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 ウィトゲンシュタインは難しいので、専門家のS氏に尋ねて見ました。彼によると、「歯が痛い」というこことは、頬に手を当てるなどの一定の振る舞いをともなうものとして教えられるということです。もし何の振る舞いもなければ、内的な感覚について教えることはできません。そしていったん教えられたならば、振る舞いのないときにも内的感覚が存在することは想像できます。
 例えば、空腹ならば、ガツガツと食べる振る舞いをともなうものとしておしえられることになるでしょう。
 さて、内的感覚が、一定の振る舞いに結びついているのだとすると、内的感覚は一定の欲求と結びついているのだといえるかもしれません。私には、今のところ、どのような欲求とも結びつかないような内的な感覚を見つけることが難しいです。
 
 外的感覚と内的感覚の区別は、認知状態と欲求状態の区別とは別のものなのですが、もし内的感覚がつねに欲求状態と不可分に結合しているのだとすると、この二つの区別も不可分に結合していることになります。

 さて、ここからは色の感覚のような認知状態の言語化と、「何か食べたい」のような欲求の言語化の違いを考えてみましょう。色の認知の場合、知は、世界のあり方にフィットしなければなりません。それに対して、「何か食べたい」のような欲求の言語化の場合には、非言語的な自然な(?)欲求にフィットすしなければなりませんが、またそれに引き続いて、(サールの言い方ですが)世界の方を知(発言)にフィットさせなければなりません(つまり、実際に何かを食べるということです)。

 「生きたい」という欲望の場合も、「なにか食べたい」と同じようなことがいえるでしょうか。