07 問いの答えが、正当化と無縁である場合 (20200524)

[カテゴリー:日々是哲学]

 前回までで分かったことは、<もし問いの答えが(狭い意味で)非合理であるとしたら、その問いの答えは正当化と無縁である>ということです。(ただし、<もし問いの答えが正当化と無縁であれば、それはかならず非合理である>とは言えないだろうと予想します。)

 ここで、<正当化と無縁である>とは、<正当化できないし正当化を必要としない>という意味です。例えば、「食堂で何にしますか?」と問われて、「うどんにします」と答えたとき、この答えは、正当化を求められていないし、正当化する必要もないし、正当化することもできないと思います。お店の人が「何故、うどんにするのですか」と(正当化を求めて)問うことはありません。なぜなら、うどんであれ、他の何かであれ、お店の人にはどちらもでも好いからです。もし一緒にいた友人から「なぜうどんにするの?」と問われたら、「特に理由はありません」とか「うどんを食べたいと思ったから」とか「うどんがすきだからです」とか「いつもうどんを食べているからです」とか「昨日は蕎麦だったから」とか答えることもできます。この場合に、(最初の「特に理由はありません」以外の)これらの答えは、うどんを注文する理由であっても、うどんにしなければならないこと説明するものではありません。つまり、うどんの注文を正当化するものではありません。

 このうどんの注文は典型的な例です一般に自由な決定を求める問いに対する答えは、自由な決定であり、正当化を必要としないし、正当化できません(なぜなら、正当化できるとすれば、自由な決定ではなくなるからです)。

 では、この場合の「うどんにします」という注文は非合理でしょうか。「xは非合理である」といえば、そこから「xは避けるべきことである」ということが帰結するように思います。しかし、うどんの注文は、避けるべきことではありません。では、「うどんにします」という注文は、合理的でしょうか。正当化を必要としない答えであるのに、これが合理的であるとしたら、その場合の「合理的である」とはどういう意味でしょうか。

 もう一度まとめるとこうなります。自由な決定を求める問いに対する答えは、正当化を必要としない。しかし、それを非合理な答えということはできないように思われる。では、それは合理的な答えなのだろうか。それとも、合理的でも非合理でもない答えなのだろうか。これを次回に考えたいと思います。

06 問いの答えが事実の記述でない場合 (20200520)

[カテゴリー:日々是哲学]

#問いの答えが、事実の記述でない場合の一つは、価値判断である場合である。

価値判断については、認知主義者は、事実と同じく価値は実在しており、認識の対象であると考える。そして価値判断は実在する価値の記述であり、真理値を持ちうる。それゆえに、価値判断は合理的な判断である。

価値判断について、非認知主義者は、事実についての認識に価値を付与する仕方で、価値判断を行う。つまり、価値そのものを認知するのではなくて、価値は付与されるもの、ないし構成されるものだと考えるのが、非認知主義である。したがって、価値判断は真理値を持たない。ただしこの場合でも、価値判断は恣意的なものではなく、似たような対象については似たような価値判断をすべきだと考えられている。その限りで、価値判断には何らかの従うべき基準があり、それに従う限りで合理的な判断である

認知主義であれ非認知主義であれ、似たような対象については(似たような状況では)、似たような価値判断をすべきであろう。したがって、価値判断については何らかの正当化があるはずだから、その答えは合理的である。

#問いの答えが、事実の記述でない場合のもう一つは、実践的推論の結論の場合である。

「xするにはどうしたらよいのか?」というような問いに対して、実践的推理によって答える場合である。これの答えは、真理値を持たない。むしろ、「…すべし」という指令になるだろう。理論的推論ではないが、これもまた推論による答えである。そして、この実践的推論で答える答えもまた合理的である。

問いの答えは、それが価値判断である場合も、実践的推論の結論の場合も、正当化可能なものであり、その内容は合理的なものでありうる(もちろん不合理なものの場合もある)。

では、問いの答えが正当化と無縁であるような場合はないのだろうか。

05 合理な答えと非合理な答えの区別 (20200518)

合理的な答えと非合理な答えの区別を論じ前に、「不合理な答え」と「非合理な答え」の異同について説明したいとおもいます。不合理性もまた、問いに対する答えがもつ性質だと考えています.

ところで「不合理」も「非合理」も、英語ではどちら’irrational’であり、英語にはこの区別はなさそうです。しかし、日本語の場合には、いかに述べるような違いがあるとおもいます。

 問いに対する不合理な答えとは、合理的な答えと矛盾する答えであり、間違った答え、避けるべき答えである。このような不合理な答えを、非合理なり答えということあるようにおもう。例えば、男女差別の制度は、この意味で不合理な制度であるが、それを非合理な制度ということもできる。他方で、合理的な答えが存在しない問いに対する答えを、非合理な答えということもある。この場合、非合理な答えは合理的な答えと矛盾することはない。それゆえに、非合理な答えは、不合理な答えを含むがより広い概念である。

 不合理な答えである部分を除いた非合理な答えを、狭義の非合理な答えと呼ぶことにしよう。ところで、合理的な答えを持たない問いの答えは、すべて狭義の非合理な答えなのだろうか。

 まずは、合理的な答えを持つ問いとはどのようなものなのかを考えよう。

・答えが知覚によって得られる時、また答えが記憶によって得られる時、それらの答えは推論に基づいてはいないが、非合理ではない。知覚や記憶に基づいて答えることもまた、合理的である。

・問いの答えが、推論によって得られる時には、その答えは合理的である。

 問いの答えが、推論によって得られる時、推論には前提が必要であるが、その前提もまた別の問いの答えとして得られる。この前提が、問いに対する非合理な答えであるとしても、それから推論によって得られる答えは、とりあえず合理的な答えだとしておく。

・問いの答えが知覚によって得られる場合

「この紙の裏側は何色か?」と問われたとき、その紙を裏返して、そこを見て、「白色です」と答える。このときの答えは、推論によらず知覚によって得られる。

・問いの答えが記憶によって得られる場合

 「前回の哲学の世界大会はいつでしたか?」と問われたとき、記憶によって「2018年でした」と答えるとき、この答えは、記憶によって得られる。

 「次回は2023年で、前回はその5年前なので、2018年でした」と答える時には、記憶だけでなく、次の推論によって答えている。

  次回開催は2023年である。

  世界大会は5年おきに開催される。

  前回の世界大会は、2023年の5年まえである。

  ゆえに、全体の世界大会は2018年である。

・問いの答えが伝聞によって得られる場合

  「前回の哲学の世界大会はいつでしたか?」という問いに、インターネットで検索して前回の世界大会が2018年であったことを知る時には、伝聞によって答えたのである。

・問いの答えが、知覚、記憶、伝聞によって得られる場合、その答えは、事実の記述である。事実の記述に関しては、合理的な答えがあるだろう。したがって、知覚による答え、記憶による答え、伝聞による答えは、(推論によって得られる答えではないが)合理的な答えとなりうる。

では、問いの答えが、事実の記述でない場合には、どのような場合があるだろうか。

04 非合理性とは何か? (20200515)

[カテゴリー:日々是哲学]

 哲学でも、「非合理性」が議論されることがしばしばありますが、非常に多様な仕方で語られます。それは行為の非合理性であったり、決定の非合理性であったり、感情の非合理性であったりします。それらの多様な非合理性をまとめて共通要素を取り出して扱うことができるのか、それとも多様な非合理性のそれぞれについて区別して分析すべきものなのか、曖昧なことが多いです。

 そこで、ここではまず次を提案したいと思います。

  <合理性/非合理性は、問いに対する答えがもつ性質である>

現代の真理論では、真理の担い手(truth bearer)と真理の作り手(truth maker)を区別して議論されます。真理の担い手とは、「…は真である」という述語が述定される対象のことあり、命題や発話が真理の担い手とされることが多いとおもいます。真理の作り手とは、真理の担い手に真とならせるものものであり、対応や整合性などが考えられることがあります。真理論については、別途論じることにして、ここでは、この担い手と作り手の区別を「合理性/非合理性」に当てはめて考えたいと思います。

  <合理性/非合理性の担い手は、問いに対する答えである>

 問いの答えは、合理的であったり、非合理であったりするということです。信念、行為、感情、欲求などについて、非合理であると言われることがありますが、その理由は、これらが問いに対する答えとなるからだと思われます。(これらは、問いの答えとして、合理的なものである場合もありえます。)

 これらは、人間の反応や振る舞いの一種ですが、これらとは異質なものである「制度」についも、制度が合理的とか、制度が非合理とか言われることがあります。制度が合理的なものや非合理なものであるのは、制度が問題の解決(問いの答え)であるからである。(社会制度(社会組織と社会規範)が社会問題の解決策であるということについては、カテゴリー「問答としての社会」で論じています。)

 ちなみに「自然は合理的である」と言うことができる。このように語ることができる理由は、自然が問いに対する答えであるからではなくて、自然についての真なる記述が、つねに問いに対する答えとして合理的だからだといえるだろう。

 (問いもまた、それの問い自体が上位の問いの答えであるときには、合理性/非合理性の担い手となりうる。つまり「合理的な問い」や「非合理な問い」がありうる。)

 合理性/非合理性の作り手について、つぎに考えてみます。

14 保存拡大の語彙による事実の明示化 (20200514)

(これまでの話をまとめよう。06回以後の議論をまとめよう。論理的語彙と疑問の語彙は、拡大保存であり、その他の語彙の意味を変えないので、その他の語彙の意味の分析に利用できる。

(自然数論と幾何学の語彙が保存拡大であるかどうかは、ペンディングにして)科学の語彙や日常語は(少なくともその一部は)非保存拡大である。)

 ここでは、表現の意味の明示化に利用できる論理的語彙と疑問の語彙は、同時にまた事実の明示化に利用できることを示したい。

 推論関係によって表現の意味が明示化したり、確定したりできるのは、推論関係が、表現の意味を変えないからである。もし推論関係が表現の意味を変えてしまうとすれば、それによって表現の意味を明示化することはできないだろう。問答によって表現の意味を明示化できるのは、問答が表現の意味を変えないからである。

 論理的な語彙の使用が、他の語彙の意味を変えないとすれば、他の語彙による事実の記述の意味だけでなく、事実の記述の真偽にも影響を与えない。それゆえに、論理的推論は事実の分析に役立つ。事実の論理的分析によって得られた命題(つまり事実についての記述から推論して得られた命題)もまた事実の真なる記述であり、事実を表現している。

 ところで、論理的な語彙の使用が、他の語彙の意味を変えず、それらを持ちた表現の意味の明示化が可能になる、ということは証明できたとして、では実際に表現の意味を明示化することはどのように行われるのだろうか。たとえば、しりとりは、語の意味を変えないゲームである。しかし、しりとりをしても語の意味が明示化できるわけではない。同じように、

  p⊃r、p┣r

という推論は、pやrの意味を変えない。それゆえにこそ、pやrには任意の文を代入できる。しかし、このような推論は、pやrの意味を何ら明らかにしない。

では、推論が表現の意味を明示化できるのはどのような場合だろうか。「これはリンゴである」の導入規則(上流推論)と除去規則(下流推論)で考えてみよう。

これはマッキントッシュである┣これはリンゴである。

これはイブがエデンで食べた果物である┣これはリンゴである。

  これはリンゴである┣これは果物である

   これはリンゴである┣これはバラ科の高木の実である。

これらの推論によって、「これはリンゴである」の意味は明示化される。これらの推論は、ブランダムが実質推論と呼ぶものであり、これらの実質的推論を学習することが語「リンゴ」を学習することであり、これらの実質推論によって意味が明示化されている。

 これらの前提と結論には、論理的語彙(論理結合子)は使用されていないが、推論関係を示す「┣」を「ので」で表現すると次のようになる。

これはマッキントッシュであるので、これはリンゴである。

これはイブがエデンで食べた果物であるので、これはリンゴである。

  これはリンゴであるので、これは果物である

   これはリンゴであるので、これはバラ科の高木の実である。

推論は条件文に言い換えることができるが、実質推論の場合、この条件文が真であることは、語の意味に依存する。言い換えると、語の意味がこの条件文で表現されている。論理的語彙「ので」をもちいたこれらの条件文は、「これはリンゴである」の意味を明示化している。

 推論の前提や結論の中で論理的語彙が使用される場合にも、それらは意味の明示化に役立つ。次のような場合である。

    AはBの西にあり、かつ、BはCの西にある┣AはCの西にある。

    AはBより硬い、かつ、BはCより硬い┣AはCより硬い。

 この推論は、「かつ」の意味だけに依存するのではなく、「の西にある」や「より硬い」の意味に依存している。

 これらの推論の中の論理的語彙は、その他の表現の意味を変えることなく、実質推論においてそれらの意味を明示化するのに役立っている。日常生活における言語使用の多くはこのような推論になっている。

 ところで、このような実質的推論は、意味を定めたり意味を明示したりしているだけでなく、同時に対象や事実を明示している。

これはマッキントッシュであるので、これはリンゴである。

とうい条件文は、「マッキントッシュ」と「リンゴ」の関係を明示化するだけでなく、対象<マッキントッシュ>と対象<リンゴ>の関係を明示化している。「ので」を用いても、もとの語の意味や指示対象に変化を与えないことから、二つの対象が、類と種の関係にあることが明示化されている。

    AはBより硬い、かつ、BはCより硬い┣AはCより硬い。

という推論は、「より硬い」という述語が推移性をもつことを明示しているだけでなく、関係<より硬い>が推移性をもつことを明示している。「かつ」を用いても、もとの表現の意味や真理値に変化をあたえないことから、<より硬い>という事実的関係が推移性をもつことが明らかになる。

 このように保存拡大の語彙を用いることで、意味の明示化だけでなく、対象や事態の明示化が可能になる。そうすると、非保存拡大の語彙を用いても、意味の明示化ができないだけでなく、対象や事態の明示化もできないことになるのだろうか。そうではないだろう。なぜなら、科学研究でも日常の探究でも、私たちは非保存拡大の語彙を用いてそれを行っているからである。

03 プラトンと龍樹から (20200512)

前回の知の成立を説明する上での難問に対するプラトンの答え、より正確には対話篇のなかでのソクラテスの答えは、少し長いですが、次の通りです。

「魂は不死なるものであり、すでにいくたびとなく生まれ変わってきたものであるから、そして、この世のものたるとハデスの国のものたるとを問わず、いっさいのありとあらゆるものを見てきているのであるから、魂がすでに学んでしまっていないようなものは、何一つとしてないのである。だから、徳についても、その他いろいろの事柄についても、いやしくも以前にもまた知っていたところのものである以上、魂がそれらのものを想い起すことができるのは、何も不思議なことではない。なぜなら、事物の本性というものは、すべて互いに親近なつながりをもっていて、しかも魂はあらゆるものをすでに学んでしまっているのだから、もし人が勇気を持ち、探求に倦むことがなければ、ある一つのことを想い起したこと――このことを人間たちは「学ぶ」と呼んでいるわけだが――その想起がきっかけとなって、おのずから他の全てのものを発見するということも、充分にありうるのだ。それはつまり、探求するとか学ぶということは、じつは全体として、想起するということにほかならないからだ。」

(『メノン』藤澤訳、81C-D)

彼は想起によって知の成立を説明します。これが有名なプラトンの「想起説」です。

ところで、龍樹もまたこれとほぼ同じ論証をしています。

「認識されたもの、あるいは認識されていないものについて疑惑を抱くことはない。(前者はすでに)存在し、(後者はいまだ)存在しないからである。

 このばあい人は、すでに認識された対象か、いまだ認識されていない対象か、あるいは現に認識されつつある対象について疑惑をもつのであるが、すでに認識されおわった対象について疑惑をもつことはありえない。まだ認識されていない対象についても疑惑をもつことはありえない。そして(以上の二つと別に現在)認識されつつあると言われるような、第三の対象も存在しないのである。したがって、疑惑は存在しないのである。」(龍樹「ヴァイダルヤ論」118a、梶山雄一訳(『大乗仏典14』中公文庫)p.208-209)

この「疑惑」を「問い」と置き換えてもよいでしょう。<認識されている対象ついてはもはや問う必要はないし、認識されていないものについては問いを抱くこともできない。したがって、「問い」というものは存在しない>というのがここでの龍樹の主張です。

この主張に対して、龍樹は次のような反論を予想しています。

遠くに、杭であるのか人であるのかはっきりとしない対象が見える時、「あれは杭であるのか、人であるのか?」という問いが生じる。「(対象の)特殊性(についての認識)が欠けているために(起こるの)である」(p.209)

この反論に対する龍樹の応答はこうである。

「もし真知の特徴が欠けているならば、それは無知であって、疑惑ではない。」

「特殊性を見て、知識となり、特殊性を見ない場合には無知が生ずるのである。頭をめぐらしたり、手を動かしたりすることなどを見れば、疑惑が生じることはない(で真知となる)のであり、特殊性がない時には無知にほかならない。すなわち、こうなる。特殊性があれば知識となるし、それがなければ無知である。特殊性(の存在)と特殊性の無存在とが同時にあるような第三の場合はないのであるから、疑惑があるとはいえない。」p. 210f)

この反論には納得行きません。なぜなら「頭をめぐらしたり、手を動かしたりすることなどを見れば、疑惑が生じることはない」ということを認めるとしても、それではなぜ「「頭をめぐらしたり、手を動かしたりする」のでしょうか、それは疑惑(問い)が生じるからではないでしょうか。(疑惑)問いがなければ、これらの行為を説明できないでしょう。

私は、龍樹が想定している「対論者」の主張が正しいように思います。対象について、一部は知っており、一部は知らないので、その知らない部分についての疑惑(問い)が生じるというのが、対論者の主張です。これに対する龍樹の反論は、対象を部分に分けるとしても、それぞれの部分については、知か無知しかなく、それゆえに疑惑(問い)はない、というものになるのだと思います。

 このような反論を回避するため次のような問いを考えてみたいとおもいます。

  「xさんの車はどれですか?」

この問いは、「xさんの車」がどの車を指示するのかを尋ねています。

フレーゲは固有名(一つの対象を指示する語句)についてSinn(意味)とBedeutung(指示対象)を区別しました(通常は’Sinn’を「意義」、’Bedeutung’を「意味」と訳しますが、わかりにくいのでこのように訳します)。フレーゲは「意味」とは「指示対象の与えられ方」であると考えます。この問いを問う者は、「xさんの車」の意味を理解しています。しかし、その指示対象を知りません。問われた人が、「xさんの車は、あの赤い車です」と答える時、答える人は、「あの赤い車」の意味と指示対象を分かっています。返答者は、相手が「あの赤い車」の意味を理解し、その指示対象に辿りつけるだろうと想定して、この表現を答えに選んでいます。

 質問者が「あの赤い車」の指示対象にたどりつくとき、それが「xさんの車」の指示対象でもあるということです。「あの赤い車」と「xさんの車」はおなじ対象を指示する表現「共指示表現」です。

 問いを問う者は、意味と指示対象の区別にもとづいて問いを設定することができるのではないでしょうか。「その肺炎の原因は何ですか?」と問うことができるのは、「その肺炎の原因」の意味と指示対象を区別しているからです。

02 プラトン曰く (20200511)

「人間は自分が知っているものも知らないものも、これを探求することはできない。というのは、まず、知っているものを探求するということはありえないだろう。なぜなら、知っている以上、その人には探求の必要はないわけだから。また、知らないものを探求するということもあり得ないだろう。なぜならその場合は、何を探求すべきかということも知らないはずだから」(プラトン『メノン』藤澤令夫訳、80E)

皆さんは、これについてどう考えますか?

プラトンの答えと、龍樹の答えと、私の答えを、次回にupします。

13 科学の語彙は非保存拡大か? (20200510)

 論理学の語彙が保存拡大であるとして、その次に、ではペアノの自然数論の語彙やヒルベルトの幾何学の語彙が保存拡大か非保存拡大か、を検討したかったのですが、スッキリとした議論ができずに困っています。

 そこで、それらを飛ばして、ここでは自然科学の語彙について考えたいと思います。

 日常の言葉の殆どは、明示的定義や文脈的定義を与えることができないものでした。定義の困難さゆえに、ウィトゲンシュタインは、「家族的類似性」という特徴を上げていました。つまり、たとえば「家」を定義しようとしても、多様な家があって、そこに共通の性質を見つけることは難しく、つまり定義することが難しく、「家」と呼ばれているものの間に、家族的類似性のようなものがあるとして言えません。

 これに対して、科学では語に明確な定義が与えられることが多いのではないでしょうか。科学でも明示的な定義が与えられない用語が多くあると思いますが、ある学術用語を導入するときには明確な定義を与えるはずだと思います。たとえば「covid19」には、RNAの塩基配列についての定義があるのではないでしょうか。ところで、このように明確な定義がある語については、その導入規則と除去規則を連続して適用した後の推論は、保存拡大になると思われます。

#明示的定義の導入は、保存拡大にみえる

「A=B」が「A」の定義であるとき、ここから簡単に次の導入規則と除去規則を作ることができる。  

   x=B┣x=A (Aの導入規則)

   x=A┣x=B (Aの除去規則)

これを連続適用すると

   x=B┣x=B

という推論を得る。これは同語反復であり、Aの導入規則と除去規則を使用しなくても成立する。つまり明示的定義ができる語を導入しても、それ以前の語や文の意味を変えることはない。

#複数の明示的定義の導入は、非保存拡大になる

ある語に明示的定義があっても、その語の導入が、保存拡大になるとはかぎらない。例えば、対象Gの定義がつぎのように二通りあるとしよう。

  ①Gx≡Fx∧Ex∧Hx

  ②Gx≡Ix∧Jx∧Kx

これから

  Fx∧Ex∧Hx┣Gx  (Gの導入規則)

  Gx┣Ix     (これは②からつくれるGの除去規則の一例であり、ほかにもありえます)

この二つから推移律によって、次が成り立つ。

  Fx∧Ex∧Hx┣Ix

この推論は、明示的定義の①と②があったとしても、非保存拡大である。

このように明示的定義があるとしても、それが複数ある時には、その語彙は非保存拡大をもたらし、その他の語の意味に変化をもたらす。例えば、古い定義に加えて、新しい定義が行われるような場合もこのことがおこる。(同じことが、文脈的定義が複数ある時にも生じるが、ここではその説明を省略する。)

ブランダムが「温度」を例に挙げているのは、このようなことである。

「論理学の外部では、これ[非保存拡大]は悪いことではない。科学における概念的な進歩はしばしばそのような新しい内容を導入することにこそ存するのである。温度の概念は、適切な適用に関する何らかの基準ないし状況と、適用の何らかの帰結ともに導入された。温度を計測する新しい方法が導入され、温度計測に関する新しい理論的帰結や実践的帰結が採用されるときには、温度概念を用いることの意義を決定する複雑な推論的コミットメントが進化するのである。」(ブランダム『推論主義序説』斎藤浩文訳p.97)

「温度」の概念は、「適切な適用に関する何らかの基準ないしは状況」(つまり「温度」の導入)と、「適用の何らかの帰結」(つまり「温度」の除去規則)ともに導入された。しかし、「温度を計測する新しい方法が導入され」(つまり「温度」の新しい導入規則が導入され)、「温度計測に関する新しい理論的帰結や実践的帰結が採用される」(つまり「温度」の新しい除去規則が導入される)ときには、「温度概念を用いることの意義を決定する複雑な推論的コミットメントが進化する」ということになる。

ブランダムがここで言いたいことは、科学において「温度」の概念が進歩し、複数の導入規則と除去規則が混在するとき時、「温度」の導入規則と除去規則は、保存拡大という性質を失うということだろう。

「温度」について複数の定義があるならば、人文社会学の概念、例えば「権利」についてはさらに複数の定義があるだろう。したがって、人文社会学の概念もまた非保存拡大である。

12 日常語の非保存拡大について (20200509)

 (「温度」の例を説明すると予告しましたが、その前に説明しておきたいことを書かせてください。)

 侮蔑語「ボッシュ」によって非保存拡大が生じることを昨日説明しましたが、「ボッシュ」によるこの非保存拡大はどうして起こったのでしょうか。

   xはドイツ人である┣xはボッシュである (「ボッシュ」の導入規則) 

   xはボッシュである┣xは冷酷である   (「ボッシュ」の除去規則)

これらに推移律を適用すると次が成立します。

   xはドイツ人である┣xは冷酷である

しかし、これは「ドイツ人」や「冷酷」の従来の意味だけからは成立しません。つまり、非保存拡大が生じています。結論のこの推論において、これは推論ですから、「ドイツ人」と「冷酷」は、経験によって結合しているのではなく、意味によって結合していることになります。つまり、「ボッシュ」の使用法を認めることで、「ドイツ人」の意味は大きく変化し、「冷酷」の意味もまた少し変化していることになります。

 もしある語の使用を認めることによって、他の語の意味が変化するならば、その語の導入規則と除去規則は、保存拡大(conservative extension)(他の表現の意味を保存して、言語を拡張すること)ではなく、非保存拡大(non-conservative extension)であるといえます。

 このように<ある語の使用を認めることによって、他の語の意味もまた変化することになる>ということは、「意味の全体論」が主張していることでもあります。またこのことは、日常言語では、ありふれたことです。

 たとえば「べジマイト」という語の導入は、他の語句の意味を次のように変えます。「べジマイトは、野菜からつくられたペースト状のものである」という文で「べジマイト」を説明する時、「野菜からつくられたベースト状のもののなかには、べジマイトがある」と言えることになります。ここで「べジマイトは、黒くて苦いペースト状のものである」ということも認めるならば、これと上の「べジマイトは、野菜からつくられたペースト状のものである」から、「野菜からつくられたペースト状のものには、黒くて苦いものがある」が言えます。これは、「べジマイト」という語を導入する前には、言えなかったことです。つまり、「野菜からつくられたペースト状のもの」の意味が変化しているのです。「野菜」や「黒くて苦いもの」などの意味も変化しています。なぜなら、「野菜からつくられたペースト状のものには、黒くて苦いものがある」は、「べジマイト」の語の学習のあとでは、経験に基づいて成り立つことではなく、表現の意味に基づいて成り立つからです

 こうして論理的語彙は保存拡大であり、日常の言葉は非保存拡大であることが分かりますが、

その中間にある数学や幾何学や自然科学や社会科学の語彙については、どうでしょうか?

次回はこれを考察して、できれば「温度」の話にまでたどり着きたいとおもいます。

11 非保存拡大について (20200508)

保存拡大を持たない例として、ダメットが挙げているのは、侮蔑語「ボッシュ」である。「ボッシュ」というのは、ドイツ人に対する侮蔑語で、それを誰かに適用する条件(つまり「ボッシュ」の導入期測)は、その人がドイツ人であるということです。

   xはドイツ人である┣xはボッシュである

その適用からの帰結すること(つまり「ボッシュ」の除去規則)は、

   xはボッシュである┣xは冷酷である

です。これらに推意律を適用すると次が成立します。

   xはドイツ人である┣xは冷酷である

この推論は、「ボッシュ」を導入する前の語彙と推論規則からでは成立しません。つまり「ボッシュ」の導入規則と除去規則は「保存拡大」ではない、ということになります。

(Cf. Dummett, Frege Philosophy of Language, Harvard UP, p. 454) 

このような侮蔑語、差別語の場合には、典型的には、事実の記述が導入規則の前提になり、価値評価が除去規則の結論になります。これらは「非拡大保存」だといえるでしょう。

Brandomは、「ボッシュ」からの帰結である。「xはドイツ人である┣xは冷酷である」を認めませんが、それが「ボッシュ」が「非保存拡大」であるからではなく、単に推論として受け入れられないからであると言います(ダメットが、この点を、どう考えているのか分かりかねます)。

つまり、Brandomは、侮蔑語以外にも「非保存拡大」の語彙があり、「非保存拡大」であること自体は不都合ではないと考えています。

 では、そのほかの「非保存拡大」の語にはどのようなものがあるのでしょうか。ブランダムが挙げているのは、科学における「温度」の例です。それを次に見ましょう。