[カテゴリー:自由意志と問答] 『フィヒテ研究』が今年の第31号からweb掲載となり拙論「自由意志に対するスピノザの批判とフィヒテの擁護――インフレ的自由論対デフレ的自由論―」が公開されました (My essay "Spinoza's Criticism of Free Will and Fichte's Defense - Inflationary versus Deflationary Liberty" has been published.) http://fichte-jp.org/2023FichteStudien31/04Irie.pdf をご覧ください。
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03 決定論とある行為をしようと意志することは両立するのか (20221031)
[カテゴリー:自由意志と問答]
決定論と、何かをしようと意志することは、(その意志が自由意志ではない限り)両立する、とスピノザは考えているようです。これに賛成する人は多いかもしれません。
例えば、私が、食堂で、うどんを頼むかそばを頼むかを迷って、うどんを食べようと決めたとししたとします。決定論者は、私が、そのように迷うことも、またそのあとうどんを食べようと決めること、あるいはうどんを食べようと意志することも、決まっていたと考えます。ここに矛盾はないと思います。そして、私自身が、うどんを頼むかそばを頼むか迷って、その後うどんを食べようと意志したとき、それを後から振り返って、そう意志することが決まっていたと考えることにも、矛盾はないかもしれません。
しかし、私自身が、うどんを頼むかそばを頼むか迷った後、うどんを食べようと意志するときに、同時にそのことが決まっていると考えることは、できないように思います。私が、うどんを食べようと意志し、同時にそう意志することに決まっていると考えることは矛盾するように思います。なぜなら、私は、何かを意志することは、それを自由に意志すること、それを意志ないことも可能であると考えることを伴っていると考えるからです。
ちなみに、欲求の場合には、他行為可能性の意識を伴わないと考えます。例えば、のどが渇いて、水を飲みたいと思うとき、水を飲みたいと思わないことも可能である、とは考えられません。これに対して、意志の場合には、他行為可能性の意識が伴うだろうと思います。これが、欲求と意志の重要なの違いです。
繰り返しになりますが、もしあることを意志することが、あることを自由に意志することであり、他行為可能性の意識を伴うことであるとすると、あることを意志することと決定論を信じることは両立しないでしょう。
スピノザが、あることを意志することと決定論が両立すると考えるのは、意志の理解が、私が考えるものと違うからだと思われます。では、スピノザの考える「意志」とはどのようなものでしょうか。
02 二つの「自由」の関係 (20221027)
[カテゴリー:自由意志と問答]
前回述べたように、スピノザは、エチカ第1部定義7で自由を定義しますが、自由であるのは、神だけであるといいます。人間は、(この意味の)自由をもちません。また人間は自由意志を持ちません。その理由は「個々の意志作用は他の原因から決定されるのでなくては存在することも作用に決定されることもできない。」(第1部、定理32、証明、太字は引用者)ということでした。(前回言い忘れましたが『エチカ』からの引用は次の訳を用います。スピノザ『エチカ』上、下巻、岩波文庫、畠中尚志訳、Kindle版からの引用なので頁数が少しずれているかもしれません。)
では、この「他の原因」とは何でしょうか。スピノザによれば、唯一の実体(神)は無限の属性を持ち、思惟と延長はそれに含まれます。人間知性が知覚するのは、この二つの属性だけです。そして異なる属性の間に因果関係はありません。したがって、この「他の原因」というのは、他の観念であると思われます。ところで、「意志作用は観念そのものに他ならない」(第2部定理49証明)と言われているので、ここでは観念と観念の因果関係が考えられているのです。
では観念と観念の因果関係というのは何でしょうか。観念と観念の関係は、論理的な関係、あるいは意味論的な関係としてしか考えられないと思います。意志を結論とする推論は、実践的推論であり、それは前提に意志(意志の表現)を含みます。その意志もまたさらにより上位の意志を前提とするとしたら、これは無限に遡行します。そのような無限遡行が不可能であるとすると、無前提に設定された意志があると想定できます。これに対して、スピノザは、そのように無前提に見える意志にも、隠された前提が原因となっているというでしょう。人々は、自由意志は原因を持たないと考えていますが、スピノザは、原因のない意志作用はなく、自由意志はないと考えています。(次回以後に述べますが、フィヒテは自由意志を原因を持たない意志作用と考え、それがあると考えています。)
ところでスピノザは第4部と第5部で「人間の自由」について論じています。そこで人間を、自由人と奴隷に次のように分けます。「自由人」とは「理性に導かれる人間」であり、奴隷とは「感情ないし意見のみに導かれる人間」です(第4部定理66備考)。ここでの「自由」と第一部定義7の「自由」は、どう関係するのでしょうか。
スピノザは、「理性の指図に従って行動する限りにおいてのみ人は自由であると呼ばれる」(第4部定理72証明)と言います。理性の指図に従って行動する人が自由である、ということを説明する仕方には、いろいろな仕方があると思いますが、その一つは次のようなものです。
「感情ないし意見のみに導かれる人間と理性に導かれる人間との間にどんな相違があるかを我々は容易に見うるであろう。すなわち、前者は、欲しようと欲しまいと自己のなすところをまったく無知でやっているのであり、これに反して後者は、自己以外の何びとにも従わず、また人生において最も重大であると認識する事柄、そしてそのための自己の最も欲する事柄、のみをなすのである。このゆえに私は前者を奴隷、後者を自由人と名付ける。」(第4部定理66備考)
しかし、これだけでは、第1部の定義7の「自由」との関係は不明です。おそらく、理性は人間本性であり、理性に従うことは本性の必然性に従うことなので、その点で定義7の「自由」に似たものである、あるいは定義7の「自由」の人間バージョンであるということだろうと思われます。
この二つの自由の関係をもう少し厳密に論じるためには、そもそも、どうして人が「理性の指図にしたって行動する」ことができるのか、を理解する必要があります。なぜなら、スピノザは、『エチカ』第一部で(スピノザの言葉ではないですが)次のような「決定論」を主張しているからです。
「自然のうちには一として偶然なものがなく、すべては一定の仕方で存在し、作用するように神的本性の必然性から決定されている。」(第1部定理29)
「決定論」と「理性の指図に従って行為する」ということは果たして両立するのでしょうか。これを次に考えたいと思います。
01 スピノザの自由意志への批判 (20221022)
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スピノザの自由意志批判は有名ですから、それをまず見ておきたいと思います。
#スピノザによる「自由」の定義
スピノザは、自由を、「自己の本性の必然性のみによって存在し・自己自身のみによって行動に決定される」(第1部、定義7)ことだと定義します。そして、この意味で自由であるのは、神のみであるといいます。「神は単に自己の本性の諸法則のみによって働き、何ものにも強制されてはたらくことがない。」(第一部定理17)59 「ひとり神のみが自由原因であることになる。」(第一部定理17系2)59
#スピノザによる自由意志の否定
スピノザは、このように神が自由であることを認めるのですが、人間の「自由意志」は認めません。なぜなら、「 個々 の 意志 作用 は 他 の 原因 から 決定 さ れる ので なく ては 存在 する こと も 作用 に 決定 さ れる こと も でき ない。」 (第一部、定理32、証明)からです。それにもかかわらず、個人が、自分は自由意志を持っていると考えるのは、「 彼ら が ただ 彼ら の 行動 は 意識 する が 彼ら を それ へ 決定 する 諸 原因 は これ を 知ら ない という こと に のみ 存する ので ある。」(第一部、定理35の備考)と言います。
#他方で、スピノザは「人間の自由」について語ります。
スピノザは、第4部と第5部で「人間の自由」について論じています。人間を、自由人と奴隷を次のように分けます。「自由人」とは「理性に導かれる人間」であり、奴隷とは「感情ないし意見のみに導かれる人間」です(第4部定理66備考)。
第4部第5部での「自由人」の「自由」は、第1部定義7でいう「自由」とどう関係するのでしょうか。