悪意と敵意の違い

         今朝の奈良です。向こうに見えるのが生駒山系です。
         この道路が第二阪奈です。
         議論が、今朝の天気のように曖昧もことしていないことを祈ります。

悪意と敵意の違いについて

たとえば、「聖戦」や「正義の戦争」を戦っているつもりの人は、相手に対して「敵意」を持っていることをみとめるだろうが、相手に対して「悪意」を持っていることを認めないのではないだろうか。「悪意」をもつことは悪いことであるが、悪いやつをやっつけようとすることは悪いことではないので、自分の意志は「敵意」ではあても「悪意」ではない、と彼/彼女は考えるだろう。

たとえば、悪者が弱い者いじめをしているときに、正義の味方がやってきて、悪者を退治するとき、正義の味方は、「善意」の持ち主であって、「悪意」の持ち主ではない。

敵意は、「相手に害を加えようとする心」(goo辞書による)であるとしよう。このとき、相手が悪くないときには、その敵意は「悪意」とよばれ、相手が悪いときには、その敵意は「悪意」とは呼ばれない。つまり、悪意は、敵意の下位集合を指す。以下では、「敵意」一般を、相手が悪くない場合の「悪意」と、相手が悪者である場合の「悪意でない敵意」(ときに単に「敵意」とよぶ)に区別して用いたい。

前回、「悪意」を次の3つに区別した。
(a)欲望のために、悪いとわかっていてそれを行うという悪意「誰に対するのでもない悪意」
(b)個人的な恨みとしての悪意「特定の個人や組織に対する悪意」
(c)自分の悪い行為を正当化するために社会が悪いと考える「社会にたいする悪意」

これをもう一度考え直そう。

(a)欲望のために、悪いとわかっていてそれを行うという悪意「誰に対するのでもない悪意」
(b)個人的な恨みとしての悪意「特定の個人や組織に対する悪意」
(c)自分の悪い行為を正当化するために社会が悪いと考える「社会にたいする悪意」

上の(a)の「悪意」が「悪意でない敵意」である場合はないだろう。

上の(b)は、個人的に相手である個人や組織を恨んでいるのだから、彼にとって相手は悪者であり、それゆえに、(b)は「悪意」ではなくて「悪意でない敵意」である。
つまり、つぎのように言うべきだ。
(b1)個人的な恨みとしての敵意「特定の個人や組織に対する敵意」
しかし、個人的な恨みを持っていても、その恨み以上の仕返しを考えているのならば、仕返しの過剰な部分に関しては、悪意である。だから最初の(b)が正しい表現であるケースがある。

上の(c)はどうだろうか。理由が何であれ、社会が悪いと考えているのならば、社会に害を与えようとするとの心は、「悪意」ではなくて、「敵意」である。そうすると次のように言うべきである。
(c1)自分を正当化するために社会が悪いと考える「社会にたいする敵意」
しかし、「自分の悪い行為」を正当化するために社会が悪いと考えるのだとすると、社会は悪くないということになる。そのときには、社会に害を与えようとする心は、「悪意」になるだろう。

当人は、(b1)や(c1)として自分の心を理解しており、他者が当人の心を(b)や(c)として理解するのだろうか。

悪意の分類

小山楽山翁の石碑です。もちろん彼は詐欺師でも悪人でもありません。
      写真がなかったので、正月にとった写真をのせました。
         

「大きな嘘に成長することになる最初の小さな嘘はどうして生まれたのだろうか。」
これが前回の宿題だったが、これは案外難しい問題なので、少し問題をかえて、絡め手で詰めることにしたい。

「人はどうして嘘をつくのだろうか。」これについては、次のようなパターンの分類が考えられるだろう。
①そもそも嘘をつくことが全く悪いことだとは思っていない。
  ②嘘をつくことは悪いことであるが、嘘をつくことで、自分の利益になる。
  ③嘘をつくことは悪いことであるが、嘘をつくことで、相手の利益になる。
  ④嘘をつくことは悪いことであるが、嘘をつくことで、第三者の利益になる。
  ⑤嘘をつくことは悪いことであるが、嘘をつくことで、悪い相手に不利益を与える。
  ⑥嘘をつくことは悪いことであるが、嘘をつくことで、悪い第三者に不利益を与える。
偽装事件の場合に、嘘をつくのは②のケースである。詐欺師の場合も②の場合である。

詐欺師の場合、その悪意はどのように始まるのだろうか。彼は、お金がほしくて、詐欺をする。しかも、彼は捕まらずに詐欺ができると考えている。彼は詐欺が悪いことだと考えているだろう。詐欺をはっきりと悪いことだと考えているが、しかしそれよりもお金がほしいという利己的な欲望が優先するのだろう。ただし、詐欺師の場合には、その悪意の背後には、「利己的な欲望」だけでなく「社会に対する悪意」があるかもしれない。その「社会に対する敵意」は、自分の行為を正当化するために、社会が悪いのだと考えることから、生まれるのかもしれない。たとえば、まともに生きようとしていたのに、詐欺をせざるを得なくなった、その責任を社会に負わせて社会を恨むことから、敵意が生まれるのかもしれない。

以上の例からとりあえず、「悪意」を次の3つに区別できる。
(a)欲望のために、悪いとわかっていてそれを行うという悪意「誰に対するのでもない悪意」
(b)個人的な恨みとしての悪意「特定の個人や組織に対する悪意」
(c)自分の悪い行為を正当化するために社会が悪いと考える「社会にたいする悪意」
上の嘘の②③④は、(a)に属する。⑤と⑥の一部は(b)に属し、⑥の一部は(c)に属する。

(a)や(b)が含まれている悪は、事情がわかれば理解できるいわば「凡庸な悪」である。では、わけのわからない「特異な悪意」は(c)だけからなるのだろうか。それてとも、(a)(b)(c)のどれでもないような悪意なのだろうか。

そのまえに、悪意と敵意をどう区別すべきかを考えてみよう。

商人の利益はごまかし?

       都会には小さな嘘が渦巻いている?

食品偽装、再生紙偽装など、最近よくニュースになる偽装事件は、おそらくは、最初から大規模な偽装を計画して行われたものではなくて、最初はごく小さなごまかしから始まったのではないだろうか。最初の小さなごまかしは、「儲けたい」という欲望によるものだったのだろう。小さなごまかしが次第に大きなごまかしになって行く、そのプロセスをどこかでとめることができなかったのは、「怠惰」からではないだろうか、あるいはいまさら人に言えないという「臆病」からかもしれない。
では、最初の小さなごまかしは、どうして生じたのだろうか。儲けたいという欲望は誰にでもある。儲けることは、つねに誤魔化しなのだろうか。例えば、商人の儲けは、常にごまかしによるものなのだろうか。
そうではない。たしかに、多く場合、商人はその取引によって、どれだけの儲けがあるのかを、明らかにしない。例えば、果物屋さんでりんごを買うときに、「いくらで仕入れたの」ときいても、本当のことを言ってくれないような気がする。「いくらで仕入れたの」とたずねることもまた、相手を疑うようで、はばかられる。商人は店先で、仕入れ値を聞かれて、本当の仕入れ値より少し高く答える、というようなことがあるかもしれない。これは道徳的に悪である。しかし、このような質問に正直に答えることが商人の義務であるとは思われない。
商人の利益は仕入れ値の何パーセントかに決まっているわけではない。時には、利益が出ないときもある。仕入れの値段も、売値もそれぞれの市場での需要と供給の関係で決まる。商品の価値が需要と供給で決まるときに、商品の品質についての正しい情報が提供されて、その品質と値段を買い手が納得して買うのならば、売り手がどれほど大きな利益を得ても、それは正当な利益である。通常は、商人は、仕入れ値については、答える必要はない。「仕入れ値がそんなに安いのなら、もっと安くしてください」という要求は、つねに仕入れ値よりも高く売れるとは限らないというリスクをとって商売をしている人に対しては、過剰な要求だからである。(もっとも、答える必要がないということは、答える代わりに嘘をついてもよい、ということではない。例えば、絵画の仕入れ値を法外に高く偽って、それを高く売ろうとすることは、詐欺である。)
商品の品質について間違った情報を意図的に提供して、より多くの利益を得たとすれば、その利益はごまかしによる不当な利益である。これは法的に悪である。商人は、商品の品質については、正しく答えるべきである。
儲けたいために、品質について嘘をつくとしよう。なぜ嘘をつくのだろうか。嘘をつくことが悪いことだと思っていなければ、嘘をつくだろう。嘘をつくことが悪いことだと思っていても、その理解が曖昧であれば、儲けたいという明確な欲望が優先することもあるだろう。では、このような最初の小さな悪を阻止するためには、嘘をつくことがなぜ悪いのかを、周知すればよいのだろうか。
最初の小さな嘘はどうして生まれるのだろうか。

凡庸な悪の起源について

           フィヒテ『道徳論の体系』全集第9巻、以下で引用した本です。

私は、悪意には「凡庸な悪意」と「特異な悪意」があるように思う。前者は、その動機、つまり悪意の原因ないし理由が容易に想像できるもののことである。この書庫で分析したいのは、その動機がわかりにくい、後者の「特異な悪意」の方なのだが、このような二分法も、とりあえずの設定である。

前者の凡庸な悪意については、たとえば、次のフィヒテの説明が手がかりになるだろう。
フィヒテは、人間の三つの根本悪癖について次のように述べている。

第一の真の積極的な根本悪、怠惰について
「反省に対する根源的な怠惰、またそこから帰結することだが、この反省に従った行為に対する根源的な怠惰・・・これが真の積極的な根本悪であろう。」(フィヒテ『道徳論の体系』忽名敬三、高田純、藤澤賢一郎訳、フィヒテ全集第9巻、晢書房、訳242)
「カントがきわめて正しく述べているように、人間は生まれつき怠惰なのである。」(訳245)

第二の根本悪癖、臆病について
「この惰性からさしあたり発現するのが、人間の根本的悪癖としての臆病である。臆病とは、われわれの自由と自立性が他人のそれと交互関係にあることを主張する際の惰性である。いかなる者でも、相手の弱さを断固として確信しているときは、その相手に対して十分に勇気をもつ。しかし、このように確信していないときには、人は、つまり、自分自身よりも 強い――その強さがいかなる種類のものであれ――と推測される者に関わるときには、自分の自立性を主張するのに必要な力の行使を恐れ、屈服してしまう。――物理的意味であれ道徳的意味であれ、人間の間にみられる奴隷状態はこのようにしてのみ説明されることができる。すなわち、卑屈と追従がそれである。」(訳246)

第三の根本悪癖、不実(虚偽性)について
「臆病者は心底からこのように服従するのではないが、服従する際に、とくに狡知と欺瞞を当てにする。というのも、臆病さから自然に生じる人間の第三の根本的悪癖は、不実(虚偽性)であるからである。」訳246「すべての不実、すべての嘘、すべての詭計や策略は、抑圧者がいるために生じるのである。他人を圧迫する者はこのことに対して準備ができていなければならない。――臆病者だけが不実である。勇気ある者は嘘をつかず、不実ではない。たとえ徳のゆえではないにしても、誇りと性格の強さのゆえにそうなのである。」(訳247)

「怠惰」から「臆病」がうまれ、「臆病」から「虚偽」が生まれる。臆病から、虚偽が生まれるという説明は、ニーチェの『道徳の系譜』での「奴隷道徳」を思わせるようなするどい分析だと思う。

凡庸は悪意は、このような仕方で説明できるだろう。

(読者?の皆様、悪意の起源についての説明で興味深いもの、重要なものがありましたら、ぜひ教えてください。)

Walden Pond で死にそうになった話し

     

Walden Pond ってなんやねん。
という方は、Wikpediaで「ヘンリー・デイヴィッド・ソロー」を引いてください。
彼の書物、『ウォールデン-森の生活』 (Walden: or, the Life in the Wood,1854年)
のタイトルになっている池です。周りを一周しておそらく2キロくらいだろうとおもいます。
写真のような雪の日に、周りを一周していて、危うく池に落ちるところでした。
一箇所とても危険なところがあります。

ソローは池のほとりの上の写真のところに、小さな小屋を作って、2年ほど一人で暮らしました。
といっても、コンコードの町まで歩いて一時間ほどなので、時々は町に買出しに行って
いたのではないかと思います。

この横に立っていた立て札に彼の文章が書いてありました。

「私は森へ向かった。それは、自由に生き、人生の本質的な事実だけに向き合うことを望んだからだ。」(さて、このあとの部分をどう訳したものでしょうか。もしわかる方がおられましたら、教えてください。)

池の周りには、森が広がっています。

アメリカの自然保護運動の先駆者といわれていますが、
『市民政府への反抗(市民的不服従)』 ("Resistance to Civil Government",1849年
というような本もあって、これもまた重要です。

あけましておめでとうございます

       Walden Pond です。

あけましておめでとうございます。
この秋冬の仕事と雑用で、しばらく休筆してしまいました。
二つ目の宿題が今日終わりまして、あともう一つこの冬の仕事が残っていますが、
少し余裕ができました。

年末年始にかけて、数年ぶりの友人や親類に会うことが、偶然にいくつか重なりました。
お互いに年をとっているのですが、しかしそれ以外はなにも変わりません。
しかし、少し感じたのは、年をとるにつれて人間の個性というものは、ますます色濃くなる
ということです。

人間の個性と言うのは、ある年齢までにほぼ出来上がって、後はあまり変化しない、というように思われているのかもしれません。そのような認識も間違いではないないと思いますが、今回、人間の個性というのは、年を取るにつれてますます顕著になってゆくというように思いました。

さて、私のブログは、一体どこから手をつけたらよいものでしょうか。どの書庫も途中でおわっていて、これから先を続ける必要があります。しかし、その前に、これまでの経過をまとめておく必要もあるでしょう。そして、困ったことに私には書きたい別のテーマもまたいくつかあるのです。

さてさて、いづれにしても、ゆっくりとやってゆくことですね。
ただし、休まずに。
今年も、よろしくお願いします。

落ち葉をめでる

今回は、筆休めです。

昨年からなぜか落ち葉が気にいっています。落葉の季節に森に積もった落ち葉は、ともていい感じです。

アメリカの大学では、掃除の人がこの時期、ドライヤーの大きいようなもので落ち葉を集めていました。
ですから、キャンパスには落ち葉がたまるというようなことはありません。これに対して、少なくとも日本の大学では、落ち葉を集めているところを見たことがありません。それは単に清掃のための財源が足りないということではないようにおもいます。日本人は、アメリカ人ほど、落ち葉を汚いとはおもわないのではないでしょうか。(おそらく日米の差よりも、都会と田舎などの差の方が大きいだろうとおもいます。)落ち葉も雨にぬれ、人に踏まれて、汚くなってゆきます。それは落ち葉が汚いという言うよりも、落ち葉とアスファルトとの取り合わせが悪いのです。落ち葉が土の上にあるときには、どんなに踏まれても汚いとは思えません。それはやがて腐葉土になってゆくのです。

紅葉をめでたあとには、落ち葉もめでたいものです。

08やっとポイントにたどり着いた?

以前の批判(2007年12月2日11月23日)をやり直します。
そこでは、対話の相手の存在認識についての認識論的個人主義者の主張を次のように構成して、それを反論しました。

<私は「あなたが存在している」と想定しています。もちろん、それが私の想定に過ぎない可能性はあります。なぜなら、私は、私の認識の外部に出てゆけないからです。しかし、単なる想定ではなく、実際にあなたが存在することもまた可能です。もちろん、それもまた私個人の想定になりますが、しかし、この想定には矛盾したところはないと思います。>

この主張の弱点は、冒頭の次の部分にあります。
「私は「あなたが存在している」と想定しています。もちろん、それが私の想定に過ぎない可能性はあります。」

前回はこの部分の弱点を指摘しそこなったように思います。
前回行った批判は、私が「あなたは存在しないかもしれない」とあなたに話しかけるとき、
発話行為の事実<私があなたに話しかける>と 
発話内容「あなたは存在しないかもしれない」
とが矛盾しているように思われる、ということでしたが、この部分の弱点は、それとは別のところにあります。

この部分の弱点は、<認識論的個人主義者が対話の相手に対して「あなた」と呼びかけることによって、相手の存在を想定しそれを相手に伝達しておきながら、他方で、相手が本当は存在しない可能性がある、と考えている>という点にあるのです。これは矛盾しているのではないでしょうか。これは道徳的に不誠実な態度のようにも思えます。

認識論的個人主義者は、この点について次のように答えるかもしれません。
<私の態度は、不誠実な態度ではありません。
考えてみてください。私が、相手に次のどちらを語るのが道徳的によい態度でしょうか。
a「あなたの存在をみとめています」
b「私はあなたが存在しないかもしれないと考えています」
もし相手が存在するとすれば、aの発言が適切であることになります。bを語ることは、相手の存在を承認しないことです。もし相手が存在しないとすれば、何を相手に語ろうとそれは無意味ですから、aもbも同じことです。つまり、どちらにせよ、私はaの発言をすることが道徳的には好ましいのではないでしょうか。
では、内面では、次のどちらを考えるのがよいのでしょうか。
 c「相手は存在する」
 d「相手は存在しない可能性がある」
もし相手が存在するとすれば、私は、cを考えるのが正しいことになります。もし相手が存在しないとすれば、私は、dを考えたほうがよいでしょう。しかし、私は、どちらが正しいのか解かりません。解からない限りは、私は、dを考えることが知的に誠実な態度です。無理やりaを信じ込むようにするというのは、知的に不誠実な態度です。

さて、以上の考察で解かるように、私は、aを発言し、bを考えるということが道徳的によい態度であり、知的に誠実な態度であることになります。

私が、aを語って、dを考えるというのは、道徳的に不誠実ではないのです。それを説明しましょう。私が「相手は存在しないかもしれない」と考えることは、これは相手の思想や信条を認めないということではなく、人格を認めないということでもありません。通常の場合には、相手の信条や人格を否定することは、相手の存在を認めることが前提になっています。なぜなら、存在しない人の信条や人格を否定することは不可能だからです。ここでは、その前提となっている存在を疑っているのであって、相手の人格を傷つけるものではありません。>

これに対して私は次のように答えましょう。

<あなたが、「私はあなたが存在しないかもしれない」と言葉に出して相手に伝達する行為は、単にそれを心の中で考えていることとは別の意味をもちます。あなたが、相手に「私はあなたが存在しないかもしれないと考えています」と語るとすると、それはやはり相手の人格を否定することになるのではないでしょうか。もちろん、人格は相手が存在することが前提されていて、相手が存在しないとすれば、その人の人格を否定することも不可能になるのだ、と言うことができます。しかし、その人の存在がその人の人格の前提であるとすれば、その前提を否定することは、その人格を否定することになるでしょう。そして、仮に前提を否定するのではなくて、前提が存在しないかもしれないと考えることは、やはり尊重すべき人格が存在しないかもしれないと考えることであり、相手の人格を否定することになるといえます。
 さらに、単に心の中で「この人は存在しないかもしれない」と考えているとしても、相手の人格を否定することになるのではないでしょうか。これは嘘をつくことの一種であり、もし嘘をつくことが、相手の人格を尊重しないことであるとすると、これもまた、相手の人格を尊重しないことになります。もし「嘘をつくべからず」が自己に対する義務であって、他者に対する義務ではない、と考えるならば、別の仕方で議論しなければなりません。しかし、どちらにせよ、不道徳な行為であることになります。
 認識論的個人主義者は、不道徳な態度なのです。>

認識論的個人主義者は次のように言うでしょう。
<そうかもしれません。しかし、私の立場が不道徳だとしても、それが間違いであるということにはなりません。仮に、私が「他者は確実に存在する」と無理やり信じ込むことにしたとすれば、それは知的に不誠実な態度であり、やはり不道徳なのではないでしょうか。従って、道徳的な見地からしても、私が認識論的個人主義を捨てるべきだということにはなりません。>

私は次のように言いましょう。
<では、あなたの立場が不道徳であるとしても、それは問わないことにしましょう。あなたの態度が、矛盾しているということを指摘しましょう。これが私の批判の本来のポイントなのです。
あなたは他者と話しているときに、相手が存在していることを前提して話しています。つまり相手に「あなたは存在している」と語り、他方で、「あなたは存在しないしないかもしれない」と考えています。これは矛盾ではないでしょうか。もちろん、あなたは、そのことと相手も正直に語ってもよい、と考えるでしょう。例えば、今私と議論しているときにそうしているようにです。しかし、本当にそう
でしょうか。あなたは相手に全く正直に、「私はあなたが存在すると考えていますが、しかしひょっとするとそれが私の想定に過ぎない可能性も認めています」と語ることはできます。しかし、あなたは、本当に首尾一貫して常に、相手の存在を不確実なものとして考え続けることができるのでしょうか。あなたが他者と話すときに、ついつい、相手が確実に存在すると考えてしまっているのではないでしょうか。(あなたはまた、あなたの周りの世界が、あなたの表象にすぎないと考え続けることもまた不可能であり、ついつい素朴な実在論をとってしまっていないでしょうか。これはいずれ後で論じることになるでしょう。)私の指摘したかった矛盾点は、ここにあります。本当にあなたは、あなたの立場を維持しつつ、他者と対話することができるのか、ということです。>

これに対して認識論的個人主義者は、どう答えるでしょうか。

07クマ出現に注意

  クマのように手ごわい認識論的個人主義者

さて、前回の反論を吟味したいと思います。
 
前々回、私は次のように考えました。
「私は存在しない」という発話と同様に、「あなたは存在しない」という発話もまた、語用論的矛盾です。「あなたは存在しない」と私があなたに話しかけるとき、
発話行為の事実<私があなたに話しかける>と 
発話内容「あなたは存在しない」
が矛盾しているからです。ここから私は、次のように議論を拡張しました。もしそのようにいえるとすれば、「私はあなたに話しかけていないかもしれない」という発話も矛盾している。なぜなら、次の二つが矛盾しているからです。
発話行為の事実<私はあなたに話しかける>と
発話内容「私はあなたに話しかけていないかもしれない」

前回の認識論的個人主義者の反論は、この後者が矛盾していないという主張でした。

彼の反論を整理しましょう。 
まず、認識論的個人主義者は、よく似ている例として、次の事例<ドアを叩きながら、「どなたかいませんか」と質問する場合>を挙げて、それは矛盾していないといいました。
   発話行為の事実<私は内部にいる人に話しかける>
   発話内容「内部にどなたかいませんか?」
これは、質問なので、疑問文の内容と事実の主張とは直接には矛盾しないのですが、しかし、全ての疑問文は何らかの命題を前提します。ここでは、<発話者は、内部に誰かがいるのかどうかを知らない>という命題ないし事実が前提されています。
発話行為の事実<私は内部にいる人に話しかける>
   質問の前提<私は内部に人がいるかどうかを知らない>
この二つは矛盾するでしょうか。

認識論的個人主義者が述べたように、確かにわれわれはこのような質問を行います。そしてこのような質問は、われわれのコミュニケーションを可能にするために非常に重要な機能を持っています。実は、私は、このような質問は、コミュニケーションを可能にするために不可避のものであるとも考えています。しかし、そのように考えるとしても、そのことから、「その質問発話は矛盾していない」という命題を導出することはできません。

さて、この発話の事実と質問の前提は矛盾しているでしょうか。(今のところ、私には矛盾しているのかどうか、よくわかりません。「なぜ、矛盾しているかどうか、というような単純な問いに、明確に答えられないのか」ということ自体もよくわかりません。奇妙なねじれがありそうです。)

この質問との類似性に基づいて、「私はあなたに話しかけていないかもしれない」という発話が矛盾していないというのが、認識論的個人主義者の反論でした。

この二つの発話の間の、類似性、については、もう少し検討の余地があるだろうとおもいます。またその類似性を認めるとしても、これらが矛盾していないといえるかどうかについてもまだよくわからない、というのが、現在の私の感想です。つまり、認識論者の「『私はあなたに話しかけていないかもしれない』という発話は矛盾していない」という反論が、正しいのかどうか、現在のところ、私には曖昧です。

これでは、反論への批判になりません。
しかし、このように分析しながら、私は、前々回の批判がすこしピントはずれであったということに気づきました。そこで、前々回の批判を、やり直すことにしたいとおもいます。