59 共同注意は予測誤差最小化メカニズムによって/として成立する (20221229)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

前回の最後に次のように書きました。

「<ある事実に注意してほしい>という意図を他者に伝達しようとする意図(伝達意図)は、<ある事実に注意している>という状態を、他者と共有することを目指しています。つまり、共同注意を目指している意図だと思われます。そうだとすると、伝達意図は、(他の対象でも同じ対象でもよいのですが)ある対象への共同注意の経験を前提します。」

ここでは、「伝達意図」「共同注意」の関係について、もう少し詳しく考えたいと思います。

二人の人間AとBがいて、Aが、Bが対象Oに注意することを意図1し、Aがその意図1をBに伝達しようと意図2するとします。この意図2のような意図を「伝達意図」と呼ぶことにします。

またAとBが対象Oに「共同注意」とは、<AとBがともに対象Oに注意し、かつ両者がそのことに気づいている>ということだとします。では「伝達意図」と「共同注意」はどのように関係するでしょうか。

この二つの関係としては、次の二通りが考えられます。

1,Aが対象Oに注意し、それをBに伝えようとする伝達意図によって、共同注意が成立する。

(ちなみに、Aが伝達意図をもつことは、さまざまな目的を持ちえます。つまり、伝達意図の実現によって共同注意が成立するとしても、そのことは、伝達意図がもちうる目的の一つに過ぎません。伝達意図が実現しても、共同注意が成立しないこともありえます。例えば、教師が複数の生徒に、顕微鏡の中の細胞を見てくださいと言い、一人の生徒がそれを見る前に、隣の生徒に同じように顕微鏡の中の細胞を見て下さいと言う場合です。また、かりに共同注意が成立したとしても、それは目的ではなく、他のことが目的であり、共同注意は付帯的に成立するにすぎないこともありえます。例えば、教師が生徒にあの星を見て、あの星の名前を考えてくださいという場合、生徒と教師がその星にともに注意するとしても、そのことは、この場合の伝達意図の目的ではありません。)

2,AやBが個別に対象Oに注意する前に、したがって個人が対象Oへの注意を伝えようとする伝達意図の成立する前に、AとBの対象Oへの共同注意が成立し、その後に各人の対象Oへの注意が成立する。

幼児の発達過程において、伝達意図も共同注意もできるようになっているとすると、その場合には、上記の1のケースがあるでしょうが、発達過程において、共同注意が最初に成立するときには、上記の2のケースになると思われます。その根拠は、指示行為が、共同注意の後に発生するということです。幼児の発達においては、伝達意図よりも、共同注意の成立が先行するようです。トマセロによると、共同注意は、9か月ころ成立し(これがトマセロの「9か月革命」です)、指さしの成立は、トマセロによれば11か月ころ、アダムソンによれば12か月ころ(cf. ローレン・B・アダムソン著『乳児のコミュニケーション発達』(大藪秦・田中みどり訳、川島書店、p.21)のようです。指さしは、他者の注意をある対象に向けようとする伝達意図にもとづく行為ですから、伝達意図の成立は、共同注意の成立の後になります。

では、対象への幼児の注意と、対象への幼児と大人の共同注意は、どちらが早く成立するのでしょうか。私には確証と言えるものがまだ見つからないのですが、共同注意が個人の注意に先立つと予想します。アダムソンが引用しているヴィゴツキーの次の言葉を孫引きしておきたいと思います。

「子供の文化的発達に見られる機能はすべて2回出現する。最初は社会的レヴェルで、その次に個人的レヴェルで。最初は人と人との〈間で〉(精神間)、その次に子どもの〈内部で〉(精神内)。」(同上p.38からの孫引き)
(カテゴリー【共同注意と指示】では、

・個人的な注意よりも、共同注意が発達上先行するということ、

・個人による指示よりも、「共同指示」ともよぶべきものが、発達上先行すること、

トマセロの「シミュレーション理論」を批判して、この二点を証明しようしました。トマセロ、アダムソン、大藪の議論を紹介しつつ、考察しましたが、上記の証明としては、不十分なままに、中断しています。それを書いていたのは2008年で、その時私は、ミラーニューロンや能動的推論や予測誤差最小化メカニズムについて知りませんでしたが、今ならそれを考慮してもう少し進んだ議論ができそうな気がします。)

#共同注意は、予測モデルとして成立するのではないでしょうか。

<私は、自分と他者が同じ対象Oについて一緒に共同注意しているというモデルから、自分と他者の対象についての注意の内容を推論する。他者が現実に注意を向ける対象が、私が予測する対象とは異なっているならば、私は当初のモデルを修正する、この新しいモデルから…>という予測誤差最小化メカニズムによって/として成立するのではないでしょうか。共有注意は、<あることを予測し、それから予測する帰結を、現実と比較して、誤差が最小化するように、予測を修正する>という予測誤差最小化メカニズムによって/として成立する。

#共有知は予測誤差最小化メカニズムによって/として成立する

共有知とは、「AもBもpを知っており、そのことをAもBも知っており、そのことを・・・(以下無限に続きうる)」というような知ですが、これは正確な定式化ではありません。実は、それを適切に定式化することは非常に困難です。そこからわかることは、共有知を個人知から構成することはできないということです。では、共有知は存在しないのか、といえば、そうもいきません。なぜなら、私たち他者とコミュニケーションするときには、共有知を想定しているからです。以下は、カテゴリー「世にも不思議な共有知」に書くべきことなのですが、そこには、改めて書き込むことにして、今回思いついた、この問題の解決方法を伝えたいと思います。

それは、<共有知は、予測モデルとして存在しているのではないか>ということです。

共有知は、<共有知というモデルから、私は、自分と他者が同じ知をもっていることを推論する。他者が現実に持つ知がそれと異なることが分かったら、私はモデルを修正して、修正された共有知が共通であることを予測する>という予測誤差最小化メカニズムによって/として成立するのではないでしょうか。

「共同注意」と「共有知」についてのこれらの定式では、それらは、個人が行う予測誤差最小化メカニズムであって、共同で行う予測誤差最小化メカニズムではありません。したがって、これではこれらの説明としては、まだ不十分かもしれません。また、これらの定式化における「予測誤差最小化メカニズム」は、無意識的なものなのか、意識的意図的なものなのか、という問題もあります。

ここでは、言語的探索である<問うこと>がどのようにして生じるのか、そして目下の文脈では、それを予測誤差最小化メカニズムとして説明することです。そのために、共同注意や共有知を予測誤差最小化メカニズムとして説明しようとしています。共有知を予測誤差最小化メカニズムで説明できるのかどうか、さらに考察したいと思いますが、今年はこれで最後になりそうです。

皆様良い年をお迎えください!

58 振り返りの後、伝達意図へ (20221225)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

このカテゴリーの第45回から:現代神経科学における、K.フリストンの「自由エネルギー理論」、「能動的推論」、ヤコブ・ホーヴィの「予測誤差最小化メカニズム」の議論を紹介し、それと問答との関係を考察してきましたが、(議論が錯綜して進んでいないので)これまでの経緯を振り勝っておきたいと思います。

ベイズ推論あるいは能動的推論も、推論である以上は、問答推論になっていると思われます。つまり、その推論は問いによって始まり、問いの答えを見つけることによって完了する、ということです。しかし、能動推論や予測誤差最小化メカニズムが前提する問いというものは、もちろん<見かけ上の問い>であって、意識的な問いではありません。

ベイズ推論を問答推論として説明できることを明確に示めそうとしたのですが、ベイズ推論の理解が不十分なために明確に論じられないので、第54,55回から「「問い」を予測誤差最小化メカニズムによって説明する」ことに取り組み始めました。しかし、言語による「問い」や「問答」は、非言語的な探索とは異質であるために、それらを予測誤差最小化メカニズムによって説明するとしても、<見かけ上の探索>や<非言語的な探索>を予測誤差最小化メカニズムによって説明するのとは違った仕方で説明する必要があることが明らかになりました。

・<見かけ上の探索>を説明する予測誤差最小化メカニズムは、神経組織のメカニズムです。

・<非言語的な本当の探索>は、意識が成立した段階での探索、つまり意識された欲求(情動)を満たすための探索です。したがって、これを説明するには、より高度の神経組織のメカニズムが必要になると思われます。

・<言語的な探索>は、言語的な探索、つまり問いに答えようとする過程であり、さらに高度の神経組織のメカニズムを必要とするはずです。そして、この意識的な問答過程は、意識的な予測誤差最小化メカニズムとして理解することができます。つまり問いが答えの半製品であるという意味で、答えの予測(あるいは予測の半製品)であり、その答えを探求する過程は、予測誤差最小化のプロセスだと理解することもできます。このように問答過程を予測誤差最小化過程としてとらえるとき、それは(究極的には何らかの神経組織のメカニズムに依拠するとしても)ニューロンネットワークの活動ではなく、概念の意味に依拠して理解可能な、あるいは構成可能なプロセスです。

ニューロンネットワークが行う予測誤差最小化メカニズム(ベイズ推論)と、人間が意識的意図的に行う問答推論としての予測誤差最小化過程(意識的なベイズ推論)を区別しなければなりません。

この後者が、前者の基礎の上にどのように成立するのか、またどのように発生するのか、これを明らかにすることが課題(第45回以後の考察の最終課題)です。

――――――――――――――――――― 

さて、前回の話に戻りたいと思います。

前回見たように、人間の新生児は、無意識的に他者の表情や身振りの模倣をします。そして、<無意識の模倣が身振りや発声の模倣となること>、さらに<模倣の反復からある身振りや発声がパターンとして同定されるようになること>を推測できます。さらに<このような身振りや発声が意識的なものになるとき、それにともなう行為連関を伝えることを予期し、その伝達を意識的に行うようになる>と推測できます。

 ある行為連関を伴う身振りや発声を習得しているとします。では、そこから、身振りや発声によってその行為連関を伝えようとする意図(伝達意図)はどのようにして発生するのでしょうか。これが今回の課題です。

<ある事実に注意してほしい>という意図を他者に伝達しようとする意図(伝達意図)は、<ある事実に注意している>という状態を、他者と共有することを目指しています。つまり、共同注意を目指している意図だと思われます。そうだとすると、伝達意図は、(他の対象でも同じ対象でもよいのですが)ある対象への共同注意の経験を前提します。

 知覚や注意は、予測誤差最小化メカニズムによって成立するのですが、共同注意もまた予測誤差最小化メカニズムによって成立するのでしょうか。これを次に考えたいと思います。

56 <言語的な探索(問うこと)>と<非言語的な探索>と<見かけ上の探索>の区別(20221214)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

<言語的な探求(問うこと)>と<非言語的な探求>と<見かけ上の探求>の区別を予測誤差最小化メカニズムの観点から考察したいと思います。

予測誤差最小化メカニズムは、ボトムアップでなく、トップダウンで知覚や行為を説明します。このアプローチを、三種類の探求(<言語的な探索(問うこと)>、<非言語的な探索>、<見かけ上の探索>)の関係に適用すると、左のものから右のものを説明することになります。

#<非言語的な本当の探索>と<見かけ上の探索>の関係について

欲求をもって探索する動物の登場以前にも、すべての動物の運動は、エサやよい環境を探求することとして理解することができます。つまり<本当の探索>の登場以前には、<見かけ上の探索>が成立しています(ただし、それを<見かけ上の探索>として理解するのは、<本当の探索>をする動物です)。

ただし、一旦本当の探求が成立すれば、その動物がおこなう<見かけ上の探索>は(全てではないとしても、その多くが)、その動物によって<見かけ上の探索>として理解され、その動物が行う<本当の探索>のプロセスの一部分として組み込まれることになります。例えば、水を飲もうと欲求して、水を探して、水を飲むとき、その一連の行動は、たくさんの無条件反射や条件反射やオペラント行動を含んでいます。それらは、<見かけ上の探索>です。

ただし、<見かけ上の探索>だけを構成要素とすることによって、<非言語的な本当の探索>を説明することはできません。<見かけ上の探索>ではなく、<本当の探索>をするには、何かを求める欲求という情動が必要です。欲求(情動)を持たない動物は、欲求をともなう<本当の探索>をできないからです。<見かけ上の探索>には、走性や無条件反射による行動である場合と、条件反射やオペラント反応による行動である場合があります。そして、後者は前者をその部分として含む場合があります。

ところで、(欲求を含めて)情動と意識は、どう関係しているのでしょうか。情動は常に意識されているのでしょうか。仮に意識されていない欲求(情動)があるとしても、欲求があれば、その意識が伴わなくても、その無意識の欲求にもとづく探索は、<見かけ上の探索>ではなく、<本当の探索>だといえるように思えます。

#<言語的な探求(問うこと)>と<非言語的な探求>の関係について

言語を獲得して、問うことができるようになれば、<非言語的な探求>はすべて言語化されて<言語的な探求(問うこと)>に変わるだろうと思います。したがって、言語的な探求が生じるとき、非言語的な探求はほとんど消失するだろうと思います。

 例えば、「芋を食べよう」と思って、芋に手を伸ばして、口元に運ぶとき、「芋に手を伸ばそう」とか「芋を口にもってこよう」とするとき、たいていは、それを明示的に言語化してはいない。しかし、そのとき行為を止められて「何をしているのですか」と問われたら「芋に手を伸ばしています」と答え、「なぜそうするのですか」と問われたら「芋を食べるためです」と答えるだろう。明示的に言語化していないとしても、行為はすでに暗黙的に言語的に分節化されている。言語を持つ以前のサルが、芋を手に取って、口に運ぶとき、その行為は暗黙的にも言語的に分節化されていないが、しかし、それらの非言語的な行為は、言語を持つ動物では、言語化されて構成されることになる。すべての意図的な行為を実現するための手段としてある行為が行われる時、その手段となる行為は、目的となるより上位の行為との<目的-手段>関係のなかに位置づけられており、その限りで言語的に分節化されている。

 ここまでのところで、行為と探索を混同しているように思われたかもしれませんが、すべての行為は同時に探索でもあると考えています。すべての行為には、多くのミクロな調整が必要であり、その意味ですべての行為にはミクロな探索が伴っているからです。

 以上の説明の中で探索を次のように分けました。。

<見かけ上の探索行動>

 遺伝的な探索行動

 学習としての探索行動

<非言語的な本当の探索行動>

 欲求にもとづく探索行動

<言語的な本当の探索行動>

この系列において探索行動が次第に高度なものになっています。よろ高次の探索は、より低次の探索を部分として含みうるが、より低次の探索は、より高次の探索を部分として含みえません。より低次の探索には、より高次の探索に含まれずに機能しているものと、より高次の探索に含まれて機能しているものがあります。

探索についての以上の考察をする中で明確になったことの一つは、<知覚も行為も、何かの探索である>ということです。フリストンやホーヴィは、知覚と行為を予測誤差最小化メカニズムで説明するのですが、すべての行為は探索でもあります。そして知覚は、行為を計画したり、実行したり、調整したりするために行われるので、知覚は行為のための探索であると言えそうです。予測誤差最小化メカニズムとしての知覚は、対象(あるいは対象の正しいモデル)を探索するメカニズムだと言えそうです。また予測誤差最小化メカニズムとしての行為は、行為では、モデル(実現しようとする事態)に適合するように入力(感覚刺激)を変更する、つまり実現しようとする事実が、原因となってある感覚刺激(その事実の知覚)が生じるように、行為によってその知覚の原因となっている事実を変更しようとします。行為は、実現したい状態を実現するための方法を探索するメカニズムだと言えます。

以上を踏まえて、言語的な探索(問い)や言語的な知覚や言語的な行為もまた、予測誤差最小化メカニズムであることを説明したいと思いますが、他方で、言語は、集団や他者との関係の中で成立したものです。そこで次に、集団や対他者関係のなかでの予測誤差最小化メカニズムを考えたいと思います。

51 ベイズ推論と予測誤差最小化メカニズム (20221017)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

フリストンやホーヴィは、生物の知覚は、ベイズ推論をもちいた「予測誤差最小化メカニズム」によって成立する、と主張します。

彼らによると、脳は、感覚刺激から対象の知覚をボトムアップによって作り上げるのではなく、脳内で対象のあり様を想定し、そこから、それを原因として生じる感覚刺激を予測し、その予測を実際の感覚刺激と比較して、誤差があれば、最初に想定した対象のあり様を修正し、もう一度、それを原因として生じる感覚刺激を予測し、それを実際の感覚刺激と比較する、という「予測誤差最小化」を繰り返して、対象の知覚をトップダウンで作り上げます。

これは、ポパーの反証主義という科学方法論に似ています。ポパーは、観察データから理論を構築するのではなく、理論を想定して、それを観察によってテストし、そのテストに反証されてたならば、理論を修正し、それをもう一度テストし、ということの繰り返しによって、科学理論を改良していくことを考えました。この過程で、ポパーは観察から理論をどう作るか問題としません。それはどのような仕方であってもよく、問題なのはそれを観察でテストすることであり、テストに合格する理論をつくることだと考えるのです。「予測誤差最小化メカニズム」というのは、このようなポパーの反証主義に似ていると思います。これもまた、ボトムアップで感覚刺激から対象の知覚をどう構成するかは問題ではなく、その対象知覚を、感覚刺激でテストし、誤差があれば、修正することによって対象の正しい知覚をえる、というアプローチです。

では、この予測誤差最小化メカニズムは、ベイズ推論とどう関係するのでしょうか。

ここで、あるタイプの事象Aはあるタイプの対象のある在り方であり、あるタイプの事象Xはその対象を原因として生じるあるタイプの感覚刺激だとします。ここに次のベイズの定理が成立します。

ベイズの定理:P(A|X) = P(X|A)P(A) /P(X) 

ベイズ推理は、このベイズの定理を次のように解釈します。

<P(A)は、あるタイプの感覚刺激Xの原因として考えられるあるタイプの対象のある在り方Aが成立する事前確率であって、主観確率です。それに対してP(X)は、客観的にあるタイプの感覚刺激Xの事例が成立する確率です。そして、感覚刺激Xが生じた時に、その原因と考えられる対象のある在り方Aが起きていたと考えられる確率(事後確率)を推論することができます。> 

 この解釈を予測誤差メカニズムの説明に対応させれば、次のようになるでしょう。

<対象のあるあり方Aを事前想定して、それを原因として因果関係によってあるタイプの感覚刺激Xが成立すると推理します。この感覚刺激と、実際に生じている感覚刺激を比較して、誤差があれば、その誤差に応じて、対象のあり方Aを修正したものを、事後想定します。>

ベイズ推論の場合、確率が事前確率から事後確率へと修正されるのに対して、知覚の場合には、対象のあり方について(あるいは対象が何であるかについて)の理解が修正されます。この違いは、次のような説明で乗り越えられます。例えば、最初は対象がリンゴである確率が高く、カエルである確率が低かったものが、ベイズ推論の繰り返しによって、次第にカエルである確率確率が高くなり、リンゴである確率が低くなり、カエルの知覚が正しい知覚とみなされるようになるのだと思います(リンゴとカエルの例は、『能動的推論』に登場する例です。)どのような知覚も100%確実ということはありえないので、知覚は常にこのような確率の度合いを持っており、当初の確率を修正される過程が、知覚が成立する過程なのだと考えることができます。

 次にこのようなベイズ推論と問答推論の関係を考察したいと思います。