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 ウィトゲンシュタインは難しいので、専門家のS氏に尋ねて見ました。彼によると、「歯が痛い」というこことは、頬に手を当てるなどの一定の振る舞いをともなうものとして教えられるということです。もし何の振る舞いもなければ、内的な感覚について教えることはできません。そしていったん教えられたならば、振る舞いのないときにも内的感覚が存在することは想像できます。
 例えば、空腹ならば、ガツガツと食べる振る舞いをともなうものとしておしえられることになるでしょう。
 さて、内的感覚が、一定の振る舞いに結びついているのだとすると、内的感覚は一定の欲求と結びついているのだといえるかもしれません。私には、今のところ、どのような欲求とも結びつかないような内的な感覚を見つけることが難しいです。
 
 外的感覚と内的感覚の区別は、認知状態と欲求状態の区別とは別のものなのですが、もし内的感覚がつねに欲求状態と不可分に結合しているのだとすると、この二つの区別も不可分に結合していることになります。

 さて、ここからは色の感覚のような認知状態の言語化と、「何か食べたい」のような欲求の言語化の違いを考えてみましょう。色の認知の場合、知は、世界のあり方にフィットしなければなりません。それに対して、「何か食べたい」のような欲求の言語化の場合には、非言語的な自然な(?)欲求にフィットすしなければなりませんが、またそれに引き続いて、(サールの言い方ですが)世界の方を知(発言)にフィットさせなければなりません(つまり、実際に何かを食べるということです)。

 「生きたい」という欲望の場合も、「なにか食べたい」と同じようなことがいえるでしょうか。

 

ERと私的な人生観

これはひょっとして著作権侵害? ERのHPから写真を転載しました。

 最近よくERの再放送を見ます。面白いです。
 ERの登場人物たちは、あまり幸せになりません。登場人物の一人ひとりが様々な悩みを抱えて生きています。問題を抱え、悩み、戦い、努力して、それでもあまり幸せにはなれません。おろかな生き方、おろかな死が、描かれることもありますが、しかし賢明な生き方、立派な死に方が描かれることもあります。そんな中で、もし登場人物、例えば死んでしまったグリーン先生やカーターに生きがいは何かと問うたならば、
  人を愛すること、
  人の評価と関係なく自分で誇りの持てる仕事をすること、
という答えが帰ってきそうな気がします。あるいは、もっと控えめに、
  人を愛そうと努力すること
  人の評価と関係なく自分で誇りの持てる仕事をするように努力すること
と答えるかもしれません。

 さてさて、以上はまったく私的な人生観です。これは私が議論したいと考えている「哲学的人生論」とはことなります。なぜなら、「哲学的人生論」では、哲学的に議論できる限りで人生について語ることを意図しているからです。しかし、人生について哲学的に(あるいは、ここでは殆ど同じ意味なのですが、学問的に)議論できることは、非常に少ないかもしれません。その場合には、殆どの事柄を個人の選択にゆだねることになります。しかし、その場合にも、個人は様々な人生観を持つことが不可避です。
「人生観」というのは、このBlogでは、そのような学問的な議論にならない、「私的な主観的な人生についての意見」という意味で用いたいとおもいます。

 私的な人生観を垂れ流すのは、よくない、と友人にしかられそうなので、できるだけしないようにしたいと思うのですが、生身の人間ですから(これは意味不明?)なかなかそうもいきません。
 ということで、今回書いてみました。

「このキャンディーを食べたいですか」

「このキャンディーを食べたいですか」と問われて、
       私が「食べたい」と答えるとしましょう。
       このとき、私はどのようにして、そう答えたのでしょうか。

 
 urbeさん、コメントご質問ありがとうございました。urbeさんが、機能主義というときに考えていたのは、心を実現するのは、人間の脳だけでなく、もし同じ機能をもつものであれば、コンピュータでもよいということだったのだと思います。「多重実現可能性」を踏まえての発言だったのですね。私もそれに賛成です。さて、そのときも、私の考えていた問題は、urbeさんが予想されるとおり影響を受けません。
 私の問題は、クッキーの知覚表象から、「これはクッキーだ」という命題知がどのようにして生じるのか、ということです。クッキーの知覚表象から、「これはクッキーだ」という言語表象(?)がどのようにして生じるのか、ということです。そして、ここまでで言いたかったのは、セラーズが「所与の神話」として批判しているように、<そのような知覚表象には、言語は含まれていないので、その知覚表象から直接に「これはクッキーだ」という命題知が導出されるのではない>ということです。
 そして、この議論を、「欲望」の認識にも拡張したいのです。
 「このキャンディを食べたいですか」と問われて、私が「食べたい」と答えるとしましょう。(例によって、このキャンディは既に私の胃の中にあります。)このとき、私はどのようにして、この返答を得たのでしょうか。私は、心の中で、自分自身に「私は、このキャンディを食べたいのだろうか」と問いかけたのでしょうか。仮にそうだとしましょう。そして、私が私の欲望を内観で観察して、「そうだ、私はこれを食べたい」と答えるのだとしましょう。仮にそうだとしても、その欲望は、言語的に分節化されておらず、したがってそれから「私は、これを食べたい」という命題知(このとき、これは、私の欲望を記述した命題知となる)が直接に得られることはありえないはずです。

 「これは黄色だ」や「これはクッキーだ」の場合には、これまでに教わった黄色とされる色の集合、これまで教わったクッキーだとされる物の集合、それらと目の前の対象との類似性の認知によって(あるいはまた、これまで教わった黄色以外の色の集合、これまで教わったクッキー以外の物の集合との差異性の認知によって)、目の前の対象について「これは黄色だ」とか「これはクッキーだ」という命題知が得られる(正当化される)のだとしよう。(このような説明には、まだ重要な見落としがありそうだとおもうのですが、今は、こう考えておきます。)

 これと同様にして、「このクッキーを食べたい」とか「このキャンディーを食べたい」の場合には、これまでに教わった「食べたい」という欲望(こころの状態)の集合との類似性の認知によって(あるいは、「食べたくない」という心の状態の集合との差異性の認知によって)「現在の私の心の状態は、食べたいという状態である」という命題知が得られる(正当化される)のだろうか。
 黄色やクッキーならば、誰かが私に指示して教えることが可能であろう。しかし、食べたいという心の状態の場合には、人は私の心の状態を知ることもできないし、指示することもできない。「生きたい」という欲望の場合にも同様であり、人が私の心の状態を指示して、それが「生きたい」という欲望なのだ、と教えることはできない。
 
 これは、ウィトゲンシュタインがよく例に挙げる、「歯が痛い」とおなじ例かもしれません。では、ウィトゲンシュタインは、「歯が痛い」という言葉を、我々がどのように習得すると説明していたのでしょうか。今すぐに、この答えを思い出せないので、これを次回に考えてみます。

 前回予告した、感覚という認知状態の言語化と欲望という欲求状態の言語化の違いは、上記の区別とは別のことです。上記の区別は、外的感覚についての言語化と、内的感覚についての言語化の違いです。
 つまり、前回の予告は、次々回に実現することになるでしょう。

 

「このクッキーを食べたい」と思うことは、どのようにして可能になるのか?

 「このクッキーを食べたい」と思うことは、どのようにして可能になっているのでしょうか。

 urbeさん、コメントありがとうございました。
 黄色の四角をみて、「これは黄色だ」とどうして言えるのか、と問うてみました。私もurbeさんのいう認知科学/機能主義にたってまず考える必要があると思います。問題は、その立場で何処まで言えるかです。
今仮に心身問題に関する唯物論を採用して、パソコン画面の黄色の四角から、光が私の目に届いて、それが視神経を刺激し、その刺激が脳のある部分に届いて、そこに一定のシナプスの状態ないし過程が成立したとします。そこの状態ないし過程と私が見ている黄色の感覚(クオリア)が同一であったとします。つまり、黄色いの画面から黄色の感覚が発生することは、神経生物学的な因果過程によって説明できたとします。
 私が問題にしたいこと、またセラーズが問題にしたことは、その後のプロセスです。つまり、黄色の四角の知覚から、「これは黄色だ」という命題知がどのようにして成立するのか、ということです。もちろん、唯物論者は、この過程もまた神経生物学的な因果過程によって成立する、と考えるでしょう。
 私も、そのような因果過程が成立している可能性は高いと思います。しかし、それを仮に認めるとしても、それは、私が問題にしている問いの答えではありません。なぜなら、そのような因果過程によって、我々の志向的な心の働きが支配されているとしても、我々の志向的な心の働きは、それ特有の合理的な思考のプロセスをもつはずです。もし心の変化が、合理的な思考のプロセスによって支配されていないならば、我々はおそらく自分の心の変化を理解することができなくなるとおもいます。
 したがって、黄色の知覚から、「これは黄色だ」という命題知を形成するときには、脳の過程は神経生物学的な法則に支配されているとしても、心の中では有意味な操作がおこなわれていると考えます。問題は、心の中で我々がおこなっているそのプロセスです。
 これで、よいでしょうか。これで問題設定としては、クリアになったと思うのですが、まだあいまいな点があるでしょうか。

 さて、上のクッキーを見て、「これはクッキーだ」という認識の成立を説明するのは、「これは黄色だ」の場合と同様の問題を抱えています。ここでは、仮にそれが説明できたとします。(なぜなら、そうしないと、私の話は欲望の認識にまでなかなか、たどり着けそうにないからです。)
 上のクッキーをみて「クッキーだ」とわかった後で(同時でもよいのですが)、「このクッキーを食べたい」と思うとしましょう。(実際、すでにクッキーは私のお腹の中です。)この欲望の認識は、どのようにして成立するのでしょうか。
 空腹感を説明するのは、満腹感を説明するよりも難しいようです。(詳しくは、http://www.tmin.ac.jp/medical/12/feeding1.htmlをご覧ください。)唯物論者が考えるように、クッキーを見たときに生じる脳内のシナプスの状態ないし過程として<クッキーの知覚像>が生じ、さらに脳の別の部位におけるシナプスの状態ないし過程として<食べたいという欲望>が生じたとします。
 しかし、<クッキーの知覚像>は、まだ言語化されていないクオリアであり、<食べたいという欲望>もまだ言語化されていないクオリアであるとします。黄色についての以前の質問は、<クッキーのクオリア>から「これはクッキーだ」という命題知がどのように生まれるのか、という質問に似ています。
 ここで問いたいのは、<食べたいという欲望>のクオリアから、「このクッキーを食べたい」という欲望についての命題知がどのようにして生じるのか、ということです。

 「これは黄色だ」に比べると、問題がかなり複雑になりました。私がここで注意したいのは、単に複雑になったということでなく、感覚という認知状態の言語化の問題と、欲望という欲求状態の言語化との違いです。
 ここに、どのような本質的な違いがあるか、それは次回に説明しましょう。

 それはともあれ、ご批判、ご質問を御願いします。

   

「私は空腹だ」とどうして知るのでしょうか?

山の中の道のように、私の話も、見え隠れしながら続いてゆきます。

「私は、現在空腹です」私は、どうしてそれを知るのでしょうか?

これは、「これが黄色だ」とどうして解るのか?という問題と似ています。
ある色の感覚が与えられて、それを「黄色」と呼べぶときには、これまでに学習した
「これは黄色だ、あれは黄色だ、それは黄色でない、・・・」などの記憶をもとに、それが「黄色」と呼ばれてきたものに類似していることを知り、その類似性に基づいて、「それは黄色だ」と言うようにおもえます(これの説明は、おそらく、まだまだ不十分でしょう。とりあえずは、このような説明で済ませておきます。)

では「空腹」について、「黄色」と同じように我々は学習したのでしょうか。黄色の場合には、ある色を指差して、「これは黄色だよ」と教えられたかもしれません。しかし「空腹」の場合には、私のお腹のある感じを指差して、「それは空腹だよ」と教えられたのではないでしょう。

(いま気づいたのですが、「空腹」というのは、「空腹感」と呼びうる感覚のこととはかぎらず、胃の状態についての客観的な記述として用いられることもあるように思います。しかし、以下では、「空腹感」と同じ意味で使います。)

たとえば、友達と同じ時間に昼ごはんを食べて、そのあと二人で遊び続け、夕方になって友人が「お腹がすいたなあ」(讃岐弁)という。「私が「お腹がすく」とはどういうことか?」とたずねると、「何かを食べたくなるということだ」と友人が答えたとしよう。
私が、これを理解するとすれば、それは私が「何かを食べたい」ということを理解しているからである。つまり欲望の認識を前提している。

では、「何かを食べたい」という欲望を、私はどのようにして知るのか。

「私は空腹だ」というような感覚の認識を議論してから、次に「私はそのケーキを食べたい」というような欲望の認識を議論するつもりだったのですが、「空腹」という感覚を説明することは、「食べたい」という欲望を説明することと独立にはできそうにないので、欲望の分析に話を進めることにします。

目標は、「私は生きたい」という欲望をどのようにして知るのかの分析ですが、その前に「食べたい」という欲望をどのようにして知るのか考えてみたいと思います。