5 予想される反論

 
 
5 予想される反論 (20140228)
 
 社会について基本的に次のように考えたい。
 <人間の社会を動物の群れと区別するのは、言語の存在である。また、言語にとって、問答関係は本質的な構造である。それゆえに、問答関係は社会の本質的な構造である。>
 
 しかしこの主張については、次のような反論があるだろう。
 <霊長類の群れと人間社会の区別を唯一の指標(問いを含む言語をもつかどうか)に求めることには無理があるだろう。火を使うこと、道具を作ること(道具の使用なら、動物にもあるので、道具を作ることとした)も重要な指標になるのではないか。絵を描くこと、音楽を楽しむこと、住居を作ること、なども重要な指標になるだろう>
 
 もしこの反論に答えようとするならば、これらのこともまた問いを含む言語をもつことによって可能になったことを論証しなければならない。そのためには次の二つを証明しなければならないだろう。
 (1)これら(火の使用、道具(打製石器)を作ること)の発生が問いを含む言語の発生の後であることを証明しなければならない。しかし、火の使用、打製石器の使用と(問いを含む)言語の使用のどちらが先であるかは、考古学的には証明することが難しいのが現状である。
 Wikipediaの項目「言語」では、現生人類とネアンデルタール人が分化する以前の30~40万年前にはすでに生じていたとされているようだ。
 Wikipediaの項目「初期のヒト属による火の使用」による火の使用の開始は170万年から20万年前までの広い範囲で説があるようだ。イスラエルのゲンシャー遺跡(79万年から69万年前に、焼けたオリーブ、大麦、ブドウの種や、木、火打ち石が残されており、これが火を使った確実な証拠として最古のものだそうだ。
 Wikipediaの項目「石器」では、オルドワン型石器群が最古の石器群と呼ばれており、250万年前(Wikipediaの英語頁では、340万年前)のものであるらしい。何れにしても非常に古い。(ちなみに磨製石器の出現は、紀元前9000年らしいので、ごく最近のことである。)
 
 (2)それでは、発達心理学で次のことを証明できないだろうか。
・人が打製石器を作るときには、完成予想イメージを予めもつことが必要である。<完成予想イメージをもつためには、打製石器を指す言葉を持つことが必要である>。
・火を熾そうとすると、彼らは火のイメージを持っていただろう。そして、<火のイメージをもつためには、火を指す言葉を持つことが必要である>
・<「シカ」という語がなければ、シカの絵を描くことは不可能であろう> 動物の洞窟壁画が描かれる前に、言葉が成立していたのではないだろうか。
 
発達心理学でこれらの証明されているのか、あるいは反証されているのか、私にはわからない。あるいは、これらについては、まだ研究されていないのかもしれない。

 
 

04 雪の朝に考えたこと

                 大雪の昨日は、大変だ!大変だ!の連続でドタバタの一日でした。
 
雪の朝に考えたこと(20140215)
 
哲学について私があれこれと考えている多様なことを、おおよそ関連付けて、記しておくことにします。
 
・お金がないと、したいことができない。
・お金がないと、自由に行為できない。
・自由主義とは、個人の自由な行為を尊重するということである。自由な競争の尊重は、そこから発生するのであって、自由競争の尊重は、個人の自由な行為の尊重に優先しない。
・従って、自由競争によって、自由に行為できない人々を生み出すような格差が生じることは正当化できない
・個人の自由な行為を尊重するのは、個人があれこれ考えた上で、しようと考えた行為を尊重するということである。
・個人の行為は全て、個人があれこれ考えた上で、しようとする行為である。
・個人があれこれ考えるとは、個人が推論するということである。
・推論は問いによって可能になる。(これについては拙論「コリングウッドテーゼの証明」で指摘しましたが、これをより包括的に展開した論文に現在取組中です)
・個人があれこれ考えたことを尊重するのは、問いと推論のプロセスを尊重するということである。
・個人が互いにあれこれ考えたことを尊重し合うのは、自分の問いと推論のプロセスを尊重したいと考えるのならば、他の人々の問いと推論のプロセスも同様に尊重すべきだからである。なぜなら、自分の問いと推論のプロセスが有意味であるのは、それが私的なものでなく、他の人々の問いと推論のプロセスとの、より広い問いと推論のプロセスにおいてだからである。
・もし人間と同じように問いと推論のプロセスを行うAIができたなら、AIの問いと推論のプロセスも同様に尊重すべきである。
 
 

フィヒテの没後200年に

 
 
 
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フィヒテの没後200年に (20140130
昨日は、ドイツ観念論の哲学者Johann Gottlieb FichteMay 19, 1762 -January 29, 1814)の200回目の命日でした。フィヒテは、この日の午前5時になくなっています。Wikipediaの日本語ページと英語ページには、1月27日死亡と書いてありますが、それは間違いです。最近までドイツ語ページもまちがって27日死亡と書いてありましたが、本日確認すると、29日死亡に修正されていました。この間違いは、ヘーゲルが『哲学史』のなかで、フィヒテが1814年1月27日死亡したと間違って書いている事によるのだろうと思います。ヘーゲルがなぜ間違えたのは、調べていません。
 
というわけで、ことしは、没後200年の企画が世界中でいろいろと企画されています。
 
 

 

 
 

4 ヒトの群れから人間の共同体へ

                                    臼杵の石仏のなかでもっとも有名なものです。
 
4 ヒトの群れから人間の共同体へ (20140130)
 
 「問いの成立と社会の成立の間に循環関係があるだろうか」
これが問題だった。社会の成立、つまり社会制度の成立が、社会問題に答えるものであるとすると、社会制度よりも社会問題の成立が先行する。そして、その問いそのものが、社会制度の一部であるとすると、問いの成立には、社会問題の成立が先行することになる。つまり、ここに循環ないし、無限遡行が生じることになる。
 
これを明らかにするには、「社会問題」と「問い」を明確に定義する必要があるだろう。
 
まず「社会問題」について。もし<個人が近代になって登場した>のだとすると、<個人的な問題もまた近代になって登場した>ことになる。従って、「社会問題」を以前のように、「個人では解決できず、共同で取り組まなければ解決できない問題」と定義することはできない。なぜなら、社会制度が成立したあと、しかも近代になって個人が登場したからである。人間社会が誕生するとき、私たちが考えるような個人も個人的な問題も存在していなかったのである。社会問題は、単に「人間が共同で取り組まなければ解決できない問題」だといえるだろう。
 
次に「問い」について。「問い」は、意図と現実認識の衝突によって生じる、とこれまで説明してきた。それでは、この意図や現実認識をもつ主体は何だろうか。これまではそれを個人だと考えてきた。しかし、もし個人が近代になって成立するのだとすると、近代以前の人をどのように考えたらよいだろうか。近代以前であっても、人は意図をもち、現実認識をもつだろう。しかし、その意図は、個人の意図ではない。つまり個人的な目的を達成しようとする意図ではない。人の目的は、家族の目的や共同体の目的から独立しておらず、それらを<分有する>ことによって成立するように思われる。(「分有」の意味がまだ曖昧です)
 
では次に、この二つの発生情況を考えて見よう。群れで生活していたヒトの間に、動物レベルの言語が成立したあとで、最初に生まれる問いの発話はどのようなものだろうか。それは、ヒトが自分自身に問いかける問いだろうか。それとも、他の人に向けられる問いであろうか。それは、相手の発言を聞き返すような問いだろうか。それがどのようなものであれ、その問いの発話は、発話のタイプとして制度化されていないはずである。このレベルの問いの理解は、コードモデルではなくて、推論モデルでしか説明できないだろう。その後、問いの発生が反復し、発話のタイプとして共有される様になって、疑問文の発話が慣習となる。それが慣習として共有されるためには、慣習として共有される前に、それが共同体の問題の解決手段として理解されるということは不必要であろう。慣習ないし制度として十分確立した後に、それがなければ、共同体にとって不都合な問題が生じると認識され、逆にその問題を解決するものとして、疑問文発話の慣習が共同体の制度として承認されるのであろう。
 
動物の群れが、人間社会(人間的共同体)になるのは、まさにこの時である。動物としてヒトは群れで生活している。その群れが、疑問文を含む言語によって成り立ており、もし言語がなければ、群れにとって非常に不都合な問題(「どうやって複雑な行為調整をしたらよいのだろうか」)が生じるということに気付き(「言葉がなければ大変だ」)、言語が、群れの問題を解決するものであることを認識し、それを共同体の制度として承認するとき、動物の群れは人間的共同体になる。つまり、それは自然的なルールではなく、人為的なルールによって構成される組織になる。
 
以上は、「問いをもつ言語が、動物の群れと人間社会を分けるものである」という仮定からの推測である。この推測が正しいとすると、次のような結論になる。<当初の問いの発生は、まだ社会的制度ではなく、其の意味で、問いの発生は社会制度の発生に先立つ。問いを含む言語が社会制度とな
るのは、それが社会問題への解決策として事後的に認識されることによってである。つまりここに、問いと社会制度の循環や無限背進は生じない。>
 
 
 

 
 
 

3 矛盾とその解消 

 
                                       臼杵の石仏です。
     
3、矛盾とその解消 (20140124)
<議論1>
社会制度は社会的な問題に対する答である
言語もまた社会制度である
故に、言語もまた社会的な問題に対する答えである
故に、社会的な問題は、言語の成立以前に成立している。
故に、社会は、言語より前に成立している。
 
<議論2>
動物の群れと人間の社会を区別するものは、言語である。
言語によって、人間社会が誕生する。
故に、言語の誕生と人間社会の誕生は、同時であるか、あるいは言語の誕生が先である。
 
この矛盾を解消するには、<言語はいっときに発生したものではなく、すこしずつ発達したものである>ということを考慮しなければならない。
 
問いの発生以後の言語の発達は、問に対する答えとして説明できるが、問いの発生以前の言語の発達は、問いに対する答えとしては説明できない。
 
<動物と人間社会を区別するのは、言語の有無だ>を認めるとしよう。
しかし、動物もある意味では言語を持つ。カールビューラーによれば、言語には、3つの機能(叙述的、喚起的、表現的)があるが、動物の言語もそれらの機能を持ちうる。動物の言語にないのは、問うことではないだろうか。もしそう言えるとすれば、ビューラーのいう言語の3つの機能も、それぞれ問に対する答えとして発話される場合と、そうではない場合の二つに分けることができる。つまり、より正確には次のように言える。<動物と人間社会を区別するのは、問いの発話の有無だ>
 
これに従うと、先の<議論2>の中の「言語によって人間社会が誕生する」も、より正確には「問いの発話によって、人間社会が成立する」(より簡潔に言うと、「問いは社会に先行する」)となる。また<議論1>のなかの「言語もまた社会制度である」も、より正確には「問いへの答えもまた社会制度である」(より簡潔に言うと、「問いへの答えは社会である」)となる。この二つは、もはや矛盾しない。
 
では「問い」はどうだろうか。上記の<言語の成立>と<社会の成立>の循環ないし矛盾と同様のことが、<問いの発生>と<社会の成立>の間に生じないだろうか。
 
face=”MS 明朝”>それを次に考えよう。
 
 

2 言語の誕生:再説

 
       愛媛県八幡浜から臼杵行きのフェリーです。
       温泉へフェリーで向かう年の瀬かな。
   
 
 
2 言語の誕生:再説 (20140111
 道具を持ち歩くようになったヒトの集団は、その道具がヒトに対する武器として使われる可能性があることから、相互の攻撃の可能性に対してより敏感な集団となる。その中で攻撃の意志のないことを示すことは非常に重要であり、そこら挨拶などの言語が発達したと考えた。
 もちろん、これは想像で組み立てた話しにすぎ無いが、この話はもし自立した個人を前提しないで語るとするとどのように成るだろうか。
 脳は、運動をコントロールするために発生したと考えられる。群れで生活する動物では、運動を相互に調整する必要があるので、ミラーニューロンが生まれたと考えられる。主人があくびをすると犬もあくびをするそうだから、群れで生活する犬にもミラーニューロンがあることになる。言語の成立以前のヒトは、猿や犬と同じようにミラーニューロンをもつだろう。そして、それが言語の発生に関わっていなということは考えられないだろう
 このようなミラーニューロンをもつ動物の群れでは、緊張もまたミラーニューロンによって集団に伝染するだろう。もし、群れの中で、誰かが切迫した声を上げれば、群れに緊張が走るだろう。もし誰かが、ゆったりとした声を上げれば、そのくつろぎは群れに拡がるだろう。そして彼らは、くつろぎが広がっている事自体をも、おそらくミラーニューロンによって互いに知ることになる。ある発声が群れを緊張させたり、くつろがせたりすることを互いに知ることになるだろう。それが反復されると、次にはそれを意図して、それらの発声をすることになるだろう。この意図的な発声が反復することによって、挨拶などの発話が誕生するのだと想像できる。つまり、個体が自己保存のために敵意のないこと、ないし好意を持っていることを他の個体ないし集団に伝えようとして声をあげるようになる前に、まず最初は、集団の緊張の高まりを緩和しようとして、声を上げるということが行われるようになるのではないか。それが反復されることによって、次に自己保存のために集団の緊張を緩和しようとして声を上げるということが成立するのではないだろうか(全くの推測です)。
 このように考えるとき、言語は集団の問題を解決するために作られた社会制度であるといえる。しかし、この時の集団の問題は、個人では解決できない問題のことではない。なぜなら、言語の成立以前であるから、個人はまだ誕生していないからである。

 

資本主義の暗い未来

                                     
 
 
資本主義の暗い未来
 
・経済のグローバル化によって資本の移動が用意になり、資本は安い労働力を求めて、中国やインドや東南アジアに移動しています(いずれは、アフリカへ)。そのために、そこでの労働力への需要は高まり、賃金は上昇しています。先進国の労働力への需要は減少し、賃金は下降しています。この動きは、最終的には、世界の賃金が均一化するまで続くでしょう。経済外的要因がそれを押しとどめようとしても、資本家は政治家に働きかけて、その要因をなくしてゆくでしょう。
・現在、資本は国境を超えて移動し、外国に工場を作ったりしますが、労働者は国境を超えて自由に移動できません。労働者が国境を越えて自由に移動できるようになったとき、国家の三要素(領土、主権、国民)の中の国民という概念がなくなります。
・日本経済は外国人労働者を受け入れない限り、活性化することはないように思います。もし1990年代に外国人労働者を受け入れていれば、日本経済は活性化していただろうと推測します。移民を受け入れることは、労働者が国境を越えて自由に移動することとは、異なりますが、そのための前段階だと言えます。
 
・他方で、技術の発達により、人間労働が機械によって代替されつつあります。物をつくる労働は、おそらくすべて機械に置き換わるでしょう。ロボットの能力は人間の能力を追い抜いて、人間よりもよりよい物を作れるようになるし、ロボットの価格には下限がありえないのに対して、人間労働の価格には、人間労働の再生産を可能にするための下限があるからです。
・かつて私が少年であった頃には、いずれロボットが生産してくれて、人間は労働から解放されるのではないかと夢想しました。しかし、今やロボットがどんなに発達して人間の労働に置き換わったとしても、人間の生活は楽にはならないことが分かりました。なぜなら、私たちが生活するにはお金がいるのですが、ロボットによって私たちの賃金は下がり、職場は少なくなるからです。
 
・現在インターネットの普及によって、流通の中抜きが進んでいます。生産者が直接に消費者に売るのです。例えば、本も、作家がつくった作品のデータを直接に読者に売るようになるでしょう。音楽もそうです。ニュースもそうなるかもしれません。そのときに、編集という仕事が重要なものに成るかもしれません。もう一つ重要なのは、宣伝です。
・重要な人間労働として残るのは、商品開発と宣伝になるかもしれません。宣伝は商品の良さを宣伝するので、最も重要なのは、商品開発です。よい商品を作ることです。
 
・私たちはどうしたらよいでしょうか。ロボットにできない高度な職業人、自営業者、資本家になれればよいでしょう。高度な職業人と自営業者はアッパ・ミドルを形成し、資本家は富裕層を形成し、その他の人々は、ロボットの価格と競争する低賃金労働者になるでしょう。
 
・これがグローバル資本主義の暗い未来です。
 
 

 

1 社会とは問答である

                                12月の東大寺の大仏です。お客さんを案内しました。
 

1 社会とは問答である(20131209)
 書庫「問答としての社会」の説明文に次のように書きました。「ここでは、「社会とは何か」という問いへの答えとして「社会とは問答である」と答えたい。」この点は、今も変わりません。それは、次のように考えるからです。
 <人間の社会を動物の群れと区別するのは、言語の存在である。また、言語にとって、問答関係は本質的な構造である。それゆえに、問答関係は社会の本質的な構造である。>
 では、言語の発生については、どのように考えたら良いでしょうか。 以前には、曖昧な仕方で個人を出発点にして考えました。しかし、言語発生前に個人がが存在しないだけでなく、言語が発生しても、個人が直ちに成立するのではないとすると、言語の発生を、ひとや個人の問題解決として説明するのではなくて、群れないし集団の問題解決として説明する方が良いように思います。
 その説明は、どのようなものになるでしょうか。
 
 
 
 
 
 

 

15 個人問題と社会問題の関係の説明の逆転

                                     Fridlich Gaussが使っていたゲッティンゲン大学の天文台です。
 
15 個人問題と社会問題の関係の説明の逆転 (20131116)
 
 これまで見てきたように、<貨幣によって、個人で解決できる問題が増加し、そのことによって、個人が誕生した>のだとすると、個人と社会問題の関係についてのこれまでの主張を逆転させる必要があります。
 
 <個人が最初にあって、個人が一人では解決できない問題を解決するために、共同体ないし社会を作ったのであり、その問題が社会問題である>と考えきましたが、人間は群れでの生活を基本とするのだとすると、生存の単位は群れないし共同体であり、生存の単位が個人になったのは貨幣経済が広まってからのことになります。そこで次のように変更する必要があります。
 
 <人間は群れないし共同体で生存していた。群れないし共同体は、その維持ないし自己保存のために、さまざまな問題を解決する必要がある。そのために、分業したり、近親相姦のタブーなどの掟を作ったり、狩猟、採集などの共同作業を効率よくするために、あるいは争いを避けるために、言語を作ったりしてきたのであろう。言語の登場は、おそらく決定的な出来事であったと思われる。それは共同体のあり方、共同性のあり方を、根本的に変更することになっただろう。社会制度(社会組織、社会ルール)は、共同体が自己維持のための解題解決ないし問題解決のために作り出してきたものであるが、共同体はそのことを明示化し、共有することになる。言語によって複雑な共同作業、機動的な共同作業が可能になり、共同体の生産力と攻撃力は向上しただろう。しかし逆にそのことによって生じた共同体の危険性や不安定性の問題を解決するために新しい社会制度(新しい掟や新しい分配制度など)が必要になっただろう。また、共同体の生産力や攻撃能力の増大は、共同体が解決できる課題の増大(定住や食糧の貯蔵や戦争など)をもたらし、それらの課題の実行は、他方でまた新しい社会問題を生み出したに違いない。>
 
 
共同体から国家への移行については、次のように考えます。
 <共同体の生産力や戦闘能力が増大してくると、いずれ共同体は安全問題を解決するために、共同体の共同体(国家)をつくって、その問題を解決する必要に迫られる。国家は、共同体が単独では解決できない問題を共同体の共同で解決するために作った制度である。個人と共同体の関係と、個人と国家の関係は非常に異なる。自然的な共同体では、個人間の関係は相互的なものであるが、国家においては、その権力は、相互的な諸個人の関係からできているのではなくて、諸個人を超越している。それは共同体の共同体であるから、共同体の相互的な関係からできているとしても、個人の日常的な利害を超越している。>
 
個人の登場は次のように考えます。
 <国家は、古代国家、封建国家、資本主義国家へと経済と政治の形態を変えきた。柄谷によれば、国家以前の共同体では、主たる交換形態は「互酬性」であり、古代国家や封建国家では、主たる交換形態は「再分配」である。古代国家や封建国家では、再分配の問題が、同時に政治問題であり、経済は政治から分離していない。最も豊かなものは王である。資本主義社会になって、経済は国家から分離し、経済的な豊かさと政治権力は分離し、個人が貨幣への無限の欲望をもつことが可能になった。他方で個人が大統領になろうと欲望することも可能になった。貨幣の登場は伝統的な中間共同体の必要性を少なくし、伝統的中間共同体は弱体化し、個人と、個人を超越した国家の役割が次第に重要になる。
 このようにして個人が登場することによって、個人が自分だけでは解決できない問題を解決するために社会(社会制度、社会組織、社会規範)を作ったという思想が登場可能になる。社会契約論が、それであった。>
 
 私のこれまでの社会問題理解も、これと同じ理解でした。もちろん、社会契約論は、個人が社会の構成素であるのに対して、問題(個人問題や社会問題)を社会の構成素と考える点は異なります。しかし、個人問題から出発して社会問題を構成しようとする点では、よく似ていました。これを修正したいと思います。
 個人でも、行為でも、
コミュニケーションでもなく、問答を社会の構成素と考えた点は、これまで通り維持しますが、しかし、個人問題ではなくて、共同体の問題を優先させ、資本主義とともに個人が登場したと考えます。
 
(間話:貨幣への無限の欲望は、自己目的化する。
貨幣の無際限の追求には終わりがない。無限の貨幣をもつことが、何かの手段であるとすると、それは決して実現することがない。つまり、決して実現しえない無限の貨幣への無際限の欲望は、他の欲望の手段となることはありえない。真理や美や善への無際限の欲望は決して実現することがなく、したがって他の欲望の実現のための手段とはなりえない。
 100億円あれば幸せになれると考えて、100億円稼ごうと欲望することは可能である。しかし、幸福になるために無限の貨幣を追求しようとすることは不可能である。その時には、無限の貨幣を追求する人にとっては、幸福に成ることは目的では無いはずだ。このことは、真理や美や善への無際限の欲望についても当てはまる。
 ちなみに、幸福になるという欲望は、自己目的化する欲望である。なぜなら、幸福は、他の目的の実現のための手段にはならないからである。しかも、幸福になるという欲望は終わることがない。なぜなら、幸福は一旦獲得したら消え去ることがないようなものではないからである。つねに幸福を求め続けなければならない。)
 
 

13 無限の欲求の誕生

                Heidelberg 大学とGoettigen大学でworkshopをしました。
 
13 無限の欲求の誕生 (20130917)
 
(しばらく中断してすみませんでした。ゲッティンゲンでThe self-reflectiveness of Societyについて発表しました。)
 
部族のような集団、共同体、古代国家、近代以前の封建国家、これらにおいては、貨幣への無限の欲求はなかったのではないでしょうか。なぜなら、これらの社会の中で大きな富を持つことは、攻撃を受ける可能性を高めるからです。部族のような集団やもう少し大きな共同体の首長であっても、大きな富を持つことは、彼の安全を危うくする可能性があります。
 
そのために、ポトラッチなどの祭りで富をみんなで消尽することが必要になったのではないでしょうか。「ポトラッチの主目的は富の再分配(redistribution)と互酬(reciprocity)である」[Wiki Englisch]とされますが、しかし、受けとったものを壊すポトラッチもあるそうなので、富の再分配や互酬だけでは説明できないものもあります。これは、<大きくなりすぎた富の所有が危険であるので、それを解消するのだ>という仕方で説明できるかもしれません。
 
共同体の首長がどれほど大きな富を獲得しても、攻撃される危険がないということを、共同体と国家を分けるメルクマールにできるかもしれません。そのためには、首長は武装集団を部下としてもち、首長はその富を武装集団に分配し、また長はその富を共同体の成員に再分配することが必要になるでしょう。古代国家や封建国家では、首長だけが無限の富への欲望を持ちえたでしょう。
 
しかし、近代市民社会になると、市民が非常に大きな富を持っても、安全が脅かされるということはなくなります。王様や大統領より金持ちになっても、安全が脅かされることがなくなります。身の危険を感じることなく、富を追求できるのが、資本主義社会です。
 
お金のへの欲望に限らず、「無限」という概念が重要になるのも、近代になってからだといえるかもしれません。「閉じられた宇宙」観から「無限の宇宙」観へ変化するのも、近代になってからと言えそうな気がします。「無限の宇宙」と「無限の欲望」は深いところで結びついているかもしれません。