02そろそろ始めましょう

     先週末見た綺麗な紅葉でした。

そろそろ話しをはじめたいと思います。
ここで「共有知」と呼びたいのは、個人が考えている知ではありません。それは個人を超えて複数の人が共有している知です。諸個人が同じ内容の知を持っており、各人の心ないし頭に同じ知が人間の数だけ反復して成立しているというのではありません。

複数の個人が一つの知を共有すること、内容が同一の知が、人間の数だけ存在するのではなくて、数的に一つの知がそこに存在しているという状態を「共有知」と呼びたいとおもいます。

「そんなバカな」というご批判は、私がそのように考える理由を説明してから、喜んでお伺いしますので、今しばらくお待ち下さい。

思考が停止しつつあるような・・・

多文化主義が、「多文化主義の信念形式」BaやBbをとるのだとすると、
その内容は、上に述べたような条件、つまりその信念条件そのものに矛盾しないという
条件を満たす必要があります。

この条件を満たせば、多文化主義の信念形式には、論理的な矛盾はないということになります。では、このような論理的整合性を満たすための条件以外には、条件は必要ないのでしょうか。凡人さんからのご批判は、これで充分にクリアされたでしょうか。それともまだ問題があるでしょうか。

凡庸な反復

次に「多文化主義の信念形式」のBbについて考えて見ましょう。
Bb「私はpを信じます。しかし、私は、他の人の信念¬pを尊重します。」

この「p」に代入するとBbが矛盾するような命題とは、<その命題pから「他の人の信念¬pを尊重します」と矛盾する命題が導出できるような命題>です。
たとえば、p「私は、C教を信じる、私はC教を否定する信念を尊重しない」という場合です。

写真も文章も凡庸な反復ですみません。

今日は朝から、会議の連続で、
それが終わって幾つものメイルを送って、
それから、夜になって、カントについてNさんにメイルを書いたので、
もう頭が動きません。

Baが矛盾するとき

     紅葉というよりも、黄葉です。

とりあえず、「多文化主義の信念形式」のBaのほうについて考えましょう。
Ba「私はpを信じます。しかし私は¬pを信じている他の人を、人格として尊重します。」

このpにどんな命題を入れてもかならず矛盾するということはありません。
例えばpに「御嶽山には、今雪が積もっている」を入れてもBaは矛盾しません。
このpにどんな価値命題を入れても必ず矛盾するということもありません。
例えばpに「私の作るカレーは、私の作るハヤシライスよりもおいしい」を入れても矛盾しません。

このpに特殊な価値命題を代入するときに矛盾が生じるのです。
では、それはどんな価値命題でしょうか。
その答えは簡単です。
それは、「p」から「¬pを信じる人を尊重しない」や「¬pを信じる人を軽蔑する」や「¬pを信じる人を抹殺すべきだ」などの命題、つまり、「¬pを信じる人を尊重する」と矛盾する命題が導出できる場合です。

では、Bbについてはどうでしょうか。

価値判断が矛盾を引き起こす

この秋の御嶽山です

凡人さん、重要なコメントありがとうございました。

「多文化主義の信念形式」は矛盾していない、というのが前回までの議論の結論だったのですが、この結論は、pが事実判断であるか価値判断であるかによって、影響を受けるのではないか、というのが、コメントの趣旨だと理解しました。

ご指摘のように、私も文化と言うのは大体価値判断の集合体だと思いますので、価値判断を念頭において、「多文化主義の信念形式」が矛盾していないかどうかを、もう一度考えてみたいと思います。

「多文化主義の信念形式」を前回二つの形に分けました。
Ba「私はpを信じます。しかし私は¬pを信じている他の人を、人格として尊重します。」
Bb「私はpを信じます。しかし、私は、他の人の信念¬pを尊重します。」

次に、このBaよりも矛盾していそうな次のD1aを調べました。
D1a「pです。しかし、私は¬pを信じている他の人を、人格として尊重します」
しかし、これは矛盾していないので、Baも矛盾していないと述べました。

この点から、再検討しましょう。
D1aのpが価値判断であるとして、これが矛盾していないかどうかを再検討しましょう。
たとえば、pが次の内容の価値判断であるとしましょう。
p「C教の神信じない人は、神に背くものであり抹殺されるべきだ」
このとき、D1aは次のようになります。
D1a「C教の神を信じない人は、神に背くものであり抹殺されるべきだ。私は「C教の神を信じない人は、神に背くものであり抹殺されるべきだ」を偽であると信じている他の人を、人格として尊重します」

このD1aは、自己矛盾しているように思われます。

では、このpをBaに代入したものはどうなるのでしょうか。
Ba「私は、「C教の神を信じない人は、神に背くものであり抹殺されるべきだ」と信じます。しかし、私は「C教の神を信じない人は、神に背くものであり抹殺されるべきだ」を偽であると信じている他の人を、人格として尊重します。」

この人はpの真理性に確信をもっているわけではありません。しかし、このBaも矛盾しているように思われます。
仮にC教の神を信じないI教の信者がいるとしたときに、このBaは次のようにになるでしょう。
「私は、「I教の信者は抹殺されるべきだ」と信じる。しかし、私はI教の信者の人格を尊重する。」
これは、矛盾しています。

では、我々はこれについて、どのように考えればよいのでしょうか。
多文化主義の信念形式はそれ自体で、自己矛盾しているのでしょうか。
それとも、pに価値判断が代入されと矛盾するのでしょうか。
それとも、pにある特殊な価値判断が代入されると矛盾するのでしょうか。

この点をもう少し考えて見ましょう。

感情の物語負荷性

      アルゴンキン

問題はこうでした。
「人生を物語として捉えなければ、「自分の死に対してどのような態度をとるべきか」というような問題は成立しないのでしょうか?」

答えは、「はい、そのとおり」です。その理由を一般的な仕方で説明すると次の通りです。
「自分の死に対してどのような態度をとるべきか」という問いに限らず、我々が何かを問うことは、意図的行為の一種です。そして、全ての意図的行為は、一定の感情をともなっており、感情抜きに意図的行為は成立しない、と思うのです。他方で、全ての感情は、物語負荷的であり、一定の物語を背景にして初めて成立します。そこで、上の問いもまた、物語を背景にして始めて成立するのです。(この一般的な証明については、拙論「感情の物語負荷性」
http://www.let.osaka-u.ac.jp/~irie/ronbunlist/paper22.htm をご覧下さい。)

しかし、このような説明では、<どんな問題もそれを問う人が何らかの物語を背景にしている>という一般的な説明になってしまって、この人生論の問題の特殊性が見えなくなってしまいます。

ではどうやって説明すればよいでしょうか。

始め、中間、終わり

夢のようなアルゴンキン

さて、次の問題を考えてみます。
「人生を物語として捉えなければ、「自分の死に対してどのような態度をとるべきか」というような問題は成立しないのでしょうか?」

その前に(またしても「その前に」ですね)、「人生を物語として捉えるとはどういうことか」という質問があるかもしれません。

(「その前に」を繰り返しているうちに、最初の問題を忘れてしまうことがあります。「その前に」というのは、結局、最初の問題から逃げているのではないか、と疑われても仕方ありません。しかし、まあ、そんなことを考える、その前に、話を進めましょう。)

「人生を物語として捉えるとはどういうことか?」
これに答えるのは、簡単です。私は、物語をアーサー・ダントーが説明している意味で理解しているからです。もちろん、物語についてのほかの定義もありうるでしょうか。ここではダントーの定義を採用したいとおもいます。物語とは、物語構造を持つもののことであり、物語り構造とは、始めと、中間と、終わりがあるということです。
 Xはt1でH1である。
  Xはt2でH2である。
  Xはt3でH3である。
これが物語の基本構造です(今、彼の本を手元においていないので、表現の違いはあるかもしれませんが、彼が考えいてるいる、と私が考えているのは、このようなことです。)
したがって、「人生を物語として捉えるとは、人生を、始めと、中間と、終わりをもつものとして捉えることです」というのが、答えです。
(これでは、不十分だとか、解からない、という方がおられましたら、ご質問をお願いします。)

さて、これで最初の問題に戻りましょう。
「人生を物語として捉えなければ、「自分の死に対してどのような態度をとるべきか」というような問題は成立しないのでしょうか?」

物語りの終わりとしての死

   2年前のアルゴンキンです。
   週末に山荘にいって、帰ってから仕事に追われていました。

 「自分の死に対してどのような態度をとるべきか」という問題における「自分の死」とは何でしょうか。それは「自分の人生が終わること」です。では、「自分の人生」とは何でしょうか。<時間空間の中に広がる4次元連続体>という理解もできます。<各瞬間における実際に行われた選択と可能な選択肢の集合>の集合、という理解も可能でしょう。これをどのように考えるのであれ、人生と言うのは、何事かの単なる時系列(クロニクル)なのではなくて、一つの物語構造を持つものとして理解することができるように思います。
 このように考えるとき「自分の人生」が、決して生物としての人生、ロボットとしての人生のことでないことは明らかです。なぜなら、生物であること、ロボットであることは、物語構造を持たないからです。もちろん、私は、ある一匹の猫の生涯を物語ることができます。しかし、そのように物語られた猫の死は、生物としての猫の死ではないだろうとおもいます。したがって、「自分の人生」の終わりとしての「死」もまた、単なる生物としての死、単なるロボットとしての死ではありません。
 従って、死にたいする態度の問題において、問題になっているのは、自然的な死ではなく、社会的な死だといえます。(これで証明したことにします。もちろん、反論を歓迎します。)

 さて、次にまたテーゼのようなものを述べてみます。
 我々は死を恐れるのですが、しかし生物としての死を恐れるのではありません。我々が恐れれるのは、物語の終わりです。普通は、物語の終わりを恐れますが、もし大往生であるならば、それは物語が非常によくできた仕方で終わりを迎えるのであって、不満はないということでしょう。しかし、物語が完結しない形で、望まない形で終わってしまうことを人は恐れるのではないでしょうか。あるいは、物語の望ましい終わり方が、自分でもわかっていないのに、終わりがやってくることを恐れるのではないでしょうか。

 さて、このように死の問題を捉えることは、人生を物語(物語構造をもつもの)として捉えることを前提しています。この前提は、この問題にとっての必然的な前提なのでしょうか。つまり、人生を物語として捉えなければ、「自分の死に対してどのような態度をとるべきか」というような問題は成立しないのでしょうか。
 次にこの問題を考えて見ましょう。

 

ロボットにも自然な死と社会的な死

         3年前の今頃のアルゴンキンです。

前回想定したように、私の身体も脳も不治の病になって、私がロボットになったとしましょう。私は確かに、身体や脳を失って機械になってしまったことを悲しむかもしれませんし、ロボットとして差別されることを悔しく思うかもしれません。しかし、悲しんだり、悔しく思っている私は、生きています。

生物としての人間が死ぬときに、自然的な死と社会的な死の区別ができると同様に、ロボットとしての人間が死ぬときにも、自然的な死と社会的な死の区別ができそうです。
ここでいうロボットの自然的な死とは、意識や心や思考の機能の不可逆的な停止、ということでしょう。

つまり、前回のべた理由は、理由にはなりませんでした。

さて、自然な死と社会的な死が、プロセスの進み方に時間差があるにせよ、いずれも一方だけで生じることがないのだとすると、これを分けて、どちらが問題なのか、という問いにどうやって答えればよいのでしょうか。

答えは、前回述べたとおりだろうと思うのです。これは変わりませんが、それをどうやって証明すればよいのか、今思いつきません。

そこで、すこし問いを変えたいとおもいます。ここでは、「自分の死」が問題になっているのですが、「自分の死」とは何を意味しているのでしょうか。

ロボットの死

前回、自然的な死も社会的な死の区別とそれらが共にプロセスであることを説明しました。

さて、問題は、前々回に書いたように、
「「私は生きたい」が社会的な欲望であるならば、それと矛盾する「人間は死ぬ」の方も、自然的な死ではなく社会的な死ではないでしょうか?」でした。

この問いには、「はい、その通りです」と答えたいと思います。

その理由の一つとして、次の点を考えてみたいとおもいます。
もし、私の身体が不治の病になって、私の脳を他の身体に移植することになったとしましょう。そのとき、私はなおも生きています。もし私の脳も不治の病になって、私の脳の情報を全て、アトムのようなロボットの頭脳であるAIにコピーしたとしましょう。そのとき、私はロボットになってしまっていますが、まだ生きつづけているといえそうです。しかし、私の身体は脳も含めて、もはや生きていません。それゆえに、ここでは「自然的な死」は問題ではないのです。

さて、この説明は、本当に上の答えの理由になっているのでしょうか。
一ヵ月後には地球に大きな彗星がぶつかりそうで、ロボットになった私もそのときには、死んでしまうことになりそうだ、と仮定しましょう。これは私にとっての死の問題です。では、ロボットとしての私の死は、自然的な死ではないのでしょうか。私には、身体の死の場合と本質的な違いがないように思えます。

最初の問題設定が曖昧だったのでしょうか?