14 日常の疑いの論法 (20200819)

[カテゴリー:問答と懐疑]

山田氏の整理している懐疑の論法は簡略化すれば、次のようなものであった。

① 主張:p

② 証明項:pに対する証拠q

③ 懐疑論的仮説 r

④ 証明不可能性の論証:②の証拠qによって、③のrを否定することはできない。

⑤ 正当化の否定:③のrが成り立つなら、①のpは成り立たない。

⑥ 結論:②と③は両立可能であるから、②が成り立っても、①が成り立つかどうか疑わしい。

例えば、

① 主張:「トランプは再選されないだろう」

② 証明項:「世論調査では、バイデンがトランプにリードしている」

③ 懐疑論的仮説「ヒラリーの場合のように、結果は、世論調査とは異なるものになることがある」

④ 証明不可能性の論証: ②の証拠によって、③を否定することはできない。

⑤ 正当化の否定: ③が成り立つなら、①は主張できない。

⑥ 結論:②によって①「トランプは再選されないだろう」というのは疑わしい。

ちなみに、懐疑よりも批判の方が負担が大きい。なぜなら、主張への懐疑のためには、主張の論拠の不十分さを指摘するだけでよいが、主張を批判するには、主張の論拠の不十分さを指摘したり、主張の論拠を否定するだけでなく、主張そのものを否定する論拠を示す必要があるからである。。上の例で言えば、「トランプは再選されないだろう」という主張を否定し、「トランプは再選されるだろう」と主張し、その根拠を示す必要がある。懐疑よりも、批判の方がなすべきことが多いが、もし可能ならば、その方が成果が大きい。何故なら、ある主張の懐疑よりも、ある主張への批判の方が、より多くの可能性を排除しているからである。

いずれにせよ、ローカルな懐疑は可能である。では、ローカルな懐疑主義が可能かどうかを、次に考えよう。

13 「外的世界」への懐疑 (20200815)

[カテゴリー:問答と懐疑]

 山田圭一は『ウィトゲンシュタイン最後の思考』の第2章において、「外的世界」「他人の心」「過去の実在」に共通して適用できる懐疑論の論法を提示している。例えば、「外的世界」に対する懐疑を次のように説明する。

<①「ここに椅子がある」という主張を疑うためには、まずこの主張の根拠として、②「私は椅子を見ている(感じている)」を想定する。次に②が①の根拠として不十分であることを示すために、懐疑論的仮説③「私は悪霊によって欺かれている」を想定する。②と③は両立可能である。しかしもし③が正しければ、①は誤りである。ゆえに、②は、①の根拠としては不十分である。したがって、①「ここに椅子がある」という主張は疑わしい。>

 山田氏はこれを次のように整理している。

(1)外的世界に対する懐疑論

①〈被証明項:日常的命題〉

  「ここに椅子がある」

②〈証明項:①に対する日常的証拠〉

  「私は椅子を見ている(感じている)」

→②’再記述された証明項

  「私は椅子の視覚印象(感覚)をもっている」

③〈懐疑論的仮説〉

  「私は悪霊によって欺かれている」(外的世界の対象は存在していない)

 (⟷③’〈日常的前提〉「外的世界の対象が存在する」)

④〈証明不可能性の論証〉

  ②の証拠によって、③でない(③’である)ことを根拠づけることができるか→できない。

⑤〈正当化の否定〉

 私は②’(再記述された証拠)を根拠に①(日常的命題)を信じることが正当化されていない。

⑥〈結論:正当化の否定 最終段階〉

 私は②’(再記述された証拠)を根拠に①の種類のすべての命題を信じることが正当化されていない。

ここで重要なのは、主張①とその根拠②と懐疑的仮説③の関係である。①と③は両立不可能であるが、②と③は両立可能である。それゆえに、もし③が正しければ、②は①を証明する十分な根拠とはならない。

この論法を「他人の心」と「過去の実在」に適用したものを次に引用しておこう。

(2)他人の心に対する懐疑論

①〈被証明項:日常的命題〉

  「彼は痛みを持っている」

②〈証明項:①に対する日常的証拠〉

  「彼は痛みの振る舞いをしている」

→②’再記述された証明項

  「彼は顔の筋肉をゆがめて、お腹をおさえている」

③〈懐疑論的仮説〉

  「彼は自動機械である」(彼は心をもっていない)

(⟷③’〈日常的前提〉「彼は心をもっている」)

④〈証明不可能性の論証〉

  ②の証拠によって、③でない(③’である)ことを根拠づけることができるか→できない。

⑤〈正当化の否定〉

 私は②’(再記述された証拠)を根拠に①(日常的命題)を信じることが正当化されていない。

⑥〈結論:正当化の否定 最終段階〉

 私は②’(再記述された証拠)を根拠に①の種類のすべての命題を信じることが正当化されていない。

(3)過去の実在に対する懐疑論

①〈被証明項:日常的命題〉

  「日露戦争は100年前におこった」

②〈証明項:①に対する日常的証拠〉

  「日露戦争について書かれた100年前の文書が残っている」

→②′再記述された証明項

   「100年前の日付(「一九〇四年」という文字)のついた文書に日露戦争についての記述がある」

③〈懐疑論的仮説〉

   「地球は5分前に創られた」

(⟷③′〈日常的前提〉「地球は私が生まれる遥か以前から存在していた」)

④〈証明不可能性の論証〉

  ②の証拠によって、③でない(③′である)ことを根拠づけることができるか→できない。

⑤〈正当化の否定〉

 私は②′(再記述された証拠)を根拠に①(日常的命題)を信じることが正当化されていない。

⑥〈結論:正当化の否定 最終段階〉

 私は②′(再記述された証拠)を根拠に①の種類のすべての命題を信じることが正当化されていない。

この懐疑の論法は、哲学的な懐疑に限らず、日常の疑いにも使えるものである。それを次に確認しよう。

25 問いと推論の関係 (20200812)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

 問答推論主義にとって、もっとも基本となることは、このカテゴリーの始めに01と02で述べたように、<推論の前提から論理的に導出される命題は、複数あるが、現実に推論が成立するためには、その中から一つの命題が結論として選ばなければならない。その選択は、ある問いに対する答えを選ぶという仕方で行われている>ということである。この背景にあるのは、<推論は問いの答えを求めるプロセスである>という理解である。これに対しては、「推論の結論となりうる複数の命題から一つを選択する方法は、これ以外にはありえないのだろうか?」という疑問が生じるだろ(私の最終講義でも、森田邦久さんからそのような質問を受けた。そのときには、他の解決策が思いつかないというような不十分な返答しかできなかったのだが、以下では、もうすこしだけ説得力のある説明をしたい。)

 問いの答えを見つけるプロセスには、次の二通りがある。一つは、これまで念頭に説明してきたものであり、<ある問いに対する答えを見つけようとして、すでに知っている知識を前提として、そこから推論によって答えを求めようとする場合>である。もう一つは、これまで言及してこなかったものだが、<問いに対するある暫定的な答え、ないし答えの予想をえて、それを証明しようとして、それを結論とする推論を考える場合>である。この後者の場合には、推論の結論は最初にまだ不確実なものとして与えられており、それを証明するために前提を求め、推論によって当初の答えを証明しようとすることになる。このどちらにおいても、<推論は問いの答えを求めるプロセスである>といえるだろう。

 私たちが推論するのは、この二通りしかないのではないだろうか。いま私はこれ以外の場合を思いつかないのだが、そのことを論証する方法も思いつかないので、まだ不十分であるかもしれない。もしその他のケースを思いつく方がおられたら、教えて欲しい。

12 ミュンヒハウゼンのトリレンマによるローカルな懐疑主義?  (20200809)

[カテゴリー:問答と懐疑]

主張pについて「なぜpなのか?」と主張の根拠を問い、さらにその答えについても「なぜ」と根拠を問うことを繰り返すことができる。そうするとトリレンマに陥る。このとき、¬pの主張に関しても同様に、その根拠を問うことができるので、トリレンマに陥る。したがって、ある主張pがある時、私たちは「p」も「¬p」も主張できない。こうして、主張pに関する懐疑主義が帰結するだろう。

 ミュンヒハウゼンのトリレンマをもってしても、全面的な懐疑主義を論証することが難しいことは前に見たとおりだが、個別の主張についての懐疑主義ならば、可能である。ミュンヒハウゼンのトリレンマが、トリレンマという論理規則の妥当性を前提すること、「なぜpと主張するのか?」という問いが「主張は根拠を持つ」という根拠律を前提すること、を指摘して、この論証を批判するとしても、この論証を個別の主張や特定領域の主張についての懐疑主義に限るならば、その批判は当てはまらない。

 ミュンヒハウゼンのトリレンマを用いた議論で論証できるのは、ある主張を「究極的に根拠づけること」(die letzte Begruendung)あるいは絶対的に根拠づけることはできない、ということである。

 ローカルな懐疑主義には、もう少し弱い主張に対する懐疑主義もあるし、むしろこちらの懐疑主義について語られることの方がおおいかもしれない。山田圭一は『ウィトゲンシュタイン最後の思考』において哲学的懐疑の典型例として

(1)「外的世界」

(2)「他人の心」

(3)「過去の実在」

を上げており、次にこれらについて考えてみよう。

11 懐疑と批判  (20200808)

[カテゴリー:問答と懐疑]

ここからローカルな懐疑について考えたいが、ある主張を疑うことと、ある主張を批判することは同じだろうか。

 命題pの主張を疑うことは、「pは真であるか?」と問うことであり、場合によっては、「それは真ではないかもしれない」「それはおそらく偽であるだろう」などの推論をともなう。それに対して、命題pの主張を批判することは、「pは真ではない」と主張することである。

 ある主張の懐疑を経て、場合によっては批判に至ることがある、という仕方で懐疑と批判は関係している。その意味では、懐疑は批判に先行するプロセスである。

 批判は、ある主張が偽であることを主張することなので、「全面的な懐疑主義」とは相いれない。批判に先行するのはローカルな懐疑である。

 ところで、ローカルな懐疑とは異なるものとて、「ローカルな懐疑主義」というものを考えるならば、それはどのようなものになるだろうか。それはおそらく、ある対象(ないしあるクラスの対象)についてのある種の主張について、その真理性(適切性)を問うだけでなく、その真理性(適切性)については、不可知である主張する立場になるだろう。

 例えば、現象の背後にある「物自体」について、それがどのような性質を持つかを知ることはできないと主張することは、ここにいう「ローカルな懐疑主義」である。また、物自体がそもそも存在するのかどうかについて、不可知だと主張するのも、ここにいう「ローカルな懐疑主義」にあたるだろう。人生の意味は不可知だと主張するのも、「ローカルな懐疑主義」にあたるだろう。

 まとめると、

・懐疑は批判に先行するプロセスである。

・ローカルな懐疑とローカルな懐疑主義を分けることができる

 ところで、ミュンヒハウゼンのトリレンマを用いて、全面的懐疑主義を論証しようとすると、前回のべた3つの反論が持ち上がるが、ローカルな懐疑主義(特定領域の全ての命題や、特定の命題についての懐疑)を主張することに対しては、この3つの反論は無効である。つまり、ミュンヒハウゼンのトリレンマは有効であるように見える。

 ます、ローカルな懐疑およびローカルな懐疑主義と、ミュンヒハウゼンのトリレンマの関係を考えてみよう。

10 ミュンヒハウゼンのトリレンマから全面的懐疑主義へ?  (20200804)

[カテゴリー:問答と懐疑]

 ミュンヒハウゼンのトリレンマによる懐疑主義の論証は、次のようなものだった。

<主張の根拠について「なぜ」と問い、その答えである主張についてさらに「なぜ」と問うことを繰り返すと、無限に反復するか、どこかで循環するか、どこかでストップするという3種類しかなく、どれであっても最初の主張の正当かはできないので、どのような主張であってもそれの究極的な正当化はできない>

 この論証から帰結する主張は、「どのような主張も究極的に根拠づけることはできない」である。

これに対しては次のような反論が可能である。

 反論1:この主張は、自己矛盾する。

 反論2:この論証は、次のトリレンマ(推論規則の一つ)が正しいことを前提している。

       p1ならばqである。

        p2ならばqである。

       p1ないしp2ないしp3である。  

       ∴qである。

  ゆえに、この論証は自己矛盾している。(ただし、この推論規則の妥当性について、「なぜ、なぜ」と問い続けると、トリレンマに陥る。)

 反論3:この論証において、「なぜ、その主張ができるのか」「その主張の根拠は何か?」という問いを反復するが、この問いは、前提(蝶番)をもつ。それは、

   「すべての主張は、それが主張であるためには、何らかの根拠を持たねばならない」

という命題である。これは、西洋哲学の伝統では「根拠律」と呼ばれてきたものである。この根拠律についても、私たちは「なぜ根拠律は正しいのか?」と問うことができる。この問いに対して、私たちは、どう答えることができるだろうか? この問いは、「根拠律もまた何らかの根拠をもつ」という命題を蝶番としているように見える。

 このように全面的懐疑主義を吟味しようとするといたるところに自己矛盾や循環論証が現れる。ただし、循環論証は、論証の失敗ではあっても、そこから主張の間違いを導出することはできないものである。自己矛盾は、通常の主張の正当化の場合には、そこで間違いを認めざるを得ないものなのだが、懐疑主義の場合には、全てのことを疑うので、矛盾していても、その立場を保持することが(考え方によっては)可能である(おそらくナーガールジュナ(龍樹)ならば、自己矛盾が現れてもまったく気にしないだろう)。

 全面的な懐疑主義は、両刃の刃なのだが、宗教など、絶対的な真理を主張する人に対しては、有効である。また、自文化中心主義の人たちに対しては有効である。

 ということで、次にローカルな懐疑主義、特定の主張に関する懐疑主義を検討しよう。

9 懐疑主義の正当化の仕方の区別  (20200801)

[カテゴリー:問答と懐疑]

・疑いと懐疑主義の区別

 前に述べたように、「疑う」とは、ある命題の真理性ないし適切性を問うことだとおもいます。これは、日常生活でも頻繁に行っていることです。例えば、刑事ドラマを見るとき、私達は、登場人物をすべてについて、犯人かもしれないと疑ってみるとおもいます。このような疑いは、懐疑主義や懐疑論とは異なります。懐疑主義とは、ある命題の真理性ないし適切性を問うだけでなく、また、その問いに肯定的に答えられないと主張すること、あるいは否定的な答えの可能性が高いと考えることだけでもなく(ここまでならば、日常的な〈疑い〉に見られることである)、かなり十分に考えて、他者にその判断や態度を正当化する用意をもって、そのような否定的な判断ないし態度をとることである。例えば、自由意志についての懐疑主義とは、自由意志を疑ってみるだけでなく、自由意志の存在の主張を否定し、自由意識の非存在をかなりの程度正当化する用意をもっていることである。

・懐疑主義の様々な区別

 このような懐疑主義には、主張に関するもの、態度に関するもの、方法に関するものの区別があり、また、主張と態度に関するものについては、ローカルなものと全面的なものの区別があることを前回説明した。

 懐疑主義には、これらの区別に加えて、その正当化の仕方に関する区別がある。

 一つは、ある命題の真理性や適切性についての問いに、肯定的に答えようとすると、矛盾が生じることを示すことによって懐疑を正当化することである。

 第二のものは、ある主張が真である可能性を示し、もしその主張が真ならば、当初の問題になっている命題の真理性や適切性が成立しないことを示す方法である。

 第三のものは、問題の命題の正当化が不可能であることを示す方法である。古代の懐疑主義の方法がこれである。これの現代的なバージョンが、「ミュンヒハウゼンのトリレンマ」と名付けられた論証である。H・アルバートは、ある主張の根拠の根拠の根拠の・・・とさかのぼってゆけば、①無限に遡行する、②最終的に根拠づけが循環する、③根拠付けがストップする、という3つのパターンしかないことを示し、そのいずれの場合にも、最初の主張は根拠付けられないことを指摘した。彼はこれを「ミュンヒハウゼンのトリレンマ」と名付けた。(ミュンヒハウゼンとは「ホラ吹き男爵」のことであり、川に落ちたと時に、自分の髪の毛を掴んで岸に持ち上げたというホラにちなんで用いられた。)アルバートは、これによって、どのような主張も、究極的に根拠付けることはできないことを論証した。つまり、いわゆる「絶対的な知」などは存在しないことを論証した。

8 懐疑主義とは、主張か態度か方法か  (20200730)

[カテゴリー:問答と懐疑]

懐疑主義(skepticism)を3種類に分けることができるだろう。

(1)主張としての懐疑主義

この一つのタイプは、特定対象や領域に関する主張に対する「ローカルな懐疑主義」である。「その命題は疑わしい」「星占いは、疑わしい」「自然科学は疑わしい」のようなものである。

もう一つは、「全ての命題は疑わしい」と主張する「全面的な懐疑主義」である。これに対する、よくある批判は、「それではこの命題も疑わしいのか?」という問いに、「はい」と答えれば、懐疑主義を否定することになり、「いいえ」と答えても、懐疑主義を否定することになる、ということである。

 主張としての全面的な懐疑主義は、このように自己矛盾するので、成り立たない。

(2)態度としての懐疑主義

 これは、懐疑的な態度のことである。この態度の対象になるのは、命題、人物、制度、規範、などであろう。この場合にも、あらゆる対象に対して懐疑的にふるまう「全面的懐疑主義」と、特定の対象について懐疑的にふるまう「ローカルな懐疑主義」を分けることができるだろう。

 ローカルな懐疑主義は、成立可能であるが、全面的な懐疑主義は、成立不可能であろう。

なぜなら、疑うことは、命題の真理性や適切性について問うことの一種であり、問うことは一定の前提(ウィトゲンシュタインの言う蝶番)を受け入れることによって可能になるので、すべての命題を疑うことはできないからである。(ちなみに、人物、制度、規範などに対して、懐疑的な態度をとることは、人物、制度、規範などについての命題の真理性や適切性を疑うことである。)

(3)方法としての懐疑主義

 古代の懐疑主義は、そのものを目的にしているのではなく、懐疑によってある主張に固執することを避け、心の平静を保つための方法であった。また、デカルト的懐疑と言われるものは、確実な知を獲得するための方法であった。また「科学的懐疑」と言われるものは、常識や迷信を疑い、科学的な知を獲得するための方法である。

 以上が、懐疑主義についての大まかな分類である。では、私たちは、今日、懐疑主義を飼いならせているのだろうか。

7 規則遵守問題と蝶番への問い  (20200727)

[カテゴリー:問答と懐疑]

 「規則遵守問題」とは、「規則に従うとはどういうことか」という問題である。あるいは、〈規則に従っていることについての疑い〉が生じたときにどうすればよいのか、という問題である。

 「1000+2はいくつですか?」という問いに対する生徒の答えが「1004です」であるとき、教師は「君は、「+」の使用規則に正しく従っていますか?」と問うだろう。これは、〈「+」の意味(使用の規則)についての疑い〉である。したがって、〈規則に従っていることについての疑い〉は、〈表現の意味についての疑い〉の一種である。

もしこの生徒が、私たちと同じ意味で「+」を理解していたならば、生徒は単に計算間違いをしていたことに気づき、「すみません。間違えていました。1002でした」と答え直すだろう。この場合には、計算結果「1000+2=1004」の真理性についての疑いは、ふつうの「論理学や数学の命題への疑い」である。

しかし、この生徒が、ウィトゲンシュタインが語ったように、「でもぼくは〔これまで〕おなじようにやってきているんです!」と答えるのならば、その生徒は、この問い(とりわけ「+」)を私たちとは異なる意味で理解している。彼にとっては、「1004」という答えは、自明の答えなのである。

私たちは、問いの理解に従って、答えを求めるだろう。私たちが、ここでの規則遵守問題にほとんど気づかないのは、この問い(簡単な足し算問題)を理解したときには、答えもまた自明なものとして成立するからである。問いを理解したときには、「+」という表現の使用の規則にすでに従っているからである。

問答が成立していると互いに思っている限りで、両者は、問いも答えも同じように理解していると思っている。従って、問答が成立している限りで、問いの文の理解に関する規則遵守問題には気づかない。この生徒の「+」の理解が私たちの理解と異なることは、計算結果の違いに出くわすまでは、わからなかったことである。しかし、逆にいうと、足し算問題に私たちとおなじように答える生徒がいたとしても、その生徒は私たちとは異なる仕方で問いを理解し、私たちの答えと偶然に一致するような仕方で答えた、という可能性が常に残っている。

「私たちは、本当に言語の規則を共有しているのだろうか?」「私は、言語の規則に正しく従っているのだろうか?」という問い(規則遵守問題)には原理的に答えられないのだろうか。そこから、懐疑主義に陥るのではないだろうか。

<疑いには蝶番があり、その蝶番への疑いには、また別の蝶番があり、・・・>というように反復していくとき、疑いは、「哲学的な疑い」になる。なぜなら、哲学というのは、普通よりもより深くより広く問うことであり(これについては、カテゴリー「哲学とは何か」を見て下さい)、それは普通の問いの前提(蝶番)を問うことだからである。

次回から、懐疑主義について考えます。

02 CBDCによる資本主義と国家の関係の転換 (20200725)

[カテゴリー:グローバル化のゆくえ(2)]

 このカテゴリーの課題の一つは、「貿易と投資の自由化は、必然的に進んで行くように見えるが、それはなぜなのか」ということでした。しかし、最近このグローバル化に逆行する動きが見られます。

 前回発言01は20130829でしたので、およそ7年ぶりの発言になります。この間多くのことがありました。日本では2012年から第二次安倍政権が始まり、今も続きています。中国でも2012年に習近平が最高指導者になり、今も続いています。アメリカでは、2017年にオバマ政権からトランプ政権に変わり、アメリカの政策は大きく変わりました。ヨーロッパでは、ブレクジットも決定しています。

日本ではナショナリストが首相に居続け、中国でもアメリカでも指導者がかつての自国の繁栄の復活を目指しており、ヨーロッパでもEUから分離しようとする動きが複数みられます。グローバル化の流れは、必然ではなかったのでしょうか。(そうではない、グローバル化はやはり続くだろう、というのが、以下で示したい私の予想です。)

 中国とアメリカの覇権争いは、この数日新たな段階に入ったように思われます。アメリカの国務長官ポンペオ氏がいうように、私たちは、<中国が経済発展すれば、中間層が力を持つようになり、民主化が進むだろう、それは共産党独裁と矛盾し、いずれ政治システムの変化が生じるだろう>と考えていたと思います。しかし、現実にはそうなりそうにないように思われるようになりました。冒頭の予測が間違ったのは、中国の特殊事情のためだ、と思われているかもしれません。しかし、必ずしもそうではないと思います。なぜなら、自由主義諸国でも、冷戦後は経済格差が拡大し、中間層が没落しているからです。この時期に中間層が育たなかったのは、中国だけでなく、自由主義諸国でも同じなのです。

 つまり、<資本主義の発達>と<中間層の台頭による民主主義の発展>は、必然的に結びついているのではない、ということです。資本主義と民主主義の結合が必然的ではないとすれば、資本主義が共産党独裁と結合することも可能であることになります。

 経済のグローバリゼーションは、資本主義が国家を必要としないかのように思わせてきました。しかし最近の世界情勢は、資本主義が国家と結合していることを明らかにしつつあります。資本主義システムは、国家システムの影響を偶然に受けることがあるというよりも、むしろ資本主義システムは国家システムとの必然的な結合によって成り立っているのです。

 この結合の中心(の一つ)は、政府が貨幣を発行するということにあります。

・金貨の時代には、政府が発行する金貨の金の含有量を保証していました。

・兌換紙幣の時代には、政府が発行する紙幣と金との交換を保証していました。

・不換紙幣の時代には、政府が紙幣の発行量をコントロールしています。

 では、このあと貨幣はどうなるのでしょうか。そのような時代が来るかどうかわかりませんが、もしビットコインのような暗号通貨の時代になれば、通貨発行量を政府がコントロールすることはできなくなります。それゆえに、各国中央銀行は現在、ビットコインを拒否しています。フェイスブックのリブラも拒否されました。しかし、取引の利便性のために、各国がCBDC(中央銀行発行デジタル通貨)を採用しようとしています。もしそれが主流通貨となるとき、何が起きるでしょうか。外貨との交換は用意になり、外貨での支払いも用意になるでしょう。そうすると、政府が貨幣の発行量をコントロールしても、経済活動をコントロールすることは難しくなるでしょう。多くの人々は、金利の高い通貨や安定した通貨で資産を保有し、支払いのときには、必要に応じて、自国通貨などの通貨に交換して支払うだろう。これは、支払い時にスマホで簡単にできるようになるに違いない。もしこのようになれば、各国中央銀行が、自国通貨の発行量を調整することによって、自国の経済活動をコントロールすることは不可能になるだろう。

 以上から言えることは、次のようなことです。<少なくともこれまでは、資本主義システムは、通貨発行の主体である国家システムとの結合によって可能であった。しかし、通貨の主流がCBDCになるとき、貨幣による取引は、個別通貨から自由になり、国家が管理する通貨システムからの独立性を獲得するだろう。資本主義下の契約の自由は、従来は国家が管理する通貨によって可能になっていた。つまり、契約の自由が想定する個人の自由も、国家システムのもとで可能になっていたが、資本主義が国家に管理された通貨システムから自由になるとき、個人の自由もまた、国家システムから自由になるだろう。>