ホネット対スローターダイク

ホネットとスローターダイクが
FAZ(Frankfurter Argemeine Zeitung)とZeitで
で論争しているのを、みつけました。
とりあえず、以下をご覧下さい。
http://www.faz.net/s/Rub5C2BFD49230B472BA96E0B2CF9FAB88C/Doc~E8DF1B2E5D29642DEB6C55CFE501EC71D~ATpl~Ecommon~Scontent.html

論争は、現代社会の理解の違いにありますが、とあえずは、累進課税制度にあるようです。

以前の繰り返しですが、先進国は揃って下げてきた、富裕層の所得税率を2,30年前に戻すべきです。

今後の展開が楽しみです。

証明のやり直し

Antwerpの駅構内です

前回の証明には、あいまいなところがあるので、やり直します。
  ①「その宮殿についての我々の言葉がなくても、その宮殿は存在します」
これにはおかしいところがあるでしょうか? 
一般に「pである」と言えたら「「pである」と我々は言えます」と言えます。それゆえに、①が言えたら、②が言えます。
  ②「「その宮殿についての我々の言葉がなくても、その宮殿は存在します」と我々は言えます」
②に、おかしいところがあるでしょうか。②に、おかしいところがあるとしても、それは前回書いた説明では、不十分だとおもいます。そこで、やり直しです。

おかしいのは、むしろ①そのものではないでしょうか。
①の中で「その宮殿についての我々の言葉がなくても」と仮定するときに、すでにその宮殿を言葉で指示しています。この仮定は、矛盾しているのではないでしょうか。
これが、矛盾だとすると、次ぎの仮定法の仮定部分も矛盾しています。
  ③「実在についての我々の言葉がなくても、実在は存在します」
③が矛盾しているとすれば、形而上学的実在論は、矛盾しています。

さて、今度は、完璧な証明でしょうか。

形而上学的実在論の批判

10月はじめにベルギーでの学会に参加しました。
会の後で、Antowerpに行きました。私が見た中で一番美しい駅でした。
ひょっとすると、世界でもっとも美しい駅かもしれません。

「その花はどんな花ですか」
と問われて
 「その花は、言葉では言えない美しさでした」
という返答が矛盾しないためには、言葉を対象言語とメタ言語に分けるか、
返答を通常の返答と通常でない返答に分けるか、いずれかをしなければなりませんでした。
 「その花は、どんな言葉でも言えない美しさでした」
という返答の場合には、返答を通常の返答と通常でない返答に分けるしか、矛盾を回避する方法はありませんでした。
さて形而上学的実在論は、次の問いに対する次の答えである。
  ①「実在は、どんなものですか」
  ②「実在は、我々の表象から独立に存在しています」
この「我々の表象」の中に、言葉が含まれるとすると、ここから次が帰結する。
  ③「実在は、我々の言葉から独立に存在しています」
この③にはおかしいところはないだろうか?

  ④「その宮殿は、その写真から独立に存在しています」
これにはおかしいところはないだろう。これは次の意味である。
  ⑤「その写真があっても、なくても、その宮殿は存在します」
では、つぎはどうだろうか。
  ⑥「我々の言葉があっても、なくても、その宮殿は存在します」
これにはおかしいところはないのだろうか?
我々に言葉がなければ、我々は「その宮殿は存在します」とは言えない。したがって、次はおかしい。
  ⑦「我々の言葉があっても、なくても、その宮殿は存在する、と我々はいえます」
もちろん、⑥と⑦はおなじではない。しかし、⑥がいえたら、⑦もいえるのではないか。
(なぜなら、一般に「pである」と言えたら「pである、と我々はいえます」と言えるように思われるからである。)ところで、⑦はおかしいので言えない、とすると、⑥もいえないことになるだろう。②から③が帰結し、③から次の⑧が帰結するだろう。
  ⑧「我々の言葉あっても、なくても、実在は存在します」
上の⑥が成立しないのならば、⑧も成立しないだろう。したがってまた、②も成立しないだろう。

 さて、形而上学的実在論に対するこの批判は、完璧でしょうか。

二種類の「返答」

森の中は落ち着きます。人類のふるさと?

「それはどんな花ですか」と問われて
   ⑤「それは言葉では表現できない花です」
と応えることが、問いの返答になっているのかいないのか、これが問題でした。

「それはどんな花ですか」と問われて
   ⑥「その問いに言葉では答えられません」
と答えるとすると、これは明らかに通常の意味の返答ではありません。しかも、この返答は一見矛盾しているようにみえます。なぜなら、この返答は言葉による返答だからです。この矛盾を解消するために詳しく言い換えると⑥は次ぎのようになるでしょう。
   ⑦「通常の意味での返答ならば、その問いに言葉で返答することはできません」
という意味なのです。この発言⑦そのものが返答になっているのですが、この⑦は、<通常の意味でなく特殊な意味での返答>であると理解すれば、矛盾は解消します。

もし、⑤と⑥が同じ意味であるとすると、⑤は「それはどんな花ですか」という問いへの返答ではないことになります。しかし、この場合は、⑤は⑦と同じ意味であり、<返答>についての二つの意味を区別する必要があります。
もし、⑤が「それはどんな花ですか」という問いへの返答であるとすれば、「言葉では表現できない花」は、その花についての言葉による表現であることになり、<言葉>を対象言語とメタ言語に区別しなければ矛盾するということになります。

ところで、次ぎのケースでは、対象言語とメタ言語の区別が不可能でした。
④「このときの白樺湖は、どんな言葉でも言えない美しさでした」
この④が矛盾しないためには、これを次ぎの返答と同じ意味であると理解する必要があります。
   ⑧「このときの白樺湖の美しさについては、言葉では答えられません」
そして、この⑧が矛盾しないためには、<返答>についての二つの意味を区別する必要があります。

さて、これで本当に矛盾はなくなったのでしょうか。同様の仕方で、形而上学的実在論の主張も、矛盾を回避できるのでしょうか。

東アジア共同体と日米同盟

「東アジア共同体」構想に対して、USA高官が反対していると言うニュースがYahooにありました。
今後数十年は、日本の外交は、この二つをどう調和させるかという問題にとりくむことになりそうです。この外交課題は、日本に限らず、韓国、台湾、フィリピンでも同様の問題になるはずです。

中国の経済発展が続いて、1,2年のうちに日本を抜き、2,30年後にアメリカを抜くとすれば、経済的には「東アジア共同体」が生まれてくるでしょう。これは、日本の経済を考えるときに必要になってくる選択肢です。そのときの危惧は、中国の政治体制が民主的ではないということです。現在の共産主義体制のままの中国とともに共同体を形成することは、東アジアの民主化にとって、好ましいことではないと思います。アジアの民主化、中国の民主化のためには、日米同盟を含めて、東アジアの国のアメリカとの同盟関係が重要になってくるとおもわれます。経済発展を取るか、社会の民主化をとるか、ととわれれば、私は民主化をとります。

人々の権利を守ることは、人々の利益をまもることより重要です。中国が緩やかに民主化することを願います。

対象言語とメタ言語の区別による矛盾の回避

Passau, die schoenste Stadt, die ich bisher besucht habe.
パッサウ、私が行ったことのある最も美しい町でした。

①「このときの白樺湖は、言葉では言えない美しさでした」

この文が矛盾しているとすれば、それはどのような矛盾でしょうか。
②「このときの白樺湖は、英語では言えない美しさでした」
これは矛盾していません。なぜなら、「英語」は日本語ですが、英語は日本語ではないからです。
つまり、この文章は英語という対象言語に言及しているメタ言語としての日本語で書かれているのです。冒頭の文も、これと同様の仕方で対象言語とメタ言語の区別を導入すると矛盾は生じません。
つまり、次のようになります。
③「このときの白樺湖は、言葉1では言えない美しさでした」
この文が言葉2というメタ言語で書かれていると考えると、「言葉1」は言葉2の表現ですが、言葉1は言葉2ではありません。したがって、②と同様に③には矛盾はありません。
①が矛盾しているとすると、それは①の文の言葉と、①の中に登場する「言葉」が指示する言葉が同一の言葉であるときです。

繰り返しになりますが、もし我々が対象言語とメタ言語区別をしないのならば、①は矛盾します。
したがって、次ぎの文は、矛盾します。
④「このときの白樺湖は、どんな言葉でも言えない美しさでした」
この文では「どんな言葉」の中に、④の文で使用されている言葉も含まれるから、対象言語とメタ言語の区別による矛盾の回避が不可能になります。

しかし、おそらく別の反論があるでしょう。
それは<「言葉では言えない美しさ」というのは、美しさについての言葉による説明ではない>という反論です。
たとえば、「それはどんな花ですか」と問われて⑤「それは言葉では表現できない花です」というのは、返答になっていないのではないでしょうか。もし「言葉では表現できない花」が、花についての言葉による表現であるなら、⑤は返答になっているはずです。逆にもし⑤が返答になっていないとすると、「言葉では表現できない花」は、花についての言葉による表現ではないことになります。そうすると、⑤は矛盾していないことになります。同様に①も矛盾していないことになります。

「それはどんな花ですか」と問われて⑤「それは言葉では表現できない花です」と応えることが、
問いの返答になっているのかいないのか、これが問題です。

言葉では言えない美しさ

今年の夏は忙しくて美しい写真がないので、昨年の9月の白樺湖です。

さてこの写真がどれだけ美しいかわかりませんが、このときの白樺湖は、とにかく静かで
言葉ではいえない美しさでした。

さて「このときの白樺湖は、言葉では言えない美しさでした」というのは、日本語の文章です。
この文章を文字通りに理解しようとすると、なんだか少し変な気がします。なぜなら、この文章は、つぎのような文章とは、大きく異なっているからです。
「このときの白樺湖は、写真では表わせない美しさでした」
この文章にはおかしいところはありません。なぜなら、「写真では表せない美しさ」というのは言葉であって、写真ではないからです。
それに対して「言葉では言えない美しさ」というのは、言葉です。
もしこれが 「このときの白樺湖は、私の英語力では表現できない写しさでした」というのならば、問題ありません。「私の英語力では表現できない美しさ」という表現は日本語だからです。
もしこれが"beauty which is not able to be expressed in English"ならば、変です。
どうように、もしこれが「このときの白樺湖は、私の日本語力では表現できない写しさでした」
と言うのならば変です。なぜなら「私の日本語力では表現できない写しさ」というのは、話者の日本語力による表現だからです。
もしこれが「このときの白樺湖は、あなたの日本語力では表現できない美しさでした」というのならば、この表現自体に矛盾はありません。
(しかし、この場合でも、相手の日本語力で、この文章を理解できたとしたら、そして表現できない文は理解できない文でもある、と言えるとしたら、そこには矛盾が生まれるように思います。)

ところで「言葉では言えない美しさ」という表現は、どのような意味で矛盾しているのでしょうか。
まず、これを確認しましょう。

ご無沙汰してしまいました

すっかりご無沙汰してしまいました。
前回の発言は、4月27日でしたので、4ヶ月余りのご無沙汰です。
授業の準備とか、学会発表とか、学内の雑用とか、忙しかったことと、
「一つの脳に一つの心?」という書庫を立ち上げたものの、それを展開することができなかったこと
などもあって、ついついご無沙汰してしまいました。

ぼちぼち再開します。
ところで、民主党が政権をとりました。
オバマがアメリカ大統領になったことは、世界史的な出来事だとおもいますが、
民主党政権の誕生は、日本の政治にとって大変大きな意味を持つことになるだろう思います。
まずは、民主党の主張のとおり、官僚政治を打破して、政治家主導の政治にしてほしいと思います。
そうでなければ、何のための選挙なのかわかりません。
今後しばらくは、マスコミは、
自民党からの政権移譲が適切に行われるかどうか、
民主党が官僚政治を打破できるかどうか、
という二点に絞って、現状を報道してほしいものです。
日本は、経済では、もはや世界もアジアもリードできませんが、
日本は、民主主義では、アジアをリードできる可能性が見えてきたとおもいます。
民主的な政治、民主的な社会の実現は、日本にとって、アジアに貢献できる目標になるのではないでしょうか。

話は、ずいぶん飛びますが、民主党政権にまず取り締まってほしいのは、サービス残業です。
サービス残業がなくなるだけでも、日本はずいぶん住みやすい社会になるだろうと思います。
しかも、それは当たり前の労働者の権利です。

脳の中の組み合わせ問題

Y君のとった写真です。真ん中にリンカーンが座っています。
これってなんという建物でしたか?

1、「意識の境界問題」
「意識の境界問題」という項目が、Wikipediaにある。それによると、「意識の境界問題」とは、「個別化された各意識体験の間の「境界」というのは一体どのようにして決められているのか、という問題」であるそうだ。

2、「組み合わせ問題」
「組み合わせ問題」という項目が、Wikipediaにある。それによると、カナダの哲学者シーガーが、「意識の境界問題」を「組み合わせ問題」として定式化しているそうだ。
「組み合わせ問題」とは「宇宙の基本的な構成要素のひとつひとつが現象的な特性(原意識)を持つような場合に、そういった原意識からいったいどのようにして、私達の体験するような統合された意識が生まれてくるのか」という問題であるらしい。

3、「脳の中の組み合わせ問題」
私はこの「組み合わせ問題」を、「脳の中の組み合わせ問題」として、次のように定式化して考えてみたい。
「脳の中の現象的な特性をもつ一つ一つの要素から、いったいどのようにして、私たちの体験するような統合された意識がうまれてくるのか」

Wikipediaの「意識の境界問題」にはこれについての答えが書かれている。その記事は、唯物論ないし物的一元論をとるならばこの問題は、擬似問題であるという。「私達がある特有の方法でアクセス可能な情報の範囲が統一と呼ばれているものの範囲を決めている」という説明で十分であるという。

(この説明が、どのような問い対する答えとして十分なのか、あるいは問題が、擬似問題であるとはどういうことなのか、というようなことは、私の関心ではありません。念のために、申し上げますが、私は、この記事を書いた人に反論しようとしているのではありません。この記事の関心は、私の関心と少しずれているようにおもうからです。むしろ私はこの記事に非常に多くのことを教えられたことに感謝しています。)

その記事は、唯物論をとるならば、脳の中の現象的な特性を持つ一つ一つの要素は、「私達がある特有の方法でアクセス可能であることによって、統一される」と読める。しかし、「私(ないし私たち)が脳の中の現象的な要素にアクセスする」ということは、理解できない。おそらく<脳の中の諸要素が、ニューロンのネットワークで結合しているので、それらが統一されていても、不思議ではない>といいたいのだろう。しかし、脳の中の現象的特性を持つ諸要素がもし、ニューロンないしその束であるとして、それがニューロンで結合されているとして、そのことによってなぜ統一が生まれるのだろうか。ニューロンで、結合されていることは、意識の統一のための必要条件であるかもしれないが、十分条件ではない。では、それらは単に結合されているのではなくて、どのように結合されなければならないのだろうか。

脳と共有知の関係に向けて

3月までの研究室です。3月末に改修の為に引越しをして、現在は存在していません。
失われた過去です(有意味な発言?)。

一つの脳の中に一つの心しかないのは何故でしょうか?
多重人格者がいるではないか、という批判があるかもしれません。そのとおりです。しかし、多重人格者が非常に少ないのはなぜでしょうか。

もし、心が一つであることの理由が、それが宿る(?)脳が一つであることによるのではないとすれば、複数の脳にまたがる共有知の存在証明に役立つのではないでしょうか。個人を越えた「我々の知」あるいは、個人を超えた「共有知」というものの可能性を考えるときに、すぐに思いつく反論は、<我々は頭で考えるのであり、頭の数だけ心があって、「我々」が一つの頭をもつということはありえないのだから、我々が数的に一つの「知」を持つこともありえない>というものです。

<我々が知の主体であると考えるのはばかげている>という批判の前提には、一人ひとりが知の主体であり、考えるのは一つ一つの頭だ、という信念があるのではないでしょうか。しかし、例えば、私が知の主体であるとは、そもそもどういうことでしょうか。あるいは、どうして私の頭の中には、私しかいないのでしょうか?

<一つの頭に一つの心があって、その心が知の主体である>ということは、それほど自明ないことであるとは思えません。しかし、とりあえずは、確かにそのように言えると思えます。ここでは、その理由を考えて見ましょう。