29 知覚の志向性と問答 (20210308)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

まず、前々回説明しておくべきだった説明を補足しておきます。

サールは『志向性』の冒頭で「志向性」をつぎのように定義します。「志向性」とは、「心的な状態ないし出来事の特性」(『志向性』邦訳1)であり、その特性とは、「向性(directedness)ないし関与性(aboutness)なる特徴」(同所)です。

ただし、第一に、すべての心的状態が、志向性という特性を持つのではなく、志向性を持たない心的状態もあります。例えば、志向性を持たない心的状態としては、「緊張感、高揚感、方向づけられていない不安」(同書2、訳語を変えました)があります。

第二に、志向性は意識とは異なります(同書2)。志向性をもたない意識(例えば緊張感や高揚感のように)もありますし、逆に意識されていない志向性(今まで意識したことのない信念(私の祖父が月に行ったことがないという信念)などもあります。

さて、知覚は心的状態であり、関与性(aboutness、「ついて」性)をもつ心的状態であるので、知覚は志向性を持つといえます。なぜなら、知覚はつねに、何かについての知覚であると言えるからです。たとえば、それは黄色い自動車についての知覚です。知覚がつねに「ついて」性を持つことは、言い換えると、知覚がつねにゲシュタルト構造(図と地の構造)をもつということです。

 ここで、知覚と感覚の区別について次のような区別を提案したいと思います。感覚は、知覚を構成している要素です。しかし、感覚が集まって知覚を構成するという要素主義を採用するのではありません。感覚は、知覚から抽象して切り出された要素であり、抽象的ものであり、それだけで自存するものではなく、あくまでも知覚の要素として存在するものです。感覚には、ゲシュタルト構造はないのにたいして、知覚はゲシュタルト構造ないし「として」構造を持つものです。例えば、「このバラの赤さ」として理解されるものは、として構造を持っており、その赤さは、感覚されているのではなく、知覚されていると考えられます。(知覚と感覚についてのこのような区別の提案は、私の考えであり、サールの主張ではありませんが、それと矛盾しないだろうと思います。)

 サールは、志向性(をもつ心的状態)は、つぎのような構造を持つと述べていました。

   S(r)

(ここで「S」は心理的様態、「r」は表象内容を表します。)

この構造は、志向性の特性(「ついて」性)と次のように関係するでしょう。志向性は、何かについてのものであるという特性ですが、ここでの表記に当てはめると、志向性は「rについての」Sであるということになるでしょう。

 他方で私たちは、知覚はつねに「として」構造をもちます。つまり、知覚はゲシュタルト構造をもち、それは<AをBとして知覚する>という構造を持つといいかえることができるでしょう。AをBとして捉える時には、Aの中のある部分に注目し、他の部分に注目しないということによって可能になります。つまり、注目される部分が地となり、注目されない部分が地となるという<図地-構造>が成立することになります。この<図地-構造>が、知覚のゲシュタルトを構成し、「として」構造を構成しているのです。

 では、知覚の「ついて」性と「として」構造は、どう関係するのでしょうか。ある対象を「黄色い自動車」として知覚する心的状態は、「黄色い自動車について」の心的状態だと言えそうです。つまり、Aを「Bとして」知覚するとき、それは「Bについて」の知覚だといえるでしょう。「ついて」性」と「として」構造は、このような関係にあるでしょう。

 さて、ここからが本題です。知覚の<図地-構造>は、命題の焦点構造に似ているのではないでしょうか。『問答の言語哲学』で詳しく述べたのですが、すべての発話は、焦点を持ちます。それは話し手が発話する命題の中で注目しているところですが、それはその個所が強く発音されたり高く発話されることによって示されます。例えば、「これはりんごです」という文が発話されるとき、

「(他でもなく)これが、リンゴです」といういみで発話される場合と、「これは、(他でもなく)リンゴです」という意味で発話される場合とがあります。前者では「(他でもなく)これが」に焦点があり、後者の発話では「(他でもなく)リンゴ」に焦点があります。(「は」と「が」が入れ替わっていますので、正確には同じ文ではありません。この「は」と「が」の使い分けは、焦点位置の違いの影響を受けていると思われます。この点も、『問答の言語哲学』で詳しく説明しましたので、興味を持っていただけた方は、ぜひご覧ください。)

 私たちは、このどちらかに焦点をおいて話したり理解したりするひつようがあります。両方に焦点を置くことはできないし、どちらにも焦点をおかないでこの文を理解することはできません。そのことは、ゲシュタルト心理学で有名な「アヒルとウサギの反転図形」の場合と似ています。私たちはその図形を「アヒル」として見るか、「うさぎ」として見るかのどちらかの見方しかできず、両方を同時に見ることはできませんし、どちらでもないものとして見ることもできません。

 発話の焦点構造は、それがどのような問い(相関質問)の答えとして発せられるかに依存しています。「リンゴはどれですか?」と問われたときの答えは、「(他でもなく)これが、リンゴです」という発話になり、「これは何です?」と問われたときの答えは、「これは、(他でもなく)リンゴです」となります。ここから、発話は相関質問との関係において成立するということになります。

これを『問答の言語哲学』で論じたのでが、ここでの目標は、これと同様のことを、全ての種類の志向性について論証する事です。つまり、志向性は、言語的な問い(ないし非言語的な探索)への王として成立する、ということです。

 次回、知覚について、この点をもう少し詳しく論じたいと思います。