04相互承認には共有知が必要

認識論的個人主義者の反論は次のようなものでした。

<私は「他者が存在する」と想定しています。もちろん、それが私の想定に過ぎない可能性はあります。なぜなら、私は、私の認識の外部に出てゆけないからです。しかし、単なる想定ではなく、実際に他者が存在することもまた可能です。もちろん、それもまた個人の想定になりますが、しかし、この想定には矛盾したところはないと思います。>

この反論にどのように答えましょうか。ここで「相互承認」についての認識論的個人主義者の同形の議論を構成して、それを反論したいと思います。
(「相互承認」という言葉をいきなり持ち出すと解かりにくいかもしれません。これはフィヒテに始まる哲学用語です。人間と人間が自然状態でであったときに、戦争状態を避けるために必要とされる、最も基礎的な人間関係のことです。その中身は、「互いに相手の自由のために、自分の自由を制限する」ということです。)

<私は、「Bさんとの相互承認している」と想定しています。もちろん、それが私の想定に過ぎない可能性はあります。なぜなら、私は、私の認識の外部に出てゆけないからです。しかし、単なる想定ではなく、実際にBさんとの相互承認が存在することもまた可能です。もちろん、それもまた私の想定になりますが、しかし、この想定には矛盾したところはないと思います。>
 
これに対する私の反論は以下の通りです。
<相互承認は、互いに承認していることを互いに知っていることを互いに知っているというような反復が可能であるということを、構成条件としています。つまり、認識論的個人主義者が、「私は、「Bさんとの相互承認している」と想定しています。もちろん、それが私の想定に過ぎない可能性はあります。」というのは、「私は「私はBさんと相互承認しており、そのことを互いに知っていることを互いに知っているというような反復が可能である」と想定しています。しかし、それが私の想定に過ぎない可能性はあります。」と認めることになります。しかし、そうすると、これは、相互承認の関係を互いに知っていることを互いに知っているということの無限の反復可能性の主張と矛盾します。>

したがって、相互承認が成立していると考えるのならば、我々は認識論的個人主義を放棄しなければなりません。認識論的個人主義者が、相互承認が成立していると考えることは矛盾しているといえます。

これに対して、認識論的個人主義者は次のように反論するかもしれません。

<上の論証を認めましょう。私がそこから引き出す結論は、上述のような完全な意味でならば「相互承認」は成立しないと主張することです。私は、他者の存在を想定し、彼らを尊重し、ある人々とは対話し、互いに尊重しあっていると想定しています。これもまた私の想定で、間違っている可能性がありますが、しかしあっている可能性もあります。>

さて、この反論にどう答えましょうか。

03認識論的個人主義とは

共有知の存在証明に取り掛かりたいとおもいます。

唯物論であれ、二元論であれ、観念論であれ、すべての意識ないし思考は、個人の意識ないし思考であるとしましょう。この立場を「認識論的個人主義」と呼ぶことにします。なぜなら、このときには、全ての認識は、ある個人が行っている認識であるということになるからです。
 このような認識論的個人主義では、私が見ている対象や私の思考は、全て私個人のものです。もし私がBさんと同じ部屋にいて、同じ黒板を見ているとしましょう。このこと、つまり「私がBさんと同じ部屋にいて、同じ黒板を見ている」ということは、私の認識です。私は、Bさんも、同じように考えていると思っていますが、しかし「Bさんも同じように考えている」ということもまた、私の認識です。つまり、認識論的個人主義が正しいとすると、個人が複数存在することを、想定することもまた、ある個人の想定であることになります。
ここから、「認識論的個人主義者が、他者の存在を想定することは自己矛盾している」ということを主張したいのですが、それを主張するには、まだ途中の論証を補う必要があるでしょう。

認識論的個人主義者は次のように反論するでしょう。
<私は「他者が存在する」と想定しています。もちろん、それが私の想定に過ぎない可能性はあります。なぜなら、私は、私の認識の外部に出てゆけないからです。しかし、単なる想定ではなく、実際に他者が存在することもまた可能です。もちろん、それもまた個人の想定になりますが、しかし、この想定には矛盾したところはないと思います。>

 さて、この反論にどのように答えましょうか。
 

02そろそろ始めましょう

     先週末見た綺麗な紅葉でした。

そろそろ話しをはじめたいと思います。
ここで「共有知」と呼びたいのは、個人が考えている知ではありません。それは個人を超えて複数の人が共有している知です。諸個人が同じ内容の知を持っており、各人の心ないし頭に同じ知が人間の数だけ反復して成立しているというのではありません。

複数の個人が一つの知を共有すること、内容が同一の知が、人間の数だけ存在するのではなくて、数的に一つの知がそこに存在しているという状態を「共有知」と呼びたいとおもいます。

「そんなバカな」というご批判は、私がそのように考える理由を説明してから、喜んでお伺いしますので、今しばらくお待ち下さい。

思考が停止しつつあるような・・・

多文化主義が、「多文化主義の信念形式」BaやBbをとるのだとすると、
その内容は、上に述べたような条件、つまりその信念条件そのものに矛盾しないという
条件を満たす必要があります。

この条件を満たせば、多文化主義の信念形式には、論理的な矛盾はないということになります。では、このような論理的整合性を満たすための条件以外には、条件は必要ないのでしょうか。凡人さんからのご批判は、これで充分にクリアされたでしょうか。それともまだ問題があるでしょうか。

凡庸な反復

次に「多文化主義の信念形式」のBbについて考えて見ましょう。
Bb「私はpを信じます。しかし、私は、他の人の信念¬pを尊重します。」

この「p」に代入するとBbが矛盾するような命題とは、<その命題pから「他の人の信念¬pを尊重します」と矛盾する命題が導出できるような命題>です。
たとえば、p「私は、C教を信じる、私はC教を否定する信念を尊重しない」という場合です。

写真も文章も凡庸な反復ですみません。

今日は朝から、会議の連続で、
それが終わって幾つものメイルを送って、
それから、夜になって、カントについてNさんにメイルを書いたので、
もう頭が動きません。

Baが矛盾するとき

     紅葉というよりも、黄葉です。

とりあえず、「多文化主義の信念形式」のBaのほうについて考えましょう。
Ba「私はpを信じます。しかし私は¬pを信じている他の人を、人格として尊重します。」

このpにどんな命題を入れてもかならず矛盾するということはありません。
例えばpに「御嶽山には、今雪が積もっている」を入れてもBaは矛盾しません。
このpにどんな価値命題を入れても必ず矛盾するということもありません。
例えばpに「私の作るカレーは、私の作るハヤシライスよりもおいしい」を入れても矛盾しません。

このpに特殊な価値命題を代入するときに矛盾が生じるのです。
では、それはどんな価値命題でしょうか。
その答えは簡単です。
それは、「p」から「¬pを信じる人を尊重しない」や「¬pを信じる人を軽蔑する」や「¬pを信じる人を抹殺すべきだ」などの命題、つまり、「¬pを信じる人を尊重する」と矛盾する命題が導出できる場合です。

では、Bbについてはどうでしょうか。

価値判断が矛盾を引き起こす

この秋の御嶽山です

凡人さん、重要なコメントありがとうございました。

「多文化主義の信念形式」は矛盾していない、というのが前回までの議論の結論だったのですが、この結論は、pが事実判断であるか価値判断であるかによって、影響を受けるのではないか、というのが、コメントの趣旨だと理解しました。

ご指摘のように、私も文化と言うのは大体価値判断の集合体だと思いますので、価値判断を念頭において、「多文化主義の信念形式」が矛盾していないかどうかを、もう一度考えてみたいと思います。

「多文化主義の信念形式」を前回二つの形に分けました。
Ba「私はpを信じます。しかし私は¬pを信じている他の人を、人格として尊重します。」
Bb「私はpを信じます。しかし、私は、他の人の信念¬pを尊重します。」

次に、このBaよりも矛盾していそうな次のD1aを調べました。
D1a「pです。しかし、私は¬pを信じている他の人を、人格として尊重します」
しかし、これは矛盾していないので、Baも矛盾していないと述べました。

この点から、再検討しましょう。
D1aのpが価値判断であるとして、これが矛盾していないかどうかを再検討しましょう。
たとえば、pが次の内容の価値判断であるとしましょう。
p「C教の神信じない人は、神に背くものであり抹殺されるべきだ」
このとき、D1aは次のようになります。
D1a「C教の神を信じない人は、神に背くものであり抹殺されるべきだ。私は「C教の神を信じない人は、神に背くものであり抹殺されるべきだ」を偽であると信じている他の人を、人格として尊重します」

このD1aは、自己矛盾しているように思われます。

では、このpをBaに代入したものはどうなるのでしょうか。
Ba「私は、「C教の神を信じない人は、神に背くものであり抹殺されるべきだ」と信じます。しかし、私は「C教の神を信じない人は、神に背くものであり抹殺されるべきだ」を偽であると信じている他の人を、人格として尊重します。」

この人はpの真理性に確信をもっているわけではありません。しかし、このBaも矛盾しているように思われます。
仮にC教の神を信じないI教の信者がいるとしたときに、このBaは次のようにになるでしょう。
「私は、「I教の信者は抹殺されるべきだ」と信じる。しかし、私はI教の信者の人格を尊重する。」
これは、矛盾しています。

では、我々はこれについて、どのように考えればよいのでしょうか。
多文化主義の信念形式はそれ自体で、自己矛盾しているのでしょうか。
それとも、pに価値判断が代入されと矛盾するのでしょうか。
それとも、pにある特殊な価値判断が代入されると矛盾するのでしょうか。

この点をもう少し考えて見ましょう。

感情の物語負荷性

      アルゴンキン

問題はこうでした。
「人生を物語として捉えなければ、「自分の死に対してどのような態度をとるべきか」というような問題は成立しないのでしょうか?」

答えは、「はい、そのとおり」です。その理由を一般的な仕方で説明すると次の通りです。
「自分の死に対してどのような態度をとるべきか」という問いに限らず、我々が何かを問うことは、意図的行為の一種です。そして、全ての意図的行為は、一定の感情をともなっており、感情抜きに意図的行為は成立しない、と思うのです。他方で、全ての感情は、物語負荷的であり、一定の物語を背景にして初めて成立します。そこで、上の問いもまた、物語を背景にして始めて成立するのです。(この一般的な証明については、拙論「感情の物語負荷性」
http://www.let.osaka-u.ac.jp/~irie/ronbunlist/paper22.htm をご覧下さい。)

しかし、このような説明では、<どんな問題もそれを問う人が何らかの物語を背景にしている>という一般的な説明になってしまって、この人生論の問題の特殊性が見えなくなってしまいます。

ではどうやって説明すればよいでしょうか。

始め、中間、終わり

夢のようなアルゴンキン

さて、次の問題を考えてみます。
「人生を物語として捉えなければ、「自分の死に対してどのような態度をとるべきか」というような問題は成立しないのでしょうか?」

その前に(またしても「その前に」ですね)、「人生を物語として捉えるとはどういうことか」という質問があるかもしれません。

(「その前に」を繰り返しているうちに、最初の問題を忘れてしまうことがあります。「その前に」というのは、結局、最初の問題から逃げているのではないか、と疑われても仕方ありません。しかし、まあ、そんなことを考える、その前に、話を進めましょう。)

「人生を物語として捉えるとはどういうことか?」
これに答えるのは、簡単です。私は、物語をアーサー・ダントーが説明している意味で理解しているからです。もちろん、物語についてのほかの定義もありうるでしょうか。ここではダントーの定義を採用したいとおもいます。物語とは、物語構造を持つもののことであり、物語り構造とは、始めと、中間と、終わりがあるということです。
 Xはt1でH1である。
  Xはt2でH2である。
  Xはt3でH3である。
これが物語の基本構造です(今、彼の本を手元においていないので、表現の違いはあるかもしれませんが、彼が考えいてるいる、と私が考えているのは、このようなことです。)
したがって、「人生を物語として捉えるとは、人生を、始めと、中間と、終わりをもつものとして捉えることです」というのが、答えです。
(これでは、不十分だとか、解からない、という方がおられましたら、ご質問をお願いします。)

さて、これで最初の問題に戻りましょう。
「人生を物語として捉えなければ、「自分の死に対してどのような態度をとるべきか」というような問題は成立しないのでしょうか?」

物語りの終わりとしての死

   2年前のアルゴンキンです。
   週末に山荘にいって、帰ってから仕事に追われていました。

 「自分の死に対してどのような態度をとるべきか」という問題における「自分の死」とは何でしょうか。それは「自分の人生が終わること」です。では、「自分の人生」とは何でしょうか。<時間空間の中に広がる4次元連続体>という理解もできます。<各瞬間における実際に行われた選択と可能な選択肢の集合>の集合、という理解も可能でしょう。これをどのように考えるのであれ、人生と言うのは、何事かの単なる時系列(クロニクル)なのではなくて、一つの物語構造を持つものとして理解することができるように思います。
 このように考えるとき「自分の人生」が、決して生物としての人生、ロボットとしての人生のことでないことは明らかです。なぜなら、生物であること、ロボットであることは、物語構造を持たないからです。もちろん、私は、ある一匹の猫の生涯を物語ることができます。しかし、そのように物語られた猫の死は、生物としての猫の死ではないだろうとおもいます。したがって、「自分の人生」の終わりとしての「死」もまた、単なる生物としての死、単なるロボットとしての死ではありません。
 従って、死にたいする態度の問題において、問題になっているのは、自然的な死ではなく、社会的な死だといえます。(これで証明したことにします。もちろん、反論を歓迎します。)

 さて、次にまたテーゼのようなものを述べてみます。
 我々は死を恐れるのですが、しかし生物としての死を恐れるのではありません。我々が恐れれるのは、物語の終わりです。普通は、物語の終わりを恐れますが、もし大往生であるならば、それは物語が非常によくできた仕方で終わりを迎えるのであって、不満はないということでしょう。しかし、物語が完結しない形で、望まない形で終わってしまうことを人は恐れるのではないでしょうか。あるいは、物語の望ましい終わり方が、自分でもわかっていないのに、終わりがやってくることを恐れるのではないでしょうか。

 さて、このように死の問題を捉えることは、人生を物語(物語構造をもつもの)として捉えることを前提しています。この前提は、この問題にとっての必然的な前提なのでしょうか。つまり、人生を物語として捉えなければ、「自分の死に対してどのような態度をとるべきか」というような問題は成立しないのでしょうか。
 次にこの問題を考えて見ましょう。