「私は生きたい」と、私はどうして知るのか?

アメリカの国会議事堂、アメリカ民主主義の象徴でしょうか。権力の象徴でしょうか。
残念ながら私のとった写真ではありません。若い友人からの贈り物です。

「私は生きたい」と、私はどうして知るのか?

これに答えることは簡単ではありません。なぜなら、自分の気持ちを反省して、<生きたい>という欲望を感じるのだとしても、そのときには、その欲望について「これは、生きたいという欲望だ」という記述をおこなっているのです。問題は、「これは生きたいという欲望だ」という記述がどうして可能なのか、ということだったので、これでは、問題に答えたことにならないのです。

もし、欲望が言語を含まず、言語とは異質なものだとすると、「生きたい」という言葉が、どうしてその欲望と一致しているのかを説明することはできません。
もし、欲望が(欲望一般はいざ知らず、少なくともこの欲望が)本質的に言語を含んでいるのだとすると、そのようなことがどのようにして可能になるのかを説明しなくてはなりません。

セラーズは、「所与の神話」という言葉で指摘して、批判していました。セラーズが詳しく論じているのは、感覚与件説の批判ですが、しかし彼が念頭においている「所与」は感覚与件に限りませんでした。感覚や知覚は、認知状態の一種(非信念的認知状態)であるのに対して、欲望や欲求は認知状態でない、という大きな違いがあります。しかし、これらの言語で表現するときの、これらと言語との関係に関しては、同じようなことが指摘できます。

アメリカの国会議事堂を見て、「これは権力の象徴だ」というときには、多くの知識が前提になっています。
しかし、「これは白い」というときにも、感覚以外の多くの知識ないし信念が前提になっています。
それと同様で、「私は生きたい」というときにも、私が心の中に感じる欲望だけでなく、多くの信念が前提になっています。

もう一度、問いましょう。「私は生きたい」と、私はどうして知るのでしょうか?