56 <言語的な探索(問うこと)>と<非言語的な探索>と<見かけ上の探索>の区別(20221214)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

<言語的な探求(問うこと)>と<非言語的な探求>と<見かけ上の探求>の区別を予測誤差最小化メカニズムの観点から考察したいと思います。

予測誤差最小化メカニズムは、ボトムアップでなく、トップダウンで知覚や行為を説明します。このアプローチを、三種類の探求(<言語的な探索(問うこと)>、<非言語的な探索>、<見かけ上の探索>)の関係に適用すると、左のものから右のものを説明することになります。

#<非言語的な本当の探索>と<見かけ上の探索>の関係について

欲求をもって探索する動物の登場以前にも、すべての動物の運動は、エサやよい環境を探求することとして理解することができます。つまり<本当の探索>の登場以前には、<見かけ上の探索>が成立しています(ただし、それを<見かけ上の探索>として理解するのは、<本当の探索>をする動物です)。

ただし、一旦本当の探求が成立すれば、その動物がおこなう<見かけ上の探索>は(全てではないとしても、その多くが)、その動物によって<見かけ上の探索>として理解され、その動物が行う<本当の探索>のプロセスの一部分として組み込まれることになります。例えば、水を飲もうと欲求して、水を探して、水を飲むとき、その一連の行動は、たくさんの無条件反射や条件反射やオペラント行動を含んでいます。それらは、<見かけ上の探索>です。

ただし、<見かけ上の探索>だけを構成要素とすることによって、<非言語的な本当の探索>を説明することはできません。<見かけ上の探索>ではなく、<本当の探索>をするには、何かを求める欲求という情動が必要です。欲求(情動)を持たない動物は、欲求をともなう<本当の探索>をできないからです。<見かけ上の探索>には、走性や無条件反射による行動である場合と、条件反射やオペラント反応による行動である場合があります。そして、後者は前者をその部分として含む場合があります。

ところで、(欲求を含めて)情動と意識は、どう関係しているのでしょうか。情動は常に意識されているのでしょうか。仮に意識されていない欲求(情動)があるとしても、欲求があれば、その意識が伴わなくても、その無意識の欲求にもとづく探索は、<見かけ上の探索>ではなく、<本当の探索>だといえるように思えます。

#<言語的な探求(問うこと)>と<非言語的な探求>の関係について

言語を獲得して、問うことができるようになれば、<非言語的な探求>はすべて言語化されて<言語的な探求(問うこと)>に変わるだろうと思います。したがって、言語的な探求が生じるとき、非言語的な探求はほとんど消失するだろうと思います。

 例えば、「芋を食べよう」と思って、芋に手を伸ばして、口元に運ぶとき、「芋に手を伸ばそう」とか「芋を口にもってこよう」とするとき、たいていは、それを明示的に言語化してはいない。しかし、そのとき行為を止められて「何をしているのですか」と問われたら「芋に手を伸ばしています」と答え、「なぜそうするのですか」と問われたら「芋を食べるためです」と答えるだろう。明示的に言語化していないとしても、行為はすでに暗黙的に言語的に分節化されている。言語を持つ以前のサルが、芋を手に取って、口に運ぶとき、その行為は暗黙的にも言語的に分節化されていないが、しかし、それらの非言語的な行為は、言語を持つ動物では、言語化されて構成されることになる。すべての意図的な行為を実現するための手段としてある行為が行われる時、その手段となる行為は、目的となるより上位の行為との<目的-手段>関係のなかに位置づけられており、その限りで言語的に分節化されている。

 ここまでのところで、行為と探索を混同しているように思われたかもしれませんが、すべての行為は同時に探索でもあると考えています。すべての行為には、多くのミクロな調整が必要であり、その意味ですべての行為にはミクロな探索が伴っているからです。

 以上の説明の中で探索を次のように分けました。。

<見かけ上の探索行動>

 遺伝的な探索行動

 学習としての探索行動

<非言語的な本当の探索行動>

 欲求にもとづく探索行動

<言語的な本当の探索行動>

この系列において探索行動が次第に高度なものになっています。よろ高次の探索は、より低次の探索を部分として含みうるが、より低次の探索は、より高次の探索を部分として含みえません。より低次の探索には、より高次の探索に含まれずに機能しているものと、より高次の探索に含まれて機能しているものがあります。

探索についての以上の考察をする中で明確になったことの一つは、<知覚も行為も、何かの探索である>ということです。フリストンやホーヴィは、知覚と行為を予測誤差最小化メカニズムで説明するのですが、すべての行為は探索でもあります。そして知覚は、行為を計画したり、実行したり、調整したりするために行われるので、知覚は行為のための探索であると言えそうです。予測誤差最小化メカニズムとしての知覚は、対象(あるいは対象の正しいモデル)を探索するメカニズムだと言えそうです。また予測誤差最小化メカニズムとしての行為は、行為では、モデル(実現しようとする事態)に適合するように入力(感覚刺激)を変更する、つまり実現しようとする事実が、原因となってある感覚刺激(その事実の知覚)が生じるように、行為によってその知覚の原因となっている事実を変更しようとします。行為は、実現したい状態を実現するための方法を探索するメカニズムだと言えます。

以上を踏まえて、言語的な探索(問い)や言語的な知覚や言語的な行為もまた、予測誤差最小化メカニズムであることを説明したいと思いますが、他方で、言語は、集団や他者との関係の中で成立したものです。そこで次に、集団や対他者関係のなかでの予測誤差最小化メカニズムを考えたいと思います。