19 四肢構造と二重問答関係(2) (20200622)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

認識の四肢構造は次のようなものであった。

<能知的誰某が能識的或者として、現相的所与を意味的所識として認知する>

対象の側にも主体の側にも、「として」構造という二肢構造がある。これが四肢構造である。対象がどのようなものとして現れるかは、主体がどのようなものとして対象を見るかに依存している。前回の例で言うと、<人(能知的誰某)は、医者(能識的或者)として、レントゲン写真の白い部分(現相的所与)を肺がんの表象(意味的所識)として認知する>となる。

#対象の「として」構造と問答

対象の二肢構造(「として」構造)は、<認識が問いに対する答えとして成立する>ということによるのではないだろうか。たとえば「AはBである」という認識の場合、それは次の問いの答えとして成立する。

Q1「Aは何か?」 A1「AはBである」

この答えは、「AをBとして」とらえている。上の例では、認識の主体は、次の問答を行っている。

  Q1「レントゲン写真の白い部分(現相的所与)は何か?」と問い、「それは、肺がんの表象(意味的所識)である」と答える。

#主体の「として」構造と問答

では、主体の「として」構造は、認識における問答とどう関係しているのだろうか。

認識が成立する時、主体が次の問答を行っているとすると、

Q1「Aは何か?」 A1「AはBである」

Q1を問う者が、A1を答える者として、認識しているのだろうか。上の例でいうと、<Q1「レントゲン写真の白い部分(現相的所与)は何か?」と問う人(能知的誰某)が、「それは、肺がんの表象(意味的所識)である」と医者(能識的或者)として答える>のだろうか。つまり、能知的誰某と能識的或者の二肢に、問うことと答えることを割り振ることができるのだろうか。

 それとも、この割り振りは間違っており、問うことも、答えることも、<医者(能識的或者)としての人(能知的誰某)>がおこなうのだろうか。「レントゲン写真の白い部分(現相的所与)は何か?」という問いよりもさらに、専門的な問い、たとえば「レントゲン写真の肺の左下のこの小さなうっすらと灰色になった部分は何か?」というような専門家でなれば設定できないような問いを考えるならば、<医者(能識的或者)としての人(能知的誰某)>が問うのだという方がよいかもしれない。この場合には、二肢構造を持つ主体が、問いを設定し、それに答えることになる。

 この二つの解釈の内、どちらが正しいのだろうか?

廣松は、四肢の関係について次のように述べている。

「われわれは、能知的主体が、[…] 現相的所与の帰属者たるかぎりで「能知的誰某」と呼び、能知的主体が […] 意味的所識の帰属者たる限りで「能識的或者」と呼ぶことにしたいのである」148

つまり、現相的所与と能知的誰某が必然的に連関し、意味的所識と能識的或者が必然的に連関していると考えている。四肢の関係をこのように理解する限り、廣松ならば、二つの解釈のうちの、前者が正しいというだろうと考える

次に、廣松が、現相的所与と能知的誰某が必然的に連関し、意味的所識と能識的或者が必然的に連関しているという、理由を考察したい。

18 四肢構造と二重問答関係(1) (20200620)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

廣松渉(1933.8.11~1994.5.22)は、戦後日本のもっとも卓越した哲学者である。あるいは明治以後のもっとも卓越した哲学者だと言えるかもしれない。彼は、出世作『世界の共同主観的存在構造』(勁草書房,1975年)において四肢構造論を展開している。彼の哲学全体は、主著『存在と意味 事的世界観の定礎』の三巻で計画されていた。

第一巻「認識的世界の存在構造」

第二巻「実践的世界の存在構造」

第三巻「文化的世界の存在構造」

残念なことに出版されたのは、第一巻と第二巻の第二編までであり、病気のために、第二巻第三篇と第三巻は出版されなかった。

廣松は、従来の「物的世界像」に対して「事的世界観」を主張した。物的世界像の「実体主義」に対して、「関係の一次性」という用語で関係主義的存在観を主張した。実体が自存して第二次的に関係し合うのではなく、関係こそが第一次的存在であるという主張である。この関係の基本となるのが、四肢構造である。

『存在と意味』の第一巻では、認識の場面での四肢構造が説明され、第二巻では行為の場面での四肢構造が説明されている。まずは、第一巻の認識の四肢構造を紹介したい。

#認識の四肢構造

 第一巻では、「認知的に展らける世界現相」(xvii)の存在構造を扱う。

認知的に展らける「現相的世界」は四肢構造をもつとされる。認識の対象の二肢性と主体の二肢性である。

#認識の対象の二肢性

 認識は、「として」構造をもち、ある対象を「より以上の或るもの」として捉えることである。認識は、対象=「現相的所与」を「より以上のもの」=「意味的所識」として認識する、という二肢性を持つ。

 AをBとして認識する時、Aは所与とされるが、しかしAも実はすでに二肢構造を持っている。二肢構造を持つAが.Bとの関係において所与となるのである。

 たとえば、私が、コンビニにあるケーキをクリスマスケーキとして認知するとき、コンビニにあるケーキは所与であり、それ(現相的所与)を「クリスマスケーキ」(意味的所識)として認知するのであるが、しかしコンビニにあるその対象を「ケーキ」として認知する時に、すでに二肢構造が成立している。それは、「白いもの」を「ケーキ」として認知することかもしれない。そしてその白いものもまた、対象を「白いもの」として認知するという二肢構造をもつ。認知は、常に、何かを何かとして捉えるという二肢構造において成立するので、裸の対象があるのではない。所知は、所知―所識関係の項として成立する。所知であるものをこの関係から取り出して、対象化したときには、それはすでにあるもの「として」捉えられており、二肢構造をもつ。(この議論は、アリストテレスの「第一質料」に始まる。)

 このような対象の側の「として」構造は、解釈学や現象学で指摘されていたことであり、新しい指摘ではない。廣松の新しさは、認識の主体の側にも二肢性を指摘したこと、そしてその二つの二肢性が相関していることを指摘したことにある。

#認識の主体の二肢性

認識において、主体もまた「より以上の或るもの」として認識する。その二肢性は、一般的には、「能知的誰某」がそれ以上の「能識的或者」として認識するといわれる(『廣松渉著作集』第15巻136)。

コンビニのケーキを見て、クリスマスケーキとして認知するのは、現代の日本に生活する人間としてであり、だれでもそう認知できるのではない。

レントゲン写真の影を見て、肺がんがあると認知できるのは、訓練を受けた医者としてであり、だれでもそう認知できるのではない。

人(能知的誰某)は、医者(能識的或者)として、レントゲン写真の白い部分(現相的所与)を肺がんの表象(意味的所識)として認知する。

#認識の共同主観性

 牛を見て、「ワンワン」という子供がいるとしよう。大人は、その子供が、牛を犬だとおもっていると理解する。この理解は、次のようにして可能である。

その大人は、その子供「として」、その牛を、犬「として」見る。

ここでは、大人は、その子供の視座から牛を見ている。廣松は、これを「視座照応的」(『廣松渉著作集』第15巻146)、と呼び、照応関係の一種とみている。このような照応関係によって、共同主観性が成立する。

「両人は人称的能知主体としては別々でありながら、一個同一の「所識」を共帰属せしめている者としては同一の能知的主体である。」(『廣松渉著作集』第15巻147)。

「意味的所識」は自分にとってだけでなく他人たちにとっても存立するという間主観性、共同主観的同一性の故に、単なる自分一人の私念ではないこと、この間主観的妥当性によっても存立性をもつ。」(『廣松渉著作集』第15巻197)。

この一人称的主体以上の或者は、意味的所識が、共同主観的に同型化している限りで「共同主観的な或者」である。

能知は、「人称的誰某」以上の「共同主観的或者」である。(198)

「われわれは[…]「現相的所与」が「意味的所識」として「能識的或者」としての「能知的誰某」に対妥当するという二つのレアール・イデアルールな二肢的成態の連関、都合、四肢的な構造的連関態を挙示する。そして、この四肢的構制態をわれわれは「事」と呼ぶ」

(199)

(以上の四肢構造論の紹介の大部分は、2018年の秋冬学期講義「問答の観点からの哲学」第12回(20190111)からの転載である。

https://irieyukio.net/KOUGI/tokusyu/2018WS/2018ws12Hiromatsu.pdf )

 次に、この認識の四肢構造を二重問答関係の観点から分析しよう。

17 理論的問いは、実践的問いの上位の問いになりうる? (20200618)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

 実践的な問いに答える推論の前提は、意図表現の命題であるか、因果関係を記述する真理値を持つ命題である。それゆえに、意図表現の命題は、実践的な問いの答えとして与えられうる、また因果関係を記述する真理値を持つ命題は、理論的な問いの答えとして与えられうる。したがって、実践的な問いの下位の問いは、実践的な問いであるか、理論的問いであるかのどちらかである。

 これに対して、理論的な問いに答える推論の前提は、すべて真理値を持つ命題になる。真理値を持つ命題は、理論的な問いの答えであって、実践的命題の答えではない。それゆえに、理論的な問いに答える推論の前提を実践的問いによって得ることはできない。つまり、実践的な問いの上位の問いが理論的な問いであることはない。

 それでは、前回の反例をどう考えればよいのだろうか?

前回の反例:「この木の実のなかはどうなっているのだろうか?」という理論的な問いに答えるために、「この木の実を割るにはどうしたらよいだろうか?」という実践的な問いを立てることがある。

厳密に言うならば、「この木の実のなかはどうなっているのだろうか?」という理論的な問いに答えるために立てる最初の実践的な問いは、「この木の実の中がどうなっているかを知るには、どうしたらよいのだろうか?」という問いである。その答えとして「この木の実を割って中を見ればよい」が得られ、それに基づいて「この木の実を割るにはどうしたらよいだろうか?」という実践的問いを立てることになる。これは次のような問答の流れになるだろう。

「この木の実のなかはどうなっているのだろうか?」(理論的問い)

「この木の実の中がどうなっているかを知るには、どうしたらよいのだろうか?」

「この木の実を割ればよい」

「この木の実を割るにはどうしたらよいのだろうか」

「木づちで叩こう」

「木の実の内部は二つに分かれている」

 私たちは、すべての理論的問いについて、「この問いの答えを知るにはどうしたらよいのだろうか」という問いを立てることができるが、この問いは実践的な問いであろう。なぜなら、この問いは、「…するためには、どうすればよいのか」という形式を持っており、この形式の問いは実践的問いだからである。この問いに答えるためには、実践的推論が必要である。

 この問いの答えが命令や指令だとすると、厳密に言えば、それは真理値を持たないが、しかし正誤はありうるだろう。例えば「うまく卵焼きを焼くにはどうしたらよいのだろうか」という問いの答えを実行して、卵焼きをうまく作れたら、その答えは正しく、うまく作れなければ、答えは正しくないと言える。この問いの答えが「よくかき混ぜるべし」という指令であるなら、この答えは真理値を持たない。もしこの問いの答えが、条件文「うまく卵焼きを焼くには、よくかき混ぜればよい」だとしても、後件が指令であるので、やはり真理値を持たない。

 反例についての考察をまとめよう。「この木の実を割るにはどうすればよいのだろうか?」という実践的な問いのより上位の問いが、「この問いの答えを知るにはどうすればよいのか?」という実践的な問いであるとすると、実践的ない問いのより上位の問いは、実践的な問いである。しかし、「この問いの答えを知るにはどうすればよいのか?」という実践的な問いのさらにより上位の問いは、理論的な問いである。したがって、実践的な問いのより上位の問いが、理論的な問いである場合が存在することになる。

 Q1「問いQ2の答えを知るにはどうすればよいのか?」という実践的な問いのより上位の問いは、問いQ2であるとしよう。この問いQ2は、理論的な問いである場合と実践的な問いである場合がある。ここではさしあたり、この問いQ2が理論的な問いであるとしよう。このQ1の答えをA1、Q2の答えA2とするとき、ここでは、Q2→Q1→A1→A2という二重問答関係は成立していない。なぜなら、ここでのQ1の答えA1は行為の指令であるので、理論的な問いQ2に答える推論の前提にはなりえないからである。

(ちなみに、このことは、Q2が実践的な問いであるときも同様である。Q2が「どうやって肉じゃがを作ればよいのか?」という実践的問いであるとするとき、Q1は「Q2の答えを知るにはどうすればよいのか?」となり、その答えA1が、たとえば「ググればよいのです」であるとき、A1は、A2を導出するときの前提にはならない。)

 ここではQ2→Q1→A1→A2という二重問答関係が成立しておらず、A1からA2に至る過程が単純な推論ではなく、すこし複雑な過程になる。例えば、その一つの場合は、A1からA2にたどり着くには、A1の指令を実行して、その結果から得られた命題がA2であるという場合である。Q2→Q1→A1(指令)→指令の実行→実行の結果→A2、というような流れになるだろう。

 次回からは、「二重問答関係」と、廣松渉のいう「四肢構造」の関係を分析しよう。

16 二重問答関係とは? (20200617)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

 <推論は問いに答えるプロセスである>というのが、問答推論主義の出発点である。そして、推論は、問いと答えの関係の一種である。しかし、問いの答えを得るときに、常に推論を用いるわけではない。例えば、「それは何色ですか?」に対して「これは赤色です」と知覚判断で答えるとき、推論を用いていない(知覚もまた推論であるという主張については、後に考察したい)。また「何を食べますか?」に対して意思決定によって「うどんにします」と答えるときにも、推論をしていない。「なぜうどんにするのですか?」と問われて、例えば「なんとなくです」と答えるとき、少なくとも意識的には推論によって「うどんにします」と答えたのではないことが明らかだ。このように、問に対して、推論で答えるときもあれば、推論以外で答えることもある。

 ところで、問に推論で答える場合であれ、その他の仕方で答える場合であれ、どちらの場合であっても、問うときには、常にとは言わないまでも大抵の場合、より上位の目的がある。より上位の目的は、問いとして理解できるだろう。つまり、大抵の場合、問いは、より上位の問いを解くために立てられる。ここにつぎのような「二重問答関係」が成立する。

  Q2→Q1→A1→A2

これは、<問いQ2を解くために、問いQ1が立てられ、Q1の答えA1が得られて、A1を前提にして、そこから、Q2の答えA2が得られる>という関係を示している。

 二重問答関係には、いろいろなものがある。

 ここで、問いを、真理値を持つ命題を答えとする理論的な問いと、真理値を持たない命題を答えとする実践的な問いに区別することにしよう。理論的な問いは、より上位の理論的な問いを解くために立てられる場合と、実践的な問いを解くために立てられる場合がある。これに対して、実践的な問いは、より上位の実践的な問いを解くために立てられるが、より上位の理論的な問いを解くために立てられることはない。

 これまで、このように<実践的な問いが、より上位の理論的な問いを解くために立てられることはない>と論じたことが何度かあるが、果たしてそうだろうか。例えば、「この木の実のなかはどうなっているのだろうか?」という理論的な問いに答えるために、「この木の実を割るにはどうしたらよいだろうか?」という実践的な問いを立てることがあるのではないだろうか。

 これを検討しておきたい。

06 #前回の再検討 (20200614)

[カテゴリー:問答の観点からの権利論]

 前回は、すべての権利と義務を、問答に関する権利に還元できるだろうと考えて、例えば、次のように説明した。

①<Aする権利がある>とは、Aを自由に行えるということである。言い換えると、誰かに「Aしてもよいですか?」と問う義務がなく、かつ、他者からの「何故Aするのですか」という問いに答える義務がないことである

ここでの「義務」は法的なものである。ゆえに精確にいうと、次のようになる。

①<Aする法的権利がある>とは、Aを自由に行えるということである。言い換えると、誰かに「Aしてもよいですか?」と問う法的義務がなく、かつ、他者からの「何故Aするのですか」という問いに答える法的義務がないことである。

前回の②も同様に精確に言い直すと次のようになる。

②<Aする法的義務がある>とは、Aすることに関する問い(「なぜAしなければならないのですか?」とか「どうしてもAしなければならないのか?」など)への法的権利がない(つまり、それらの問いへの答えが得られなくても、また答えに不満があっても、行為しなければならない)ということである。

この①と②が成り立つとするとき、法的な権利・義務一般を、問答に関する法的な権利・義務に還元できるのだろうか?

①によって、<Aする法的権利がある>の下流推論が明示されている。

Aする法的権利がある。┣ 誰かに「Aしてもよいですか?」と問う法的義務がなく、かつ、他者からの「何故Aするのですか」という問いに答える法的義務がない

②によって、<Aする法的義務がある>の下流推論が明示されている。

Aする法的義務がある。┣ Aすることに関する問い(「なぜAしなければならないのですか?」とか「どうしてもAしなければならないのか?」など)への法的権利がない。

これらの下流推論はこれらだけはないだろう。それゆえに、権利や義務一般を、この下流推論を用いた言い換えに還元できないだろう。なぜなら、pの下流推論がp┣rとp┣sの二つあるとするとき、s┣rとなるとはかぎらない。つまり、sをrをもちいて言い換えられるとは限らない。したがって、rという表現を導入したとしても、pという表現が不要になるわけではないからである。

物に対する権利は、行為に対する権利に還元できるだろう。このカテゴリーでは、行為に対する権利をさらに、問答に関する権利・義務に還元できなるのではないかと探求している。その発想の根っこは、権利関係が、言語的コミュニケーションによって構成され調整されているのだとすれば、それを分析すれば最終的には問答に関する権利・義務になるだろう、という予測にある。もしこの還元ができないのだとすると、その原因・理由を明確にすることによって、権利関係についての認識が深まるだろう。

 次回は、アプローチを変えて取り組むことにしたい。

10 太陽光はなぜ無色透明なのか (20200611)

[カテゴリー:日々是哲学]

「太陽光は、なぜ無色透明なのだろうか?」

 恒星が無数にあり様々な色をしている中で、私たちの太陽系の光がたまたま無色透明であった、ということは考えられないだろう。つまり、どの恒星の知的生物も、その恒星の光を無色透明と感じるのではないかと思われる。

原因1:すぐに思いつく答えは、サングラスを長時間していると、それが普通になって、青色であること忘れているのとどうように、太陽光も小さい頃からずっとその光のもとでものを見ているので、それが普通になって、色を感じないのである。

原因2:(この原因2は、原因1と両立するだろう。)人間の視神経は、太陽の光のもとで発生し進化してきた動物の視神経の進化の産物である。動物の視神経は、太陽光によって身体の周りの状態を認識するためにより適切なものへと進化してきた。そのときに、太陽光を無色透明と感じることが最も適切なのではないだろうか。なぜなら、もし太陽光を無色透明と感じないとすると、太陽光のもとで、認識が妨げられる対象が存在することになるように思われるからである(この点は、もうすこし詳細な論証が必要だろう)。そのような視神経は、生存のための適切性に関して劣る。このことは、人間だけではなく、他の動物の視覚についても同様であろう。

 この原因2の方は、もっと複雑な議論が必要になるだろう。人間は三色型色覚であるのに対して、二色型色覚(犬)、四色型色覚(鳥)の動物などは、その方が生存に有利だったのだろうとおもわれる。犬にとって、太陽光が無色透明なのかどうかわからない。人間にとっては、三色合わさって無色透明になるのかもしれないが、犬にとっては二色合わさって無色透明になるのかもしれない。これはクオリアの問題なので、物理学では決着のつかない問題かもしれない。というわけで、太陽は何故無色透明なのか、に答えるには、原因1と原因2だけでなく、クオリアの問題も考えなければならない。

このことは、視覚だけでなく、聴覚、触覚、味覚、嗅覚、についても同様であろう。

 「空気はなぜ無臭なのか?」

 「唾液はなぜ無味なのか?」

これらの問いに、色の場合と同じように答えることができるだろう。

05 権利と義務を、問答に関する権利に還元できるだろうか? (20200609)

[カテゴリー:問答の観点からの権利論]

#権利・義務・禁止について

 <Aする権利がある>とは、Aすることが自由であるということである。つまり、Aすることもしないこともできる。それゆえに、Aをする権利がないときには、Aをする義務があるか、Aすることが禁止されているか、のどちらかである。従って、ここに3つの場合がある。

   Aする権利がある

   Aする義務がある

   Aすることが禁止されている。

ただし、Aすることが禁止されているとは、Aしない義務があるということと同じである。

#すべての権利と義務を、問答に関する権利に還元できるだろうか?

①<Aする権利がある>とは、Aを自由に行えるということである。言い換えると、誰かに「Aしてもよいですか?」と問う義務がなく、かつ、他者からの「何故Aするのですか」という問いに答える義務がないことである。(言い換えるとAに関する問答から解放されているということ、さらに言い換えると、Aに関して問答無用である。)

②<Aする義務がある>とは、Aすることに関する問い(「なぜAしなければならないのですか?」とか「どうしてもAしなければならないのか?」など)への権利がない(つまり、それらの問いへの答えが得られなくても、また答えに不満があっても、行為しなければならない)ということである。(言い換えると、問答無用でAしなければならない、ということである。)

権利一般ではなく、特定の個人間の権利や義務については、次のようになる。

③<Xは、Yに対してAする権利がある>=<Yは、XがYに対してAすることを受け入れる義務がある>

 XはYに「Aしてもよいですか?」と問う必要がない。XはYの「なぜAするのですか?」という問いに答える必要がない。Yは「なぜXの行為Aを引き受けなければならないのですか?」という問いへの答えを得られなくても、またその答えに不満があってもAを行わなければならない。

④<Xは、Yに対してAしてもらう権利がある>=<Yは、Xに対してAする義務がある>

もしXさんが望めば、YはXに対してAを行わなければならない。<Aする義務がある>とは、「Aをしなければなりませんか?」とか「なぜAをしなければならないのですか?」などと問うことができない、ということである。

以上の説明は、<…する権利がある>や<…する義務がある>から、問答に関して何が帰結するかを述べているものである。つまり、<Aする権利がある>や<Aする義務がある>の下流推論を述べており、上流推論については何も述べていない。しかし、上記の下流推論があれば、ある権利を問答の権利に還元できるのではないだろうか。

この点を明確にするために、次に問答の権利と義務について考えてみよう。

04 他者の行為を禁止するとはどういうことか? (20200608)

[カテゴリー:問答の観点からの権利論] 

ある対象Xを所有することは、少なくとも次の3つを含む(あるいは、次の3つを結論とする3つの下流推論をもつ。)

  ①Xを自由に使用できる。

  ②Xを自由に処分(加工、売却、廃棄、破壊、など)できる。

  ③他者がXを使用したり処分したりすることは、禁止されている。

この中の最後の部分についても、問答の権利として説明できるのかどうかを検討しよう。

 (所有権の場合に限らず)権利があれば、その権利を侵害してはならないという義務が発生している。そして、(道徳的な義務の場合はさておき)法的な義務の場合には、義務違反に対して法的な罰が与えられる(法的に禁止されている)。ところで、他者がXを使用したり処分したりすることは、①と②の権利の侵害である。ゆえに、他者がXを使用したり処分したりすることは、義務違反であり、法的な罰が与えられる(法的に禁止されている)。ここで、禁止したり、禁止できたりするのは、私ではなく、社会である。それゆえに③は、私がする行為ではない。私がすること、あるいはできることは、他者が①や②を侵害したときに、警察や裁判所に訴えることである。③は、①と②の権利命題から帰結する。

 仮に警察や裁判所がない社会であるとしても、権利が成立している社会であれば、その侵害が生じたときに、侵害した者を罰っしたり、保障したりする何らかの仕組みがあるはずである。もしそれがないのならば、その社会で、その権利があるとは言えないだろう。例えば、Xの所有権をもつということが、たんにXをある時点で占有しているということと同じことになってしまう。

 Xについての所有権の侵害が発生している可能性がある時には、所有権を持つ者は、「Xをどうするのか?」「なぜそうするのか?」という問う権利(同じことだが、問いかつその答えを求める権利)をもつ。所有権の侵害が明白であるときには、Xの返還や保障を求める権利が発生する(この権利についても、問答の権利として説明できるが、それについては後にする。)

 以上によって、プライバシーへの権利と所有権を問答の権利に還元できると言いたいのだが、もう少し明確にするためにも、次に、これらの議論を権利一般についての議論へ拡張したい。

03 所有権を問答の権利に還元できるか? (20200607)

[カテゴリー:問答の観点からの権利論]

プライバシーについての前回の説明に倣って、最も基本的な権利だと考えられている「所有権」についての説明を試みてみよう。

 ある対象Xを所有するとは、

  Xを自由に使用でき、

  Xを自由に処分(加工、売却、廃棄、破壊、など)でき、

  他者がXを使用したり処分したりすることを禁止できる

ということである。

<Xを自由に使用・処分できる>とは、「なぜXを使用するのか?」「なぜXを使用しないのか?」「なぜ売却するのか?」「なぜ売却しないのか?」、「Xをどうするつもりか?」などに答える必要がないということである。

 (なぜなら、もしこれらの問に答えたならば、その返答に拘束され、Xの使用・処分の自

由が制限されることになるからである。なぜなら、例えば「ある理由Yゆえに、処分するのだ」と答えたときには、その理由Yが解消したときには、Xを使用・処分する理由がなくなるからである。もちろんそのときにもXを使用・処分をすることはできるが、その時同じように「なぜXを使用するのか?」と問われたら、答えることが必要になってしまうのである。そのことは所有者の自由をそこなう。)

まとめるとこうなるだろう。

 <Xを所有する>とは、<「Xをどうするのか?」「なぜXを…するのか」という問いに答えることを拒否できる>ということである。別の言い方をすると<「Xの所有に関する問いに答えるかどうか」「どう答えるか」「どういう理由で答えるか」などが、その人の自由にゆだねられている>ということである。

 これらの問いを拒否できる理由は、それが私の問題であり、あなたの問題ではないということである。「問いQが私の問題であり、あなたの問題ではない」とは、「問いQにどう答えるかは、私の自由である」ということである。問いQは、私の個人問題である。

 個人問題によって個人が成立する。前回、プライバシーに関連して、個人情報によって個人が構成されるといったが、個人問題によっても個人が構成される。個人情報は真偽をもつが、個人問題は真偽を持たない。もちろん、ある問題がある人の個人問題であるということは、真偽をもつ個人情報であるが、個人問題そのものは、真偽を持たない。

 もう一つ説明すべきことが残っている。それは、<他者がXを使用したり処分したりすることを禁止できる>とはどういうことか、ということである。これを次に考えよう。

02 プライバシーは、問答に関する権利である (20200605)

[カテゴリー:問答の観点からの権利論]

(昨年秋にプライバシーについて考えていて、それが問答に関する権利だと気づいた。この考えをすべての権利に拡張できるのではないかと思いついて、「すべての権利は問答に関する権利である」と考えるに至った。そこで、まずプライバシーについての最初の思いつきを説明したい。)

#プライバシーを問答の権利に還元する

(注:アメリカの弁護士のウォレンとブランダイスは、論文「プライバシーの権利」(The Right to Privacy)(1890)で、プライバシーを「一人でいさせてもらう権利」(the right to be let alone)と定義した。ウェスティンが『プライバシーと自由』(1967)で、プライバシーの権利を「自己に関する情報に対するコントロールという権利」であると定義した。)

 これを踏まえて、プライバシーを二つに分けて、「一人にしておいてもらう権利」を「消極的プライバシー」とよび、「自己に関する情報に対するコントロールという権利」を「積極的プライバシー」と呼ぶことができるだろう。

A、消極的プライバシーについて

 プライヴァシーへの権利を認めることは、自分のことについて問われたときに、「知りません」とか「わかりません」と応えしても良い、ということではない。なぜなら、それは嘘を付くことだからである。プライヴァシーを認めるということは、それについて問われたときに、「それには答たくありません」とか「ノーコメントです」と応えることを認めるということである。あるいは他者には<問うてその答えを求める権利>がないような問いがあるということである。「問う権利がない問い」「答える義務がない問い」があるということである。

 ただし、問う権利とその答えを得る権利は、区別すべきである。例えば、警官に名前を問われたときに、市民には答えない権利があるが、しかし、警官に問う権利はあるだろう。警官は名前を問う権利を持つが、その答えを得る権利をもたない。市民同士であっても同様だろう。私たちは、他者に名前を尋ねる権利をもつのではないだろうか。ただし、答えてもらう権利はない。

 問いによっては、他者に問う権利がないものもある。例えば、就職の面接では、「あなたの本籍地はどこですか?」「家業は何ですか?」「支持政党はどこですか?」など問うてはいけないとされる問いがある。

B、積極的プライバシーについて

 私は私についての情報で構成されている。個人は、個人情報で構成されている。したがって、自分の個人情報を自分でコントロールすることは、自己支配、自己決定することにほかならない。プライバシーへの権利は、自己決定の権利の一部である。

 ところで、他者がもっている自己に関する情報をコントロールするとは、次のようなことであろう。

   ①他者が自分についてどんな情報を持っているのかを知ること

   ②他者が自分について持っている情報を訂正すること

   ③自分についての情報を他者がどのように扱うべきかを指示できること

①は、「あなたは、わたしについて何を知っていますか?」と問い、それに答えてもらう権利を持つことである。

②について説明しよう。「相手に訂正を強制する」とは、相手の同意なく、相手にAを行わせることである。言い換えると、<相手に個人の情報の訂正を行わせる権利がある>とは、「なぜ訂正しなければならないのですか?」という相手の問いに答える義務がなく、かつ、相手に「訂正してもらえますか?」と問う必要がなく(儀礼上は別にして)、端的に「訂正せよ」と命令できるということである。

 ただし、その情報が真であるなら、この限りではない。例えば、私が昨日駐車違反をしたとしよう。私が昨日駐車違反したことは、私の個人情報である。この個人情報を、私が昨日駐車違反しなかった、というように訂正することはできない。なぜなら、私が昨日駐車違反したことは事実だからである。事実である情報を修正することはできない。それは偽だからである。

③について説明しよう。「相手に個人情報をある仕方で扱うことを強制する」とは、相手の同意なく、相手にAを行わせることである。言い換えると、<自分についての情報を相手にある仕方で扱わせる権利がある>とは、「なぜそのように扱わなければならないのですか?」という相手の問いに答える義務がなく、かつ、相手に「しかじかに扱ってもらえますか?」と問う必要もなく(儀礼上は別にして)、端的に「しかじかに扱いなさい」と命令できるということである。

 ただし、このような権利があるのは、個人情報の内容や、相手の資格や、相手と私との関係、などに依存する。たとえば、その個人情報が、新型コロナウィルスに感染しているということであれば、医者は、患者の意向に関わらず、それを保健所に報告する義務があるだろう。

このように「プライバシーへの権利」は、個人情報に関する問答についての権利である。