持つと言います。例えば、黄色いステーションワゴンを見るときの「視覚経験の志向内容」は、次のようなものになるといいます。

「私は(そこに黄色いステーションワゴンが存在し、そしてそこに黄色いステーションワゴンが存在することがその視覚経験を引き起こしている)という視覚経験を有している。」(『志向性』前掲訳66)

つまり、志向内容には、

  ①「そこに黄色いステーションワゴンが存在する」

ということだけでなく、

  ②「そこに黄色いステーションワゴンが存在することがその視覚経験を引き起こしている」

ということも含まれます。

 このように②を含むゆえに、知覚経験の志向内容は「因果的に自己言及的」(前掲訳68)であると言われます。もちろんこの自己言及性は語られているのではありません。しかしそれは「示されている(shown)」とサールは言います(前掲訳68)。

 ところで、動物の知覚もこのような因果的自己言及性をもつでしょうか。私は、動物の知覚はこのような因果的な自己言及性をもたないだろうと思います。つまり上の視覚経験で言えば、①をもつが②はもたないだろうと思う。(さらに①についても、動物の場合には、その内容は言語的に分節化された内容ではないでしょう。)

 ②を持つのは、人間の知覚の場合だけだろうとおもいます(それをどうやって証明したらよいのか今のところ分かりませんが…)。確かに、人間の知覚の場合には、②のような意識を伴っているように思われる。つまり、人間がある対象や事実を知覚するときには、知覚していることの意識が伴っているでしょう。では、どうしてそうなるのでしょうか。

人間が知覚しているときには、知覚していることを意識していることが多いとすると、それは次のような事情ではないでしょうか。

 前回述べたことですが、「この車は黄色い」という主張発話が誠実であるための条件として、話し手が<この車は黄色い>という信念(志向性)をもつことを指摘できます。ここでの一連の問答はつぎのような関係にあります。

 「この車は何色か」という言語的問い 探索(この問いの発話の誠実性条件となる心的状態)→知覚(視覚経験)→「この車は黄色い」という知覚報告(この報告の誠実性条件は、<この車は黄色い>という信念をもっていることです)。

 <人間が行う知覚が、このような言語的な問答(言語的な問いと答えとしての知覚報告)のプロセスを成立させるために、問いから答えを導出するプロセスの中で成立するのだとすると、「探索」という心的状態は意識されており、したがってそれに対する答えとしての知覚(知覚経験)も意識されており、その知覚は、因果的自己言及性をもつことになる>と言えるのではないでしょうか。

(人間はつねにこのように意識的に知覚を行っているとは限らず、知覚しても因果的自己言及性を持っていないように見える場合もあります。しかし逆に、原始的な動物の知覚を含めて知覚プロセスはつねにこのような因果的自己言及性を持っていると見なすことも可能かもしれないもおもいます。そのためには、現代の脳神経科学の知覚論やディープラーニング論を考慮する必要があると考えています。いずれ別の機会に述べるつもりです。)

 同様のことが、因果的自己言及性を持つ他のタイプの志向性(記憶、先行意図、行為内意図)についても言えるかどうかを、次に確認したいと思います。

30 知覚に関する問答と探索の関係 (20210309)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

言語的な信念と同じく、知覚もまた問い(または非言語的な探索)に対する答えとして成立すると仮定してみましょう。では、その問いはどのようなものになるでしょうか。例えば「その車は何色ですが?」の答えは「それは黄色です」となります。ただし、この答えは、知覚報告であって、知覚そのものではありません。知覚そのものは、この問いへの答えではなく、問いに答えるための手がかりです。知覚は、この問いを問う者が<問い合わせるもの(Befragtes)>であって、<問いも求められるもの(Erfragtes)>ではありません。

 では、「この車は黄色い」が「この車は何色ですか?」や「この車は黄色ですか?」への答えとして成立するとき、何が起こっているのでしょうか。

 サールは、発話行為の誠実性条件が、志向性の心的内容になることを述べていました。たとえば、「r」を主張することが誠実であるための条件は、rを信じるという志向性が成立する事であり、rを命令することが誠実であるための条件は、rの実現を願望しているという志向性が成立することでした。これに倣って言えば、「この車は何色か?」という問いの発話の誠実性条件は、この車の色を探索しようとする心的状態、あるいはこの車の色を知りたいという願望(心的状態)であるでしょう。この探索に対する答えとして知覚ないし視覚経験があると考えられます。

「この車は黄色い」という主張発話が誠実であるための条件は、<この車は黄色い>という信念(心的状態)をもつことです。ここでの一連の問答はつぎのようになります。

<「この車は何色か」という言語的問い → 探索(この問いの発話の誠実性条件となる心的状態)→知覚(視覚経験)→「この車は黄色い」という知覚報告(この報告の誠実性条件は、<この車は黄色い>という信念をもっていることです)>

 「この車は何色ですか?」という問いに答えるには、この問いを理解していなければならず、そのためには、次の二つが必要です。

  ①「黄色」が色を表示していることを理解していること、

  ②「黄色」が表示する色がどのようなものであるかを理解していること、

さらに、この問いを理解した上で、「この車は黄色だ」と答えうるためには、「この車は青色だ」と他の誰かが答えた時に、「いいや、この車は青色ではない」と言える必要があります。つまり、「黄色」を「青色」(また「赤色」や「白色」や「銀色」など)から区別できる必要があります。そして、「この車は青色だ」が偽であると分かるためには、「この車は青色である」という知覚報告を理解し、またそれに対応する視覚経験を想像できることが必要です。

 つまり、「これは黄色い」を認識できるためには、「黄色」の視覚経験をもつだけでなく、「青い」の視覚経験を想像できることが必要です。そして、「これは青くない、これは黄色だ」とおもう(信じる)ことが必要です。つまり、「これは黄色い」という知覚的信念の志向性が成立するには、知覚だけでなく、想像と信念の志向性も同時に必要です。これは「複合的志向性」だといえるでしょう。

 ある視覚経験を「黄色」の視覚経験として持つことは、「複合的志向性」として成立します。ここには、推論関係も働いています。「黄色」の視覚経験であることを理解しているとき、それが「青色」や「赤色」や「白色」や「黒色」の視覚経験ではないことの理解を伴っています。さらに、そのような消極的な関係の理解だけでなく、積極的な関係の理解、つまり、その車が黄色いという事実からその「黄色」の視覚経験が生じているという理解を伴っています。

 より一般的に言うと、ある知覚経験が、言語的に分節化された(あるいは、概念的な内容を持つ)知覚経験であるためには、知覚だけでなく、想像、信念、などの志向性から複合されている必要があり、他の志向性と推論関係にある必要があります。

 次回は、上記の知覚の考察が、サールの「志向的因果性」の概念とどう関係するかを、考えたいとおもいます。

29 知覚の志向性と問答 (20210308)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

まず、前々回説明しておくべきだった説明を補足しておきます。

サールは『志向性』の冒頭で「志向性」をつぎのように定義します。「志向性」とは、「心的な状態ないし出来事の特性」(『志向性』邦訳1)であり、その特性とは、「向性(directedness)ないし関与性(aboutness)なる特徴」(同所)です。

ただし、第一に、すべての心的状態が、志向性という特性を持つのではなく、志向性を持たない心的状態もあります。例えば、志向性を持たない心的状態としては、「緊張感、高揚感、方向づけられていない不安」(同書2、訳語を変えました)があります。

第二に、志向性は意識とは異なります(同書2)。志向性をもたない意識(例えば緊張感や高揚感のように)もありますし、逆に意識されていない志向性(今まで意識したことのない信念(私の祖父が月に行ったことがないという信念)などもあります。

さて、知覚は心的状態であり、関与性(aboutness、「ついて」性)をもつ心的状態であるので、知覚は志向性を持つといえます。なぜなら、知覚はつねに、何かについての知覚であると言えるからです。たとえば、それは黄色い自動車についての知覚です。知覚がつねに「ついて」性を持つことは、言い換えると、知覚がつねにゲシュタルト構造(図と地の構造)をもつということです。

 ここで、知覚と感覚の区別について次のような区別を提案したいと思います。感覚は、知覚を構成している要素です。しかし、感覚が集まって知覚を構成するという要素主義を採用するのではありません。感覚は、知覚から抽象して切り出された要素であり、抽象的ものであり、それだけで自存するものではなく、あくまでも知覚の要素として存在するものです。感覚には、ゲシュタルト構造はないのにたいして、知覚はゲシュタルト構造ないし「として」構造を持つものです。例えば、「このバラの赤さ」として理解されるものは、として構造を持っており、その赤さは、感覚されているのではなく、知覚されていると考えられます。(知覚と感覚についてのこのような区別の提案は、私の考えであり、サールの主張ではありませんが、それと矛盾しないだろうと思います。)

 サールは、志向性(をもつ心的状態)は、つぎのような構造を持つと述べていました。

   S(r)

(ここで「S」は心理的様態、「r」は表象内容を表します。)

この構造は、志向性の特性(「ついて」性)と次のように関係するでしょう。志向性は、何かについてのものであるという特性ですが、ここでの表記に当てはめると、志向性は「rについての」Sであるということになるでしょう。

 他方で私たちは、知覚はつねに「として」構造をもちます。つまり、知覚はゲシュタルト構造をもち、それは<AをBとして知覚する>という構造を持つといいかえることができるでしょう。AをBとして捉える時には、Aの中のある部分に注目し、他の部分に注目しないということによって可能になります。つまり、注目される部分が地となり、注目されない部分が地となるという<図地-構造>が成立することになります。この<図地-構造>が、知覚のゲシュタルトを構成し、「として」構造を構成しているのです。

 では、知覚の「ついて」性と「として」構造は、どう関係するのでしょうか。ある対象を「黄色い自動車」として知覚する心的状態は、「黄色い自動車について」の心的状態だと言えそうです。つまり、Aを「Bとして」知覚するとき、それは「Bについて」の知覚だといえるでしょう。「ついて」性」と「として」構造は、このような関係にあるでしょう。

 さて、ここからが本題です。知覚の<図地-構造>は、命題の焦点構造に似ているのではないでしょうか。『問答の言語哲学』で詳しく述べたのですが、すべての発話は、焦点を持ちます。それは話し手が発話する命題の中で注目しているところですが、それはその個所が強く発音されたり高く発話されることによって示されます。例えば、「これはりんごです」という文が発話されるとき、

「(他でもなく)これが、リンゴです」といういみで発話される場合と、「これは、(他でもなく)リンゴです」という意味で発話される場合とがあります。前者では「(他でもなく)これが」に焦点があり、後者の発話では「(他でもなく)リンゴ」に焦点があります。(「は」と「が」が入れ替わっていますので、正確には同じ文ではありません。この「は」と「が」の使い分けは、焦点位置の違いの影響を受けていると思われます。この点も、『問答の言語哲学』で詳しく説明しましたので、興味を持っていただけた方は、ぜひご覧ください。)

 私たちは、このどちらかに焦点をおいて話したり理解したりするひつようがあります。両方に焦点を置くことはできないし、どちらにも焦点をおかないでこの文を理解することはできません。そのことは、ゲシュタルト心理学で有名な「アヒルとウサギの反転図形」の場合と似ています。私たちはその図形を「アヒル」として見るか、「うさぎ」として見るかのどちらかの見方しかできず、両方を同時に見ることはできませんし、どちらでもないものとして見ることもできません。

 発話の焦点構造は、それがどのような問い(相関質問)の答えとして発せられるかに依存しています。「リンゴはどれですか?」と問われたときの答えは、「(他でもなく)これが、リンゴです」という発話になり、「これは何です?」と問われたときの答えは、「これは、(他でもなく)リンゴです」となります。ここから、発話は相関質問との関係において成立するということになります。

これを『問答の言語哲学』で論じたのでが、ここでの目標は、これと同様のことを、全ての種類の志向性について論証する事です。つまり、志向性は、言語的な問い(ないし非言語的な探索)への王として成立する、ということです。

 次回、知覚について、この点をもう少し詳しく論じたいと思います。

28 志向性の分類 (20210306)

[カテゴリー:問答推論主義へ]

サールは、『志向性』では、知覚と意図的行為について主として述べており、志向性全体の分類は示されていない。記憶、信念、事前意図、行為内意図、願望、も取り上げられているが、全体として分類整理されてはない。しかし、サールはMaking the Social World, Oxford U.P. 2010(『社会的世界の制作』三谷武司訳、勁草書房)では、全体をきれいに整理している。

(邦訳では、知覚の「適合の方向」の矢印が↑となっていますが、これは誤植です。正しくは上記のように↓ですので、混乱しないようにしてください。)

適合の方向が。↓であるのは、心を世界にfitさせるということことであり、↑は、世界を心にfitさせるということです。因果の方向↑は、世界の状態が心的状態を引き起こすということであり、↓は、心的状態が世界の状態を引き起こすということになります。因果の方向が「非該当not aplicable」なのは、信念と願望の場合には、世界と心の間に因果関係がないということです。

因果の方向があると場合には、「因果的自己言及」(Causallly self-referential condition)をもつとされます。

 この因果的自己言及性を持つかどうかは、それぞれの志向性の特性を考察するときに、重要な違いになります。

 次に、信念と知覚の違いを考えたいと思います。

27 志向性と発話行為の類似点 (20210303)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

サールは『志向性』では、動物の意識や志向性についてはほとんど言及せず、もっぱら人間の志向性について論じています。人間の志向性の中には、非言語的なものも、言語的なものもありますが、サールは志向的状態を発話行為との4つの類似性にもとづいて、明確にしようとします。(念のための確認ですが、仮に志向性が言語的なものであったとしても、その言語的な志向性と発話行為は別のものです。次の4つの類似性において、同時に両者の区別も明確になると思います。)

第一に、発話行為は、F(p)で表示され、発話内的力「F」(主張、命令、約束、など)と命題内容「p」から構成されていますが、それと同様に、志向的状態は、S(r)という心理的様態「S」(信じる、恐れる、欲する、望む、など)と表象内容「r」からなるものです。ただし、志向的状態の表象内容は、命題で表現されるものだけでなく、対象である場合もあります。

  信ずる(雨が降っている)

  愛する(サリー)

サールは、志向的状態の構成要素である「表象内容」を、雨が降っているという事実や、サリーという対象ではなくて、それらの表象の内容として考えていると思います。

第二に、発話行為と同様に志向的状態も「適合の方向」をもちます。例えば、主張型発話では、言葉を世界に適合させることが求められており、命令や約束の発話では、世界を言葉に適合させることが求められています。これと同様に、知覚、記憶、信念という志向的状態では、心(表象内容)を世界に適合させることが求められており、欲望、事前意図、行為内意図という志向的状態では、世界を心(表象内容)に適合させることが求められています。

第三に、発話行為は誠実性条件を持ちますが、その誠実性条件は、志向的状態です。例えば、pを主張している時には、pを信じているという志向的状態が、pの主張の誠実性条件です。Aをおこなうと約束するときには、Aを行うことを意図していることが、約束の誠実性条件です。Aを行うことを命ずるときには、Aをしてもらいたいという願望(志向的状態)が、命令の誠実性条件です。「命題内容を伴う各発話内行為の遂行に際して、われわれがその命題内容をともなうある種の志向的状態を表明しているということ、しかもその志向的状態が当のタイプの発話行為の誠実性条件であるということである。」(サール『志向性』坂本百大監訳、誠信書房、11f)

志向的状態は、発話行為の誠実性条件である。

第四に、発話行為は次のように充足条件をもつのですが、同様に、志向的状態も充足条件をもちます。

例えば「言明は、それが真なる時に限って充足されている。命令はそれが順守されたときに限って充足されている。約束はそれが守られたときに限って充足されている」(前掲書13)

このような「充足概念は、明らかに志向的状態に対しても当てはまる。私の信念は物事が私の信ずるとおりになっているときにかぎって充足されるであろうし、私の願望はそれが満たされたときに限って充足されるであろうし、私の意図はそれが遂行されたときに限って充足されるであろう。」(前掲書13f)

私は、『問答の言語哲学』で発語内行為が、それを返答とする相関質問の発話と対応していること、言い換えると、質問発話において、すでに返答となる発話の発語内行為が指示されていることを指摘しました。そこから予測できることなのですが、志向性が発話行為に似ているとすれば、志向性もまた相関質問をもち、相関質問に対する答えとして、成立するのではないか、と思われます。

次回からそれを検討したいと思います。

26 志向性と問答推論の関係 (20210302)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

久しぶりにこのカテゴリーに戻ってきました。少し、志向性と問答(ないし問答推論)の関係を考えたいと思います。今回私が論証したいのは、サールが区別している6つの志向性は、すべて問いに対する答えとして、しかも問答推論によって成立するということです。さらに、問うことは、この6つの志向性とは異なる特殊な志向性であることを明らかにしたいと思います。(これを通して、私が目指しているのは、「志向性」を解明することではなく、問答および問答推論を解明することです。なぜなら、志向性や意識や表象などの概念が非常にあいまいで多義的であるので、問答に注目した方が、より有効だろうと思われるからです。)

 サールは、まず、心的状態がすべて志向的であるのではない、といいます。例えば、「信念、恐れ、希望、願望」は、志向的であると言いますが、「神経過敏、得意、対象なき不安」は志向的ではないといいます。それは、志向性が、何か「について」という性質であることによります。

サールは、蛇と蛇の経験は、別のものですが、不安と不安の経験は区別できないので、不安は志向性を持たないと言います。

 つぎに、志向性intentionality と意図intentionは似ているのですが、しかし、意図することは、志向性の一種に過ぎないと言います。信じること、欲することは、意図することではないが、志向的であるといいます。

 つぎに、志向性は状態ないし出来事であって、行為ではないと言います。「あなたは今何をしているのか」という問いに対して、「私はいま雨がふっていることを信じている」とか「税金の安くなることを望んでいる」とか「映画に行きたいと思っている」とかいうような答えをしない(参照サール『志向性』坂本百大監訳、誠信書房、5)

 このような志向性が意識や意図や行為と異なるという指摘はただしいとしても、「志向性」は曖昧なままです。サールはそれを言語行為との類似性にもとづいて、明確にしようとします。

44 これまでの振り返り(3) (20210228)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

前回(36、37)の振り返りのあと、茂木健一郎の『脳とクオリア』を紹介しつつ検討してきました。

彼は、まず「認識のニューロン原理」と「認識のマッハ原理」を導入し、それをもとに、心理的時間論(固有時の説明)、クオリア論、意識論を論じていました。このなかで最も重要な指摘は、「認識のニューロン原理」だと思います。

 脳の中での情報処理(認識や意識内容)は、すべてニューロンの発火によって行われるということです。視覚の刺激、聴覚の刺激、記憶、感情、思考、意図など、様々な種類の意識内容がありますが、脳の中にあるのは、ニューロンの発火だけであるので、これらの違いをニューロン発火のパターンの違いとして説明する必要があるという指摘です。私もこの原理に従って、意識や表象や言語や問答の発生の説明を追求したいと思います。茂木氏のこの本には、当時の研究状況からする限界もあると思いますが、このあとの仕事は私たちに残された課題だと考えます。

 現在のところ、バレットの情動論の紹介で言及したAndy ClarkやJakob Hohwyによる仕事、つまりディープラーニングの理論を、脳の研究に応用するというというアプローチが有用であるように思われます。そこで、ClarkやHohwyの研究の紹介と、それについての問答の観点からの検討を行いたいのですが、少し時間がかかりそうです。

 その間に取りあえず、並行して次の二つのことを考えて、みたいと思います。

第一は、サールが挙げていた6つの志向性を問答の観点から捉えなおすことです。

第二は、幼児の言語獲得を、二人の大人が行う問答の観察から説明すること、そして人類における言葉の発生を問答の発生として捉え、その際に、二人の他者の(問答ではない)発声のやりとりの観察から説明する、というアプローチの可能性を追求してみたいとおもいます。

 なお、第一の検討については、別のカテゴリー「問答推論主義へ向けて」に書き込むことにします。その後、またこのカテゴリーに戻ってきます。

43 茂木氏の「意識論」  (20210224)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

茂木は、『脳とクオリア』の第6章で「意識」について次の3つの仮説を設定します。

「①脳の中のすべての物質的過程のうち、意識や心の問題を考える上で意味があるのはニューロンの発火のみである。」159

「②脳幹からの上行性網様体賦活系の投射により、大脳皮質のニューロンの発火レベルが制御される。発火頻度があるしきい値を超えた時に意識が生じる。」(茂木健一郎『脳とクオリア』日経サイエンス社、190)

「③意識は、心の中の表象=要素を統合する一つのシステムである。脳の中の神経回路網におけるニューロンの発火が一つのシステムとして成立するための条件は、ニューロンの発火が、相互作用連結性において、単連結(一つにつながる)ことである。」(同書190)

仮説①は、「認識のニューロン原理」(=「私たちの認識は、脳の中のニューロンの発火によって直接生じる。認識に関する限り、発火していないニューロンは、存在していないのと同じである。」(同書35))を意識に応用したものです。もし①を「意識のニューロン原理」と呼ぶならば、それは「認識のニューロン原理」よりもより基礎的なものであるかもしれません。

仮説③は、「認識におけるマッハの原理」(=「認識において、ニューロンの発火が果たす役割は、そのニューロンと同じ瞬間に発火している他のすべてのニューロンとの関係によって、またそれによってのみ決定される。」(同書、77))を意識に応用したものです。

茂木は、この3つの仮説を前提した上で次の二つの問題に答えようとします。

「①ニューロンの発火が、どのような条件を満たした時に、そこに「意識」が宿るのか(意識の時間的範囲)

 ②脳の中の解剖学的部位(ニューロンからなる回路網)のうち、どの部分集合に「意識」が宿るのか?(意識の空間的範囲)」(同書190)

問題①への茂木の答えは、つぎのようなものです。

「意識」というシステムが成立するためには、脳全体にわたるような相互作用単連結なニューロンの発火が存在することが必要なのである。」(同書196)

ただし、これは意識が発生するための必要条件であって、十分条件ではありません。

「ニューロンの発火が相互作用連結になるという条件は、必要条件に過ぎない。」(同書204)

私たちの脳の中のニューロンの発火が、「意識」をもつためには、これに加えて、「その相互結合が複雑で豊かな構造を持っている」(同書204)が必要であると言われます。ただし、その「複雑で豊かな構造」がどのようなものであるべきかは、説明されていません。

問題②への茂木の最終的答えは、上記の仮説②と関係していると思われますが、次になります。

「意識的な認識に関与すると結論付けられるのは、大脳、海馬領野、および視床だ。」202

以上の説明では、専門外の私は教わることばかりです。

ただし、茂木のこのような議論で気になる点は、茂木が

  睡眠状態=意識のない状態

  覚醒状態=意識のある状態 

と見なしている(同書193)ことです。

ダマシオは、『意識と自己』で「覚醒状態=意識状態」とすることに反対していました。なぜなら、ダマシオは、夢を見ている状態を、意識のある状態とみなしているからです。ダマシオ似れば、また逆に、目覚めていながら、意識がない神経疾患があり、「有機体の基本的ニーズに合致する刺激に対しては低いレベルの注意が向けられている。だが、意識は存在していないかもしれない。」(『意識と自己』田中三彦訳、講談社学術文庫、123)からです。

またもし動物一般に拡張して検討するならば、睡眠と覚醒の区別は、非脊椎動物でも神経組織を持つ動物にはみられるが(ヒドラ、ショウジョバエ)が、それらは覚醒していても、意識を持っているとは言えそうにない、と言うことがあります。(人間のようにレム睡眠とノンレム睡眠の区別が脳波ではっきりと確認できる動物は、脊椎動物の中でも、鳥類と哺乳類だけのようです。では、覚醒中の鳥類と哺乳類は、意識を持っているといえるのでしょうか。それを言うためには、「意識」についての明確な定義が必要です。「意識」があるかないかを自明視することはできません。)

(注:ヒドラは、神経細胞を持つが、中枢神経システム(脳)を持たない動物ですが、そのヒドラにも睡眠と覚醒の区別があるようです。

「睡眠の一般的な特徴として、「可逆的な行動の静止」、「感覚機能の低下」、「睡眠恒常性」が挙げられます (図3)。「可逆的な行動の静止」は睡眠中に動かなくなるものの昏睡状態ではなく、刺激によって覚醒状態へ回復することを意味します。いくら深い眠りに落ちていても、叩き起こされれば目が覚めるということです。ただ、睡眠中には「感覚機能の低下」が見られ、穏やかな刺激で覚醒に転じることはありません。「睡眠恒常性」とは、動物にとって必要な睡眠量が決まっていることを意味します。必要量が予め決まっているために、断眠させるとその後にリバウンド睡眠が生じます。これは、夜更かしすると次の日の朝に起きられないことと同じです。私たちは、これら 3 つの特徴を持つ状態がヒドラに存在するのかを検証しました。」(金谷 啓之、

https://www.sci.kyushu-u.ac.jp/koho/qrinews/qrinews_201208.html )

金谷氏のこの研究の優れたところは、睡眠を3つの特徴で定義したことにあると思います。)

もう一つの不満点は、次です。茂木氏は、人間の場合だけを考えており、しかも、人間が意識を持っている場合と持っていない場合の区別は、主観的には明白であって、主観的なその違いがある場合に、脳状態が、あるいはニューロンの発火状態がどのような違いを持つのか、ということを説明しようとしています。茂木氏は、意識がある状態と意識がない状態の区別は、ほぼ自明であると考えているのだと思われます。

「主観的には、「意識」があるか、ないかという二つの状態の間のコントラストは劇的である。何しろ、「意識」がないときには、「私」は「そこにいない」のだから」(同書180)

茂木氏がいうこの区別は、「いま意識があるだろうか」「ある」というような自問自答をする場合の、区別であるよう見えます。この区別は、「自己意識」がある場合と、ない場合の区別といってもよいのではないでしょうか。しかし、意識は、自己意識がなくてもあるかもしれません。意識と自己意識を区別するとき、意識がある状態とは、どのような状態なのでしょうか。

「いま私は意識を持っているのだろうか?」と自問するときには、常に答えは、「意識を持っている」となるでしょう。なぜなら、その問いは意識的に立てられているからです。確かに、意識的に自問している時には、つねに意識を持っている、と言えるでしょうが、しかし逆に、意識を持っている時には、常に意識的に自問しているとは限らないのではないでしょうか。では、意識を持つ状態とは、主観的にどのような状態なのでしょうか。私には、それは、茂木氏が想定しているほど、自明なことではないように思えます。

42 クオリアの同一説と随伴説 (20210221)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

 前回述べたように、茂木は、クオリアとニューロンの発火パターンの同一性と随伴性の両方を主張しているように見えます。これを整合的に解釈するには、どうしたらよいでしょうか。

 これまでの茂木の記述と整合的であるのは、同一説の方だと思います。なぜなら、彼の研究の出発点になる原理は「認識のニューロン原理」であり、それは次のようなものだからです。

「《認識のニューロン原理=私たちの認識は、脳の中のニューロンの発火によって直接生じる。認識に関する限り、発火していないニューロンは、存在していないのと同じである。私たちの認識の特性は、脳の中のニューロンの発火の特性によって、そしてそれによってのみせつめいされなければならない》」(茂木健一郎『脳とクオリア』日経サイエンス社、35f)

しかしこの主張は、クオリアの随伴性を述べていた次の主張と矛盾するようにみえます。

「もし、クオリアが一定の条件の下に神経回路網という物質の振る舞いに随伴して生じるものであるとすれば、そのような可能性は、従来の物理学では考慮されてこなかった全く新しい自然法則の領域の存在を示唆するのである。」(同書、172)

もしこれを矛盾しないように読むとすれば、次のようになるでしょう。

<ニューロンの発火のパターンにクオリアが随伴するとき、発火のパターンから「全く新しい自然法則」によってクオリアが生じるのであり、クオリアは、従来の自然法則で規定された発火のパターンと同一なのではなく、そこから「全く新しい自然法則」によって生じた発火のパターンと同一なのである。>

茂木には、クオリアが、ニューロンの発火のパターンと同一であるという信念がある一方で、現在知られている既知の自然法則でとらえた発火のパターンと同一であるというだけでは、説明として不十分であるという意識があるのでしょう。しかし、これでは何の説明にもなっていません。

 次に茂木の「意識論」を紹介し、批判的に検討します。