凡庸な反復

次に「多文化主義の信念形式」のBbについて考えて見ましょう。
Bb「私はpを信じます。しかし、私は、他の人の信念¬pを尊重します。」

この「p」に代入するとBbが矛盾するような命題とは、<その命題pから「他の人の信念¬pを尊重します」と矛盾する命題が導出できるような命題>です。
たとえば、p「私は、C教を信じる、私はC教を否定する信念を尊重しない」という場合です。

写真も文章も凡庸な反復ですみません。

今日は朝から、会議の連続で、
それが終わって幾つものメイルを送って、
それから、夜になって、カントについてNさんにメイルを書いたので、
もう頭が動きません。

Baが矛盾するとき

     紅葉というよりも、黄葉です。

とりあえず、「多文化主義の信念形式」のBaのほうについて考えましょう。
Ba「私はpを信じます。しかし私は¬pを信じている他の人を、人格として尊重します。」

このpにどんな命題を入れてもかならず矛盾するということはありません。
例えばpに「御嶽山には、今雪が積もっている」を入れてもBaは矛盾しません。
このpにどんな価値命題を入れても必ず矛盾するということもありません。
例えばpに「私の作るカレーは、私の作るハヤシライスよりもおいしい」を入れても矛盾しません。

このpに特殊な価値命題を代入するときに矛盾が生じるのです。
では、それはどんな価値命題でしょうか。
その答えは簡単です。
それは、「p」から「¬pを信じる人を尊重しない」や「¬pを信じる人を軽蔑する」や「¬pを信じる人を抹殺すべきだ」などの命題、つまり、「¬pを信じる人を尊重する」と矛盾する命題が導出できる場合です。

では、Bbについてはどうでしょうか。

価値判断が矛盾を引き起こす

この秋の御嶽山です

凡人さん、重要なコメントありがとうございました。

「多文化主義の信念形式」は矛盾していない、というのが前回までの議論の結論だったのですが、この結論は、pが事実判断であるか価値判断であるかによって、影響を受けるのではないか、というのが、コメントの趣旨だと理解しました。

ご指摘のように、私も文化と言うのは大体価値判断の集合体だと思いますので、価値判断を念頭において、「多文化主義の信念形式」が矛盾していないかどうかを、もう一度考えてみたいと思います。

「多文化主義の信念形式」を前回二つの形に分けました。
Ba「私はpを信じます。しかし私は¬pを信じている他の人を、人格として尊重します。」
Bb「私はpを信じます。しかし、私は、他の人の信念¬pを尊重します。」

次に、このBaよりも矛盾していそうな次のD1aを調べました。
D1a「pです。しかし、私は¬pを信じている他の人を、人格として尊重します」
しかし、これは矛盾していないので、Baも矛盾していないと述べました。

この点から、再検討しましょう。
D1aのpが価値判断であるとして、これが矛盾していないかどうかを再検討しましょう。
たとえば、pが次の内容の価値判断であるとしましょう。
p「C教の神信じない人は、神に背くものであり抹殺されるべきだ」
このとき、D1aは次のようになります。
D1a「C教の神を信じない人は、神に背くものであり抹殺されるべきだ。私は「C教の神を信じない人は、神に背くものであり抹殺されるべきだ」を偽であると信じている他の人を、人格として尊重します」

このD1aは、自己矛盾しているように思われます。

では、このpをBaに代入したものはどうなるのでしょうか。
Ba「私は、「C教の神を信じない人は、神に背くものであり抹殺されるべきだ」と信じます。しかし、私は「C教の神を信じない人は、神に背くものであり抹殺されるべきだ」を偽であると信じている他の人を、人格として尊重します。」

この人はpの真理性に確信をもっているわけではありません。しかし、このBaも矛盾しているように思われます。
仮にC教の神を信じないI教の信者がいるとしたときに、このBaは次のようにになるでしょう。
「私は、「I教の信者は抹殺されるべきだ」と信じる。しかし、私はI教の信者の人格を尊重する。」
これは、矛盾しています。

では、我々はこれについて、どのように考えればよいのでしょうか。
多文化主義の信念形式はそれ自体で、自己矛盾しているのでしょうか。
それとも、pに価値判断が代入されと矛盾するのでしょうか。
それとも、pにある特殊な価値判断が代入されると矛盾するのでしょうか。

この点をもう少し考えて見ましょう。

感情の物語負荷性

      アルゴンキン

問題はこうでした。
「人生を物語として捉えなければ、「自分の死に対してどのような態度をとるべきか」というような問題は成立しないのでしょうか?」

答えは、「はい、そのとおり」です。その理由を一般的な仕方で説明すると次の通りです。
「自分の死に対してどのような態度をとるべきか」という問いに限らず、我々が何かを問うことは、意図的行為の一種です。そして、全ての意図的行為は、一定の感情をともなっており、感情抜きに意図的行為は成立しない、と思うのです。他方で、全ての感情は、物語負荷的であり、一定の物語を背景にして初めて成立します。そこで、上の問いもまた、物語を背景にして始めて成立するのです。(この一般的な証明については、拙論「感情の物語負荷性」
http://www.let.osaka-u.ac.jp/~irie/ronbunlist/paper22.htm をご覧下さい。)

しかし、このような説明では、<どんな問題もそれを問う人が何らかの物語を背景にしている>という一般的な説明になってしまって、この人生論の問題の特殊性が見えなくなってしまいます。

ではどうやって説明すればよいでしょうか。

始め、中間、終わり

夢のようなアルゴンキン

さて、次の問題を考えてみます。
「人生を物語として捉えなければ、「自分の死に対してどのような態度をとるべきか」というような問題は成立しないのでしょうか?」

その前に(またしても「その前に」ですね)、「人生を物語として捉えるとはどういうことか」という質問があるかもしれません。

(「その前に」を繰り返しているうちに、最初の問題を忘れてしまうことがあります。「その前に」というのは、結局、最初の問題から逃げているのではないか、と疑われても仕方ありません。しかし、まあ、そんなことを考える、その前に、話を進めましょう。)

「人生を物語として捉えるとはどういうことか?」
これに答えるのは、簡単です。私は、物語をアーサー・ダントーが説明している意味で理解しているからです。もちろん、物語についてのほかの定義もありうるでしょうか。ここではダントーの定義を採用したいとおもいます。物語とは、物語構造を持つもののことであり、物語り構造とは、始めと、中間と、終わりがあるということです。
 Xはt1でH1である。
  Xはt2でH2である。
  Xはt3でH3である。
これが物語の基本構造です(今、彼の本を手元においていないので、表現の違いはあるかもしれませんが、彼が考えいてるいる、と私が考えているのは、このようなことです。)
したがって、「人生を物語として捉えるとは、人生を、始めと、中間と、終わりをもつものとして捉えることです」というのが、答えです。
(これでは、不十分だとか、解からない、という方がおられましたら、ご質問をお願いします。)

さて、これで最初の問題に戻りましょう。
「人生を物語として捉えなければ、「自分の死に対してどのような態度をとるべきか」というような問題は成立しないのでしょうか?」

物語りの終わりとしての死

   2年前のアルゴンキンです。
   週末に山荘にいって、帰ってから仕事に追われていました。

 「自分の死に対してどのような態度をとるべきか」という問題における「自分の死」とは何でしょうか。それは「自分の人生が終わること」です。では、「自分の人生」とは何でしょうか。<時間空間の中に広がる4次元連続体>という理解もできます。<各瞬間における実際に行われた選択と可能な選択肢の集合>の集合、という理解も可能でしょう。これをどのように考えるのであれ、人生と言うのは、何事かの単なる時系列(クロニクル)なのではなくて、一つの物語構造を持つものとして理解することができるように思います。
 このように考えるとき「自分の人生」が、決して生物としての人生、ロボットとしての人生のことでないことは明らかです。なぜなら、生物であること、ロボットであることは、物語構造を持たないからです。もちろん、私は、ある一匹の猫の生涯を物語ることができます。しかし、そのように物語られた猫の死は、生物としての猫の死ではないだろうとおもいます。したがって、「自分の人生」の終わりとしての「死」もまた、単なる生物としての死、単なるロボットとしての死ではありません。
 従って、死にたいする態度の問題において、問題になっているのは、自然的な死ではなく、社会的な死だといえます。(これで証明したことにします。もちろん、反論を歓迎します。)

 さて、次にまたテーゼのようなものを述べてみます。
 我々は死を恐れるのですが、しかし生物としての死を恐れるのではありません。我々が恐れれるのは、物語の終わりです。普通は、物語の終わりを恐れますが、もし大往生であるならば、それは物語が非常によくできた仕方で終わりを迎えるのであって、不満はないということでしょう。しかし、物語が完結しない形で、望まない形で終わってしまうことを人は恐れるのではないでしょうか。あるいは、物語の望ましい終わり方が、自分でもわかっていないのに、終わりがやってくることを恐れるのではないでしょうか。

 さて、このように死の問題を捉えることは、人生を物語(物語構造をもつもの)として捉えることを前提しています。この前提は、この問題にとっての必然的な前提なのでしょうか。つまり、人生を物語として捉えなければ、「自分の死に対してどのような態度をとるべきか」というような問題は成立しないのでしょうか。
 次にこの問題を考えて見ましょう。

 

ロボットにも自然な死と社会的な死

         3年前の今頃のアルゴンキンです。

前回想定したように、私の身体も脳も不治の病になって、私がロボットになったとしましょう。私は確かに、身体や脳を失って機械になってしまったことを悲しむかもしれませんし、ロボットとして差別されることを悔しく思うかもしれません。しかし、悲しんだり、悔しく思っている私は、生きています。

生物としての人間が死ぬときに、自然的な死と社会的な死の区別ができると同様に、ロボットとしての人間が死ぬときにも、自然的な死と社会的な死の区別ができそうです。
ここでいうロボットの自然的な死とは、意識や心や思考の機能の不可逆的な停止、ということでしょう。

つまり、前回のべた理由は、理由にはなりませんでした。

さて、自然な死と社会的な死が、プロセスの進み方に時間差があるにせよ、いずれも一方だけで生じることがないのだとすると、これを分けて、どちらが問題なのか、という問いにどうやって答えればよいのでしょうか。

答えは、前回述べたとおりだろうと思うのです。これは変わりませんが、それをどうやって証明すればよいのか、今思いつきません。

そこで、すこし問いを変えたいとおもいます。ここでは、「自分の死」が問題になっているのですが、「自分の死」とは何を意味しているのでしょうか。

ロボットの死

前回、自然的な死も社会的な死の区別とそれらが共にプロセスであることを説明しました。

さて、問題は、前々回に書いたように、
「「私は生きたい」が社会的な欲望であるならば、それと矛盾する「人間は死ぬ」の方も、自然的な死ではなく社会的な死ではないでしょうか?」でした。

この問いには、「はい、その通りです」と答えたいと思います。

その理由の一つとして、次の点を考えてみたいとおもいます。
もし、私の身体が不治の病になって、私の脳を他の身体に移植することになったとしましょう。そのとき、私はなおも生きています。もし私の脳も不治の病になって、私の脳の情報を全て、アトムのようなロボットの頭脳であるAIにコピーしたとしましょう。そのとき、私はロボットになってしまっていますが、まだ生きつづけているといえそうです。しかし、私の身体は脳も含めて、もはや生きていません。それゆえに、ここでは「自然的な死」は問題ではないのです。

さて、この説明は、本当に上の答えの理由になっているのでしょうか。
一ヵ月後には地球に大きな彗星がぶつかりそうで、ロボットになった私もそのときには、死んでしまうことになりそうだ、と仮定しましょう。これは私にとっての死の問題です。では、ロボットとしての私の死は、自然的な死ではないのでしょうか。私には、身体の死の場合と本質的な違いがないように思えます。

最初の問題設定が曖昧だったのでしょうか?

<まともな思考>を支える規範

urbeさん、コメントありがとうございました。

私もまた積極的無神論者です。神の存在証明が不可能であることをカントが証明したのちの、哲学からの宗教批判は、認識論的なものではなくて、むしろ道徳的な批判になるのだとおもいます。フォイエルバッハも、マルクスも、ニーチェも、キリスト教を信じることは、不道徳であると批判していました。その後に、ラッセルやドーキンスが続くのかもしれません。もちろん、その理由は、哲学者によって様々です。

さて、コメントの本論についてコメントする前に、復習しておきます。

まず「多文化主義の信念形式」を次のBのように考えてみました。
B「私はpを信じます。しかし私は、他の人がpを信じないことを尊重します。」
問題は、「Bが矛盾しているかどうか」でした。

まず、Bよりも、もっと矛盾していそうなDを考えてみました。
D「pです。しかし、私は、他の人がpを信じないことを尊重します」
もしこのDが矛盾していないならば、Bは矛盾していないということになるでしょう。

なぜなら、Bの場合には、「私が、pを信じているが、確信を持っていない」のに対して、Dの場合には、「pです」と言い切っているので、「私は確信を持ってpを信じている」と解釈することにしました。

なぜ、Bの場合には、「私が、pを信じているが、確信を持っていない」といえるのか、といえるのでしょうか。このBの命題だけからでは、そのような解釈はできません。しかし、この命題を我々は「多文化主義の信念形式」だと考えました。「私」は多文化主義者なのです。もし人がpを確信を持って信じているのならば、その人はpに関して、多文化主義の立場をとることはありません。pに関して多文化主義であるということは、pに関して異なる見解を持つ文化が正しい可能性を認めるということです。従って、彼がpを信じているとしても、彼は確信を持っていないはずだからです。

このDを次のD1のように書き換えてみました。この書き換えによって、D1はDより矛盾の度合いが強くなっても、弱くなる事はないだろうと考えました(あるいは、書き換えても、ここでの議論には影響しないだろうと考えました)。

D1「pです。しかし私は他の人が¬pを信じることを尊重します。」

次にこのD1についての次の二つの解釈を区別することにしました。

D1a「pです。しかし、私は¬pを信じている他の人を、人格として尊重します」
D1b「pです。しかし、私は、他の人の信念¬pを尊重します。」

私の結論は、「D1aには矛盾はないが、D1bは矛盾している」ということでした。
そして、「D1aが矛盾していないのならば、Bも矛盾していない」と結論付けたのでした。

こうして、復習してみて気づいたのですが、この最後の結論付けの部分がわかりにくかったかもしれませんので、次のように説明を補いたいと思います。

D1をD1aとD1bに分けたのと同様に、Bについても次の二つの理解を区別できます。

Ba「私はpを信じます。しかし私は¬pを信じている他の人を、人格として尊重します」
Bb「私はpを信じます。しかし、私は、他の人の信念¬pを尊重します。」

D1aが矛盾していないので、Baは矛盾していません。
D1bは矛盾しています。しかし、Bbは矛盾していません。
なぜなら、Bはpを信じているけれど、確信を持ってはいないからです。

さて、urbeさんの最後のコメント <僕の予想はつぎのようなものです.もしBをD1aのように解釈したとします.すると,(ひょっとすると)上のような何らかの道徳的理由から,D1aから「人格を尊重するゆえ,そのひとのもつ信念pを放棄させなければならない」といった主張が導かれるかもしれません.すると,結局,D2の反対が導かれました.> について。

D1aは矛盾していないけれど、D1bは矛盾している、と私は考えますので、D1bからD1bの反対が導出されることは、ありうることだと思います。

<それは「pと信じる人を私は論駁します」というようなものです.この主張は,もはや多文化主義の尊重といえるでしょうか?>

そのとおりです。つまりDは、「pを確信を持って信じている」立場ですので、pに関して、多文化主義をとっていないのだと思います。

最初のコメント<D1bの矛盾は、「意味論的」ないし「論理的」な矛盾ではなくて>、<何らかの規範的命題を侵犯>することではないか、について

これの後半<何らかの規範的命題を侵犯>するについては、その通りだろうとおもいます。

<pが真であると確信しているのに、他者の¬pという主張を尊重する。>
これは、他者の間違いを訂正しないということで、嘘をつくのと同様に、道徳的な規範に反するように思われます。

しかし、コメントの前半<D1bの矛盾は、「意味論的」ないし「論理的」な矛盾ではない>については、私には迷いがあります。

D1bの態度は、彼自身の論理的な首尾一貫性にも反するように思われるのです。そして、この首尾一貫性は、有意味に語ることや、論理的に語ることを、可能にするような規則であるような気がします。ただし、この「首尾一貫性」が、<意味論的な規則や論理規則の一種である>といえるかどうかについては、迷いがあります。つまり、urbeさんのコメントが間違っているという確信も持てないでいます。

この首尾一貫性は、それらとは、別種のものかもしれません。しかし、それを破ると、我々が<まともな思考>ができなくなるような規則であるように思われます。

 ここで、私が考えていることは、昨年後期の、自由に関する講義と関連しています。興味のある方は、

http://www.let.osaka-u.ac.jp/~irie/kougi/tokusyu/2006WS/2006WS10%20Fichte.html

を参照してくだされば、幸甚です。

二つの死とプロセス

      明石大橋です。

この書庫では、「死に対してどのような態度をとるべきか」という問題について論じます。
この問題に、哲学がどのように答えることができるか、あるいは哲学は何も答えることができないのか、そのことを突き止めたいとおもいます。
 しかし、その前に、哲学ではよくあることですが、この問題そのものの意味をもっと明確にしておく必要がありますので、まずは、それに取り掛かりましょう。
 
 さて前回、「「私が生きたい」が社会的な欲望であるならば、それと矛盾する「人間は死ぬ」の方も、自然的な死ではなくて、社会的な死ではないでしょうか?」という問いを立てました。この問いを言い換えると、次のようになります。「人生論や人生観において「死に対してどのような態度をとるべきか」という問題を設定するときに、問題になっているのは、自然的な死ではなくて、社会的な死ですか?」

 この問いを自分で立てておきながら、二つの死を区別することにどんな意味があるのか、よくわかりません。前回の発言から、時間がたちすぎているのかもしれません。そこで、この問いの前に、「自然的な死」と「社会的な死」の区別について考えてみましょう。

「私たちは、この二つの死を区別できるのか、できるとすればどのように区別できるのでしょうか?」

「人間の自然的な死」とは、「生物としての人間の死」のことだと言えるでしょう。曖昧なのは、「社会的な死」の方です。これは「社会的な存在としての人間の死」だと言えるかもしれませんが、しかし、これではまだ曖昧です。

例えば、カントの思想が今も生きているとすると、カントは社会的に死んでいないということになるのでしょうか。しかし、カントは、ケーヒススベルク大学では社会的に死んだはずです。つまり、カントが死んだので、カントは講義をしなくなりました。カントは大学にやってこなくなりました。カントの葬儀が行われました。カントの後任が決められました(その人も今はもういないでしょうが・・・)。このような意味では、カントは社会的な存在としても死んだのです。

 脳死問題を議論するときには、「死はプロセスである」とよく言われるのですが、このことは、「自然的な死」だけでなく「社会的な死」についても言えるのではないでしょうか。

 それは、次のような意味です。人が生物として死ぬとき、一気にすべての生物機能が停止するのではありません。呼吸がとまり、心臓が止まり、瞳孔反射がなくなり、聴覚反応がなくなり、腎臓が機能しなくなり、肝臓が機能しなくなり、というようなことが状況によって、様々な順序でおこるででしょう。そのあとでも、つめが伸び、髪の毛が伸び、などするでしょう。そして、いずれは、すべての細胞が死ぬことでしょう。このようなプロセスのなかで、従来は三兆候が確認されたときをもって「死亡」としていました。人工呼吸器が登場した今日では「全脳の不可逆的な機能停止」をもって「死亡」とすることもできるかもしれません。あるいは、「全脳の器質死」のような別の基準を作ることもできることでしょう。しかし、これらの基準は全て、人間の生物学的な機能のうちのどれを重視するかという価値判断に基づくものであって、自然の中に基準があるのでないとおもいます。その意味で「死の定義」問題で定義される「死」は、人間の「自然的な死」というよりも、「社会的な死」なのだろうとおもいます。これに対して厳密な意味での「自然的な死」というのは、上のような意味でプロセスであり、どこかで線引きできるものではありません。

 ところで、人間の「社会的な死」もまた、プロセスなのではないでしょうか。「死亡の判定」のような死も、社会的な死ですが、葬儀もまた社会的な死であり、埋葬もまた社会的な死であり、四十九日もまた社会的な死であり、死亡記事が掲載されることが、社会的な死であり、後任が決まることが、社会的な死であり、その人の思い出が語られなくなる事が社会的な死であり、その人を覚えている人がいなくなる事が社会的な死である、というように、「社会的な死」は、「自然的な死」以上に長いプロセスであるようにおもわれます。

これで、とりあえず、「自然的な死」と「社会的な死」の意味とその区別がわかったとしましょう。では、人生論において問題になるのは、「社会的な死」だけなのでしょうか。